老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

開店休業のお知らせ

8月中、開店休業させていただきます。

こう暑くては、何も出来ません。

ひたすら秋の風を待って毎日を送っています。

若い時は、時間を惜しんで暑い夏でも何かをしましたが、今は、だらけていても惜しいという気が起きません。言い訳がましいですが、昔の夏はこんな夏ではなかったと思います。あるいは、夏は同じでも受け手の私の体力・気力が衰えたことが要因かも知れません。その相乗効果かもしれません。

緊張感が完全に失われていますから、書いても「泡のごとき」です。

そういうわけで、今月一杯開店休業させていただくことに決めました。

書かずにいられないような何かが日本に起きれば、または、書きたい意欲が発作的に湧いたら、臨時開店するかも知れません。

では、皆様、御機嫌よう。

付:
泡のごとき記事でない記事がこれまであったかいな、と怪訝に思われるかも知れません。

E.H.カー 『歴史とは何か』

先日、埼玉の実家から大内兵衛の本と一緒に持ち帰ってきた岩波新書である。暑くて昼間からベッドでゴロ寝をしながら読んだ。

東京外語の世界史の教授が推薦した本のなかの1冊だったと思う。かなり真剣に読んだことは、赤鉛筆が入っていることでわかる。

半世紀を経た私の読み方に変化があるかどうか、興味をもって読み直した。

◇ ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志を表現し、時代の意志をその時代に向かって告げ、これを実行することの出来る人である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。かれはその時代を表現するものである。
(毛沢東が晩年ボケ老人になったからといって、彼が偉人であることに変わりはない)

◇経済学者は、現在の経済情勢の科学的分析によって、近づきつつある好況や不況を予言しますが、この経済学者の権威が高く、彼の議論が有力である場合、彼の予言という事実そのことによって、予言された現象の発生に寄与することがあるのです。
(この反対もある。マルクスの予言で、資本主義が却って生き延びてきたのではないか。マルクスの言った通りになっていないことでマルクスを嘘つきと決めつけることはできない)

◇ある奴隷所有者個人が高潔の士であったと認めることは、必ず奴隷制度を非道徳的なものとして断罪しないための口実として利用されていたのです。
(マルクスの「家庭で良き夫であり父であっても資本家であることになんら変わりはない」の受け売りか。ある政治家がカネにきたないことを、彼の政治家としての能力の否定に結びつけるやり方もこれである)

◇勝てば官軍です。苦難は歴史につきものです。すべて歴史上の偉大な時代には、その勝利と共にその不幸があるものです。
エンゲルスを引用して、
「歴史はあらゆる女神の中でも恐らく最も残忍な女神であろう。戦争と限らず『平和』な経済的発展においても、この女神は死骸の山を超えて勝利の戦車を引いて行く。残念なことに、男女を問わず、われわれは非常に愚かなので、言語に絶した苦しみに耐えかねるまでは真実の進歩のために勇気を奮い起こそうとはしない」
(1961年の出版だから、まだ第二次世界大戦の余韻が残っていたのだろう。日々好日は歴史の材料にならないということだ。カーの視線は英雄に向けられている)

◇すべて文明社会というものは、まだ生まれぬ世代のためを思って、現存の世代に犠牲を押しつけるものです。
(赤鉛筆のアンダーラインがあるだけ。今の私に赤鉛筆を持たせれば、「ウソだ!」と書きこむ)

◇人間も社会も、人間の意識的な努力によって私たちの目の前で変わってきましたし、変えられて来ています。これらの変化の中で最も主要なのは、説得および教育の現代的方法が発達し使用されたために生じた変化であろうかと思います。
(映画『ミッション』の中でなかに、「制度は人が作ったもの、だから変えることもできる」とあった。私はこのことを信じている)

◇どんな発明にしろ、どんな革新にしろ、どんな新技術にしろ、歴史の流れのうちで発見された限り、肯定的な面とともに否定的な面を持っていたということです。いつでも犠牲は誰かが払わねばならないのです。
(印刷術、自動車、原子力などを挙げて、良い面と悪い面があると言い、科学技術の進歩は止まらないと言っている。それぞれ矯正策を伴うものだと言う。カーのように犠牲を認めてしまえば、なんでもオーライになる。おかしい)

他、歴史の普遍性や偶然と必然など、わかりやすく説いている。

今回読んで、書名とちがって、この本は、歴史学者はどうあるべきか、歴史学はどうあるべきか、これが本流となっていることに気がついた。

何十人もの歴史学者とその著書を紹介して、同調したり反論したりしている。批判された歴史学者も、カーと同じように歴史書を何百巻と読んでいるだろう。知識の豊富さはいずれも劣らぬはずだ。

カーが批判している歴史学者がカーの言う通り間違っているのなら、その歴史学者の知識は一体何なのか。

批判しているカーの方が間違っているなら、カーの知識は何なのか。

今回、読みなおして、私は知識と思考は連動していないことが再確認できた。学生時代は基本的な知識を増やさなければならない。しかし、知識を増やすために一生の大部分を使うのでは、思考の向上に充てられる時間が確保できない。

また、カーは、価値観の確立を重要視している。これにはまったく同感である。歴史に限らない。今日の政治・経済に対しても同じことが言える。

今の学生の間にこの『歴史とは何か』がよく読まれているのかどうか私は知らない。

カーがケンブリッジ大学で講演したのが1961年の3月。私が読んだのは1963年2月。

それから半世紀が過ぎている。もっといい内容の本が出版されているかもしれない。しかし、このカーの『歴史とは何か』は西欧文明人の歴史観(進歩を基軸にしたもの)の代表作としては今でもその価値は失われていないように思う。

清水幾太郎の訳である。訳文から推してそれほどの難文ではなさそうだ。夏休みにじっくり読むのなら原書がいい。

敗戦記念日 NHKを信じた私がバカなのよ、か

このブログが戦争月間を迎えること2度、3度。敗戦を語るにもそろそろ種が切れてきた。

1つだけ今年の戦争月間に残しておきたいことがある。

それは、当時の日本人がNHKの大本営発表を信じたことに対して、政府もNHKも悪いが、騙された国民が愚かであるという私の持論の修正である。

3月11日の大震災以降、ネットニュースが入ってこなくなり、すべてNHKのラジオと発電機が手元に戻っている間に観るNHKのBSニュースだけだった。

これでフクシマ原発事故の推移を知らされたのだから、メルトダウンはNHKがニュースに取り上げるまでそれを知ることがなかった。

原発事故は収束に向かっていること、風評に惑わされないこと、この2点をひたすら繰り返していた。政府のスポークスマンでは足りずに原発専門家まで動員して、メルトダウンの隠蔽に加担していた。運良く冷却ができれば、そのままダンマリを決めるつもりの政府の意向に従って。

隣りに女川原発が控えている私だから、このブログの開始当時から原発の安全性を疑い、幾度となくテーマにしてきたが、そうでない人々でかつNHKのニュースを唯一の情報入手手段とする人々は、大量の難民が故郷を後にする段階になるまで、事の深刻さを理解できなかったにちがいない。

新聞を読む、民放を観る、月刊誌・週刊誌を読む、ネットニュースを見る、こういうことをしていながら政府の発表を信じて疑わないのであれば、愚か者で片付けてもいい。

しかし、NHK以外に世間の動きを知る手段がない人々まで、愚か者と哂っていいものか、私はそうとは言えないように思うようになった。

戦時中はまさにこれであった。新聞も雑誌もあるにはあったが少し田舎にいけばラジオでしか戦況を知る術がなかった。

新聞や雑誌が購読できる都会でも、検閲済みの記事だから、ラジオだけと変わりはなかった。

このような真実を隠蔽し続けている環境で、国民にまともな判断を求めるのは、酷なように思える。

日清・日露で勝利した成功体験が当時の日本国民の骨の髄まで染み込んでいたのだから、NHKの大本営発表が耳に逆らうことはなかった。

そして、焼夷弾と原爆。NHKの報道を信じた国民はそのツケを十分に払わされた。

それでいて、国民からカネを巻きあげておきながら、今なおツケをまだ払っていない者がいる。ツケを払う気のない者がいる。

それは、証文の出し遅れよろしく、戦争実話を深刻な顔をして戦争月間に語るだけで、自己反省をまったくしないNHKのことである。

私はどこの国のものであれ国営メディアを一切信じない。日本も例外にしない。信じるからバカ、信じない私はバカでないといううぬぼれではない。老いの一徹である。

付:
昭和20年代(1945年~)はNHKは日曜の番組で痛烈な政府批判を放送していました。「二十の扉」が最盛期の頃だと思います。大人たちに混じって聴いたものです。政府の干渉で中止。それからは、名ばかり公共、仮面の裏は公報メディア。堕落し続け、今日に至っています。

