老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

漢詩百選・・・駒田信二先生に感謝

私は漢詩を少し真面目に接するようになったのは、40代である。NHKのラジオ講座を時々聴いた。漢詩の参考書も買った。そして、ピークは中国北京に駐在した時期であった。掛け軸が安い。漢詩の本が安い。カセットが安い。

天安門事件で帰国した後は、職場を移され、中国語自体とは絶縁状態、漢詩は気が向いた時だけの細々とした付き合いになった。

復活したのは、島に移住てからである。陶淵明気取りで、飛び地の菜園に鍬を担いで行ったものだ。その後、他に興味が移って、かれこれ15年のブランクとなった。

今年の2月、思う所があって、漢詩を再び読むことにした。

特にだれそれの作品である必要はない。漢詩であれば、何でもよかった。

出会ったのがこの漢詩百選。

期待は外れなかった。

最後に駒田信二先生に続く人にお願いする。

駒田百選は、

旅情
望郷
戦乱
別離
情愛

の5章で構成されている。

次の百選は、

向学
仕官
情欲
病苦
幽界

にしてもらいたい。


楽府、絶句、律詩、その他、形式は問わない。小説や戯曲の中の詩歌でもいい。詩吟に向かないというだけで無視されたままでいる傑作が沢山眠っているはずだ。

高校漢文で見慣れた作品はいらない。白日や明月は食傷気味である。新鮮な作品を採り上げてもらいたい。参考文献がなくて心細いと思うような中国文学者は、駒田先生の後継者の資格はない。

漢詩百選は今日で終りにする。

とてもいい刺激になった。私の好奇心は蘇った。漢詩は続ける。

これからどうするかと問われれば、

インターネットを開く。
良さそうな漢詩をダウンロードする。
コピーする。
辞書を引き引き読んでいく。
それでも分からない時には、またネットを開く。
(日本、大陸、台湾、どれかに解説はあるものだ)
それでも分からない時には生き字引氏を頼る。
こうして(勝手読みで)理解し、森の書斎で発声する。

経験則によれば、翌日になると、その詩が思い出せないのは確かだ。悲しいことだが仕方のない事と諦める。漢詩によって半日でも小一時間でも、楽しく時を過ごせればいいではないか。

駒田先生、ありがとうございました。

補:
駒田信二教授に直接教えを受けていません。「先生」と呼びたくなる雰囲気なのですね。

漢詩百選・・・晁衡はなぜ好かれたか

事務処理能力を買われたからである。

酒席でドンドン持って来い、といい気になって酔えば、翌日は役所に行っても仕事にならない。二日酔いが収まりかけたと思ったら、もう今夜の酒宴である。

それに、権謀術数に神経を使わなければ、いつ失脚するかわからない。

国家の仕事など構っていられない。

中国の支配階級は昔も今も変わらない。

晁衡こと阿倍仲麻呂は、泥酔するほど酒を呑まなかった。体質か意志かはわからない。

朝は遅刻せず役所に登る。自分の事務をテキパキやるばかりか、二日酔いの官僚の分まで処理してやる。

中国人の官僚の間で、晁衡は貴重な存在になっていた。晁衡に任せれば、自分たちは酔って詩を作っていればいいのだ。

おかげで、晁衡は作詩の時間を持てなかった。そういう情熱がなかったのかもしれないが、彼の和歌をみれば、唐詩300選に1首や2首選ばれる才能は十分備わっていたのは明白である。

ついでに繰り返すと、友人に日本が懐かしいと打ち明けたと言う記録について。

友人:「日本が懐かしい」と言っていたよ。と友人に話す。
→「日本に帰りたい」と言っていたよ。以下同文。
→「中国はうんざりだ」と言っていたよ。
→「皇帝は無能だ」と言っていたよ。
→「皇帝さん、皇帝さん、晁衡は畏れ多くも皇帝さんを無能と陰で言っていますよ」

