老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

オリンピック やはりカネだった

パラリンピック・メダリストにまで報奨金を用意する。これに私は猛反発した。アマチュア・スポーツの祭典とカネは水と油であるからだ。

いつからカネがモノを言うようになったか、それをロス開催からと私は踏んでいた。推測の域をでていないまま、今日に至ったが(大げさに!)、今、その真実が新聞報道で明らかになった(これまた、大げさ!)

「時代の証言 五輪 サマランチ (16)」

IOCがちっぽけなクラブのようであったと彼は嘆く。IOCの委員が会議に出席するため、ポケット・マネーで渡航しなければならなかった。1980年代のIOCである。

彼、曰く:
70年代から、国際スポーツ組織にとって重要なのは「お金」だと、私は思っていた。資金がなければ、なにもできないからだ。そして、その資金は、テレビ放映権やマーケティングによって生み出すべきで、政府に依存すべきではない、と。

会議に出席するのに、自前は当然である。自前が無理なら、潔く委員の名誉を返上することだ。選手として参加する者が、自分の財布と相談するのと同じである。

「金がなければ、なにもできない」だって。冗談じゃない。もしもそうだとしたら、クーベルタンからサマランチ前まで、どうしてオリンピックが開催されたのか。「何もできない」のであれば、何もしなくていい。出来ないと匙を投げる委員は、辞任してもらう。

国や政府に頼るのは悪い、民間の協力によるべし。これは、これで一理ある。だが、現実には、国旗・国歌がテレビで放映されんことを願って、各国政府が競って、税金を注いでいるではないか。旧態依然のまま、それどころか、パラリンピック選手育成にまで政府が関与する国が出てきている。

政党交付金と企業団体献金と同じパターンである。カネという共通項があるのだから当然である。

私は、水泳マスターズの100年資格者である。一括して会費を支払ったためと覚えている。アマチュアは、自分の財布と相談して、相応の参加をすればいい。

スポンサーがつかなければ、貧乏人はオリンピックに参加できない。それで結構。スポーツが一般市民にとって重要であることと、オリンピック選手になることとは、まったく別の次元である。東京マラソンで、誰が世界記録に挑戦する。マスターズの競泳で誰が100分の1秒を争う。


国威発揚を温存させたまま金銭をからめたアマチュア・スポーツの祭典を腐敗させた張本人は、サマランチであった。


付の1。
読売新聞 2010年1月25日付。新聞は情報の宝庫。

付の2。
100年後、オリンピックは消滅しています。愚かさの代表行事として歴史に残るだけです。

0329また雪

世界一高いビル 自分のカネで建てた、どこが悪い・・・か

何か一つでも一番があれば、本人の自信となって、その後の人生をポジティブに送れるそうな。

この一番は、集落の一番でもいいし、クラスの一番でもいい。できれば、日本一、欲を言えば、東洋一、更に欲を言えば、世界一、とこうなる。世界一の先がないのだから、本人の鼻が誰よりも高くなるのは当然である。

鼻が高くなるのはいいとして、ビルの高さを競うのはいかがなものか。

地上160階建て。階というのだから、フロアがあって、人が毎日そこで仕事をするのだろう。この人たちはそこで寝泊りするはずがない、毎日160階まで上がる。昼には食事を取る。地階の食堂に降りる。あるいは、注文された食事が160階に上げられる。人は他の動物と同じように「その後」がある。水が必要になる。地から湧く石油と違って、天から降ってくる雨水ではとうてい処理しきれない。それで、160階まで揚げることになる。揚げたら「その後」一式とともに地上に下ろす。いくら高いからといって、空中散布で霧にするわけにはいくまい。

人や事務用品、給水、窓の清掃、早い話、天井の蛍光灯1本の交換にまで、160階、800メートルの間の上下移動が必要となっている。平面の移動でも800メートルはきついのに、更に重力が掛けられるのだから、その消費エネルギーたるや、想像を絶する。

新聞に出ていた写真は、精巧なミニチュアそっくりである。他国のやったことだから、兎や角言う筋合いではないこと位は承知している。

だが、やはり、問題であると思う。自分のカネを何に使おうが勝手であるという時代は終わっているからである。

付の1。
昔々、ニューヨークの摩天楼は近代都市の象徴でありました。今は、エネルギー浪費の象徴でしょう。

付の2。
超高層ビルは、数百年後には、廃墟めぐりの名所として、立派に観光者誘致に貢献してくれることでしょう。

付の3。
東京スカイツリーは放送塔であるとのこと。安心しました。


0327モモとリッキー

政党交付金(3) 乞食と議員は一度やったらやめられない

政治とカネでなく、選挙とカネである。何度も繰り返して言ってきたことをまた繰り返す。マス・コミは、こんなことは百も承知で、依然として政治とカネをテーマの活字にしている。

「組織対策費」の名のもと、民主党は、山岡賢次議員と佐藤泰介議員に22億円渡したと書いてある。有象無象に千万単位でポンポンばらまいていたとしても、22億から比べれば可愛いものだ。

マスコミは、これを以て民主党のカネ汚れを示したいのだろうが、議員の頭数に比例して、カネが手に入る制度自体の可否を訴えてもらいたいものである。タダでカネが転がり込んでくるのだから、政治そっちのけで選挙に夢中になるのも、無理はない。最近、ツィッターなるものを利用して人気集めにうつつを抜かし委員会に遅刻した閣僚がいたが、彼を非難するだけで済ませるわけにはいかない。

小沢・鳩山の説明責任を民主党内でも求めているのは、政治とカネが本格的に議論されていけば、必ず政党交付金の制度自体の無意味さに国民が気づくようになるからで、共産党以外の国会議員全員の意向を反映したためである。両氏の倫理問題に留めておいて、制度が存続されれば、カネは毎年決まった額が政党に入ってくる。

ポスター、不要。DM、不要。テレビCM、不要。ウグイス嬢、不要。私設秘書、不要。事務所、不要。テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌、一年365日、すべて、無料で紹介してくれる。

選挙運動を禁止しない限り、「政治とカネ」は永遠に続く。その行き着く先は、アメリカ式のテレビCM合戦である。かの地は、献金でまかなっているのか、交付金が注がれているのかどうか私は知らない。CMの物量作戦がモノを言う政治が良いわけがない。決して、真似をしてはならない。

なべて助成金・交付金は人を怠惰にする。真剣さを奪う。勤勉であることがアホらしくなる。乞食にプライドはない。国会議員よ、乞食根性から脱却せよ・・・。

仕分け作業が再開されるという。真っ先に廃止を決めるのがこの政党交付金制度である。裁判員制度と並び称せば、悪の枢軸ならぬ悪の双璧である。ここにメスを入れる仕分け人を私は「有識者」と呼ぶ。真の勇者である。

付:
09年度の交付金は、総額319億円とのこと。低賃金で介護に携わっている人、一人ひとりに、盆暮れのボーナスを20万円追加したとすれば、16万人に行き渡ります。どちらが、国民のためになりましょうか。

政党交付金(2) その存在の意義ないし意味

政党交付金制度は、政党の活動が「民主主義のコスト」であるとの考えから産まれたという。国民一人あたり250円也は、外国の制度を参考にしたそうな。都合のいい時だけ都合のいい数字を持ち出すのは、いつもの通りだ。新生児まで一人に計算するあたりは、芸が細かい。

カネがかかる。コストである。問題は、それが現行の民主主義の程度であるということにある。議会制民主主義においては、選挙民の1票が支配階層を形成する。党員票でも浮動票でも、1票は1票だ。党員や支持後援会の人間だけでは、当選するには不十分な政党ならば、宣伝が欠かせない。それにカネがかかる。

己の信念に基づいて投票する民衆であれば宣伝など不要である。政党交付金は、選挙民の、すなわち、民衆の政治レベルのバロメータでもある。

一つ。
政治改革の一環として制定されたはずが、今も相変わらず政治とカネが世間で騒がれている。政治と選挙を混同しているからこうなる。企業、労組からの寄付・献金が禁止されても、個人献金が許されたままでいれば、「政治とカネ」の問題は解決しない。現実に、個人献金を装った企業献金が発覚されてきた。

一つ。
どんな制限や罰則を作っても、選挙活動を禁止しない限り、カネ対カネの戦いは続く。みんなが塾に通わなければ、その環境で成績を競うことができるのに、一部が突出するから、エスカレートしていく。こうした受験生の塾通いと同じである。

この突出は問題である。新規参入は経済・産業の活力には不可欠と言っていながら、政治だけは、例外としているからである。新しい考えや思想をもって、政治の世界に入ろうとする志士は、先ず、既成政党のカネの圧力に参ってしまう。素手で民衆から喝采を浴びるような新人は、世界中を探してもそれこそ百年に一人である。二人はいまい。そういう稀な人材を今の日本人に求めるのは酷である。

