老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

平和を願う皆さんへ

私は平和も戦争も並存していくのが人間の業であるという持論でいる。戦争のない世界は、言葉の遊びである。

この前のボケ確認アンケートが返送されてきた。コメントには、ボケの兆候が書かれていない。メタボなるけったいな症状も心配なさそうである。これをヒントに、平和・反戦のアンケートを作ってみた。

1.韓国が竹島を自国の領土であると主張したら認めますか。はい・いいえ
2.中国が尖閣諸島を自国の領土としたら、認めますか。はい・いいえ
3.ロシアが北方四島を自国の領土としたら、認めますか。はい・いいえ

言うまでもなく、領土は国家の最大関心事であり、これまでの戦争のほとんどが領土問題を火種としてきた。これで、「いいえ」と答えた人は、平和主義者と私はみなさない。

「はい」を選びながら、「できれば外交交渉によって、解決を」と条件をつける人も平和主義者とみなさない。戦争は、交渉で解決できない先に続くものだからだ。

平和の時に戦争反対を唱えることはたやすい。戦争になってから平和を唱えることは命がけとなる。なぜなら愛国心に逆らう行為として、興奮した民衆を敵に回すことになるからだ。

戦争はなくならない。日本ができることは、出張戦争行為をしないこと、いかに正義があると国連が叫ぼうとも、手助けしないこと、これに尽きる。

軟弱とか卑怯とか非難されても、じっと我慢する。私の知っている限り、その手本はガンジーただ一人である。

連想ゲーム 連帯

昔、テレビで「連想ゲーム」という番組があった。当時は、素直に聴いていたが、すべて、台本があると、台本作家から聞かされ、急につまらなく感じたのを覚えている。

前回は、地デジの連帯だった。今回は、寄付金の連帯である。わずかな期間でも民生委員をやったので、少しばかり守秘義務的な感覚があって抑えてきたが、もう数年前のこと、時効として、寄付金の連帯を書く。

赤十字。行政区の区長に、どこかの管轄団体から、割り当て額が示される。区長は、班長に書類と領収証を渡す。班長は、自分の受け持ちの10世帯前後の家に回って、お金を集める。突然やってくるが、事前に来訪の都合を電話で確かめる習慣がない。来たら、言われた通りの金額を、班長に渡す。

割り当て額は強制でないことになっているが、建前である。

もう一つは、社会福祉協議会。これは、一軒にいくらと決められている。矢張り区長から班長と渡ってくる。以下、赤十字と同文。

寄付は個人の善意に基づく自由な行為である。これが、まったく理解されていない。割り当て額があれば、その通りに出す。割り当てがないと聞けば、「みんなは幾ら出しているんだい」と聞き返す。

大分前に、新潟地震の義捐金集めがあった。私が各戸割り当て目安額の4倍を出したら、「なにも、そんなに出さなくても」と不思議な顔をされた。

ここまでは笑える。笑えないのはこれから先である。

私の考えでは、これらの寄付はまったく不要である。ムダである。ある人は、有用であり有益であると考えるかもしれない。その人が寄付をすればいいし、そこに留まってくれればいい。それを、寄付に応じない者を、社会貢献に寄与しないとんでもない人物として、白眼視するのである。人の不幸を救おうとしない非人道者扱いである。

私は、こんな眼で見られても、なんら痛痒を感じない。しかし、多くの高齢者は、そんな眼で周りから見られたら、耐えられないと思う。眼のみならず、島は小学校時代からの先輩・後輩、同級生の集まりである。面と向かって、プレッシャーをかけてくることもあろう。

あらゆる共同募金の達成率が田舎で高いことと、田舎の人たちが募金の意味を十分に理解したということは、あまり相関関係はない。連帯のなせる技である。

付の1.
都市部で「定額」募金集めなんて、今でもあるのでしょうか。連帯がない所でしょうから、ないでしょうね。

付の2.
移住者は気楽に断れますが、先住者は、大変な勇気がいるでしょう。会社の慰安旅行に不参加する勇気を想像してください。もっとも、慰安旅行の方は、30年前のことですが。

LDからDVDへ 映画「アドベンチャー・ファミリー」

都会から田舎に移りすんだ一家の物語である。

娘が喘息に罹って、その療養を兼ねての移住である。ロスから、ロッキー山脈のふもとに移ったのだから、見上げたものだ。都会から田舎へ移った映画には、前にこのブログで取り上げた「テンペスト」がある。テンペストはシェイクスピア原作だけあってさまざまな葛藤が含まれているが、このファミリーは、単に田舎である。それも、郵便物が軽飛行機から放り投げられるという田舎も田舎、ドが4・5個つく田舎で、私の今いる場所なんか、それに比べると、大都会である。なんてったって、ポストに郵便物が入っている程だから。

人を襲う熊と、人を助けようとする熊の格闘など、笑えるシーンもあるが、私の脇見鑑賞は別にあった。

学齢期の子供:「おっかあ、なんで勉強せなあかんの」
母親:「都会さ行って、困るっちゃ」

ちなみに、このロッキーの田舎、隣家は数百キロ先、むろん学校はない。

私はこの子供の疑問と母親の答えに感動した。「学問のススメ」や「学生に与ふ」なんかより勉強の本質をついているからである。

都会に行って困らないためには、文字が読めること、手紙が書けること、それに足し算と引き算ができることに尽きる。あとは、体が丈夫であればいい。丈夫でありさえすれば、弁護士になりたければ、法律の知識を身につける、料理人になりたければ、肉や野菜の知識を身につける、売り子になりたければ、接客術を覚える、法螺吹きか詐欺師になりたければ、小国寡民に教えを請う、等々、都会に行ってからでも十分間に合うことばかりだ。

私は何を言いたいのか。

義務教育なんか、校舎の中でやらなくてもいいといいたいのである。このファミリーは、母親が先生だった。毎日、朝か夕方の数時間で、「都会で困らない」程度の知識をこの子供は身につけることになる。残りの時間は、父親に連れられて、草原や山に出掛ける。海がないのは残念だろうが、代わりに湖があり川がある。

私は、パソコン主題のところで、子供は原野・山林に遊ばせるべしと主張した。これは、冗談ではなく、その子供の将来のためにとして、至極まじめに語っているのである。

日本全国、地方では過疎が進んでいる。働き口がない、適齢期の男女の一方がいなくなる、他、幾多の背景があろうが、行政のバラマキ活性化事業はすべて一過性のイベントであって失敗する。

私は、義務教育の9年間は、全員、寄宿舎に住まわせ、徹底的に共同生活の良さ悪さを体に覚えさせるべきと思っている。学校は、もちろん、ド田舎に建設と決まっている。

教師は地元出身であるから、宿舎でも自宅でも良い。都会の塾は失職するから、塾の教師なども、教師に採用し、一括して移住させる。子供だって怪我や病気もするから、病院もつける。

過疎地には高齢者ばかりしか残っていないことによる困難が、これで解消する。

一挙両得の見本である。

付:
「学問のススメ」、「学生に与ふ」これらの書名は間違っているかもしれません。調べればいいのですが、大勢に影響がないので、(心:めんどうなので)いい加減のままです。

