老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

普天間基地海外移設 それまで開店休業します

なんの煩いもない最後の楽園生活でも、この普天間基地問題だけは、私ののど仏に引っかかっています。他の世事世相に何を言っても、書いても、虚しいばかり。そんな訳で普天間基地問題が決着するまでは、牧歌的隠遁生活にどっぶり浸ることにします。

今日の言葉: 果報は寝て待て

付:
このブログは、毎週月曜、定点観測写真のアップロードのみとなります。まあ、開店休業のようなものです。

0424そろいました

2010年は国民読書年(補) あと数冊  

◆老子
◆資本論
◆帝国主義論
◆徒然草

先の3冊に「老子」が入っていない。それは、私にとってはクラシック音楽における第九合唱付きと同じで、完全に別格であるからだ。

他には、資本論と帝国主義論。私が転生して再びこの世に現れるであろう200年後には、リストから外されているはずだ。しかし、現在の社会(政治、経済、文化を含め)を理解するために、これほど役に立つ本はないと私は思っている。

昔のことだから、資料が古いのは当然であり、数字が間違っていることもあろう。資本論と帝国主義論を訓詁学のやり方でアプローチすると時代遅れのアナクロニスト推薦という結論に達してしまう。

資本主義と貨幣経済をごちゃまぜにしていることに無自覚な昨今の経済学者やエコノミストはこの手法で資本論を読んだのだろう。「考える」ための材料として扱われるべき本に知識を求めた誤りによるものである。

「徒然草」はいつ読んでもいい。日本人にもこれだけの深みのある人物がいるのだ。当時の情報は、現在のネット情報と比べればほとんどゼロであった。それにもかかわらず、それ故と表すべきか、自分の頭で物事を考えることに時間を十分使えた。老子に至っては、私の方丈と同じで、明窓浄机一筋であった。どこに何が書いてあるか、誰がなんと言ったか、関心を寄せていて老子が書けるはずがない。哀れにも、マルクスは、大英博物館で少々新聞を読みすぎてしまった。豊富な情報が禍となり、入り口は良いが出口が悪いという経済学になってしまった。

「徳川家康」、「地の糧」、トルストイやドストエフスキーの長編小説、「ジャン・クリストフ」他フランスの小説、ドイツの小説、イギリスの随筆、書き出すと切りがなくなる。

もともと、3冊とか10冊とか限定すること自体が不自然なのだ。

年にどれほど新刊が世に出るのか私は知らない。何万、何十万とあろうとも、私が心から推薦できる書物は、この数冊である。

生きていてよかった・・・これは空の雲を眺める時ばかりではない。紙の上の黒い色の活字を見る時も、同じように感じるのである。

付の1。
コーランも多分すばらしい本でしょうが、未読です。

付の2。
中村元「ブッダの教え」も、おすすめであります。

付の3。
私が読んだ中での「おすすめ」です。限定かつ主観に頼りました。読書とはこういう性質の物ですよね。

0418石戸の春

2010年は国民読書年(続) 小国寡民のおすすめ本

パネリストたちによるおすすめ本は、あまりにも軽薄である。

私は、活字に申し訳ない気分で一杯である。それで、お口直しの意味も含めて、私が3冊おすすめすることにする。

◆ 新・旧約聖書
◆ 史記
◆ シェイクスピア戯曲

聖書は宗教書として扱わなくていい。史記は歴史書として扱わなくていい。シェイクスピアは芝居として扱わなくていい。

感動を貰おうなどと欲を張ってはいけない。感動する本・興奮する本・鼓舞する・号泣する本等々なら世間にいくらでもある。第一、感動だけなら、映画もあれば音楽だってある。絵画もたぶんその中に入るのだろう。

私が選んだ基準はフォーラム宣言が挙げている「心豊かや活力」などという低次元ではない。

「考えさせられる」、これである。

これら3冊は「考える」材料として活字世界の最高峰である。七十の歳を迎えんとしている今でも、私の心から一日たりとも失せたことはない。どのページに何が活字になっているか、こんなことはどうでもいい。膨大な活字が頭の中でふるいにかけられる。最初は目の粗いふるい。歳をとるにつれて、ふるいは目が次第に細かくなる。そして、最後まで残っているもの、これがどれほどのものかによって、私が選べば、どうしてもこうなってしまう。

付の1。
読書の楽しみは多様です。面白い本やためになる本がなければ寂しいです。まあ、活字に縁が無くても、困らない人もいますが。

付の2。
昔、南海の孤島に漂流した時、1冊だけなら何を持っていくか。こんな小話がはやったように覚えています。大概の人は聖書と答えるそうな。イスラムがまだ今日的状況になかった時代でした。

付の3。
東北の小島。似たような私の状況です。キリスト信者でない私も、やはり聖書は欠かせません。1冊と問われれば、困ります。ですから、1冊とは自問しないことにしています。

0419砥石島

2010年は国民読書年 おすすめ本  

国民読書年フォーラムが催されたという。宣言文の中で、「本や新聞などの活字文化は考える力や想像力はもちろん、言語の力や人を慈しむ心もはぐくんでくれます」とあった。

贔屓の引き倒しとはこのことである。活字は無味無臭である。慈しむ心を育む場合もあれば、敵愾心を煽る場合もある。

もう一つの贔屓の引き倒しが、新聞のことである。思考力や想像力を育むことを目的にしていない。新聞は報道と主張をしっかり伝えてくれれば、それでいい。

些細なことだが、「考える力」はやまとことば、「想像力」は漢語。並列に違和感を覚える。「考える力」は「思考力」でなければならない。殴り書きのブログならともかく宣言文という格式文書には許されない。活字の「プロ」の程度はこんなものかもしれない。

5人のパネリストが「おすすめ本」を各人3冊づつ挙げている。他人は他人、自分は自分がモットーの私でも、活字となると他人が気になる。

落胆した。計15本に古典と称せられる物がわずか4本である。「悪霊」、「万葉集」、「ファウスト」、「唐詩選」。論語があったが、「論語物語」であるから除外する。「唐詩選」はできれば漢詩であってほしかった。陸游、陶淵明は漢字という活字の粋である。それが入らないではないか。残りは、ヘラヘラ軽量級である。パネリストの活字感覚の程度もこんなものか。それで、「わが国は千数百年の書物文化の歴史を持ち~」だから、いやはやなんとも言いようがない。

活字文化は古今東西に亘るもの。なんで「我が国」に限るのか。狭量は無用である。

宣言文には、「心豊かな活力あふれる社会を築くことは私たちの願い」とある。

活力だって!二言目には地方の活性化とわめく田舎政治家と同じレベルである。活字文明は、そんな薄っぺらなものではない。

国民なんとか運動は、すべからくうさんくさい。商業ペースで活字を語ってくれるな。

付。
讀賣新聞 2010年2月21日

0419島影

マニフェスト政治 かの人、かく語りき

マニフェストは、政党が政権に就いた時に、これこれをやります、これこれはやりません、という選挙民に対する約束である。選挙民のほとんどは非旧帝大卒だから、約束の表現はわかりやすく書かれている。

