老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

シェイクスピア・・・老人に悲劇は向かない

今日も裏山の書斎で一時を過ごした。ロビンソン・クルーソーはだいぶ英語が先行している。面白いこともあるが、何と言っても英語が易しい。つい先先と進んでしまう。

後追いの中国語は、英語の方で筋が分かってしまっているので、まったく苦労がない。さすが漢語とうなるような言い回しを楽しむゆとりがある。

易しい物ばかりやっていては、研究社の辞書が開けない。やはり随筆に付き合うべきだ。音の美しさを鑑賞するなら、シェイクスピアに限る。文法なんかあってないようなもの。シェイクスピアをの英文法からさぐるのは間違いである。

お芝居を観るように、美しい発声でストーリーを愉しめばそれでいいのだ。

そのストーリーは悲劇ではない。喜劇でなければいけない。悲劇は強靭な精神力と体力を必要とする。若者しか耐えられない。老人に、ハムレットは重すぎる。すくなくとも私には無理だ。

今月の私は、「お気に召すまま」と「夏の夜の夢」を楽しんだ。「じゃじゃ馬馴らし」は8月の番組として控えている。

若い男女の恋愛ごっこを、このもうすぐ74になろうとする私が少しの羨望も抱かず楽しんでいる。

これも我が書斎の環境が抜群に優れているからである。

疲れて上を見上げていたら、真上の梢に2羽の小鳥が飛んできた。夫婦だろう。しばらく休んだ後飛んで行った。

SONG.
AMIENS
Under the greenwood tree
Who loves to lie with me,
And turn his merry note
Unto the sweet bird's throat,
Come hither, come hither, come hither:
Here shall he see No enemy
But winter and rough weather.
(As You Like It)

英随筆・・・R.Lynd  波と鳥と虫

前回と同じで、ネットに載っていたエッセイです。

リンドは、私が思っていた以上に虫に詳しいことが分かりました。それは、彼が虫の多い場所で生活したことでありまして、虫の多いということは、鳥も多いということに繋がります。

蜂やウグイスを語る範囲であれば、イギリス(彼はアイルランド)の田園の優雅な暮らしを想像しますが、蚊についても語っています(1)。

私と似たような環境ではなかったか、楽しく推測しています。

その推測がかなり合っているような文章が後に出てきました。

波の音、鳥の声、虫の音(ね)、これらを礼賛しているのです。

波の音は、怒濤の咆哮ではありません。鳥の声は、カラスの声ではありません。虫の音は蚊の羽音ではありません。

私はこう思うのですが、リンドはすべてを含めているのかもしれません。(2)

