老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

中国語の三徳(1)・・・聊斎志異

中国語を習って良かったと思うことが三つある。

その一つが、この怪奇譚である。

中国語に接しなければ、千夜一夜物語とデカメロンでストップしていただろう。

病膏肓に入るで、私は移住先に、お化けがでるような土地を選んだ。カラスが人間に化けてでるような土地を選んだ。今の場所である。

原文は古漢語にしては、易しい方だと思う。その白話抄訳をこれまで3冊読んだ。日本語と同じ感覚で読んだ。筋が面白いので読むには読んだが、古漢語の味があまりしない。

かえって、邦訳にすばらしい物があった。

柴田天馬の聊斎志異である。

2冊つぶした。愛蔵版のあることを知って、amazonで3冊目を購入した。印字に濃淡があるのは改善されていないが、紙質が断然良くなっている。

活字が小さ過ぎて今の私は読めない。それで、バラしてA4にコピーした。

邦訳でありながら、古漢語の香りがどの頁にも漂っている。

柴田天馬訳に出会えたのも、中国語と付き合ったためである。

全編通しで読んだ回数は3回。好きな物語は10回ではきかない。

柴田天馬の名訳中の名訳は「蛇人」である。私は涙無しではこの訳を読むことができない。

数ヶ月前、格調高い白話訳がネットに出ているのを知った。今は好きな物語をコピーして楽しんでいる。

補:
私が映画監督なら、007シリーズの倍は連作しますね。「侠女」と「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー1」で後がないのが不思議でなりません。「侠女」はホンコン仕立ての活劇、「チャイニーズ~」はジョイ・ウォンでもっているようなもの。今の中国には主役を担えるような気品のある女優はいないのでしょうか。監督に自信がないのでしょうか。もったいないです。

聊斎志異コピーa
聊斎志異コピー

皆大歓喜・・・お気に召すまま

英文学を中国語で日本人が鑑賞する。

現代中国文学に私は興味が無い。特に中国文学というわけでなく、日本文学も、賢治までである。食わず嫌いの可能性大だが、いまさら新奇な料理に箸を運ぶこともなかろう。

ストレス解消に中国語はいい。そこで考えたのが、英文学の中国語翻訳を読むことである。

翻訳はどの言語でも原文より易しくなる。翻訳者の最大の使命が自国民への紹介であるから、自然そうなる。

また、例えば「美しい」という表現が原語では10個あっても、それに対応して10個の翻訳をするような苦労は、普通の翻訳者はしないだろう。よくて半分である。その半分は難しい側の半分でなく易しい側の半分になるものだ。

「皆大歓喜」は、シェイクスピアの「As You Like It」である。日本語では「お気に召すまま」となっている。

原語の伝達は日本語の方に軍配があがる。中国語訳は、飛躍が過ぎる。

この喜劇は、何度も読んでいるから、英語を読んでもつまらない。この歳になって新しい感激を探すのは無理である。また、探せば探すだけ収穫があるような奥の深い作品でもない。

初夏の森で、気持よく、無意識のまま時間が過ぎればそれでいい。

それで、ふと思いついたのが、原語と中国語の二つを同時に読むことである。

第二幕、第七場の中の有名なセリフ。

JAQUES
All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts,
His acts being seven ages. At first the infant,
Mewling and puking in the nurse's arms.
And then the whining school-boy, with his satchel
And shining morning face, creeping like snail
Unwillingly to school. And then the lover,
Sighing like furnace, with a woeful ballad
Made to his mistress' eyebrow. Then a soldier,
Full of strange oaths and bearded like the pard,
Jealous in honour, sudden and quick in quarrel,
Seeking the bubble reputation
Even in the cannon's mouth. And then the justice,
In fair round belly with good capon lined,
With eyes severe and beard of formal cut,
Full of wise saws and modern instances;
And so he plays his part. The sixth age shifts
Into the lean and slipper'd pantaloon,
With spectacles on nose and pouch on side,
His youthful hose, well saved, a world too wide
For his shrunk shank; and his big manly voice,
Turning again toward childish treble, pipes
And whistles in his sound. Last scene of all,
That ends this strange eventful history,
Is second childishness and mere oblivion,
Sans teeth, sans eyes, sans taste, sans everything.

杰奎斯
全世界是一个舞台,
所有的男男女女不过是一些演员;
他们都有下场的时候,也都有上场的时候。
一个人的一生中扮演着好几个角色,
他的表演可以分为七个时期。
最初是婴孩,
在保姆的怀中啼哭呕吐。
然后是背着书包、
满脸红光的学童,
像蜗牛一样慢腾腾地拖着脚步,
不情愿地呜咽着上学堂。
然后是情人,
像炉灶一样叹着气,
写了一首悲哀的诗歌咏着他恋人的眉毛。
然后是一个军人,
满口发着古怪的誓,
胡须长得像豹子一样,
爱惜着名誉,动不动就要打架,
在炮口上寻求着泡沫一样的荣名。
然后是法官,
胖胖圆圆的肚子塞满了阉鸡,
凛然的眼光,整洁的胡须,
满嘴都是格言和老生常谈;
他这样扮了他的一个角色。
第六个时期变成了精瘦的趿着拖鞋的龙锺老叟,
鼻子上架着眼镜,腰边悬着钱袋;
他那年轻时候节省下来的长袜子套在他皱瘪的小腿上显得宽大异常;
他那朗朗的男子的口音又变成了孩子似的尖声,
像是吹着风笛和哨子。
终结着这段古怪的多事的历史的最后一场,
是孩提时代的再现,
全然的遗忘,没有牙齿,没有眼睛,没有口味,没有一切。

大陸中国語の簡体字で理解しにくいかもしれないが、中国語をまじめに1年学習すれば、解釈に困るような日本人はいない。

それに比べ、原文である英語は、たぶん高校まで6年かけた英語力では難しいと感じるはずだ。

ここは人の一生を当たり前に語っているだけだから、難易度1と言える。「お気に召すまま」には至る所にシェイクスピアのウイットが入っている。難易度3から5だ。それを原文から読み取って気がつきニヤリとするには、大学英米文学課程に2年は在籍しなければならないと思う。(私自身は自信がない)

中国語訳は、一般教養課程の2年で読める。もちろん、読めるだけで正しく発音できるかどうかは別である。

今日は第四幕第一場が過ぎた。天気さえ続けば、今週中にRosalindのepilogue、罗瑟琳の收场白が聞けると思う。

アーデンの森を想像しながら、私はカヤの中でこの喜劇を一人楽しんでいる。

補:
固有名詞には手を焼きます。赫勒斯滂はHellespontですって。それでもわかりません。辞書を引けば、ダーダネルス海峡の古称とのこと。普段は面倒なので、人名は某人、地名は某所で済ますことにしています。

(これほど快適とは思ってもみませんでした)
20140626蚊帳
(折りたたむコツを覚えました。簡単、簡単)
20140626畳んだ蚊帳

竹の子

今が竹の子のシーズン。以前は竹やぶの至る所で採れたのだが、今はその竹やぶが荒れ放題になって、探すのが大変だ。

日が入らないためであろう。

私は裏山の小径の脇に出てくる竹の子を1日1本のペースで倒すことしている。

1本あれば十分。

メリーはこれが理解できないようで、この季節になると、私より先を歩く。後からだと、私に先に取られると思っているのだ。

私の敷地に数本伸びている。食べるより、高くなると困るから、明日、蹴り倒すことに決めた。

補:
真竹です。尺八も真竹で作ります。私は2本、持っています。
(小径脇の竹の子と荒れた竹やぶ)
20140626竹の子
20140626竹やぶ

2014年前期・・・明日でお終い

3月27日に排尿障害発生、4月27日に一応収まる。原因不明のまま、今日に至っている。

再発予防について医師から助言を受けることができず、私は日常生活での対策のしようがない。

排尿促進の薬を飲み続けていている。この薬の効果がどれほどか分からない。出来れば飲みたくない。自己責任で回数を半分にしてかれこれ2週間になる。今のところ特に問題はない。薬を完全に止めたらどうなるか、この誘惑は強いが、あの激痛と不便を思い出すと、止める勇気は霧散してしまう。