がんばれ麻生さん 80歳まで国会議員でいるつもり

民主党の鳩山代表が、早速、メチャクチャな発言と批判しました。その通りですが、こういう発言はあまり真剣に取り上げない方が大人の態度ではないでしょうか。

現役時代、二十代は当然、三十代、四十代の私からみた定年間近の社員は、もう、まったくのご老体です。元気な人も中にはいましたが、それも却って、背伸びという恥を感じさせるものでありました。自分はああはなりたくない、表面では敬っているようでも、若者の心の中では、今の私の気持ちと同じではないか、そう思っただけで、ああ、いやだ、いやだ。

六十歳は、東洋思想では一巡、いい区切り時です。そういえば、六十分で、長針は元の位置にもどります。

七十や八十の「働くしか能のない」人たちが、大勢ウロウロしている職場が、想像できますか。ウロウロがきつければ、あちらこちらでデンと椅子に座っている職場でいいです。

事務所に限りません。長距離トラックの運転手さん、80歳で頑張りましょう。高層ビル建設現場の人夫さん、国際線のパイロットさん、スチュアーデスさん、NHKのアナウンサーさん、みんなみんな、80歳で頑張りましょう。とりわけ、麻生さんや自民党の愛国心旺盛な議員さん達の大好きな自衛隊の兵隊さん、80歳で頑張ってくださいよ。

麻生さん、冗談ばかりと思えば、とてもまともなことも言うのです。

歳をとってから、遊びをしても物にならない。

これは、私にはグサリでしたね。いえ、私は最初から分かっていましたから、グサリより、ズバリと申すべきでしょう。毎度おなじみの尺八、65歳から始めたのですから、物になるわけがありません。定年になってから山登りをすれば、どうなるか、年中ニュースになっています。

物にならなければ、やるな。やるなら、物にしろ。麻生さんって、完璧主義者かもしれません。

でもね、人の一生なんか、物にならないまま終わるのではないですか。物にならないことが最初から分かっている人が哲人でして、凡人は、分からないまま一生をせっせと送っているのではないですか。

宮崎県知事がお笑い出身とは、つい先日まで知りませんでした。たけしの弟子なそうな。

一人欠けたのですから、その穴埋めに、麻生さんがお笑いに転職したらいいいですね。たけしに弟子入りするまでもありません。地で行けば、立派に通用します。

どうせ八十になっても働くつもりでしょうから、今のうちに、鞍替えした方がいいですよ。売れるのは私が保証します。私の保証に疑う人でも、議員報酬の節約だけは認めてくれるでしょう。

付:
80歳でも立派にこなせる仕事。ありました、ありました、国会予算委員会でただ座っているだけという業務に就くことです。

原爆 唯一被爆国の日本

この時期のもう一つの話題が原爆である。このブログでも毎年何かをブツブツ言ってきた。

核兵器反対は私も同意する。これは、核の部分でなく、兵器の部分で反対なのである。

この私から見て、いつも不思議に感じるのが、今日の表題の「唯一の被爆」という枕詞である。

これに、何の意味があるのか。

原爆投下は、アメリカ。それは、アメリカが日本より先に開発に成功しただけのことである。仮に、日本が先に開発・製造したら、間違いなく、アメリカに投下していたろう。アメリカは順次、日本が「参った」というまで投下する予定だったが、日本だったら、10発生産したら、一度に投下したことだろう。

当時の日本に、アメリカ式の「参った」を聞くまで、順次投下など考えられないはずだ。

国際感覚を身に着けた第三者から、「なに言ってんだい。自分たちの開発が遅れただけじゃないか」と言われても、反論できないのである。これが、日本が世界に置かれた立場である。

政府や言論界、広島・長崎市長ら、それと反対運動家たち、「唯一の被爆国」の枕詞が、世界では通用しないことを、認識すべきである。

付の1.
原爆の悲劇を正面から取りあげようとするのなら、先ず虚飾をはずすべきではないでしょうか。虚飾では世界の同情を得られません。

付の2.
民主主義国家間の戦争でしか原爆・焼夷弾は使われません。このことからも、太平洋戦争が、軍部独裁の暴走によるものでないことがわかります。

付の3.
大量破壊兵器は原爆にかぎりません。旧日本は侵略した中国において、毒ガス開発にやっきになっていました。

福田さんに物申す 拉致被害の解決

前の前になる前に、言っておきたいと思っている事がある。

福田さんは総理大臣になったとき、「拉致問題は私が解決します」と明言した。私が総理大臣になったらという条件であったことは確かだ。

そして、確かに総理大臣になった。明言はどこに消えたのか。一年そこそこの任期で辞めたのは、福田さん本人の希望退職である。任期が短いことは理由にならない。

突然の辞任劇というどさくさにまぎれて、拉致問題はおいてけぼりにされてしまった。マス・コミは昨日の事を取り上げない。

麻生総理に引き継ぎがなされた形跡もない。

福田さん:「拉致被害の解決の手段としてこれこれがある。後はよろしく頼む」
麻生さん:「これこれは、解決にならない」
福田さん:「政権政党の首領として公約したのだから、これこれの手段でなくてもいいから、とにかく解決していただきたい」
麻生さん:「オレ、嫌だね。今日からは、オレ様が天下だもんね」

こんなやり取りがあってしかるべきであったが、どこからもリークのリの字も出なかった。

出来しない事を出来ると言った罰は彼に下されないのだろうか。どこの選挙区かしらないが、今度の選挙を見てみたい。

付:
麻生さんの北方領土問題についての言及は、いずれ書きます。私、忘れていません。

扇風機

昔々、乗用車は、ヒーターはついていても、クーラーはオプションだった。後にも先にも、新車は今乗っているジムニーだけだが、中古車は何台も買い換えた。展示場で見た中古車のフロントにクーラー付きと特記されていたので、そうとわかった。

今は、おそらくエアコンの名で標準装備されているのではなかろうか。現に、13年前のジムニーにもついている。

車は乗らない限りどうでもいいが、部屋はそうはいかない。そこで、この時期に登場するのが、扇風機である。昨年「火を噴く扇風機」で一躍有名になった扇風機と同型のものが手元にあるが、どうも心配でならない。小型消火器を傍に置いていても、生き物の世話やステレオ鑑賞などで、扇風機から離れること、しばしばである。その度に、スイッチを切ったり入れたりするのは面倒だ。忘れてしまうこともある。ガスコンロほどの危険はないにしても、心配は心配。

それで、例によって、ネット・オークションの世話になることになった。もともと、扇風機の構造は家電品の中でも最も簡単な一つで、モーターとスイッチがあとはメカだけ。故障の要素が皆無と言ってさしつかえない。20年や30年は楽に使える。

