老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

重ねて冬を歌う

定時の10時、メリーを連れて、裏山書斎に行く。
斜めから来る陽の光は今日も鋭い。
と、ちらほら雪が舞ってきた。
日本海側から日本列島の山脈までの旅で疲れてしまったのだろう。
地に着く前に弱々しく消えていく。
哀れ粉雪よ。
屋根なし書斎では、活字がにじむ。
早々に退散した。

冬を歌う

空はすっきり
雲はくっきり
風はびゅうびゅう
海はごうごう
雪はちらちら
山羊はむしゃむしゃ
猫はすやすや
人はがたがた
参った、参った
わが島の冬

英詩百選 W.Wordsworth

英詩百選がいよいよ終る。

私は私の心が澄んできたことを自覚する。

英詩百選の次は百人一首と決めている。準備は完了している。

その後は漢詩を考えている。

この2つ、2月の28日あれば十分だ。

3月以降は未定である。

百選の中の気に入った詩を少し深く読もうかとも思うし、ジイドの「地の糧」をそろそろ読みかえした方がいいのではないかとも思う。

~~~~~~

ワーズワースには「草原の輝き」がある。百選には、別の詩が載っていた。80歳という長寿の彼が晩年この詩の通りであったかどうかを私は知らない。枝葉末節である。

MY HEART LEAPS UP

MY heart leaps up when I behold
A rainbow in the sky:
So was it when my life began;
So is it now I am a man:
So be it when I shall grow old,
Or let me die!
The child is father of the man:
And I could wish my days to be
Bound each to each by natural piety.

冬を歌ふ

やせ我慢して冬を歌う

空青く
雲白く
風強く
波高く
山に山羊
家に猫
今盛りなり
わが島の冬

満タンの灯油缶が5日で空になる。
春の濃霧が待ち遠しい。

何をやってもダメ・・・ギター編

私は4畳半の居間で過ごす。

3方がガラス戸で、昔のガラスは薄い。

狭いから、朝2度でも、ストーブを点けるとすぐ16度に上がる。

庭に出たり、台所に行く(と言っても二歩)ときは、こまめに消火する。

灯油一滴、血の一滴だ。

すると、たちどころに下がって6度になる。

畳や天井が保温の役目をしているおかげで2度には戻らない。

また、点火する。16度になる。

これを繰り返して昼間が終わる。

人はダウンジャケットを着たり脱いだりして調整するからいいが、ギターはそうはいかない。

きびしい温度サイクル試験を受けているようなものだ。

弦がへたるのはまだしも、本体のネックが反ったら大事だ。

生涯これ以上のギターは二度と買えない。

そこで半音緩めることにした。

のんべんだらりんとした音がするが、背に腹は代えられない。

(YAMAHA CG192S 明るい音がしています)

20140128ぎたー

英詩百選・・・The Man of Life Upright

2行目と4行目に押韻がある。響きの良い詩で、音読すると気分が晴れる。

内容もピアノのアップライトを連想させる直立タイプである。竹を割ったような性分の人を讃える詩のようである。

最後の4行の清々しさよ・・・

英詩百選は現代の正書法に従って書き直されている。

ネットに出ていたこの詩は17世紀シェイクスピアの時代の綴りになっていた。

怪談が「くゎいだん」、帳面が「ちゃうめん」と似ている。比べてみた。

The Man of Life Upright
(Thomas Campion)

The man of life vpright,
Whose guiltlesse hart is free
From all dishonest deedes,
Or thought of vanitie,

The man whose silent dayes,
In harmeles ioys are spent,
Whom hopes cannot delude,
Nor sorrow discontent ;

That man needs neither towers
Nor armour for defence,
Nor secret vautes to flie
From thunders violence.

Hee onely can behold
With vnafrighted eyes
The horrours of the deepe
And terrours of the Skies.

Thus, scorning all the cares
That fate, or fortune brings,
He makes the heau'n his booke,
His wisedome heeu'nly things,

Good thoughts his onely friendes,
His wealth a well-spent age,
The earth his sober Inne
And quiet Pilgrimage.

20140126a.jpg
2014026.jpg




冬の贈り物

冬と聞いて、何に結びつけるだろう。

日本の歌が好きな人は、雪の降る夜のペチカかもしれない。
シベリアに抑留された人は、薪集めかもしれない。
学生は冬休みかもしれない。
酒飲みは、柳川に熱燗かもしれない。
スキーかもしれないし、ワカサギ釣りかもしれない。

私は、陽の光である。

移住してきた当時は、月の光であった。庭のシュロの葉が月の光に反射する。幻想的であった。

この幻想的描写に大和言葉である「冴える」、「冴え渡る」はなんとなくしっくりしなかった。やはり「皎々」でなければなかった。

冬といえば、「月の皎々たるを楽しむ」であった。

それが今では、陽の光に換わった。

冬の光は鋭い。明るさや強さから見れば、夏の太陽に敵わないが、光の透明度・透明感では他のどの季節にも敗けない。

冬が寒いのは自然であり当然である。ことさら意識するまでもない。

しかし、陽の光を意識する、あるいは意識できる季節が冬であることを確かに感じるには多少の感性が必要ではなかろうか。

更に感性が備わっていても、それが活きる環境に当人が置かれなければならない。

春になると、濃霧がやってくる。空中の水蒸気が光を曇らせる。それまで残り何日か。

私はこの地の冬を惜しむ。

補足:
・漢語「透明感」を大和言葉「透き通るような感じ」にしようとしたら、「感じ」も漢語だ。感じを広辞苑で調べたら「おもい」が唯一の大和言葉。あとは漢語で却って難しい。
・感性 私がもっている程度の(その程度の低さでいい)感性という意味で、別に私が豊かだという意味ではない。

英詩百選・・・Growing Old

百選がそろそろ終わる。明日からソネットに入る。

詩には単語にチェックもなければ句や文にアンダーラインもない。20代の私が読まなかったのだ。

この詩人は1819~1888となっているから69歳の生涯だった。

朗読しても美しい響きはないし、少々くどいような詩だが、目に留まったので「老いの一遍」として残すことにした。

Growing Old
(Matthew Arnold)
What is it to grow old?
Is it to lose the glory of the form,
The lustre of the eye?
Is it for beauty to forego her wreath?
Yes, but not for this alone.

Is it to feel our strength -
Not our bloom only, but our strength -decay?
Is it to feel each limb
Grow stiffer, every function less exact,
Each nerve more weakly strung?

Yes, this, and more! but not,
Ah, 'tis not what in youth we dreamed 'twould be!
'Tis not to have our life
Mellowed and softened as with sunset-glow,
A golden day's decline!

'Tis not to see the world
As from a height, with rapt prophetic eyes,
And heart profoundly stirred;
And weep, and feel the fulness of the past,
The years that are no more!

It is to spend long days
And not once feel that we were ever young.
It is to add, immured
In the hot prison of the present, month
To month with weary pain.

It is to suffer this,
And feel but half, and feebly, what we feel:
Deep in our hidden heart
Festers the dull remembrance of a change,
But no emotion -none.

It is -last stage of all -
When we are frozen up within, and quite
The phantom of ourselves,
To hear the world applaud the hollow ghost
Which blamed the living man.

どちらが先に倒れるか、私か家か

去年の秋のことである。

押入の奥から物を取り出そうとして、押入れの前に手をついたら、ボコっと沈んだ。

床でなく押入れと居間の間の厚い角材(名前があるはずだが知らない)が手を支えられなかったのだ。

シロアリにやられたことは明々白々。

日頃の仏心などすっかり忘れ、すぐに虫コロリを隙間から床下に噴射した。もがこうが、あがこうが知っちゃいない。

すぐにシロアリの大群が出てきた。

居間と台所の間の柱は数年前にやられた。2×6材で補強してある。

床の補強は、畳を上げなければならない。畳を持ち上げる力はもうない。

と言って、大工に改修を頼めば、ここもダメ、あそこもダメ、ダメがあちこちで見つかるから、百万で収まるはずがない。

しっかり改修して、「これで10年は安心して住めるよ」と棟梁から言われても、少しもありがたくない。

(百万や2百万は構わないが、余命は今年の6月末だからね)

雨漏りがしたら、古事記の中の天皇のように洗面器を床に置く。
家が傾いたら、寝台の足に木片をかませる。
便所が壊れたら、雉撃ちでいい。

どちらが先に倒れるか、いざ勝負!

130929シロアリ

冬・・・ピークに近づいた

四季のない日本は想像できない。しかし、1年12か月を4等分できる地域は、それほどないのではないか。

私のところは、2つの条件で、それは東北にあることと海に囲まれていることだが、春夏秋冬、均等割とはいかない。

春は5月から7月、夏は8月と9月、秋は10月と11月。冬が12月から4月である。

灯油ストーブは6月の初めまで居間に置いておく。冷える夜があるためだ。

春から秋は、黙っていても過ぎていく。意識しないでも過ぎていく。快適に過ぎていく。

冬はそうはいかない。

11月の終り頃に北西の一番風が吹く。これが冬の始まりである。

厚手のカーテンで寝室を囲わなければならない。
灯油ストーブが正常に働くが確かめなければならない。
否応なく意識する。

これから冬のピークを迎える。

(今日、灯油4缶80リットルを買った。3週間分である。金1万円也で懐に激痛が走る。しかし、夏の冷房費がゼロでもあり、四季を通せば、やはり楽園である。

(朝9時。起床。室温2度。就寝11時。18度から一気に6度に下がる。これでも17年前の移住当時と比べると寒さは格段に弱くなっている。雪もあまり降らなくなった。庭のバケツの氷も半分以下の厚みである。温暖化によるのは間違いない)

リッキーよ、腹を空かせ

昼間のほとんどを寝て過ごしているリッキー。

私が台所で何かしていると、その音でおもむろに起き上がり、のっしのっしとやって来る。

エサの催促である。

ドライフードが残っていても口をつけない。

缶詰を唸り声で要求する。

腹がくちくなると、外出だ。

すぐに戻れば、トイレ。

そうでなければ、数時間戻ってこない。

その時、勢いよく駆け込んでくれば、腹が空いている証拠である。

一目散にエサのある台所に向かう。缶詰を待っていない。

ガツガツ食う。

空腹にまずい物なし(山の手調)。

空きっ腹にゃあ何でもうめえ(下町調)。

Fames optimum condimentum.(ラテン語調)

Hunger is the best sauce.(英語調)