それを、かの人にかかるとこうなる。

第一. 難しい漢字の続出。
機能、限界、掌握、政策項目、経費、財源、実施時期、相互の関係、体系性、抑制、施策、政策群、担保、達成度、政策論議、内包、審判、束縛、拘束、目測能力、規律化、条件整備、政党経営、覚悟、知恵、課題、予測性、方向性、真価、駆使。

「性」をつければ論理的になるとでも思っているのか。「体系」、「予測」、「方向」に「性」は蛇足である。かの人によれば、「機能性」、「限界性」、「掌握性」、「内包性」、「課題性」、なんにでもつけられる。難しい漢語表現が満載されているので、漢字の学習にはいいかも知れない。しかし、政治を語る目的であれば、失格である。

その理由は、政治に最も大事な漢語、すなわち「精神」の2文字がどこにも見当たらないからである。

第二. 意味不明な表現。
◆ マニフェストには機能と限界があることを忘れてはならない。
◆ 政党政治は、統治を行う政党の政策面での一体性を前提としている。
◆ 政策を取り巻く環境は時々刻々変化するし、予想外の新たな難題も発生する。
◆ マニフェストがあろうとなかろうと、政治の予見性は元来そう高いものではない。
◆ マニフェストは決して政治的賢明さの代替物ではあり得ない。
◆ マニフェストがサービス合戦のカタログと陰口をたたかれているうちは、政党はマニフェストの可能性を駆使したことにはならない。

機能と限界。マニフェストはパソコンではない。次の行の一体性を前提とは何を意味するのか、さっぱり分からない。他の行も、意味不明の言語表現である。誰がカタログと陰口をたたいているのか、寡聞にして知らない。可能性の駆使とはなんのことか、これも意味不明である。新聞の記事であるのだから、読み手が理解できなければ、ただの文字の羅列である。全文がすべてこの調子である。何を言わんとしているかを読み取ろうと努めても、まったく要領を得ないのである。

第三。世界観の欠落。
これがもっとも悪い。かの人は語る、「世界観を掲げる政党が過去のものとなった現在、政党の一体性を体現できるのは有権者を前にして選挙に際して示す一定の政策群でしかない」と。

当人に世界観がなくても何ら痛痒を感じないが、為政者に世界観がなければ、単なる国家権力濫用執行人である。被支配者である我々人民にとって多大な迷惑となる。

マニフェストは大衆にとって分かりやすい。だが、マニフェストのバックボーンには質の違いこそあれ、政党の世界観が厳然と存在している。世界観がなくて、どうしてマニフェストができるというのか。

かの人は、またこう語る、「マニフェスト全部をそのまま実現すべきであるというマニフェスト原理主義は、一種の政治的ユートピア主義にほかならない」と。

これには温厚を旨としている私も、さすがにカチンときた。原理主義はかの人にとって「邪悪」であるイスラム過激派を連想させようとする意図によるもので悪意が含まれている。ユートピアは、現実不可能、夢物語を連想させる魂胆である。

選挙民はマニフェストを知ることで、政党を選ぶ。それが、政権を握った後になって、「諸般の事情により、止めることにしました」では、選挙民は、一体何を拠り所にして投票すればいいのか。

私は、マニフェストは愚直なまでに100%実行すべきであるとの持論である。火星人が来襲した、タイムマシンが開発された、こんな事態は別であるが、今日の政治・経済・社会で予測不能な事態などとは言い逃れである。政権はたとえ予測不能であっても、その中で最善手を打っていく行動者でなければいけない。そもそも予測可能の事態と予測不能な事態の混交が世間でないか。

民主党に中にも、9割実行できれば合格だと言う議員がいるようだが、とんでもない。「全部をそのまま実現」しなければならない。1割の不実で、将来の選挙から信頼が消え去る。

内政にまったく期待していない私の耳にも、不実の言い訳けが財源にあると届いてくる。財源問題は、選挙前から自民やマスコミが取り上げていたはず。なにを今更である。政党交付金をゼロにする、高級官僚の賞与を半減する、裁判員制度を中止する、官房機密費をゼロにする、スポーツ支援をゼロにする、宇宙に人を舞い上がらせない、自衛隊を向こう4年間運休する(隣国は攻めてこない)、NHKから受信料の半分を上納させる、途中の道路工事やダム建設は中止、プリウスなど軽自動車でない車には100%の奢侈税を掛ける、普通の人間が考えただけでも、莫大なカネが浮くというものである。もちろん、特殊法人や独立行政法人は、一切廃止。せめて、これ位をやってからでなければ、言い訳けは通らない。

マニフェストは約束である。死に物狂いになって実現しなければ、かの人が、益々増長する。日本にとって、大変嘆かわしい事態が増幅されていく。

実際には、国家権力を掌握した政党は、別に死に物狂いにならなくても、マニフェストの実現は簡単にできるのである。国家権力は強いし、自衛隊のクーデターか民衆のデモでもないかぎり、やりたいことはなんでもできる。マスコミが何と文句をつけようが、所詮、外野のラッパである。

最後に、かの人を紹介する。

かの人とは、佐々木毅学習院大学教授、元東大学長である。1942年生まれ。東大法学部卒。専門は政治学。助教授、教授とヒマな職業一筋だから、何千もの文献と何百万の論文を読んできたことだろう。しかし残念ながら精神がない知識だ。曲学阿世の徒。

付の1。
世界観はイデオロギーではありませんよ。教授先生。

付の2。
漢字や学歴は、時として、おためごかしの道具ともなります。

付の3。
讀賣新聞  2010年2月21日
地球を読む マニフェスト政治 「そのまま実現」は空想論

0414裏山の書斎

よみうり堂 節約は精神の贅沢である

◆節約は、ちょこちょこチマチマとしたノウハウの謂いではなくて、もっと生活全体、あるいは生き方そのものについての自省的思惟でなくてはならぬ
◆ 「自分の軸」を持って、衣食をまかなう、ものを選ぶ
◆ 無駄にしていけないのは、お金だけではありません。人が生きる上で一番無駄にしてはいけないのは、やはり人生の時間だと思うのです

病気にならないのが何よりも節約。そのためには、自分の身の丈に合った生活(食生活、飲酒、適度な運動、消費行動など)をするのが肝要・・・とも言っている。

これは、林望「節約の王道」という本の書評の一部を転記したものである。この書評に惹かれて本を注文する予定はないから、この孫引き、少々、後ろめたい。

しかし、考えようによっては、この著書自体が、大昔の偉人の書き写しとも言える。

偉人とは、吉田兼好さんである。なるほどと感心した読者がいたとすれば、その人にとって「徒然草」は必読の書である。

ひと昔前、「清貧の思想」が大受けした。これなど書き写しの典型である。これからも、この種の節約思想書は抜け目の無い出版社から多数出るだろう。

孫引きとはいわないが、同工異曲である。原典は難しいかもしれないが、噛めばかむほど味が出る。ベストセラーはチャラチャラ子供のCD売り上げ記録に任せておけばいい。

本物は、数百年、数千年前に完成している。人生の時間を惜しまず本物に向かおう。

付:
讀賣新聞 2010年1月10日
0411モモとメリー

とてもためになるお話(2) 長寿村と短命村 西丸震哉様お説

福岡正信さんは私の師である。西丸さんは師と仰ぐまでには思っていないが、大変尊敬する人物である。それで、師の代わりに「様」をつけさせていただいた。

この人の代表作に「41歳寿命説」がある。私の愛読書である。

長寿村・・・
① 水・空気の質がよい
② 気候がやや厳しい
③ 労働がややきつい
④ ストレスが少ない
⑤ 大食が出来ない(摂取カロリーが少ない)
⑥ 美食ができない(摂取タンパク質が少ない)
⑦ 野菜の摂取量が多い(イモ類・海藻類を含む)