ならば、新品を買うまでもない。10年前に新製品だったものでも、あと10年は大丈夫。それから先はこっちが故障してしまいそうだ。

驚いた。

安いのである。その上、安いスタートでも落札者がなかなかでないのである。私は競争入札なしで、かなりの品物を手に入れることができた。

よ~く考えると、驚くことはないことがわかった。

東北の田園居住区などは真夏日でも、クーラーはいらない。扇風機で十分だ。長持ちするものだから、一度買えば、孫子の代まで、とまではいかなくても、買い替えの必要はそうそう多くない。

もう一つは、アスファルト・ジャングルでは、すでに扇風機では間に合わないほど暑くなってしまっている事実だ。中学の理科で習ったように、部屋の温度を下げる時は、同量のカロリーとその活動に必要な機械の発するカロリーが、屋外に放出される。伝導体は水かもしれないし空気かもしれない。いずれにしても、部屋を冷やせば、戸外が暑くなる。戸外が暑くなれば、完全断熱でないかぎり部屋にいくらかが還元される。仕方がないから、もっと強力に冷やそうとする。

神武景気以降、こんな繰り返しばかりしているから、もう扇風機では収拾がつかなくなった。政権を担当してきた政治家の一人として、「こりゃ大変だ」と騒ぐ者は出なかった。マス・コミだって同じだ。

記者:「クーラーが飛ぶように売れていますね」
店員:「売れていますよ、ウハウハ」
政府:「景気がいいのはいいことだ」

映画「野良犬」や「生きる」の中に見るうちわパタパタとまでは言わない。せめて、扇風機だけで、事が足りる環境であってほしい。電力消費量も30Wかそこらであるはず。

付の1.
当時でも高級車は標準装備であったでしょう。私は一瞥さえしなかったので想像です。

付の2.
田園居住区は、ある人に言わせるとジャングルだそうで。

漢人の度量 倭人の狭量

あいつはここが気に食わないが、ここはいい。
あいつはここはいいが、ここが気に食わない。

同じ対象でも、言い方で正反対の帰結をもたらす。前者は、「だからつきあう」、後者は「だからつきあわない」

日中戦争の時だったか、中国では、共産党と国民党が、手を組んで日本に向かった。内戦の相手同士が手を組んだ国共合作である。正史、実録、裏話、いろいろあって、どのような経過をたどって合作になったのかは、様々な見方があろう。それはどうでもいい。合作した事実があれば十分である。

この十分とは、漢人の度量の証明についてである。

倭人といえば、自民党と社会党が合作した時があった。この合作を度量と私は言わない。社会党が、残りの野党からツンボ桟敷におかれたのに腹を立てて、自民になびいいた事実を倭人の狭量という。社会党も狭量であれば、社会党をはじいた残りの野党も狭量であった。

今、政権争いの真っ只中。

官僚支配からの脱却が民主党一党でできるとは到底考えられない。半年もすれば、適当に丸め込まれるのが関の山だ。ここは、一つ、日本共産党に頑張ってもらって、組閣の一員に加わってもらいたい。

共産党のトップだったか、自分の党は、健全な野党としてぶれないで、これからも権力に対峙すると胸を張っていた。これだからいけない。現行の政治形態では、野党は外野席に座っているだけである。この点では、ブログでブツブツ小言を言っている誰かと同じである。違いは、マス・コミにちやほやされるか否かだけだ。

革命は先の話として大切に金庫にしまっておく。当面、あれもこれも譲歩に譲歩を重ねて、今度の政権の一翼を担うように努めてもらいたい。マス・コミからは非難轟々、文化人からは変節漢と言われる。しかし、選挙が終わったら、マス・コミから議員職を解かれることはない。世論で支持率が半減となったとしても、もともと数%の支持率だ。気にすることはない。

一方の民主党。共産党のイメージに拒絶反応を示してはならない。防衛大臣か外務大臣の椅子を用意したらいい。さもなければ、総務省もいいし、国交省もいい。

国家官僚が震え上がるような施策をするには、社民党が仲間というだけでは弱すぎる。

共産党が入閣すれば、多数の民主党議員が離反するって。それを、うまくなだめるのが、政治家の力量というもの。

倭人の狭量を痛いほど見てきた私は、これが並大抵の事業でないことを承知している。それでも、明治政府の残渣をクリーニングするために、日本の国共合作を願ってやまない。

付:
国家公務員上級試験一般試験、自衛隊幹部候補生と一般兵との先天的差別、こういう試験を廃止しなければ官僚組織の改革は実現しません。いずれブログで。

公金着服官僚 倫理観の今昔

先日、尺八の先生から頼まれていました、久米孝太郎のゆかりのお寺に行ってきました。久米孝太郎という人は、江戸幕府公認の敵討ちの最後の人です。明治以降は、リンチ禁止となっていますね。

アメリカのリンチが陪審員制度に移行し、日本の敵討ちが最高裁以下の司法制度に移行し、それぞれ役割をこなしてきました。なんで、その日本が、今になって陪審員制度もどきの真似なければいけないのか、ここでは繰り返しません。

さて、この敵討ち、原因は、藩の公金着服がバレそうになったので、着服人が、同僚にバレる前に同僚を殺してトンズラしたことから始まります。

私は敵討ちといったら、誰かの作品「怨讐の彼方に」しか知りません。他はとなると、せいぜい、囲碁の返り討ちくらいです。尺八の先生からいただいた資料によりますと、碁を打っている最中に、一刀を浴びせたということです。囲碁のファンなら、とりわけザル碁ファンなら、自分の大石の死活がかかった局面では、雷が鳴ろうが地震が来ようが、まったく気づきませんね。

このご両人の棋力はしりませんが、とにかく死活の読みにふけっていたのですから、殺す側は楽に殺すことができました。

碁石の死活どころか自分の死活に気がつかなかったのは、不覚であった、・・・と解説する人は、碁の面白さを知らない人。役所の方は、これをもって、向かってくる相手に刀の鞘にも手をかけず、おめおめと殺された。武士の川上に置けないだらしない者と汚名を着せ、俸禄取り上げの処置をしました。

まあ、ぐずぐず書くのもこの辺にしましょう。私が知らないだけで、皆さんはご承知かもしれませんし。なにか、堂々日本史にも登場したそうな。

私が、興味を持ったのは、公金着服が露見すると、切腹という決まりのことです。

お隣の大国では、経済犯が死刑になるそうで、あれまぁと驚いていましたら、わずか200年前の日本でも、同様な掟があったのですね。切腹が嫌で、日本のどこに逃げたとしても、とことん探し出され、処刑されたそうで、それほど、公金着服が厳しい処罰の対象であったとのことです。

今の日本、どうでしょう。

国家公務員はもとより、地方自治体の役場でも、隠し金を捻出し、それが見つかれなければ、「しめしめ」、見つかったら、「同額返済します、ご免ね」で終わりです。

切腹の処罰は、そうでもしなければ武士でさえ公金の誘惑に負ける、とも受け取れますし、公金であるからこそ、また武士であるからこそ、切腹を命じるとも受け取れます。

どちらにしても、公金の大切さは不動のものです。公務員試験が通れば誰でも公務員になれる。その試験だって、律や志とは無関係。およそ昔の武士と比べられません。

でもね、公金は江戸時代も平成時代も同じ民から出させた金でしょう。税金を払わなければ、民には公権力により重いペナルティーが科せられます。それに比べ、税金のちょろまかしが公権力側で行われた時のペナルティーは甘すぎると思いませんか。