恐らく、終生飲み続けることになるだろう。70歳以上の私は薬代は定価の1割。缶ビール2缶分で1ヶ月の薬代がまかなえる。(もっとも私は缶ビールは買わないが。)高齢者の必要経費にしては安いものと諦めている。

語学の復習を始めた。私のセンチメンタルジャーニーである。英詩百選、英随筆選は50年振りの再会である。

社会の動きを俯瞰できる場所に居を構えていながら、ここ数年、頭の活動が鈍くなって間違いだらけ。自己嫌悪が主たる動機である。

先ず、民主党。政権ダッシュの前後は期待した。それが霞ヶ関官僚の前でヘナヘナ、やることといえば小沢下ろしと内紛。福島は収束したと宣言する野田。こんな男が総理大臣になったのだ。これが予見できなかった。

次が、橋下。既成政党の助成金狙いに風穴を開けるものと期待した。せっかく平成の信長になる環境に置かれながら、無為無策。ただ騒ぐだけのつまらないガキだった。これも予見できなかった。

そして、五輪招致。スポーツを食い物にカネと接待漬けのIOCが清廉な判断をするわけがない。それなのに、東京は絶対にあり得ないと断言した私。これも予見できなかった。

皆、後から思えば、私の頭脳の劣化の証明だった。最後の五輪誤判断で、私は世論から一切手を引く決心をした。

その空間を語学の復習が埋めてくれた。百人一首鑑賞も日本語という語学の復習であった。

莊子・韓非子、漢詩百選、小倉百人一首、英随筆選。

漢詩百選は、日本語の漢詩ではない。中国語の詩詞である。中国語の発音で読む。詩詞は50年前へのセンチメンタルジャーニーではない。中学3年の国語教科書で初めて知った漢詩から起伏はあっても常に私の書斎の一角を占めていた。この意味では60年の総括であった。

語学に辞書は欠かせない。辞書は国語辞典と古語辞典を残して、すべて処分していたから、再度求めた。

辞書を引く楽しみが再び戻ってきた。この楽しみは、視力の衰えが進行することで、徐々に失われていく。今は、ルーペの助けで問題なく引ける。無為に過ごしたくない。徐々でなく、突然やってくるかも知れないのだ。

おろそかになったのは、尺八。カテーテルをぶら下げていてはとても吹く気になれない。還暦を過ぎて道楽に習った芸事が一ヶ月の休みでどうなるか、誰でも容易に想像できるだろう。

6月に入り、裏山に行けるようになり、長管を再び吹くようになった。ロング・トーンを専らにした。肺活量の関係で大分ロングがショーターになったが、それでも響きはいい。明後日から始まる下期は、また曲に取り組む。

ギターも似たようなもの。仙台在住の著名なギタリストに昨年一度習った。その時に受けたアドバイスが今もって生きている。マスターできないのだ。

第一フレットにカポタストを常時付けて、手の小ささをカバーしている。辞書で目が疲れたら、椅子を半回転し、後ろのスタンドから取り上げて彈く。尺八は入れ歯をしなければダメだが、ギターは手に取れば直ぐ弾ける。ギターの音色はいつも澄んで美しい。これも続ける。

フルート。左首が痛くなって、中断したままになっている。一日何時間も吹いて何でもないアマチュア演奏家がいるのだから、わずか1時間かそこらの練習で首に痛みが残るのは、姿勢や構え方が悪いからだ。

一度個人レッスンを受けただけなので、機会があればもう一度構え方をチェックして貰う。フルートもいい音色を出してくれる。放っておくのはもったいない。

最後がデジタル・ピアノ。すっかり疎遠になってしまった。教会オルガンの音色は抜群である。キーを強く叩くと大きな音が出、弱く叩くと小さな音が出る。十分楽しめる。

尺八を除けば、すべてYAMAHA。ギターは新品だが、他は廉価で購入した中古。私のような初心者には十分の性能である。良心的なメーカーなのだろう。納入先に小学校・中学校があるというのもうなずける。

語学と楽器。能動的に時間を費やす対象である。これからも大事にしていきたいと思っている。

私の今回の仮想余命は明日まで。久しぶりの雨で、今日は一日中家の中。ブログは日誌代わりである。この半年を「総括」する時間ができた。

補:
Jack of all trades, and master of none.

私の中国語・・・「皆大歓喜」

私にとって中国語は気晴らしの一つである。

仕事で使ったことがあっても、私の中国語で仕事がうまく行ったとは思っていない。その業界でトップのブランドだったから、そこそこの仕事ができたのである。正確には私の貧弱な語学力をブランドが助けてくれたと言うべきであろう。

あれをやってもダメ、これをやってもダメ、新しい稽古事で人前で披露する物は一つもない。それでも、尺八を森の中で一人吹くのは楽しいし、ギターのアルペジオは弾いて音が出てくるだけで楽しい。しかし、もう少しうまくなれないものかという欲が出た時はストレスとなる。

中国語は、いくらデキが悪くても、若い時に習ったもの故、全くダメという程ではない。歯が立たない文章に出くわしても、ストレスは感じない。

気晴らしにはいい。と言って、この歳になって魯迅、老舎はもう結構だ。矛盾論、実践論は若い時に数回読んだから、これらも遠慮する。

ネットを色々当たって選んだのが、「皆大歓喜」という戯曲である。

4個の漢字は中国語の成語である。読んで字の如し。

入試センター試験に出てくるつまらない会話がまるでウソのよう。

中国語は、楽しい、楽しい。

補:
・この成語は日本語に入っていないようです。
・全文、コピペできました。ありがたい世の中になったものです。

我が楽園の初夏

雨上がりの午前。
光は澄んでいる。
鳥が鳴いている。
ここは国定公園の中。
虫の羽ばたく音が聞こえる。
デッキ・チェアを広げ、蚊帳を張る。
涼しい風が、蚊帳を柔らかく揺らす。

聊斎志異、竹青を読む。
続いて、小翠。
中国語はこれで終り。
次は、英語。
ライクロフトの私記。
夏の部。

蚊帳の白、葉の緑、空の青。
どれも透明色。

家の中でパソコンに向えない。
楽園の初夏が惜しい、惜しい。

補:
1)聊斎志異、H.ライクロフトの私記、共にA4にコピペ。インターネットの恩恵に浴しています。
2)食べ疲れたメリーは、近くの平らな場所で休んでいます。
3)雨でない限り、毎日昼過ぎまで3時間ほどこうして過ごします。
4)梅雨に入ってから、英随筆選の総括をやるつもりです。
5)腰の下に低反発クッションを入れました。以前にくらべ更に快適になりました。

20140623蚊帳から

英随筆選・・・V.S.PRITCHETT

英随筆選、最後の登場です。

BaconからPritchett、およそ400年の間の代表作を読んだことになりました。

deanは司教。the Deanがガリバー旅行記の著者スウィトであることは、本文にハッキリとは述べられていません。この随筆を読む者は、当然知っているはずだという前提でしょう。