噂が同文なら救いもあるが、噂は尾ひれがつく。善意である場合もあれば悪意である場合もある。

讒言が日常茶飯事の宮廷のこと、このプロセスに10日はかからない。

そうして失脚していった、あるいは死罪になった官僚を目の当たりにしていた晁衡が、友人に噂の種を与えるはずがないのである。

最後まで官僚として働いた。当然派閥争いの中で、誘いもあったはずだが、日本人を理由に中立を保った。賢いのである。

阿倍仲麻呂は日本人の誇りである。

補の1.
中国に晁衡ありき。それでは日本に「あり」と誇れる中国人は誰でしょう。

補の2.
後世の学者や評論家は、一つか二つの記録の発見で、それが真実を語っていると思ってしまう習性があります。自分が発見したのであれば、なおのことです。

マスコミはといえば、頭の中で整理する暇もなく、気持ちもなく、後先考えず、飛びつきます。みんなが一緒に飛びつけば、それが定説になります。

後で間違いと分かっても、屁の河童。みんな一緒に謝ればいいじゃありませんか。

コワイですね、コワイですね、コワイですね。

便所とトイレ

田舎の何が優れているかといえば、どこでも小用がたせることである。

都会では絶対に不可能である。軽犯罪法か何かに引っ掛かるはずだし、人に見られても気にしないほど私は枯れていない。

どこぞにトイレがないか、公衆電話ボックスを探すようなもので、一苦労する。

苦労が報われることは稀で、行き着く先はコンビニである。ただ使わせて貰うわけにはいかないので、何かを買う。今どき100円で買える物はない。有料トイレのようなものだ。きちんとお礼を言うことも必要である。

それに比べて田舎はどうだ。

歩いても、自転車でも、車でも、行く先はもちろん、途中のどこででも、自然からの要請があれば、即刻応じることができる。

空青く、地は緑。草の香りは天然消臭剤である。

では、大の方はどうか。

これは都会に軍配が上がる。トイレにウォッシュレットなるものが付いている。衛生的に良い上に快感である。一度経験したら、紙辞書ではないが、紙に未練も執着もなくなる。

田舎の便所は、自然落下式が今も主流である。下水施設が備わっていないから仕方がない。

浄化槽を自費で付けて、水洗トイレに替える移住者もいるが、百万という聞いただけで気絶する単位である。

水洗トイレにしなければウォッシュレットは取り付けられない。私の固定観念だった。

今回、排尿障害の余波だと思うが、排便にも異常が生じて、とても紙辞書には耐えられなくなった。

百万は無理としても10万までの予算で据え付けられる簡便なウォッシュレットをネットで探すことにした。

製品は幾ら幾ら、工事費は幾ら幾ら、予算オーバーである。

半ば諦めたときに、発想の転換を地で行くようなウォッシュレットが画面に現われた。

簡便も簡便、電気は不要、故障は起こりようがない。

ありがたいことに、幾らだったか忘れる程に安かった。

小は田舎の勝ち、大は引き分け。よって、出口の勝負は田舎の勝ち。

20140427ウォッシュレット

漢詩百選・・・なぜ星が少ないか

私が知らないだけかもしれないが、太陽や月に比べると星という字は圧倒的に少ない。

私は考えた。

詩人のほとんどは高級官僚である。今も変わらないと思うが、中国の高級官僚は酒宴が仕事である。午後5時の男というのが日本であったが、それと似ている。

燭台が並んでいる酒宴から小用のため席を外す。ふと夜空を眺める。何も見えない。それもそのはず、明るい場所から急に暗い場所に移っては、眼がなじまないのだ。なじむ頃には、用は済んでいる。そそくさと宴席に戻る。

では、浪人はどうか。

星明かりでは、手元が暗くて酒は注げない。月下独酌があっても星下独酌はない。

星が詩興の対象にならない理由である。

百人一首・・・白妙の衣は山桜

春過ぎて 夏きたるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山

持統天皇

2014年2月5日掲載「勝手読みの百人一首(2)」で採り上げた。

香具山の山桜を擬人化していることの証明写真である。

初夏になれば、常緑樹も落葉樹も一斉に葉を広げる。遠くから衣が見えるには、その葉の上に干さなければならない。誰が、木によじ登って衣を干すか。

権威や通説は鵜呑みにせず、自分の頭で先ず考えることだ。

(写真は4月25日の島)
20140425桜

泥酔・・・日本漢和と中国詞典

漢詩百選にある李白の泥を再び取り上げる。

大修館漢語新辞典は泥酔の泥を生き物と説明している。

現代漢語詞典を開いてみた。生き物の説明はなかった。

日本人の私は大修館で李白の詩を正しく解釈できる。中国人は何に依って正しく解釈できるのか。

漢語大字典はあるが10巻を超える大型字典である。日本で言えば諸橋大漢和のようなもの。普通の家庭に置いてあるとは思えないし、普通の学生や社会人が手軽に開くとも思えない。