付:
仇討ちをした孝太郎、尺八の名手だったそうです。

公金着服と仙台市長選

わが石巻市の市長の、1件数百円、千数百円のタクシーチケットを市税からくすねたことが大問題になった。合計金額は百万を超えなかったのではないか。バレたら、即刻同額(バレた分だけです)返済した。

その後、すぐに選挙があり、見事に落選した。4年任期の年収は、数千万円であろう。それと、名声だって馬鹿にならない。わずかなタクシー代のために棒に振った。

仙台市長がタクシー券をちょろまかした。これは、人口15万の石巻市と違って、百万都市が舞台だから、数百万にのぼった。それでも、本人は、どこでタクシー券を使ったかどうか記憶にないとの一点張りで、任期満了を迎えた。国家公務員出の彼が、それほど記憶力が悪いはずがないと誰も信じていなかった。

仙台市長選間際になって、坊主頭になった彼、それでみそぎを済ませたつもりだったのだろう、出馬すると意気込んでいた。届出日間近になって、とても再選は無理と断念した。

坊主頭はご愛嬌だ。今はだいぶ生えているだろうに。いっそのこと、坊さんになって娑婆の不徳を消滅させればいいものを。

さて、本題。

これで、仙台市長選は新人どうしの戦いになった。

結果は、全国ニュースで流れたとおり、タクシー券市長に反逆して副市長を辞めた候補者が圧倒的な支持で選ばれた。タクシー券市長に従っていたこれも副市長である候補者に大差をつけた。

ニュースでは、あまり報じていないが、当選者は、民主党と社民党のバック・アップがあった。一方、落選者側へ自民・公明は積極的に支援していなかった。

新人候補が数週間の選挙活動で、評価されるはずがない。当選したのは、次の与党が民主党と社民党の連合になると仙台市民が読んで、ならば、パイプを今のうちからしっかり、と算段したからである。

秋には県知事選が控えている。自民・公明に恩義を感じている村井知事は再選を狙っている。民主党は、猿でなければ候補者は誰でもかまわない。選挙戦の最中、総理大臣と幹事長、それに県の国会議員の数人が応援に駆けつけ中央とのパイプを訴えれば、村井現知事の落選は間違いない。

もともと、政治家のくせに、松下幸之助などという商人を尊敬している村井知事に一片の同情も湧かないが、選挙民の変わり身の早さにはいささかげんなりしている。

これが、民主主義だと言われれば、それまでだが。

付の1.
16万対6万。

付の2.
村井知事の恩義の篤さには、一市民の彼として敬意を表します。

民主党 今のところいい線だ

マニフェストに海上給油活動に対する姿勢が書かれていないと、与党をはじめ世間が騒いでいる。

これは、だんまりを決め込んだ民主党が賢い。外交は、何を言っても、その反対が出てくるものだ。内国問題であれば、選挙民がそこそこ実感をつかむことができるからいいようなもの、外交は相手があってのことだから、なにをどう評価したらいいのかさっぱりわからない。ああでもない、こうでもないと議論ばかり走るから、双方興奮するだけだ。

もちろん、そうさせることは、マス・コミの思惑であり、隙あらばと願っている形勢不利の自民・公明に利をもたらす。

外交は、政権を担うようになってから、じっくり自分たちの思うように処理していけばいい。

暖簾に腕押し。金持ち、喧嘩せず。

民主党はいい線を行っている。

地デジ 不吉な予感

日本人の社会は、連帯意識の上に成り立っているように思える。戦時中の隣組、江戸時代の長屋、これらがいい例である。この連帯、表の顔は相互扶助という美談の源泉だが、裏から見れば、相互監視というたいへん怖い代物である。

年功序列と終身雇用が崩壊する前の民間企業でなかなか悪事の内部告発がなかったのも連帯意識である。今に至っても、この美談の源泉は警察や司法組織、国家官僚や独立行政法人などに温存されていると私は疑っている。

さて、地デジ。正式名は長ったらしいし、正式名を名乗らせる程の価値がないので、地デジと称す。宮城の数千の世帯が、受信できないという報告がなされた。あるいは、数百だったかもしれない。いずれにしても、私の家は、この中のメンバーとしてカウントされているはずだ。

テレビが映らなくなれば、大問題となる。そこで、NHKや放送管轄省たる総務省は、共同視聴設備を特別にそういう地域に設けることにするという。タダではない。NHKの収入からなされるのなら構わないが、多分税金も使われるだろう。


NHKは受信契約をしない世帯を面倒は見ないという方針とのこと。これは当然である。異存はない。

不吉な予感はこれから先にある。

それは、電波発信設備の全額をNHKや役所が面倒をみるわけでなく、共同受信システムの導入にあたって、そこの地域になんぼかの分担を求めるのではないか。そこの世帯が100なら各戸百分の一、10世帯なら、十分の一となる。

私の地域は昨年まで3世帯だった。一人暮らしの高齢者が島を去ったので、今は2世帯。計3人。

単純に分担金は決めないとしても(50万円だから25万ずつなどでなく、最高額は設定されるだろう)、分担金は私ともう一軒の2世帯で負担しなければならない。

仮に20万円とする。私は受信契約をするつもりはない。電波が来なくて一向にかまわない。だから、「私は加わりません」と応じる。

すると、どうなるか。

お隣さんが分担金全額を負担することになる。島のほとんどは年金暮らしである。冠婚葬祭以外に万の金が動くことはまずない。

私は私の意志でNHKと契約しない。それが、隣人に大きな負担を強いることになる。もちろん、隣人はテレビなんかいらない、NHKは国策放送だなどという“異常”感覚であれば、万々歳で、「ざまぁ見やがれ」と啖呵の一つも私の口から出るところだが。

上から押し付けてくる連帯は、平民の弱みにつけ入る汚い連帯である。

私の不吉な予感は結構当たるから、今から心配だ。

麻生首相会見

相撲が終わって、6時のニュースが続くと思ったら、首相会見が出てきた。

これが最後の機会と思って、黙ってみていたら、挨拶もそこそこに、首相の会見から離れて、自民党総裁の宣伝に変わってきた。

NHKは、不偏不党の公共放送と自称してきた。そのNHKが、解散総選挙のために自民党のPRに尽くすとは、何ごとか。

NHKも私と同じ気持ちで、これが最後の機会として、麻生総裁に甘くしたとしたら、大問題である。こちらは、一高齢者、彼は、一国の総理大臣である。

今、6時18分、記者の質問を受けながら、さかんに民主党を攻撃している。

カット、カット!

NHKもカット、カット!

