老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

仕事減らすな、人増やせ  駅の改札係り

昨年、大都会に出たとき、驚いたのが、改札口の入り口で、切符がす~と吸い込まれたこどである。仙台から大宮までは新幹線を利用する。2枚の切符。どうしたものかと思案していたら、二枚一度に入れて構わないと、駅員が言ってくれた。

昔、プリント配線板工場で厚膜印刷のラインで現場作業したことがあった。その時、1枚1枚送られるべきが、2枚重ねてラインに乗ることがある。稀でしかないが、後処理が大変で大きなトラブルの一つであった。

こういうトラウマから抜けきれないまま電車のない島に来てしまったから、2枚の切符を持ったまま改札口で立ちすくんでも、老人ボケの兆候とは言われないはずだ。

今年の大都会は、もっと驚いた。改札口で、みんな、カードのようなものを、ペタンペタンと入り口で押し付けているのだ。次から次へとペタンペタン。それでスタスタ通り抜けていく。あっけにとられた。

私は、考えた。

なんでこんな機械があるのかを。一昔かふた昔前、日本中が省力化ムードに舞いあがっていた。その流れが今も続いているのか。

改札係り員が、ゲートに立っていて、切符を切る。乗り換えがわからない人や、行き先のプラット・ホームを確かめたい人などの質問に応えて、きちんと教えてくれる。

改札係員は、毎日同じ仕事をして、定年を迎える。高級ワインが飲めるほどの月給でないだろう。でもそれでいいではないか。芭蕉が船頭を見て、船の上に生涯を浮かべるのも、また旅人なりと決めた前例もある。

頭を使うのが得意な人間もいれば、体を使うのが得意な人間もいる。新しいことに興味がある人間もいれば、同じことの繰り返しが性に合っている人間もいる。

ロボットや機械が、人間以上に働いてくれるからといって、その仕事から人間を排除するのは、社会としていい姿ではない。

人は、ハイテクの利点は人減らしにあると言う。私は、ハイテクの弊害は人減らしにあると言う。


仕事増やすな、人減らせ 観光調査

まあ、お役所という所は、実にヒマな組織ですな。

観光局とやらができたことは、うわさで知っていましたが、どうせ旅行会社のお先棒くらいとしか想像していませんでした。

想像通りでした。

この前、テレビで、観光調査が実施されたことが報道されました。

若い女性の公務員が、観光地に来ていた観光客に、面接調査をしているシーンです。面接員の中は、定年間際の男の人もいるでしょうに、彼ではテレビ映りが悪いとディレクターが思ったのでしょうね。

どのようなアンケートをとったのか、その全項目を私は知りません。以下は想像です。

どこの県から来ましたか
何泊しますか
交通手段は、飛行機・新幹線・在来線・船・自家用車・ヒッチハイク・徒歩、その他、のどれですか。
宿泊はホテル・旅館・民宿・野宿・その他、のどれですか。
予算はどの位ですか。ゼロ、1万円、3万円、5万円、10万円、百万円、それ以上。
この地は何度目ですか。初めて、2度目、5度目、10度目、それ以上。
年に何回、こうした旅行をしますか。生まれて初めて、1回、5回、10回、それ以上。
他に旅行した県はどこですか。1都2府1道、何十かの県が書かれていて、○をつける。
年齢は、10代、20代、以下80代、90代以上。
職業は、国家公務員、地方公務員、天下り先機関の職員、会社員、~フリーター兼国会議員、などから○をつける。
ここを選んだ理由は。あれこれごちゃごちゃ書かれているのに○をつける。
またここに来たいですか。はい、いいえ。
その理由は。あれこれごちゃごちゃ書かれているのに○をつける。
海外旅行はしましたか。