結局、既成政党の離合集散劇が繰り返されることになる。政党が政党を育てる職業訓練学校になっているようなものである。正―反―合の弁証法的内部矛盾(うろ覚え)の変化の象徴かもしれない。

一つ。
政党交付金の私物化をよく調べて読者にその弊害を知らせながらも、制度の撤廃をマス・コミは提唱しない。NHKや大手新聞が、本気になってこの政党交付金制度の悪を追求していけば、民主党、自民党、他交付を受けている政党すべてが赤面することになる。予算委員会の質疑の資料集めに、億のカネがかかるわけがないからである。制度の撤廃を主張しないのは、すれば、日本共産党に組したものと民衆から非難されるからであろう。

万年野党自己満足の日本共産党を政党としてはまったく評価していない私でも、政党交付金を受け取らずに、党員と政党支持者によって議員になる点においては、交付金を受け取っているどの政党のお手本になっていると思っている。

以上、思いついただけでも、政党交付金には三つの意味がある。

政党交付金(1) この巨額のカネ

何度か槍玉に挙げた政党助成金が、正しくは政党交付金であることを知った。加えて、金額まで知った。

政党交付金の2010年分配分表(読売新聞試算)
民主党   173億 200万円
自民党   104億6700万円
公明党    24億 300万円
社民党     8億6900万円
国民新党    3億9900万円 
みんなの党   3億4000万円
新党日本    1億5900万円
日本共産党 (受け取らず)

商社の口銭はだいたい3%前後。メーカーの粗利でもよくて10%。税引き後なら成約額や売上額の1%がやっとである。1年間1億円を稼ぐには、100億円分あくせく働かなければならない。

民主党の173億円は、1兆7千億円の仕事をした企業と同じ業績とみなしていい。この業績は、炎天下、雪の中、セールスに回って得たものではない。100個単位の仕入れビスを1円値切って得たものではない。出来の悪い学生になんとか理解させようと教壇に立ったものではない。嫌な客に愛想笑いをしながらラーメンを出前したものでもない。

選挙に当選しただけである。それだけで、頭の数に比例して、億のカネが転がり込んでくる。少々の不祥事どころか有罪判決を受けたって、簡単に辞められない。党だって、簡単に辞めさせられない。頭の中身より頭の数がモノを言うのだからうべなるかな。

付:
読売新聞 2010年1月10日。小沢幹事長が裕福な理由もよく書かれています。

幸福(1) 読者の「幸福」考えたい

半ばの期待と半ばの脅迫。おととい、新聞がドサッと届いた。期待は活字による情報の入手であり、これは万人の認めるものであろう。脅迫は、前回届けられた新聞に読み残しが相当あるため、追い打ちを受けるような心理になる、このことである。

期待は質、脅迫は量。同列に語れないことは承知している。それが私の中では、プラス・マイナスでゼロになっている。

ダンボールを開いて、早速、一番上の新聞を手にした。新聞は、ベッドに入ってから読むもの、昼の貴重な時間を潰すことはしないのが、私の流儀。でも、宅配の到着日だけは、ご祝儀として例外にしている。