短命村・・・
① 水・空気の質が悪い
② 気候・住環境がよい
③ 労働がゼロに近い
④ ストレスが多い
⑤ 食べ物は飽食状態
⑥ 肉食中心の食生活(タンパク質の大量摂取)
⑦ 野菜の摂取量が少ない

日本の長寿現象を、「仮性長寿」の見せかけと言う。成人病の多発やノイローゼの頻発、働きざかりの突然死などが、その何よりの証左であって、短命村の中の一種の淘汰現象が起こっている、とも言う。

私は、ここで考える。

長寿村と短命村のどちらがGDPの数値向上や経済成長に貢献するかということを。

資本主義経済に長寿村は迷惑である。短命村があってこそ資本主義が長寿でいられる。

政治家、経済学者、評論家、世論、等々その大半が疑いをもたない資本主義経済社会がそこに生きている人々にとって決して好ましい姿でないことを、西丸震哉様は示してくれている。

私のブログだって、たまには、とてもためになる話が載るのである。もっとも、他人の言の租借であるが。

付の1。
「人生密度7年説」も彼の優れた著書です。命は長さじゃないのよ・・・。絶版になっていなければいいですが。

付の2。
福岡正信師は農水省の役人あがり、西丸震哉様は厚生省の役人あがり。高級天下り役人に爪の垢でも煎じて飲ませたいですね。

付の3。
私の楽園、長寿村です。ネコが交通事故に遭いません。これだけでも、いい場所であることがわかります。

0410モモとリッキー

とてもためになるお話(1) 目の若さを保つ

加齢の自覚は先ず、目。目が衰えると、小さな活字は拡大鏡を使わないと読めなくなる。この拡大鏡と言う代物、字を追うと、字が逃げるのである。裸眼ならワン・ブロックをカバーできるのに、拡大鏡はそうはいかない。字がゆらゆら揺れる、その上、字の大きさが拡大鏡の持ち方で常に変化する。

読むのは、知識を頭に入れるのが目的ではない。これだけなら、百科事典を手元におくので十分だ。読んだ内容から、物事を考える、これが目的であろう。拡大鏡を頼みにしていると、とてもそんなゆとりはない。字を追うだけでふうふうだ。

他はともかく、目だけは、できるだけ長く若さを保ちたい。活字人間共通の願いである。

それが、できるという記事があった。新聞社から文句が来たら削除するとして、ここに転載する。

若さを保つ生活習慣

□ 運動をする
□ カロリー制限(腹8分目)
□ 野菜、果物、魚中心の食事
□ 水をたっぷり飲む(1日2㍑以上)
□ 十分な睡眠(1日7時間以上)
□ 適量のアルコール(赤ワインをグラス1,2杯)
□ 深い深呼吸
□ ストレスをためない
□ 禁煙
□ 紫外線を避ける
以上10項目のうち、私がチェックを入れられるものが7項ある。

■ 運動。4月からNHKのラジオ体操を始めた。わずか10分でも、毎日続けてきたため、体が動くようになってきたのが自分でも分かる。ヤギと犬の散歩は毎日1時間から1時間半。
■ カロリー制限。言われなくても、生活保護費程度の年金がバッチリ制限してくれている。
■ 食事。生協の安い食材でまかなっている。
■ 水。ただの水で2リットルはいかない。野菜ジュース、コーヒーや味噌汁を加算しても、冬場は1.5リットルである。夏は2リットル以上。平均で2リットル。
□ 睡眠。ネコが夜中、幾度も家を出たり入ったりする。その度に、ベッドにドスンと乗る。寒い夜は、布団の中に入れろと、頭をザラザラ舌で舐める。おちおち眠れない。
□ 赤ワインは、買わない。自作のドブロクかビールである。月曜に限っている。せっかく毎夕の晩酌から開放された今、無理をしてまで赤ワインは飲まない。
■ 呼吸。尺八は腹式呼吸でなければ、音が伸びない。複式は難しい。苦労をしている。腹と胸をできるだけ大きくひろげて空気を吸う。この項は120点である。
■ ストレス。日常生活にストレスはない。あるがままに生きている。聞こえはいいが、それ以外に選択できないから、そうなっているだけのこと。その代わり、世事・世相のバカ騒ぎは私には限りないストレスである。幸いにブログで解消できている。読み手は迷惑かもしれないが、我慢してもらう。
■ 禁煙。水泳部に席を置いたために、タバコには縁がなかった。40代の頃、還暦を機に、麻薬の一種であるタバコを吸って愉悦の波間をだだよってみようと決めていたが、いざ還暦になったら、やはり、馬鹿らしくなった。
□ 紫外線。とんでもない。紫外線、大歓迎である。初夏のハンモック、夏の海、青い空に白い雲。年中、海にでている漁師は別として、晴れた日の日光浴を避ける理由がどこにあるというのか。

70点は合格ラインであろう。「若さを保って、今更何になるというのだ」と若者に笑われるかもしれないが・・・

付:
讀売新聞 2010年2月13日

青木公安部長(3) ゆとり教育の失敗

学力が落ちたと嘆く。なぜ、学力が落ちたら悪いのか、誰も明確に語らない。前に比べると、学力が落ちただの、世界のランクがさがっただの、嘆くばかりで、それがなぜ悪いのか、誰も語らない。

今年の大学入試センターの問題を一度見てみるといい。受験生か担当教諭でないかぎり、100点満点で50点も取れないだろう。だからといって、な~んにも困らないのである。普通の良識が備わっていて、中学校の授業をしっかり受けていれば、それで十分である。

だが、そんな成績では、受験校に入れず、従って有名大学に入れず、上級国家試験に入れず、である。

高級官僚がナンボのものかと笑っていられればいいのだが、明治維新により官僚育成専門機関として旧帝大は今でも出世の登竜門である。自分の子供の立身出世を願う親心を、無下に否定してはいけない。

ゆとり教育の失敗はここにあった。学歴優秀者が官僚として羽振りがいいことは田舎の政治でよくわかる。それを、目の当たりにすれば、やはり勉強ということになってしまう。

出口を改革しないで入り口だけ改革したものだから、ゆとりができても、塾通いに走る。最初からエリートを諦めた学童は、勉強なんかそっちのけで9年の間遊んで暮らす。世間に出てから役に立つこと満載の義務教育の基本さえ身につかないまま卒業する。