まだまだ、ヒマにまかせて私はいくらでも項目を追加できますが、こうしてキーを叩いているうちにバカバカしくなってしまいました。それで、ここいらで止めます。

役所の談話が奮っています。これまで、こうした観光に関するデータがなかった、というのです。

旅行をする側の国民にどんな役になると思います?宮城県から宮崎県に何人が旅行しようが、いくら使おうがまったく他人事。旅に出たければ、民間旅行会社に連絡すれば、それで充分以上の情報が手に入ります。なにも、観光役人に頼ることはありません。

すべて、統計というものは、要因が増えれば増えるほど、アウトプットを幾何級数的に増やすことができます。私の想像した中の5個だけでも、観光役人の10人やそこらが一年間、パソコンで遊べますよ。

それに飽きてくると次は、季節を加えるでしょう。今回は初夏に実施した。次回は、秋だ、いや、それでは不十分・不公平だ、冬の沖縄のデータがない、夏の北海道は、どうだ。ならば、いっそ通年で、各月のデータを取りましょう、という具合に、統計作業は、限りなく、税金が与えられている限り、肥大化していきます。

役所と冒頭に書きましたが、正しくは、無役所なのです。末尾で訂正させていただきます。

あっ。それと、いずれ立派な観光白書が政府刊行物の仲間入りします。

付の1.
性別の項目はありますが、これは、調査員が書きます。聞いたらおかしなことになります。そういえば、中学で、アイ アム ア ボーイ、ユウ アー ア ガール、ってありましたね。不思議でした。

付の2.
これと同じ穴に入っているのが地震予知役人です。岩手・宮城内陸地震から早や一年。これの予知をしましたかね。次はどこですか、教えてください。「予め知る」ことができるから、税金が渡されているのでしょうが。

付の3.
観光白書がすでにあるかもしれません。なくてもいい白物(代物)です。

政治家の今と昔  ガタガタ自民党で想う

自民党のうろたえ振りは、日本の支配階級の歴史で初めてのことではないか。

明治までは、政治は一部の人間だけで祭られていた。この一部は、豪族・貴族であったり武士であったりしたが、一度たりとも、町方・百姓であったことはない。

為政者は、程度の差こそあれ、それぞれ志を持っていた。町方・百姓から搾取しているから、食うに困らない。失業の心配もない。論語を読むことも、武芸の稽古も、思う存分できた。衣食足りて「志」である。

ここでは、搾取を問題にしない。

今日の日本における為政者を問題にする。

というほどの大げさなものではない。自民党の周章狼狽が、彼らの為政者である資格の欠落を示していると言いたいだけである。

落選が気になってしかたがない。言ってみれば、クビ切りにおびえて日々の仕事が手につかない無能サラリーマンである。

地元の後援会に絶対的自信をもっている議員は、もはや、自民党内で、多数を占めているといえなくなっている。

己の信念に添わないといって、切腹するような根性のひとかけらもない議員が大多数をしめているのではないか。

彼らは、町方・百姓である。選ぶ大衆が町方・百姓であっても、一度国会議員のバッジを胸につけたら、昔の貴族や武士と同じように「志」も同時につけなければならない。

議員報酬や諸々の特権、そして、政治を祭る権限を思えば、まさに支配する側にいるのだから。

付:
加藤紘一という先生が、自民に謀反をするといきまいたことがありました。家来が、ここまできたら潔く行動に出ようと泣いて先生に詰め寄りました。言うだけで、土壇場で行動をしない。こんなのが、支配階級にまだ居座れていることが不思議です。町方政治家の見本です。

リニアー電車 東京―名古屋間45分

国鉄時代に構想が出たとのこと。親方日の丸と国鉄が言われていた時代だから、採算など度外視して、研究に勤しんだ。

その成果として、いよいよ、どこを走らせるか、決めなければならない時期に来たという。

長野県が私の県を使ってくださいと、国鉄に頼んでいる。地図を見たら、半円周である。円周は、直径の3.14倍だから、ほぼ1.5倍の距離になる。高速をうたい文句にしているリニアーが通るはずがない。