(昨日の写真。毎日、こんな様子です。午後3時、屋外気温29℃、湿度60%。海風が心地よいです)

0814モモとリッキー

デフレ・スパイラルとヒート・スパイラル

震災復興特需にすっかり話題を奪われた形になっているのがデフレ・スパイラル論である。

物が売れなくなる→会社の業績が悪くなる→給料が下がる・失業が増える→物を買わなくなる→ますます物が売れなくなる→ますます会社の業績が悪くなる→ますます給料が下がる・失業は増える→ますますます・・・以下同文。

これで日本が滅びると浜某教授が真面目な顔をして語っていた。同じような心配を新聞でもやっていた。

言われてみればその通り。だからやはり消費に励まなければいけない、安売りユニクロ栄えて日本が滅びていいのか、と話が続く。

これがトリックであることはなかなか見抜けない。

第一、物が売れなくなる。物は総体的なものではない。個別に名指しができる商品である。宮仕えしてみれば簡単にわかることだが、ある商品が売れなくなると、「困った、困った」と頭を抱えて半年送る経営者はいない。販売不振がわかれば、即座に次に代わる製品を企画するものである。

第二、給料が下がる。それが不満なら別の仕事を探す。失業したらもちろんそのまま60歳を迎えるようなことはしない。収入の道を個々人で探すものである。

第三、物を買わなくなる。買わなくなるのは買わなくても生存に困らない物である。1万円のネクタイの代わりに千円にするかもしれない。ベンツがカローラに代わるかもしれないし、カローラが自転車に代わるかもしれない。ビールが発泡酒に代わることがあっても、3度の食事を2度にすることはない。個人の考え次第である。

ある物が売れなくなっても別の物が売れる、ある企業が傾いても別の企業が伸びていく。自由主義経済とはこういうものなのに、経済学者が大変だ、大変だと騒ぐ。

騒ぐ経済学者は一部であろうが、それをメディアがあたかも経済学の真理かのようにもてはやす。これは、「企業の業績が悪くなる→広告収入が減る→自分のテレビ局・新聞社が困る」というスパイラスに怯えているからである。まさか私の新聞社が困りますとは新聞に書けないものだから、経済学者やエコノミストを引っ張ってきて彼女・彼に代弁させているのだ。

民放はペイ・パー・ビューにすれば広告に頼らなくても済む。新聞は、ページ数を半分にし、かつ内容の濃い記事を質の高い記者に書かせれば、広告がなくなってもやっていける。

そうしないのは、拡大再生産を絶対条件とする資本主義経済にどっぷり浸かって、そうでない経済を考えようとする気がないからである。

これとそっくりなのがヒート・スパイラルである。

外が暑い→部屋が暑い→クーラーを使う→外気に熱が放出される→外が更に暑く→部屋が更に暑くなる→クーラーの負荷がさらに増える→さらに高温の熱気が放出される→以下同文。

都会ではこれに、自動車が加わる。玉子焼きができるほど熱いボンネットは夏場の暖房機である。

不思議なことに、このヒート・スパイラルには気象学者はあまり感心がない。これだけ熱中症患者が増加していても、これだけ多くの都市が熱帯夜を迎えても、誰も騒がない。

私は、ここで考えた。この温暖化現象に警鐘を鳴らしている気象学者や評論家は大勢日本にいるのではないか、ただ、メディアが黙殺しているだけではないか、と。

ヒート・スパイラルを断つためには、大気の温度を下げることから始めなければならない。いくら高性能エアコンを開発しても、冷やすために使われたエネルギーは最終的には熱となってどこかに発散させなければならないからだ。

大気の温度を下げるのは、例の二酸化炭素排出量の低減による。これが産業界から目の敵にされているのは私の承知しているところである。

経済がシュリンクすると産業界はいう。私もその通りだと思っている。

その先に何が続くのか。

シュリンクしても温暖化に歯止めを掛けるか、それとも、温暖化には目をつぶって、シュリンクを避けるか。

この選択が問題である。問題であるにもかかわらず、ただ暑い暑いと報道している。アドバイスといえば、水と塩分を摂りなさいとか、クーラーの設定温度を28度にせよとか冷蔵庫の開閉は少なくするようにとか、ちまちましたことばかり。

デフレ・スパイラルは怖くない。怖いのは人を含め生き物の生存権そのものを脅かすヒート・スパイラルである。

拡大再生産の経済システムに踏み込まない限り、ヒート・スパイラスは収まらない。だから、ヒート・スパイラルから脱出することはできないと私は悲観している。

付の1:
物にはサービスも含まれます。
付の2.
石油が枯渇するまで温暖化は進行するでしょう。
付の3.
13億の民が自家用車を持つようになった時の対策はどうなっていますか、温暖化サミットさん。
付の4.
デフレが論壇を賑わしていても、私だけが知らないのかもしれません。カローラはまだあるのでしょうか。例えに都合がいいので有名なブランドを出しました。

民主党代表選ー脱官僚は生きている

菅直人のどこが悪いといって辞めさせるのか、私には、辞めさせる側の論理がさっぱりわからない。私が悪いと言っていることと同じ理由で辞めさせるのか、あるいは別の考えから辞めさせるのか、これがわからないのである。

想像できるのは、彼の内閣支持率の低迷である。これが辞めさせる理由であるとすれば、以前がそうであったように、これからも次から次へと総理大臣が辞めていくことになる。

まあ、とにかく辞めることになったのだから、今さら彼を云々しても始まらない。

始まるのは、民主党代表選である。

誰かが救国内閣を作る、そのために自公民の大連立を企てると宣言した。本日の悪い冗談である。大連立したらどうなるか。

普天間問題を正面から取り組もうとすれば、推進派と慎重派に分かれる。原発を存続でも、推進派と慎重派に分かれる。消費税も財政も同じである。すべて正面から取り組めば、てんでんばらばらになってしまう。

それでは大連立が成り立って行かないので、日本が直面している重大な事項はすべて触れないようになる。子育て支援だ、高速道路だと、軽い問題ばかりしか政策にならない。

民主党ひとつとっても不倶戴天のオンパレードだ。これに自民と公明が混ざるのだから、おちゃらけ滑稽譚を読むようなものになる。

民百姓が政治を語るときには茶化してもかまわないが政治家は政治を茶化してはいけない。本業は常に真面目でなければいけない。民百姓だって自分の仕事は真面目にやっているのだ。

大連立構想が滑稽譚であるというのなら、真面目な政治とは何を指すのか。

脱官僚である。

民主党が政権をダッシュできたのは、「脱官僚」を民百姓がこの政党に託したのである。

枝野某や蓮舫などのパフォーマンスで尻つぼみになったからと言って、脱官僚が不当に扱われることはない。今でも、脱官僚は有効な政策なのである。

代表選で誰が立候補しても、この脱官僚を前面に打ち出す候補者が代表選で勝利する。地方党員は原発事故の処理でいかに官僚任せが自分たちに禍いをもたらすか、痛いほど身にしみているのである。

仮に代表選で破れても、何の心配もいらない。脱藩すればいい。官僚制度温存政権は1年と経たない内に身動きがとれなくなり、無残な内閣支持率が表示される。

その時こそ、本当の出番である。脱官僚を一貫して主張する国会議員とその政党を選挙民がこぞって支持する。

それでも、総理大臣になって半年もすれば官僚に丸め込まれる可能性は否定できない。やわな若手にはこの危険がどうしてもついて回る。

その危険がゼロといえる政治家が今、民主党にいるか。いるのだ。

アメリカ政府に堂々とものが言える政治家、世論調査の結果に動じない政治家、・・・小沢元代表である。

私は彼の再出馬を強く望んでいる。

唯一心配なのは、高齢である彼の健康である。しかし、金大中氏の例もあるのだ。しっかりした子分を従えて、彼らに働かせれば、過労にはなるまい。

私は、民主党の議員を知らない。脱官僚に熱心で簡単に変節しない若手がいるかもしれない。そういう人がいるのなら、なにも小沢元代表でなくてもいい。代表選に立って欲しい。それで破れても、次のチャンスは必ず巡ってくるのだ。

ガンバレ、脱官僚組!

