老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

勝手読みの百人一首・・・もの

予定通り、2月の内に百人一首を終えた。

漢文は南京豆か塩せんべい、英詩はステーキかショート・ケーキ、和歌はといえば喉ごしのいい更科そばか湯豆腐である。

今回の漢文は思想家の作品だから英詩や和歌とは同列に語れないが、文字の姿からガチガチの印象を受けたのである。

英詩はといえば、やはり西欧の文化をイメージしてしまう。感じるとすぐah、ohが飛び出してくる。それに、and、or、so、ifなど連結するための単語が一つの詩にいくつも出てくる。英語だから仕方がないのだろうが、気になって仕方がない。なんとかならないものか。

和歌は伸びやかでいい。日本人である私には、違和感がまったくなかった。朗読して心地良いのだ。

ふと気がついたのは、この百人一首に「もの」が沢山でていることだった。

今の日本語にも、「物思い」、「物悲しい」、「物静か」、「物寂しい」、「物心」がある。

英詩百選を思い出したが、「なるほどあの単語が物に当たるのか」と膝を打つような詩はなかった。

和英が手元にないので、ネットで調べた。やはりピッタリする単語は見当たらない。

単なる接頭語であって、5・7のための数合わせのためでしかないとは私には思えないのである。

「悲しい」より「物悲しい」という表現の方が曖昧な分だけ奥が深いのではないか。それ以上には今は考えが進まない。

~~~~~

月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど
大江千里(23)

忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで
平兼盛(40)

逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり
権中納言敦忠(43)

風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな
源重之(48)

御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ
大中臣能宣朝臣(49)

ながからむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ
待賢門院堀河(80)

夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり
俊恵法師(85)

嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな
西行法師(86)

人も愛し人も恨めしあじきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は
後鳥羽院(99)

助っ人来る・・・卓上拡大鏡


どこにぶつかったわけでもないのに、時々両目に火花が散る(左目と右目がケンカしているのか)。

そうなった時には、活字から離れることにして、加齢によるものと諦めている。

最近、火花が散らなくても、本が読みにくくなった。小さな文字がみんな蟻のようになって見えるのである。この蟻がゾロゾロ動くようになるのはそう先の話しではない。

チャオ、活字さん。

広辞苑にせよ新明解にせよ、字は小さい。広辞苑はその上インクをケチったのではないかと疑いたくなるように字が薄いのである。新明解が白、広辞苑が生成りという紙質の違いであるのかもしれない。

ブログを書いていて遊びで言葉をいじくるのは結構楽しいが、言葉の正しい意味は確認しておかなければならない。そのために辞書が読めることは絶対必要条件である。

ネットで注文した拡大鏡が、今日届いた。

早速使ってみたら、なんで今まで探さなかったのか悔やむ程である。

左はこの家の前の住民が残した従来型の拡大鏡。右が卓上拡大鏡。

LED付きで、点灯すると「怒濤」の「濤」の画数が数えられた。

今年に入って二番目に高い買い物だったが、大いに満足している。

追記:
A4に拡大コピーすれば、裸眼で読めますが、広辞苑2千7百頁、新明解千2百頁、藤堂漢和千7百頁、金田一古語千2百頁、旺文社の英和中辞典2千頁、計9千8百頁、紙詰まりを見込めば1万頁。愚公移山!!やりますかね。

20140228拡大鏡

森でフルート

今日も春の陽気。

しかし、まだ手袋は必携だ。

毛糸の手袋をはめると、尺八は音がでない。

フルートは楽器できちんと穴をふさいでくれるので、手袋のままで平気だ。

柔らか音色が森に響く。

ポロネーズと言いたいところだが、吹いたのは「春の小川」である。

小学校の3年の頃だったか、暗譜が宿題だった。当時は、音楽だけは専門の先生だった。

歌詞の通りの子供時代であったせいか、今も譜は覚えている。

(先生が黒板に向かっているスキに窓から飛び出したものだ。楽典を真面目に勉強したのは中3の夏だった)

春の小川

春の小川は、さらさら行くよ。
岸のすみれや、れんげの花に、
すがたやさしく、色うつくしく、
咲けよ咲けよと、ささやきながら。

春の小川は、さらさら行くよ。
えびやめだかや、こぶなのむれに、
今日も一日、ひなたでおよぎ、
遊べ遊べと、ささやきながら。

20140227森のフルート

百人一首・・・首から上と首から下

百人一首の百人はみんな一人で何十、何百と作ったようだ。

貴族や女官や僧侶が朝は朝星、夜は夜星と田畑で労働していたら、家に着いたらバタンキュー。不可能である。

百姓が働いて年貢を納める社会だからできたものである。

それでは、百姓だけの社会ではどうか。

千年の風雨に耐えて受け継がれるような和歌は10首もできなかったであろう。

山を望めば山菜がでたかどうか、海を前にすればウニの育ちがどうか、それしか頭にないからである。

民謡は正直である。海を讃える民謡もじっくり歌詞を読めば大漁祈願と大漁感謝である。海そのものを詠ったものはない。

生活に無関係の貴族だからこそ海を前にして詩が作れるのである。

首から上だけでも名歌は生まれない。首から下だけでも名歌は生まれない。

私は、情緒あふれる和歌100首は首から上と首から下の共同作品だと思っている。

補足:
・今も変わりません。僧侶やプロレタリアートがなんとか文学賞を受賞したとたんに、僧侶でなくなりプロレタリアートでなくなり、作家という首から上の階級に移籍するからです。ま、未練がましく、兼業を名乗る人もいますが。
・社会主義体制下のソ連や中国の文学・音楽・映画・美術に優れたものが一つもない。労働者に芸術は不向きなのです。反対に文化人は耕作もできなければ漁労もできない。肉体労働に不向きなのです。どちらが上でどちらが下ということではありません。

老人と春

今日も春の陽気だ。向かいの山が霞んでみえる。本格的な春の訪れが間近な証拠である。

2月は寒い。老いには一番こたえる月だ。ありがたいことは、他の月に比べて2日3日短く設定されていることである。

百人一首を読み終わって、これから数日は中休みとする。毎日活字から精気をもらってきたせいか、すこぶる調子がいい。

今日はその中休みということで、森の青空書斎には活字を持っていかなかった。

ただ、椅子にだらしなく座って、春の日差しを正面から受けるだけだった。

ギリシャやスペインの映画の中に、老人や老婆が陽だまりに椅子を出して、のんびり通行人を眺めているシーンがよく出てくる。

西部劇では酒場の入り口である。

人の気配が全くしない点が違うだけで、今の私はそういうシーンの一人である。

私は人が苦手であるが、こういう日には、昔の「人民中国」の写真を羨ましく思い出す。