付の1.
22分まで続いた。民主党を名指しして、「~はどうなんだ」と詰めていました。こういうのを、欠席裁判と世間ではいいまして、もっとも卑劣な行為の一つです。普通の人がこういうことをしたら、以後、周りから相手にされません。

付の2.
麻生総理の政治談議は、景気一本でした。この人、本当に、選挙民はカネしか関心がないと思っているのですかね。

付の3.
NHKが同じ時間の22分間を民主党党首に与える予定があるのでしたら、私の早とちりを詫びます。

ついに地上デジタルの宣伝が始まった

テレビを見ていたら、右端からぬ~と若くて知性あふれる雰囲気の女性アナウンサーが現れた。笑顔で、2011年か12年かに、今の受信機では、テレビが見れなくなりますよと語りかけてくれた。

なぜ今の受信機のままではいけないのか、さっぱりわからない。そこを説明してもらえるかと終わりまで見ていたが、ムダであった。地上デジタルにはこれこれの機械が必要ですということの繰り返しに終始していた。

現行のNTSC方式が、デジダル方式に比べて精細度が劣っていることは認める。しかし、現行でも、比較しなければ、別に不満があるわけでない。きれいな物を横に置けば、天邪鬼でない限り、きれいな方がいいと言うに決まっている。

問題は、そのきれいさがどれほどの価値があるかである。今の受信機が産業廃棄物になる。数千万台に上るだろう。これの処理にどれだけのエネルギーが使われるのか。

新しい受信機を買うために、どれほどの金を用意しなければならないのか。その金を稼ぐために、余分に仕事をしなければならない。仕事をすれば、エネルギーが使われる。床屋さんが頭を刈っても、刈られる方の金は、どこかで物を作って、どこかに売っているのだ。

地上デジタルはエコに逆行している。NHKが心からエコを願っているのなら、放送時間の短縮を図るべきである。朝から晩までどころか、朝から翌日の夜明けまで、のべつまくなしに電波を放っていて、何がエコだと言いたい。

アナウンサーに私のお気に入りのメグ・ライアンを起用しても、ムダはムダ。

このムダが、景気回復に役立つというのだから、異様な経済システムである。

付の1.
地デジに移行した日が、このブログの終わりの日。それまで保てばの条件ですが。

付の2.
タダだからNHKを見ているだけで、金を掛けてまで、見るつもりはありません。

弱者 その2 苦労は買ってでもせよ

眼はかすんでくる、足腰は衰える、スルメのような硬いものは食べられない。こんなに老人になってからでは、苦労などのしをつけられても貰いたくない。まして、わざわざ買うなんて。

買ってでもせよと声を掛ける相手は、若い者である。

昨今の政治家やニュースを聞いていると、苦労すなわち不幸と言っているように聞こえてしまう。

足腰が達者な内は、どんどん苦労することだ。家がなかろうが、車がなかろうが、外国旅行ができなかろうが、まったく気にすることはない。

家がなければ、(大阪なら)橋の下を宿にすればいい。車がないから恋人ができないなんてウソである。心配はいらない。

苦労をしないまま総理大臣になったらどうなるか。それを、目の当たりにして、つくづくそう思った。

次の政権も、世論に押されて、バラマキをつづけるのではないかと心配している。補助金、助成金、一切カットすべし。政治家は政党助成金なしで選挙をするようになる、民は民でなんとか工夫して、生きていく。苦労が苦痛で自殺するのであれば、周りが苦労を不幸と、当人に吹き込むからである。

それがいけない。若い時の苦労は、買ってでもせよ。古人の言は常に真である。

付:
歳をとってから苦労するのがいやだったら、はしかと思って、若い時にしてしまいましょう。日本はこの点では、きわめて公平・平等な社会であります。

弱者 その1 経済的弱者

私は今の日本に経済的弱者は存在しないと思っている。そもそも、「経済的弱者」という表現に誤りがある。弱者という以上強者がいなければならない。普通、弱者と強者は、ある土俵で戦って始めて、そのどちらかに決まる。ただ漫然と傍から見ていて決めることはできない。

私は、「経済的」という土俵がどうしてもイメージできないでいる。

数億円の財産があり数千万円の年収がある者は大金持ちである。年中ピーピーしている者は貧乏人と呼ばれる。ここまではいいが、ならば、どこを境にして弱者と強者を仕分けるのか。これは、不可能な作業である。

もう一つ、こちらの方が大切なのであるが、貧乏人を無理に経済的「弱者」の範疇に入れたとしても、それが、その人の人生において弱者を意味していないことである。

大金持ちに向かって、「あなたは強者です」と言えば、まんざらでない顔が返ってくるかもしれない。しかし、貧乏人に向かって、「あなたは弱者です」と言ったら、相手は怒るだろう。あるいは、「そうだったのか。自分では気がつかなかった。社会のせいだ」と開き直るかもしれない。

一時、セーフティ・ネットが政治の場で語られた。セーフティ・ネットの趣旨は、「経済的弱者」の支援である。これを訴え続けた共産党や社民党が大いに勢力を伸ばすだが、そうはならないままでいる。

政治はカネが中心軸ではない。成人の8割が自分を幸福と思っている日本で、「経済的弱者」を味方につけても、議席はよくて2割である。現実もその通りになっている。

LDからCDへ 映画「Twister」

ヘレン・ハントが主演ということで手に入れた。

この女優は「恋愛小説家」でJ.ニコルソンに劣らないいい演技をしている。私がハントを気に入っているのは、大口でないからである。古くは、ソフィア・ローレン、今はジュリア・ロバーツ、どうして欧米の映画ファンは大きな口の女優が好きなのだろう。私は嫌いだ。

この映画では、ハントはただ竜巻のメカニズムの解明に挑戦する主役というだけで、演技に見るものはない。主役は題名そのままの竜巻であるから当然かもしれない。このLD,生涯二度と鑑賞することはなかろうと思いながら、行きがかりでコピーした。

今日、岡山かで強風で屋根が剥がされ、車が飛ばされたとニュースで報じた。

台風でなければ、竜巻に決まっている。誰が見ても、それ以外に考えられない。

それを、気象庁は4人もの役人を現地に派遣して、調査をするという。

竜巻のルート、被害状況、そこから推定できる竜巻の規模、等々、「検証」の材料に事欠かない。被害にあった人たちの心のケアと称して、別の役所か団体も参加するかもしれない。

何になる?