付:
救国内閣という文字を見て、太平洋戦争の記録映画かと一瞬疑いました。大連立も結構、その時は、3党合併し大日本帝国大政翼賛会と党名を変更したらいいでしょう。昔と違って、NHKオンリーの報道管制はできませんよ。言論統制の時代ではありません。インターネットをお忘れなく。

本日の悪い冗談(2) 更迭人事に退職金が1千万円 

原発事故の戦犯に退職金が支払われるとあった。あれだけ日本政府の信頼を落とし、福島県民のみならず宮城の私にまで放射能を降らせていて、退職金がでるのだから、本当に日本は役人天国だ。しかも1千万円ときた。私は白けきった。

読んでいくと、どうも妙なのである。

1千万円は「定年前早期退職」のご褒美だというのである。早期退職というのだから、働き盛り(民のために働かなかった役人だから純年齢でいうべきか)である40代と思いきや、3人はそれぞれ59歳、58歳、58歳だった。

これを早期というのだから、日本語は不思議な言語である。

ご褒美が1千万なら本体はどうか。

金額は示されていない。しかしこの1千万円が本体の2割前後と書かれているので、小学校の算数から、本体が5千万円であることがわかる。

一人の国家公務員の退職金が5千万円。トップクラスがこの金額であれば、その1段下の公務員は4千万円だろう。そのまた下は3千万。そのまた下は2千万円か。下に下がれば下がるほど人の数が増える。これでは、いくら増税しても焼き石に水だ。

最後まで読んでいくと、3首脳の退任は勧奨であって処分でないという。いったい海江田某の脳細胞はどうなっているのか。

5ヶ月が過ぎても、未だに事故調査による処罰が行われていない。このままうやむやにするつもりである。

3首脳が処分されなければ、その部下も処分は免れるにきまっている。ということは、戦犯全員が無罪放免、しかも退職金までお付けすることになる。

これで今の日本政府に怒らなければ、お隣の某大国に移民したらいい。あそこでは、怒らない人民を望んでいるのだ。

冗談は笑える冗談と笑えない冗談がある。

笑える冗談をひとつ。

これら3首脳が、今夜の退任記者会見でこう発表した。

「私たちは国民の皆様に顔向けできません。本来でしたら腹を掻っ切るところですが、そればかりはご勘弁を。せめてもの罪滅ぼしとして、国民の税金からいただく退職金をフクシマ原発難民の役に立ててもらうよう全額を返納することにしました」

3人椅子から立ち上がって深々と頭を下げた。

付:

▽経済産業省の松永和夫事務次官(59)
▽寺坂信昭原子力安全・保安院長(58)
▽細野哲弘資源エネルギー庁長官(58)

長く彼らの不名誉を称えるべくここに記録した。

(暑い日には天然の敷物が快適)
0811モモとリッキー

本日の悪い冗談(1) 環境省で原発管理

原発事故のスケールと環境省の能力。これほどアンバランスな組み合わせも珍しい。

最近のエコカー制度で環境省は何をしたか。大気汚染を心配する省庁なら、1トンもする普通車に対して重税を課し、600キロの軽自動車にこそ優遇措置を提唱すべきであった。

原発事故でも発生した段階から、経産省に食ってかからなければいけなかった。まったくその気配をみせなかった。ただ傍観していた。

環境省がやることといえば、十和田湖になん羽の渡り鳥が飛んできたかを毎年観察するだけである。

環境省は日本国野鳥の会である。

そんな環境省に原発を民主党政府の抜本的改革と称してして押し付けるのだから悪い冗談である。

冗談でなければ真夏の夜の悪夢である。

付:
環境省の職員は1258人(今年度)、予算規模は約2000億円。世界に向けた体裁省です。本音は作りたくない省庁です。

野鳥の観察にはこの人員と予算でも惜しいですが、こと原発となれば、話は別。少数精鋭なら経産省に睨みを利かすことができるでしょう。ところが、ニュースによれば、経産省原子力安全・保安院や内閣府原子力安全委員会などから約500人規模の横滑りがあるとのこと。

そうなると3人に1人が経産省出。「キミたち、お利口さんだから、野鳥の観察に行っておいで。原発はわしらがやるからね」

環境省の役人諸君、卑屈になるな。いまこそ勇気をだして原発擁護派を木っ端微塵に打ち砕け。

猛暑と次期総理

朝10時、室温はすでに27℃。相対湿度が70%。扇風機がフル運転をしている。

イヌ、ネコ、ヤギはそれぞれ好きな場所で寝ている。ヤギは風通しのよい場所が分かっている。老犬は、私の側から離れない。ネコは、朝食を済ませてから、押入れの戸袋に登っていった。

ヒトにはきつい一日になりそうだ。毛皮を着た彼らより耐暑条件はいいはずだ。しかし、ハエがたかるので裸ではいられない。若い時は、こんなにハエに好かれたことはなかった。老醜ならぬ老臭がハエを呼んでいるのだろう。厳しい現実である。

今、28℃。これより上昇しないだろう。周囲は緑一色、海風も陸風も天然すだれで適度な温度になって家の中を通り抜けてくれる。扇風機の強制送風ではあるが。

ニュースで、先週1週間の熱中症患者数が記録的に増えたと言っていた。

30℃を超える猛暑が、今や東北でも普通になってしまった。移住した当時、庭の洗面器の水が底まで凍った。今は、薄氷である。冬の暖房費が助かるようになったのはありがたい。夏がその分、涼しくなってくれればバランスがいいのだが、そうなっていない。

私の所ばかりではない。こういう状況が日本全土に蔓延しているのももう一つの厳しい現実である。

なぜこのようになったのか。

気象庁の解説は、高温の空気が南から日本上空にやってきたので暑いという。大量の湿気を含んだ雲がやってきたから豪雨になるという。昔の稀に生じる時代の猛暑の解説である。

21世紀の猛暑は石油エネルギーが原因である。ハイウェイを何列もの車が延々と連なっているアメリカ映画を観るたびに、エンジンが発散する熱が気になる。ブレーキをかければ摩擦熱が生じる。こういう熱はぜんぶ地上に溜められたままでいる。増える一方だ。

高地では氷河が溶け出した。南氷洋では氷山が溶けている。海水が増加する。気温が上がれば、水蒸気が増える。増えた分、雲が増える。風次第で、どこにでも雲は流れる。

こんなことが続いているのだから、毎年熱暑の記録が更新されて当然である。

数十年前に、一部の学者は、この状況を予測・警告していた。

他方、温暖化と化石燃料の使用との因果関係は認められないと主張する学者も大勢いる。科学的に実証されない限り目の前に存在する現実を受け入れないのである。

2025年に炭酸ガス排出量がどうのこうのと政府や産業界が議論しているのは、悪いジョークである。

その前に加速度的に温暖化が進み、日本全土が熱帯と亜熱帯に移動している。

その時、学者が因果関係を認めても、ビル屋上のビヤ・ガーデンが通年オープンしても、すでに手遅れなのだ。動物としての日本人が、そんな短期間で熱帯性気候に慣れるはずがないからである。