締めくくりは、とても暗い。暗鬱が適当な言葉のように思えます。

この随筆をリンドがいつ書いたのか私は知りません。仮に第二次世界大戦前でしたら、,stabbing creaturesはナチスということになります。(3)

~~~~~

The Hum Of Insects
(Robert Lynd)

(1)
 It makes all the difference whether you hear an insect in the bedroom or in the garden. In the garden the voice of the insect soothes; in the bedroom it irritates. In the garden it is the hum of spring; in the bedroom it seems to belong to the same school of music as the bizz of the dentist's drill or the saw-mill. It may be that it is not the right sort of insect that invades the bedroom. Even in the garden we wave away a mosquito. Either its note is in itself offensive or we dislike it as the voice of an unscrupulous enemy. By an unscrupulous enemy I mean an enemy that attacks without waiting to be attacked. The mosquito is a beast of prey; it is out for blood, whether one is as gentle as Tom Pinch or uses violence.

(2)
 Certainly in a garden the noise of insects seems as essentially beautiful a thing as the noise of birds or the noise of the sea. Even these have been criticised, especially by persons who suffer from sleeplessness, but their beauty is affirmed by the general voice of mankind. These three noises appear to have an infinite capacity for giving us pleasure--a capacity, probably, beyond that of any music of instruments. It may be that on hearing them we become a part of some universal music, and that the rhythm of wave, bird and insect echoes in some way the rhythm of our own breath and blood. Man is in love with life and these are the millionfold chorus of life--the magnified echo of his own pleasure in being alive.

(3)
 But we must not exaggerate the pleasure to be got from moles and hedgehogs. They make a part of our being happy, but they do not delight the whole of our being, as a child is delighted by the world every spring. It is probably the child in us that responds most wholeheartedly to such pleasures. They, like the hum of insects, help to restore the illusion of a world that is perfectly happy because it is such a Noah's Ark of a spectacle and everybody is kind. But, even as we submit to the illusion in the garden, we become restive in our deck-chairs and remember the telephone or the daily paper or a letter that has to be written. And reality weighs on us, like a hand laid on a top, making an end of the spinning, making an end of the music. The world is no longer a toy dancing round and round. It is a problem, a run-down machine, a stuffy room full of little stabbing creatures that make an irritating noise.

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(1)
bizz (新英和にもなし)
unscrupulous 遠慮のない
(3)
mole モグラ
hedgehog ハリネズミ
restive 落ち着きのない
stuffy 風通しの悪い

夏の風物詩・・・扇風機

今朝もいつもの通り8時に起きた。最近朝から体がだるい。室温は25度。湿度74%。昨日は28度。暑かった。扇風機をきれいに拭いて、使い始めた。

裏山の冷たい空気を家に引いて来る。扇風機の起こす風と自然が起こす風がほどよく調和して、ゆらぎができる。こうして机に向かっていると、背中に冷風を感じる。

ここ数日、関東では35度を観測したとか。その暑さを想像できない。どうやって住民がしのいでいるのかも想像できない。

高層建築のエレベーター、大量の車、舗装道路、電車・地下鉄の冷房、どれもエントロピーの増大に貢献している。家の中の住民は暑さに我慢できず、空調を動かす。この排気は、外で感じる時は温風でも発生時は熱風である。温風は外気と熱交換したからに過ぎない。

記録的猛暑は、石油と核分裂をエネルギーに変換し続ける限り、毎年更新していく。

ビールが売れる、空調機が売れる。熱中症患者が続出し、病院が忙しくなる。死者が増えれば棺桶がよく売れる。棺桶は別に熱中症がなくても、一人一棺は確定済みだが。体調維持に最適と自称するサプリが売れる。売れるから、テレビや新聞の広告が増える。

経産省は大歓迎、環境省は見て見ぬ振り、気象庁は熱中症にご注意と言う。30度を超えれば、バカでも言える。

住民の苦痛が経済成長に変換していく。アベノミクスにとって追い風である。

これは何も安倍内閣だけが悪いのではない。これまでの政権だって朝から晩まで景気、景気と祈っていた。

悪いのは「景気の回復」を訴える候補者を選ぶ住民である。住民の自業自得である。

ただし、悪いと言ったのは私の見方であって、景気の回復(実際は回復しても、それで満足しない欲望)を公約する候補者や政党を選ぶ住民は、猛暑も熱暑も悪いとは思っていない。

これから10年と言わず数年先には、猛暑で稼ぎに稼いだ関東以西の富裕層は東北に第二の住居を構えるに違いない。

お隣の大国の首都の大気汚染を嘲笑っても、自国の猛暑は、(経済成長にとって必要悪と口に出したせば物議を醸すから)黙殺し、お天気お姉さんのお天気予報に丸投げする政治家と官僚。

ヒートアイランドと言う言葉は空気だけが上昇するのではない、人間も一緒に昇天する。

たぶん、手遅れだろうが、やらないよりはまし。次の選挙で「景気」の「け」の一字でも選挙公報に載っている候補者に投票しないことだ。しばらくは貧乏に我慢しなければいけないが、孫子の代になれば、扇風機1台で夏が過ごせるようになる。扇風機は30年は故障しない。消費電力は30W。うちわほど省エネとはいかないが、この程度の電力使用は許されるだろう。貧乏であっても貧乏を感じなくなる。