答え:

4人の役人は資料を役所に持ち帰る。それを、ああでもないこうでもないとパソコン相手に半年暮らす。次にどこで起きるか一言も言えない地震予知担当官とムダカネの双璧をなす。

役所を絞れば、10兆円や20兆円は簡単に捻出できるのは間違いないと思っている。

それに、NHKが被害者に「自然災害だから仕方がない」と言わせている。なるほど竜巻は自然現象の一つである。しかし、日本で毎年のように発生するようになったのは、先進諸国の人間による環境崩しが原因である。ここまで言わせないと、「明日では遅い、エコ」が泣くというものだ。

付:
たった今、7時のニュースを見た。気象役人が、「車が飛ばされたくらいだから、とても強い風が吹いたのでしょう」だってさ。

自民の分裂はありません

中川さんが麻生さんと直談判をしたそうな。その帰り際、「袂を分かつ」と多数のマイクに向かって表明することはありませんでした。一連の流れで、手打ちが行われたのです。

「麻生では戦えない」
「今更誰に替えても負け戦だ」
「ぶつぶつ」
「どうせ民主党は、転ぶ。待てば海路の日和ありだ」
「ごにゃごにゃ」
「選挙が終わったら、あんたの納得いくような人事をするよ」
「承知した」

仮に政策で相容れない、お互いに譲れない何かがあれば、分裂もあるでしょうが、自民党なんか政策よりカネと権力だけの政党。郵政民営化の賛成議員と反対議員が、共存共栄していることでわかります。

お坊ちゃんの人気がないだけの理由ですから、彼が降りれば、謀反の名分も消えてしまいます。

転ぶ前に官僚機構をぶっ壊してください。そのために、体を鍛えておいてください、民主党さん。

付の1.
上級試験合格の官僚に対抗するためには、インテリ風味議員ではだめです。政権をダッシュしたら、小沢さんを総理総裁にしましょう。検察の手が小沢さんに及ばないという条件ですが。そして鳩山さんと菅さんを左大臣・右大臣に据えましょう。

付の2.
自民・公明のデタラメ政治のツケが、今後4年間民主党政権に回されます。軽薄世論は薄情世論。覚悟はいいですか、民主さん。ま、政権が取れたらの話ですが。

熱暑対策

病人が日増しに弱っているのを見て、ニコニコ顔でいられる人は相当の人物である。

関東以南は梅雨が明けたという。明けたとたんに、猛暑に見舞われているという。わが宮城の小島は、今、晴れさえすれば、涼しい海風が心地よい季節である。

NHKの記者が、見ているだけでも暑くなるアスファルトの道路で、通行人にインタビューしていた。そして、暑さ対策の色々なグッズが紹介された。

頭に載せるなんとか、首に巻くなんとか、背中につける何とか、すべて新しい商品ばかりである。手ぬぐい、うちわ、下駄、ゆかた、越中ふんどし、等々日本の納涼伝統がまったく紹介されていない。これでは、新製品販売促進キャンペーンではないか。

NHKが公共放送という名を騙り企業宣伝に走るのは今に始まったことではない。問題は、件の記者がとてもハッピーな顔で、ピョンピョンと飛び跳ねるように活き活きしてこれらの商品を紹介していたことだ。

倭の国日本の猛暑は人災である。擬人化すれば、日本は高熱病に罹っている患者である。傍で、はしゃいでいる公共放送。

NHKには「相当の人物」が大勢いるに違いない。

猛暑日の更新

この所、私は更新続きで参っている。

銃砲等所持許可、ジムニーの車検、運転免許の更新、小型漁船の船舶許可、ウイルス対策ソフトの更新、面倒なことばかりである。犬の更新(狂犬病注射と鑑札)を皮切りに次々にヒマとカネが消耗されていく。

そうは言っても、個人の問題だから、私の一存でどうにでもなる。「や~めた」ですべてなくなるものばかりだから、気楽である。犬だけは、人間として生きた甲斐の証だから「や~めた」はないが。

猛暑日のニュースが連日のように流れている。3月の北海道で30度を超えたニュースを聞いたとき、これから、猛暑は異常扱いされずニュース・バリューがなくなるのではいかと思ったが、やはり、ニュースになっている。

大阪には申し訳ないが、夏の甲子園の猛暑は、ご愛嬌である。しかし、西日本ばかりか、関東の熊谷までが、40度近くになるのなら、これは、完全に日本がシンガポールの緯度まで下がったことを意味する。

シンガポールは数百年か数千年もの間、こういう猛暑に向かい合ってきたから、家屋、道路、河川、下水管理、みんな相応の対応をしている。だから、毎日、土砂降りのスコールが来ても、災害にならない。

こちら日本。春夏秋冬の季節は清少納言の時代から、可もなく不可もない、穏やかな気候で、和歌に詠えるような呑気さがあった。それが、シンガポールに移住したのだから、たまらない。

家は流される、川は氾濫する、下水は地表に溢れ出る、道路は寸断だ。

建築基準、河川基準(あるのかどうか知らない)など、これまでの基準は、もはや通用しない。早く、改定しないと、今後の事故は、すべて、「想定外」として処理されてしまう。

私は、「明日では遅い、エコ」なんて信じない。「今日でも手遅れ、エコ」

憲法改定案

先日、古い仲間が、新党ができたと教えてくれた。新聞に全紙広告がでたというので、その写真がメールに添付されていた。ごちゃごちゃ言わず、老人向けかしらないが、大きな文字で、「消費税はあり得ません」と「北朝鮮は許せません」と書かれていた。しばらくして、彼から憲法草案も送られてきた。

昨日のネット購入品のダンボールに、その新聞が入っていた。現物を見ると、さすがに迫力満点である。

この新党がどれほどの勢力を国会に占めるか、私は予測できない。日本人の8割がすでに幸福であるというのだから、いまから幸福を実現する党ですと言っても、それほど得票しないのではないかと、疑う程度である。

それでも、選挙間近というこの時期に至っても、既成政党が手をつけていない憲法草案を発表したのには、感心した。主張すべきは主張する、おおいによろし。

私も以前、改憲論者の一人として、草案をこのブログで述べたことがある。作っていくうちに、なんだか自分が総理大臣になったような気分になり、楽しくてならなかったことを、覚えている。私は誇大妄想狂である。

昨今、マニフェストなる言葉がはやっている。選挙公約のことと受け取っているが、どこの政党でもいいから、一つだけ憲法に入れてもらいたい条項がある。

 「金銭の貸し借りに利子をつけてはならない」

今のゼロ金利政策は、インチキである。真性の金利ゼロは、国債さえも金利をゼロにする。お金を通貨以外に用立てさせないためである。

付の1.
ガリバー旅行記に、金利ゼロの国ってあったかなぁ。

付の2.公約が廃れたのは、小泉さんが「公約なんか破ってもいい」と言ったためでしょうか。


河川の氾濫 河川環境管理財団

うさんくさい団体ほど、美名をつけたがるものだ。

先日、「水難事故マップ」なるものを、NHKが滔滔とまくしたてていた。何度もこの財団の名前を紹介していたので、よほど、効き薬をかがされたのだろう。

天下り先機関のような所だろうから、どうせロクなことしかやっていまいと思っていたら、その通り。

どこぞの河川のどこぞのポイントで、水死があった。ここのポイントは特に水死が多いとか、川に入るときは、何々い注意しましょうとか、とにかく、なんで財団だと呆れるばかり。

こんな情報は、消防庁でやればいいことだ。すでに、消防庁や警察役所で、充分把握しているはずである。安全な川遊びのことなら、小中学校の先生の方が、子供に対してずっと説得力がある。