原子力エネルギーは、封印しなければいけない。これは、核分裂の危険性から当然のことである。

それでは、太陽エネルギーはどうか。これも不可である。最先端技術で集熱の効率が上がれば上がるほど、利用度が上がる。大気への熱発散が増加する。こうした人間の使う太陽エネルギーは、最終的には熱発散となる。化石エネルギーと変わりはない。

近頃、原発事故を借りて、太陽エネルギーの開発が救世主の如く政府、産業界、マスコミに崇められているが、間違いである。

化石燃料、石炭にせよ、石油にせよ、液化ガスにせよ、この使用の総量規制に全世界が一体となって取り組まなければならないのである。

原爆は第二次世界大戦以降、一度も使われてこなかった。これからも使われることはない。何万発があろうと、使えない物は使えない。日本が保有しているのなら日本人が話題にしてもいいが、そうでない、他国の原爆を云々するのはヒマ人に任せておくことだ。

それより、温暖化防止を国連に働きかけること。そのために率先して、日本国内の総エネルギー使用量の低減に努める。

経済的にゆとりのある階層が健康で生き続けられ、ゆとりのない階層は、暑さに悩みながら生きていく、そんな社会が直ぐ先で待っている。

産業界は自分の企業がどうなるかで頭が一杯である。暑くなれば、涼しい生地で衣服を作って儲けようとする。北海道でもエアコンが売れるようになるとマーケティングする。中長期計画で5年である。

10年後、20年後の日本の姿のデザインはどうしても政治家に委ねなければならない。それがまた、政治家に与えられた責務である。

フクシマ原発事故と同じで、事が大きくなることが分かっていても、初期段階が些細であれば、楽観するのが人情である。

数年来、観測史上の記録が毎年更新されている猛暑。高齢者の熱中症が日本の不幸の予兆である。

菅直人には出来ない相談だろうが、不人気覚悟で、これからの為政者は温暖化対策に取り組まなければならない。

菅直人 - 運を自分で見送った強運の総理 

菅総理が近々退くという。

今日は、彼の「密かな願いおよび起死回生」を語ることにする。3月10日のブログで次回に載せると約束したまま、その翌日の大地震で延び延びになっているものである。

電話回線が復旧した5月には、すでに彼について云々する意欲が私から失せていた。

退陣が明確になった今、簡単に彼の当時の心情を憶測して約束を果たすことにする。

一つは、朝鮮半島で南北の武力衝突が頻繁に生じ、それがエスカレートすることである。

もう一つは、尖閣諸島に中国軍が強行上陸することである。

この二つの共通点は、日本国民を内政から目をそらせること、および、日米安保の必要性をアピールできることである。

加えて、韓国が朝鮮と争っている間は、日本は輸出に励むことができる。これを漁夫の利という。中国軍の上陸は、日本の軍需産業に活気を与える。防衛省の予算が最優先される。

こういう事で彼は自分の不人気絶頂を一気に解消できる。3月時点での私には他に彼が救われる道は考えられなかった。

その直後の大震災。朝鮮半島でもなければ中国でもない、自国の大きな不幸は彼にとって大きな起死回生の機会であった。彼は運の強い男である。

震災復旧は資本主義が自主的に担当してくれる。現在もその過程にある。彼は、その成果を自分の手柄にすり替えることができた。彼が復興の法案に執念を燃やしているのは、このためである。

それはだれでも総理の椅子に座れば、同様な態度にでるのだから、特別に彼が悪いというわけではない。

悪いのは、原発事故処理である。これは、やり方次第では、彼の人気が倍増にも3倍にも上昇した絶好のチャンスであった。

彼に優れた参謀がいれば、その参謀は、ある程度まで不安院を泳がせておく。小規模な事故で収まっては、国民に菅直人のありがた味が通じないからである。「これはただごとでない」と誰しもが認めた段階で、原子力関係役所や役人を処罰し、原発事故の危険を大々的にPRし、それから、手際よく収束させる。これがチャンスであった。

やってきたことといえば、経産省の役人の代弁と擁護、事故の軽視である。まったく反対のことばかり。これでは、処置なしである。

菅直人総理が密かに願望していた二つは邪念である。私が勝手に想像したものであるから、私自身の邪念である。

しかし、原発事故という(人民にとって不幸ではあるが)為政者にとって願ってもない指導力発揮の場で、彼は役人組織擁護に励んだ。無為無策以下である。

運の女神は後ろが禿である。手前に向かって来るときにしっかり掴んでおかないと、通り過ぎてから、「あっ、あれは私の運だ」と気づいても、ツルツルのハゲ頭では掴みようがない。私は彼の姿からこのFortuneの女神を連想した。

付:
内政の不満を外政でごまかすのは、権力者の常套手段。実際に中国と戦闘状態に入らなくても、中国憎しの感情が日本人に蔓延すればその分、菅直人への矛先が鈍るというものです。実際、枝野某が、尖閣諸島に中国軍が攻めてきたら、戦争すると言っています(10日)。本気ではありません。無能内閣から国民の目をそらさせたい一心からです。

老いの証(4) くどい、にぶい、もろい

昨晩、シネフィルから録画しておいた映画『南から来た女』を鑑賞した。

肉体的な老化は、この映画の初めの10分間ですべてが証してくれている。講義を受けていた若者には強いショックだった。50年後の自分の肉体的変化を見たからである。

私はすでに自分自身がそうなっているし、周りの島民の大部分もそうであるから、別段ショックではない。

しかし、わずか10分間の早送りで20代から70代に変化したら、やはりショックであると思う。50年の歳月が緩衝地帯として存在してくれたお陰で、老化を自然体で迎えてこられたのである。

では、老いのもう一つ、精神の方はどうか。

第一に挙げるのは、「くどい」である。

毎年原爆と焼夷弾を話題にしているのに今年もまた取り上げる。少しはカデンツァを変えているが、基本が太平洋戦争責任論であるから、どうしても似たようになる。

先日、白浜海岸で泳げない今年の夏を恨んだ。1週間の経たないうちにまた繰り返した。前回を忘れたためならボケだが、知っていてまた書いたのである。確信犯的行為であるのは老いのなせるわざである。

次が「にぶい」。

感度が鈍いのである。昨日の国会中継を聞いていてグッと来なくなった。「相変わらずやっているなぁ」まではいいにしても、今では、首相と大臣の発言が矛盾しても、誰が失言から辞職しても何も感じなくない。そこから何かが汲み取れるはずだが、「どうせそんなもん」の一言で片付けてしまう。汲み取るだけの鋭さが欠けてしまっている、これは政治的感受性が鈍くなった証拠である。

老人には脱水症が危険である。枯渇感がないから、意識して水分を摂取しなければいけない。こういうアドバイスを受けていながら、水を飲まない。断水で1日2リットルの飲料水の配給に慣れたことも背景にはある。しかし、腕の皮膚がカサカサに変化しても、それが水不足であることに結び付けず、めまいで倒れてはじめて事の重大性を認識したのは、やはり「にぶい」からである。

そして、「もろい」。
涙もろい。「ジャン・クリストフ」を読み終えたときに流した若い時の涙とは違う涙である。どういうものかというと、原発被害で薬殺処理される牛や豚、鳥インフルエンザの恐れというだけで処分される鶏。こういうニュースを聞くたびに、かれらの瞳を思い出し、涙が溢れてくる。どんな気持ちで死んでいくのか、生きている間、牧草地で思う存分草を食んだか、思う存分走りまわったか、地面をつついたか、そんな体験を一度もしないまま世から去っていく。自分がその中の一人(ひとつ)になった錯覚に陥る。訳もわからないまま屠殺されるその中の一人になる。同胞である人間にブログを借りて怒りをぶつけなければ、一日泣き続けることになる。

フィクションでも似たようなものである。ディズニー映画『三匹、荒野を行く』、犬も猫もとっくに世をさっている。映像だけが残っている。これで涙が出てくる。初めてこの映画を観た20代では、ただうまく作ったものだ、ハッピーエンドでよかった、これだった。こういう感情は、もはや私にはない。

老いの証は他にいろいろあるだろうが、これら「くどい」、「にぶい」、「もろい」の三つがその中に入っていることは間違いない。

次回は、老いの「所有」について。

付の1.
くどい、にぶい、もろい。この中のひとつでもそうでない高齢者がいたら、私は敬意を表します。

付の2.
「南から来た女」映画評にフラメンコ女とタンゴ娘とありました。私が思っていたことズバリでした。この評者のセンスに脱帽!

