このブログに犬や猫は写真でしか登場していなかった。人間には腐るほど文句が言える私も(もちろん、自己嫌悪にさいなまれながらであるが)、犬や猫ばかりには、文句のつけようがない。そのため、書く必要がなかった。世間では、出来そこないの人間を“犬畜生のような”と表現するが、とんでもない誤用である。映画『猿の惑星』にあったように、同種を殺す猿に向かって、“人間のような”と非難する方がよほど正しい用法だ。これからは、少しずつ取り上げるようにする。人間界の滅入る話題ばかりでは、私が本当に滅入ってしまう。
私は、生涯、犬4匹、猫3匹と生活を共にした。過去形を使うのは、私の歳ではこれから新しく飼うことはないので、マージャンの先付けアリと同じ巧みである。生き物は飼い主に似るとの通りで、贔屓目にみてもだいたいが貧相の部類であった。それでも、私の生活を人との付き合いより、はるかに豊かにしてくれた。兼好は、名声や利得を追う愚かさを言ったが、私にしてみれば、「犬を飼わずして、一生を終えるこそ、愚かなれ」である。人間、何が最も偉いかといえば、犬を作出したことに尽きる。その太古の時代以降、まったく人間はろくな物を作っていない。
犬や猫から学んだ私の文明論:
人間には強い者もいれば、弱い者もいる。その弱い人間より格段に弱い生き物の犬や猫が道の真ん中をノコノコ歩いていられる国こそ、民度の高い真の文明国と私は考えている。
私の今いる場所は、民度が低く偽の文明国の中にあって、例外的な土地である。(人間であることの)劣等コンプレックスの塊の私が、贖罪の意識を抱きつつも、どうにか、平常心でいられるのは、この犬や猫がなんの心配もなく短い生涯を終えられる日本では例外的な地を(選んだ私自身を含めて)自慢できるからである。
徒然草 第三十八段
名利につかはれて、静かなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。
財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ累(わずらひ)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人のためにぞ煩(わづら)はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しみ、またあぢきなし。大いなる車、肥たる馬、金玉の飾も、心あらん人は、うたておろかなりとぞ見るべき。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
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