その写真とは、胡同の狭い道で、引退した老人が集まってトランプに打ち興じている写真である。

今の私よりずっと貧乏だったはずだ。それでいて、屈託なく春の日差しの下、アルミの茶碗を脇に置いて、近所の仲間同士と共に一日を過ごす。私にはできない、いい老後である。

春は老人にもっとも優しい季節である。寒くて暗い屋敷で昼間を過ごすなどもったいなくて、もったいなくて。

補足:
・「人民中国」中国の月刊PR誌。送料を払えば送られて来ました。30歳のだいぶ前に購読を止めました。あくまでもPR誌の記事として見ていました。現実はどうだったのか、知りません。
・島にも亭があります。10年以上前でしょうか、ある年の5月、遠方から来たる朋友とそこで手談しました。寒さでガタガタ震えながら打ったことを覚えています。

住民税(確定)申告

昨日、確定申告を済ませた。

島はありがたいことに、役場から職員が出向いてくれる。

源泉徴収票、保険料控除証明書、それと三文判をもって受付場所である公民館にいった。

「収入は年金だけですね」
「然り」
「漁業はやっていないのですか」
「No!」
「医療費はありませんか」
「ニエット」

周囲ではあれやこれやしきりに住民が役人と語り合っているが、私の質疑応答はこれでお終い。

ノート・パソコンをしばらくいじってから、
「税金は9千円です」
「私、貧乏です。おまけしてください」と言いたいところだが、ぐっとがまんして、
「諾、苦しゅうない」

すると他の役人と何やら話しをして、おもむろに、
「年収400万以下ですので、国税はありません」

400万以下の貧乏人から国税を徴収するのは、しのびないとの国の温情によるものだろうか。理由は聞かなかった。

私の年金はその半値以下である。貧乏の2乗であろう。堂々と免税品扱いになる。

具体的な数字は書かないことにする。個人情報を盾にするのではない、ブログに載せれば、兜町の投資会社から儲かりますよと来るし、銀座の画廊からレンブラントを買いませんかと来るし、旅行会社から豪華客船のスィートで世界一周をしませんかと来る。

営業マンなり営業ウーマンは仕事で押しかけて来るだろうが、私は閑居の暮らしを乱されたくないのだ。

来年からは申告に来なくていいですよと、最後に言われた。

私にJ・リーグからもMJBからも契約の話がないことを見越しているのだ。こういう僻みは貧乏人の根性というもので、本当は、山中から足を運ぶ老いの身を気遣ってくれたのだ。

脱社会を自慢しているのに、イザ社会から相手にされなくなると、シュンとしてしまう。人間って不思議な生き物だ。

追:
収入と所得が違う意味であることを初めて知りました。

尺八・・・間抜けと拍子抜け

「阿字観」は虚無僧尺八の名曲である。

私は同じ高手の吹奏を2つ聴いている。

一つはスタジオ録音、一つはお寺での献奏である。

スタジオ録音の方は何年も前から聴き慣れている。献奏は最近になってからである。

同じ名手の吹奏でありながら、全く違う印象を受けた。

献奏の方は、何十人という献奏者の中の一人の立場からか、時間の制約からか、なにか急いで吹いているように聞こえた。分かったのは、間が短いのである。発音がよくても無音が不十分であれば、落ち着いて鑑賞できない。

スタジオの方は、無音がしっかり録音(!)されている。

私はこの曲が大好きなので、練習をしている。調子が出ない時には、名手の吹奏を聴くようにしている。スタジオ録音のほうである。

もう一つは琴古流の「黒髪」。春のうららに誘われて、「六段之調」と「千鳥之曲」も吹くようになった。

いずれも初心者が習う曲で、私も結構練習したものである。

琴古流は三曲といって箏と三味線とのアンサンブルが主体である。そのために、第一に楽器の調律がいい加減であってはいけない。これは手持ちの1尺8寸が埼玉の一流製管師(演奏家でもある)に調律してもらっているので心配はない。

問題は、拍子である。せっかくの三曲だからと拍子を守って吹こうと思っても、思うだけで思うようにならない。

虚無僧尺八に慣れきってしまったためである。仕方がないので、膝を叩いて譜読みを再開した。声はかれるは、膝は痛むはで、すぐに諦めた。

間抜けと拍子抜け、言葉の元をたどればこんな所か。

(千鳥之曲。長~い)
千鳥の曲

百人一首(5)(83)・・・鹿の遠音

勝手読みも今日で終わった。締めくくりは阿倍仲麻呂に決めている。今日はその前夜祭。

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
猿丸大夫(5)

世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成(83)

草食動物はやたらに声を上げない。外敵に自分の存在をわざわざ知らせるようなものだ。

発声は襲われた時の断末魔の叫びと発情期の雌である。

我が庵の事例。

家に連れてきた年から、山羊のメリーは、秋になると発声した。伴侶を呼び寄せようと、エサもろくに食べずに、2日の間昼夜休まず啼き続ける。1月頃まで毎月1回繰り返された。

その声は、寂しいなどというものではない。凄惨・断腸クラスである。伴侶を探せない私は罪の意識にさいなまれた。

五六年過ぎた頃だろうか。秋が来ても啼かなくなった。繁殖年齢が早く終わったのである。

結局、雌でありながら母親になることなく生涯を終えるのだ。発情の声は聞かなくて済むようになっても、罪の意識はますます大きくなるばかりである。

百人一首。

鹿が遠くで啼いている。鹿の声は鳥のように澄んで美しいものではない。啼くというより叫ぶというべきものだ。

ここの鹿を詠っ2首は、ただ寂しい、悲しいのではない。山奥の雌鹿は牡鹿に会える。それと比べて、都で別れたかつての恋人に逢いたくても逢えない我が身。

この心境を鹿に寄せているのだ。

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき
世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
(再掲)

文庫では牡が妻を求めて鳴くとなっているが、すでに述べた通り、これは間違いである。

また、「鳴く」は「啼く」であるべきと思う。鳥の口だから鳴く。蹄(ひずめ)の動物の口は啼く。国文学者だったら、どちらでも可なりと言わず、この程度の使い分けはきちんとしてもらいたい。如何。

勝手読みの百人一首・・・僧侶の恋歌

お坊さんは色欲とは無縁の存在とばかり思っていた。

諸行無常の世界は無色であるはずだ。

それなのに、この百人一首には、幾首もある。

全部当たっても、100だから、1から探してみたのだ。

恋歌の99%は失恋か片思いのやるせなさが動機となっている。

これで分かった。

お坊さんは、宮中や貴族の宴会によく招待される。なにせ高級知識人であり、お坊さんが側にいてくれれば、万が一の時も、すぐにお経をあげてくれる、ありがたい人なのだ。

きらびやかに飾った美しい女官が次々と酒と料理を持ってくる。酒は飲まないお坊さんでも、うっとり見とれることは自由であり、自然である。

また、貴族の奥方の中にも仙女かと疑うような美女がいて岡惚れしてしまうかもしれない。

一夫多妻、自由恋愛が当たり前だった当時でも、お坊さんだけは蚊帳の外である。

お寺に帰っても、悶々としてお経どころではない。お経を読んでも上の空、そこで、恋歌が1首できるのだ。

どのような手立てをしても叶わぬ恋。

恋する女性になったつもりで、歌を作ったというような解説(僧侶が女性に動かされるはずがないという常識との辻褄合わせ)があるが、それは女性に憧憬を抱いたことのない書斎閉じこもり学者の論である。

私は、お坊さんの心情の発露だと読み取っている。第一、この方が素直でいいではないか。