宇宙からロマンを奪って3千億円

ロケット花火が高いものであることは、薄々感づいていたが、まさかこれほどのカネが毎年打ち上げられているとは思わなかった。せいぜい、50億円、大盤振舞いでも100億までと思っていた。

それが、昨日のラジオでケタが違うことを知った。

お金のことでもう一つのニュースをネットで知ったのも昨日である。

フクシマ原発事故の補償の配分で、住民同士がいがみ合っているというニュースである。

戸当たり300万円かの補償が、直接被害に遭った住民だけで間接的な被害を受けた住民には渡らない、そうではない、間接的な被害者に渡すのなら直接的な被害者にもっとカネを配分すべきである、そんな話題であった。「私は我慢しますから、どうぞお持ちください」、それで配分を相手側に厚くして欲しいということでなく、自分たちに多くカネを配るべきだとお互いにいがみ合っているのである。

弱者同士のこういう姿を見ると、なんとも言いようのない情け無さを感じてしまう。

この二つのお金は源は同じである。使い道の違いで一方は宇宙遊泳、もう一方ではいがみ合いとなっている。

3千億円を宇宙の遊びにつかわなければ、300万円の補償が何人に加算されるか。

答えは10万人である。

いがみ合うのはもともと線引きできないものを無理やり線引きしたことが原因である。他にいい方法がなければ、せめて金額の絶対値をできるだけ高くするのがカネを管理している政府の責任である。僅かなカネでは、ゆとりがない原発難民にとって、自分が生きるためにどうしてもいがみ合う結果になってしまう。

宇宙遊びの予算は毎年計上されているはずだ。それなら、向こう10年間、原発難民に300万円を支給出来る計算になる。

ラジオでは、日本独自のGPSを防災のために開発するという。これは、3千億円がなんとしても確保しておきたいがために、震災に便乗した苦肉の策である。

ハヤブサの塵が100億円と言われても、3千億のカネがあるのなら不思議な金額ではない。

宇宙開発に関わる予算はゼロにすべきである。

役人や外郭団体の職員は、これまで甘い生活を送ってきたことに満足し、国民に感謝して、失業保険の手続きをすべきである。

アメリカNASAで人員整理があったとき、優秀な人材は民間企業が喜んで採用した。日本でできないことはない。再就職ができないような人間がいるとすれば、そんな人間を雇ってきた日本政府が大甘であるということになる。

企業も同じだ。相見積もりなしで言いなりの請求書が通ってきたこれまでの甘い仕事が例外中の例外であること位とっくに経営陣は分かっている。それが無くなっただけのことで、普通のビジネスに専念すればいいだけのことだ。先端技術をいかに民生に応用するかは、その企業次第である。

枝野某と蓮舫が、仕分け工作で脚光を浴びた時期があったが、実際は、な~んにも仕事をしていなかった。

すぐに人を信じてしまう悪い癖のある私が一杯食わされたのは自業自得としても、原発難民がこれだけ不幸でありながら、宇宙遊びに3千億円を確保しようと努力している関係官僚の神経の太さには、ただただ感心するばかりである。

国会議員は、4年ないし6年に失業する。それから比べれば、宇宙遊び集団の失業なんか易いものだ。

付の1.
ロケットを打ち上げれば打ち上げるほど、宇宙からロマンが消えていきます。望月の欠けるを和歌に詠うのがロマン。満天の星を仰いで、てんびん座、さそり座などと名付けることがロマン。7月7日に天の川を渡って夫婦が合うのがロマン。そう私は思いますね。

付の2.
それでもやはり宇宙遊びに勇気と感動を求めるお方は、義援金を宇宙開発団体に送りましょう。自腹を切るのですから、私はとやかく言いません。

付の3.
くどいのは分かっていますが、言っておかないと今夜の寝付きが悪くなりそうなので、また繰り返しました。

不本意な夏休み

一昨日の夜である。毎年、8月になると同じようなことを書いていると書き終わって、ブログをアップロードした。生き物も風景も3年続ければ、もう記録に残すようなものはない。写真がないと早く済ませられる。

これで一日が終わった、さあ後は寝るだけ、極楽、極楽、と立ち上がったとたんに、めまいがして、立っていられなくなった。

4畳半から中の5畳を通って奥の6畳まで這ってようやくたどり着き、そのままベッドに倒れこんだ。

仰向けになって、天井を見ると、左から右に移動していて、定まらない。

すでにベッドに横になっているから、倒れることはないと自分に言い聞かせて、じっとした。

最初は気を紛らわすときの常套手段である布石の検討を頭の中でやった。効果なし。

やはり真正面から原因の究明に当たらなければいけない。そう思って考えると、いろいろ出てきた。

1. 低血圧である。血圧が低いのは、血管が太い、血流がスムースである、などと高血圧よりはましと言われているが、私は、血の量が少ない場合も低血圧になるのではないかと思っている。めまいがしたのは、頭の方に血が十分に上らなかったからではないか。私は貧血気味である。若いとき、献血したら、血の濃度が低くて使えないと言われたことがあった。

2. 一年がいいのは夏があるから。その夏も白浜で泳げない夏ならただ暑いだけの季節である。今年はこれだった。役人のアドバイスの通り、砂の中にクギが上に向いている廃材が埋まっているかもしれない。抜き足差し足で浜を出てからも、どんな化学物質が海水に含まれているかわかったものではない。命は惜しくないが、下痢や痛みは嫌だ。それで、泳げない夏になっている。元気がでない。だらだら毎日を送っているから、肉体的な緊張感がまったくない。体調管理もいい加減にしていた。どうせ泳げないのだ。

3. まだ液晶ディスプレイに馴染めない。21インチのCRTを使っている。それがダウンの兆候が数日前から出てきた。電源ONにすると、走査線がビリビリ伸縮する。何度もCRTを交換してきたから、まもなくブラックアウト間違い。25キロの重量は今の私には一人でセットできない。液晶になるから、CRTの数倍の出費だ。頭が重い。

4. 網戸はヤギにかじられたままになっている。張り替えるのは億劫だし、どうせまたバリバリにされる。それで、やぶ蚊は天下御免で家の中に飛んでくる。迷惑だから、蚊取り線香を絶やさない。1日4巻煙を出している。蚊に悪いのだから、人にだって程度問題であっても悪いに決まっている。タバコが人体に害を及ぼすのだから、蚊取り線香はもっと悪いのではないか。タバコの煙で蚊が落ちるなど聞いたことがない。

5. ハエがうるさい。アースジェットを手元に置いて、ハエが来ると噴霧する。ストンと落ちない。追尾する。部屋が薬品の霧で白くなる。これを吸って、ブログを書いているのだから、体にいいわけがない。

6. 昨日の散歩で、道路を横断しているアリの何本かの行列を無造作に横切った。少し前なら、飛び越えられたが、幅1メートルはもう駄目である。それで、何十匹かのアリを踏みつぶしてしまった。後味がすこぶる悪い。

7. 碁が連敗している。勝ったり負けたりならまだいいが、ポカで負けるから自己嫌悪に陥る。気ばかり焦るから、またポカがでる。こうしているうちに、惰性で打つだけとなる。時間がもったいないと頭のどこかで思うのだが、止められない。連戦連敗が続いた。

