老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

酔っぱらいの侍が町民をいじめている。大勢の町民がその周りを囲んでいる。気狂いに刃物、侍に刀。みんな怖くてただ遠巻きにして見ているだけである。

侍の後ろで、「バカ侍、止めろ」と怒鳴る声がした。

侍は振り向く。言った本人は、後ろの方で首を縮めている。侍には誰が叫んだのか分からない。

昔観た時代劇映画の1シーンである。

私はここに武士と町民の違いを見た。武士は、己の発言に対して責任を持つから、堂々と名乗る。

言っておきながら、隠れるような卑怯者は武士にはいない。町民風情である。

ネットにはこの手の町民がウヨウヨしている。匿名をいいことに、罵詈雑言、日本語か猿語かわからないような言い方がまかり通っている。

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今度、中国はネット利用者に実名を義務付けることにした。

私は大いに賛成である。

中国政府が酔っぱらいの侍レベルにないからである。13億の民を大きな混乱を起こさず、支配していることがその証拠である。

自分の属している組織を批判するのに勇気がいるのはどこの国でも同じ。その勇気の程度に違いがあるだけである。

命を賭すほどの勇気が必要な組織もあれば、何をやっても言っても全然お咎めのない勇気不要の組織もある。

中国権力が勇気を求めているのだから、その勇気を持った者が対抗すればいい。

どこの誰か分からないように自分を隠して、自説を開陳するようでは、最初から国家権力を恐れる勇気なき者である。

いくら正論を吐いても、これではダメである。

匿名が許されなくなるとネット世論が萎縮するかもしれないと心配する向きがあるが、とんでもない、この程度で萎縮する者がネットから消えるのは大いに歓迎である。

日本も早く実名表示を義務化すべきである。

言うまでもないが、これは発信者に限ったことである。

受け手の実名は公開してはならない。これをすれば、秘密警察国家に後戻りすることになるからだ。

言いたいのは、発信者は実名で発信する勇気を持て、その勇気がなければ発信するな、これである。

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ネット利用者に「実名制」、中国全人代が可決
読売新聞 12月28日(金)19時41分配信
 【北京=牧野田亨】中国の全国人民代表大会(全人代=国会)の常務委員会は28日、インターネット上での個人情報管理を強化する決定(法律に相当)を可決した。

 ネット利用者に身元情報の提出などを求める内容で、「事実上の実名制」との批判が出ている。

 ネット事業者は、契約時やサービス提供時に、利用者に対して正確な身元情報の提出を要求しなければならないとされた。さらに、利用者が発信する情報の管理を強化し、法規に違反する情報はすぐに発信を停止・削除したうえ当局に報告する義務が事業者に課された。違反した場合、罰金やサイト閉鎖、営業許可取り消しなどの対象となる。

 この決定について、ネット上では、「中国のネットの言論統制は世界の先端を行くのに、さらに実名制にするのか」などの批判が相次いでいる。
最終更新:12月28日(金)19時41分

付の1.
新聞からも匿名を排除すべきである。

「ある自民党議員はこう語った」、「ある政府高官によれば」、「信頼筋によれば」等々新聞の常套句も、止めるようにしなければならない。

匿名を条件にして語る者の無責任のお先棒を新聞社が担いではいけない。

付の2.
Yahooニュースで知った限りの情報を元にして書いてみたので、誤認があるかもしれない。

老いの証(4) 所有

だいぶ前、「老いの証」を連載した。「所有」を掲載する予定が、放置されたままになっていた。

なぜそうなったのか思い出せない。放置されたままという記憶があるだけである。

今年の分を、来年に持ち越せば、元旦に新年の気分がでない。それで、おっつけ書き上げることにした。

生きている間は、物は増える。子供の時から文学全集だマイカーだヨットだ別荘だと自家用機だと持っているのは例外中の例外、ほとんどの人々は最初に手にした給与を物に代えていく。そして、徐々に物を増やしていく。

食べ物と違って、捨てない限り、増えていく。

ここまでは、言ってみただけ。

これからが本論である。

余命半年と仮定してから、自分の物をどんどん減らしていった。

数年前のエア・ライフルに続いて、今年は漁船を手放した。以前のように、初夏から夏にかけて海にでることがなくなった。天候の急変で何度か怖い思いをしたが、もう心配しなくて済む。