ふと後ろを見たら、リッキーが扇風機の脇で気持ちよさそうに横になっていた。世相を取り上げないこのブログでも、せっかくだから一筆書いてみた。

補:
30Wの扇風機を10時間回すと、10円かそこら。使うのは9月まで。この島ではひと夏600円で快適に過ごせます。いらっしゃいませ。

20140727リッキー

一人浜辺で吹く尺八は

昨日、久しぶりに旧プライベート・ビーチにメリーを連れて行ってみた。

森の書斎でごろ寝の読書ばかりでは、寝たきり老人のリハーサル同然だ。

冬に置いたガーデン・チェアーが草に半分覆われていた。

早速その椅子に座って、背負籠から単語カードを取り出した。読みを間違えた単語は、さっそくお絵かきボードに書く。

メリーはその間、浜に生えている草や浜に打ち上げられた海草を食べる。

小一時間も過ぎると単語はお終い。

おもむろに尺八を取り出す。

海から吹いてくる風は心地よい。

私が吹くのは、虚無僧尺八。虚無をどうして「きょむ」と呼ばないのか分からないが、虚無は虚無だ。

登山者が列をなすような山は虚無になれない。やはり、私の裏山のような人気のない山でなければならない。

海もそうだ。海水浴客や釣り客の集まるような浜辺では、いくら尺八は虚無だと言われても、そうそう虚無になれない。

人っ子一人いないビーチで吹く虚無僧尺八こそ虚無僧尺八ではないか。しばらく吹いているうちに、レパートリーは当然、技量さえどうでもよくなってしまった。うまくなろうという意欲が失せてしまった。ひたすら音を長く伸ばす、その音を自分の耳で楽しむ。

虚無はそれでいい。いや、それだからこそ虚無である。

吹き終われば、空と海、そして穏やかな波と打ち寄せる音。

5時になった。「メリー、帰ろうか」

英随筆選・・・R.Lynd The Sea

ロバート・リンドの随筆です。タイミングがいいので、冒頭の部分をブログに使いました。

毎年、夏になると水による犠牲者が出ます。「昔と違って今は、森林より安全だ、火山より安全だ」、これが甘い考えであることを述べています。

後ろの方で、海の怪物は世界一の美女だけに限って望むものではないと言っています。

その通りで、男性も子供も犠牲になっています。

海や川やプールの事故の99%は人は両足を地に置いて生きている動物であることを忘れるからでしょう。穏やかな海や浅い川は怪物のトリックです。用心、用心。

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The Sea

 It is only now and then, when some great disaster like the sinking of the Empress of Ireland occurs, that man recovers his ancient dread of the sea. We have grown comfortably intimate with the sea. We use it as a highway of business and pleasure with as little hesitation as the land. The worst we fear from it is the discomfort of sea-sickness, and we are inclined to treat that half-comically, like a boy's sickness from tobacco. There are still a few persons who are timid of it, as the more civilised among us are timid of forests: they cannot sleep if they are near its dull roar, and they hate, like nagging, the damnable iteration of its waves. For most of us, however, the sea is a domesticated wonder. We pace its shores with as little nervousness as we walk past the bears and lions in the Zoological Gardens. With less nervousness, indeed, for we trust our bodies to the sea in little scoops of wood, and even fling ourselves half-naked into its waters as a luxury--an indulgence bolder than any we allow ourselves with the tamest lions. Let an accident occur, however--let a ship go down or a bather be carried out in the wash of the tide--and something in our bones remembers the old fears of the monster in the waters. We realise suddenly that we who trust the sea are like the people in other lands who live under the fiery mountains that have poured death on their ancestors time and again. We are amazed at the faith of men who rebuild their homes under a volcano, but the sea over which we pass with so smiling a certainty is more restless than a volcano and more clamorous for victims. Originally, man seems to have dreaded all water, whether of springs or of rivers or of the sea, in the idea that it was a dragon's pasture. There is no myth more universal than that of the beast that rises up out of the water and demands as tribute the fairest woman of the earth.

nag  始終がみがみ言う
iteration  繰り返し
bather  水浴びする人
fiery  猛火の
clamorous  やかましく要求する
pasture 牧草地

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勝手に書くから随筆。それにしても、固有名詞(この随筆の中)は日本人の読者にとって困りものです。

Perseus
Andromeda
St. George
Matthew Arnold
Darien
the Sirens
the Continental edition of the Daily Mail.
Scylla and Charybdis
Roderick Random
Jonah
Mr Conrad
the Odyssey
Mr Masefield
Dauber
Southend
Hamlet
Mr Kipling
the Titanic
Nemesis
Leviathan
Mr Wells

中国語のおさらい・・・おえかきボード

一度覚えた単語は脳に入っているとか。

入っていても、必要な時に出てこなければ、意味が無いい。

たとえ出てきても、直ぐに忘れるようでは、毎回辞書の世話になることになる。

辞書引きが快楽とはいえ、同じ単語を繰り返し引いていては、快楽は半減する。

発声するだけではどうも物足りない。そこで、書くことを考えた。

話す、聴く(自分の発声を)、そして書く。三位一体型である。

今、森の書斎にお絵かきボードを持っていっている。

仰向けになって、単語カードの字を書くのである。至極快調。