8. MPプレーヤZENが数週間前に突然消えて、どこを探しても出てこない。また物体消滅に遭遇したのか。あれでラジオ体操をしていた。泳げなくなったので、ラジオ体操はやらなくなっていた。どうしても粗末に扱ってしまう。それで消えたのか。

こんな状態だからめまいがしても当たり前かもしれないと観念して、ネットを当たってみた。

貧血でなくて、脱水症状であることがわかった。

めまいがする、胃がムカムカする。急いで水をのんだら、その場で嘔吐だ。二日酔いの嘔吐のような苦しさはまったくない。

海難から逃れた船員に一度に多量の水を飲ませてはいけないと聞いたことがある。これがそうなのかもしれない。

昨日は、水道水やスポーツドリンク、アイスコーヒーに牛乳、野菜ジュース、オレンジ、水気のあるものを補給することで一日が過ぎた。

前々から、親しい仲間から、水分は(意識して)しっかり補給しなければいけませんよと助言を受けていた。

震災を経験したことで、「ただ生きているだけ十分」が私の精神に定着しまったのである。

一応震災のせいにしているが、本当は、老化の進行によるものかもしれない。

脱水症であると断定したのは、私であって医者の見立てではない。あるいは、もっと深刻な要因があるのかも知れない。それで、これから数日は、無理をしないようにすることにした。

くどいが、8月に書くべきことは、数年前から毎年書いている。しばらくは不本意な夏休みを取ろうと思っている。

「戦争月間によせて Erliuzi氏の寄稿

原爆=米軍はナガサキ原爆とほぼ同型同重量の“模擬原爆”(4・5トン)をつくり、8月14日まで東京、長岡、富山など29市町村に49発を投下した(『会津会会報』115号)。

陸軍第2師団29連隊のあった会津若松にも7月末、2度にわたってB29が飛来したが爆弾は投下せず、反転した。

焼夷弾=対日爆撃を担当したカーチス・ルメイが日本の家屋は「紙と木」でできていると低空飛行による焼夷弾攻撃を採用した。

ベトナム戦争では、北ベトナム爆撃により「石器時代に帰す」と主張。この米軍人に、日本は1964年勳1等旭日大授章を授与したのである。

源田実と小泉純也(小泉元首相実父)の推薦によるという。

東京大空襲の犠牲者が、こんな恥知らずな“戦後”を知らずに済んだことはせめてもの慰めと言うべきか。

私は護憲論者ではない、軍備廃絶論者である

60年安保から半世紀、護憲論が廃れた日は一日としてなかった。私はこれをめでたいこととして、護憲論者を讃えない。反対に、よくも飽きずに同じことを続けてこられたものよと、呆れているのである。

護憲論者がなぜ護憲論者であるかは、現行の日本国憲法が平和憲法であり、それを護るから護憲というのである。

待ってくれ。

憲法は戦争放棄の条文だけではない。明治以来のカスでアメリカ駐留軍の目を逃れて残っているものが沢山あるのだ。

護憲は憲法九条を護る意図でありながら諸々の制度疲労を温存させている。

護憲論者に言わせると、今国民投票を実施すると第九条が骨抜きにされ、自衛隊が正式な軍隊になってしまう、だから、多少のカスが残っていても、現行憲法のままの方がいい。カスの温存は一種の必要悪である。と、半世紀はこんな所で過ぎたのではないか。

現実は、15万を超える軍人が日本にいるのに、あたかも軍隊がないかのように憲法を擁護しているのだ。

私は、そういう偽善を嫌う。軍隊が日本国にいらないというのであれば、憲法に寄りかからず、自分たちの主義・主張を国民に訴え、堕落した最高裁の鼻を明かさなければいけない。

日本に軍隊が必要か不要か、必要であればどういう軍隊であるべきか、不要であれば現実に存在している自衛隊をどのように解体していくのか、そういうビジョンを国民に提示する。

それをしないで、ただ護憲だ護憲だとつぶやいている護憲論者は軍備賛成論者と真正面から議論しようとする勇気のない怯懦者である。

私は改憲論者である。

自衛隊が不自然なまま存在していることを正すために憲法を改定しようとしている愛国者と対峙する立場の現行憲法の第九条が不自然でなくなるように自衛隊を末梢する改憲論者である。

戦争月間 内なるマンネリ 私のブログ

恒例行事になりさがった各層の反戦・反核運動をマンネリと蔑んでいる私こそ、マンネリの権化である。これを率直く認める。

毎年、この月になると日本国憲法を採りあげて、最高裁の欺瞞を攻撃している。

アメリカ指導のどこに問題があるのか、去年か一昨年か書いたことを覚えている。

今年は、前文と第九条をそっくり載せることにした。

~~~~~~

前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第九条

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

~~~~~~

前文で理念、第九条で日本国がしてはならない事項が唱われれている。

どんなにひねくれて解釈をしようとしても、この文面から、自衛のための戦争ならいいと読み取るのは無理である。法律学者や憲法専門家がいかに理屈をつけようが、陸海空軍は保持できないと書いてあるのだから、保持できないのである。年4兆円の国庫を使って自衛隊を維持・存続することはできないのである。

これを、最高裁は「わたしゃ存じません」と言って、国家権力にへつらうのだから話にならなり。憲法の番人と私は中学で教えられたが、大ウソであったのだ。

日本はタガが外れた。日本のタガは日本国憲法である。

中国がどんなに軍備を増強しても、それは中国のことである。日本国憲法がその時々の他国の動向によって解釈されるようでは、とても独立国家とは言えない。

昔は防共、今はテロ。アメリカ政府の言いなりになって自国の憲法を踏みにじる。そういう政治家が国会議員となり政権を担当し、最高裁は彼らを咎めようとしていない。

法律の専門家の解釈はいらない。

自衛隊が憲法違反であることが分かるには、並の日本語読解力で十分である。

自衛隊から兵器と武器を取り上げる。陸上も海上も航空もない、一体となって防災隊になることだ。

毎年、こんなことを繰り返し言っている自分が嫌になるが、私が悪いわけでない、最高裁がだらしないのが悪いのだ。

マンネリと非難されるのは覚悟の上だ。来年の8月だって、今年と同じことをこのブログで言うつもりでいる。

付の1.
コピーして貼りつければなんでも簡単に転載できるとはありがたい。三蔵法師の時代には、手書きで写したのでしょう。それだけに書のありがた味は深かったはず。便利、必ずしも徳ならず。

付の2.
「権化とはうぬぼれもはなはだしい」と言わないでください。自称ですからお許しください。

付の3.
来年の8月まで我が身に何事も起きなければの条件が付きます。

戦争月間 もう一つのマンネリ ヒロシマ・ナガサキ

もう一つのマンネリが原爆反対運動である。

去年だっかた一昨年だったか、少女に原爆反対を涙ながらに語らせた。イライラしたのを覚えている。

選挙の度に、選挙管理委員会が「あなたの清き1票、日本のために」の垂れ幕を張るのと同じで、清き1票が原爆の恐ろしさに差し替えただけにすぎない。

今年は原発事故があったから、少しは変化があるだろうが、事の本質に触れようとしないから、何回式典を執り行っても、ただ行事をこなしているだけである。

触れないのではなく触れようとしない、触れるつもりがないのである。この違いは大きい。

あまつさえ、核拡散に反対とくるのだから、核保有国のカルテル支援式典である。

世界に原爆投下の悲劇は通じない。なぜアメリカ軍が投下したのか、それなりの言い分があり、世界は日本ばかりを贔屓にしない。式典で同情を集められるほど、世間は甘くない。

私は原爆と焼夷弾に憤る。それは、その憤りと等量の憤りを時の為政者とそれを支持した民に向けているからである。

子供の私に、大人たちが竹槍で戦うのだと真剣に話していたのだ。沖縄でどういう戦いがあったか、一切知らず、いつかは日本が勝つものと信じていた。桀紂に劣らぬ暴君が日本人を強制して戦争を賛美させたのではない。狂信者でもなければ軍人でもないごく普通の隣組の大人たちが自発的に信じていたのである。