ガリバー旅行記は、子供の頃に子供向けに書き直された本を読みました。それでは不十分です。

本物のガリバー旅行記をきちんと読んでいないとこの随筆は半分も楽しめないと思います。

原書は数年前、読まないまま処分してしまいました。

ガリバー旅行記は当時のイギリスを風刺した作品とのこと。そうであれば、当時のイギリスがどうであったかも知らなければならないことになります。

疎い私は、半減の半減で、25%しか楽しめません。

大変面倒な随筆であります。

(1)Great以下はMontaguからの引用です。本は少し小さい字になっています。

(3)John、Peter、Thomas。中国語の学習で知った張王李趙と同じ使い方でしょう。

~~~~~

The Dean

(1)
 The world would be poor without the antics of clergymen. The Dean, for example, wished he was a horse. A very Irish wish which a solid Englishwoman very properly came down on; Lady Mary Wortley Montagu was one of the few hostile critics of Gulliver:

 Great eloquence have (the authors) employed to prove themselves beasts and show such a veneration for horses, that, since the Essex Quaker nobody has appeared so passionately devoted to that species; and to say truth they talk of a stable with so much warmth and affection I cannot help suspecting some very powerful motive at the bottom of it.

(2)
 It is not an accident that Gulliver has become a child’s book; only a child could be so destructive, so irresponsible and so cruel. Only a child has the animal’s eye; only a child, or the mad clergyman, can manage that unhuman process of disassociation which is the beginning of all satire from Aristophanes onwards; only children (or the mad) have that monstrous and infantile egotism which assumes everything is meaningless and that, like children, we run the world on unenlightened self-interest like a wagon-load of monkey.

(3)
 A religious mind, even one as moderate in its religion as Swift’s, must, in the end, be indifferent to material welfare, progress, and hopes. Gulliver is simple John, Peter, or Thomas, the ordinary sensible man, and he stands alone against the mad laboratories of floating island. Gulliver could not know that people would one day make a knowledge machine or invent sunshine substitutes (but not out of cucumbers), but he does know that it is folly to let the world be run by these people. They will turn it (as the visit to Lagado showed, or, shall we say, to a blitzed town) into a wilderness. The world, the mad Dean says in the figure of Gulliver, must be run by John, Peter, Thomas, the sensible man.

(1)
antic  道化
come down on  襲う
Montagu (1689-1762)英国の女流文人;Popeの論敵
veneration  崇拜

(2)
disassociation (dissociation) 分離
satire  風刺
wagon-load  1台分の積荷

(3)
cucumber  キュウリ
blitz  急襲する

英随筆選・・・ALDOUS HUXLEY

これもJ.Agateに劣らぬ長文。

随筆選で50年を過ぎても忘れていない物といえば、このthe Whole TruthとR.L.Stevensonの“to remember the faces of women without desireだけです。共に、それほど衝撃的だったのです。

(3)はwouldの連続。

(5)プルースト、ロレンス、名前は知っていますが読んでいません。カフカは読んだことがあるようなないような。

(6)は最終段落。

ごく常識的な結論であるのは、Huxleyが、ごく常識的な知識人であるから当然でありましょう。

シェイクスピアの悲劇を取り上げている段落も残したいのですが、眼が疲れてキーを叩けません。

~~~~~

Tragedy and the Whole Truth

(1)
 There were six of them, the best and bravest of the hero’s companions. Turning back from his post in the bows, Odysseus was in time to see them lifted, struggling, into the air, to hear their screams, the desperate repetition of his own name. The survivors could only look on, helplessly, while Scylla ‘at the mouth of her cave devoured them, still screaming, still stretching out their hands to me in the frightful struggle.’ And Odysseus adds that it was the most dreadful and lamentable sight he ever saw in all his ‘explorings of the passes of the sea.’ We can believe it; Homer’s brief description (the too poetical simile is a later interpolation) convinces us.

(2)
 Later, the danger passed, Odysseus and his men went ashore for the night, and, on the Sicilian beach, prepared their supper – prepared it, says Homer, ‘expertly’. The Twelfth Book of Odyssey concludes with these words: ‘When they had satisfied their thirst and hunger, they thought of their dear companions and wept, and in the midst of their tears sleep came gently upon them.”

(3)
 So much, then, for truth in literature. Homer’s, I repeat, is the Whole Truth. Consider how almost any other of the great poets would have concluded the story of Scylla’s attack on the passing ship. Six men, remember, have been taken and devoured before the eyes of their friends. In any other poem but the Odyssey, what would the survivors have done? They would, of course, have wept, even as Homer made them weep. But would they previously have cooked their supper, and cooked it, what’s more, in a masterly fashion? Would they previously have drunk and eaten to satiety? And after weeping, or actually while weeping, would they have dropped quietly off to sleep? No, they most certainly would not have done any of these things. They would simply have wept, lamenting their own misfortune and the horrible fate of their companions, and the canto would have ended tragically on their tears.

(4)
 Homer, however, preferred to tell the Whole Truth. He knew that even the most cruelly bereaved must eat; that hunger is stronger than sorrow and that its satisfaction takes precedence even of tears. He knew that experts continue to act expertly and to find satisfaction in their accomplishment, even when friends have just been eaten, even when the accomplishment is only cooking the supper. He knew that, when the belly is full (and only when the belly is full) men can afford to grieve, and that sorrow after supper is almost a luxury. And finally he knew that, even as hunger precedence of grief, so fatigue, supervening, cuts short its career and drowns it in a sleep all the sweeter for bringing forgetfulness of bereavement. In a word, Homer refused to treat the theme tragically. He preferred to tell the Whole Truth.

(5)
 Proust, D.H.Lawrence, André Gide, Kafka, Hemingway – here are five obviously significant and important contemporary writers. Five authors as remarkably unlike one another as they could well be. They are at one only in this: that none of them has written a pure tragedy, that all are concerned with the Whole Truth.

(6)
 I have sometimes wondered whether tragedy, as a form of art, may not be doomed. But the fact that we are still profoundly moved by the tragic masterpieces of the past – that we can be moved, against our better judgment, even by the bad tragedies of contemporary stage and film – makes me think that the day of chemically pure art is not over. Tragedy happens to be passing through a period of eclipse, because all the significant writers of our age are too busy exploring the newly discovered, or re-discovered, world of the Whole Truth to be able to pay any attention to it. But there is no good reason to believe that this state of things will last for ever. Tragedy is too valuable to be allowed to die. There is no reason, after all, why the two kinds of literature – the Chemically Impure and Chemically Pure, the literature of the Whole Truth and the literature of Partial Truth – should not exist simultaneously, each in its separate sphere. The human spirit had need of both.

(1)
Scylla  スキュラ(6頭12足の女怪物)
devour  むさぼり食う
simile  直喩
interpolation  加筆

(3)
satiety   飽満
canto  長編詩

(4)
bereave  失わせる
supervene  続いて起こる

(6)
eclipse  (太陽・月の)食
impure  不純な

英随筆選・・・IVOR BROWN

新英和に名前が載っていないところを見ると、あまり有名な随筆家ではないようです。

このセンチメンタルジャーニーは、田舎で生まれ、田舎で少年・少女時代を送り、その後は大都市で生活を営んできた人の気持ちをよく表しています。

目に自信があれば、全文を打ち残して置きたい位です。

(1)は初段、(2)は最終段です。Wonder has gone, but admiration remains.いいですね。

育った家を今は眺めるだけ、ユーミンの「卒業写真」を連想しました。通学路でしたっけ。

All that has gone is quantity. Quality remains. No glory, save that of stature, has departed. Rather has glory increased.