河川管理は国交省の管轄ではなかったか。その間に「環境」を入れて、環境省まで巻き込もうとしているのか。

ふざけた名称に惹かれて、このホーム・ページを開いたら、財団法人となっていた。

こういう団体のドブさらいをしなければ、河川環境は改善されない。民主党政権の断行を期待する。


パソコンは老人に任せなさい

昔、どこかの複写機メーカーの会長が、子供にパソコンは不要、パソコンに向かう時間があったら外で遊ばせることだ、と言っていた。

パソコンメーカーが入札価格1円で学校に売り込んでいた頃の話である。1円で採算がとれる訳がないから、販売促進の意味と私は想像していた。

その1円作戦が功を奏したのか、今は、数学の授業にパソコンを導入する学校まで出現した。これは良くないことだと前に書いたが、数学に限らず、義務教育の教科すべてにわたって言えることと思っている。

体を動かさず、指先だけで結果を求める横着がいけない。

もしも私が小学生・中学生であったなら、絶対にパソコンは手にしない。こうしてキーを叩いているのは、私が、多少の横着なら許される老人であるからだ。

年金暮らしをしている高齢者のパソコンに向かっている時間は、毎日、2時間や3時間ではないのではないか。「カネはない、ヒマはある」グループの一人として確信できる。

話が飛ぶ。最近、官公庁や公的団体からの配布物が大分減っている。それでも、月に2回、どっさりと配られてくる。これらもすべてパソコンで原稿が書かれ、編集されていることだろう。「カネもある、ヒマもある」グループにパソコンを与えたからこうなるのである。

原稿用紙の升目に一つ一つ字を書くとなれば、むやみやたらに記事は増やせまい。

将来のある児童や現役役人は、パソコンを捨て、児童は原野山林へ、役人は民百姓の間に、向かうこと。足腰を鍛える方が、キー操作に慣れるより、ずっと将来の為になる。私が保証する。

良い社会と悪い社会  江戸時代の200年

物を自由に言えない、仕事を自分で選べない、住んでいる所から引っ越せない。こういう社会は、悪い社会と学校で習った。戦後の民主主義思想の賜物である。

本当にそうなのか。

江戸時代は、日光東照宮の猿が「見ざる、言わざる、聞かざる」と助言している通り、幕府に文句を言うことはご法度であった。士農工商の身分制度下で、親の仕事を継ぐばかり。「入り鉄砲に出女」の取り締まりと檀家制度で、住まいを移ることなど考えられない。

学校で習った尺度でみれば、たいへん悪い社会である。たいへん悪い社会でありながら、なぜ、200年も江戸時代が続いたのか。言論の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、これら3つすべて奪われた社会がなぜ200年も続いたのか。

秀吉、信長と戦乱が続いて、人心がなにより安定を望んだと日本史の先生は教えてくれた。人心の安定だけなら、せいぜい30年の平穏で充分なはず。その後は、「我ら民百姓に自由を」と政治運動が日本全国に起こってもよさそうなものだ。何しろ、当時の大多数は百姓だ。

そこで、私は、一つの仮説を立ててみた。

大衆は自由をそれほどありがたがっていない、という仮説である。

農民一揆は、食べるものがなくなったときに起こっている。「生かさず殺さず」に置かれても、なんとか食っていける間は暴動は起きない。これは、無知蒙昧とは違うと思う。オルグが宣教しても、食うに困らない限り、民は動こうとしなかったろう。

最下層の商においては、一揆どころか、支配階級の士に取り入ろうとして、政治献金に精を出していた。言論の不自由を苦痛に覚えることはなかった。

どんな社会でも、同時代人が悪いと感じなければ、その社会は悪い社会とは言えない。ヨーロッパの暗黒時代だって、あれだけ長く続いたのは、その時代の大衆が、悪い社会と感じていなかったからではないか。

これを、今の世界にも通用する仮説である。

不自由な国家がすなわち悪い国家であるというのは、普遍性に欠ける見方で一種の偏見であると思う。

付:
中国が経済発展をすればするほど、民主化運動が激しくなり共産党独裁が危うくなると論じている学者を知っています。私はそう思いません。貧富の差が生じても飢えさえなければ、共産党は安泰です。

囲碁と電脳ゲーム

昔大ヒットしたテレビ・ゲームの第4世代かが発売されたという。数日前のトップ・ニュースとなった。驚きである。例によって、「午前2時から並んでいました」、「今日買えて、感激です」と若者がNHKのカメラに語っていた。

本当に午前2時から並んだのか、検証したのだろうか。「感激」の語義を知っての上での発言だったのか。こんな話をここでするつもりはない。

話は、ゲームのバージョンである。初代から第4代。この間40年としても、1代10年である。わずか10年で飽きられたとの意味である。数千万台売れたようだが、その使い手のほとんどが飽きてしまったのだ。

こちら囲碁。

19歳で覚えてから、ほぼ半世紀。何事にも、すぐ飽きる私だが、囲碁ばかりは一向に飽きない。はやく、新バージョンを出してもらいたいと思ったこともない。

私の半世紀どころか、数千年の歴史がありながら、基本的なルールはまったく変わっていない。

電脳ゲームに夢中になっている若者に言いたい。あと10年すれば、今、午前2時から待って、感動して手に入れたゲームに飽きることを。私は、更に問う。その時、また午前2時に並ぶのか、感動するのか。

不易流行と人は言う。不易の代表が囲碁である。

付の1.
趣味は人それぞれ。もっと大切なニュースがあるものを、こんなニュースを優先したから、取り上げました。

付の2.
囲碁の流行は景気回復に寄与しません。楽しさと景気が無関係である証です。

付の3.
論語 雍也第六
知之者不如好之者、好之者不如樂之者。
負けても楽しくなれば、私の趣味は本物?

LDからDVDへ バッハ「マタイ受難曲」 ヘンデル「メサイア」 ハイドン「天地創造」

曲名からこれらがすべてキリスト教に由っていることがわかります。天地創造は、コンサート・ホールの収録で、残りは、僧院(教会)。荘厳さに圧倒されます。

尺八の先輩の話しですと、お寺の本堂で献奏すると、とても響きがいいそうです。同じ伝でしょうか。

ふと考えました。

こういう西洋音楽は、イスラムの人にも通じるのだろうかと。声楽のセリフは、みな、キリスト礼賛です。アーメンで終わる曲もあります。

仏教徒でない私でさえ、神は地上の支配権を人間に与えたという箇所になると、大いに、不愉快になります。

世界の誰もが認める音楽というのは、本当は存在しないのではないか、すばらしいと認める人がすばらしいと認めるだけで、そう認めない人には、どうでもいい話ではないか。

ここまでたどり着きましたら、続きがでてきました。

そもそも世界には共通の価値観は存在しないのではないかと。

アンコールワットの遺跡は、ある人たちにとっては貴重であっても、別の人たちにとっては、破壊すべき邪教の棲家であるかもしれません。

ピカソの絵を、私が貰っても、去年のカレンダー以上には扱わないと思います。私には、あってもなくてもかまわない物です。

シェイクスピアの戯曲より歌舞伎がいいという人はかなりいるはずです。シェイクスピアの作品を読まないまま一生を送る人は多いと思います。それで、何の不都合もありません。ある国の人には京劇があれば他はいらないかもしれません。