原爆は、たまたま広島と長崎に投下されただけのことで、新潟であったかもしれないし福岡であったかもしれないし仙台であったかもしれない。投下都市の決定はアメリカ軍の考え一つに由るものだった。「だけ」で済まされることかと憤るのなら、憤って結構。

式典で「原爆の悲劇の風化を懸念する」だけの当たり障りのない微温的な主催者と列席政治家の偽善を一人でも見抜いていただければ、私はそれで満足するものである。

原爆も原発も凶器である。日本刀と包丁の違いではない。核分裂それ自体が凶器なのだ。

今年は、マンネリから式典が脱却できるビキニ被爆以来の機会である。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ。

これでなければ、原発難民が救われない。

戦争月間 マンネリ化したNHKの特集番組 

8月はどこの職場でも暑くて仕事に身が入らない。できることなら、手抜きして体調を維持して秋を迎えたい。経営者はともかくヒラの多くはそう思っている。

NHKは面白いところで、ヒラがその気になっていなくても、経営陣が手抜きを企てる。

戦争月間の戦争特集がそれである。

棚から適当に記録フィルムを引っ張り出して編集すれば一丁上がりというわけだ。

毎年、手を変え品を変え目先きに新しさを加えているが、もう趣向切れである。

去年は、有名人に新聞を持たせて敗戦直後の体験談を語らせた。今年の企画がどんなものか、今から期待に胸をふくらませて待っている、・・・ことはない。

これまでの数十年、戦争で負けた国と民の姿をただ漠然と語っているだけで、事の本質に全く迫ろうとしてこなかった。今年になって、突然そうでなくなるはずがないから期待しないのである。

本質は三つ。一つが昭和天皇。一つが日本放送協会自身である。

そして最大の本質が、海外出兵に日の丸の旗を振って見送った民である。中国に傀儡政権を作り、朝鮮・台湾を占領して、万歳を三唱して止まなかった民である。

これら三つのうち一つでも今年の戦争月間に取り上げたら、NHKを見直してもいい。

もっとも、BS11もBS7も映らないので、取り上げても今の私には分からない。しかし、その時には、このブログの読者のどなたかが教えてくれるにちがいない。「今年のNHKは手抜きしていないよ」と一言添えて。

付:
震災3県は、アナログを来年3月まで延長すると聞きました。しめしめ、まだ半年タダ見ができるぞ、とほくそ笑んでいました。でもBSは駄目。(4月にBS11からニュースが消えたため)BS7の10分間ニュースだけ毎日録画して、2週間まとめて観ていましたが、今はラジオだけ。別に不便は感じません。

資金はすでに大連立

マルクスやエンゲルスが、当時の社会主義者を空想的社会主義者とこてんこてんにこき下ろした。当人たちは科学的社会主義者と自負していた。それが自負でなく自称であったことは、戦後日本の労働者階級が教えてくれている。

電力労組が民主党に1億円を超える献金をしていたという。電力会社の役員は自民党側に献金をしている。名目はどうであれ、カネを民主党と自民党にそれぞれ与えたのである。無目的にカネは出さない。原発推進の魂胆がミエミエである。

役員は交際費か接待費をちょろまかして自費の形にしたのかもしれないし、おかみさんに許しを貰って家計の一部を献金したのかもしれない。いずれにしても、自分が捻出したカネである。

問題は組合の献金である。

大手組合は専従員という労働貴族が運営している。組合員の互選で選ばれるというのは名ばかりで、実際は権力闘争の勝者である。指導者であるためには必要な資質であるから私はこれを非難しない。

問題の問題は、カネの集め方である。

入社したら労働組合に強制的に加入させられる。山口瞳が困ったというカラオケの「強要」ではない。強制である。組合員になれば、組合費が天引きされる。天引きが嫌だといえばクビが飛ぶ。

私は、組合費を生涯一度も払ったことがない。若い時にそれほど大きな組合のある会社で働いたことがないことと、組合のある会社ではすでに参事、残業代ゼロだから惨事だ、という名ばかり中間管理職に就いていたからである。そして、私は現場主義者だからよく現場の組合員と話をした。

組合員の多くが、組合費の高さにグチをこぼすのである。戦後からしばらくはストがあり、参加者に対する賃金補填として蓄えが必要だった。今は会社の正門に赤旗がなびくことはない。徴収したカネは使途がない。大金が目の前にあれば、使いたくなるのが人情だ。それで、政治献金ということになる。

国民の税金を国が好き放題に使っているのと同じである。

組合の幹部は、民主的に合意された献金だと反論するにちがいない。その通りであっても、献金は幹部が意図したもので、幹部が提案しなければ、組合員から民主党に献金せよと出てくるわけがない。実質的には労組幹部と会社幹部の談合によって組合費が民主党に流れたのである。

「よござんす、私らは民主党にカネを届けましょう」
「ありがと、私らは自民党にカネを届けましょ」

「万国の労働者よ、団結せよ」は昔。今は、「労組は企業と談合せよ」

こんなことで日本がよくなるのだったら、とっくの昔日本は極楽になっているぞよ。

付:
献金は頂戴するは、政党助成金は掠めるは。ははは。

埼玉県知事選 最低の記録を更新

31日の知事選の投票率が24.9%で、最低記録を更新したという。それまでが千葉県だったというから、関東地方は田舎でない。田舎だったら、こんな低い数字が出るはずがない。田舎は政治に高い関心を示す。

私が最低というのは、この投票率を言っているのではない。選挙の構図を言っているのである。

民主、自民、公明が同じ候補者を推薦していた。

民主と自民が戦わない選挙は、大談合である。国会が大連立を狙っている最中、早々と地方で大談合ができ上がってしまった。

ニュースでは、明確な論争がない選挙戦であったこと、それ故に終始盛り上がりに欠けたと解説している。

論争しないから談合であり連立である。論争したら談合にならない。お天道様に恥ずかしい談合行為は、こっそりやるものと決まっている。選挙はそれが無理なので、できる限り波風が立たないように穏便に事を運ぶ。市民の間で盛り上がっては大いに迷惑なのである。

埼玉が極楽だったらそれもよかろう。現実はどうか。

朝霞に自衛隊がいる。隣りにアメリカ駐留軍がいる。フクシマ原発の汚染は隣りの県まで流れてきた。関東大地震に備えは十分か、400キロ離れたこの地にいる私でもこれ位は論争の対象として取り上げることができる。当事者である埼玉県の政治家だったらこの何倍もの論争が起きてもおかしくないはずだ。

地方政治は国の政治の縮図である。

国会の大連立の未来像を見せつけられた埼玉の知事選であった。

話はこれで終わらない。

投票率の25%という数字である。

民主と自民が大連立したら、今の支持率の合計、今は40%かそこらか、になると期待したら大甘である。投票率と得票率とは意味が違うと言う者がいるかもしれないが、積極的に支持するかしないかの点において同じである。大連立すれば、これら2党の候補者はバタバタ討ち死にする。

論争しない政治家に、問屋は易く卸さない。

付の1.
前に書きましたが、私は民主・自民はグズグズしないでさっさと大連立を組めばいいと思っています。一括産廃処理に好都合ですから。

付の2.
これだけ有利な立場でありながら、共産党が見向きもされない。開票速報が始まったとたんに敗北。どこの選挙でも同じ繰り返しです。この政党は、学習機能がまったく備わっていません。彼らの本音はマルクス流末法思想です。すなわち、資本主義は早晩崩壊する、その時まで出番を待てばいい、これです。資本主義の崩壊がどれほど人類に不幸をもたらすかを勘定にいれないからこうなるのです。語るに落ちるので本文でなく付にしました。