途中の段落に、出ています。

Brownさんは、老後を育った田舎に戻るかどうかは述べていません。私はロンドン(初段からロンドンに居を構えているものと想像します)に住み続けると思います。ふる里はセンチメンタルに懐うものでしょうから。

~~~~~

A Sentimental Journey

(1)
 A quarter of a century is a phrase with an epochal ring, and these last five and twenty years have altered the world more than most. Empires have waxed and waned; motor-cars have altered the whole face of travel and the whole scale of British distances; a penny has become a halfpenny, and the char-a-banc has crashed its way through the silent austerities of the Scottish Sabbath. But much of Scotland stands exactly where it did. Here in the north-east, whither I have made my sentimental journey, the land and the sea yield the old harvests of grain and herring. The plough that has not altered since Homer told its shape and motion is not to suffer change while a boy grows up. The sea shows more of steam and less of sail, but evolution has obliged Tennessee by signally failing to leave new marks on herring and haddock, rabbit and hare. Had I been a London boy, I could hardly go in search of my youth. For the horses of the green Atlas bus that took me to Lord’s have vanished, and no more is the effortless beauty of J.T.Hearne’s bowling to be observed. But here I can go to ‘the games’ last visited in 1900 and they will be held in the same ‘haugh’; the same dancing master will sit on the judgement bench to nod gravely at the same flings and sword-dances. The pipes will be mournful and brisk with the same airs, and tea-time will bring the same neat bag of cakes. True, the programme hinted at the presence of the Abertochty ‘Jazz Band’. But what’s in a name? As of old there were fiddlers three.


(2)
 So there is good in growing up. The boy cannot see the wood for the trees, the burn for the lurking trout, the moor for the possible excitements of beast and bird. Now beauty comes in, life’s compensation for adventure. The compensation outweighs the loss. The village takes its place in the schemes of things; it is the work of generations of living, labouring men: its crannied walls have the flowers which you may search for the ultimate mysteries. But the walls need not drive you so far into the byways of reflexion. They have their more obvious story and are the testament of the grey, orderly, but not ungenial mental journey, one may bask without regrets. Wonder has gone, but admiration remains. The meadow has lost its mystery, but found its meaning, and takes its place in a scheme of things far beyond the scope and range of childish mind. The black wood that housed Jack Redskin no longer enfolds imaginary denizens. Does it matter? It is beautiful now as well as black. The house in which I gladly lived has become the house at which I gladly look. It is a generous exchange. It is indeed worth while to go in search of one’s youth. That is dead and may not be discovered. But all the things that boyhood missed, how excellent they are!

(1)
char-a-banc  大型遊覧バス
austerity  峻厳
whither  そしてそこへ
herring  ニシン
haddock  タラ
hare  野うさぎ
haugh (英方言)肥沃な土地
fling  (スコットランドの)ダンス

(2)
lurk  潜んでいる
trout  マス
moor  荒野
cranny  割れる
byway  脇道
reflexion  熟考
testament  証
ungenial  無愛想な
bask  (恩恵などに)浴する
in a scheme of things  物事の性質上、当然
redskin (古・軽蔑的)北米先住民
denizen  居住者

離島五日間・・・テレビのBGM

ここ何ヶ月もテレビを見ていない。衛星放送は観ようと思えば観ることができるが、今もって、観る気にならない。

島はそれでいい。都会に行けば、そうはいかない。たまに戻るだけの私にテレビをプラグオフする権限は付与されない。

家人は少しばかり(当人に言わせれば大いなる気配り)音量を落としてくれたが、アナウンサーの語りがうるさく耳障りでたまらなかった。

なぜか。

その一。
早口である。明日は雨でしょう。晴れは期待できません。こういう言い方をすれば、限られた時間では誰だって早口になる。明日は雨でしょう。これだけなら半分減速できるのに。

また、語り手が男性と女性という最悪の組み合わせも早口にさせる。一人が語る。語り終わって、酸素を取り込む。その間にもう一人が待ってましたとばかり語り始める。仕事でも異性と話をする機会があれば、双方、張り切るものだ。

一人が早口なら、どうしてももう一人も早口になる。(男)「ペチャクチャペチャクチャペチャクチャ」(女)「ぼ、そ、ぼ、そ、ぼ、そ、ぼ、そ」あり得ない。

その2.
スピーカが小さい。大型液晶画面のテレビでも、スピーカはおまけのようなもの。楽器の中で最も優秀である肉声が、お粗末なスピーカで台無しになっている。

P.ドミンゴをラジカセで聴く人はいない。せめて、20センチ口径のスピーカが求められる。アナウンサーそのものは声がいいのだ。

その3.
後ろでチャカチャカ鳴っている音楽。あれはBGMではない。BGN(ノイズ)である。初めてBGMを採用したのは、銀行の窓口ではなかったか。リラックスできるようなのんびりしたメロディーで、毒にも薬にもならぬ音楽と記憶している。

今のテレビは違う。人は「ペチャクチャ」音は「カチャカチャ」ただうるさいだけである。天気予報の番組は特にひどい。なぜBGNが必要なのか、私にはさっぱり理解できない。

その1は、NHKは腐っても鯛。と思っていたが、早口はあまり民放と変わらなくなっているようだ。NHKのラジオのニュース並みに速さを決めれば、どれほど世間が落ち着くことか。(民放とその裏の新聞社には不本意だろうが)

その2は、視聴者側で対応できる。オーディオ機器を追加すればいいからだ。

その3は、放送局の慣性・惰性ではなかろうか。もっともっと不景気になって、BGN経費削減を余儀なくさせたら結構なことだ。

早口は仕方がないとして、BGMは「抹消」しようと思えばできる話である。

だが、絶対にそうしない。

視聴者が落ち着いてしまったら、CMの商品が冷静に評価されるからだ。ガチャガチャやって、ハイな気分にさせる。
財布のヒモが緩む。

私のようなビンボー人にどれほど媚びを売っても、どれほど一杯食わせようとしても、買ってもらえない。だから、私の抹消提案は、その場で抹殺される。

勝手にしてくれ。

英随筆選・・・NEVILLE GARDUS

作家の名前もW.G.Graceの名前も新英和に載っていません。

Wikipediaには載っていました。初めの少しをコピペしておきます。

 Sir John Frederick Neville Cardus, CBE (3 April 1888 – 28 February 1975) was an English writer and critic. From an impoverished home background, and mainly self-educated, he became cricket correspondent of The Manchester Guardian in 1919, and that newspaper's chief music critic in 1927, holding the two posts simultaneously until 1940. His contributions to these two distinct fields in the years before the Second World War established his reputation as one of the foremost critics of his generation.(Wikipedia)

私はクリケットに関心がありません。文章も私には平凡に映ります。百選に選ばれた理由がよく分かりません。

クリケットといえば、カナダの映画「大いなる休暇」を私は連想します。小さな島が舞台ですが、そこの住民に私は親近感を抱きました。いい映画です。

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‘W.G.’

 Grace was certainly the most famous man of his day, if fame consists in being talked about by the largest number of perfect strangers. He was institutional; people regarded and discussed Mr Gladstone ad the National Debt. It did not matter at all whether or not you yourself were interested in cricket, you came under a social obligation to say something about him at dinner. You might have been professor of economics, with marginal utility the main thing on your mind, yet it was up to you to begin the conversation by asking how many W.G. had made public men of his period he was the most readily recognized of them all by the man in the street, no matter in what part of the country he might travel.

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単語 なし

英随筆選・・・HAROLD NICOLSON