単語カードで15歳に戻った。このお絵かきボードで3歳に戻った。

シェイクスピアはよく言ったものだ。老人は子供に戻ると。

補:
このボード、3歳以下は不可となっています。誤飲の恐れがあるそうな。三角とハートの部品を捨てました。このまま進めば、3歳より更に若くなりそうなので。

20140721落書き板

英語・・・随筆と小説

自分の歳を実感するのは、手は重さ、足は歩き、目は小文字など体の部分では当然として、脳の方では、新しい物より昔の物事を振り返る方が楽しく感じる時である。

辞書は15の時の私の楽しみだった。この楽しみは、若い時に何か楽器をやって、定年退職してから再び手にした高齢者と通じるものだろう。

英随筆は、辞書引きの楽しみが十分以上に備わっている。旺文社の新英和中辞典を引く。出ていない。そこでおもむろに研究社新英和大辞典を手元に寄せる。漢語と同じで、最初から見込みのない単語は「最初から」研究社だ。

研究社の辞書を開く時、パサやヒラヒラでない、バタン、ドンと音がする。非常に魅力的な音である。つくづく英語をやっていて良かったと思う。

シリーズには載せなかったが、この作品も辞書無しではとても手に負えない。(だからこそ楽しいのだが)

その対照的なのがロビンソン・クルーソーである。この易しさから、私はリ・ライト版ではないかと疑っている。

研究社を引かなければ分からない単語はない。青空書斎で楽しく読み流している。これは、15よりもっと小さい頃、小学生の頃か、カバヤ文庫に世話になったノスタルジーも多分に含まれている。

例の通り、後の私自身のために、単語を挙げておいた。

随筆は知識階級、小説は一般大衆。高級か低級かの違いではない。楽しみ方の違いがはっきりしているということである。

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An Apology for Idlers(R.L.Stevenson)から抜粋

 Extreme busyness, whether at school or college, kirk or market, is a symptom of deficient vitality; and a faculty for idleness implies a catholic appetite and a strong sense of personal identity. There is a sort of dead-alive, hackneyed people about, who are scarcely conscious of living except in the exercise of some conventional occupation. Bring these fellows into the country, or set them aboard ship, and you will see how they pine for their desk or their study. They have no curiosity; they cannot give themselves over to random provocations; they do not take pleasure in the exercise of their faculties for its own sake; and unless Necessity lays about them with a stick, they will even stand still. It is no good speaking to such folk: they cannot be idle, their nature is not generous enough; and they pass those hours in a sort of coma, which are not dedicated to furious moiling in the gold-mill. When they do not require to go to the office, when they are not hungry and have no mind to drink, the whole breathing world is a blank to them. If they have to wait an hour or so for a train, they fall into a stupid trance with their eyes open. To see them, you would suppose there was nothing to look at and no one to speak with; you would imagine they were paralysed or alienated; and yet very possibly they are hard workers in their own way, and have good eyesight for a flaw in a deed or a turn of the market. They have been to school and college, but all the time they had their eye on the medal; they have gone about in the world and mixed with clever people, but all the time they were thinking of their own affairs. As if a man’s soul were not too small to begin with, they have dwarfed and narrowed theirs by a life of all work and no play; until here they are at forty, with a listless attention, a mind vacant of all material of amusement, and not one thought to rub against another, while they wait for the train. Before he was breeched, he might have clambered on the boxes; when he was twenty, he would have stared at the girls; but now the pipe is smoked out, the snuff-box empty, and my gentleman sits bolt upright upon a bench, with lamentable eyes. This does not appeal to me as being Success in Life.

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Robinson Crusoe 
ChapterⅢ Wrecked on a Desert Islandから抜粋