補足の1:
Famesは英語のfamine、optimumは英語も同じ、condimentumはcondiment。(コンディショナーと同じようなもの)

補足の2:
今、リッキーが足元で、私を睨んでいる。目つきは「分かりもしないラテン語とは、キザなヤツ。ブログはいいから、はやく缶詰を開けろ」

尺八・・・ロング・トーンのために

顎の筋力が衰えても、食べることに支障を来す事は今のところない。県議会の公聴会に呼ばれて、一席ぶつ事もないから大声も無用だ。

困るのは、尺八を吹く時である。

一音成仏の一音は「ホッ」であってはならない。「ほ~」であるべきで、「~」が伸びれば伸びるほど、成仏のためによいとされている(かもしれない)。

一つの音を長く延ばせば、ロング・トーンになる。

虚無僧尺八に入門した当時は、2尺5寸管の乙ロで20秒だった。今は、15秒前後だ。

腹筋の衰えもあるが、基本的には口の筋肉の衰えによるものである。

曲の出だしがしっかり発音できても、終りに近づくにつれ音がかすれて来る。4分の長さならまだしも、6分では、最後には音が出なくなる。

口を締めようとしても、筋力がないから締まらないのである。開口面積は口径(共に読んで字の如し)の自乗に比例するから、緩めば緩むほど、等比級数的に呼気が必要になってくる。

尺八の達人を見ていると、大口を開けていない。開けてあるかないかの口径で、時に朗々と、時に陰々と尺八を自在に操っている。狭ければ狭いほどいい。

腹式呼吸はほぼ出来る。腹筋も人並みにある。

足りないのは、顎と口の筋力である。

それには大声がいい。

最初に思いついたのは、純一郎から始まる自民、民主の歴代総理を罵ることだった。しかし、あまりにも品がないので、却下した。

採用したのは、詩の朗読である。

発音の美しさにおいて、漢詩もいいが英詩も劣らない。明日から音読に変えることにした。無声トーキーの弁士になるのも一興だ。

顎と口に力がつけばそれでいい、デタラメな発音でも構わない。

空山人ニ聞カレズ。

空山不見人による副作用

だいぶ前から気になっているのが、口に締まりが失くなったことである。

ご幼少の頃、親から人前では口を開けるものではない、話す時以外はしっかり締めておくものだと教えこまれ、ずっとそれを守ってきたつもりでいた。

それがどうだろう。

車を運転している時、気がつけば口が開いている。散歩の時も同じ。親の戒めをその都度思い出して、締めるのだが、いつの間にやら開いている。

加齢のなせる業であることは間違いないが、私の場合には、これに空山不見人が重なる。

モモのいた時も日本語の発声は少なかったが、今はほとんど発声しない。一日数回のリッキーとメリーへのお声掛けだけである。

しかも、日本語50音のうち使うのは10音かそこらである。静かな場所だから、大声を出す必要もない。

顎の筋肉が人の数倍の速さで衰えているのだ。

それでは顎の筋肉を鍛えるため、どんぶり飯を食うか。食えない。昼は時々スパゲッティを茹でるがだいたいざるそばかラーメンである。

ざるそばを顎の筋肉を使って食べる日本人はいない。アイ アム ア ジャパニーズ!

かくして、今の私は阿呆のように口を開けたまま一日を過ごしている。

みっともないが救いはある。

空山人ニ見ミラレズ

補足:
口を開けて様になっているのがソフィー・マルソーとジョイ・ウォン。開けて「いかがなものか」は、ソフィア・ローレンとジュリア・ロバーツ。

メリーにMilton

私が静かに英詩を眺めている(読んでも意味が分かりません)。

メリーは少し先で食事を取っている。

ガサガサ音がしないと思ったら、いつの間にか後ろに居て、素早い動作で、A4コピーを口にくわえた。

それがたまたまMiltonの詩であった。

メリーは失楽園の著者が作った詩に敬意を払うことなく、タダの紙としてくわえたのである。

私は激怒した。椅子から立ち上がり、尺八を振り回しながら、「肉にするぞ」と追いかけた。

猫に小判、
豚に真珠、
馬耳東風。
メリーにMilton。

ヤギは山羊。山で捕まるわけがありません、ハハハ、骨折り損。

補足:
馬耳東風に異論がでそうですが、ありがたみが分からないという共通点で並べました。

英詩百選・・・篠田一士先生を偲ぶ

英詩百選が半分を越えた。

百人一首がスタンバイしているので、気もそぞろである。

一人一詩でないので、多分80名くらいだろう。

その中の大半は、と言いたいところだが、見たことがあるのは3割ほどである。

3割でも懐かしさにかわりはない。詩人は小説家であったり劇作家であったり随筆家であったりしているから、3割なのである。

Christopher Marloweが選ばれていた。すぐに篠田一士先生を連想した。

都立大で「フォースタス博士」を先生について1年勉強したのである。

先生はものすごい肥満体で、講義を聴いている私の方が、時々息苦しくなった。

懐かしさから、先生のプロフィールをWikipediaに訊ねたら、高血圧で突然亡くなられたとのこと。やはり肥満が災いしたのだろうか。

50年近くの昔のことで講義の内容はすっかり忘れてしまったが、今でも先生のお姿は忘れていない。プロフィールに載っている写真を見つめていたら、涙が出てきた。

ご冥福をお祈りします。

補足:
正確に言えば、一度百選を読んだのだから、3割しか覚えていないということでしょう。

ラジオ体操・・・これでいいのか

昨年暮れから再開したラジオ体操、移住後、2度目のロング・ランである。

インストラクターのガイダンスに従って真面目に体を動かすが、ここにきて肩が痛みだした。

今日、その理由が分かった。

第一、 第二を通して肩の運動が多すぎるのである。

なおかつ、第一と第二の運動のほとんどが似たり寄ったり。第二がなぜあるのかわたしには理解できない。

振り返れば、工場勤務の時、毎朝ラジオ体操があった。第二が使われたことは一度もなかった。時間が惜しいこともあるが、健康管理、安全操業に第二は無益と管理部門が判断したためである。

第一はそのままでいい。

第二は、ストレッチを中心にすべきである。

手首、足首、膝をぐるぐる回す、脚を横に大きく開き屈伸する、前後にも広げる、などが中心となるだろう。

もう一つ。

誘導音楽だが、第一のピアノはそのままでいい。第二は和楽器を使うべきである。

活発な動作には三味線だ。津軽三味線ならなお結構。
優雅な動作には箏がいい。
ストレッチには尺八。30秒のロング・トーンも名手にとっては朝飯前だ。
最後のクール・ダウンには琵琶が最適である。体も心も安らかになる。
リズムに木魚を使うのもいい。