Virgil、Horace、Dante、Racine、M.Maitreと好き勝手に人名を出しています。日本人の読者には迷惑この上ありません。イタリア人やフランス人などラテン系民族のような厚顔でないとハッキリ言ってくれればそれで済むものを。

私は、ここでもイギリス人と日本人の共通点が窺えると思っています。それではラテン系民族は日本人では何にあたるかですか、言わぬが花です。

高校英語にdiagnoseがあるとは知りませんでした。私だけが知らないのでしょうが、特別に取り上げました。

the physical type、the mental type。typeが複数扱いされています。people(複数)の代替であることは、後ろのtheirやtheyで分かります。

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A Defence of Shyness

 In the first place, you must diagnose the type of shyness from which you suffer. There are two main divisions of the disease: the physical type and the mental type. The physical type are shy about their limbs, - their arms and legs make jerky automatic movements which cause breakages and embarrassment. The mental type are shy about what they say or where they look. It is the latter who are most to be pitied. For whereas the physical sufferer can generally, by using great circumspection, avoid the worst consequences of his affliction, and can in the end sit down and sit even upon his heated hands, the mental type is not released until he finds him or herself alone again within the motor, homeward bound. It is upon the latter type that I desire to concentrate.

(2)
 Perhaps shyness is a purely Anglo-Saxon failing. I doubt whether even the tenderest of the Roman poets, whether Virgil even, was shy. Horace, as we know, was one large lump of bounce. Nor was Dante shy – disagreeable was Dante, but never shy. Ah, yes – there is Racine. He at least was so shy that he ran away and hid himself at Port Royal. But then Racine, as M.Lemaître has remarked, stands apart. Yes, I think shyness is an Anglo-Saxon quality. And as such it should be honoured as a bond between the English-speaking nations.

(1)
diagnose   診断する
limb   手、足
jerky   がたがた動く
breakage   破損
circumspection  細心の注意(新英和)
affliction   難儀

(2)
failing  短所

モモ・・・11回目の月命日

モモがいた時といなくなってからとの、一番の違いは、散歩の性格である。

いた時は、だいたい1時間半を掛けて、大きく回ったものだ。

モモが10メートルか20メートル先を歩く。私がその後に付いて行く。メリーは、道草を喰いながら、私たちが見えなくなって、慌てて追いかけてくる。これがパターンだった。

今は、散歩はしない。裏山の青空書斎までの片道200メートルほどの坂を往復するだけになってしまった。

メリーをエサ場につれていくのが目的である。着いたら、私はデッキ・チェアを広げて、本を読む。気だるくなったら、自然に居眠りとなる。

震災による地盤沈下で遠浅の浜は消えた。モモとメリーと一緒になって走った場所であったが、今はただの石ころだけで、かつての面影はない。

もうどのルートにも興味がなくなった。四季折々の変化はモモとメリーが風景に溶け込んでいたから絵になった。同じ風景を同じ季節に何年もデジカメに収めたのも、モモがいればこそであった。

老いるということは、一つひとつ失っていく過程であると、誰かが言っていた。

それを、その通り失うと思うか、身軽になったと思うかで、老後の人生が決まるとも、彼は言っていた。

私は私の微小な世界の中にあるものを、次々に失ってきた。私自身、積極的に捨てていった物も多い。失うという感覚は希薄だった。身軽さを実感したものだ。

モモは違う。失うとか身軽とかの次元でない存在である。

今も何かの拍子に、モモがひょっこり現れるのではないかと思えてならない。また、そう思わなければ、とても私は島に住んでいられない。

家の中も、家の周りも、いや島全体のどこを歩いても、モモのやさしい顔と元気に走っている姿が目に浮かぶからである。

「なんだ、こんな所にいたのか」

一目散に駆け寄ってくるモモを私は抱き寄せる。

この日がいつか必ず来る。私は疑わない。

補:
・メリーは散歩に行くとき、今も振り返り振り返りモモが一緒に来てくれることを待っています。生活に変化のないメリーにとって、時間はゼロです。どうして今日は来ないのか、不可解なのです。
「モモはもういないんだよ」
しばらく待っても来ないと知って、ようやく私の後をついてきます。不憫でなりません。モモによく叱られましたが、母親代わりだったのです。
・こうして机に向かっていても、モモはベッドの上でじっと私の背中をみつめているに違いありません。
(2004.4.7.4歳半)

英随筆選・・・J.B.PRIESTREY

無為自然観は、イギリスにもあります。

第一世界大戦は、その日が驚くような好天に恵まれ、皆何もする気にならなかったら起きなかったはずと、言っています。 それほど、イギリス人の天気に対する関心は高いのですね。

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On Doing Nothing

 I had been staying with a friend of mine, an artist and delightfully lazy fellow, at his cottage among the Yorkshire fells, some ten miles from a railway-station; and as we had been fortunate enough to encounter a sudden spell of really warm weather, day after day we had set off in the morning, taken the nearest moorland track, climbed leisurely until we had reached somewhere about two thousand feet above sea-level, and had then spent long golden afternoons lying flat on our backs – doing nothing. There is no better lounging place than a moor. It is a kind of clean bare antechamber to heaven, Beneath its apparent monotony that offers no immediate excitements, no absorbing drama of sound and colour, there is a subtle variety in its slowly changing patterns of cloud and shadow and tinted horizons, sufficient to keep up a flicker of interest in the mind all day. With its velvety patches, no bigger than a drawing-room carpet, of fine moorland grass, its surfaces invite repose. Its remoteness, its permanence, its old and sprawling indifference to man and his concerns, rest and cleanse the mind. All the noises of the world are drowned in the one monotonous cry of the curlew.

(2)
 All the evil in this world is brought about by persons who are always up and doing, but do not know when they ought to be up nor what they ought to be doing. The devil, I take it, is still the busiest creature in the universe, and I can quite imagine him denouncing laziness and becoming angry at the smallest waste of time. In his kingdom, I will wager, nobody is allowed to do nothing, not even for a single afternoon. The world, we all freely admit, is in a muddle, but I for one do not think that it is laziness that has brought it to such a pass. It is not the active virtues that it lacks but the passive ones; it is capable of anything but kindness and a little steady thought. There is still plenty of energy in the world (there never were more fussy people about), but most of it is simply misdirected. If, for example, in July 1914, when there was some capital idling weather, everybody, emperors, kings, archdukes, statesmen, generals, journalists, had been suddenly smitten with an intense desire to do nothing, just to hang about in the sunshine and consume tobacco, then we should all have been much better off than we are now.

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(1)
fell    (英方)荒野
spell   ひと続き
moorland   (おもに英)(heatherの茂る)荒れ地
antechamber    控えの間
absorbing    夢中にさせる
flicker    ゆらぎ
drawing-room    応接間
sprawl    はびこる
curlew   (鳥)ダイシャクシギ

(2)
wager   請け負う
muddle   雑然
fussy    うるさくこだわる
smite   強く打つ

入試センター試験 英語(筆記)

中国語をやったので、ついでに英語も試してみた。十年以上前で180点かそこらだったと思う。数年続けてみたら、毎年1問のペースで×が増える。

今なら、160点代と覚悟をしてやってみたら、間違ったのは2問。196点の成績であった。

第一問 問14。 added up the billが正解で、私はadded at the billを選んだ。
次の問15。 costが正解で、私はfare。

問14の間違いは、add upを最初から知らなかったから、仕方がない。

問15は、言われて見ればその通りというもので、半分はケアレスミスである。