 When I had pursued this resolution about ten days longer, as I have said, I began to see that the land was inhabited; and in two or three places, as we sailed by, we saw people stand upon the shore to look at us; we could also perceive they were quite black and naked. I was once inclined to have gone on shore to them; but Xury was my better counsellor, and said to me, "No go, no go." However, I hauled in nearer the shore that I might talk to them, and I found they ran along the shore by me a good way. I observed they had no weapons in their hand, except one, who had a long slender stick, which Xury said was a lance, and that they could throw them a great way with good aim; so I kept at a distance, but talked with them by signs as well as I could; and particularly made signs for something to eat: they beckoned to me to stop my boat, and they would fetch me some meat. Upon this I lowered the top of my sail and lay by, and two of them ran up into the country, and in less than half-an- hour came back, and brought with them two pieces of dried flesh and some corn, such as is the produce of their country; but we neither knew what the one or the other was; however, we were willing to accept it, but how to come at it was our next dispute, for I would not venture on shore to them, and they were as much afraid of us; but they took a safe way for us all, for they brought it to the shore and laid it down, and went and stood a great way off till we fetched it on board, and then came close to us again.
 We made signs of thanks to them, for we had nothing to make them amends; but an opportunity offered that very instant to oblige them wonderfully; for while we were lying by the shore came two mighty creatures, one pursuing the other (as we took it) with great fury from the mountains towards the sea; whether it was the male pursuing the female, or whether they were in sport or in rage, we could not tell, any more than we could tell whether it was usual or strange, but I believe it was the latter; because, in the first place, those ravenous creatures seldom appear but in the night; and, in the second place, we found the people terribly frighted, especially the women. The man that had the lance or dart did not fly from them, but the rest did; however, as the two creatures ran directly into the water, they did not offer to fall upon any of the negroes, but plunged themselves into the sea, and swam about, as if they had come for their diversion; at last one of them began to come nearer our boat than at first I expected; but I lay ready for him, for I had loaded my gun with all possible expedition, and bade Xury load both the others. As soon as he came fairly within my reach, I fired, and shot him directly in the head; immediately he sank down into the water, but rose instantly, and plunged up and down, as if he were struggling for life, and so indeed he was; he immediately made to the shore; but between the wound, which was his mortal hurt, and the strangling of the water, he died just before he reached the shore.

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Apology(17個)
Busyness 多忙(研究社のみ)
Kirk 教会
Dead-alive 死んでいるも同様な
Hackneyed 平凡な
give oneself over 没頭させる
provocation 怒らせるもの
lay about 打ちまくる
coma 昏睡状態
moil あくせく働く
trance 夢うつつの境
paralyse 麻痺状態にする
flaw 瑕疵
dwarf 小さくする
listless 無頓着な
breech ズボンをはかす
clamber四つん這いになって這い登る
bolt upright まっすぐに

Crusoe (5個)
hauled in 近づくように船を向けるせる
ravenous 貪欲な
diversion 気晴らし
with expedition 急いで
strangle 窒息する

補:
・行数は1対1.4でCrusoeが多いです。
・辞書を引くのが楽しみでなければ、私だってCrusoeに専念します。

英随筆選・・・ ロバート・リンド

イギリスの随筆家の中で私はラムと並んでこのリンドに最も親近感を覚える。

ラムは高校でシェイクスピア物語を読んだ。子供向きに戯曲を物語に書き換えたものとなっているが、難しい単語と長い文章のどこが子供用かと疑ったものである。

一方、リンドの随筆は単語、構文とも手の届く範囲に収まっている。高校時代にはリンドだった。

ラムは40代になって「退職者(The Superannuated Man)」というエッセイを読んでから好きになった。読むようになった動機は覚えていない。大学の講義でなかったことだけは確かである。

今、残りの半分をボチボチ読んでいる。易しい文章だけと付き合っていると、頭が更に鈍るのではないかという心配があるからである。

アンダーラインなどがあるので50年前に読んでいた。まったく覚えていない。

Robert Lynd

Why we hate Insects

(1)A distinguished novelist has said that to watch flies trying their legs off the paper one after another till they are twice their natural length is one of his favourite amusements. I have never found any difficulty in believing it of him.

(2)If not actually kindness, to flies has been made one of the tests of gentleness in popular speech. How often has one heard it said in praise of a dead man: ‘He wouldn’t have hurt a fly!’