50人の児童がいれば、3人か4人、頭の良い子がいる。この程度の割合が自然である。この3人か4人に英才教育はいらない。黙っていても勉強する。残りのほとんどは普通の頭である。この子供たちは、普通の勉強をすればいい。知らなくてもいい知識を覚えることはない。

学歴尊重が温存されている民間企業は、そのほとんどが「天下り受け入れ」政官癒着企業である。自力で生きている民間企業では学歴など問題にならない。

青木公安部長の非常識さを教訓として、この際、是非、出口である高級官僚作出システムを廃止することだ。霞が関、自衛隊、司法界、警察、他すべての公務員に、採用条件の差を付けてはならない。

よく仕事をする役人が徐々に偉くなる。最初から偉くなるかどうかが決まっている組織が、まともに機能するはずがないではないか。

少数のエリート、常識はずれのエリート、その代表がこの公安部長である。無論、本人は民百姓を啓蒙しているという自負に溢れている。困った確信犯である。

付の1。
ゆとり教育論です。青木公安部長の名を冠にしたのは、長く彼の栄誉を賜杯にきざみたいためです

付の2。
旧帝大からは優れた政治家はでません。今の官僚出身の政治家を見ればわかります。

4月は生活の区切りの一つ(3) 古事記

人は現金なもので、一つが満たされると、次が欲しくなる。

活字から意識して遠ざかったこの十余年、別に肩肘を張ってきたつもりはない。ここ数カ月、新聞という活字の山に埋もれてきた。ありがたいことはありがたいのだが、当初期待していた、活字に接することからの心の安らぎが得られない。

いろいろ考えた。その原因が新聞の記事の軽さにあることに気がついた。新聞の使命が今日的時事を専らに扱うことであるから、百年、千年の歴史に耐えるように構成されていないのは無理もない。

とにかく、活字の量は確保された。次は、当然のことながら(またまた鳩山調)質の追求である。

私は、私より後に生まれた人間の言葉を信じない。信じないからと言って、疑ってもいない。無関心ということである。新聞記事の大半は現役記者が書いているだろうから、私より若い。それだけで、私は、フンフン・・・これでチョンである。小説、映画、同様である。まったく質を期待しない。

それでは、どこに質を求めるのか。

数年前は旧約であった。これはすでに終わっている。数百頁を半年かけて読んでも、少しも飽きることがなかった。しかし、読み返すつもりは毛頭ない。一回読んで、頭に残った部分がエッセンスであるから、忘れた部分は忘却の彼方で構わない。

世界文学のめぼしい物は若い時に読んでいる。日本文学は基本的には嫌いである。残された時間を敢えて嫌いな文学のために使うなど誰に言わせてももったいないはず。

結局、「古事記」に決まった。

ヤマタノオロチや因幡の白兎などの物語は子供のころ絵本で読んだが、それが古事記であることは知らなかった。老人特有の懐古気分もあったかもしれない。

4月1日から読み始めた。読めば読むほど、心が和んでくる。ありがたい。

和む理由の1。
外来語である漢語表現が一切ない。安保改定絶対反対!迷走鳩山内閣の崩壊!など、どこを探してもない。すべてが柔らかな大和言葉によって書かれている。漢語が入ってくる前に完成され、それが頑固な伝承者から頑固な伝承者に代々口伝されているためだろう。

和む理由の2。
私が選んだ本は文語体である。聖書でもそうだが、口語は軽くていけない。ヘラヘラ読んでも活字は追える。しかし、考える暇を与えてもらえない。

命は な殺(し)せたまひそ
命なのですよ 殺さないでくださいな

文の重みは命の重み。多分半年は付き合うことになる古事記、口語はご免蒙むる。

和む理由の3。
旧体の漢字が使われていることである。文語に簡体字はいけない。

豐 藝 與 鹽 舊 禮 處 號 歡 轉
豊 芸 与 塩 旧 礼 処 号 歓 転

新聞をいくら読んでも、旧体字に遇えない。と思ったら一つだけあった。読売新聞の「讀賣」である。これは読む対象の文字ではないが、それでも、れっきとした旧体字である。いつまで続くかわらかないが、「読売」になったら、新聞稼業を止めてプロ野球に専念した方がいい。

漱石の作品が簡体字で出版されていると聞いたことがある。これは、ダメである。漢字ではないが、「ぢ」や「ゐ」、「せう」も原著のまま残しておかなければいけない。

現代作品に旧字を使えと言っているのではない。昔の作品に簡体字を使って、作品の雰囲気をめちゃくちゃに壊すなと言っているのである。

これら三点の調和が古事記にある。かつ、原文は見事な漢文である。一部を切り取って、「これは唐の時代に書かれた伝説である」と言って見せられたら、専門家でなければ、大抵の人は担がれると思う。

正五位上勲五等太朝臣安萬侶。この偉人に接することの歓びと心の落ち着き。わが活字人生の締め括りに値するものである。

付の1。
ヘビ、ムカデ、ハチ、こんな生き物が出てくるのですから、親近感もわいてきます。旧約にムカデは、確かでていなかったと思います。

付の2。
糞や尿まで、神様の素になるのですから、倭人は素朴です。

付の3。
万葉仮名を使わず、漢文にしたのは、お隣り中国に読ませて、倭国が飲み助の集まりでない、バカにしないで、と言いたかったのかもしれません。

付の4。
岩波のワイド文庫。訓み下し文を読んでいます。私の実力では、原文は無理。口語訳も手元に置きました。すべて、オークションで安く手に入れた中古本。

0405古事記

幸福(2) 最大多数の最大幸福

中学社会科でベンサムという経済学者の言葉であると習った。大概の事は忘れてしまったが、これはよく覚えている。教師は真面目に教える、私もなるほどと感心する。

この表現のおかしいことがわかったのは同じ中学の数学の授業によってである。

ax+by+c=0

xが人間の数、yが幸福の量。数式で表すとこうなる。これに解はない。未知数が2個で方程式が1つだから理論が成り立たないのだ。

ある設定された人間の数において、最大の幸福を求める、または、ある設定された幸福の量において、最大多数の人間の享受する、このいずれかである。

それでは、このいずれかで人間社会の理想が示されるか。否である。そもそも幸福というものは、軽量不能であるからだ。

ベンサムやスミス、マルクスも含めていいが、古典経済学は、人間の幸福を経済学の目的としていた。幸福が経済によって得られると信じたものだから、哀しいかな、全員迷路に迷い込んでしまった。

経済は、数量である。計量不能な幸福を対象にするツールとして無益である。ケインズ以降、近代経済学者は、この点をよく自覚している。その結果、どういう思考を持ったか。

一つ。
幸福を物質的欲求の満足度に置換した。昨日より今日の方が物が豊かになる。物を増やすためにカネがいる。カネは計量可能である。限定を意識しているうちはまだ良かった、計量できる幸福が幸福であると確信してしまった。とんでもない錯覚である。社会が、この錯覚を覚った瞬間、資本主義は崩壊する。これは、主に、景気の回復を政府に要求する一般大衆の考えである。