西洋音楽はなくても民謡だという人もいるでしょう。民謡も北海道に限るという人がいるかもしれません。

人と人の差だけではありません。一人の人間の生涯においても、価値観の一貫性は保証されていません。若い頃、オペラが好きでなかった私は、中年になって投影機とLDの出現で、好きになりました。ベートーベンの弦楽四重奏も、やはり中年になってからです。これは、個人の好みが歳によって変わるということでしょう。

平泉でしたか、世界遺産に登録できなくて地元応援団が、がっくりしたとありました。この世界遺産だって、観光客誘致の商売のためです。

人間の価値観に共通するものは何もない。この基盤に立って物事を測る方が、ずっとストレスがかかりません。いかがでしょうか。

付:
お金だけが世界共通の価値観に基づいて使われています。しかしこれは交換価値ですから、本題の価値ではありません。


哀れ、百合

私のいる島には山百合が自生している。百合は自生が自然であるから、生きていれば「自」は余計と思っていたら、大間違い。

今日のニュースで、どこかの研究所が、百合の市場拡大のために、匂いを抑えた百合を研究開発し、成功したとあった。その市場とは、病院や食堂など、匂いが嫌われる場所とのこと。

人の好みだから、匂いは、臭みともなれば、香りともなる。しかし、百合は匂いが命。あの強烈な自己主張の匂いが消されたら、造花と変わらない。

研究所の部屋が映されていた。化学実験室のようで、まったく無機質な空間であった。どれほどの人と金がこの開発に注がれたのか、これによって、どれほど利益があるのか、私は知らない。

はっきりしているのは、この匂い抑えの成功が愚かであること、そして、現在のバイオ科学が、すでに爛熟期をすぎて腐敗期に入っているということである。無論、臓器移植技術もその一つである。

百合は、山や野でひっそりと咲いてくれれば、それが何よりである。

付の1.
つまらない成功をニュースにとりあげたNHKの感覚を疑います。

付の2.
しばらくすると山百合の香りが台所に漂う季節に入ります。その時は、どこを散歩しても、山百合の香りが漂います。

議員は必要か

都議選で民主党が圧勝した。定員が決められているから、どこかの政党が議席を増やせば、どこかの政党の議席が減る。

これが私には納得できない。

ニュースによれば、告示3日前に候補者を選んで、それが当選した。民主党の公認候補である。

都民がいかに眼力があったとしても、20日やそこらで、新人候補者の人となりや政治能力を見極めるのは無理である。それが当選したのは、民主党に属していたからだけのことである。

選挙民の票は、人間でなく党に入れたのだ。ならば、なんで、高い人件費を払ってまで議員を作らなければならないのか。

企業には株主がいる。1株でも100万株でも、株主は一人は一人。株主はその持ち株の多少で発言権の強弱が決められている。合理的である。

政治の世界だって、これができるはずである。

小泉チルドレンが誕生した時、なんであんなシロウトに税金を使うのか腹が立った。今回も、似たような事態となった。

政策や主義を私はここで云々しない。議員への人件費がもったいないといいたいのだ。

大分前に、政党は党首だけでいい、得票数に応じた予算が割り当てられ、その中で党首は議員を選ぶのもよし、他に使うのもよし、とこのブログで書いたように覚えている。

議会制民主主義のほころびに眼を向ける時期にきている。

付の1.
国会の予算委員会。発言者と答弁者は数人。残りは外野席でただ座っているだけ。まあ、ヤジくらいは出すでしょうが、無駄に見えて仕方がありません。

付の2.
政治にカネがかかるのでなく、選挙にカネがかかるのではないかと今でも疑っています。得票数に応じた配分金となれば、今の経費の100分の1に収まるでしょう。

付の3.
年寄りはくどい。繰り返しになりますが、老い故と免じてください。

社会に出て役に立つ 数学65% 国語80%

文部科学省による全国学力・学習状況調査で得られた数字ということである。

対象は中学3年生。

そもそも、義務教育に社会に出て役に立つか立たないかを問いかけてはいけない。これが間違っている。役に立たないから登校しませんで済めば義務教育でなくなるから、矛盾しているのだ。

社会に役に立つか立たないかは、学問ではない。その人間である。学問が役に立つかは、学問自体にはない。その学問を必要としている立場の人にとって役に立つだけである。

それを、きちんと区別しないまま、中学生に向かって調査表を与えるのだから、中学生の方でも、漠然としたイメージで、回答する。その結果が65%であり80%である。「だからどうなんだ」と言われても、文部科学省は答えに窮するだろう。

前に数学を知らなくても金勘定に困らなければそれでいいとこのブログに書いたように記憶している。数学を役に立つか立たないかの視点で見てはいけないからそう書いたのである。

数学は、ただ一つの解が得られるまで自分の頭を使わなければならないというだけで立派に意義がある。必ず解が得られるという保証があるのだ。

頭を使うだけでは正解が得られないのが実社会。どれが正解かも分からないのも実社会。そこで役に立つかどうかなんて、質問自体が間違っている。

文部科学省に言う、中学生の意見を調査するカネとヒマがあったら、予算返上と人員削減に努めなさいと。

付:
これは、前回のブログの新聞記事の一部です。

教育ルネッサンス ゲーム通じ数学体感

ある大手家電メーカーがパソコンを無償提供し、それを使って数学の授業を行っている教室の紹介があった。

対象は中学生。一次関数、二次関数、三角関数などが、キーを叩くだけで、キャラクターがディスプレイに現れる。これで、生徒が楽しみながら数学の勉強ができると紹介されていた。

あきれた。

数学は紙と鉛筆だからこそ面白いのである。紙と鉛筆でこれほど面白い世界が開けるものかと驚くところに数学の意義がある。

解を得るまで、何回数字を書くことか。何回小文字のx、y、zを書くことか。直線、曲線、サインカーブ、みんな鉛筆で描くから面白いのである。

それを、キーをカタカタ叩いて、キャラクターを呼び出し、それに一切を任せるとは何事か。

これを教育ルネッサンスというのなら、ルネッサンス以前の中世に戻るほうが、ずっとマシだ。

紙と鉛筆文化は、廃れに廃れた。社会に出れば、先ず、この文化と接する機会はなかろう。せめて、中学の3年間くらいは、パソコンなど触らずに、紙と鉛筆に親しんでもらいたい。

この授業を受けた生徒の多くが、今後もこうした授業を受けたいと回答し、家電メーカーを喜ばせた。青田刈り販売促進の一環として成功した証だ。

多くとあるから、全員ではない。残りの生徒は、こういう数学の授業に疑問を呈したはずだ。残念ながら、この方は、記事にでていない。

「数学の授業で外部の団体の支援をいただくのは始めての経験」と実行にあたった教諭が誇らしげに語った。

生徒の多数の賛成があっても、パソコンの提供があっても、数学は紙と鉛筆。これでなければいけない。

付:
2008年10月1日付け大手新聞の朝刊です。

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