次が、レーザーディスク。観る時間が残されていないのだから、持っていても仕方がない。ゴミに出したら150キロになった。観ない、聴かないソフトは単なるアクリル円盤である。

そして、先月、愛車のジムニー。ブレーキ系統のトラブルで廃車にした。ジムニー最後の板バネ仕様で、マニアが多い機種であった。修理費はそれほどでのものではないが、船賃が1万6千円で、これが痛い。20年乗り続けるつもりだったが、17年で止まった。

本は新聞社から出た震災記録が数冊。ほか10冊ほどの座右の書以外全部ゴミに出した。魯迅選集はだいぶ前のこと、角川文庫の資本論もついにゴミとなった。尺八やギターの譜面は残っている。

衣類は、これから3年寒い思いをしないで済む程度を残し、全部処分した。ネクタイは背負籠の帯になった。

客が泊まることもないだろうと、布団や毛布、ベッドも処分した。これらは、敷地の片隅に雨ざらしになっている。

毎日使う物は、そんなに多くはない。思い出のために残しておくのは、若い頃の話。老いれば、思い出の品を出して眺める時間がない。

余命半年のつもりで処分した中には、残しておけばよかったと後悔するものもある。

また間違って処分したものもあるが、許容の範囲に収まっている。

身の周りから物が減っていく、その分空間が戻る。この爽快さはやってみないと分からないと思う。

老いの最後には、がらんとした4畳半に、座布団一枚。脇には尺八1本。

こんな非・所有が楽しいと思えるのだから、老いもまんざらではない。

付の1.
自発的に処分することが非・所有です。やむを得ず手放したジムニーは惜しい。島暮らしを恨みました。

付の2.
本年の予告分は全部実行しました。今年はこれで、お終い。では、皆さん、よいお年を!

追:
番号を振るために過去の記事を確認しました。そうしたら、この連載は2011年7月~8月でした。今年のことではなかった。1年半も気になったままということで、歳をとると(またはボケると)1年もあっという間。

天声人語の「太陽がいっぱい」

「アラン・ドロンの出世作「太陽がいっぱい」は、裕福な友になりすまして財産を狙う話だった。別人を装う点は振り込め詐欺も同じだ」

天声人語である。

これは、間違いである。

主人公トム(アラン・ドロン)は、アメリカに連れ戻すことで5千ドルを手にすることができる。当時の5千ドルは今では250万円か300万円だろう。その報酬で十分だった。

だが、友は一向に帰る様子はない。退屈しのぎにトムをいいようにこき使う。そして、ふざける。

トムは次第に敵意を抱くようになり、ついに友を殺す。殺すシーンで、トムは、全財産を取ってやると友に告げる。その通り、殺害後、友になりすまして全財産1千万リラを手に入れる。

1千万リラが今の価値でどの位のものなのか、カフェテリアで800リラを払った所を見ると、2千万円かそこらか。とにかく友の口座から全額預金を引き出した。

そのカネをスイスの銀行に移した、あるいは自室のベッドに下に隠した、あるいはカジノに毎夜通った、これなら、天声人語の言う通りである。

そうではない。

全財産をそっくり友の恋人に与えたのである。小人なら自分の内ポケットに一束か二束をねじ込むかもしれないが、トムはそんなケチな青年ではない。

そして、最後のシーンで、つぶやく、「最高の気分だ」と。

この映画の本質は、冗談やふざけが、人によってはイジメとして受け取られるということ、これである。

初めは銀行の窓口で友が下ろした札束を物欲しげに眺めた。しかし、度重なる友の態度に、カネはどうでもよくなってしまった。ウラミハラサデオクベキカである。

友に悪意は全くない。魚の食べ方も親切心から教えたのだ。消えたトムのボートは必死になって探す。

友の態度は終始一貫している。軸がブレていない。トムの心境が変化していく。この過程が「太陽がいっぱい」の面白さである。

振り込め詐欺と同日に語るとは、天声人語よ、何を観たのか。

付の1.
お金の額のことですが、当時の米ドルは公定が360円。闇では500円から600円していました。だから今のカネでは300万円辺りでしょう。黒澤明の「野良犬」でも貯めた結婚資金が2万円とか。今の200万円かそれ以上でしょう。どうも、古い映画の金銭感覚には馴染めません。