とてもいい記事があった。

「読者の『幸福』考えたい」という題でGDP崇拝に対して再考を促している記事である。

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「幸福のパラドックス」は他の先進国でも見られます。しかし、各国の幸福度を測った世界価値観調査を見ると、世界第2の経済大国である日本の幸福度は調査対象国約100か国の真ん中あたり、先進国では低いほうです。ほかの調査でも同様の結果です。
  今、日本は深刻な不況で新たな成長戦略が求められています。ただ、もはや先進国では、経済成長がそれほど幸福度を高めないことを、幸福研究は示しています。逆に、多くの人の幸福度を高めるために必要なことを考え、それに合わせ、日本の政治や経済、社会のあり方を変えていく「幸福の成長戦略」という発想もあるはずです。
~~~~

中段の書き写しである。「幸福のパラドックス」とは、一人当たりGDPが伸びるとそれだけ生活満足度が下がることを指している。

自分と同じ考えを他人から聞かされても、ためにはならない。別な考えや視点を知ることができなければ、単なる自己肯定・自己満足でしかない。それでも、たまの「徳は孤ならず必ず隣あり」は嬉しいものだ。

幸福とはなんぞや、これはまた別の問題として、マス・コミ人の中にも、しっかりした考えの人がいることを知った。それで、私の幸福度は高まった。

付の1。
「GDP再考を促す」・・・これは私が読んだ感じであります。

付の2。
「日本は深刻な不況」・・・これに私は賛成しません。

付の3。
「徳は孤ならず必ず隣あり」・・・これは私の諧謔です。

付の4。
読売新聞 2010年1月27日 白水忠隆生活情報部長の記事です。政治部か経済部で活躍されんことを願っています。

0321石戸大波

岡田外相のハイチ訪問 ミエミエ陽動作戦

ハイチの大地震では、アメリカはじめ、西欧各国の外相や要人が時を移さず現地に赴いたと聞く。

自衛隊の派遣でもたついた日本と大違いである。

外交相手国としてのハイチは、経済面、地理的条件共に、日本にとって超軽量級である。産油国や東南アジア諸国との差ができても、非難されない。

日本から政府高官が出向いたところで、もともと国家の体をなしていないハイチだから、外交交渉ができるはずもなく、飛んで帰ってくるだけのヒマ潰しの意味しかない。

それなのに、今回、ハイチに行く。自衛隊をねぎらうのが目的だというが、ねぎらうのなら防衛大臣が出向かなければならない。自衛隊は外相の管轄外である。

ハイチ訪問の底意は、普天間基地問題解決の詰めである。アメリカ駐在の外務省役人とface to faceで状況の最終確認を行う、密かにアメリカ政府とも会うかもしれない。

鳩山首相は、今月中には、日本の考えをアメリカ政府に伝えると言っているようだが、こんなのんきな話は誰も信じない。とうの昔から、アメリカに日本政府の意図を伝え、その具体的な工程を協議していたのである。昔とは、彼が五月までに決着すると記者会見で述べた時点を言う。

私は、普天間基地の移転先がグアムであることに今でも確信している。仮に、沖縄県内のどこかに決まったとしたら、私の直感力にヤキが回った証拠であり、その時は、いさぎよく、以降、このブログに外交問題は載せないことにする。恥の上に恥を重ねるようなまねはしたくない。

息子が自殺したという老婆の手を取って責任の重さを実感するような甘ったれに、私は最初から信を置いていない。その代わりに、対外折衝には大いに期待してきた。これさえもお釈迦になるのであれば、もはや、言うべき言葉がない。

7月に参院選があると最近知った。5月の意味は、アメリカとの外交に要する時間と参院選対策の両面があったのだ。

誰に頼まれてキーを叩いているわけでなし、写真のアップ・ロードも大半がリピートになっている。いつこのブログに終りが来ようが、誰にも迷惑はかからない。

「年貢の納め時」という訳だ。

付:
自殺~:彼の就任演説にありました。

平成維新 小沢幹事長の誤算

みごとに引っかかったとしか言いようがありません。核持ち込みの密約問題が、男女関係のスキャンダル騒動でマスキングされたこととよく似ています。

民主党を潰すには、鳩山さんをいくら攻撃してもだめ、その大元締めを狙わなければならないと、これは、まあ、誰しも思いつく「当然の事」であります。そこで、小沢さんには男女関係の代わりに金銭問題が用意されました。

特捜部が正義感の塊りなんていうのは、とんでもない誤認であります。日本国民の正義の味方であるなら、先ず身内の不正を暴かなければなりませんでしょう。それを、見ざる、言わざる、聞かざる、の三拍子で、政治家を叩くのですから、某国の悪徳弁護士と変りありません。

日本の政治家、広くは、アジアの政治家が、選挙民の票で政治家になる制度で、カネに細かくなるのは「当然の事」であります。だいぶ鳩山調になっていますが。

先日、古い仲間から特捜に関する情報が相当送られてきました。中には、正義と倫理が具現された(昨今では稀になってしまった)優れた官僚だと誉めそやす識者もいますが、私は、まったく反対であります。こういう官僚が国家社会主義でどのような行動に出るか、想像しただけで恐ろしい。なにも国家社会主義でなくとも、国家権力と組めば同じことです。アメリカのアンタチャブルFBIとは質が違います。

ここまでは、反民主党の側。ここからは、小沢さんの目論見。

99%方、総理大臣の椅子が約束されていたのが、ご破算となってしまった。ならば、幹事長で政府を支配しよう。実質的な総理総裁であります。

彼は、4人のナンバー2がどんぐりであることを知っています。鳩山、菅、岡田、前原、この4人組です。心から総理に日本の政治を任せるつもりがあるのなら、菅、岡田、前原を閣僚から外しています。企業でも社長を歴任してきた会長が3人もいれば、とても社長職はまっとうできませんよね。

小沢さんは、これを承知で、挙党一致団結の大義名分を借りて代表経験者をすべて起用したというわけです。

小沢さんが、何事もなくて、幹事長の立場で目を光らせていられれば、どんぐりもおとなしかった。それが、特捜によって思わぬ方向に世論が進んで行った。一度、火が点いたら、冬の火事と同じ、なかなか消せません。

今は、党内からも辞任コールが起きているというではありませんか。政府のどんぐり4個をコントロールするどころではなくなってしまいました。


小沢さんは起訴されなかった。最高裁で争って有罪になったのならばともかく、不起訴ですから、疑われて、調べられて、疑いが晴れた、こういうことでしょう。それが、なんで説明責任を負わなければいけないのでしょうか。

お隣りの主人が警察に呼ばれた、事情聴取があった、「結構です」と警察から言われて家に帰ってきた。彼を犯罪者扱いにするのであれば、する方がおかしいでしょう。以前、サリン事件で松本市かどこかの一市民が犯罪者扱いされた。警察に目をつけられただけで、マス・コミは犯罪者扱い。ひどいものでした。

小沢さんは、確かに、長谷川一夫の容貌ではありません。森繁久彌の話術はありません。でも、不起訴であることは、検察が潔白であることを認めたということであります。小沢さんが、土地を買い漁ろうが、絵画を収集しようが、競馬に狂おうが、政治家の小沢とは別の次元であります。

中間管理職程度の人間が、あれよあれよ言う間にトップに立ってしまった。映画化すれば滑稽譚になるでしょうが、国民にとっては悲劇であります。どんぐり4個による多頭政治、機能するはずがありません。維新の遂行に、憎まれ役を買ってでる人物は不可欠です。平成維新は、小沢幹事長の衰微と共に去っていきます。

まだまるまる3年残っています。小沢幹事長、どう出るか。健康状態も気がかりです。

付の1。
世論の不人気は、「カネと政治」で絶対に改善されません。全マニフェストの愚直な実行のみに依ります。

付の2。
小沢さんでなくても民衆迎合政治家でなければいいのです。少々憎まれても、行動する政治家を。ちなみに、小泉純ちゃんは、行動する政治家でなく迎合した政治家です。

付の3。
FBI、映画の中だけの話です。それで、アンタチャブルとつけました。現実は、もっとドロドロしていると思いますね。

春が来た 日本国土と日本政治

私が日本という島に生まれて良かったと思うのは、日本では季節の移り変わりがはっきりしていることです。冬が来る時には、先ず、太陽の沈むのが早くなる。それから、徐々に気温が低くなる。春になれば、先ず、日の光がまぶしくなる。だいたい一ヶ月位後に、温かな陽気がやって来る。

当たり前の事をわざわざブログに書くなど、どういう事かとお笑いになるでしょうが、真から実感できる日本人はそれほど多くないのではないと思っています。私の春は、小学校入学までと、この楽園の地に移住してからでした。

春が、なかなかやってこないのが、日本の政治。政治を職業としている国会議員の皆さん、どこの党の皆さんも、不平・不満タラタラの様子です。快哉は選挙で当選した日の1日だけ。

やる以上、楽しく振舞わなければ、絶対にうまく行かないのが仕事。あれこれ仕事に就きました私の経験から、これは間違いなし。仕事は趣味ではありません。自分の好きな時に好きな場所で好きな様にやっていけることは、皆無と言っていいと思います。

不平・不満を年中顔や声に現している議員に、いい仕事ができるとは信じられません。意見が違うからこそ党派があるので、お互いに相手の意見を尊重する位であってもいいのではないでしょうか。にらみ合いは力士に任せましょう。

さて、普天間基地問題、いよいよ大詰めになってきたようです。

その結末がどうであれ、一つだけ私には分からないことがあります。

