中学の頃から洋画ファンだった。堀切の隣りの四ツ木に洋画館が2つあって、よく自転車で観にいったものだ。3本立て、総天然色、今思うとどうしてあんなけばけばしい画面が気に入っていたのか。高校に入ってからは、スクリーンという映画月刊誌を毎月古本屋で買って楽しんだ。半年ほど遅れると、ちょうど四ツ木の三流館で上映されるので、タイミングがいい。高校が歓楽街江東楽天地の錦糸町駅にあったので、益々洋画にのめりこんでいった。
その頃だと思う、ヘンリー・フォンダ主演の映画“12人の怒れる男”を観たのは。この映画はもう博物館行きと言えるほど古いので内容をばらすが、一人の陪審員が他の陪審員が有罪と決めようとした事件を無罪にするまでの話である。
映画評論は、オーディオ評論家や自動車評論家と違って、ちょうちん記事が少ない。当時は、知性の高い評論家が大勢、映画界にはいた。その一人が、筋は綿密にかつ齟齬もない、H.フォンダと最後まで有罪を主張していた役者のやりとりも上手に仕上げられ映画としては見事であると、この映画を評した。それに続けて、この評決で無罪となった容疑者が本当に無実なのかどうかは、わからないままであると述べていた。これは、単なる映画評論家ではない、すばらしい見識を持った人物である。
若い時に観た映画の筋は覚えていても、その評論は、他に何も覚えていない。これだけは、半世紀過ぎた今でも、はっきり覚えている。
有罪か無実か。明々白々である場合もあれば、闇の中を手探りしなければわからない場合もある。後者であれば、言葉巧みな一人の人間により、無実も有罪に、犯罪も無罪になる事が十分ある。その映画は次のブログで紹介する。
今、日本は、司法界までもアメリカの真似をするまでに成り下がり、平凡な生活を送っている我々市民を巻き添えにしようとしている。私は、どんな処罰を受けようとも、裁判員になるつもりはないが、素直で善良な同胞が、巻き添えになると思っただけで、この裁判員制度に怒りが込み上げてくる。こんな制度に反対しなかった国会議員は社会の反面教師である。