昔々の自民党代議士が、腕に物を言わせ、新幹線の駅を自県に開かせたようだが、今の自民党に、もはや、そんな腕っ節の強い先生はいない。

合理性を優先するはずだ。建設するなら、最短距離である直線ルートである。問題は、「建設するなら」にある。

長野県知事は鉄道建設の経済波及効果を訴えたが、気の遠くなるような金額の鉄道建設に、長野ならずとも、魅力を感じるはずだ。

これがいけない。

第一に、45分でどれほど時間が短縮されるか知らないが、一体誰が短縮に感謝するだろう。少し前は、テレビ電話だ、テレビ会議だとか、情報関連企業と通産省が騒いでいたではないか。

私は、遠隔テレビ会議なんか、止むを得ない場合以外は、絶対に使われないと確信していたから、業界の儲け話としてしか受け止めていなかった。

今回は直に会議や面談ができるメリットを認めるが、それで45分が正当化されるとは考えない。1時間30分で、不都合がないからである。

緊急時のため? ましな理由が出尽くすと、必ずこれが最後に出てくる。ならば、45分でなく、ロケットで15分にしたらいいではないか。バカバカしい。

第二に、一度、鉄道が敷かれると、日本国がそこで分断される。この不利益が考慮されていない。これが問題である。新幹線や高速道路で分かるとおり、地面を柵で囲えば、その両側は行き来不能となる。リニア賛同者らは、気がつかないのだろうか。無視しているのだろうか。

第三は、コンコルドの顛末を前車の轍にしていないことである。コンコルドは、特に事故が多発したから引退したのではない。飛行場周辺の騒音で住民に迷惑がかかったらではない。採算が取れなかったからだ。

特別料金を払ってまで、そんなに早くパリとニューヨークを行き来する必要、ロンドンとシンガポールを行き来する必要、これを世界の通貨が認めなかったのである。

そして、今。コンコルドは飛んでいない。飛ぶ鳥、後を濁さず。偉い。

リニアはどうか。高額リニアに社員を乗せないと、企業が考えたらどうなるか。国会議員と天下り特別行政法人の役員・職員、地方自治体の税金受給者、こんな所しか、乗らなくなってしまう。当然、赤字だ。赤字は困るというので、国会議員ばかりか、官公庁の局長以下、平職まで、動員される。

リニア会社は、これでも青息吐息、始末に終えない。かつ、税金がこのブラック・ホールに永遠に吸い込まれていく。その時になって決まって担当者から出る言葉は、「需要予測に甘さがありました、すいません」。

反省しても、遅すぎる。

なぜ遅いかといえば、コンコルドは、後を濁さなかったが、リニアは、膨大な建設費を掛けたリニア鉄道が残るからである。これを、再び、柵を除いて、平地に戻すとなれば、ケインズ氏でさえ、「オレはそこまで一般理論では言っていないよ」と天国で苦笑するはずだ。

柵を作れば、人間や車を通れなくなるだけではない。イノシシやタヌキ、日本オオカミ(これは絶滅したか)、カエル、およそ地を行く生き物のすべてが、不自由になる。

これこそ、私がリニアに反対する最大の理由である。一度線路を作れば、取り返しがつかないリニア。NHKあたりで、反対キャンペーンを張ってくれないものか。

付:
戦争が起きない前提の自衛隊と同じで、賛成派も、心の底ではリニアの計画倒れが分かっています。机上の空論をヒマに任せて楽しんでいる、それで、結構、生活していけるのだから、いい身分です。

経済封鎖は何のため

二人の兄が戦争末期に徴兵された。訓練を受けているうちに敗戦となり、復員してきた。前線からでないので、復員と言えないかもしれないが、とにかく、無事に帰ってきた。

その時、行くときは隣組の寄せ書きで埋まっていた日章旗一枚だけだったものが、帰りには、鉄兜と数枚の毛布など背中と両手が一杯になていた。

驚いたのは、その毛布の厚さである。終戦間近な民間人の普通の家庭では、とても手に入らないような立派な毛布であった。鉄兜の鉄の厚みにも驚いた。

兄の話では、車の運転できる者は、トラックを持って帰ったという。軍隊の組織が消滅したから、法律や規則は無意味となり、手当たり次第だったそうだ。えばりちらしていた上官を袋叩きにしたとことも聞いた。