NHKが簡単に改革に乗り出すとは思えない。待っていられない。私は独自の第二を考案した。明日から実施する。

所要時間は全部でこれまで通り10分。短くもなく長くもない、ちょうと良い長さである。

補足:
テレビで模範演技をしているのは、ラジオ体操などまったく不要の体育系の若い女性。だが、ラジオ体操は彼女らのためにあるのではない。NHKの経営者の中から体の弱い、あるいは病上がりの数人を選んでやらせてみるといい。私の提案がもっともであることがわかるだろう。

川柳解題

★割っちゃって 物は言いよう 割れちゃった

食器棚からグラスを取り出す。取り出すつもりでグラスを手に取ると、スッポ抜ける。

食器棚に戻す。戻すつもりでグラスを置くと、棚の手前の空中。

ワイングラスは割れやすいから注意して流しに置くようにしている。洗う段になって、割る。皿や茶碗より背が高いから倒すのだ。

すべて自分の為せる業。度重なって、自己嫌悪に陥った。それで、割れる場合もあれば割れない場合もある、だから、割れちゃったでいいではないか。それからは、ストレスがウソのように消えた。毎月1個割っても、6個あれば今回の余生に不足はしない。

★お気に入り 観る度毎に ロードショー

HDのプロジェクタと120インチのスクリーンが私のAV館である。他に自慢する物がないから、このブログで何度も取り上げている。今は暖房不備で、休館だ。

昨今の携帯電話とパソコンがやたらにはびこる映画にウンザリして、名画をリバイバルしている。

粗筋は覚えていても、細かな会話やシーンはすっかり忘れているのがほとんどである。2000年以降の映画は、粗筋さえ覚えていない。最後の頃になって、この映画は観たな、である。

いつも新鮮、封切り館。

★暇な猫 向こうの目つきも 暇なヤツ

リッキーは昼間2回、明け方1回、出かける。長い時間帰ってこない。その間にも出たり入ったりする。車にはねられる心配がないから、「ほれ、行っといで」と送り出す。ネット碁の最中に外に出せと催促されれば、「ほれ、さっさと出て行け」になる。

家にいる時は、寝てばかりいる。私がお声を掛けても相手にしない。

癪に障るから、頭をチョンと叩いて、「お前、ヒマだなあ」と言ってやる。すると、面倒くさそうに目を開ける。それがいかにも、「そういうお前だってヒマじゃないのかい」と言っているように見える。

★とちっても 結構ですよ 師が笑顔

琴古流から始まって、虚無僧の曲「虚鈴」まで、私の尺八の師匠は複数いる。ギターは埼玉の方に一人、最近仙台の名手に教えを請うようになった。フルートはどうしてもタンギングの仕方がわからないので、音楽教室に行った。

すべて個人レッスンである。いつも思うのは、音楽家一人を一時間も独り占めの対価が3千円から5千円のありがたさである。

それはさておき、何をやっても譜面通りに音が流れない。どんなに短い曲でも、1回や2回、とちる。

師匠は、それでも「よくできましたね」と言ってくれる。良くない事は当人が分かっていても、オレもまんざらではないかいなと思ってしまう。

ある時、ある場所で、大学生の稽古を順番待ちの間に聞くことがあった。

実にうまく彈くものと感心して聞いていたら、師匠が、ものすごい剣幕で、「何回、間違えるのだ!」と叱りつけたのである。師匠がお手本を示す。弟子が真似る。この繰り返しである。冷や汗三斗、冷水を浴びた。

ガミガミ言われるうちが花、言われなくなったらお終いよ。

★お姉さん 今になっては 孫娘

これは映画ファンでなければピンとこないと思う。

「河は呼んでいる」のフランス女優、パスカル・オードレ。
「トロイのヘレン」のイタリア女優、ロッサナ・ポデスタ。

美しいお姉さんに憧れたものだ。去年か一昨年かイマジカBSで鑑賞することができた。

50年の歳月が、お姉さんを孫娘に変えてしまった。

日本映画では、原節子。

こんな上品な日本語があるとは知らなかった。私の周りは、早口、大声が当たり前で、原節子の伸びやかな話しぶりは、その後の私の言語活動に大きく影響した(なら良かったが)。

数年前、「東京物語」を私設映画館で再上映した。やはり、孫娘になっていた。

★灯油缶 持って納得 相対性

60歳までは、30キロのヘイキューブを一人で運んだ。船から下ろし車に積む。65歳になって鶏用のエサ20キロを重いと感じるようになった。今の私は、20リットルの灯油缶が辛い。

重さは変わらない。私が衰えたのである。

バイクもこれの裏付けとなった。

震災で廃車したが、やはりバイクが欲しくなり、馴染みの店から去年購入した。重い。前のバイクの倍位重い。

「今度のバイクは重いねぇ」
「そんなことはないよ。同じだよ」

いくら鈍な私でも意味が分かった。それを話したら、そういうことだと返ってきた。

★仏の私 いつの間にやら ほんとに仏

2000回を超えるこのブログでご承知の通り、私につく枕詞は仏である。

保身汲々の国会議員にも優しく、
傲慢な国家官僚にも優しく、
後知恵のNHKにも優しく、
御用聞きの大学教授にも優しく、
隠蔽体質の企業にも優しい。

そうこうしているうちに、棺桶に入る歳になってしまったなぁ、と思いにふける句のつもりである。

この句は仏に始まり、仏で終わる。ほんとに仏は「ほ」が頭韻になっている。字余りでもお釣りが来るはずだ(余りとお釣りはひとヒネリ)。

(完)

付録:

メリーにMilton。ハテ何でしょう。

門戸開放しました(やはり止めました)

昨年9月から一切のメディアを拒絶し、世間の情報は、長崎の出島よろしく旧い友からのメールだけでした。

私の孤独癖をよく分かってくれていて、そっとしておいてくれました。ありがたいことです。

安倍内閣が今も続いているのか、続いているとすれば支持率はどうなのか。

尖閣・釣魚問題、竹島・独島問題、どうなっているのか。

アルジェリア人質事件の総括は政府から発表されたのか。

拉致問題は解決したのか。

北方領土問題はどうなっているのか。

福島原発事故の対応はどうなっているのか。

大相撲の秋場所、冬場所で日本力士が優勝したのか。

(楽天イーグルスが優勝したのは仙台駅の看板で知っていました)

さる奇特な方から新聞はまとめて頂いていますが、山となって保存されたままになっています。読む時期を待っていたのです。

今年に入って、少しづつ元の精神状態に戻ってきました。

ドロドロしたニュースも胃痙攣を心配しないで飲み込めそうです。

明日から門戸開放です。

私のこの4ケ月の空白の間に日本と世界はどの位変わったのか、「アッと驚く為五郎」それとも「何も変わりゃせんよ」、お立ち会い、お立ち会い!

ニュースの刺激が強すぎれば、直ちにまた鎖国するつもりでいます。小さな島の片隅みの今の平穏な余生を乱されたくありません。