一つ。
幸福なんかどうせ分かるものではない。最初から匙を投げる。あるいは、触らぬ神に祟りなし、で経済を数字の世界に限定する。金利をどうすればどうなる、国債をいくら増やせば、どうなる、為替がどうなれば、どうなる、設備投資がいくらになれば、どうなる、インフレ率・デフレ率、原油価格、株価、・・・政府や経済学者、マスコミやエコノミスト、いわゆる有識者の大半である。数字の世界だから、論理的であるのは当然のこと。社会のあり方とは無縁の知的遊戯である。

幸福は、経済によらない。財物で計り切れるものではない。一般大衆も有識者も、このことだけは、常に頭の隅に置いて、経済を語ってもらいたい。

「足るを知る者は富めり」

これに勝る経済学、余、未だ知らず。

付:
東外大、伊東光晴先生から「自分で考える」ことを学びました。

0403リッキーと鶏

4月は生活の区切りの一つ(2) ラジオ体操

今年、もうすぐ古希、すなわち70歳を迎える予定の私。この楽園の地に居を構えたのが55歳。

その差を否応なく自覚させられるのが、体力である。鶏エサ20キロ袋を軽々と運んだ。30キロのヤギエサも気合を入れれば担げた。今は、10キロの米、2リットルの水半ダースを車に載せるのがやっとである。車から下ろし屋内の所定の場所に運ぶのさえ、大変な作業だ。もっとも、わが野草園は、駐車場から母屋までかなりの距離があり、しかも坂であるから、数十坪の敷地の主とは、話が違うのだが。

それで、始めたのが、ラジオ体操。

工場長付けで生産ラインに入っていた40代が最後だったから、20余年ぶりである。第一はさすがに、完全に覚えている。第二は、曖昧になっている。それもそのはず、朝礼では、第一しかやらなかった。第二は高校で習ったから、半世紀前である。体が覚えているのは忘れないとよく言われるが、50年はやはり長いブランクである。

ラジオ体操はいい。伴奏のピアノと指導者の歯切れのいい掛け声は、ムダがなく余分もない。

向かいの山からこだまが返ってくるほどの大音量で録音テープを流す。体は自然に動いていく。

先日、よせばいいものを、ガラスにどんな格好で自分が動いているのか、見てしまった。なるほど、70という歳はこうなのか、と納得したまではよかったが、第二の片足跳びの段になって、驚いた。左足を挙げれば、体が左に傾き、右には右。指導者の号令に合わせて動かすものだから、ヨタヨタのメトロノームである。

犬やネコは、寝起きに背伸びをするだけで、特別に体操はしていない。それでいて、野原や林の中を歳に関係なく跳び回っている。今日のような雨の日には、一日中寝っぱなしである。

人間、なんで、ブザマな格好で体操をしなければいけないのか。今、考慮中である。結論が出れば、報告する予定である。

付の1。
ラジオ体操には、首の運動がありません。今は、第一と第二の間に取り入れらています。ありがたい。

付の2。
腕や脚のストレッチ運動は、今も入っていません。これは、高校水泳部やスイミング・スクールで習ったパターンでやっています。

付の3。
三月の下旬から始めました。三日坊主でないことが証明されましたので、新年度のスタートに加えたというわけです。

0405モモとリッキー


青木公安部長(2) 彼は中卒か 国家試験が悪の根元

旧日本軍の幹部の無能さは、エリート集団の無能さでもあった。エリート集団は学歴によって決められる。今は警察機構がこの「よき時代」の伝統を引きずっている。

大卒で、国家試験に合格すれば、数年後には、ありがたいポジションが約束されている。映画「野良犬」の主人公のようなヒラ上がりでは、到達不可能な権力と名声を、国家試験で得た資格だけで、自動的に身につけることができる。数年毎の転勤は、さながら封建時代の中国の地方代官である。

高校で優秀な成績をあげて、名門大学に入り、国家試験に合格して、官僚になり、エスカレーターに乗って最高の地位に登りつく。こういう制度が、この青木公安部長の会見を招いたのである。

幾多の難関を通ってきた事には間違いないが、この難関は知識があるかどうかという量の問題であって、人格という公僕に欠かせない質は問題になっていない。

人格はペーパー・テストでは測れない。出題も難しいのなら、答案の採点も難しい。

だから、私は、常日頃言っている通り、上級も一般もない、とにかく採用する段階では、学歴問わず、ごくごく常識的な試験の実施で済まさなければならない。

自衛隊も軍隊のはしくれか、防衛大学校などを卒業しただけて、幹部になれるという。一般応募で入隊したら、幹部になるまで、白髪になるそうだ。防衛知識など、いくら頭に詰め込んでも、ハイチの復旧には役立たず。それより、ブルやユンボの操作が優れたヒラ隊員のほうが、世間に貢献する。それなのに、普通の大卒が試験に合格すれば、幹部の道が開けている。やはり、学齢尊重である。

400メートル競走で、初めから、100メートルのアドバンテージを与えるなんて、誰も考えられないだろう。

これを現行の国家試験はやっているのである。下等人間はこうした特権で育つもの、富国強兵策は明治もとっくに過ぎたことだし、これを機に、高級官僚と一般官僚の差別を撤廃したらどうか。

農道6空港 稼働ゼロ 自治体に維持費ズシリ

野菜など農産物を飛行機で消費地に運ぶ意図で作られたとある。スーパーで1束99円の小松菜を空輸するというのだから、エイプリルフールの話題である。

航空貨物の運送コストは、単純計算で、トラックの50倍だそうだ。加えて、強風や降雪ですぐに欠航になる。

このバカバカしさは、一般市民はもとより頭デッカチの有識者であっても分かる。

誰がこんな事を考えた、実行したのか。

農林水産省の補助金に頼って、地方自治体が作った。これで得をしたのは、受注した企業と誘致に努めた地元政治家である。企業は儲かった。政治家は、地元有権者の1票が数百倍、数千倍となって、その身分が保証された。

利用されなくても、持った以上、維持していかなければならない。その維持費がズシリというわけだ。

1県1飛行場の掛け声で作られた一般の飛行場も大赤字であるそうだ。アメリカではちょっとした田舎には飛行場が必ずある。小型飛行機が日本の中古車センターの車のように並んでいる。飛行機がごく普通の生活に溶け込んでいることが知れる。

日本で自家用飛行機の普及は考えられない。「隣の県にできれば、オラホの県でも」、という田舎者精神に、国交省と業者が便乗した結果である。

今になって、泣きを見る。誰が泣く、県民である。自分で蒔いた種を自分で刈っていくのだ。

付の1。
笠岡市は「住宅街から離れた広い空間で思い切り楽しめる。名所として定着した」と胸を張る、そうです。飛ばない飛行場!アホか。

付の2。
役人の需要予測ほどいい加減なものはありません。初めに、採算が取れる数字ありきだからです。わが石巻市の温水プール、夏に泳げばいいものを、冬も温水にしています。原発謝礼金で建てたはいいが、いつまで東北電力の支援が続くやら。ついでに言うと、図書館も閑古鳥が啼いています。受付はいます。人件費は掛かります。笠岡市だけがアホではありません。