それぞれ減点2で、結果が前述の通り196点となった。

本来なら160点位に落ちていいはずなのに、逆に上がったのは、何故か。

理由は簡単。

英詩百選と英随筆選で勘が戻ったのである。特に英随筆選は自分でタイプを打っているから、いやでも英語に馴染んでくる。

もともと入試センター試験問題は、中身が空虚なうえ、やさしく出来ている。知性が未発達な試験官が作る問題だから、新高校2年生でも、満点を取る生徒がゾロゾロでてきても不思議でない。

私の間違いが、どれもカネに関する問題と気がついて、苦笑したが、試験問題がイディオム満載だったら、私は相当減点されるだろう。

それにしても、大学入試の名にしては、レベルが低すぎる。これでは、受験生はみんな190点以上を取って、実力の差を確認できないのではないか。

制限時間は6時間、辞書の持ち込みは可、「選べ」でなく、「書け」。択一問題は一切無し。

試験かくあるべし。私のかねてからの考えである。

補:
そんな呑気な試験は、受験生にも採点者にも過酷過ぎるですって。それなら、いっそのこと、中止したらいいでしょう。

英随筆選・・・A.A.MILNE

これは面白い。映画で観るフランスの田舎を連想しました。いずこも同じと笑っているうちに、自分の住んでいる田舎もこれとまったく同じであることに気が付きました。

Batesさん、squireさん、ここには出ていませんが、Traversさん、Emburyさん、Claytonさん、vicarさん、Ruddさん、一人ひとりを島の誰かさん(ほとんどの人は他界しました)に当てることができます。

erも傑作。

本日は~え~ご多忙の所を~え~遠路はるばる~え~お集まりいただきまして~え~わたし~え~僭越ながら~え~・・・

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A Village Celebration

 Our village is a little slow at getting on to things; ‘leaping’ is not the exact word for our movements at any time, either of brain or body. It is not surprising, therefore, that even Bates failed to realize for a moment that his son’s name was to have precedence on a water fountain. But when once he realized it, he refused to be pacified by the cobbler’s explanation that he had only said ‘Ah!’ Let those who had anything to say, he observed, speak out openly, and then we should know where we were. Embury’s answer, that not be far wrong, was drowned in the ecclesiastical applause which greeted the rising of the Squire.

 The Squire said that he – er – hadn’t – er – intended – er – to say anything. But he thought – er – if he might – er – intervene – to – er – say something on the matter of – er – a matter which – er – well, they all knew what it was – in short – er – money. Because until they knew how they – er – stood, it was obvious that – it was obvious – well, it was a question of how they stood. Whereupon he sat down.

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leap   素早く動く
precedence   優先
pacify  なだめる
cobbler  靴修繕屋
ecclesiastical  教会の
squire   田舎の紳士

離島五日間・・・高齢者講習

70歳以上は、免許更新の前に絶対に受けなければいけないとの葉書が来た。忘れそうなので、早めに受けた。

40年ぶりに教習所のコースを走った。教官が助手席に付いて、次は右、次は左と丁寧に指示してくれるから、進路に間違いはない。クランクもS字も、島の道路に比べれば、大通りと言っていい。

合否は更新に無関係だと言われ、日頃のペースで走らせた。クセや悪い点をこの機会に見てもらいたいためである。

スイスイ走らせ、終りの頃に、急にクルマが止まった。教官がブレーキを掛けたのだ。「一時停止です!」免許試験だったら一発で不可になる。

次が反応機能検査。
ケバケバしさこそないもののゲーム・センターにあるのとそっくり同じ画面と椅子。

画面に道路が出てくる。中央の黒丸が青でアクセルを踏む、黄色でアクセルから離す、赤でブレーキを踏む。黄と赤の動作の後はアクセルを踏む。

この動作の正確さと速さがテストされるわけだが、物の5秒と経たないうちに、信号が変わる。少し間が開いたと油断すると、立て続けに信号が変わる。

青から黄、黄から赤、赤から青。これが日本の道路に設置されている信号のはずだが、まったく無視されている。突然赤から黄になる、青から赤になる。黄から青になる。

こちらは、青の後は黄だからそろそろアクセルから足を離そうと用意していると、赤になり、慌ててブレーキを踏む。

5分位あったのだろうか。時間の感覚がない。

終りかと思ったら、今度はハンドル操作が加わった。

この道路がまた驚きである。映画でよく見るイスラムの町でもこれほど道路に物を出していない、それほど障害物だらけである。

教習所のクランクの連続と思えばいい。それが、走っても走っても続くのである。

いい加減にしてくれと言いたくなってから、かなりの時間が過ぎてようやく終わった。

シミュレーションはこれでいいと分かっていても、ちょっと行き過ぎである。

それから、視力の検査。

慣れっこになっているので、いつもの通り、構えて受けたところ、丸の欠けが見えない。

「分かりません」
「分かりません」

0.6まで大きくなって、ようやく分かった。0.7が最低の視力である。このままでは更新できない。

「止まれ」の標識を気にしたこともないなければ信号機もない島、島内限定で免許更新ができないものか。

県道を走るクルマは連絡船の発着前後を除けば、ゼロに等しい。夜間にクルマは走らない(行く所がない)。

動体視力が0.2でも児童の行列に突っ込むことはない(児童がいない)。

0.6でも0.5でも、人や猫がいれば認識できる。認識すれば赤でなくてもブレーキをかける(前述の通り信号がないが仮にあっても)。

高齢者の免許更新基準は全国一律である必要がないのではないか。

更新が不可になったら、所管官庁と交渉する。小さな島でもクルマがなければ、山奥の私は生きていけないのだ。

英随筆選・・・JAMES AGATE

この随筆選の中で最も長い随筆です。

likeが延々と述べられて、その後にdislikeが続きます。

mislikeから始まり、dislike、hate、abhore、最後にリザーブしていたloathe。グラデーションがあります。

斜体のoncle à successionはフランス語でしょう。oncleは英語のuncle、sucessionは英語も同じ。遺産相続の資格のあるおじさんということだと思います。

その直ぐ後に、pliant inheritorがあることから、このおじさん、遺産相続で分前をもっとよこせとゴタゴタ悶着を起こす人と想像できます。deでなくàからもそうではないかと思われます。

正しい解釈でなくても、こうして分からない箇所を想像で埋めるのは楽しい作業です。

whist。英和に概略がありますが、このトランプ・ゲームを知らない私には、お手上げです。ホイストを趣味にしている読者は、なるほどと感心するでしょうか、それともAgateを偏屈者と見るでしょうか。

高校英語にない単語が連発しています。本気になって読むには辛すぎます。

私は、一つひとつの単語もジグソーパズルのピースと思っていますから、辞書を引くのが楽しみとなっています。

うまく嵌らない所が多くても、受験英語ではないのです、気にしません。

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Likes and Dislikes

 I am a good lover, but an even better hater. I have an unparalleled zest for the most moderate of dislikes. I mislike – to put it no more strongly – a great many women and nearly all men, with a special aversion for the type of man adored by women, mincing-mouthed, luxuriant-polled genre coiffeur. I mislike the purist who claims that one language should be enough for any writer and secretly begrudges Caesar his dying Latinism; and I mislike all those honest folk who insist upon taking you at the foot of the letter instead of at the top, or at least half-way down. I dislike all aldermen, mayors, beadles, janitors, pew-openers, the whole bag of officialdom; all sham repentances and most sincere ones; all those to whom the night brings counsel, the oncle a succession, and the pliant inheritor; the little ninny who insists that the Moonlight Sonata is by Mendelssohn. I have a contempt for the Christian who lools down upon the Jew, the white man who animadverts against the black. I have a horror of the Freemason in his cups; of the players of solo-whist; of the actor with pretensions towards edification claiming to raddle his face that ultimately fewer women may raddle theirs, who ‘ask a blessing’ on his Hamlet. I hate the commonplaces of the train, the street, and the market. I abhor the belly of the successful man and the swelling paunch of the Justice. But my particular loathing is reserved for the unkowledgeable fool who says in his heart: ‘These things are not within my experience; therefore they cannot be true.’

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mislike  (古)dislike、displease
aversion  反感
mincing  きざな
mouth  気取って話す
luxuriant   (髪の毛が)豊かな
genre 類型
coiffeur  理髪師
begrudge ねたむ
alderman 参事会員
beadle 教区の吏官
janitor 門番
pew-opener (教会の)座席案内人(新英和)
officialdom 公務員
sham みせかけの
repentance 悔悟
oncle à succession ?
pliant  従順な
inheritor 相続人
ninny 間抜け
animadvert 非難する
Freemason フリーメイソンの会員
Solo-whist  (トランプ)一人で三人を相手にするホイッスト
pretension 要求
edification 啓発
raddle 赤く塗る
abhor ひどく嫌う
paunch 腹
loathe ひどく嫌う

英随筆選・・・ARTHER CLUTTON-BROCK

散文の性格が分かりやすく述べられています。

Clutton-Brockは、justice(条理)とcivilization(文明)と述べています。