付の2.
スクリューに絡まったロープ。ヨットでも、入出港ではエンジンで航行します。あれだけ絡まったら、身動きが取れません。自分の船の船外機に何回もロープを絡ませた私は経験から言えます。港に戻る前にトムは異常に気がつくはずです。

付の3.
トムが腰巾着ならこういう映画にはなりません。腰巾着は、そもそも映画の主人公にする価値がないのです。

付の4.
ふざけがイジメに変わるのは、ふざける側にあるのではない、ふざけをイジメとして受ける側にある、私の持論です。教育関係者やカウンセラーがいくらイジメをなくそうとしても、子供たちにふざけっこを禁止しない限りなくなりません。

付の5.
謹慎前に予告していたテーマです。

オリンピック(6) ウソとタテマエ、紙一重

オリンピックは勝つことに意義があるのではない、参加することに意義がある、こう小学生時代に教師から教わった。

勝つか負けるかに生活が掛かっているプロとの違いを単純明快に語ってくれた先生は今も忘れていない。

私は高校の水泳部に属していたから、この教師の言葉は忘れない。ビリでも記録のいい後輩に大きな顔ができた。

今は通用しないかもしれない。勝敗が直接経済的利益にからんでいるウソ・オリンピックが日本に蔓延しているからである。

根本原則なるものが日本オリンピック委員会から出ている。

コピペという手法であるが、せっかく写したので、そのまま転載した。

実態と根本原則との乖離を実感できると思う。「ウソとタテマエが紙一重」の表題がふさわしい今日のオリンピックであることがよく分かる。

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オリンピック憲章 Olympic Charter1966年版 (財)日本オリンピック委員会

根本原則

・1 近代オリンピズムの生みの親はピエール・ド・クーベルタンであった。氏の提案にもとづいて、1894年6月、パリ国際アスレチック会議が開催された。国際オリンピック委員会(IOC)が発足したのは1894年6月23日であった。1994年8月の第12回総会はオリンピック百周年に当たり、「Congress of Unity」をテーマにパリで開催された。

・2 オリンピズムは、肉体と意志と知性の資質を高揚させ、均衡のとれた全人のなかにこれを結合させることを目ざす人生哲学である。オリンピズムが求めるのは、文化や教育とスポーツを一体にし、努力のうちに見出されるよろこび、よい手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造である。

・3 オリンピズムの目標は、あらゆる場でスポーツを人間の調和のとれた発育に役立てることにある。またその目的は、人間の尊厳を保つことに重きを置く平和な社会の確立を奨励することにある。この趣意において、オリンピック・ムーブメントは単独または他組織の協力により、その行使し得る手段の範囲内で平和を推進する活動に従事する。

・4 IOCが率いるオリンピック・ムーブメントは、近代オリンピズムにその端を発している。

・5 オリンピック・ムーブメントは、最高機関IOCのもとで、各種組織、競技者、その他の人たちを統括する。彼らは、オリンピック憲章によって導かれることに同意した人々である。オリンピック・ムーブメントに帰属するための基準は、IOCによって承認される。スポーツの組織および管理は、IOCが承認する独立のスポーツ団体により監督されなければならない。

・6 オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある。

・7 オリンピック・ムーブメントの活動は、結び合う5つの輪に象徴されるとおり普遍且つ恒久であり、五大陸にまたがるものである。その頂点に立つのが世界中の競技者を一堂にあつめて開催される偉大なスポーツの祭典、オリンピック競技大会である。

・8 スポーツの実践はひとつの人権である。何人もその求めるところに従ってスポーツを行う可能性を持たなければならない。

・9 オリンピック憲章は、IOCが採択した基本原則、規則および細則を成文化したものであり、オリンピック・ムーブメントの組織および運営を統括し、オリンピック競技大会開催のための諸条件を規定するものである。

Olyimpic Charter 1996年版

オリンピック(5) クーベルタンが泣いている

どこの国の国歌が演奏されようと、どこの国の国旗が掲げられようと、試合が終われば、お互いの健闘を讃え合う。政治的に不愉快な国の選手に対しても、軍事同盟国の選手に対する態度と差をつけない。スポーツにはルールはあっても国境はない。