~~~~~

8 喜撰法師(雑)
わが庵は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり

12 僧正遍昭(雑)
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ

21素性法師(恋歌)
今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな

47 恵慶法師(秋)
八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり

66前大僧正行尊(雑)
もろともにあはれと思え山桜 花よりほかに知る人もなし

69 能因法師(秋)
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり

70 良暹法師(秋)
寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ

82 道因法師(恋歌)
思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり

85 俊恵法師(恋歌)
夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり

86 西行法師(恋歌)
嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな

87 寂蓮法師
村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮

95 大僧正慈円
おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖

春は中国

昨日に続いて今日も春の陽気である。

秋は日本、夏はイギリス、春はといえば、中国である。

なんともおっとりした大人の雰囲気が春にぴったりである。

バカのひとつ覚えと笑われても、毎年この時期にブログに載せる言葉は春風駘蕩である。

そして、北京の陶然亭公園である。

あの公園には何回行ったか数えられない。仕事の合間に行くと、ウイークデーのため人がまばらで、亭を独り占めして、春を心ゆくまで満喫できたものである。

当時の周囲は、4階か5階のビルが幾つかあるだけだった。

今は、高層建築に囲まれてしまっているのではないだろうか。

外国の土地で二度行きたい所はどこかと聞かれれば、陶然亭以外の返答はできない(以前のままであればの条件)。

それほど、私はこの雰囲気が好きだった。

もちろん、季節は春である。

追:
二胡と琴。中国宮廷美学の粋ですね。

森の散策にすべり止め

今度の冬、生協が「すべり止め」という商品を扱うようになった。

私が「すべり止め」から受ける印象は、まずそろばんのゴムバンド。幅広のゴムバンドはそろばん教室には必携だった。黒のバンドは安いがすぐボソボソになる。今のゴムバンドのような茶色の物は長持ちするが高価だった。大事に扱ったものである。

次が、ご多分にもれず、大学入試。

東京大学。滑ったら関東大学、ここも滑ったら日本大学、また滑ったら東洋大学、世界大学、太陽系大学、銀河大学、全部落ちたら宇宙大学。

東京大学のすべり止めである。

生協のすべり止めは、文字通りのすべり止めである。雪道や凍った道を滑らず歩くためのギアである。

スパイクが6個打ってあり、それを靴に巻く。マジックテープでワンタッチ、すべり落ちないように(すべり止めが滑ったら落ちにならない)かかとに回すゴムのベルトがついている。

すぐに飛びついた。

冬、裏山の小径を散策する時、いつも気になっていたのが

(ステップ1)滑って、
(ステップ2)転んで、
(ステップ3)骨折して、
(ステップ4)身動きできなくなって、
(ファイナル)凍死する

ことである。

馬なら、区長の家なり漁協に行って、私のことを知らせてくれるが、山羊のメリーは、食べることに夢中で、私が唸っても我関せずである。

この滑り止め、効果抜群。快適至極。

足元を気にしないで散策できるのだ。空を見上げるゆとり、周りの竹と木々を眺めるゆとり、冬の散策が3乗で楽しくなった。

大変重宝しているので、宣伝に一役買うことにした。

以下は余計なことであるが・・・

関東地方はこの大雪で売り切れ続出とか。来年はもっと売れるだろう。

拡大再生産の資本主義経済には千載一遇の好機か。

補足:
・東京大学以外は、架空の大学です。同一名の大学が存在したとしても、偶然の一致であります。
・足がもつれるようになって、ゴルフ・シューズを買おうと考えていた矢先でした。
・幼稚園に入ったら大学まで一貫教育。このトコロテンが一部の母親の好物であることも分かるようになりました。

 勝手読みの百人一首(15)・・・雪・病

 君がため 春の野に出でて 若菜摘む
   我が衣手に 雪は降りつつ
             光孝天皇(15)

春の野というと、宮殿から遠い山の裾野のような印象を受けるが、そんなことはない。10分かそこら歩けば、野原である。

最初、分からなかったのは、「君がため」である。

渋谷の高層マンションの30階に君がいれば、宅配便で送る(贈る)価値もあるだろうが、当時の人付き合いは、歩いて30分が精々だった(はずだ)

「君」も少し歩けば、若菜を籠いっぱいに採れるのだ。それなのに、なぜ天皇は君のために摘んだのか。

ここ数日、考えてようやく分かった。

君は、禁錮刑に服していて、外出ができなかったのである。天皇が代わりに摘んだのである。

これはいかにも荒唐無稽である。

他に考えられることは一つ。

「君」は病に伏している友(男性であれば友情、女性であれば憐憫)を指していて、その君のために摘んだのである。

若菜は、今でもそうだが当時も薬草である。幾日が過ぎれば晴れの日がやってくる。なにも雪中、霜焼けを気にしながら摘まなくてもいいのに、そうしたのは、友の病いがかなり重いからである。いや、軽くても気が急いて外に飛び出したのかもしれない。どちらにしても、一日もはやく友の回復を願ってのことだった。優しい天皇である。