それは、自民党の国会議員が、普天間基地問題で、アメリカまで出向いて、政府高官に面会し、沖縄県内の移転を懇願していることです。

沖縄県民は普天間基地反対、これは明白です。本土県民はと言えば、自県に持ち込まれるのは反対。国会議員の誰一人として、「これだけ沖縄県がいやなら、ひとつ私の選挙区で引き受けましょう、日本の安全保障に不可欠ですから」と手を挙げません。

自民党の国会議員は、沖縄に押し付けるようにアメリカ政府に働きかけた。アメリカ政府の方針にどれだけ影響を与えるのか、これは別問題であります。問題は、日本政府が沖縄県民の安全と福祉のために頑張っている最中に、その足を引っ張るような行動がどうして取れるのか、これであります。

政府が、それが宿敵民主党であれ、必死になって努力しているのだから、自民党もかつての政権与党であったのですから、経験豊富であるはず、様々なアドバイスを与えて、助けるべきではないでしょうか。

と、ここまでスラスラとキーを叩いてきましたが、ふと、民主党政権の中にも、自民党と同じ様に普天間基地は沖縄で結構じゃないか、という不届き者がいることに気がつきました。「不届き者」が誤解を招くようでしたら、「対米唯々諾々属国従属お追従」日本人と言い直してもいいでしょう。

日本国の安全保障のためなど、屁理屈であります。自分の選挙区に無関係である限りどこでもいいのです。政権当時の約束が反故にされそうなので、嫉妬しているのであります。

少し前ですが、アメリカの世論調査で、アメリカ国民の沖縄米軍基地に対する関心度が、極めて低いことが分かりました。

犬は飼い主の動きに神経を使いますが、飼い主は犬の動きに無頓着であるものです。

日本国内で一人芝居をやっているようなものです。それを、わざわざアメリカまで行って、日本政府の足を掬うというのですから、私にはわかりません。

札束で、地元を懐柔する手法は、もう沢山。アメリカ様へのもみ手も、もう結構。内政無能内閣でも背筋をピンと張って、せめて普天間基地問題位は完璧に解決してもらいたいものです。私は、解決するものと信じてきました。

もうすぐ4月。政治にも春が来るでしょうか。

尺八(6) 法器か、楽器か、工芸品か

西洋音楽の演奏に楽器が使われる。当たり前のようにバイオリン、フルート、ピアノを楽器と言っている。ミサ曲を演奏しても、楽器は楽器である。

邦楽でも、箏や三味線は楽器である。お寺で使う木魚や拍子木、法螺、これらは楽器とは言わない。法器である。

それが、再び、楽器として復活したのが江戸から明治の時代である。琴古流や都山流は箏と三味線との合奏用に多くの作品が存在している。

楽器である以上、正しい音程でなければいけない。法器であれば、本人が念仏の代わりだから本人が良いと思えばそれでいい。

私の8寸管は、さる有名な奏者兼製管士に調整をしてもらった楽器である。いい音がする。2尺7寸管は家の裏の竹で作られたもので音程が正確でない。しかし、長管を吹禅のつもりで使う私には十分である。愛用している。

尺八のもう一つの面に工芸品としての尺八がある。

先ず、姿がいい。銘刀と同じように床の間に飾って、なんの不自然さも感じられない。近くでみれば表面がしっとりした飴色に輝いている。

琴古流の師匠の尺八を手に持たせていただいた時、芸術作品固有の威圧感に圧倒された。銀と象牙の唄口、金巻きの中継ぎ、音には無関係であったとしても、俗に流れていないその優雅に言葉がない。

いくら位したのか聞きたかったが、俗に過ぎると我慢していたら、師匠から50万円と語ってくれた。

多分、私の羨ましそうな顔の中に、お金を知りたい表情があったのだろう。見透かされたようで自己嫌悪に似た気分がしてことを今でも、覚えている。

考えてみれば、家庭用ピアノで100万は普通、バイオリニストのバイオリンは、数百万、数千万であろう。尺八が楽器としても50万は高くない。工芸品となれば、天井知らずだ。

私は、法器の尺八で満足することにしている。昔の虚無僧だって、近くの竹やぶから取ってきて、穴を明けて、尺八と称していたのだから。

付:
やせ我慢です。天から50万円、ヒラヒラ降ってきたら、やはり飴色の尺八を求めますね。50万の尺八は、また50万でさばけますから、使い得というわけです。

0311長渡浜

年金制度 抜本的改革を

最低保証年金は当然である。この年金は現金と現物支給の二本立てにすべきである。

現物とは、お米である。戦後ではあるまいし、今時と笑う人もいるだろうが、私は真顔でそう提案する。

年金は老人に対して支給されるもの。一老人である私が確信しているのは、老人は、長く生きていけばいくほど、物事に対する正しい判断が衰えてくるということである。

世の悪党は、弱い者をいじめる。暴力なら周囲で気づくし、警察に通報できる。問題は甘い言葉である。こればかりは、本人が信じてしまっているのだから、その結果がどれほどの被害になるかなどまったく心配していない。

お金は、ポケットに入れれば、100万円も運べる。ATMなら無限である。

お米はどうか。世の悪党でも、30キロの米袋は担げまい。1万円也である。

賢治の仰せの通り、味噌と野菜とお米さえあれば、気候穏やかな日本列島で日本人はなんとか生きていける。年金暮らしの老人にフォアグラ・ロブスターはいらない。

どんなに騙されても、お米だけはある。お米の通帳の復活である。

米余りの軽減、輸入小麦依存の軽減、犯罪の軽減、いいことばかりである。

もう一つは、支給上限設定である。これは繰り返しになるが、改めて政府に提言したい。

現役時代の生涯年収にスライドさせるから、長寿になればなるほど、国の財政が逼迫し、現役世代への負担が増大し、そのあげくが、少子化対策である。中世の農奴なみに、市民が納税のための頭数で計算されている。

歳を取ったら、現役時代のしがらみは、個々人に任せて、国の年金は、一定以上には出さない。

老後になっても、なおその後の老後が心配であるなら、現役時代に民間の保険に加入すればいい。

最低保障額の倍額で十分である。その金銭的制限下で人生を楽しむ。地球に優しくなること、間違いない。

付の1。
税制改革と同様、単に数字や率を動かすのでは、改革にはなりません。役人の数字合わせシミュレーションで終ります。

付の2。
お米は重さ。現行のインフレ・デフレによる年金額のスライド調整が不要であります。お年寄りにも安心です。

日本相撲協会の狭量 棚から白星14個

朝青龍の引退ほど、プロ・スポーツの醜悪性を示した事件はない。

朝青龍が暴力をふるって、他人にケガをさせた。それを相撲協会が重大事件と扱った。横綱の資格を剥奪する動きがあったため、朝青龍が自発的に引退したという。

どれほどのケガかを私は知らないが、相撲取りが本気になってケンカをしたら、相手の命は一発で絶える。ケガの相手とどういう言い合いになったのか知らないが、酒の席で、口論になるのは、酒飲みであれば、自分の経験もあるだろうし、他人のそういう事への理解もあるはずだ。

それを、マスコミを動員して、針小棒大に騒ぎ立て、朝青龍を追い詰めた。序の口の力士であれば、「ごめん」で済んでいる。

なぜ済ませなかったのか。白星14個が転がり込んでくるからである。

プロの世界は、表に華麗なる演技、裏に莫大な報酬、これが一体になって成立しているもの。

日ごろの朝青龍の立ち振る舞いを苦々しく思っているだけなら、可愛い相撲ファンである。これを理由になんとか追放しようと虎視眈々と狙っているのが、朝青龍部屋以外のすべての親方の心理である。

確実に負ける相手がいなくなるのだから、白星が自分の所属力士に1個、約束されたというわけである。これを、明け透けに言えば、はしたない。大義名分が、朝青龍の「暴行」である。世論は、こういう正論に反駁できない。

少し前、相撲協会は、朝青龍が巡業をサボって、モンゴルでサッカーをしたとして、大問題にした。私は、このブログで、大いに相撲協会の狭量を嘆いた。

今回は、プロ・スポーツの汚さを狭量に加えることにする。

ソウル冬季オリンピックの荒川静香が金メダルの報告を文部大臣にした所、その大臣が、韓国のライバルがもっと転んでくれないかと祈っていたと語った。オリンピックがプロ化されていたとはいえ、文部大臣の質の悪さにおぞましさを感じたのだが、それから考えれば、プロの相撲で、朝青龍引責兼自主辞職は、驚きではない。

競争相手の失敗が自分の収入の増加につながる。これがプロの世界である。アマのスポーツとは180度方向が反対である。

こんな世界に日本政府が税金を注ぐなど、もっての他である。

ついでに朝青龍。彼も、内心、引退の時期を計っていた。これから何回となく優勝するだろうが、白鵬にだけは勝てない。優勝すればするほど、「横綱に勝てない横綱」の不名誉が歴史に残る。

相撲協会の狭量に合わせて、彼の思惑が引退に導いた。

かくして、蒼き狼は母なる大草原に去っていった。

付の1。
年がら年中10勝前後をうろついている大関。これこそ引退勧告ものです。本人の恥さらし、哀れ。アマでは想像できません。カネが絡むからこうなるのです。

付の2。
当然の事ながら、プロのいい面は沢山あります。税金を使わない限り、私は無関心です。

0314春の予感

税制改革 税率改革でなく税制改革であるように

私のいる島は、確定申告を公民館でやる。80%以上が後期高齢者、高齢者に範囲を広げれば90%の我ら島民にとって、確定申告のために本土にいくのは一大事業である。こまかな説明書きに従って、数字を書き込むことなど、更なる大事業である。

無理して書いて持って来られても、どうせ間違いだらけ。と言う訳で、役場から税務課の職員がやってきて、すべてパソコンで処理してくれる。私たちは、源泉徴収票など資料を用意すればいいだけである。だけと一言で済ますが、ハンコを忘れる者がいる。