~~~~~

以上は昨日用意した原稿である。

百人一首の古本を包んでいた新聞紙を見るともなく見たら、猪瀬知事が辞職した記事が目に入った。

13年12月25日の神戸新聞である。

「猪瀬氏は都議会終了後、各会派にあいさつ回りをしたが、最大会派の自民党は訪問を拒否。午後2時ころ退庁した際は音楽演奏や花束贈呈などのセレモニーはなく、3人の副知事ら幹部十数人と知事本局の職員約50人が見送った。退職金は1001万1560円が支給される。」

あいさつは挨拶のことだが、記事はひらがなである。良くない。

短い記事から徳洲会グループから5千万円を受け取ったことによることが分かった。

彼は副知事だった。選挙に出る前に退職しているはずだから、その時退職金を受け取ったに違いない。それと徳洲会の5千万、これだけでも、御殿が建つ。

辞職は解任ではないから、自己都合の一種である。民間企業であれば、3年未満の自己都合退職に渡される退職金は、雀の涙である。気前のいい会社で2ヶ月分。並ならよくて0.5ヶ月である。

わずか1年で1千万円。盗人(ぬすびと)に追い銭だって。こんな雅語はいらない。もってけ泥棒だ。

これで呆れてはいけない。

この猪瀬、正門から退庁したのだ。詳しいニュースは知らないが、彼の言動をメディアはさんざん叩いたはずだ。それでいて、正面玄関から退庁したのだから、本人に罪悪感はまったくないのである。

聖人や君子の真似をせよとは言わない。せめて並の感覚の庶民に劣らないように、裏口からこそこそ隠れるようにして退庁するべきだった。

まだ呆れる。

音楽演奏・花束贈呈がなかった。これをそのまま記事にしている。音楽・花束なくて当然。当然どころか不十分である。

音楽の代わりに罵声と怒号、花束の代わりに牛の糞と豚の小便の煮付け、これでなければ話にならない。記事にならない。

どこに居を構えているのか知らないが、隣近所は白眼で猪瀬を村八分にしなければならない。

官職を昇りに昇り、ヤレヤレと椅子に深く座ったら、汚職で失脚する科挙時代の中国を再現しているようなものだ。

~~~~~

ネット・ニュースを開く、新聞を読む、ラジオを聞く、そろそろいいかなと思った矢先である。この記事を読んで、鎖国政策を続ける気になってしまった。

新聞は山積みのままになっている。次回の余生まで温存しておこう。読むかどうかはその時に決めればいい。

今日は、野鳥の鳴き声がよく聞こえた。元気な声だから、若い野鳥に違いない。野鳥がいるのは、エサである虫が出てきた証拠だ。

そして、朝の霜柱、夜の月明かり、私にはこれで十分だ。

老人川柳

過日、刎頚の友から老人ホームの住民の川柳をメールで送られてきた。

身につまされる川柳ばかりだった。

有るのがあれば無いのもある。

さすが有料老人ホームだ、金欠を笑い飛ばす句はなかった。

川柳のルールを私は知らない。

五、七、五の体裁であればかまわないだろう。自分でも作ってみた。