早とちりが心配だったので、私には珍しく、詞書を見てみた。

「仁和のみかど、みこにおはしましける時、人に若菜たまひける御歌、光孝天皇」とあった。

文庫は病に言及していない。それどころか、「ほんとに雪の降る中でつんだのか、などと野暮な事は言わぬものです」と書いている。噴飯ものだ。

雪の降る中を無視して、この歌のどこに価値がるというのだ。

国文学者だから古文の文法は得意だろうが、詩の鑑賞に不可欠な感性がゼロである。そのくせ、いい歌ですと褒めているのだから、何をか言わんや。

この歌は心を打つ素晴らしい歌である。詩情に鈍感な解説に我慢できず、ここで採り上げた。

付:
ひと(人)・・・夫。妻。恋人。あの人。親友。(金田一春彦監修 学研古語辞典)これによりますと、君はあるいは后かもしれません。

英詩百選・・・Summer in England

和歌が秋なら、英詩は夏だ。

人も国も自分にない物、稀なる物を羨ましがる。これが普通の人情であり国情である。イギリスの詩に夏を詠んだ詩が多いのは夏が貴重だからである。

赤道直下のシンガポールで夏を賛美する詩が多く作られているとは思えない。

イギリスに長く居た知人が、イギリスの田園の美しさを話してくれたことがある。初夏から盛夏の季節の田園風景である。

話しが続いて、夏を詠った英詩を理解するには、やはりイギリスの田園を知らなければいけないと言った。これは言い過ぎである。

なるほど、私はイギリスの田園にたたずんだことはない。だからといって、作家の喜びを分かちあえないということはない。

日本には日本の夏があり、私は物心がついてから、70年近く日本の夏を経験している。

イギリス人がイギリスの夏を詩にする、それを日本人が詠む。詠んだ日本人が日本の夏をイギリス人の見方に誘われて見直し感動する。

それでいいのではないか。

海を見たことがない読者が海の詩を読んでも理解できない。
雪を知らない読者が雪の詩を読んでも理解できない。

こう反論が出てくるかもしれない。これには再反論ができない。

しかし、詩人は万人を対象に詩を作ったのではない。己の心境を吐露したいという欲求から詩を作ったのだ。

海を知らない読者がいてもいなくても詩人にとってはどうでもいいことである。

海を知らない読者が、年を経ていつか海を目の前にし、若い時に読んだ詩を思い出せばそれでいい。感動もひとしおであろう。

読み手側の私は、詩や歌は理解すべきものでなく、感動すべきものと思っている。

多少意味不明でも、多少理解不能でも、構わない。自分が気に入ればいいのだ。

補足:
Portraits in Englandというレーザー・ディスクでイギリスの田園風景を堪能しました。今のブルーレイはその堪能の3乗です。ブルーレイは素晴らしい。船の映像を見ていると、船酔いするほどですね。居ながらにして世界漫遊。ありがたい世の中です。暖かくなったら、映画館を再開します。待ち遠しい。

・「国情」は正しい用法ではありません、小学生の読者さん。

勝手読みの百人一首(80)・・・黒髪

長からむ 心も知らず 黒髪の
   乱れて今朝は ものをこそ思へ
          待賢門院堀河

ずいぶんあからさまに表現にしたものだ。貴族に羞恥心はないと誰かが言っていたように思うが、周りを気にしないおおらかさによるのだろう。

陽の光のもと、森の書斎で朗詠したのだが、まったく気が乗らなかった。

この文庫は、作者の肖像画が1首ごとに載っている。それを見ると、髪の毛の長いこと長いこと。

清少納言も長いが、赤染衛門は、立ち姿で床まで伸びている。

中国の奥地の少数民族だったか、長い髪をグルグル巻いている女性のテレビを見たことがある。

日本式は伸ばしたまま。

これがいいのは、黒髪だからだ。カラスの羽のように黒光りするからいいのだ。

他の色では駄目だ。

話しは飛ぶが、私はプロ・サッカーが大嫌いである。選手の頭が黒くないからである。なんともだらしない。

昔は男も女も皆黒かった。良かった。

とここで、初めの頃に習った「黒髪」を思い出した。琴古流の初伝、入門者向けの三曲である。

春の気配が感じられた今日、久しぶりに1尺8寸を取り出して、吹いた。

甘ったるい調べで、歌詞は百人一首に輪をかけて甘ったるい。

百人一首が取り持つ縁だ。たまには許されるだろう。明日もこの陽気なら、また吹くつもりでいる。

  黒髪
黒髪のむすぼれたる思ひをば
とけて寝た夜の枕こそ
ひとり寝る夜は仇枕
袖はかたしく
つまじゃというて
愚痴なをなごの心は知らず
しんと更けたる鐘の声
昨夜(ゆうべ)の夢の今朝さめて
ゆかしなつかしやるせなや
積もると知らで
積もる白雪