私の申告処理は最速の部である。何もないからだ。

Simple Is Best!

私は、税は一本に絞るべきだとの考えでいる。

直接税は消費税のみ。間接税は所得税のみ。健康保険税や社会保険料やガソリン税など一切廃止して所得税にまとめるべきである。

目的税とは聞こえがいいが、実体は、民からなんだかんだと金を巻き上げようと企む国家のカモフラージュである。

税制改革をこれまで何回やってきたことか。なんとか調査会が何度意見書を出したことか。

税率の改定は税制改革とは言えない。抜本的改革と称するのであれば、言葉の通り、根っ子を引き抜くような改革でなければいけない。

私は、所得税については、自然対数的超累進課税であるべきと考えている。

例えば、200万までは完全無税。500万は、5%、千万は10%、2千万は50%、5千万は80%、要するに、企業なら役員でもヒラでも、役所なら事務次官でもゴミ収集員でも、1千万以上はすべて、税金にしてしまうことである。10億の相続でも、9億9千万円は税金である。

日本国は、終戦後とちがって飢餓状態にあるわけでない。世界でも上位にある。それでも、社会が浮き足だっているのは、野放図の富の配分を国家が奨励しているからである。

小人閑居して不善を為す。大金閑居できずバブルに走る。

どこまで経済オンチか エコ住宅奨励金

自動車・家電品のエコ・ポイントに懲りずに、今度は、新築住宅にも奨励金をあげるという。加えて、頭金無しでもローンが組めるそうだ。

一昨年の傑作「百年に一度」がどこから起こったのか、すっかり忘れている。と言うより、口先だけで、本当は、まったく理解できていなかったのではないか。

己の身の程を知らずに他人の金で自分の物にする。こんな勇敢かつ倫理観がゼロである人間に、国家の金を貸すのだから、焦げ付きが出るのは、当然である。

相続税の軽減を図って、相続を促進するという。相続は、人間が死ぬ動物である限り、いつかは必ずやってくる。その時に、「子孫に美田を残さず」で、がっぽり相続税を取ればいいのだ。

エコ・カー減税、家電のエコ・ポイント、新築奨励金、優遇相続税、政府のやることなすこと、すべて、黙っていればいずれそうなるべき景気の先食いである。

このブログで何回か繰り返したが、日本版「朝三暮四」である。

0312メリー

大いなる錯覚:成長戦略としての雇用、環境、子供

政府は、内需拡大と新産業育成による景気浮揚を目指すという。菅直人副総理兼国家戦略担当相が旗振り人らしい。

彼が本気でそう考えているのであれば、経済オンチである。

内需拡大で日本の景気は浮揚しない。前に例えた様に、駄菓子屋の子供が店の菓子をつまむのと同じだからだ。

新産業育成は、喉がかわいていない馬を水辺に引いてきて、さあ、飲めということである。手元に資金がない貧乏人に政府が貸すのであれば、将来のバブルの種を撒くだけである。

子供の養育に国家予算を当てたら、親の面子が立たない。軟弱な日本人が育つだけである。子供はそれぞれの家庭の事情のもとでそれぞれの苦労をしながら育てるもの。そういう親を見て、子供が大きくなるから、親の有り難さがわかる。

国家と人民は別物である。これを混同すると大いなる錯覚に陥る。危ない。

付:
ここの貧乏人とは、自前の資金がないくせに気分だけが起業家をいいます。

坂の上の雲(4) 書評 褒めるの分 武士の情け(続)

武士の情けは、日本では武士道精神に則るものであり、西欧では騎士道であろう。

日本は、源平合戦が示しているように、お互いに命を賭けて戦う者同士には、一種の連帯感があった。「敵ながらあっぱれ」と賞賛するゆとりがあった。

西欧で頻繁に起きた王位継承戦争でも、騎士道精神を共有しながら戦場で敵味方となって戦った。

大将は、「勝利は我が軍にあり」と叫んで、戦士を鼓舞した。決して、「正義は我が軍にあり」とは言わなかった。こちらに道理があれば、敵にも敵なりの道理があることを知っていたからである。

戦争をプロとする軍人は、この武士道や騎士道の伝統を代々受け継いで、しっかり身に着けていた。その者同士が、君主なり国なりに分かれて戦うのだから、相手がよく理解できた。

この伝統がない軍隊では、どうなるか。

アメリカの軍隊がいい見本である。

新大陸に上陸した移民の中に、プロの軍人はいなかった。食いっぱぐれの元兵隊はいたかも知れないが、騎士道精神を徹底的に教え込まれた軍人は、いなかったろう。彼らは、騎士道の伝統を受け継いでいない。

殺すか殺されるかの二者択一しか、頭の中にはなかった。宋襄の仁は言うに及ばず、戦場でお互いに名乗りをあげてから戦うなど、最初から彼らの戦争思考になかったのである。

ネイティブ・インディアンへの殺戮と強制移住から始まって、太平洋戦争での原爆と焼夷弾、ベトナムの枯葉作戦、イラク戦争、みな、ひとかけらの騎士道精神でもあったら、絶対になかった攻撃である。

アメリカの戦争は、戦う先方の“人格”を認めない「正義は我にあり」が基本になっている。しばらく前に言われていた悪の枢軸もアメリカ人にはごく自然な発想である。

太平洋戦争を起こす前に、こういう騎士道精神が皆無のアメリカを敵にまわす覚悟が大日本帝国の為政者にできていたのか、私はたいへん疑っている。

民主主義国家の戦争は、職業軍人の騎士道精神など構っていられない、なんでもありの戦争である。

「坂の上の雲」では、武士の情けがあたかも美談のように書かれている。司馬遼太郎が、そのように思って書いたとしたら、とんでもない錯覚である。

書評の名を借りた読後感、これにて完。

付の1。
秋山の「武士の情け」は良し、です。

付の2。
昭和天皇に騎士道抜きのアメリカの戦争観を示した学者がいたのか、知りたいものです。

付の3。
中国大陸の日本軍も、すでに武士道精神を忘れた軍人やもともと備わっていない町民・農民など平民の集団で構成されていました。南京虐殺も武士道からは想像できませんね。

付の4。
いくら軍規がきびしくても、自軍を正義とし、相手を認めないのであれば、山賊・海賊・夜盗と変わりません。日米軍事同盟、とんだ相手と日本は組んだものです。

付の5。
昨今の戦争は、国家が経済効果をひそかに狙っているのに呼応して、金儲け集団がからんでいます。なお始末が悪いです。


0312メリー

坂の上の雲(3) 書評 褒めるの分 武士の情け

文庫本の第8巻にある。

5隻の敵艦が無抵抗になったのを見て、秋山真之が、東郷に向かって、「長官、武士の情けであります。発砲をやめてください」と叫んだ。

そのすぐ後の場面。

軽巡イズムルードが、降旗したまま、隙をみて逃げ出した。艦長の川島が、「イズムルードです。追いましょう」と叫ぶ。すると、司令官の島村が、「まあまあ、武士の情けだ」となだめた。

私はこの二つの「武士の情け」だけで、「坂の上の雲」を読んで良かったと思った。

秋山の情けは戦士として理にかなっている。無抵抗の相手に攻撃するのは野蛮人のすることである。

一方、川島の情けは、戦争のプロとして、失格である。この海戦で勝利したからといって、日露戦争が終結したのではない。一つの戦場で一つの決着を見ただけである。戦争が終わらない間は、イズムルードは、何度でも、日本軍に向かってくる。その度に、日本軍が確実に損失を被る。

投降した敵艦は撃沈するか自沈させるか、これ以外の選択はないのである。それを、武士の情けで、逃がすとは、一体どういうことなのか。私には、とても理解できない。

秋山の武士の情けは正しい。川島の武士の情けは間違っている。

付の1。
秋山発言、川島発言、共に小説によりました。実際にそう話したのかどうかは、分かりません。分からなくてもいいのですが。

付の2。 
宋襄の仁。今はそれ程でもありませんが、若い時にはこれが大嫌いでした。

坂の上の雲(2) 書評 褒めるの部

二つあった。

ひとつが、観戦。

観戦は、囲碁・将棋の観戦記者が書くものとばかり思っていた。

「昨日の朝に開始された本局も、終盤に差しかかった。昨年暮れの緒戦から、ほぼ4ヶ月。お互いに先手番を落とさないまま最終局となった。

升田は、所在無げに、外に目をやりながら、ぼさぼさの頭を掻きむしりはじめた。無数のフケが盤面を覆った。大山は依然として盤面すれすれに顔を近づけて、読みに耽っている。大山の頭が天井の電灯の光を反射している。

升田のフケ、大山のハゲ、お互いに許しあう。同門で切磋琢磨した二人の間だからこそできることではなかろうか。管鮑の交わりである」

だいたい観戦はこんなものとばかり思っていた。


「坂の上の雲」を読むと、日本とロシアの軍艦がドンパチやっているその脇で、イギリスの軍艦が両者の戦い振りを観ているというのだ。

どちらに加勢するでもなし、間に割って入って仲裁するわけでなし、死に物狂いで戦っている現場で、ただ観ているのである。

「坂の上の雲」により観戦の真の意味を教えられた。

感謝している。

付:
早速広辞苑を開いたら、観戦武官という言葉があり、交戦国の了解で観るとありました。なお、升田、大山は、架空名です。

0311雪の金華山




坂の上の雲(1) 書評 けなすの部

新聞を読むようになって気づいたことに、書評のパターンがある。

初めに、2分ほどけなす。読み手に、そんなものかと思わせてから、7分褒める。最後の1分で、「あれがなかったのは残念だが、その不足を補い余るこれがある。すばらしい作品である」

クラシック分野でも、同じパターンだ。乱暴な演奏は、「自由奔放、さすが若さだ」、機械的な楽譜再生は、「端正な演奏は安心して聴ける」、こんな締め括りである。