国に戻れば、金だ銀だとカネ偏に執着せず、敗者を勝者と同じ態度で暖かく国民が迎える。金メダルだから1千万円のボーナスなんて論外である。あってはならない事である。

それが今はどうだ。

金メダルを首にぶら下げるだけで、総理大臣から表彰される。出征軍人の凱旋である。

ヒトラーを笑えない。

オリンピック精神が失われたオリンピックには、宗教改革に匹敵するような改革が必要である。

それができなければ、日本は新しい世界規模のスポーツ祭典を立ち上げるべきである。

優勝者には、金メダルなどという偶像はいらない。表彰状一枚でいい。これこそオリンピック精神である。

オリンピック(4) 見世物興行である

髪を乱して、女同士が取っ組みあう。これを観て喜ぶ。相手をマットにねじ伏せて、最後に残った女がメダル獲得する。

私は帝政ローマ時代もこんなことで大衆が興奮したのだろうか。

おてんばは少女時代までだから大人たちから可愛いと思われる。

筋骨隆々でドスンドスンとやられては、何とも言いようがない。

男女同権は結構だが、「権」の中身が同一であるのは間違っている。

昔、タイム誌だったかイスラエル軍の写真の中に銃を抱えた女性がいたのを見て(しかも笑っている)、ユダヤ人とは本当に戦争が好きな民族であると覚ったものである。

殺し合いの軍人と並べることに異論があろうとも、少なくとも、女子レスリングは、見たくない見世物興行である。

オリンピック(3) それほど勝ちたいか

男子サッカーで、選手に引き分け狙いを監督が指示した。

呆れた監督である。

勝ち上がるために、戦力を温存したというのが理由だそうだが、とんでもない間違いである。

自分のチームが勝ち上がれば、その分他所のチームが脱落していく。ゼロサムである。

どんな試合であろうが、その時その時に選手に全力を出させ戦わせるのが監督の役割である。

戦っている選手に水を差したのだから、呆れた監督である。

彼の頭の中には、勝敗しかない。フェア・プレイの精神もなければ選手に対する思いやりもない。出場選手は、もしかしたらこのグランドが最後になるかもしれないというのにだ。

呆れていたら、バトミントンもひどかった。試合をただ消化しただけだったという。

これも、日本のサッカー監督と同じ穴のムジナ。

こういうスポーツマンの腐敗を糾弾しないとは、マスコミは一体何のためにあるのだ。

オリンピック(2) 人を貧相に変える

愛ちゃんこと福原愛である。

卓球台に腕が届くか届かない頃の愛ちゃんは、名の通り愛らしく、一生懸命に返球する姿は、見ていて微笑ましかた。

それがどうだ。

今度のオリンピックで見た福原愛からは愛ちゃんの面影がまったく消えていた。

試合中にキーキーと奇声を上げる品の無さ、勝負がついた時の敗者に対する態度の品のなさ。勝敗が決まれば、敵も味方もない。相手をいたわるのがスポーツマンシップというものである。シンガポール戦を観たが、慰めの表情の一かけらもなかった。敗者に向けた目つきの貧しさ。

勝敗にこだわるとこうも人が悪い方に変わるものか。

メダルを手にした時の福原愛は、満面笑顔である。しかし、その笑顔の中の双眼は貧かつ濁である。

オリンピック(1) 勇気と感動を奪った

この表題から誰が誰から奪ったのか、はは~んと想像できる人は私の仲間である。

日本のマスコミは判で押したようにメダリストを日本人、とりわけ子どもたちに「勇気と感動を与えてくれた」と褒めに褒めた。

何が勇気かさっぱり私には理解できないが、感動については、金属メダルを日本に持ち帰ってことであろうと推測する。

とにかく「勇気と感動」を日本の選手は日本の子供たちに与えてくれた。

その等量分、他の国の子供たちは勇気と感動を自国の選手から与えられなかった。

競争はゼロサムである。

誰かが一番になれば他の誰かは一番になれない。ビリも同じ。自分がビリなら他の選手はビリの名誉から外される。

百億円単位のカネを湯水のように使って数個の金メダル。それを日本人は喜ぶ。

1億円さえ選手育成に充てられない貧乏国の子供たちの身になってみたらどうか。

とても、「勇気と感動」なんて恥ずかしくて人前で口に出せないはずだ。

「勇気と感動」の意味を深く考えろとは言わない。最低限、日本のマスコミは、もう一度オリンピック憲章を読み返してから、記事を書くべきである。

余命の延長は自己申告で

バーチャル余命があと2日となった。

田中真紀子さんを買いかぶり過ぎて、とんだ恥をかいた。それで2週間の謹慎を自己申告したのだが、ダラダラと今日の余命残り2日まで続けてしまった。

約束を守らない民主党政権をけちょんけちょんにやっつけていながら、自分には甘い。良くない。このまま年を越せば、本当に余命が尽きたと誤解されるかもしれないので、なんとかつなぎを作ってみた。