追:
関東地方の積もる白雪は風流どころではないそうな。お見舞い申し上げます。

髪の毛でなく髪でなければいけないのかもしれません。

~~~~~

妍を競う

二流子様から貴重な解説を頂きました。ぜひコメントをご覧ください。

尺八から話題を映画に


恋は結婚の後で
竹は食事の前に

イタリア映画の題名を借りたつもりでいた。少し自信がなかったので、DVDでチェックしたら、「恋は結婚式の後で」であった。

私はこの映画が大好きだ。

ストーリーからは「恋は結婚の後に」の方がいいのだが、「後で」と決まっているから仕方がない。「竹は食事の前で」にはできないから、対聯はできなかった。

結婚式では、体裁が整わない。

映画の原題はIl testimone dello sposo。 花婿の介添人(多分)である。輸入業者がデタラメの邦題をつけたのだ。毒を食らわば皿まで、こちらも好きなように加工すればよかった。

恋は結婚の前に
竹は食事の前に

話を横道に逸らす。

イネス・サストレにぞっこん参った。サストレに勝る姿勢のいい女優はハリウッドに一人もいない。

雲隠れした土地でさっそうと歩くサストレを遠くから追っていく映像の素晴らしさよ。

ロッサナ・ポデスタと妍を競う帝政ローマ時代の美女である。

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昨日はここまでタイプした。すぐにアップ・ロードしなかったのは、クレジットでイネス・サストレのイネスがInèsになっていたためである。

イタリア語にèがあるかどうか知らない。スペイン語にあることは知っている。

用心のために、ネットを当たったら、案の定スペイン出身とのこと。そして、スペインでもトップ・クラスのモデルと紹介されていた。

歩く姿勢の良さがずば抜けているのもうなずける。

帝政ローマ時代の美女ではなかった。

お詫びして訂正します。

補:
凛々しいサストレを「妍を競う」と言うのは語源的には間違っているように感じます。妍はナヨナヨのイメージがあるのではないでしょうか。

百人一首・・・「知らず」いいではないか

学燈文庫は1首に2頁が割り当てられている。

大意、文法、鑑賞とあって、最後は決まって作家の系図と生没が述べられている。不明は不明として、また本人の作であることが疑わしい時にはそれを付加している。

です・ます調で和歌の解説によく合っている。さらにとても丁寧で、分かりやい。

私はふと思った。

系図は必要ないのではないか。生年や没年は必要ないのではないか。詠んだ年齢は必要ないのではないか。

小野小町の歌がある。

(9)花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに

小野小町の両親が誰だとか兄弟に誰それがいるとか、知ったところで、この歌の鑑賞に役に立つことはない。

いつ頃の作かも教えてもらう必要はない。

この歌が、鬼も十八番茶も出花の時のものでないこと、また70、80になってからのものではない。

鏡に映った自分の顔に一筋のシワを認める年頃の作であることは読めば分かる。

系図に至っては、それが何なんだと混ぜっ返したくなる。

西暦500年と西暦千年の差は感覚として今月と先月よりも小さい。

国文学者が、やれ本人の作でないの、やれ没年不明だの、やれ詠った場所は別である等々、考古学じゃあるまいし。仲間同士で研究するのは勝手だが、入試センター試験に累を及ぼすようではいけない。

百人一首を声を上げて詠むうちに、古い歌は、すべて「題しらず」、「読人しらず」でいいと思うようになった。

歌は歌に歌わせよ。

補:
小野小町が世界三大美女の一人というのは世界的に認知されているのでしょうか。私には手前味噌に思えるのですが。

共通の価値観と多様な価値観

安部首相が同じ価値観を共有する国同士で仲良くしましょうと東南アジアで愛想良く振る舞った。

これは村にへばりつく田舎モンの発想である。

雑誌「世界」の発想である。

竹林の七賢の発想である。

考えや物の見方が人によって様々なことは庶民ならよく知っている。安部首相は幼い時から決まった価値観の大人たちに囲まれて、育ったのだろう。

しかし、その居心地の良さを外交にも求めるのは問題である。

世界は広い。

50億・60億の人間があちこちで集団を作れば、金太郎飴になるはずがない。

世界に共通する価値観など、歴史上一度もなかった。正当と自負する価値観はすべて自分の都合でしかない。

異なる価値観の国とも等しく礼儀を尽くして付き合うようでなければいけない。

遠巻きにして、陰に陽にあれこれ言うのは下品である。犬に申し訳ないが、「犬の遠吠え」である。

(これを言いたかった。まだ続けます)


コピー機はフル稼働

還暦を境に視力が急速に衰えた。

Shorter Oxfordが読めていたのが、拡大鏡を持つようになった。

面倒この上ないので、この辞書を諦めた。

その頃はすでに、Shorterを開くほどの単語に出会うことがなくなっていた。英文そのものに近づかなくなった。

今こうして暫定余命の中で、改めて英文に接すると、視力の衰えが想像以上であることがわかった。

車の運転や映画鑑賞ではさほど不便を感じないだけで、いざ活字となると、お手上げである。

字は見たい、目は見えない。

そこで思いついたのが、本そのものを拡大してしまうことである。

文庫なら定形拡大(はがき→A4)で、その他なら任意拡大でA4サイズにする。

効果てきめん。

今の視力でも十分字を識別することができる。読めるか、意味がわかるか、この次元に戻ることができたのだ。

今、一日数十枚のペースで拡大コピーしている。

一月足らずで機械の軸受けから2回キーキー悲鳴が上がった。ミシン油をシリンジで注入した。

よく働いてくれている。

20140218コピー

勝手読みの百人一首・・・老境で詠むものか

間延びした音(おん)に更に甘ったるい恋ときてるから、江戸時代の町人娘に好まれたのは無理もない。

百人一首は恋歌のオン・パレードである。熱烈な恋愛に続いて結婚、ハッピー・エンドという歌は見当たらない。

どれもこれも、「宵待草のやるせなさ」形である。

もっとも、ハッピーな歌を披露しようものなら、歌仲間から笑われるかヤキモチを焼かれるかのいずれだろう。

それでも、100首もあれば、10や20は生活を歌ってもよかったのではないか。

暖衣飽食で、朝から翌朝まで恋に焦がれることができるのは、農民がその間にセッセと米を作っているからである。

当時の貴族は、それが不自然・不平等であるという認識はなかった。農民にもなかった。

生活を歌ったものはわずか1首、一番初めに置かれている天智天皇の歌だけである。

秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露にぬれつつ

前にブログで採り上げたので、繰り返しとなるが、これは天智天皇が農民の立場で歌ったものではない、自分自身を歌っているのだ。

私はこの歌が大好きだ。

~~~~~

 題しらず
水温(ぬる)み
佳き日選びて
苗植えて
垂穂待つなり
島の早乙女(さをとめ)
(読人しらず)

 題しらず
やうやうに
垂れる稲をば
愛(かな)しむも
今朝はまぼろし
野分恨めし
(読人しらず)

共通の価値観・・・民主主義

私がまだ政治に関心を持っていた頃の話である。

安倍首相が、東南アジアの歴訪で、民主主義と言う共通の価値観を有する皆さんと手を取りあいましょうと演説した。

手を取りあって、中国に対抗しようという意味であることミエミエだ。無論、中国政府も聞いて分かる。

安倍首相の頭には、遠交近攻の思想があったのか。

愚かな言動である。

遠交近攻策を愚かと言っているのではない。

民主主義と彼が言うのが愚かなのである。

議会制民主主義と言うべきであった。

民主主義は議会制のほかに人民もある。

議会制には、自由選挙もあれば統制選挙もある。

これらを民主主義で括るなら、昭和天皇に宣戦布告願ったのも、ヒトラーにユダヤ人を迫害させたのも、民主主義である。

テレビコマーシャルの多寡で議員数が決まるアメリカも民主主義である。

安倍首相は、中国政府に不快感を与えるのはそれなりの意図がある。本当は愚かでない、計算づくである。

それなりとは、言うまでもなく、軍備拡大という大義名分のことである。

不快感を顔に出せば、相手も不快感の顔に出す。

その顔を見れば、自分がさらに不快になる。

自衛隊を増強せよとなる。安部首相の思う壺である。

人民解放軍を増強せよなる。習近平国家主席の思う壺である。

兵器は売れる、基地は減らない、オバマ大統領の思う壺である。

(これは続きます)

勝手読みの百人一首・・・ようやく半分

先日、ようやくCDを手に入れた。

詩歌は音でなければいけない。

聴いていくうちに、だんだん眠くなってくる。

毎回、こうだから遅々として進まない。

漢文は筋斗雲、英詩はジャガー、百人一首は池の笹舟である。

私はそれでいいと思っている。

田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ

田子の浦にぃ~~~~ぃ
うち出でてみればぁ~~~~ぁ
白妙のぉ~~~~ぉ
富士の高嶺にぃ~~~~ぃ
雪は降りつつぅ~~~~ぅ

英詩はどうか。

On Milton
John Dryden (1639(?)–1701)

THREE poets, in three distant ages born,
Greece, Italy and England did adorn.
The first in loftiness of thought surpassed;
The next in majesty; in both the last.
The force of nature could no further go;
To make a third, she joined the former two.