付の3。
読売新聞 2010年3月5日夕刊

4月は生活の区切りの一つ(1) 新聞情報

元旦、誕生日と並んで、4月1日は、心機一転のチャンスに思えます。

昨年暮れから読み始めた新聞、これの整理を終わせることにしました。手元にスクラップが残っていると、どうも落ち着きません。

手抜きを自覚していますが、足早に通り抜けることにしました。

◆オバマ大統領の一般教書
一言も日本に触れていなくても、嘆くことはありません。200カ国の中に一つでしかないからです。いちいち挙げていたら、教書が国名の羅列で終わってしまいます。日本が慕っているほど、アメリカは日本に関心を持っていない。まして好意なんか。この冷静さを認識すれば、十分です。

核廃絶へ前進。これはウソです。使い物にならなくなった古い核弾頭やミサイルを廃棄処分にするだけのこと。この純粋な経済行為である在庫調整に喜んでいるどこかの市長さんや団体代表は、なんにもわかっちゃあいません。まして、自分たちの反核の声が届いたなんか。このお人好しを認識すれば、十分です。

◆「反成長思想」の誤り 「悲観主義」から脱却 竹森俊平氏
内需主導型経済は間違っていると言っています。その通りです。市場を海外に求めよ、これは昔からある植民地主義・帝国主義であります。悪い考えです。日銀はジャブジャブ紙幣を市中に回せ、これでデフレが解消するというのですから、笑わせます。反成長を悲観主義という、これは、戦中の主戦論とそっくりです。一歩引いて物事を考えれば、こんな連結が出るはずがありません。経済学部教授。何を教えているのですかね。

◆科学と政治判断 安全と安心のギャップ 垣添忠生氏
「消費者の中には達成不可能な目標と言えるゼロリスクを求める人がいる。そうした要望に応えるために科学的には無意味と思えても、膨大な費用と手間をかけてこのような(注:BSE)対応がなされている」

一部の転記ですが、この人はとてもしっかりした考えの持ち主です。昔、毒グモ騒ぎがありました。数匹の毒グモで大騒ぎをするくせに、体に悪いことが分かっているのにタバコは堂々と発売されている、科学がカネにたいして無力であることを、教えてくれています。

◆山中教授に50億円研究費
1000億円を30人の科学者に配分しました。丸投げです。もったいない。ノーベル賞受賞科学者らを中心にばらまかれました。もったいない。国が借金漬けと一方で嘆きながら、研究開発という一部の、ほんの一部の人間の好奇心を満たすために、大金を注ぐ。ノーベル賞の受賞者がなんぼのもの。佐藤栄作、オバマ、平和賞がこれで、科学賞だけがまともであるわけがありません。

◆「文化の衰退」招かぬ政策を
事業仕分けで予算が削られたことを言っているのです。税金がわけてもらえないことが文化の衰退に結びつけるのは短絡に過ぎます。芸術や音楽も同じですが、税金がまわってこないために衰退するというのなら、さっさと衰退すればいいのです。文化なんか個々人の価値観次第でしょう。

最もひどいのが、科学です。科学の始まりは、何事も疑ってみることと習いました。その科学者が、自分の科学だけには疑いを持たない、あまつさえ、仕分けされると、歴史の審判に遭うぞと脅かす。私は、真っ先にこういう科学者の頭の中身を疑いますね。


◆子育て支援の使い道
確か生活コンサルタントでした、政府が支給するお金を、タダ貰いだからといって、その分をかさ上げして、授業料の高い私立に行かせないように、とアドバイスしていました。いつなんどき、停止されるかわからない補助金を当てにしてはいけないとも言っています。それでは、タダのカネをどうすれがいいのか。このコンサルタントは、ないものと思って貯蓄に回しなさい、いざという時のために、・・・だって。これは大変賢明なアドバイスです。

貯蓄に回ったカネはどうなるかですって。市中にダブダブになっているカネと一緒に、投機筋の餌食になるのです。それでも、庶民の堅実な生活態度が浮つくよりマシというものです。

政府の子育て支援や高校無料化など、大衆迎合的無策の見本です。この生活コンサルタントのようなまともな考えの持ち主が紙面にこれからも登場されんことを願いましょう。

◆有事 発作か幽霊か
防衛大学の教授が、中国との軍事衝突、(台湾ではありません、わが国日本です)を発作に例えました。その上、発作が起きた時にすぐに駆けつけられるように米軍の日本駐留は必要と主張しています。

発作は突然起きるから発作。いつなんどき起きるかわからない。医者の到着は一刻を争う。言われれば、その通りだから、なるほどとうなずけます。しかし、何か変です。変なのは、簡単。戦争と発作を混同しているからです。発作は予兆がない。戦争は、予兆がある。この違いを、教授は理解できていません。分かっているのに、病気を例を出しているのは、大衆読者にはこれでいいのよ、へへへ。バカにされているようで不快です。

教授というくらいだから、教壇に立って学生に講義しているのでしょう。おかしいと思っている学生でも単位を取るため教授好みのレポートを提出します。面従腹背。本音と建前の使い分けを若い時に身に着けます。まともな学生が不実な軍人になることが約束されました。本気で教授の「発作」を信じるのなら、それはそれ。当人の判断を尊重しましょう。しかし、一つだけ、卒業と同時に、民間企業に就職してください。この手の人間に刃物を持たせると、戦争を起こして、使いたくなってくるのです。

それに比べて、私の幽霊論は、まったく誤謬が見当たらないでしょう。人類発祥から今日まで、はるか宇宙から鳥瞰していれば、私でなくても誰でも間違いは犯しません。このブログはタダ。防衛大学校の教授談は国税。手前味噌に聞こえるかもしれませんが、正論は正論。我慢してください。

以上で、一応ちぎって保管していた新聞は終りです。記事の一部だけを写しているだけですので、あまり目くじらをたてて私を見ないように。また、どこの新聞かも記しません。その新聞社に迷惑がかかるかもしれないからです。

付の1。
このブログの内容に対しては、私は責任を持っていることには変わりません。

付の2。
発作の件。安保、自衛隊、普天間、こういう物を必要だとする教授を非難していません。各人、それぞれの考えがあっていいのです。発作を例えにしたことが悪いと、私は言っているのです。


基礎からわかるデフレ長期化 

私が、インフレになったら年金の目減りを補なうため門付けに回る予定で、そのために今、一生懸命尺八を練習していると少し前に書いた。無論冗談である。

インフレ・デフレはゼロ・サムだから、実生活になんの影響がないことを、このブログで幾度となく語っているから、お寄り頂いてくださる皆さんには、敢えて、冗談であると言わなかった。

それが、どうも、妙なのである。日本一の新聞が、デフレを間違って読者に教えているのだ。初めは冗談かと思っていたら、そうではなかった。

毎度、毎度でデフレ論議はいい加減にしたいと思っていたが、改めてその記事の間違いを指摘し、読者を正道に戻したいと思う。

◆ デフレはインフレの逆であって、デフレ下では、物価は下落する、と言う。その通りである。物価が下がれば、企業収益が悪化し、従業員が賃金カットやリストラに遭う。これが悪いと言う。ここにトリックがある。お米10キロが5千円のまま、賃金カットされれば、たいへんだが、物価が下がるのだから、4千円で買えることになる。2割賃金カットがあっても、平常心でいられる。2千円の理髪が千6百円になる。新聞の購読料5千円が4千円になる。リストラは、企業内の余剰人員が対象である。社会の流れにマッチしない企業や社員はいつの世にもいる。デフレに責任を負わせるわけにはいかない。