現代漢語詞典だから昔の字意は不要だというのなら問題である。大陸中国のこの辞典は国策辞書で、これに対抗できるだけの辞書は民間で出版されていないからである。

日本は手の平に載せられる漢和がいくつもある。漢詩には十分である。それと最後には諸橋大漢和が控えている。

中国語の古文を中国では古漢語というが、古漢語の理解には、日本の方が格段に恵まれていると思う。

これは大陸中国についてであり、台湾中国では事情が違っているかもしれない。学問としての古漢語の水準は大陸より高いのではないか。蒋介石は文士であった。

こういう事は私の漢詩百選に無関係で、余計な心配である。分かっていても、気になって仕方がない。

漢詩百選・・・帰ってきたカセット

東方書店の中国詩詞選読は何回聞いても飽きない。

朗読は40歳前後のアナウンサー。声に張りがあり、また人生の哀歓の最中にいる年代のためか、情緒豊かに詠っている。

それに加えて、6首が歌曲になっている。これがまたたまらない。

カセット音源をパソコンに取り込む実績はあるが、今回どうもうまくいかない。

仕方なく、カセット・プレーヤをミニ・スピーカに接続して毎日聴いている。処分から外しておいた古漢語趣読のカセットもじっくり聴きたい。

それで、将来性がゼロを承知で、カセット・プレーヤを買った。いつまで使っていてもいいよと言われていても、借り物は長くて1週間だろう。すでに返却済みである。

埼玉の家には、英詩の朗読カセットがまだあるはずだ。それとも再会できる。

私のピーク(私なりのである)はアナログ全盛時代とシンクロしている。カセット・テープはアナログの代表格。

往時を偲ぶ気はさらさらないが、懐かしく感じたとは確かだ。

杜甫の望岳、陸游の釵頭鳳。

歌詞がいい、曲がいい、歌手がいい。

桜と漢詩。私は幸せを感じる。

補:
幸せなどと歯の浮くような言葉は若者は口に出せません。なんでもありの老人の特権です。

20140425桜a

現代漢語詞典 第5版

私が最初に手に入れたのは、外語時代と記憶している。灰色の厚手の表紙が印象的であった。ソ連の出版物と同様、重苦しい感じがしたものだ。

長く使っていたが、愛知大学の中日大辞典の出現で、お蔵入りとなった。ゴミに出してしまったのかもしれない。

半世紀を経た今、再び私はこれを手元に置くことになった。第5版である。

厚手の表紙は変っていないが、色が中国の真紅、背表紙は金文字。見ているだけで中国語に食欲が湧いてくる。

早速、第5版の説明を読む。

第4版から2千余語を割愛し、6千余語を追加したとあった。

追加はまだいい。しかし、割愛は良くない。

割愛の理由は明確に記されていないが、この増減が「目前」の状況に沿ったものであると述べている。中国語の「目前」は日本語の「目前」と同じ意味で、今の時代に則した語を取り入れ、今の時代に使うことがなくなった語を取り去ったということである。

私はこれを残念に思う。

先ず、削減。

辞書を引くのは、その字が読めない、意味が分らない、それが困るからである。その文章がいつの時代のものであるかは関係ない。

日本語の例をあげれば、「人力車」

今日、日本のどこにも人力車は走っていない。1億3千万の日本人の何人が一年間に[人力車]を話す・書くか。

だからと言って、これを辞書から外すようなら、その辞書編纂者にその資格はない。

明治から大正の文学作品には出てくる。人力車を知らない世代がこの言葉に突き当たったとき、頼るのは辞書である。

その辞書で分らなければ、百科事典を調べることになるだろう。読み手は人力車の意味が分かればいいのであって、全体像までは知る必要はないはずである。

知らない言葉、それのほとんどは新聞に載っていない、ニュースに流れていない言葉である。日常から消えた言葉だからと言って捨て去るのは間違いである。

では追加はどうか。

例えば、「スイカ」

私はスイカを初めて耳にした時、「誰何」からイメージした。都会を去った1995年10月にはまだこの言葉はなかった。島には電車が走っていない。スイカとは無縁である。

それでは、これが分らなくて、辞書を開くか。

開くも開かないもない、そもそもスイカなる言葉がでてくる文章を私は読まない。

辞書にスイカがなくても一向に困らない。

私はそれでいいかもしれないが、他の人にとって困るのではないか。

否。

スイカを持っている人はスイカの意味が分かっている人である。辞書を引くまでもない。

新語や造語はすべてこの類と見ていい。

70過ぎの爺さん・婆さんは新語や造語に関心をもたない。辞書を引いてまでも、是非意味を知りたいという爺さん・婆さんは、私の周辺に一人もいない。読んでも読み流す、聞いても聞き流す。むろん私もその仲間である。