なぜ己に甘くしたのか。理由はある。理由というのは開き直りに近い意味合いがあるので、ここでは言い訳けとすることにした。

言い訳の1.
視力がめっきり衰えた。ここ数年、外界を厚いガラスを2枚重ねてその重ね目で見るような状態が時々起きていた。稲妻のようなものである。

重い物を動かしている時や、碁を打ったり映画を観ている時に起こる現象で、私はこれをドクター・ストップと名付けて、疲労の尺度にしていた。

最近は、特別なことをしていない時にもこのドクター・ストップが掛かるようになった。

ディスプレイを睨んでいてもこれが起きる。それで中断となる。無理をしてまでブログの原稿を書くことはない。そういう気分であった。

言い訳の2.
パソコンの不調が二番目である。埼玉から持ってきたパソコン2台はいずれもOSは7。これがどうしてもISDNに通用しない。64bit用のバージョンをダウンロードしてもダメ。NEC、朝日ネットと東日本NTTの窓口は皆親切で丁寧に応対してくれたが、解決できなかった。

やむを得ず手持ちのXPのパソコンを使おうとしたら、寿命なのか、フリーズが頻繁に起こる。予備のパソコンは、WORD原稿が消えてしまう。

手持ちの4台はすべて動くことは動くが満足できるものはない。

我慢がならず、先週中古のXP搭載のデスクトップを購入した。リカバリCDも別途手当したので、この問題は解決している。

言い訳の3.
選挙があった。その間に週刊誌並みに言いたい放題をしていいものか悩んだ。陰気なウソつき首相の顔を見なくて済むと思うと愉快でならなかった。自滅を眺めるだけで十分ということだ。

それに、国政選挙については、前回の選挙の時に言い尽くしているように覚えているから、何としても言っておきたい事があるという心情にはならなかった。

言い訳の4.
寒い。とにかく寒い。去年の冬は15年ぶりに埼玉で過ごした。どんなに寒くても、自転車で郵便局やギターのレッスンに行けた。家に帰れば静かなエアコンが20度を保っている部屋で、寒さを感じたことはなかった。(光通信の快適さも相乗効果があった)

ここでは、朝9時の室温が0度である。冷蔵庫の方が暖かではないだろうか。すきま風も入ってくる。埼玉は2X4工法の家で、機密性が高い。分厚いガラス・サッシのお陰で名物赤城おろしが吹いても、平気の平左である。灯油の給油に気を使うこともなかった。

専門の物書きだったら、電車の中、飲み屋の片隅、他どこででも集中できるだろうが、そうでない私は、書くこと以外に何かあると、気が散ってしかたがない。

言い訳その5.
ブログに写真をアップロードしても、意味がなくなってきた。13歳のモモ(犬)を始めリッキー(猫)もメリー(山羊)も、私の頭の中には若くて元気な頃の姿がインプリントされている。延べ数百羽の鶏の姿も忘れていない。島の情景は震災ですっかり変わってしまった。自慢するような場所はない。

言い訳その6.
碁とギターに凝っている。碁は私にとっては時間消耗の麻薬である。それが分かっているから、島にいる間はネット碁を止めることと決めていた。しかし、麻薬の麻薬たる所以か、再開してしまった。時間は取られる、目は疲れる、いいことが一つもない。

ギターも上達しなくていいという気軽さから、ついつい手を出してしまう。尺八の陰々滅々とした響きが、今の私には耐えられないこともある。ギターの音色に魅せられている。

告白できない理由もいくつかあるにはあるが、言い訳けにはなるほどのものはない。

パソコンが正常に機能するようになった今、再びブログを開こうと思っている。

そのためと言うわけではないが、余命の延長をこれまでと同じ6ヶ月に決めた。

(余った命、楽しくやろうじゃありませんか)

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