もう一つが、徴兵仲間の写真。数十人の仮装大会である。ほとんどがふんどし姿の土人である。当時、子供の私は、南洋で戦う日本兵だから、そういう仮装が当然と思っていた。顔は炭を塗っていたから、兄をその中から探すのが大変だった。今、思えば、カルナバルのような衣装を身に着ける予算がなかったに相違ない。

戦時下の国家では、なにより軍隊を優先する。戦争で負けたら、これまでの費用がまったくムダになるから、しかたがない。何割かの国民が飢えようが死のうが、おかまいなし、これが戦争である。負けたら、戦費どころか、奴隷扱いや賠償金まで心配しなければならない。

現在、国連中心に実施されている数カ国に対する経済封鎖。

私は、これが、その国の為政者や軍隊に少しの影響もないとはっきり断言できる。経済封鎖が行われている庶民の生活が苦しくなっているばかりである。インフレ、物資の不足、医療・教育などの遅れ、こういう“効果”だけが現れている。

マスメディアの報道では、庶民の苦しみを日夜、私たちに伝えているが、その責任が、あたかも為政者、おおくは独裁者と紹介されているが、にあると言わんばかりである。

経済封鎖があろうがなかろうが、軍事優先国家は、軍事費を削らない。経済封鎖という締め付けが厳しくなればなるほど、緊張感から、軍事費を増大させていく。むろん、そのために、民生への財政配分が犠牲になる。

私は、経済封鎖は、世界という社会の村八分であると考えている。

石油を自由に売らせればいいではないか。
中古自転車を自由に買わせればいいではないか。
せっせと貯めた金を自由に使わせればいいではない。

仮想敵を愛してやまない愛国政治家や軍需産業はともかく、われわれ庶民は、経済封鎖が、それにより苦しめられるのは対象国のわれらと同じ庶民であることを認識しなければならない。

有害無益な経済封鎖に、国連の場で反対を訴えるべきである。

付:
軍より民を重んじる国には効果があります。しかし、そうでない国家には、そうでないと言いたいのです。

国会議員が決めていいのか、臓器移植法案

衆議院で臓器移植改正案が可決されたという。改めることにはちがいないが、それが、正しく改められたか悪い方に改められたのか、怪しい限りの法案である。それでも、世間は、「改正」と言う。

臓器移植は、生命の根幹に係わる問題で、悩み始めたら切りがない。だれもが、自分の考えを正しいと主張できるし、他者の意見を誤りと非難できる。正解のない問題だからだ。

正解のない問題は、問題自体に問題がある、だから、問題そのものを抹消しなければ、永遠に解決しない。この手法は、このブログで幾度も繰り返し書いてきた。

今回は、法案の性格上、党拘束はしないとし、自民も民主も議員の自由意志に任せた。チラとしか映らなかったので確かではないが、麻生総理と鳩山代表は反対したようだ。

A案からD案まですべての趣旨が臓器移植を日本国内で行うための緩和策であるのだから、すべてに反対すべきものである。両党のトップがすべてに反対した上での反対であったかどうかを、私は知らない。しかし、反対したという事実は、事実として、かれら両人の賢明さを評価する。

問題はこれからである。

われわれが選挙で国会議員を選ぶのは、政治家を選ぶことであって、倫理・哲学・宗教等々、要するに生命に関する価値観まで一任したわけではない。

こういう問題を政治家の判断に任せること自体がとんでもない間違いである。

私は、あらゆる法律は、年度の末に、全選挙民にその賛否を問うべしとの考えできた。たとえ国会で通っても、3年前、4年前に選ばれた国会議員に全権委任するわけにはいかないからである。