(3)One of the most agonizing of the minor dilemmas in which a too sensitive humanitarian ever finds himself is whether he should destroy a spider’s web, and so, perhaps, starve the spider to death, or whether he should leave the web, and so connive at the death of a multitude of flies. I have long been content to leave Nature to her own ways in such matters.


こういう文章に出会うのは楽しい。

(1)「やれ打つな蠅(はへ)が手をすり足をする」
イギリス人も日本人と似たような感情を抱いているのが分かるから楽しい。

(2)「蚊も殺さないような人柄」
イギリスの蝿は日本では蚊である。似たような表現である。

(3)この時期になると我が家も我が庭も蜘蛛の巣だらけになる。自分の通るスペースに限って巣を払う。数日繰り返すと、クモの方が諦めて張らなくなる。別のクモが張るが、同じように数日で退去する。転居先を探す苦労は皆無である。だから私は平穏でいられる。

静態はこれでいいが、アオスジアゲハがクモの巣に掛かって悶えている場面に遭遇した時は、それほど冷静ではいられない。移住した当時は、エサはいくらでもあるだろう、ということで、巣から逃してやった。

数年の夏を過ごし、その間よく観察をするようになって、私は考えを変えた。巣を払うとクモは必死になって逃げる。じっと我慢してようやく食事にありついたと思ったら、食事どころか職場(兼住居)まで一瞬にして失う。毎日見ていると、1週間や10日、エサにありついた形跡のない巣がかなりあることがわかる。リンドは、most, minor, too sensitive とうまく表現しているが、結局ジレンマを自然の女神に委ねるとした。私も自己責任で手を出さないことにしている。

スズメバチならどうかわからないが、アオスジアゲハやモンシロチョウがバタバタしているのを見て見ぬ振りをして通り過ぎるのは、精神衛生上非常に悪い。リンドは女神が後ろ盾になっているから救われる。理屈では納得しても、相変わらず、晴れた気分になれない。

家の中に巣を張ったクモは悲惨だ。エサが飛び込んでこないから、最後は餓死して、ミイラになって巣にぶら下がったままでいる。

払えばいいのだが、面倒なので、そのままにしている。これも見ていい気分ではない。

リンドは、どこまでinsects と慣れ親しんだのかわからないが、このエッセイを読む限り、かなり観念的であるように思える。随筆だからそれでいいのだろう。

補:
G.ギッシングの「ライクロフトの私記」は別格扱いです。漢訳の表題が「四季随筆」。その通り。感心しました。

十五の春に戻ろうか・・・単語カード

目で読む分には単語は意味さえわかれば発音なんかどうでもいい。その主義でやってきたが、どうも居心地が悪い。一度は覚えた(つもりの)単語が次から次へと繫がって出てくる。

ふと思いついたのが単語カードである。120枚で100円。千円で1200個の単語が覚えられる。だとすれば安いものだ。

十五の春の英単語は必死だったが、今の中国語は気楽なもの。青空書斎で楽しんでいる。試験がないということは本当にいいことだ。

20140710単語カードC

夏の夜の夢・・・漢語訳

さすがというべきか、詩詞の国中国。しっかり韻を押さえている。音はすべて7個で構成されている。

漢語訳は行中に句読点がある。7字であることを明らかにするため、ここでは省いている。

シェイクスピアを散文調で訳したら、ただ面白い筋があるだけで少しも言葉の綾が感じ取れない。リズムのない洋楽のようなものだ。

シェイクスピアの喜劇は消夏にいい。私は、森の書斎に英・中のコピーを持っていって、場の区切り毎に比較しながら楽しんでいる。辞書に頼らなくても、どちらかで意味が分かる。まれにどうしても分からない単語もあるが、家に戻って調べればいいだけのことだ。けだし、そうでなければ、消夏にならないのである。

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第4幕第1場より

PUCK
Fairy king, attend, and mark:
I do hear the morning lark.

OBERON
Then, my queen, in silence sad,
Trip we after the night's shade:
We the globe can compass soon,
Swifter than the wandering moon.

TITANIA
Come, my lord, and in our flight
Tell me how it came this night
That I sleeping here was found
With these mortals on the ground.
Exeunt

迫克
仙王仙王留心听(ting),
我听见云雀歌吟(yin)。

奥布朗
王后让我们静静(jing)
追随着夜的踪影(ying);
我们环绕着地球(qiu),
快过明月的光流(liu)。

提泰妮娅
夫君请你在一路(lu)
告诉我一切缘故(gu),
这些人来自何方(fang),
当我熟睡的时光(guang)。
(同下。幕内号角声。)

補:
・パックの韻は壊れています。舞台から遠いと、ing とinの違いがそれほど気にならないだろうということでしょうか。私には分かりません。
・坪内逍遥訳がどうなっているのか知りたいものです。多分、5・7調の美文でしょう。負けるな、日本語。
・英語の原文も漢語の訳文も、ネットで無料入手。フォントを16p~18pにしてコピーすれば、弱視の私でも読めます。古典、名作は取り放題。何度も言うようですが、ありがたい世の中になったものです(読書に限ってですが)。

手元の中国語辞典

中日大辞典は2冊目である。1冊目は初版。あるメーカーの中国室に転職した時期と初版がタイミングよく重なった。

それまでの辞典がまったく影が消えるほど充実していた。失礼ながら、愛知大学がここまでやっているとは知らなかった。

使っていくうちに、表紙にヒビが入って引きづらいことおびただしい。タイミングが良いのか悪いのか、天安門事件を機会に中国室から離脱させられた時に、未練なく処分してしまった。

現代漢語は、外語時代のは灰色の厚表紙であった。それも処分。

残りの2冊は初めての購入である。

辞書の触感は現代漢語が一番。開きやすく見やすい。紙質が他より厚めのように感じる。単語の意味は分かっても、発音が分からない、これには一番いい。開いた時の香りもいい。

中日辞典は、現代漢語に劣らず引きやすい。さすが講談社である。しかし、語彙が少なすぎる。初級中級の学習用購読本ならこれで十分だが、中国語で何かを読もうとすると、もうお手上げである。「果腹」は今日目にした単語だが、中日には出ていない。

こういうことが連日発生している。四字成語の貧弱さは目を覆うばかりである。

それなのに、初級会話のコラムがあちこちに置いてある。「あのう、出口はどこですか」こんなことを辞書で知ろうとする中国語利用者がいるかどうか、編集者は考えただろうか。

辞書は分からない字を分かるようにするのが本質である。この本質をないがしろにして、何が初級会話だ。

香坂現代中国語は講談社より語彙の面で数段充実しているが引きにくい。頁の数字が小さい、その頁に出ている漢字が上の欄外に載っていない。引きにくい辞書はそれだけで20点減点である。

今、私はシェイクスピアの中国語訳と平行して、ロビンソン・クルーソーとガリバー旅行記の中国語訳に夢中になっている。

これらは口語体になっているから、大体講談社で間に合う。かれこれ1か月の付き合いで、引いても出てこないレベルの単語は引く前に分かるようになっている。この時は、中日大辞典を最初から引くことにしている。

詩詞の解説や聊斎志異、史記などの口語体は、中日大辞典一本槍である。他を当たってもどうせ二度手間になるだけだからだ。今回入手した増補第二版は、表紙がビニールで出来ている。とても引きやすい。