~~~~~

割っちゃって 物は言いよう 割れちゃった

お気に入り 観る度毎に ロードショー

暇な猫 向こうの目つきも 暇なヤツ

とちっても 結構ですよ 師が笑顔

お姉さん 今になっては 孫娘

灯油缶 持って納得 相対性

仏の私 いつの間にやら ほんとに仏

~~~~~

解題は次回で


尺八・・・法器か神器か

散歩の時には必ず携えるのが尺八である。

世の中に尺八を楽しむアマチュアが大勢いるだろうが、都会に限らず民家が軒を連ねている田舎でも、表で尺八を吹くことが出来る環境が備わっている人はそうザラにはいまい。

家の中で吹けない、外でも吹けない、どうするかというとカラオケ・ルームを借りて吹くそうだ。カラオケ・ルームに一度も入ったことがないが、尺八を吹く雰囲気ではないように想像する。

私は、家にいても、それも深夜でも吹ける、春になれば縁台で吹ける。恵まれた環境に感謝している。

これだけでも恵まれ過ぎだが、散歩は更に恵まれている。一歩外に出れば、竹と雑木の林。落ち葉を踏みながら尺八を吹く。執念、怨念、雑念、邪念、疑念、陰念、無念、私の心の中から消え去る。

問題がないわけではない。

手袋をはめなければしもやけができるから、はめたまま吹く。チまではなんとか音らしき音がでるが、それより下は音がでない。布手袋で穴を押さえても、完全には穴が塞がらないためである。

対策。

ロング・トーンを練習することにしている。

「息を深く吸って、腹に力を入れて、ふ~~~」

上達するはずがないのに、すばらしい音がする。

冬になって木の葉が落ちる、向かいの小山まで見通せる。その小山からこだまが返っているのだ。

モモがいた時は冬でも海に向かって吹いていた。今年になって散歩コースを裏山小径に換えたため、初めて知ったのである。

尺八にショパンの練習曲の技巧はない。ファンファーレの音量もいらない。

一人静かに心を落ち着かせ、自分が出した音のこだまに耳をすます。

虚無僧尺八は法器という。私にとっては加えて神器である。

注:
1.ロング・トーンは読んで字の如し、尺八の世界で言えば一音成仏である。私は、一音さえいらないのではないか、無音成仏が誠でなかろうか、こう思うようになった。
2.ここでいう尺八は3曲合奏用の1尺8寸の標準管ではない。虚無僧尺八と称される長管である。

漢文はラテン語である

フランスやイタリアの義務教育でラテン語を必須科目にしているかどうか、私は知らない。多分教えていないだろう。高校でも教えていないのではないか。

ラテン語はフランス語やイタリア語の原形である。しかし死語である。

昨今の膨大な新語の発生を前に、死語を呑気に教えているとは思えない。

多分、カソリック系の一部の学校だけではないか。

翻って、日本の漢文。

今どき、「予れ惡んぞ生を悦ぶの惑に非ざるを知らんや(予惡乎知説生之非感邪)」なんて言う日本人は一人もいない。中国人も日常会話に出すことはない。

漢文は日本語の死語なのだ。

今日に至っても、大学受験の国語に出題されていることに違和感を持たない方がどうかしている。

私は漢文が大好きである。それは、必要からではなく、趣味として好むのである。

万人を対象にした教育に漢文はいらない。

ワカサギ釣り式読書法

海が吠えている。風が唸っている。

この陽だまりは聞こえるだけで、しぶきも来なければ、風で頁がめくれることもない。

爪先と腹に貼るカイロ。

春の到来の近きを思わせる強い光は、私の衰えた視力にちょうどいい。

ワカサギ釣りの釣り人は、熱燗を持参しているのではないだろうか。真似のついでだ。私は熱いコーピーを携えよう。

(左下の白い物はメリーです)

20140116書斎

ひらがなをたたえる

にわの いけの みずが こおった。
しがいでんしゃと くるまが しょうとつしたようだ。

これが読みにくいと感じるのは、小学校に入るやいなや、漢字がある言葉は漢字で表すように教育されたからである。

二羽の行けの見ずが子追った。
死骸伝射と来る間が省訥した酔うだ。

これでは万葉集だ。

漢字の本山である中国語でも同じことである。

Ni shi ge shenme tongxi!
Huogai!

声調がついてなくても、中国人は漢字に置き換えることなく意味を読み取る。

漢字は表記としてはもはや無価値である。だからといって、無用ということではない。

美術・芸術の世界の一角を占める価値が十分あるからである。


これが日本語か(続き)

私が何を言いたいのか、とうの昔、分かっておられると思うが、一応続けることにする。

GARDENのPONDのWATERがFREEZEした。

これは日本語である。そんなバカな。

GARDENはガーデンと発音しない。ニワと読む。
PONDはポンドと発音しない。イケと読む。
WATERはウオーターと発音しない。ミズと読む。
FREEZEはフリーズと発音しない。コオルと読む。

バカでもなんでもない。バカだとしたら、次もバカである。

庭の池の水が凍った。

STREET CARとCARがCOLLIDEしたSEEMです。

STREET CARはストリート カーと読む。