まして、このように人間レベルからさらに一段上の地球レベルの問題においては、国民のチェックが絶対に必要である。

私は、国民大衆が、どこまで生死観と経済観を峻別しているか、彼らの見識をまったく信用していない。

できれば、日本人の大多数が従う精神的指導者がいて、その指導者に賢明な指示をしてもらいたい。そういう人物は、政治家からは生まれてこない。スポーツ選手や芸能タレントは言わずもがな。わずかな望みは宗教関係者であるが、あまりにもおとなし過ぎるし、無気力である。できればといいながらも、私はできないものとあきらめている。

だから、次善の策として、国民大衆の判断を提案している。政治家に任せるより、いくらかは「まし」なはずだからだ。

価値観の多様性 その2 同性結婚

私は、価値観については、人それぞれでいいと思っている。

人が自分の価値観と違っていても、それが、私の価値観になんら影響を及ぼさない限りであるが。

かなり前から引っかかっているものがある。他国のことだから、どうでもいいはずが、気になってしかたがない。

このブログで、吐き出してしまわなければ、腹が膨ってしかたがない。

アメリカのどこかの州で、同性結婚を認めるか認めないかが投票や裁判の対象になっているということである。

私に言わせれば、こんな事を話題にするだけでも、けがらわしい。人間は生き物の一つである。種の保存は、生き物の必然であり宿命であり、結婚は家庭をもたらし、家庭は、人間という種の存続を約束する。

同性結婚は、この根本を否定する。人間以外の生き物では、考えられない行為である。子供ができなくてもかまわない、養子を取ればいい、これは、事の本質をゆがめる考えである。

同性結婚を話題にするアメリカの文化に、私は、精神活動の爛熟・腐敗を見ないわけにはいかない。

アメリカの州、1州でも小さな国の数個に当たるアメリカが、まじめにこんなバカを議論していては、他国の文化・文明に向かって何を言っても、まともに聞き入れられないだろう。

政治形態が違うといって、他国を非難し続けるアメリカ。他国の人権を重んじるアメリカ。人権の前に、生き物としての責任があろうに。

付:
地球レベルの問題では、「人それぞれ」であってはならないことがあります。大気汚染もその一つです。

価値観の多様性 その1 国連の村八分

世界史の年表では、ある体制や制度から別の体制や制度に変わる時代が、斜線となって示されている。

世界中の国や地域が同時に産業革命に入ったわけでない。一度に封建制度から王制になったわけではない。それぞれの国や地域が、それぞれの価値観によって、早い・遅いがある。

これが自然である。世界同時共産革命は、いまだ成らずである。ならないのが自然である。

私は、民主主義国家が国としての最終的理想形体とは思っていない。まだまだ先があると考えている。「今の時代でにおいて」という限定版で民主主義は最善の社会形態であるというのが私の持論である。今の日本はそのお手本のようなものでありがたいことである。

しかしである。

だからといって、そうでない国を非難することは、良くないことと思う。まして、世界中の国や地域の寄り合い世帯である国連が、仲間を募って、そうでない国をいびるのは、決して好ましい姿ではない。

独裁国家があってもいいではないか。
軍事国家があってもいいではないか。
発言の自由がない国があってもいいではないか。
テレビや自動車の輸出より、夜毎のダンスの方を大切にする国があってもいいではないか。
字が読めない人が大勢いる国があってもいいではないか。

唯一の条件は、他国に侵略しないということである。軍事費がいくらあろうと、それを脅威に感じる国もあれば、感じない国もある。

国連至上主義者は、この点で、大変な誤りを犯している。

己が属する集団の価値観を押し付ける限り、昔の村八分となんら違いがない。

多数を誇る集団に属して、少数を攻撃する今の麻生政権に多様性を望んでも無理である。次期政権はこういう狭量の見本を真似てほしくない。切に願う。

戦争でもっとも大切なこと 名将 昭和天皇

昔、原爆2発が戦争終結を早めたと語った大臣が失言扱いされ、大臣をクビになった。早まったのは事実である。耳に聞こえが悪いだけで、正しい考えである。しかし、大臣が、「だから、原爆を落としたアメリカさんに感謝したい」と付け足したのだったら、間違いである。