新語・造語は、辞書に載せる必要はない。それでは、永遠に不必要かと言えば、そうではない。

スイカが消えた世の中になったらどうなるか。現代作家がスイカを文章に入れる、それを読む。スイカが分からない。辞書にもない。

これは良くない。

1世代(30年)までは辞書に載せない。その後の改訂版に順次載せていく。こうあるべきである。

現代漢語詞典の第6版には、中国国内で喧々諤々の論争が起きたようだ。

新語の大幅採用が争点である。

面白いので、コピペした。

~~~~~

2012年12月 7年ぶり改訂『現代漢語詞典』に学者らが異議

■語彙は6万9000余りに増加

第6版の目玉の1つが、親文字や語彙の大幅な追加収録。第5版に比べ新たに600余りの親文字と3000余りの語彙が加えられ、親文字は計1万3000余りに、語彙は計6万9000余りにそれぞれ増加した。
(中略)

追加語彙は、「闪婚」(電撃結婚)、「北漂」(北京に上京し奮闘する若者のこと)、「草根」(草の根)、「蚁族」(蟻族、大卒以上の学歴を持つワーキングプアの若者たち)、「月光族」 (給料を1カ月で使い果たしてしまう若者たち)などインターネットの流行語をはじめ、「刺身」、「定食」、「寿司」、「天妇罗」(てんぷら)、「榻榻米」(たたみ)、「通勤」、「手账」(手帳)、「数独」、「新人类」(新人類)、「宅急送」(宅配便)
といった日本からの外来語「日語外来詞」も多数収録。
これだけとってみても改訂作業の7年間に、ネットの普及で若者言葉が常用語化したこと、
また日中間の往来などの拡大で、日本食やビジネスに関する言葉がさらに広まったことがうかがえる。
(中略) 

○江楓氏(翻訳家)
「西洋文字に始まる語句」は、当初はわずか39語だったのが、第5版で4.5倍の182語、第6版では239語に増えた。しかし実際に『現代漢語詞典』で英略語を調べる人がいるのだろうか?

有識者たちの意見書に対し、中国辞書学会会長で『現代漢語詞典』第6版改訂の主管者である江藍生氏(女性)は、こう否定する。
(中略)
「いかなる文化も、表現力を豊かにし生き生きとした生命力を維持したいなら、ほかの地域や民族の文化を栄養にして吸収しなければ。言葉も例外ではありません」

~~~~~

翻訳家の江さんは辞書の意義を正しく理解している。辞書学会会長の江さんは、辞書の役割と言語活動が別の次元であることを故意からか無知からか全然理解していない。

結局、私は第6版が大判であることに魅力を感じながらも、第5版を購入した。

中国で「寿司」を食べることはないし、「月光族」と酒を酌み交わすこともないからである。

更に言えば、その寿司や月光族が入っている中国語にまったく興味がないからである。

補:
・自由人の翻訳家対国家エリート官僚。いずこも同じ様式ですね。
・中国・本の情報館(東方書店)からコピーしました。

補:
県道の桜並木。
20140423桜

島の桜、今盛なり

ここ数日、晴れが続いている。強い風もない。

行楽日和である。都会人なら日帰り行楽だろうが、こちらは5分で行楽地に行ける。

網小医院の庭の桜は2日前の23日に満開となった。県道の桜の半分はすでに葉桜になっていた。

小さいながらも島である。盆地や平野と違って、東西南北、すべてに傾斜が付いている。

そのお陰で、今日は残りの桜の満開を眺めることができた。

花見酒といきたいところだが、排尿機能にいいはずがないので、花見のお茶で濁しておいた。

何年か前にブログに掲載した桜である。幹は当然のこと、枝も同じと思うが、せっかくだから再びアップした。

20140423桜a

神経質が病気の元

昨日、スタッドレスから普通タイヤに交換した。

チェーンの脱着と並んでタイヤ交換は何度もやってきたので、無駄な動作はない。

1本目のジャッキアップで息が切れ始め、ボルトの緩めとかシメで一汗、タイヤが重い。4本目を装着した時には、外したスタッドレスを物置にしまう気も力も失せてしまった。軽のタイヤでこうなのだから、普通車は手に負えない。これから普通車に乗り換えることは絶対にないから余計な心配であるが。