次のCARはカーとは発音しない。クルマと読む。
COLLIDEは衝突、SEEMは模様とそれぞれ読む。

市街電車が車と衝突した模様です。

音読みがあると思えば訓読みがある。そこには原則はない、出まかせで言葉ができている。みんなが承知すればそれでよいという考えからかもしれない。

それも言葉が生き物であるから間違ってはいない。しかし、このような生き物、生き方は決して美しいものではない。

次の世代の日本語は、表記から改めていくべきだと思っている。話し言葉もそれにつれて美しくなるからだ。

良き哉、昭和の電車

これも鳴子峡に行った時の写真である。

通勤・通学の時間帯でないとはいえ、これでよくやっていけるものとJRの経営者の手腕に感心した。

一人の体重が60キロとして10人で600キロ、0.6トン。車両の重さが30トンとすると、電力はヒトに2%、98%は鋼鉄の移動に使われていることになる。

それなら、昔の馬車よろしく木製の車輪、木製の車両にしたらどうか。ずっとエネルギー効率が上がる。

これで思い出すのが、桜木町電車事故である。

終戦後の電車は小学校や中学校と同じで板張りの床だった。

火災が発生して、多数が犠牲になった。

窓から外に出られず、阿鼻叫喚地獄だった。窓の隙間が十分でなかったのである。

窓から助けを求める乗客、それをどうする事もできず、助けたくても術がない救助隊。

このニュースは私にとって衝撃であった。生々しい写真が新聞に載ったし、ラジオのニュースもその悲惨さを伝えていた。父や兄が「電車は一両目と最後尾には乗るものではない」と話し合っていた。

私は今でも電車に乗る時は先頭車両と後尾車両には乗らない。意識して乗らないのではなく、習慣が身に付いているのである。

話をこの写真に戻すと、窓が開くようになっている。万が一火災が発生しても、窓から外に出られる。捻挫か骨折くらいはするかもしれないが、焼死に比べればどうということはない。

年に数回、新幹線に乗る。窓が開かないようにできている。大宮で乗る在来線にも窓が開く車両はない。川越から乗る私鉄も同じである。

これで車両火災が発生したら、乗客はどうなるのだろう。私は年に数回だから火災車両に乗り合わせる確率は、限りなくゼロに近いが、現役の宮仕え諸氏はどんな思いで乗っているのだろう。

鉄道会社は、「過去の火災事故を教訓にすべて難燃材、不燃材を採用している。火災の発生は想定しない」とコメントするかもしれない。

衝突回避のシステムと車両の不燃化からそういうコメントがなされるとすれば、間違いである。

なるほど、桜木町列車事故は再発しないだろう。しかし、最も危険かつ不安定な要素であるヒトの暴走に対して無力であることは、当時と少しも変わっていない。

20リットルのガソリンをバックパッキングして、自分一人で死ぬのは嫌だという理由で乗客を巻き添えにする自殺者がいるかもしれない(誰でもいいから殺したかったというヒトが現実にいる)。

航空機の搭乗チェックを駅の改札口でやる訳にはいかない。

原発事故と同じで、車両火災に想定外は禁句である。

発生した時に、乗客が逃げられるようにしておくことは、空気抵抗がどうこういう流体力学(すなわちコスト)以前の問題である。

それを怠っているのが、開かない窓の電車である。

都落ちと馬鹿にされるかもしれないが、この石巻線の電車は窓が開く。

窓は開け閉めができ風が入る、いざという時に人がそこから逃げる、これができるから窓であって、埋め込みの窓は外が見えるというだけのただの壁である。

蛇足のようだが、天井にある扇風機。これも車窓から眺める田園風景によく似合った。

昭和のレトロよ、永遠なれ!

11.01.石巻線車内

これが日本語か

GARDENのPONDのWATERがFREEZEした。

STREET CARとCARがCOLLIDEしたSEEMです。

これを皆さん、どう読みますか。どう見ますか。

続きは次回で。

「なく」でいいではないか

娘が泣く。
鶏が啼く。
蝉が鳴く。
父が哭く。

娘が鳴く、蝉が泣く、とは書かない。国語の試験でこう書けば×である。

漢字があるから×になる。×なら成績が落ちるので漢字を勉強する。

娘がなく。
鶏がなく。
蝉がなく。
父がなく。

漢字がないと困るならともかく、日本人の感性では、「なく」で十分なのだ。娘が鳴くと答案用紙に書けば、先生は、その生徒に「お前はいつから江戸家猫八に弟子入りしたのか」と叱られる。

教育漢字だ実用漢字だと年がら年中有識者が漢字をとっかえ引返えいじくりまわしているが、彼等彼女等はそれが飯の種だから夢中になるのである。

ひらがなとカタカナで日本語は不都合なく表記できる。漢字にそろそろ里帰りを願うといい。

ひらがなもカタカナも漢字がなければ生まれなかった。ここがフランス語とラテン語の関係と違うところだ。その恩は忘れないように。

三種の神器

散歩はメリーのエサ喰いのためのようなもので、ヒトである私はヒマでヒマでたまらない。モモがいた時はマイペースのメリーを放っておいて、一緒になって遊んだものだが過ぎた昔の話だ。

今、CDラジオとA4コピーと尺八をバックパッキングしている。私の三種の神器である。