私は理性(reason)と教養(culture)を追加したいと考えています。

読む側の立場としてですが。

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The Defects of English Prose

(1)
 Prose of its very nature is longer than verse, and the virtues peculiar to it manifest themselves gradually. If the cardinal virtue of poetry is love, the cardinal virtue of prose is justice; and, whereas love make you act and speak on the spur of the moment, justice needs inquiry, patience, and a control even of the noblest passions. But English Prose, as Mr Pearsall Smith presents it, is at the mercy of its passions and just only by accident. By justice here I do not mean justice only to particular people or ideas, but a habit of justice in all the processes of thought, a style tranquillized and a form moulded by that habit. The master of prose is not cold, but he will not let any word or image inflame him with a heat irrelevant to his purpose. Unhasting, unresting, he pursues it, subduing all the riches of his mind to it, rejecting all beauties that are not germane to it; making his own beauty out of the very accomplishment of it, out of the whole work and its proportions, so that you must read to the end before you know that it is beautiful. But he has his reward, fort he is trusted and convinces, as those who are at the mercy of their own eloquence do not; and he gives a pleasure all thee greater for being hardly noticed, In the best prose, whether narrative or argument, we are so led on as we read, that we don not stop to applaud the writer: nor do we stop question him. But we stop, whether to applaud or to question, at a sentence such as this, which Mr Pearsall Smith gives us from Carlyle:
   Brave Sea caption, Norse Sea-king Columbus, my hero, royalist Sea-king of all! It is no friendly environment this of thine, in the waste deep waters: round thee mutinous discouraged souls, behind thee disgrace and ruin, before thee the unpenetrated veil of Night.
  If a writer continues long in this style, he wearies us like a man talking at the top of his voice; and if he does continue, the passage distracts us with its incongruity, like a sudden shouting. Carlyle here, and often, yields to a habit of excitement as if he had a right to be indulged I it. He is like a man who will make speeches at the dinner-table to show the force of his convictions. These are the manners of egotism, and is the worst of all faults in prose.

(2)
  For prose is the achievement of civilization, of people who have learned to discuss without blows or invective, who know that truth is hard to find and worth finding, who do not begin by accruing an opponent of wickedness, but elicit reason and patience by displaying them. You cannot say in poetry what the best prose says, or accomplish what the best prose accomplishes. Civilization may not surpass a primitive society in heights of rapture or heroism, but it is, if it be civilization, better for everyday life, kinder, more rational, more sustained in effort; and this kind and reason and sustained effort are expressed and encouraged in the masterpieces of prose. The French understood this long ago, because they prize civilization and enjoy it. Pascal, writing his Provincial Letters in 1656 upon a subject obscured by medieval subtleties and distorted by party passions, is already just, polite, and lucid; he does not even affect the magnificent disdain of Gibbon, but is a civilized man talking to other civilized men, and therefore all the more deadly in debate. But it is fallacies that he would kill, not those who maintain them. He knows that the art of controversy is, not to begin with invective, but to state your case in such a way that those who kike invective will supply it themselves against your adversary.

(3)
 Hazlitt is more eloquent than scrupulous; he never seems to be alone with you as you read him, but rather speaking to catch votes, even though it be for the best writers or painters; and Macaulay, ignored by Mr Pearsall Smith, is worse. His prose has all the defects of a nation political rather than social, he is incapable of meditation or even of converse, but lectures always; while Burke writes of the Sublime and Beautiful like an orator.

(4)
 So, but for a few shy, never enough honoured writers, there is one whole province of the English mind left out of our prose, for we are capable of meditation and intimate talk; we are more civilized than our manners or our style. Mr W. H. Hudson, for instance, seems always to be meditating or remembering; writing for him is a means of saying what he would never say aloud. He makes his dearest friend of the reader, and confides in him with speech that has the beauty of a wild animal’s eyes. And Mark Rutherford, with a different kind of matter but the same shyness and melancholy faith, arouses a like confidence in us. These writers seldom say much in a single sentence or even paragraph, but they have a cumulative power that cannot be proved by quotation, a wandering music that blows where it lists, because they never force their inspiration or tell you what they have not got to say. Their peculiar quality is justice; they describe without a laboured eagerness or momentum, and without vivid word, just what they have seen and left. They do not exploit their loves or their hatreds, and it is wonderful that you should remember so well what is said with so little emphasis or apparent skill of words. Yet it is remembered, like a thought that does not need saying; it sinks deep into the mind, beyond language, like an actual experience, and, if you read their books with care, you are changed as if by an event.

(5)