女性ドライバーは一体どうしているのか。自分でやっているのだろうか、それともディーラーやタイヤ店に頼むのだろうか。気になった。今年の10月、スタッドレスにまた交換する。その時にはもっと体力が衰えていることだろう。半年先まで考えてしまう。

今日は、泌尿器医院に行く日。

昨夜、波の高さ1.5メートルと177で聞いていたので、船酔いの心配はしていない。実際鏡のような穏やかさである。

私の番が来た。

私:「排尿はきちんとできます。残尿感もありません。しかし、筒の先と肛門に鈍痛があり、歩いている時はまだいいのですが、座っているとズキンと痛みが走ります。20分に1回のペースですが。寝てからがいちばんきつく、痛みで眼が覚めます」

尿検査、超音波検査、前立腺肥大の検査。ひと通り終わって・・・

先生:「尿に菌はないよ。残尿はないね。10cc位だから。前立腺も肥大はない。すべて問題ないよ」
私:「でも痛いんです」
先生:「君は神経質かね」
私:「・・・」

ズボラでありながら、つまらない事や赤の他人の言動が気になって仕方がない性分は小さい時から全然変っていない。

女性ドライバーがどうタイヤを交換しようが、私には関係のない事柄である。半年先を誰が分かる。それが気になるというのだから、先生の見立ては鋭い、さすが人を相手にしている職業である。

今、こうして座っていると鈍痛、時々鋭痛。今夜も昨夜のように痛みから夜中に眼が覚めるだろう。

すべて、私の神経質によるもの。

だったら、精神科医を訪れるとするか。

一字一会

私のこのブログの名前は、老いの一徹からの流用である。

老いの一徹は、柔軟性が失われた老人が、他人の話に耳を傾けず、世間の動きに反応せず、ひたすら自分の考えに固執する、そればかりか、しばしば他人に押し付ける、こういう風に私は理解している。

老いの一筆が辛口、毒舌、意固地、時代錯誤、ピント外れと言われようが気にしていない。一筆が一徹の色調を保っていると自分で思っているからである。

日本に米軍基地がある限り、日本はアメリカの属国であり、それを何とも感じていない国民に私は我慢がならない。

今は表立っていないが、これが我が一筆の色調である。

話を言葉に移す。

漢詩百選で目にする漢字は、韓非子や荀子など思想家の文章に出てくる漢字に比べたら、その易しさは小学生級である。

それでも、見たこともないような漢字が1首に1個や2個は必ず出てくる。

連想できる漢字もあるが、そうでない漢字がほとんどである。

辞書を引く。

なるほど、こういう意味かと理解する。

詩に戻る。

文脈が通る。

これで終り。

辞書で引いた漢字は、二度と再会しない。

これは人との出会いで使われる一期一会そのものである。

そこでこの表題を一語一会ともじることにした。

二度と会わない字にとても似合うではないか。こうしてしばらく眺めていたら、不吉な予感がしてきた。期(ご)と語(ご)はちょっと気の利いた書き手なら簡単に入れ替える凡庸さの予感である。確認のため、ネットを開いたら、案の定、一語一会がゾロゾロでてきた。

しかし、少し探ってみると、金言や名言の羅列で、一期一会のもじりにふさわしくないものばかりである。

一度会ったらもう二度目はないよ、これが一期一会ではないか。座右の銘になるようでは、一語一会はただの語呂合わせでしかない。しかも色調はまったく反対のものである。





これらの漢字は漢詩百選にでてきたものである。私のこれからの人生で再び会うことのない漢字である。

一語一会はこういう漢字に出会って、その意味を理解し、次の頁に進んだ時点で、永遠のお別れとなる、私の言う一語一会は立派に一期一会の色彩を保持している。

このブログの題名を「真の一語一会」にしようかと思ったが、この「真の」も凡庸の見本であることに気が付き、「一字一会」を採用することにした。

語呂が合わなくても、精神は通じている。私の自負である。

補:
単行本にこんなのがあるようです。一語一会―人生に効く言葉 。「一日一言」の間違いではないの。

電子辞書と紙辞書

読めない字が出てくる。

紙辞書の場合:

重い本を手元に寄せる。

見当を付けて頁を開く。

行き過ぎた、戻り過ぎた。

また、行き過ぎた、また戻りすぎた。

やっとお目当ての字の頁に収斂する。

電子辞書の場合:

パソコンを常時ONにしておく。

手書き入力する。

瞬時に求める字が表示される。

スピードが違う。

電子辞書が中古になってもなかなか値崩れしない理由はこれであろう。

だが、紙辞書の行きつ戻りつは、見ようによっては、言語の宝探しと言えなくもない。

一般論として、これまで時間の無駄ばかり強調してきたが、紙辞書の宝探しは結構楽しいものである。

私は今のところ、電子辞書を使うつもりはない。

補:
私の達筆は手書き入力に向いていません。手書き入力の検索でさんざんな目にあっているのです。最近の電子辞書が果たして受け付けてくれるかどうか、たぶんダメでしょう。これも紙辞書にこだわっている理由の一つです。

香坂著現代中国語辞典

還暦を機に、英語と一緒に中国語とも縁を切った。大量の語学書をゴミ焼却センターに持ち込んだ時の爽快さは今でも忘れない。

今年3月、漢詩百選と接して、再び中国語と付き合う気持ちになった。

真っ先に用意しなければならないのは、辞書。

またamazonの世話になった。

香坂順一著の現代中国語辞典、初版は1982年、1988年刷で本体が239円。送料が257円だった。これまでの漢和・英和もそうだったが、辞書は中身より重さの方が大切なのかと、十年以上コツコツ単語カードを溜め続けた編纂者に同情する。

集積回路が出始めた頃、寝食を忘れ開発設計した自信作のLSIが秋葉原で山積み(ジャンク扱い)になっているのを見た技術者が、大きなショックを受けたという話しを昔読んだことがある。

それを連想してしまった。

もっとも、電子辞書という形態で適正な価格が維持されているようだから、辞書というより紙の凋落と言うべきかもしれない。

安価で立派な紙辞書が手に入るのは電子辞書が主流になったためなら、花より団子だ、紙の凋落を嘆くことを止め、年金出費の軽減に感謝することにした。

発病・・・閻魔大王の執行猶予

鈍痛と鋭痛に悩まされて、はや1か月になんなんとする。

病院に通う、数種の薬を飲む。カテーテルと頭陀袋がズボンの中に入っている。

不快でありまた不便であるが、自分の行動が若干制限される範囲に収まっている。

これが、妻子を養っている時だったらどうか。思っただけでゾッとする。

通勤途中、会議の最中、顧客との折衝、出張報告の作成、同僚と居酒屋談義、どれをとっても、今のような症状の体で対応できるはずがない。

一人ひとりの病気は、生前から決まっているのではないか。私は前世であまり悪事を働かなかったので、閻魔大王は発症を現役引退まで延ばしてくれたのだ。

しかも、田舎暮らしを17年もの長い間、満喫してきた今になって、ようやく病気を執行するとは、これこそ情状酌量である。閻魔大王に感謝しなければ、バチが当たるというものだ。

物は考えよう。阿Qの哲学である。

補:
カテーテルは外しました。

ブログの再開・・・異常を平常化

このひと月、ただ時間の過ぎることを願ってきた。

朝には夕べを待ち、夕べには朝を望む。病院に通って、薬を飲んで、あとは時の経つのを待つばかり。

回復すれば、元の生活に戻れる。それまではモラトリアムだ。

メリーのエサ喰いのための散歩以外には実質何もしていない。

尺八はロング・トーン、ギターはアルベジオ、チョコチョコやってお終い。

ネット碁は、「あれ、死んじゃった」5連敗、6連敗も珍しくない。それが少しも悔しくない。

映画・音楽、更に興味なし。

漢詩百選の続きは後回し。英随筆もその先の先。

日中はただブラブラするだけ、9時には寝床に入る。

今、私は大変な錯覚に気がついた。

それは、鈍痛・鋭痛はある時間が過ぎれば霧散し、元の健康状態に戻れるという錯覚である。

周囲の老人には、持病と称する病気を持っている人が多い。10年以上も同じ病院に定期的に通い、同じ薬を毎日飲んでいるのだ。10年続いているのは、治らないからである。

これをひと事としか受け取っていなかった。熱心に自分の病状を私に語ってくれても、その意味を私は単なる自慢話程度にしか理解していなかった。

老人になれば、部品のあちこちに不具合が生じる。その都度、交換や補修をすればいいではないかと若い人は思うだろうが、高齢者には過度の負担が掛かるかもしれないし、果たして交換したら元に戻るかどうかも保証の限りでない。