付3.
5年先までには、肉の状態にせよ、骨の状態にせよ、私は埼玉に戻ります。それで、東京と宮城とならんで埼玉を時折取り上げているのです。

ナデシコの顔に泥を塗った枝野

朝のラジオが女子サッカーで優勝したナデシコに国民栄誉賞が授与されると言っていた。

金一封が添えられるかどうかしらないが、表彰状だったら何枚でも出したらいい。菅直人が、自分の功績に見込みがたたないと思えば、せめて名前だけでもと表彰状に書き付ければいい。安いものだ。

聞いていくうちに、妙な話になっていった。

東日本大震災の被災者の励みとか勇気とか言い出したのである。

たかが女子サッカー。被災者の全部が全部関心があったわけでない。勝ち進んでいくうちに、マスコミが騒ぐようになったので、それで初めて知った被災者が多かったはず。

私なんぞ、優勝してからその存在を知ったくらいだ。

暗くなりがちな被災者とは、まったく余計なことだ。菅直人や枝野が暗いだけじゃないか。自分たちの心境を素直に出せばいいものを、被災者にかこつけるなど、卑怯千万。

こんな言い方をするのは、国庫のカネをナデシコに差し上げることにしたと、最後の方でニュースが言ったためである。

亭主は借金の工面で四苦八苦している。それなのに女房の方はエステサロン通いときた。

亭主は怒らなければいけない所を、女房のエステ通いを奨励している。一体、この菅直人と枝野某夫婦は、何を考えているのだろう。

世界一は結構。あが、自腹で世界一になってくれ。

カネが要るだって?

勇気と元気を貰ったと感動している者から義援金を集めなさい、義援金を。なにもタダで感動させることはないのだ。

付:
題名がピント外れになっているのは、民主の安住議員が、地方の首長は泥をかぶらないと嘆いたことに刺激されて、泥を使ってみただこのことです。

私の震災復旧 虚無僧尺八

どんよりした日が続いている。

今日の散歩では、久しぶりに海に向かって尺八を鳴らした。

震災以降、長管の「陰々滅々」感を敬遠してきた。

今日は、震災以前と変りなく気持よく吹けた。

私の心が震災の痛手から回復したのである。

わが石巻は死者・行方不明者が3千人になるという。市の人口の2%である。犬・猫も数が知れない。

私は、「手向け」を1日1回は吹くことにしてきた。来年の3月まで続けるつもりでいる。

(灰色の空と灰色の海。気合を入れて吹かないと、押しつぶされてしまいます)
0718石戸大波

原発難民 、政府を信じるな、子供を放射能から守れ

山形県が受け入れた避難者は宮城県からが減少する一方、福島県からの避難者が増加した。

福島第1原発事故の影響を心配する避難者が子どもの夏休みに合わせて一気に移動した。

これを今日のニュースで知った。

お隣りの某大国と競り合うように隠蔽工作とデタラメ発表を連発している日本政府の風評被害に惑わされない賢明な市民の行動である。

政府や独立行政法人や学者や評論家が、いくら安全だと言っても信用してはならない。市民の子供たちが大人になる頃には、みんな現世にいるなら年金暮らし、あの世に行ってしまっていれば地獄暮らしなのだ。だれも責任は取らない。

核分裂は恐ろしい。

「これこれの数値の放射能を浴びても健康に被害はありません」という根拠はどこにもないのである。20年後、結婚適齢期に達した時、精子が不健全であったり不妊であったりしても、原子力物理学者のサンプリング材料になるだけである。

子供は、全部が全部、甲子園のグランドに立てるわけでない。競泳で名を成すわけでない。中には、頭はいいが体が弱いものだっている。

どんなに少量の被爆でも、ある子どもにとっては、致命傷になる可能性があるのだ。役所はすべて統計学的にしか市民を見ない。経産省の役人が、千人の子供に一人や二人、不妊症に罹っても、科学的根拠がない、相関関係は認められないと信じている学者に語らせて終わりにしても不思議はない。

夏休みに入って避難者が増加したことを、菅直人や海江田某はどう見ているのか。

それだけ政府が信用されていないことの証であると認めたらまだ少しは救いがある。多分、自分の風評被害の撒き散らしを棚にあげ、政府の風評被害に遭うなという風評被害に遭わないようにと市民に呼び掛けるだけだろう。

放射能被害は、薬害と同じで学者や専門家によって検証された時には、手遅れなのである。

保安院は不安院である。子供を持つ市民は、決して政府の言うことを信じてはならない。可能なかぎり福島原発から遠い場所に避難することだ。

付:
少々の放射能を浴びても原発のあぶく銭が欲しいというのは、私のような老人の言うセリフです。

映画『父と暮せば』

現代劇の邦画は好きでない。食わず嫌いではいけないと、これまで何本か観てきたが、やはり私には駄目である。

楽天レンタルがここ石巻向けに再開されたのを祝って、先日かなりの数を一度に借りた。

その中の1本が「父と暮せば」である。

レンタル画面で、たまたま目にしたこの映画は、ヒロシマ原爆をテーマにしたもので、宮沢りえが主役と紹介されていた。

父役の俳優が死去したため、特別に宣伝したのだろう。

宮沢りえの大ファンである私は、ついでに借りることにした。どんな駄作でも宮沢りえに銀幕で逢えれば、私は満足するに決まっている。ファンとはありがたいもの、宮沢りえにもありがたがってもらいたいものだ。

昨夜、上映した。

父が幽霊であることはすぐに見抜けた。ミュージカル『回転木馬』でこの手の手法を私は経験済みである。

観始めの印象は、安上がりの映画であるということだった。登場人物は数人、セットも一つ二つ、あとは合成写真。題名は忘れたが、ロレンス・オリビエとマイケル・ケインの二人芝居の映画と安上がりという点においてそっくりである。

観ていくうちに、これは映画にするより芝居にした方がいいのではないか感じてきた。芝居が主流で、後から映画化されたに違いない。

内容はといえば、最初は軸がよく分からない。なにも広島弁でなくてもいいのに、耳障りなことよと観ていた。父と娘の対話の中に、原爆がでてきたのは中頃である。

これからが本論であることは、いくら鈍感な私でも分かった。映画が宮沢りえを通して何を訴えたいのか、私は緊張した。

原爆投下の瞬間、廃墟になった市街、生き残った者と死んでいった者の対話、これが手を変え品を変え、延々と続いた。

私は、次第にイライラしてきた。原爆の恐ろしさはこの映画が語るまでもない。分かりきったことを、これでもかこれでもかと押し付けてくることにイライラしてきたのである。

原爆はなぜ日本に投下されたのか、これに対する答えが全然出てこない。ただ、悲惨・悲劇を語らせているだけである。

宮沢りえが嗚咽するシーンがいくつかあった。ファンであっても私は全然共鳴できなかった。

こんなことに私の時間が潰されるのは癪だ。後は4倍速の早送りで終わりにした。

クレジットで、この原作が井上ひさしであることを知った。

政治思想に筋金が入っていないこの作家の原作であれば、どんなに優れた監督でも凡作しか作れない。原爆はそこらの悲劇とは桁が違うのである。彼には荷が重すぎる。


今日から、「戦争はコリゴリだ」月間が始まる。太平洋戦争の悲惨のシンボルとしてヒロシマ・ナガサキを、メディアは恒例行事として番組や紙面で取り上げるであろう。

しかし、なぜ戦争が起きたのか、起こしたのかは、論じられない。

今日のメディアにその勇気もなければ考察もない。

勇気も考察もいらないお涙頂戴は手軽な番組であり手軽な埋め草記事である。一年前の8月が今年も繰り返される。

付の1.
戦禍と災禍を比較するメディアが今年は出てくるでしょう。でも、原爆でも原発でも、事の本質に迫るものは期待できませんね。

付の2.
後半の所で、父が娘に、「中国や台湾や朝鮮で日本人がやってきたことの報いである」と諭すシーンがあれば、教えてください。もう一度観直します。

付の3.
今月は、例年通り「ビルマの竪琴」を上映します。

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