 But such writers are likely to remain few, for they are little encouraged. We are not yet a public of readers civilized enough to demand the highest virtues of prose; we prefer ‘clamorous sublimities’ and phrases that ask to be noticed; we must be urged through a book by the crack of the writer’s whip. Yet still one dreams of a prose that has never yet been written in English, though the language is made for it and there are minds not incapable of it, a prose dealing with the greatest things quietly and justly as men deal with them in their secret meditations, seeming perhaps to wander, but always advancing in an unbroken sequence of thought, with a controlled ardour of discovery and the natural beauties of a religious mind. Johnson might have written it, if he had had a stronger sense of beauty and more faith in the flights of reason; Newman if he had been a greater master of words and less afraid of his own questioning; Henry James if he had exercised his subtlety on larger things. But the best of our prose writers, living or dead, are not civilized enough, or too much in love with something else, or not enough in love with anything, to write the prose we dream of. The English Plato is still to come.

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(1)
tranquilize  鎮静させる
inflame   興奮させる
unresting   休まない
subdue  抑制する
germane  密接な関係のある
mutinous  反抗的な
distract そらす
incongruity 不調和

(2)
invective 毒舌
elicit 引き出す
rapture 歓喜
disdain 軽蔑

(3)
scrupulous  実直な

(4)
cumulative  漸増的な

(5)
clamorous 騒々しい
sublimity  荘厳なもの
ardour  熱意
subtlety  明敏

2014年度 入試センター試験 中国語

何年か振りに中国語をネットから開いてみた。

試験にでている漢字自体は難しいものは一つもない。本家中国の小学校3年以下ではないか。

心配していた通り、声調が崩れていた。声調とは、4種の抑揚であり、二つの漢字で一つの言葉になれば、4×4の16通りになる。厳しい。

間違えれば、当然減点である。

それはそれ。注目すべき問題に遭遇した。多分、英語や他の外国語にもないような問題であると思う。

甲:這是我剛學會做的菜。你嘗嘗吧。
乙:味道有點兒不對呀。
甲:我嘗嘗,‧‧‧哎呀,我可能把糖當成鹽了。

「教わったばかりの料理ですの、味見してみて」
「味が変ですよ」
「どれどれ、あら、塩と砂糖を間違えたんだわ」

問題は、「どれどれ、」の後に下のいずれが続くかの選択である。

1.これは、私がいつも作っている料理よ
2.あら、塩と砂糖を間違えたんだわ
3.これは、有名なレストランで買ってきたものよ
4.そうなの、鮮魚の料理なのよ

正しい答えが2であることは受験生の誰でも分かる。易しい問題だ。

しかし問題は易しくても、問題が問題である。

この会話は日本人と中国人の間を想定している。作った人と食べる人の双方が日本人であることはない。映画なら中国人同士の会話もありそうだが、普通に考えれば、日本人と中国人の間の会話である。

中国人が作る人とする。日本人に食べて貰うのに、自分で味見しないだろうか。中華鍋に調味料を加えて、味加減を見ない中国人がいるだろうか。

日本人が作る人でも同じである。お吸い物を作り、中国人にごちそうする。一度も味見しないで出す日本人がいるだろうか。

あり得ない。

出題者は、あり得ないシチュエーションを設定しているのだ。

人は、試験問題だから構わないと言うかもしれない。しかし、これは間違った考えである。

日常生活の上に立つからこそ、人対人の会話が成り立つ。

私は、出題者の感覚を疑う。また、それにチェックを加えることなく試験場まで通した文科省の役人の感覚を疑う。

この感覚とは、現実の生活を想定しないで物事をすすめていく感覚のことである。

彼ら、彼女らは、机上の合理性しか見ていないのだ。

たまたま、中国語の入試センター試験で「発覚」されただけで、本当はあちこちでこのような現実無視がまかり通っているのではないだろうか。

いや、きっとそうに違いない。

補:
1.中国語 第2問、問3.
2.繁体字を使ってみました。つい最近入手した中文ワープロソフトを試してみたかったからです。出題はピンイン表記となっています。

英随筆選・・・番外編 森でうたた寝

アンソロジーは選者の好み次第と言う人がいますが、自費出版でない限り、選者の個人的嗜好はほとんどないのではなでしょうか。

英詩選もそうですが、選者は前言、前書きで自分の考えで選んだと断っています。私は、断るまでもないと思います。選ばれた作品は、誰もがその価値を認めているものばかりです。選者は意識して自分の好みを抑えるからでしょう。

英随筆選にはイギリスの田園を賛美する作品が圧倒的に多い。それも初夏から夏の季節の田園です。

田園、それは都会人である随筆家の目から見れば田舎であります。

たまに行く田舎だから随筆にできるのであって、そこに住んでしまったら、多分田舎の慣習や人間関係に嫌気がさして、そそくさとロンドンに戻ることになると思います。

これを最初から分かっているのが、ラムで、彼は都会大好き人間です。田舎大嫌い人間であります。(ロンドンのどこがいいのか、エリア随筆を読みましたが、私は理解できません)

また、私の知っている範囲ですが四季を平等に扱ったのは、ギッシング(ヘンリ・ライクロフトの私記)だけで、後の散文作家は、夏オンリーと言ってもいいです。

冬を主題にしないのは、かのイギリスの冬がイギリス人にとって、たいへん厳しいからでしょう。

赤道直下の国の作家が太陽を賛美しないことと同じと思います。

東北に居を構えている私も、冬は苦手です。老いていく程に、冬が辛くなってきました。

やはり、初夏から夏が一番、灯油ストーブを使わないで済む6月から泳げる水温が保たれている9月末までの季節です。

その我が夏の風物詩の一つが、前のブログで紹介しましたように、裏山の書斎です。今、デッキ・チェアに蚊帳が加わりました。

蚊取り線香では、蚊の大群に敵わないからです。

この蚊帳、あっという間に、自動的に開くのですが、収納法は知恵の輪クラスの難しさ。ネットの口コミでも、皆さん苦労しているようです。

今日、初めて使ったのですが、とても快適でした。

Under the Greenwood Treeとはイギリスの自然のことで、私がいる場所の自然はジャングルです。

わずかなスペースで英随筆選の下読みをします。しばらくすると眠気が襲ってきます。昼寝が一番という随筆を思い出しながら、ウトウトします。

目が覚めれば、昼過ぎ。「メリー、帰るぞ」

今回の英随筆選に、これに似たような話はありません。ちょっと自慢したい気分になっています。

補:
Leigh HuntのA Few Thoughts on Sleep (3)にあります。イギリスのfieldには、蟻も、ムカデも、蚊も、ミノムシも、ハエも、ハチも、アブも、ブヨも、ヘビもいないのですかね。私はやはりいると思います。Huntは実際にはfieldで寝なかった、想像で書いたのではないかと私は疑っています。もっとも、それで随筆の価値が下がるということではありませんが。

(3)
 The most complete and healthy sleep that can be taken in the day is in summer-time, out in a field. There is, perhaps, no solitary sensation so exquisite as that of slumbering on the grass or hay, shaded from the hot sun by a tree, with the consciousness of a fresh but light air running through the wide atmosphere, and the sky stretching far overhead upon all sides. Earth, and heaven, and placid humanity seem to have the creation to themselves. There is nothing between the slumberer and the naked and glad innocence of nature.(再掲)

(葦の髄から天井覗く、私、蚊帳の中から青空仰ぐ)
20140602蚊帳の中から

(問余何意棲碧山)
20140602蚊帳

英随筆選・・・EDWARD THOMAS

Shelleyの詩がでました。受験参考書に必ず載っています。
The trumpet of a prophecy! O,Wind!
If Winter comes, can Spring be far behind?

風と森を、詩にすればShelley、散文にすれば私ことThomasということでしょうか。

descenda、 新英和にも出ていません。ラテン語descendusのようで、Weblioにはこうありました。
1.Which is to be committed to memory(learn by heart)

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Broken Memories

 The dark earth itself was pleasant to handle – earth one might wish to be buried in – and had the healthy and special quality of wild earth: upon it you could rest deliciously. (Compare the artificial soil of a London common with it!) Out of this rose up trees that preserved their wild attitudes, The age-fallen or tempest-uprooted oak tree lay where it dropped, or hung balanced in the boughs of others, Tenderest bramble spray or feeler of honeysuckle bridged those gaps in the underwood that served as paths. And the winds were husbandmen, reapers and sowers thereof. Though, indeed, the trees were ordered with an incongruous juxtaposition of birch and oak and elm, it seemed to us a fragment of the primeval forest left by a possible good fortune at the city verge. But it was more than this. With its lofty roof and the mysterious flashes of light in the foliaged clerestory, with its shapely boles in cluster and colonnade, and the glimpses of bright white sky that came and went among the leaves, the forest had a real likeness to a temple. Shelley’s ‘Ode to the West Wind’ and passages of Adonias were the ediscenda of our devotions.

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bramble  キイチゴ
honeysuckle  スイカズラ
husbandman  (古)農夫
reaper   刈り取る人
sower  種をまく人
incongruous  ちぐはぐな
juxtaposition  並置
birch  カバ
elm   ニレ
primeval  太古の
lofty  そびえ立つ
foliaged  葉のある
clerestory  (教会などの)明かり層
bole    幹
colonnade    列柱
devotion  帰依
ediscenda  <ediscendus

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