戦争終結を決断したのは、昭和天皇である。1億臣民は、まだまだ戦意が残っていた。意気軒昂と言ってもいい。

私の家では、終戦直前に兄二人が赤紙で徴兵された。残った家族は、竹槍で戦うのだと、6歳かそこらの子供の私に話していた。飛行機や戦艦の絵に、新しく、蛸壺が加わった事を今でも覚えている。敵の戦車が蛸壺の上を通り過ぎたら、すぐに後ろから爆弾を投げつけるという絵である。

竹槍や蛸壺がどれほど有効であるか、どれほど非力であるかを言うのは、事後の知恵者である。当時は、鬼畜英米を征伐する信念が日本人のすべてに宿っていた。すべては語弊があるかもしれないが、表立って戦争に反対した人達はすべて拷問されて死んだか牢屋の中か、あるいは、じっと沈黙していたかのいずれかである。少なくとも、私の町の隣組の一人として、「もう、いい加減に戦争は終わりとしませんか」とは言わなかった。敗戦が告げられて、「実は、私は戦争反対だった」などという、大臣を辞めてから官僚の傲慢さを非難した塩じいのような卑劣な人間は、いなかった。

そもそも、戦争は始めるのは簡単である。勝ち戦さを終わらせるのも簡単である。戦争で最もその手腕を問われるのが、敗軍の将である。

昭和天皇は、この一点だけでも、万軍の将の資格をもたれておられる。

付の1.
世間は、なぜ開戦したのかが中心となって、検証やら反省がなされています。「戦争は二度と起こしません」などは好例です。上っ面です。

付の2.
戦後処理の困難はイラクでも示されています。開戦は簡単でしたね。

付の3.
朝鮮も同様です。アメリカのためらいは終戦処理の工程表が、今のところ、アメリカに有利でないことを示しているからです。

国立大学 その3 法人化 大学は企業か

これほど驚いたことはない。

うっすらと法人化の事は聞いていたが、新聞を見たら、「国立大学の運営、『不十分』指摘も」とあり、小見出しで、「法人化後初の評価」が添えられていた。

文部科学省の国立大学法人評価委員会が評価したという。

大学は時の政治に係りなく、独立していなければいけない。そうでなければ、御用商人となんの違いもなくなってしまう。まして、官僚や官僚の御用団体が、口出しする所ではない。

何を錯覚したのか、口出しどころか、“評価”するという。これでは、大学の教授連は、お上の言うまま、唯々諾々と学問に励まなければならなくなる。にらまれれば(体裁は評価という美辞)、お金がもらえなくなるから、しかたがない。

これにとどまらず、時の権力者におもねる教授ばかりが幅をきかすようになる。

これで、学問の独立が守られるわけがない。学問の独立がなければ、大学の名を返上して、職業訓練学校に改める必要がある。

知らなかったのは私ばかりかも知れないが、私自身のメモであるこのブログに評価項目を書き写して、後の参考とする。

○評価項目
教育や研究
業務運営
財務内容など、7項目。

○評価段階
   非常に優れている
   良好
   おおむね良好
   不十分
   重大な改善事項がある。

「教育や研究」を新製品開発、市場調査などと言い換えれば、民間企業の評価となんら違いがないではないか。

評価項目の残りは書かれていなかったが、財務内容が含まれているだけで、この評価が学問と無関係であることがわかる。無関係どころか有害といってよい。

いつから法人になったのか知らないが、経済大国を標榜する日本、次期政権は、「金は出すが口は出さない」をせめて国立大学に適用してほしい。このまま文部科学省を野放図にしておくと、ほんとに町方国家になってしまう。くわばら、くわばら。