◆ 借金の金利負担が実質的に重くなる、と言う。年2%の物価下落で、借金の100万円で買った商品が、1年後に98万円の価値に下がり、返済は102万円に相当する額となる。借りては、差し引き4万円、率では4%の金利負担となる、と言う。その通りである。賃金カットに遭った日には、益々返済負担は増加する。だから、デフレは悪いという。ここにトリックがある。借り手が困る分、その等量、貸し手が得をする。借りる側がいれば、貸す側もいる。これを片方だけの説明で済ますのは、いくらなんでもひどすぎる。

◆ デフレの原因は35兆円の需要不足にある、と言う。この数字がどんな根拠に依ったのかを私は知らない。デフレは悪い、需要不足は悪い。この点だけを取り上げて、私は、経済記者でありながら、経済のなんたるかがさっぱり理解できていない。これがわかった。ハイチの住民のように両手を挙げて物をもらおうとする姿が、いい社会というのか。カネはある、モノはある。これ以上、日本に何が必要というのか。経済は民百姓が日々の暮らしに支障が来さないようにするだけが使命である。
35兆円の需要不足は、裏を返せば、35兆円の供給過剰。スクラップにすればいい。昔は、生産設備過剰・供給過剰は侵略戦争を仕掛けて、市場の拡大を図った。それが出来ない今、やれることは、スクラップである。

新聞社の輪転機を半減し、紙面を半分にする。一度にやるのはハードだが、年率3%の縮小であれば、無理をせずに規模の縮小ができる。

◆ デフレで税収も落ち込んでいる、と言う。この手が得意とする千円未満のジーンズを引き合いにだして、売り上げが伸びない、税収が、従って、伸びない。悪い、と言う。トリックである。税収が落ち込めば、それに比例して、公務員の俸給を下げればいい。下げても、以前2千円したジーンズが千円で買えるのだから、得もしないが損もしない。物価が下がって、俸給だけは現状のままなど、あり得ない。現に、年々、公務員の給与は下がっているではないか。

◆ デフレの対策は需要不足を解消することだ、と言う。環境、医療、観光に政府は積極的に投資すべきである、と言う。とんでもない。環境は、きれいな空気と水が、昔に戻るだけのこと、医療は、健康な体を取り戻すだけのこと、富は生まれない。観光ときた日には、旅して、食べて、それで終り。家に戻れば、出発前と同じ生活。財布のカネが旅館やバス会社に移っただけ。なんで、これが富なのだ。

◆ 成長戦略に期待している、と言う。成長は、日本の身内でカネをやり取りしている限り、絶対にない。昔で言えば、花見酒の経済である。政府のデフレ対策として、財政支出、雇用助成金、新卒の就職支援、住宅エコポイント、エコカー、中小企業向け景気対策、などが書かれている。紙幣がダブダブに市場に回る。生活に係わる本質的な需要がないものだから、みんな、貯金や株に回ってしまう。大衆は、こんなバラマキがいつまでも続くとは信じていないから、借金をしてまで、モノは買わない。手元に舞い込んできた各種あぶく銭だって、貯金である。借金をする、あぶく銭を浮かれて使う、こんなことをすれば、後にどんな悲劇が待っているか。政府の笛で踊る者に律儀者はいない。今、政府がやっている成長戦略やこの非・律儀者を頼りにしているのである。

◆ 日銀の白河総裁は、「たくさん量(お札のこと)を供給すれば、デフレから脱却できると思っているわけでない」と追加緩和に慎重で、政府と日銀の間でデフレ退治の方法を巡る思惑の違いも目立ち始めた、とある。その通りである。その通りとは、日銀総裁の考えが正しいという意味である。

デフレ退治と記者は書いているが、白河総裁にはデフレが退治すべき悪とは、まったく考えていないのである。日銀総裁でなくても、少し経済を学んでいれば、誰でも分かることであるが、発言者が総裁であるから、小国寡民の言とは重みが違う。考えていることは同じだ。

打つ手はない。打つ手がない問題は、問題そのものが問題なのである。問題にするから問題となる。評論家や学者が面白おかしくデフレ・インフレを議論する分には、無害で結構だが、日本最大の新聞が、こんなヨタを語ってもらっては困る。

つい、我慢できずに一筆入れた。

付の1。
表題は、新聞の見出しそのままです。「景気悪化と悪循環 要注意」のサブ・タイトルがありました。

付の2。
読売新聞 2010年2月4日 「経済部の山本正美が担当しました」と末尾にあります。この記者さんには、是非資本論を読んでもらいたいです。イデオロギーと無関係に、経済の本質は自分の頭で考えなければ、分からない、この事を理解するには、やはり資本論です。近代経済学では無理です。

若林議員に同情する

なんとも格好のつかない事態になっています。自民党は苦虫を噛み潰していますし、民主党は日頃のうっぷんをここぞとばから晴らしています。

若林さんは、34年生まれ、75歳でしょう。ボケなのです。業界用語でいうならば、認知症。これが発症したのです。「魔が差した」と釈明を繰り返しているのは、本人にも、どうしてそんな「馬鹿げた」ことをしたのか理由がわからないからです。

次回の選挙には立候補しないと周りに言っていたそうですが、日常生活においてなんらかの自覚症状が認められたからに違いありません。

自民党が年齢制限を決めたことは賢明なことです。個人差があるから一概に決められないという反論もありましょうが、万人に対して最も公平な区分けが年齢であることからすれば、反論は当たらないでしょう。

70過ぎの人間に世間を任せ続ける体制や組織が、そもそも不自然なのです。自民党が年齢制限を設けたのも、若い世代を育てようというまっとうな考えからだと思います。

品質管理では、良品を不良品と判定する悪と不良品を良品と判定する悪の二つがありますよね。どちらのリスクが企業にとって被害が大きいか、これと似ていると思います。

世間では、国会をないがしろにした不届き者のレッテルを貼りましたが、病人なのです。マスコミの人たちには、とても理解できないでしょうが、自分が70の歳を迎える時に、初めて分かることです。

議員の規律はいくら声を大にして叫んでも、活字を大にして書いても、治りません。そんなヒマがあったら、無用の長物である参議院を廃止するキャンペーンを張ってもらいたいものです。

隣のボタンがピカピカ光っていると、つい押したくなる、ATMに行けば、つい払い込みたくなる、碁で石が打たれると、つい隣に打ちたくなる、みんな、みんな、ボケによるもの。

50代の時の若林議員が隣のボタンを押しましたか。

付:
若者起用はいいのですが、若造起用はダメです。親の七光りは、とりわけ悪い。元総理の息子がすんなり国会議員になりました。自民党は選挙の顔にするとか。NHKもチヤホヤ出演させているようで、困ったものです。