現代作家の作品にまったく無関心な私が、「坂の上の雲」を読んだのは、偶然文庫本が、全8巻が揃って、手元に来たためである。3年か4年前である。活字から離れていたので、一気に読んでしまった。

帯に「明治」を描く大叙事詩とある。普通、長編小説を読み終わると、虚脱感と満足感が同時に迫ってくるものだが、これはまったくない。もともとつまらなければ、1冊目で止める。面白かったがなんにも残らない。私にはどこに詩があったのか、分からなかった。長編小説に限ったことではないが、「詩」がなければ、ただ面白いだけ、これであった。

明治を描くなんていうのも、大げさ過ぎる。描いたのは、日露間の日本海海戦と第三国での陸戦である。膨大な資料をもとにして、読者に戦さの状況変化を示してくれた。これに満足しなければいけない。文学作品における満足感はない。戦記物、昔でいえば、真田幸村伝である。

明治を描いたのであれば、民衆はどうしたのか。戦場にされた第三国はどう受け止めたのか。これらを総体としてまとめ上げていなければならない。司馬遼太郎は、立志伝と会戦記録をミックスしただけである。明治を描いたという自覚はなかったはずだ。単なる戦記物に向かって大げさに評されたら、本人自身が、当惑し赤面することだろう。

「坂の上の雲」は、文学作品としての価値はゼロであっても、戦記物としては、非常に丁寧に作られている。私は、この点で、高く評価するものである。

ここから、褒めるに移る。

尺八(5) 「大和(やまと)調子」の曲想

虚無僧尺八の一曲である。調子というのだから、たぶん、本格的な曲を吹く前の、小手調べではないかと思う。よく知らない。

この他に、「調子」と「調(しらべ)」を吹いているが、4分前後の短い曲でありながら、奥が深くて、毎日吹いても飽きない。長さと言えば、琴古流の「嵯峨の秋」は15分以上吹き続けなければ終わらないし、中級から上になると、譜面が巻物のようなものがあるそうだ。若いときから吹いていない年寄りの私には、まず無理である。

私は、この大和調子に付記されている楽語がたいへん気がかりになっている。

最初の2行は、演奏者の口と尺八の唄口の間合いを整える導入部。「静かに吹き起こす」とある。これは分かる。

この後の楽語が、「遠方から虚無僧、次第に近づいてくる」である。尺八をそういうふうに吹きなさいとの指示。

中段は、楽語「近づいた所」から始まり、「佛に呼び掛ける気持ち」、「供養回向または施財偈」とある。

それが終わると、「強めに吹き出して次第に遠ざかる」、そして、「消えてゆくように吹き収める」となって終曲となる。

特別に難しいフレーズでないから、このような楽語がなければ、さらさらと吹き通すことができる。しかし、楽語の通りに、虚無僧の姿をイメージで吹奏せよと言われると、お手上げである。

ppからff、そしてpp。これだけでは、リオのカーニバルである。遠くから、エスコラ・ジ・サンバの集団が、チャッチャ、チャカ・チャカ・チャカ・チャカ。尺八の曲では「鈴鹿」の馬子である。

今、試みているのが、ドプラー効果を音の強さに混ぜることである。

インフレで年金が目減りする将来、虚無僧姿で、島の集落を回ろうと考えている私は、真剣である。

付の1。
ベートーベンの田園交響曲を連想しました。
「田園交響曲」
第一楽章・田園に着いて起こる朗らかな感情の目覚め
第二楽章・小川のほとりの情景
第三楽章・農夫たちの楽しい踊り
第四楽章・雷雨、嵐
第五楽章・牧人の歌、嵐の後の喜ばしい感謝に充ちた歌

第四楽章が、「あぐらをかいていた雷様がやおら立ち上がって、背中の太鼓を叩きはじめる」、その後、「バケツをひっくり返す」になっていたら、面白いのに。
第九は別格として、私は、ベートーベン他、すべての作曲家の交響曲の中でこの田園が最も好きです。

付の2。
吹いている途中にサンバやベートーベンを連想するのだから、一音成仏の資格はありません。反省しています。

0301リッキー





電線疲労

ここに移って真っ先にしたこと。外は竹カット。毎日、100本を目安に、2週間以上かけて、南東の見晴らしを確保した。

家の中は、壁のコンセントを2口から3口に替えること。ホームセンターでマネシタ製を買った。安い品も並んでいたが、マネシタ製は品質においては、格段優れている。

そして、15年。あっという間に過ぎてしまった。

ここ数カ月、一部の電気が突然止まることが数回あった。2分配の枝ブレーカの一つが落ちる。他の部屋は問題ない。止まった部屋の天井の電灯は点く。

決まった壁からタコ配しているすべての家電がストップしているだけだった。

何度か、差し込みを繰り返しているうちに、復帰した。

今日、また、突然、止まった。昔のワープロは、停電、即、すべて白紙に戻った。なんど泣かされたことか。今のパソコンは、電池内蔵なので、ノー・プロブレムである。

しかし、止まる事が異常な現象である事には違いなく、不便を我慢すれば済むものではない。屋内配線に何か変化が起きた証拠であるからだ。

思い切って、コンセントを開けてみた。てんとう虫のような虫がゾロゾロ這い出してきた。これは想定内である。想定外は、電線の被膜がボロボロになっていた事だ。

銅線がむき出しになって、押し込むだけで固定できるバネがイカれてしまい、一本の電線がブラブラしていた。

ヘビかネズミが邪魔だと言って動かし、もう一方の電線と接触したら、ショートして、発火。火事。さしものわが豪邸も灰燼に帰す。山火事になれば、島全体がお焚き上げ。夜中なら、宇宙飛行士の目を楽しませることになる。

荒天であれば、船で脱出できず、自衛隊のヘリに助けられなければならない。

早速、応急処置をしておいた。いつか日本本土に上陸した時にホームセンターで新品を調達するつもりでいる。ブランドはもちろん、マネシタ。

15年は短いようでも老化現象には十分に長いもの、人ごとでない。

付の1。
現場写真。ここがこうであるということは、他のコンセントもこうである可能性が大です。チェックします。

付の2。
ブレーカが作動しますから、ショートしても、普通は問題になりません。

コンセント

竹島、尖閣諸島、誰の島


最近、キーを叩く前に、前に一度言ったことだから、どうしたものか、というためらいが増えてきた。

世間は広い。まだまだ、領土問題に固執している人々がいるので、敢えて再び取り上げることにした。

日米安保がなければ、尖閣諸島は中国に占領されていた、されていたとまではいかなくても、その可能性が大だった。少なくとも、日米安保の存在によって、尖閣諸島は奪われていない。だから、日米安保は不可欠だと説く。

竹島の場合は、相手が共産国でないから日米安保の存在理由には使えない。その代わりに、日本の軍事力の増強ないしバランス・抑止力を力説する。韓国相手だから、いかにも無理な説明だから、その補足説明として、竹島が我が国固有の領土であると語る。

日本の領土であるという前提が、私には、おかしくてならない。

いつから日本の固有の領土になったのか。明確な基準はないのである。仮に、1800年時の政府同士で決められたとしても、1900年では、変わっているかもしれない。1300年に、どういう外交文書で確認されていたのか、誰も知らない。そもそも、紀元前に、尖閣諸島や竹島を、自国の領土であると主張した国があったのか。主張した国に対して、合意あるいは異議を唱えた国があったのか。

然り。

領土とは、外交でなく、腕力、それは主に軍事力であるが、によって自国の有利なように決めただけの土地である。

「固有の領土」は、当面の時事用語でしかない。だから、自国が固有の自国領土と主張すれば、他国も同じ主張をする。この点では、「正義」とまったく同じ言葉に成り下がることになる。

この領土、大変な曲者で、四畳半一間の借家人にも、まるで自分の土地が失われるのではないかと、心配の材料になる。北海道や九州のように大きな島ならともかく、パラパラ絶海に浮かんでいる無人島を、あたかも自分の地所のように、誰もが惜しがる。これは、農耕の知恵を身に着けてから拍車がかかった縄張り争いというサル並みの本能によるものである。だから、止めようがないのである。

ならば、どうすりゃいいのか。

話題にしないことが正解である。尖閣諸島や竹島の耕地面積がどれほどのものか。日本列島の至る所にそれくらいの荒地はあるはずだ。

欲しければ、黙って、くれてやればいい。相手が、遠いウルグアイやコンゴなら、「待てよ」もあるだろうが、侵略戦争で国土をさんざんに荒らした中国であり、長年占領してきた韓国であれば、詫びの一言を添えて、謹呈する位がいい。

それを、どう錯覚したのか、尖閣諸島や竹島の保全のために、4兆円もの軍隊が必要と言う。

言葉が詰まれば、領土は、金に代えられないと言う。世界史の無知は、哀れでさえある。金でつぐなった領土など、珍しくない。

金で代えられない、まあ、この点を百歩譲るとしても、中国や韓国が武力で占拠したら、自衛隊が出動するというのか。出動すれば、双方から死傷者が出る。ちっぽけな土地とその全面積である地球より重い命とどちらが大切なのだ。

領土問題は、軍備保持を正当化しない。

付の1。
今、日本周辺地図を開いて見ています。敗戦と同時に、沖縄が琉球国として、独立してしまえば良かったです。無人島よりこちらの方に、私は関心があります。

付の2。
朝日新聞が、沖縄基地の移転を自県で受け入れるかどうかのアンケートを知事全員に配りました。案の定、一県も、了とした回答をしませんでした。日本人の島国根性をまざまざと見せつけられました。NHKは朝日の知事の次として、有権者にこのような世論調査を実施すべきです。

NHK仙台 津波の検証報道

どこまで、自分を正当化すれば気が済むのか。