付:
2009年3月27日付けの大手新聞朝刊です。

国立大学 その2 奨学金は納税のためか

月額5万円という。これでは、年間授業料50万円のために10か月分の奨学金が消えてしまう。無利子とはいえ、国(文部科学省の役人ら)が取り立て額を決めて、その分を青年男女に貸し付ける、言ってみれば、マッチポンプの大学編である。

またまた、半世紀前との比較である。

当時、奨学金は2千円であった。6千円の授業料は3ヶ月でよかった。日当300円の時代だから、2千円は結構な額だ。奨学金が下りた日は、親しい友と連れ立って東京神田の本屋街に行き、数冊の本を買い、夜には神田や新宿の安い飲み屋で、酒を飲む。奨学金を受けるのが普通であったから、みんな等しく、気が大きくなり、天下国家を論じたものだ。

今は5万円也。金額そのものは、この位のゆとりはあると想像する。しかし、たぶん、今の学生は、私たちの世代がしたようなことはしていないのではないかと思う。授業料が重くのしかかっている。新築マンションに入ったはいいが、毎月のローンに四苦八苦している安月給取りと同じ心境であるはずだ。払えなければ、立ち退きが待っている!

奨学金の額は、今の貨幣価値と昔のそれと比較しても、劣っているとは思えない。劣っているのは、年間授業料を50万円と設定した文部科学省の役人である。

付の1.
ここでも、なぜ国立大学があるのかは論じません。

付の2.
奨学金の額をこれだけ上げているから、授業料は高くても良いという理屈はありません。

付の3.
今でも、国民年金は学生にも納めさせているのでしょうか。そうであれば、日本は、ケチな根性の国です。

国立大学 その1 高すぎる授業料

明治政府の富国強兵策の一環として作られた帝國大學が、今、国立大学の中心となって、相変わらず、国家高級官僚の補給の役に努めている。

この是非は、すでに何回が書いているから、ここでは、取り上げない。

私が小学校の頃、よく親から貧乏な家の頭のいい子は、男の子なら陸軍学校へ、女の子は、師範学校と聞かされた。陸軍学校が正しい呼称かどうか知らない。師範学校という名は、はっきり覚えている。なぜなら、姉がそこを卒業してから、小学校の教師になったからである。親の自慢話として繰り返し聞かされた。

わが日本国は、オネスト麻生が自慢している経済大国である。地球上の数ある国の中でも、貧乏からもっとも縁の薄い国の一つだ。貧乏な家庭の子女が、防衛大学校(ここは給料もでるそうだ。しかも、就職率100%)に入らなければ勉学に励めないなど、あるはずがない。

現実は、どうか。

国立大学の年間授業料が、50万だという。新聞で初めて知ったとき、一桁間違いではないかと、記事を疑ったものだ。

貧乏な家の青年が、私大を受験するだけのゆとりがないため、国立大学に入学したとする。日当5千円のアルバイトでは、100日働かなければならない。5千円は、ファースト・フード店で6~7時間働いて得られる金額だ。これでは、勉強もあったものではない。ひたすら授業料のために時間を費やして、社会に出る。何のために大学に進んだのかわからない。

半世紀前は、年6千円だった。当時のアルバイト料が1日300円。肉体労働や深夜勤務で400円から450円。むろん、ファースト・フード店などなかったから、丸々1日働くのが普通だ。

300円であれば、20日間働いて、授業料が納められる。夏休み、前期・後期の間の秋休み、年度換わりの春休みと存分に休みがあるから、20日は、授業を犠牲にすることなく、アルバイトに充てることができた。

今、50万円。そのために100日の勤労。

現代学生残酷物語である。

付:
私の仲間のある私大の教授の話。授業中に居眠りばかりしている学生に、最初は、その不真面目さに怒ったそうです。事情を聞くと、毎夜、アルバイトで11時まで働いている、それで、つい昼間、うとうとしてしまうのです、と言い訳が返ってきたという。これには、参ったと語ってくれました。