漢字は非関税障壁 看護師国家試験

看護師国家試験に合格した外国人がわずか3人。看護師候補は277人である。

恐ろしいほどの難関である。インタビューに応じた受験生は、揃って日本語の難しさを嘆いた。

特に日本語が難しいはずがない。と思っていたら、難しかったと指摘されたのは、漢字であった。これなら私も理解できる。

専門用語、業界用語、特殊な表現が多い。必要だからあるし、それに関係している人たちは、ごく日常的に使っている。それが漢字であることもあれば数字やローマ字であることもある。しかし、声に出す、耳で聞く、これに限れば、どんなに特殊な文字表現であっても、アイウエオ、カキクケコ~の50音に収まる。

看護師は、論文作成のために来日したのではない。日本国が日本国の病人や老人・弱者を助けてもらいたいために来日してもらっているのである。日本人でさえ書けない・読めない漢字を試験に出して、なんのメリットがあるというのだ。

病人や老人などが必要としているのは、弱者に対するいたわりの心である。それが前提で、実務能力が必要とされる。実務は、病院内での受け応えができれば、十分。受け応えに、漢字はいらない。話す度に漢字が口から飛び出すか、聞く度に、漢字が耳に飛び込んでくるか。

今は、どんな田舎の駅でも、駅名にはローマ字が併記されている。看護師の受け入れが、単なる外交的リップ・サービスでなく真剣であるならば、先ず、漢字が読めるかどうかの試験を廃止すべきであり、そのために、職場は、すべてローマ字併記、あるいは、ひらがな、カタカナ併記にすべきである。

漢字の習得にどれほど時間が使われるか、私は知らない。しかし、その時間が不要となれば、それだけ専門分野での知識習得に時間が当てられることは容易に想像できる。

3人という合格者はあまりにも少なすぎる。天才、秀才を求めているのではない、普通の人が普通に仕事の合間に勉強して、合格できるような試験で十分である。人物・人柄こそ評価の対象にしなければならない。

付の1。
厚生省の役人や有識者らが決めたから、こうなるのです。仕分けの対象ですな。

付の2。
漢字は士大夫階級の特権でした。漢字を知らないで数千年もの間、大多数の漢人は生きてきました。エジプト文字がフェニキア文字に負けたのは、異国間の交流に不便であったからでしょう。書の世界と実務の世界は区別されなければいけません。

付の3。
法規試験も同様です。外国人看護師だけの組織ならともかく、日本人がいるでしょうから、法規については、日本人が担当すればいいのです。実務能力といたわりの心、これ以上、何を求めようというのです。厚労省の役人さん。

0401リッキー

普天間基地の移転先はフィリピンだった

大ボラ、大ウソが定番のように思われているこのブログ。打ち明け話をすると、政界、財界、外交方面、思想家、哲学者、ジャーナリスト、学者、等々、結構な人脈ネットワークによって支えられているのである。

大ボラ、大ウソに、大ゲサを加えるのは、恥ずかしい。それで、黙って今日に至っている。

今朝早く、鳩山総理の真の担当者からメールが届いた。エニグマという先の大戦で活躍した機械により複雑に暗号化されていたので、重大な極秘内容であることが想像できた。普段は、平文である。

読んでみると、普天間基地の移転先が、フィリピンであるという。旧日本軍が使用した飛行場のある島で、人口は500人足らず。特別な産業はないかわりに、赤軍にとっても活動拠点にする価値もない、極めて平穏な小さな島だ。小さいといっても、佐渡ヶ島より大きい。セブ島の西に位置している。島名は、発信者から伏せておくように言われているので、明かさない。

ヘリ部隊の移動経費200億円、飛行場の改修費100億円、部隊の営造関係に200億円、それにフィリピン政府への無償援助300億円、計800億円全額を日本が負担することで合意されたという。更に、日本政府は、向こう日米安保条約が破棄されない限り、毎年、50億円、アメリカに思いやることになった。これは、密約にしてある。絶対に外部に漏れない。

改修と営造は、日本のゼネコンが請け負うことに決められている。事務用品は、防衛省の天下り先が一括受注するように了解されている。

日本の自民党と米国の共和党の間で決められた普天間基地の移設に対するオバマ大統領の不快感を察知したことからこのフィリピン案が上っていたともあった。前の大統領のやったことをあからさまに貶すほど下品ではない。さりとて、共和党のレールの上を走るだけでは無能のレッテルが貼られる。その機微を鳩山総理は、コペンハーゲンでのわずか15分の会談で感じ取ったという。

優柔不断、無責任の象徴のように思われている鳩山首相も、案外見るべき所は見逃がさないでいるようである。

普天間基地の移転先が県内だ、県外だ、決まらなければ辞職だ、アメリカの機嫌を損なうな、みんな、みんな、五月になれば、笑い草になる。

笑う主は、誰か・・・。私以外に誰がいる。呵呵大笑!!

0328リッキー

付:
四月バカです。

青木公安部長、狂っている 戦後で良かった

国松銃撃事件の時効日の30日、何を考えたのか、犯行グループを記者会見で発表した。

時効というのだから、犯人が検挙されていない。犯人が分からないのに犯行グループがどうして指定できるのか。青木という人間の頭の中の構造を是非知りたい。

思い出せば、昨年暮れ、仙台高裁が、不正はあったが、どれが不正かは分からない。よって、宮城県警は無罪とやった。地裁で不正の証拠が確保されていて、高裁に上がってきて、それを確認していながら、無罪とした。天をも恥じぬ司法であった。

今度の事は、証拠がないから逮捕できなかった市民を、犯人であると公言したのだから、無実を有罪とするのだから仙台高裁よりタチがずっと悪い。

戦時中であれば特務の大将である。青木はためらわず手下に拷問を命じて、自白させるにちがいない。自白書に署名させたら、密室リンチ。死人に口なし。冤罪の出来上がりだ。

この部長の下で働いている幹部は、この部長の好みに合った人間である。幹部のそのまた下で働いている者も、幹部の好みにあった人間である。組織とはこういうものだ。どういうことかと言えば、公安警察が、青木公安部長の金太郎飴一色であるということである。

この部長、会見するまで、資料集めやなにやらがあったろうから、誰にも告げず、突然独断で会見に臨んだはずがない。正常な人間が側近であれば、青木部長を「バカもホドホドにしてください」と諌める。そんな正常な人間は、とっくに冷や飯を食わされていて、側近になんかなっていない。

仙台高裁といい青木公安部長といい、どうしてこうまで狂ったのか、・・・

仕分け作業の対象とすべし。

付の1。
仙台高裁の件は、本ブログ2009年12月31日で取り上げています。

付の2。
青木部長をこのままその地位に置いていてはいけません。いつ、なんどき、普通の市民が犯人にされるか、わかったものではありません。日本に秘密警察は不要。担当大臣は即刻クビを命じましょう。公安部署の人心刷新もやりましょう。

付の3。
これが、お隣り中国で起きたら、日本のマスコミはどんな反応を示すでしょうか。昔、名古屋刑務所の虐待が発覚した時、政府は、反省と善処。当時のイラクのフセインの拷問は極悪非道と非難。いけません。

付の4。
「ああ、無情」。公安は、改心した市民を再び悪に追い詰めるのが仕事かね。

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