今の私はどうもこのレベルに達しているのではないか。いや、間違いなく達しているのだ。

そうなれば、話は別だ。百年河清を俟つだって、ご冗談を。

この状態が平常と見なしたからには、元の生活に復帰すべきである。

私は決心した。

ブログを再開する。

尺八は、師のDVD を手本に本曲の手の練習に戻る。

ラジオ体操は、第一から再開する。

漢詩百選は月内に終わらせる。そして英随筆に取り組む。

ネット碁は、連敗のままで寝台に登らない。深夜になろうが勝つまで対局する。

ゴミも週の決まった日に運び出す。今は真性ゴミ屋敷だ。

鈍痛、時々鋭痛。亦可ナリ。(樂シカラズではあるが)

私はかく悟った。

正常、異常、平常

先週末、10日振りにカテーテルを外した。2.5リットルの頭陀袋がズボンの中でブヨブヨしないことのなんと快適なことよ。

排尿障害以前に戻ったかと言えば、そうでない。

今は、肛門と筒の先に鈍痛が常駐し、20分かそこらのインターバルでズキンと痛みが走る。

排尿時にもこのズキンが伴うが、最初の頃の滞尿はないから苦しいとは言わない。

医者からは膀胱炎ではなさそうだ、前立腺肥大もそれほどでない、様子を見ようと言われている。

その様子が前述の通りなのだ。一週間が過ぎても一向に改善されない。

私は考えた。

これは異常である。しかし、この異常は発病前を正常と見なすから異常なのであって、今の様子が通常になれば、異常とは呼べないのではないか。

若者は2時間や3時間山歩きしても疲れない。これは正常である。1時間でヘナヘナになるようなら異常である。

60を過ぎた年寄りが1時間でヘナヘナになっても異常とは言わない。3時間歩いても疲れないという老人の方が異常である。

これと同じで、高齢者は高齢者なりの正常があり、私はたまたま排尿・排便器官に鈍痛があるというだけのことで、これが私の正常ではないか。

負け惜しみに聞こえるようなら、正常を平常と言い換えてもいい。

年齢次第で正常が異常になったり、異常が正常になったりする。この手の水掛け論は無益である。

私の財布を膨らませていたクレジットカードが消えてかれこれ20年になる。今は代わって病院の診察券だ。これから益々枚数が増えることだろう。

食前酒は代わって食後のカプセルになった。飲み忘れないように、また飲み過ぎないように、カプセルの袋にマジックで日付を書いている。

病院嫌い、薬嫌いを標榜してきた私、変節漢と笑われるのは分かっていても、君子豹変だ。

私は今後頻度が高くなる病院通いも食後の薬も「平常」扱いにすることに決めた。

補:
医者嫌いではありません。誤解なきよう。

モモ 9回目の月命日 THE MAIDEN'S GRAVE

カテーテルが膀胱から筒を通って、2.5リットルのバッグにつながっている。チューブの長さは1メートルはあるだろう。

寝ている間はベッドの脇に置くからまだしも、起きている間は、このバッグを腰にぶら下げていなければならない。

2年前の3月はヘルニアの手術があった。それ以来の大病である。

今日は月に一度の思い切り「哭」できる日。

それすらできない。哭するだけのエネルギーが湧いてこないのだ。

昨日は、携帯型ゲーム機にモモを中心とした写真をたくさん入れた。寝ながら、スライド・ショーで楽しかった日々を振り返るためである。

脳裏にインプリントされた映像は、次から次へと飛んでいくが、スライド・ショーは、好きなだけ眺めていられる。

漢詩百選の副題が、人生の哀歓だった。

私は、歓の大きさと哀の大きさは同じでないかと思っている。

得たものが大きければ大きいほど、失った時の空白も大きいものとなる。

私の空白感は将来どんな歓に出会ったとしても、決して埋まることも消えることはない。私は確信している。

~~~~~

英詩百選からのもの。今日のために残しておきました。ネットで原文が見つからなかったので、スキャンしたものだけです。自分より若い人や生き物を失う時、この詩が慰めてくれるでしょう。






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