先のチリ大地震で津波予報が、宮城沿岸3メートル。これは、気象庁が予測したもので、NHKは、そのまま伝えた。この点で、私は、NHKに対して一言も文句を言っていない。

気象庁のいい加減さにも、手心を加えていた。

今回は違う。

後の検証で、NHKは、実態が30センチの津波を、場所によっては2メートルに達したと報道して、専門家を現場に向かわせ、かつ、シロウト住民カメラマンによる津波のビデオを放映した。

これの目的は、3メートルはなかったが、2メートルはありました、あながち誤りとも言えません、いえ、安全のためには3メートル情報は間違っていませんでした、これを検証したいのである。国交省大臣までが、さかんに気象庁を援護していた。

河口の幅100メートル、深さ10メートル、ここに3メートルの津波が押し寄せてくる。200メートル先の川幅が10メートル、深さ1メートル。

後ろからの波や堤防の摩擦など考慮にいれなければ、理論的には、300メートルの高さの津波になるのである。断面積から小学生の算数で得られる数字である。

海水の逃げ場がない場所では、30センチの津波が2メートルにもなれば4メートルにもなる。丸い島であれば、3メートルは3メートル。津波は迂回するだけだ。要するに、津波の高さは、すべて地形次第であるということである。

一つの例をとりあげて、今回の津波情報の信頼性を主張するのは、いかがなものか(麻生前首相流)。

これとソックリさんが建物の耐震性である。建築基準に満たされていない建物でも、地盤が硬ければ、倒壊しないことがある。耐震強度がどれほど高くても、砂上であれば、楼閣となることがある。

物事を単眼で見てはならないと啓蒙すべき「公共放送」が、不自然な理屈をこねて検証するのだから、大いに「いかがなものか」である。

付:
2メートルの現場は入江であったことをチラリと語っていました。もっとこの点を強調しなければいけないのですが、言わないよりは、まし。一応、NHK仙台局の名誉のために申し添えておきます。

お隣の国、中国(4) ヤギ、ヒト、イヌ、ニワトリ、ネコ

我が家で正式に住んでいる生き物である。他にネズミやヘビ、クモ、ムカデもいるが、棲んでいるのであって、住んでいるのではない。

この住民たちのタイトルはある種の順番となっている。

答。大きさの順に並べてある。

この順を逆にしてみる。

ネコ、ニワトリ、イヌ、ヒト、ヤギ。

これも、ある種の順番になった。

答。攻撃性である。

ネコは、コタツで丸くなるなんて、都会詩人の空想で、深夜、外出先から、ネズミをくわえてくる。昼間は小鳥だ。ニワトリもミミズ・クモほか、小さな虫をついばむ。花札に描かれたニワトリの獰猛な目つきを見れば、やはり、生き物を食べる家禽であることが分かる。ヒトは、優しい。ヤギは、さらに優しい。生き物を絶対に殺さない。イヌに向かって攻撃的な姿勢を取ることがあるが、それは威嚇であって、イヌが唸りながら攻めて来た時だけである。

だいぶ前、連絡船にヤギを乗せようとして、船員に手伝いを求めたら、怖いからいやだと断られた。今でも、島のお年寄りの中には、怖いからと言って近寄らないおばあちゃんが多くいる。そのくせ、ネコは、なんとも思っていない。

体の大小と攻撃性は別問題であることに無知であるからこういうことになる。

象さんが稀に怒ることあるのも、ヒトが我慢できない程ひどい乱暴を加えた場合だけだ。その時は、巨体に物を言わせて、暴れまわる。

人間でも、喧嘩っ早いのは、だいたい背が低く小粒である。100キロを超える人間は、血の巡りが悪いせいかどうか知らないが、おっとりしている。めったに怒らないが、怒ったら小粒なんかイチコロである。

本論。

中国は日本の人口の10倍、国土は25倍。四川省一つで日本と同じ大きさらしい。地図をみれば、ヒョロっとした日本列島と丸い中国の差は一目瞭然である。

だから、中国が大国であることは間違いない。しかし、かの国が覇権国家である言えば、それは錯覚というものである。

万里の長城は、専守防衛という漢人の血によって築かれたものである。もしも、中国が覇権を求める国民によって構成されているとしたら、夷狄の討伐を繰り返していたろうし、日本征伐の試みは一度や二度ではなかったはずである。

「日没する国」と単純な太陽の運行で親書を届けるような無神経ささえなければ、おっとり構えているのが中国である。周りからチヤホヤされて嬉しがるのは、総領の甚六に似ている。イスラエルとは大違いである。

中国の軍事予算は心配するものではない。中国が大国にふさわしい軍備を持っていたいという、国のプライドに基づいているだけのことだからである。

大きい国、すなわち覇権国家である、この短絡思考が、いかほど世論を惑わしていることか。

日本の軍事力が向上すれば、自国の安全のためと称して、中国は軍備を増強する。中国が増強すれば、自国の安全のためと称して、今度は日本がさらに軍拡する。

中国は朝鮮半島の国と同じように、非攻撃的な国である。相手を怒らせなければ、日本ほど平和な周辺国にかこまれた国はない。

なまじ、アメリカなどと組んでいるから、騒ぎに巻き込まれる。

軍拡はエンドレス。軍需産業を利するだけだ。

日米安保は不要。中国は覇権国家ではない。

付:
漢詩の世界。専守防衛で長城に赴く友を送る詩。中国は文人の国であります。

お隣の国、中国(3) 軍事予算とNHK報道

昨日だったか、中国の軍事予算が、6兆円規模であること、この数字の裏に不透明な予算が更にあることなどを、NHKが放送していた。

毎年、2桁の伸び率が、今度は1桁になった。伸び率が低くなった事は、日本国にとって大歓迎であるのに、少しもそのような口ぶりがない。日本人民のみなさん、1桁で騙されてはいけません、全体の予算は日本の4兆円に対して6兆円なのですよ、こういう暗示の意図がミエミエである。

GDPでは、金額を言わない。言えば、なんだそんな程度か、と、日本の景気低迷を国民が冷めた目で見るようになる。

軍事予算では、金額を言う。言わなければ、中国も落ち着いてきたもの、結構な時代になったものだ。それでは、日米同盟はいらないのではないか、普天間基地などさっぱり取り壊したらいいのではないか。誰もが、そう思う。こうなったら、日本の愛国主義者は真っ青になる。代弁者であるAMKが、ウソでない総額を追加説明することで、せっせと援護射撃をしている。

目的は、防衛予算の削減解消、できれば増額である。中国の軍事力の増強に対抗すべしとの世論を誘導しようとしているのである。

軍事力。

万人が納得するような比較は、絶対に無理である。無理を承知でNHKがするのだから、私も無理を承知で数字に基づいて反対意見を述べる。

中国の人口13億、日本1.3億。戦争が人命対人命の消耗の作業であるのであれば、一人当たりの軍事予算が、当然の事ながら(鳩山流)中国が日本の10倍であっていい。

「国破れて山河あり」が困るのなら、破られないためとして国土を比較する。

中国  960万平方キロ
日本   38万平方キロ

中国は日本の国土の25倍である。日本の予算が4兆円なら、中国は100兆円という計算になる。

専守防衛はどうか。

日本は四面海に囲まれている。古来、負けを認めない相手との戦争の終結には、敵地占領が必要である。中国の地上の国境を幅1キロの堀で仕切ろうとしたら、どれほどの人と金が要ることか。これにかかる軍事費は日本ではゼロである。中国が堀を作るための予算を別途計上しても、日本は文句を言えない。

あれやこれやと考えていくと、軍事費というものが、計算する人間の立場次第であることがよくわかる。

公共放送を勝手に自負しているNHKが、どういう立場をとっているのか、放送を聞いて再確認した。

私は中国の軍事予算に、無関心でいる。関心があるのは、何かと言うと、都合のいい時だけ都合のいい外国を引き合いに出す日本人の悪習をいかにしたら撲滅できるかである。

お隣の国、中国(2) 数字の錯覚

ここ数年か数十年か、中国のGDPの伸び率が毎年2桁台であるそうな。

わが日本は、景気の回復を歴代内閣が最大の政策としているにもかかわらず、最近はゼロの前後の1桁にとどまっている。

GDPを私はまやかしの経済指標と見下しているが、それでもGDPPというのであれば、国民ひとり当たりのGDPを比べることだ。国家が着たり、食べたり、住んだりしないのだから、当然の事(鳩山首相の口癖)である。

中国  一人当たりGDP 1,500ドル
日本  同        37,000ドル

いずれも2004年の資料である。毎年、20%の伸び率を中国に仮定し、-3%の伸び率(減少)を日本に仮定して、10年後の2014年を見る。

中国  一人当たりGDP   9,300ドル
日本  同           27,000ドル

この試算を、2014年の経済予測のために行ったのではない。

等比級数的伸び率であっても、その基準となるべき数字を知らせないまま、ただ中国の経済成長に「目を見張る」よう日本人民衆を誘導する報道に、反省を促したいために行った数字遊戯である。

何かといえば、景気回復。日本はすでに、物質面では十分に豊かになっている。毎年、3%のGDP減少を受け入れれば、どれほど、日本人の心が安らかになることか。

景気の膨張より、縮小。私の持論である。

付:
人民元、日本円、米ドル。あくまでも、数字の遊戯ですから、現実の換算比率を考慮に入れる必要はありません。

お隣の国 中国(1) 二つの関心事 

私の外国内政不感症は、常習喫煙者と同じく確信犯であるから、治らない。治すつもりもない。

対外政策においても、日本に直接関係がなければ、それに対しても、不感症のままでいる。