ボーン
アドーン
サーパースト
ラースト
ゴー
ツー

これでお終い。

ボ~~~~ン
アド~~~~ン
サーパーストトトトト
ラーストトトトトト
ゴ~~~~ン
ツ~~~~ン

こう発声しない。

漢詩はどうか。

王維「竹里館」

独坐幽篁裏(リ~~~~ィ)
弾琴復長嘯(シアオ~~~~ォ)
深森人不知(ジジジジジ)
明月来相照(チャオ~~~~~ォ)

こう発声しない。

その代わり、英詩には強弱と押韻があり、漢詩には平仄と押韻がある。

英詩でも漢詩でも、押韻を組み上げるため、苦心する。英詩には強弱の保持のためにしばしば音を中抜けさせる。ご苦労様なことだが、日本人の読み手にとっては迷惑である。(大体は察することができる)

和歌にはない。

加えて、促音と半濁音がないことが、一層のっぺらぼうにしている。

それでいて耳に心地よいのはなぜか。

私は、新年の宮中歌会をラジオで聴いたことがあったのを思い出した。

白妙のぉ~~~~~~~~~~~お(高く大きい音)
富士の高嶺にぃ~~~~~~~~~~い (同上)

ものすごいロング・トーンであった。

母音が和歌の押韻だったのだ。日本語で和歌を作れば、どんな言葉でもロングの発声で「あいうえお」の5音で終わる。

一度、英詩風に発声してみた。

田子の浦にッ
うち出でてみればッ
白妙のッ
富士の高嶺にッ
雪は降りつッつッ

吹き出した。

補足:
・田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (万葉集)
「白妙の」より「真白にぞ」が素朴でずっといい。
・王維の詩に比べるとDrydenの詩は格段に劣る。形式の比較のためだから、簡単なものを選んだ。Dryden先生には済まなかった。
・促音、半濁音のある和歌が私が知らないだけかも知れない。今度の百人一首が初めてまともに読んだ和歌である。