ただし、平凡な漢字で発音だけを知りたい場合は(もともと語彙力が不足している上、長年のブランクで忘れてしまった)、現代漢語詞典を開くことにしている。

香坂版はお蔵入りになったが、どれも500円玉1個のもの。こういうものがあると知っただけで十分元は採れていると慰めている。

今回、中日大辞典の前書きを読んでみた。東亜同文書院がからんでいたのだ。これで納得。

将来、どこかの出版社が中日大辞典を超える辞書を発刊するだろうか、私はないと思っている。

研究社の新英和も中日大辞典も共に2千4百頁ほど。大きさは新英和の半分が中日。新英和は語源的解説が詳しくなされている。中日大辞典にはそれがない。その分だけ情報量に差がでているのではないか。しかし、中国語には奥の手として漢和字典がある。言葉を語として調べたければ、頼りになる存在だ。

私は中国語辞典で「手機」を引くつもりはない。日常生活の中国語をいまさら「おさらい」する気がないからだ。新語を増やすのは結構だが、それにより廃語や古語が駆逐されるのは我慢がならない。

手元の辞書はいずれも旧版。それでいいのだ。それがいいのだ。

今日は、午前中が雨。ブログの時間が取れた。

補:
講談社版 第2版2002年第1刷
現代漢語 第5版2010年第403次 
香坂版 初版 1998年第21刷
中日大辞典 増刷第2版第7刷

20140630中国語辞典

中国語三徳(2)・・・漢詩から中国詩詞へ

詩は発声して詩になる。字面を見るだけでは、散文と変らない。モーツアルトのように頭の中で音が聞こえるような人はそう大勢はいないだろう。

漢詩は日本語では中国の詩の全体を指すが、中国語で漢詩といえば、漢の時代の詩ということである。全体を中国語では中国詩詞という。

詩詞も漢詩も字面では似たようなものだ。この杜牧の詩も、漢詩の漢字はそっくり原文を移している。

中国語を習っていなくても、字面で杜牧は楽しめる。しかし、その楽しみは発声して鑑賞すれば何倍にも大きくなる。

無理やりの表現であるが、リズムは感じ取れるはずだ。漢詩にはリズムがまったく感じられないし、韻も踏んでいない。

   江南春(杜牧)
   千里鶯啼緑映紅
   水村山郭酒旗風
   南朝四百八十寺
   多少楼台煙雨中

   江南の春(杜牧)
   千里鶯啼いて緑紅に映ず
   水村山郭 酒旗の風
   南朝四百八十寺
   多少の楼台煙雨の中

   詩詞の中国語読み
   チャンナンチュエン(トゥムゥ)
   チエン・リー・イン・ティ・ルィ・イン・ホン
   シュイ・ツゥエン・シャン・クオ・チウ・チ・フォン
   ナン・チャオ・ス・パイ・パア・シ・ス
   テゥオ・シャオ・ロウ・タイ・イェン・ウィ・チョン

   漢詩の日本語読み
   コウナンノハル(トボク)
   センリウグイスナイテミドリクレナイニエイズ
   スイソンサンカクシュキノカゼ
   ナンチョウシヒャクハッシンジ
   タショウノロウダイエンウノナカ

漢詩が中国語で読めることを三徳の2とした所以である。

補:
・中国語の発音をカタカナで表す際のルールがあったような気がしますが、ジス・イズ・ア・ペンと同様なレベルで可としておきます。
・詩の邦訳は5・7(7・5)調でなければ日本語の良さが出ません。

7月7日・・・モモの命日

去年の5月、額の腫れが大きくなるばかりで、石巻の動物病院に連れて行った。1歳の時世話になって以来だから、12年振りである。

先生はモモをひと目みて、「もう歳だから、夏まではもたないだろうね。フィラリアの投与も必要ないよ、チョコレートでも何でも食べるものに制限はいらないよ」と言った。

体に悪いということで、チョコレートはどんなに欲しがっても与えてこなかった。

診察が終わって、ガンを宣告された。

額の腫れは、治療してもしなくても寿命は変わらないと言われ、それ以上のお願いはできないまま帰ってきた。

ガンの進行はやむを得ないとしても、額の腫れは痛々しい。別の獣医さんに無理にお願いして、注射針を送って貰った。私が自分で腫れている所に注射器を刺して、膿を抜くことにした。

抜くまではできても、後の処置が不十分で、顔面血だらけになってしまった。拭いても拭いてもじわじわ注射の跡からにじみ出てくるのだ。

食欲はほとんどなくなり、注射器を送ってくれた獣医さんに栄養補給になるものなら何でも送ってくれるように頼んだ。スポイトで注入しなければならないほど体力が衰えていた。

1日1回の用足しがやっとできる程の脚力になっていた。

それまでは、長くて10分で戻ってきたのが、死の7日前だったろうか、裏山に行ったままで戻って来なかった。

2日2晩、モモの気配がなかった。私は、裏山のどこかを死に場所にしたものと思った。山と浜で生涯を過ごしたモモに最もふさわしい死に場所であることを私は確信していた。

それが3日目の昼前、表に出る途中、沢の中に立っているモモを見つけた。直ぐに車から降りて、抱きかかえて家に戻った。モモを抱いたのは5月の病院以来である。半分の軽さになっていた。

死の2日前、ベッドに上る力が無くなって、私の枕元の脇で寝入った。

それまでは、必死になって上ったものだ。私は、今夜がモモの傍らで寝る最後の夜と観念した。

翌朝、歩いている最中、後ろ足の関節が外れたのだろう、何ヶ月も声を上げなかったモモが、キャオーンと叫んだ。よほど痛かったに違いない。それから夕方になって、もう片方の足の関節も外れた。この時も大きな声で叫んだ。

いざり足で家の中を歩くのだが、どうしても玄関に転げ落ちる。何度持ち上げても、しばらくすると玄関に転がり落ちる。左目は5月の頃すでに見えなくなっていたが、右の目も見えなくなったのだ。

私が寝る時には、モモは玄関で横たわっていた。腹が小刻みに動いている。これが最後の夜だった。

顔は血の跡がなく、とてもきれいだった。沢の水で顔を洗ったのは、私に一つの曇りもない死装束を見せてから別れたかったのに違いない。

コスモスの花壇にする予定だった石塚はそのままになっている。そうする体力がもはや私にはないのである。やさしいモモのことだから、許してくれるだろう。

プライベート・ビーチで一緒に駆けたモモ。
散歩ではいつも露払いをしてくれたモモ。
身内の死去で泣いていた私を、前足を乗せて顔を舐めて慰めてくれたモモ。
草原で仰向けになった私と格闘したモモ。
メリーの我がままを私に代わって叱ってくれたモモ。
リッキーと椅子取りゲームをやったモモ。
鶏の餌を食べようとして、突かれてキャンキャン泣いた来たばかりのモモ。
震災で一夜裏山から帰って来なかったモモ。
広い元小学校の校庭でテニスボールを追いかけたモモ。
海水を飲んで顔をしかめたモモ。
夜更けになると私の後ろ姿をベッドでじっと眺めていたモモ。
ノラ猫に引っ掻かれて痛がったモモ。
蛇を振り回したモモ。
家に上がったとたんに客に寄り添うモモ。
最後まで海に入らなかったモモ。
お祭りの太鼓がすると一目散に裏山に逃げたモモ。
人が多い場所では、ジムニーのフロントに隠れて震えたモモ。
雷の音が聞こえるとガタガタ震えて机の下にうずくまったモモ。
私が感じる2秒前に地震を感じて震えたモモ。
「お留守番」と言うと、いつも今にも泣きそうな顔になったモモ。
帰ると、喜ぶ前に先ず置いていかれた不平をウオ~ンと声に出して表したモモ。
埼玉で都会暮らしを経験したモモ。
私にも家人にも母親の目でみていたモモ。
生涯リード無しで過ごしたモモ。
手の平に乗って我が家に来てから最後の日まで、この家を我が家としたモモ。

モモが主人公としてブログに出るのは今日で終りである。私の残りの人生の中で主人公として生きてくれるから、それでいいのだ。

補:
・坂戸と石巻のお医者さん、散歩の時に「モモ」と呼んでくれた近所の皆さん、来る度に吠えられた検針、郵便、プロパンの方々、モモの母親の家の方、石巻アニマル・クラブの代表の方、ありがとうございました。
・文が粗雑であるかもしれません。書きたくてもこれ以上書けないのです。

(すべて過去のブログからの再掲です)
モモ命日

子供のモモ命日

モモリッキー命日

メリーモモ命日

真夏の夜の夢

今月から、「真夏の夜の夢」に入った。ライクロフトの私記の「夏」は数日で通過した。高校英語レベルであること、すでに何度も読んでいること、それと何よりこの随筆が無為徒食の生活を謳っていることが速読可能の理由である。

「秋」は、秋になってからがいい。夏は夏の話だ。それで、「真夏の夜の夢」を再読することにした。50年前に読んで以来だから、新しく読むようなものだ。

案の定、ほとんど覚えていない。The Pleasure of Ignorance(R.Lynd)を満喫している。

漢詩に感化されたせいか、どうも音(おん)が気になってしかたがない。

シェイクスピアの作品は韻文の塊と言われているが、その好例があった。