しかし、ある国が日本に対して好ましくない態度にでるのであれば、一言苦情を申し上げる。幸い、今のところ、そういう外国を私は知らない。

お隣の中国について、私が関心を寄せているのは、食料と大気汚染、この二つだけである。

一昔前の中国は、清貧国家であることを誇りにしていた。満漢全席は、イギリス植民地ホンコンの出来事であった。それだから、1億日本人は、世界の食料をふんだんに買い入れて、美食三昧に耽ることができた。

毎春やってくる大砂塵は、数千年前から続いてきたのだろうが、それで、日本人が絶滅の危機に瀕したということはなかった。大自然の恵みという実感はないにせよ、黄砂が日本の土壌に貢献していることは確かだと思う。

今、13億の人口、まさに人の口に、世界から、続々と大量の食料が飲み込まれている。一度でも牛肉の美味さを味わったら後戻りできないそうだ。以前、アメリカの食料輸出役人がテレビで語っていた。

金で買って食べてきた日本人を、今度は、中国が真似をする。そうなったらどうなるか、これに私は関心があるのである。

昔は荷馬車とリアカーで運んでいた。今は、大型トラックがリアカーの数百倍の荷物を一度に運ぶ。欲しい所があれば、リアカーの数千倍の遠距離を走る。300キロも縦断したら、太平洋から日本海に通り抜ける日本と大違い。

乗用車も飛ぶように売れているとのこと。自家用車ほど、便利で快適なものはない。一度手に入れたら、手放すことは至難である。

この車という代物から排出されるガスが、黄砂に混じって日本にやってくる。日本人は、逃げ場のない希薄なガス室に閉じ込められた格好になる。そうなったら、日本はどうするつもりか。

私の関心事とは、この二つである。

閣僚の遅刻に思う

低血圧の私には、ここ数日の朝は大変辛いものがあった。雪が降るかと思えば、急に春の強い日差しが差し込んでくる。雨音を聞きながら、うとうとしていると、ネコが帰ってきて、ベッドの上にヒョイと乗る。鶏はイヌ・ネコ出入り口から入ることを覚え、枕元で鬨を告げる。

その日の朝、枕元のCDラジオで阿字観を聞いてから起きるつもりで、いつものようにスイッチを入れた。セレクトボタンが間違って、ラジオに移った。「参院予算委員会がまだ開かれていません」とアナウンサーの声で、しばらく音楽が続いた。国会は9時に始まることを経験から知っていたので、「ああ、9時か」と、起きるべく気持ちを引き締めた。

低血圧の者でしか理解できないだろうが、気迫で起きるのである。

それはさてとして、この「開かれません」が、後になって大問題に発展しようとは、その時の私は知る由も無かった。

・・・・・

な~んて始めても、大したことではありません。3閣僚が15分遅刻して、舛添前大臣が激怒しただけの話です。

これを、夕方、ニュースで聞いたとき、真っ先に連想したのが、黒澤明の「生きる」です。

若い女職員が、課長の無遅刻、無欠勤を笑い種にして、「課長はどうして休まないの」、「それはね、休んでも、みんなが困らないことが分かってしまうからさ」。居てもいいし居なくてもいい、要するにどうでもいいということであった。

参院は、まさに、この課長の立場である。

3人の15分の遅刻と言わず、全員、休んでしまえ。それでも、予算は確実に通過するのだ。

舛添さんが激怒したのは、「生きる」の課長と正反対の行動であったが、問題の根は同じである。

舛添さんは、遅刻によって差し障りが生じないことから、「世論」が参院の存在そのものに疑問を抱くのを恐れていたのである。

前代未聞の事態と野党は攻撃、与党は苦虫を噛み潰す、これは、ヤラセである。芝居である。

芝居にケチをつける前に、参院の撤廃をマス・コミは提案すべきである。

参院は、無用の長物である。早い所、憲法を改定して、一院制にする、仕分けができない対象だから、憲法で潰すしかないではないか。

付の1。
民主党がたるんでいるのを驚いてはいけません。公設秘書は馬謖です。献金団体との面会や後援会会長との面会では、遅刻などあり得ません。書生気分の消えない民主党は、正直であると言えば正直であります。褒めているのではありませんが。

付の2。
ムダの象徴、これ参院なり。

バンクーバー・オリンピックを総括せよ

日本の役所の一番悪い所は、企画書は立派にできていても、総括が全然なされないことである。

やるかと思えば、数十年前の事実確認である。核密約の告白など、今頃になってどうだというのだ。いっそ、閻魔様にお仕置きを受けるがいい。白を切られたために、西山記者なる人物、どれほど辛酸を舐めたことか。

法廷か国会かで「実は存在しました」と証言して、本人は肩の荷を卸してすっきりしたろう。いい気なものである。

さて、オリンピック。

いくら金をつぎ込んだのか、この総括だけはしなければならない。

国が直接援助した金の額、文科省の役人がこのオリンピックのために費やした時間を金に換算したその額、NHKが放送に使った延べ時間を受信料に割り振った額、この3点セットだけは、きちんと総括しなければいけない。

メダルがどうのこうの、何が不振の原因だったか、こんな、アホくさいことはどうでもいい。

なにやら、4年後もまた続けるそうな。冗談じゃない。好きな人間が好きにやればいい。貴重な税金と受信料を海外遊園地に捨てるな。

2010年2月28日 津波警報に振り回された一日

宮城県で有名なのは、仙台オンブズマンと宮城沖地震見込み。伊達政宗を自慢にしているのは、県人だけで、他県には他県の特産人物が存在している。

昨日は、朝に津波警報がでた。

NHKのラジオから、津波の情報が津波のように押し寄せてくる。話題のないオリンピック中継に困っていたNHKには救いである。

時は午後1時半、高さは3メートル。

こう聞かされては、家で碁なんか打っていられない。

以前、「津波の到来は午後1時の予定です」と午後2時にニュースにあったことで、私はこのブログでさんざんけなしたことがある。いくら日本語でも、テンス(時制)の無視がひどすぎた。

これが効いたはずだから、午後1時半はそれ以前にはないだろうと踏んだが、お天気・ノー天気の気象庁のやること、信用できない。よくて半信半疑である。ということで、1時からデジカメと尺八をもってプライベート・ビーチに馳せ参じた。

家を出るとき、女房から、危ないからやめて下さいといわれたが、「火事と津波は江戸の華よ」、「死んだら、散骨の世話がなくなって結構じゃねえか」と、袖にすがる女房を振り切った。

3メートルといえば、ちょっとしたものだ。途中、ふと生命保険を考えた。海に流されて私の死体がどこに行ったかわからないと、半年だか一年だか、保険金が下りないことを思い出した。

私の保険は、アメリカの某超デタラメ保険会社のものである。一昨年の百年に一度の危機では、あやうく流れ弾に当たるところだった。これから先、同じような危機が百年先まで起きないという保障はない。半年のうちに、今度は千年に一度の経済危機がくるかもしれない。(百年に一度は、使えない言葉だから千年にするだろう)

どうせ生きて自分に入る金でないから、惜しくはないが、某超デタラメ保険会社に、タダ取りされるのは癪にさわる。

それで、プライベート・ビーチがよく見える所の大木に私の体をロープで縛り付けることにした。気分は、映画「ユリシーズ」のカーク・ダグラスである。英雄気分になった。縛ったら、今度は、映画「ハリケーン」の主人公になった。後のカラー映画である。ミア・ファローがでている。私は大ファンであるから、気分は最高。

1時から10分経過。20分経過。まったく変化なし。30分経過。40分経過。同じく変化なし。風が冷たくて、尺八の音が出なくなる。指も動かない。到達時刻を若干、早めに予告するのは、遅いよりいい。しかし、2時半まで縛られていても、相変わらず、普段のどど~ん、どど~んである。気短かは江戸っ子の欠点としても、待ちが長すぎる。寒さはこたえた。

限界に達して、トボトボと家に戻った。この3分間の長きこと。

ニュースを聞いて驚いた。30センチの津波だったというのだ。

波は一種の平均値で表される。だいたい3倍の波は来ても当然である。だから、30センチであれば、予測として、90センチ、大まかに言って1メートルでなければいけない。それを3メートルとは、どんぶり勘定がひどすぎる。

関越道、渋滞30キロ、これは稀にある。それを、300キロと予想すれば、日本海につき抜けてしまう。40年後の世界の総人口、70億、これを700億としたら、もはや、SFの世界である。

どういう具合で、3メートルがでたのか、私にはわからない。しかし、これの精度を上げることを、気象庁に望むような愚かな提言や警告はしないことにする。

彼らの返答は、「精度を上げるには、スパコンの増設、人員の増加が欠かせません。予算をください」と、必ずこうだからだ。

昨日は、残りわずかな私の年月から貴重な1日が失われた。次回は、30メートルの予測にならない限り、家の中にいることにする。これが、寒さに耐えた昨日の教訓である。

付の1。

映画「ユリシーズ」は、おぼろげな記憶です。マストに縛りつけて、妙なる誘惑を聞くというシーンです。

付の2。
ハリケーンはモノクロもあります。どちらもいい映画です。ミア・ファローのは、ワイドであるはずなのに、終りのクレジットだけワイド。悔しい。DVDを探しています。

付の3。
楽しいこともありました。岸壁近くの家の飼い主が不在のイヌ、津波にさらわれたらかわいそうと、放されました。数百メートル彼方の私の所に遊びにきたのです。動物は楽園が分かっているのですね。

付の4。
小島は、津波が迂回します。

0228来客a


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