国家公務員は高卒で

以前のブログの蒸し返し第一便である。

~~~~~

今、科挙が盛んだった頃の本を読み返している。

毛沢東率いる共産党が支配するようになって、中国は文盲が知識人の上に立つことが出来た。

数千年の歴史で初めて漢字を読めない集団が天下を取ったのである。同時に科挙の制度も廃止された。

日本はまだ続けている。

上級試験を通れば、出世コースが待っている。

防衛大学校を卒業すれば、匍匐前進を形だけやって、体裁を取り付くり、あとは幹部候補生として出世していく。

警察も同じだ。大卒はピストルを2.3発打って柔道着を2.3回羽織って終り。ヤクザと正面から睨み合う現場は無縁、麻薬取り締まりで夜明けまで徹夜の張り込みも無縁である。

数ヶ月かそこらの実習を済ませれば、署長までのエスカレーターにひょいと乗ればいい。数年単位で転勤するのは、まさに科挙である。

大卒が厚遇されているのは誰も否定できない。否定しない代わりに厚遇は才能・能力があるからだと大卒採用を擁護する。

詭弁である。

私は民間企業で30年ほど働いていたが、大卒と高卒の違いが才能・能力に無関係であることを現場で知った。

それでいて、幹部社員に大卒が圧倒的に多いのは、スタート時点で差があるからである。また、大卒であるというだけで、おいしい仕事が回ってくるからである。

国家公務員の採用試験は高卒に統一すべきである。大卒を対象にしてはならない。

大学在学の4年を高卒に与えれば、どこの官庁でも立派に通用するようになる。

それぞれの官庁で教育システムを構築すればいいのだ。

技官は無理だというのか。

専門技能が必要なら、大学に出向させればいい。その間、身分と生活はその官庁が保証する。教養科目が省略されるから、1年で今の4年分の専門科目を学んで戻ってくる。医学でも2年で十分だ。その先は、戻ってから、先輩が教えればいい。

やれ東大出だ、やれ京大出だ、やれ東北大出だ、と卑屈な庶民があがめおののく役人が激減することまちがいなし。

なによりかにより、身分の違いで人材の頭が抑えつけられない明朗な国家公務員制度が実現する、これが最大の目的である。

一度身分が決まれば、それで生涯が決まる。こんな今の官僚制度は、明代の中国とかわらない憎むべき制度である。

大学はエスカレーターの登竜門であってはならない、学問の場でなければならない。

現行国家公務員試験制度を、即刻廃止すべし。

尺八・・・一音成仏

一音成仏は虚無僧尺八の真髄であるから、ひたすら一音、一音に心を込めて祈る気持ちで吹くべしと教わったような教わらなかったような。

自分でも適当に使ってきたが、思う所があって、広辞苑を開いてみた。

載っていない。さては、業界用語だったのか。

思う所とは、こうである。

修行を積んだ、尺八も入神の域、こういう高僧がいたとする。最盛期の後に来るものは、老いである。

50、60はまだいいとして、70になり80になる。肺活量も腹筋も口の周りの筋肉も衰えて、最後には、1尺8寸の尺八さえ重く感じるようになる。

弟子に、尺八を持ってこさせる。

最後の一呼吸で尺八を鳴らす。

一音を最後に、息が止まる。

これが一音成仏である。

どれほど上手な吹き手でも、どれほど下手な吹き手でも、最後は同じという意味だったのだ。

たいそう気が楽になった。

「出なければ出ないでいいや、難しい手は飛び越そう。楽しけりゃいいじゃないか」

P1060296一音成仏

年金暮らし・・・強制もいいのもだ

昨夜来、台風並みの風が吹いている。

吠える、唸る、屋根が吹き飛ばされないか、これほどの風が冬に吹くのは珍しい。

睡眠不足を補うため、朝の10時近くまで、寝台でゴロゴロしていた。

「リッキー、起きようかね」

朝の第一声、布団の上で寝ているリッキーに呼びかける。いつもなら、9時前にヒトもネコそれと同時に、起き上がるのだが、今朝は有言不実行である。

寒い。

室温は2度。冷蔵庫の庫内温度を測ってみたら、やはり2度。寒いわけだ。

雨が降ってきた。

こういう日には、つくづく国の強制執行をありがたく思う。

今を去ること50年。精神的無産階級の一人として、生きてくためには、サラリーマンしか道はなかった。

今は銀行振込だが、当時は月給袋に現金が入っていた。初回は、1万円札が入っていなかった。
採用時の話と違うので、一杯食わされたかと一瞬会社を疑った。

明細を見ると、厚生年金として天引きされていたのだ。

経理にただすと、定年になってから返ってくる、それまで払い続けなければならない、国の制度である云々、ということだった。

若干23歳、風雲の志と青雲の志に燃える私に自分の老いぼれ人生など、想像できるわけがなかった。(数年経ずに、頭上に暗雲がたちこめたのが現実)

それから30年、転職の度に、失業保険が続く間英気を養ったという例外はあっても、強制執行は引退まで続いた。

精神的無産階級から抜け出られなかったのである。

仮に、厚生年金が任意であったら、私は、絶対に加入しなかった。飲酒と麻雀に軍資金が十分ということはないからだ。

老いては、特殊技能を持っているのなら別だが、どこからも働き口の声は掛かってこない。

マイペースで働ける定年のない自由業者と違って精神的無産階級の悲哀である。

昭和15年生まれは、満60歳が受給資格年齢である。

それから今日まで、減額や増税で2割ほど目減りしたが、それでも飢えることなく、こうして春の到来を待つことができる。

私は、厚生年金の強制執行に感謝している。繰り返しになるが、特に、今日のような嵐の日には、有り難みが倍増する。

ブログ・・・くどいかもしれない

今年は、時事情報皆無を柱として、ブログを継続することに決めている。

緊急の事態に備えて、古新聞は保存してあるが、今の所、その必要はない。

気ままにキーを叩くからどうでもいいようなものだが、昨年までの掲載とはできるだけ重複しないようにしたいと思っていた。

常識的に当たったのが、過去のブログの検索である。これを管理のfc2で始めたら、時間ばかり掛かって日暮れて途遠し。

ふと思いついたのが、I.E.検索である。キーワードを一つ、2つ入れれば、即刻反応してくれる。

試してみたら、「老いの一筆」がゾロゾロでてきた。オレの他にも同じ名前でブログを書いているものがこんなにいたのか、とびっくりした。

読んでいくと、プロフィールもよく似ている。それもそのはず、自分のブログだったのだ。

これで私の記憶能力の減衰度が分かった。重複を避けるための確認に時間を使っていたのでは、1本仕上げる前に明けの明星になってしまう。

新装開店だ、前に言ったことに拘らないことにした。

くどくてかまうものか。却って、「老いの一筆」にふさわしいではないか。

尺八は食事の前に

私はロング・トーンが大好きである。

琴古流の時にもロング・トーンをやっていたが、これはまともにメロディーが吹けなかっただけのことで、虚無僧尺八の門を入り一音成仏という言葉を覚えてからは、これも一曲と思うようになった。

最近になって気がついたことがある。

それは、ロング・トーンの時間が食前と食後とでは大きく違うということである。

日本人の平均肺活量をネットで調べたら、18歳で4200cc、65歳で3000ccとあった。

18歳の時の私の肺活量が4600ccだったから、65歳では3300cc、73歳の今は推定で2600cc前後であろう。

尺八を習い始めた65歳から、ふいごが2割強縮んだことになる。20秒が16秒に短くなったのもむべなるかな。

その16秒が、夕食後だと更に短くなる。

少食になったとはいえ、500cc位は胃袋に入れている。夏にビール500ccが加われば、1000ccが肺を圧迫する。

腹が膨れて調整されると言っても、大黒様になるほどではない。
夕食後の有効肺活量は多分2200cc程だろう。

実際、食後に吹くと、明らかにロングからミディに変わる。

昔の虚無僧を絵で見る限り、小錦や武蔵丸はいない。門付けがままならなければ、空きっ腹で吹くことになる。

真の虚無僧尺八である。

私も倣って、空腹の時に練習することにしている。

  恋は結婚の跡で
  竹は食事の前に

天気図でみる日本の向こう三軒両隣

私は、中国、韓国、台湾、ロシアに行ったことがある。残念ながら朝鮮はない。狭い機内に座ってタダ酒を卑しく飲んでいるうちに着く。時間は意識しても距離は意識しなかった。

今、天気予報の唯一の窓口として、毎日のようにネットを開いて天気図を見ている。

海と陸の境が等圧線の下に薄く描かれている。中国、韓国、台湾、ロシア、朝鮮、が日本のすぐ近くにあることに驚く。

地図帳の地図は国名と都市名がぎっしり詰まっていて、日本の周りの海は濃淡はあっても水色に塗られているだけで見る者の関心を呼ばない。

天気図は違う。



天から地球を見るから、国も都市も無意味な存在となる。

天気図を見れば見るほど、周辺各国が日本の向こうお隣さんであることに気づく。

いがみ合って暮らしていくのはしんどい。

右隣りがカカア天下でも、お隣さんの話しである。