~~~~~

A Midsummer Night's Dream 第一幕第一場から

HERMIA God speed fair Helena! whither away?
HELENA Call you me fair? that fair again unsay.
Demetrius loves your fair: O happy fair!
Your eyes are lode-stars; and your tongue's sweet air
More tuneable than lark to shepherd's ear,
When wheat is green, when hawthorn buds appear.
Sickness is catching: O, were favour so,
Yours would I catch, fair Hermia, ere I go;
My ear should catch your voice, my eye your eye,
My tongue should catch your tongue's sweet melody.
Were the world mine, Demetrius being bated,
The rest I'd give to be to you translated.
O, teach me how you look, and with what art
You sway the motion of Demetrius' heart.
HERMIA I frown upon him, yet he loves me still.
HELENA O that your frowns would teach my smiles such skill!
HERMIA I give him curses, yet he gives me love.
HELENA O that my prayers could such affection move!
HERMIA The more I hate, the more he follows me.
HELENA The more I love, the more he hateth me.

~~~~~~

Hermiaの問い掛けを受けて、間をおかずHelenaがつなぐ。それがまた輪番となる。
対の押韻で、すべて10音で構成されている。

文字を目で追うだけでは、この良さは分からない。役者が舞台で語るのを耳で聞かなければダメである。

その機会のない読者は、私もその一人であるが、自分で発声するのがいい。さすがシェイクスピアと改めて感服することだろう。

ここに中国語訳がある。残念ながら、手抜きの感がする。世界一の詩詞の言語であるのだから、頑張って10個の漢字と対の押韻で訳を作って欲しかった。

ネットのタダ見だから、あるいは、私の知らないだけで、そうした訳があるのかもしれない。是非知りたいものだ。

手元の新潮社恆存訳もダメである。ダラダラと女言葉に訳しているだけだ。

シェイクスピアは原語にせよ訳語にせよ、読むものではない。聴くものである。大学の英文科に席を置き、教授から一行一行教わりながら一年かけて読むものではない。

劇場で一気に聴き通すものである。響きのいい訳でありさえすれば、何も原語でなくても構わない。

私はと問われれば、Shorter Oxfordと新英和を引く楽しみのために原語で読み続けていく。

補:
私が読んだ中国語訳。

赫米娅 上帝保佑美丽的海丽娜!你到哪里去?
海丽娜 你称我“美丽”吗?
请你把那两个字收回了吧!
狄米特律斯爱着你的美丽;幸福的美丽啊!
你的眼睛是两颗明星,
你的甜蜜的声音比之小麦青青、山楂蓓蕾的时节
送入牧人耳中的云雀之歌还要动听。
疾病是能染人的;
唉!要是美貌也能传染的话,美丽的赫米娅,
我但愿染上你的美丽:
我要用我的耳朵捕获你的声音,
用我的眼睛捕获你的睇视,
用我的舌头捕获你那柔美的旋律。
要是除了狄米特律斯之外,
整个世界都是属于我所有,
我愿意把一切捐弃,
但求化身为你。
啊!教给我怎样流转眼波,
用怎么一种魔力操纵着狄米特律斯的心?
赫米娅 我向他皱着眉头,但是他仍旧爱我。
海丽娜 唉,要是你的颦蹙能把那种本领传授给我的微笑就好了!
赫米娅 我给他咒骂,但他给我爱情。
海丽娜 唉,要是我的祈祷也能这样引动他的爱情就好了!
赫米娅 我越是恨他,他越是跟随着我。
海丽娜 我越是爱他,他越是讨厌我。

草刈り・・・田舎暮らしの象徴

蛇をふんづけたら大変だ。
午後、玄関の周りの草刈りをした。
腰にきたので、そこそこで止めにした。わすか20分の作業。
竹も草もよく育つ。ここに住む限りこの肉体労働はついて回る。
刈った後のスッキリ感が救いである。

(草刈り前)
20140701草刈り前
(草刈り)後
20140701草刈り後

下期の計画・・・活字文化

立てないことにした。今月の分だけを決めた。

中国語:
「離騒」。前から一度読んでみたいと思っていた。古漢語は、一瞥しただけでまったく歯が立たないことがわかった。訳詩があったのでその方の精読をする。先月購入した愛知大の中日大辞典が働いてくれる。

英語:
英随筆選を精読する。全作家の作品をひと通り読んだが、まだ半分残っている。研究社の新英和を引く楽しみは、捨てられない。

精読はこの2件。

あとは、シェイクスピアの中国語訳と白話の聊斎志異。これらは既読だからいわゆる速読の対象である。

気軽に楽しめれば、それでいい。

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