CDラジオにはNHKのラジオ体操が入っている。第一と第二があってその間に首の運動がある。およそ10分で私のフィールド書斎に着くと真っ先に始める。

両手を高く、胸を反らして、膝を深く、等々インストラクターのアドバイスがある。ややもすれば惰性に流れる単調なラジオ体操だから、一動作ごとのアドバイスは大変助かる。

その途中で、「息を吸って、吐いて」という声がある。最後のクール・ダウンでなく途中にあるのである。

これはラジオ体操でなくても、誰もがやることだ。

とてもユーモラスである。

次のA4コピーはすでに紹介済みの漢文や英詩のことである。机に向かって読むべき内容であることが分かっていても、なかなか読む気にならない。ついマウスを掴んでネット碁を始めてしまうのだ。

ワカサギ釣りは厚い氷の上で防寒対策を万全にして、小さな穴に釣り糸を落とす。これにヒントを得て、私は裏山の小径を書斎として使ってみた。東南に面している場所のため日は当たる、風はないという氷上のワカサギ釣りよりはるかに恵まれた条件で書を開くことができた。ここをフィールド書斎と呼ぶことにした。20枚(片面コピーだから20ページ)が一日の読書である。

尺八については、次回に。

20140116三種の神器

落書き電車を走らせるな

11.01.落書き電車

漫画は机に向かって読むものではない。文机の前に端座して読むものではない。

夏ならステテコ姿で扇風機に当たりながらごろ寝をして読むものである。冬ならこたつに足を突っ込んでごろ寝をして見るものである。あるいは眠りに入る前の気晴らしのためのものである。

白昼堂々と世間に顔を出すものではない。

かの有名なニューヨークの落書きだって地下鉄の電車である。アメリカは、与太者やゴロツキでさえその分限をわきまえている。

何も漫画が下等と言っているのではない。時と場所をわきまえなければいけないと言っているのである。

イブニングドレスを着て畑で大根を抜くか。畔を均してそのまま夜に泥の付いた長靴でオペラ劇場に行くか。

漫画を見ていないから想像するだけだが、今回の写真は座頭であろう。血色が悪くまるで死人である。人相も凶である。こんな落書きがまかり通って、観光客誘致に貢献しているのだから我が石巻も堕落したものだ。

ついでだから加えると、この座頭の等身大の人形が石巻商店街に立っている。薄気味悪いこと、はなはだしい。

漫画は面白い。しかし、過ぎれば俗悪となる。

落書き電車は俗悪の極みである。JRと落書き推進の賛同者に猛省を促す。

英詩百選・・・和製洋書だった

大矢根文次郎先生を読み終えて、一昨日から英詩百選を散歩に連れて行っている。

どうも落ち着かない。何でそうなのかわからない。

そこで序言を読んでみた。

Mr.Torao ∪yedaに負う所大なりとあった。

どう見ても日本人の名前である。オクスフォード大学で英文学を教える日本人が昭和2年(初版年)にいたとは思えない。Uyedaは昭和2年だからで今ならUedaだろう。

今日の散歩はシェイクスピアから始まった。THE DIRGE FOR IMOGENの脚注で煙突掃除小僧は日本人には全く縁遠いとあった。

これで英詩百選が和製洋書であることがはっきりした。

この選者であるE.Blundenは日本政府に招聘され東大かどこかで教授をしていたのだろう。

確かめるつもりはないが、丸善書店で買わなかったのは、輸入洋書が高かったためでなく、そもそも3階になかったからであったのだ。

モヤモヤが解消しスッキリした。

せっかくだから私の大好きな詩が選ばれていたので、記念に転載することにした。

20140115 ingratitude

落書き電車・・・醜なるもの

去年の秋、初めて鳴子峡へ紅葉を観に行った。宮城に移って17年、その間、2~3度、行ってみようかという気になったが、石巻市街に一晩泊まるのが億劫でそのままになっていた。

高校の水泳部の仲間が東北を旅行するというのに誘われて出かけた。指で折って数えられる程度しかいない友の一人と一杯やれるのが楽しみだった。

電車はがら空きで、レトロである。心が和んだ。乗り換えの小牛田駅で、今乗ってきた電車をみて驚いた。

一面、落書きなのである。

11.01.落書き電車a

イングランドの田園をこのような電車が走っているか。

カナダの針葉樹林をぬってこのような電車が走っているか。

スイスのアルプスをこのような電車が走っているか。

日本だって、稲作の田が広がっている風景がある。トンネルを抜ければ山に山だ。その風景を落書き電車が台無しにする。

これが石巻の観光誘致を目的としていることは明らかである。商売のためには、美観などクソ食らえであろう。

しばらくすると、数人の観光客がやってきて、「あら、石ノ森章太郎よ、写真、写真」と興奮して電車を背景に∨サインの写真を撮った。

1時間後には鳴子峡で紅葉を愛でるというのだから図太い神経である。

JRの電車だからJRの勝手だと言って済ませる訳にはいかない。

石巻の市民全部が落書き電車に賛同しているわけではないことを世界に知ってもらいたくて恥をさらした。

(ご丁寧にIshinomakiとアルファベットになっている)

FC2Ad