左隣りが亭主関白でも、お隣さんの話しである。
お向かいで兄弟げんかが絶えなくても、お隣さんの話しである。

それが自分の家風と違うからという理由で、付き合わない家はない。

遇えば笑顔で挨拶するのが世間というものだ。

お隣さんの陰口を、周りに言いふらすようなことはしない。自分に跳ね返ってくるのが分かっているからである。

ましてや、面と向かって、「お宅のこれこれはよろしくない」とあげつらうなど非常識である。

Every family has its skelton.

どこの家にも悩みはある。問題はある。自分の家だって例外ではない。

カカア天下、亭主関白、兄弟げんか、これが嫌なら、自分の家をそうしなければいいだけのことだ。

やれ韓国がどうの、朝鮮がどうの、中国がこうのと日本のメディアは1年365日、文句ばかり言っているが、礼儀知らずである。

いやそうではない、実態を同胞日本人に知らせるためだ、と言うかもしれない。

そういう姿勢のジャーナリストがいるのは確かだ。これは庶民にとってありがたい存在である。深く詮索するのは品が劣るが、向こう三軒両隣がどうであるかは知らないより知っている方が、付き合いの上で好ましい。

間違えてはいけないのは、それはいがみ合いを増長させるためでなく、仲良く、穏やかに暮らすためであるということだ。問題が生じれば円満に解決できる下地を日頃から作っておくためでなければならないという点である。

それなのに、だから日本はどうであるべきか、これを結語とした論評が極めて少ないように見受けられるのは、私だけの感想か。

天気図は白地図。陸と海の区別は一本の線で描かれている。

私はこの単純さが気に入っている。

付:
・人も人なり、我も人なり。他国も国なり、自国も国なり。
・以前中国共産党指導者が、「どこの家にも便所はある」と日本の批判にスパッと応じたことがある。文中の英語も同じような意味である。
・人の振り見て我が振り直せ(自戒としている)

有難きかな、海

先日の雪は、珍しく積もった。少し前に掲載した写真を見てもらえば分かるように、10センチから15センチ程度である。

今日、プロパンボンベの交換があった。

石巻から来ているので、様子を聞いてみた。

市街で38センチだったそうだ。

プロパン屋さんがセンチ単位まで測るはずがないから、気象庁の発表だろう。

わずか数キロの海でも、水温のお陰で、三分の一に収まった。埼玉からの便りでは、都心も40センチという。内陸の埼玉はもっと降ったはずだ。

東北地方でも関東より積もらない所があることを実感している。

冬から春まで、毎日のように連絡船が欠航しても、こういう時には、つくづく島でよかったと思う。

橋が架かれば、なお結構。隴を得て蜀を望むか。

補足:
関東は今夜からまた雪と聞いた。どんよりした空模様。ここも追って雪になる。ケチケチするな、じゃんじゃん燃やせ。ただ今、室温13度。湿度30%。


もしも私が文科省の役人だったら

そして、入試センター試験の国語問題を作成する光栄を身に受けたら・・・

あらゆる言語活動は、4つ、話す、聞く、書く、読む、これに尽きると思う。

雄叫びを上げる、慟哭する、大笑する、などは二次的なものである。

現行の試験は、最後の「読む」しか出題されていない。漢字の正しい読み方、文章のの正しい捉え方、初めから終りまでこれだけである。200点の配点全部が実質これに向けられている。

話す・・・これは万人に求めるものではない。寡黙こそ金というではないか。ペラペラまくし立てるのもいいが、ボソボソとつぶやくのもいい。講談師、漫才師、アナウンサーはプロだから別に特訓すればいい。

書く・・・これも同じで、誰もが将来新聞記者、小説家になるわけではない。氏名、住所、年齢が書ければ、生活に困らない者がいるかもしれない。スーパーの野菜コーナーは、だいこん、こまつな、ほうれんそう、しいたけ、わけぎ、ひらがなのオンパレードだ。魚コーナーはサバ、アジ、サンマ、マグロ、カタカナのオンパレードだ。

この2つは、配点を低くしていい。言語活動に絶対不可欠というわけではないからだ。

聞く・・・カラスの声で目が醒め、カワズの声で眠りに就く隠遁者ならともかく、人ゴミの中で普通に社会生活を送る限り、不可欠である。災害時、ラジオをしっかり聞き取れなかったら、大変だ。

読む・・・これも同じで、納税通知書が読めなければ、年中遅延金が課せられる。

この聞くと読むの2つを試験の中心にする。

先ず、聞く。
(聞く、聴く、の区別は漢語であるから、どちらでも構わない)

試験会場に朗読が流れる。随筆でもいい、詩でもいい、小説の一部でもいい。これをNHKのアナウンサーの録音で20分流す。民放のアナウンサーは日本語の下等部分のお手本だから、ダメである。これを繰り返して、計40分。

小学校から大学まで、子弟は大半を師の話しを聞いて過ごす。重要である。

設問は10題で、配点は50点。

次が、読む。

世界文学から10冊、年度の初め、4月に告示する。陸樹声のような奇をてらったものでない、ごく普通の作品である。

例えば、

白鯨、
キリマンジャロの雪
魔の山、
ファウスト
車輪の下
赤と黒、
贋金つくり
アンナ・カレーニナ
罪と罰
静かなるドン
ハムレット
二都物語
西遊記
三国志演義
駱駝祥子
こころ
(文庫本の後ろのリストからランダムに選びました)
梅原猛などの随筆
小川未明などの物語
偉人の自叙伝

イタリア文学、スペイン文学、インド文学、ほかも含めて、名作から10点選ぶのである。

その中から、試験に出るのは3点。受験生はこの3点から任意の1点を選ぶ。

高校生は、試験でいい成績を取るために、否が応でも世界文学を読まなければならなくなる。長編のロシア文学も読むようになる。

この配点は100点。

読む、はもう一つある。

それは、文語調日本語である。古文に限らない。江戸時代の西鶴も含まれるし明治の一葉も含まれる。ただし原文をいじってはいけない。旧仮名遣い、旧い漢字そのままでいい。仏教の説話もいい、文語聖書もいい。

漢文そのままはいけないが、書き下ろし文はいい。忘れてはならないのが、能や狂言、和歌である。

これも事前に5点告知する。そのうちの2点を問題にして、1点を選択させる。

漢和辞典、国語辞典、古語辞典、すべて持ち込んでいい。辞書を置いていない会社や役所はない。利用しない手はない。辞書無しの無手勝流は国語の試験ではない。単なる記憶ゲームでしかない。

これが50点。

これで、計200点。

次に時間のこと。

制限時間2時間を問題にする。その倍の4時間は必要である。受験生の一生が掛かっている入試に、わずか2時間は短すぎる。速く読む者、必ずしも理解が深いとは限らない。じっくり読まなければ理解できない者が劣るということでもない。

社会にでてからも、(資料作りを)定時で終わらせる者もいれば1時間の残業が必要な者もいる。どちらも、翌日の会議に何ら支障がないのである。まして、文学作品においておや。

入試センター試験国語の話し、(完)

補足:
英語はバカバカしくて、最初から相手にしません。

入試センター試験・・・国語第一問

問題ばかりを見て、本文を読んでいなかった。

今日、読んでみた。

主題が漢文であった。

興味が湧いて、2度、3度読み返した。

・漢学は知的世界への入り口
(ギリシャ哲学もイスラム文化も他何も知ることができなかった)
・農民や商人を相手にしない
(農民は年貢を納める、商人は金勘定をする。それでいい。知的世界は無縁というとこだ)
・官吏登用試験に使われた
(科挙制度を真似したものである)

漢文、漢学、漢籍、何かごちゃ混ぜにしているように思えるのは、私の読解力の低さの故か。

要は、漢文がもてはやされたのは、情報が他になかったこと、文学として漢文を扱ったのではなかったこと、この2点を中心に述べているのである。

我が意を得たり。

私と同じ見解である。私が同じ見解であるという方が、謙虚かもしれない。

齋藤希史によるこの文章は、これで切れていないと思う。

これは数百年前のことである。21世紀の今日、漢文はもはやその役割を終えた。なぜなら、世界には優れた文学作品が数多く存在していることを、我々は知っているし、翻訳により容易に接することができるからである。

こう続いているはずである。

受験生は第四問の漢文を白けた目で読んだことだろう。

第三問の古文は源氏物語であった。問の前書きを読んで呆れてしまった。

流れるような和文であっても、中身は浮気亭主とそれを知って里帰りしたカミさんの話しである。

今なら週刊文春あたりが喜んで記事にするようなくだらないスキャンダルである。

いくら流れても、香りがなければ、文学ではない。

なぜこんな内容の文章を試験に出したのか、試験官の文学的素養を疑う。

今年の試験問題には日本語の良さ・美しさを再確認できるようなものではなかった。

がっかり。

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