認知症の可能性を調べるチェックリストについて

老人はどうしてもひがみっぽくなる。私も、その一人として、ひがんでみることにした。

先日、集団健康診断が行われた。数年前までは、いろいろな数字が示される検査の無意味さを知っていたから、行政の誘いに乗らないでいた。昨年から参加している。理由は、前にブログで書いた。

血を抜き取られるのは、子供のときから大嫌いであった。まあ、好きな人はいないだろうが。

大嫌いなもののもう一つが、私ら65歳以上の高齢者に渡されるチェックリストである。

○バスや電車で1人で外出していますか。はい、いいえ。答え、いいえ。島に電車がない。市営バスが日に3往復しているが、自家用バイクで外出している。

○階段を手すりや壁を伝わらずに昇っていますか。はい、いいえ。答え、いいえ。我が家は島で一番小さい家、それも平屋である。屋根裏に昇るのか、それとも、天国まで昇らせるつもりか。

○周りの人から「いつも同じ事を聞く」などの物忘れがあるといわれますか。はい、いいえ。答え、いいえ。周りに人はいない。いるのは、犬と猫とヤギと鶏と、季節によりムカデと蛇と蜂とクモだ。物忘れは自覚していても、これらの生き物から言われたことはない。

○自分で電話番号を調べて、電話をかけることをしていますか。はい、いいえ。答え、いいえ。電話機は“居留守電”。宇宙に新しい事の無いことを悟ってからは、電話を掛けて、何か聞くような用件も相手も私は知らない。

チェックリストはまだまだ続く。以下はすべて、(ここ2週間は)が頭に付いている。

○毎日の生活に充実感がない。はい、いいえ。
○これまで楽しんでやれていたことが楽しめなくなった。はい、いいえ。
○以前は楽にできていたことが今ではおっくうに感じられる。はい、いいえ。
○自分が役に立つ人間だと思えない。はい、いいえ。
○わけもなく疲れたような感じがする。はい、いいえ。

これら、5項には、白紙回答をした。
毎日、毎日、充実感を維持して2週間を過ごす人が、いればお目にかかりたい。
楽しみの中身は変わって当たり前。子供だって、ベーゴマ、着せ替え人形を一年中楽しむわけでなし。それに、「楽しめなくなった」があれば、「新しい楽しみができましたか」があってよさそうなもの。片手落ちである。

愚問の頂点が、「役に立つか」のチェックである。

私は、役に立つかどうかなど考えたことがない。この質問を読んで、言われた通り、2週間を振り返ってみた。そして、思うかどうかを考えた。妙な表現だが、質問が妙だからしかたがない。答え、いいえ。それから、又考えた。2週間でなく、2か月はどうか。答え、いいえ。ならば、2年は、答え、いいえ。えい、いっそ20年、50年。思いつかないのである。

人並みに仕事をして、結婚して、子供を育て、そして、仕事を離れ、山の中に1人生きている。どう贔屓目に見ても、役に立ったと思えない。

自分だけか。そうであれば、ひがみが収まらない。そこで、他人はどうか。これで少しは、ひがみが収まるのではないか。

北方四島の領土問題を政治的に解決すると豪語した麻生総理にこの質問をぶつけたら、どちらに○をつけるか。拉致問題を解決しますと約束した福田前総理はどうか。おたまじゃくしかなにかでノーベル賞を貰った科学者はどうか。NHKの論説委員はどうか。女子プロレスの大和撫子はどうか。最後に、こういうチェックリストを作成した厚生労働省の役人はどうか・・・。

自分の番が来て、面接となった。民生委員をしていた関係で、顔なじみになっていた保健士に向かって、こんなチェックリストで、介護認定の査定が必要か否かを決められては困ると苦情をいった。

あれこれ受け答えしていたら、そのうち、はい、いいえの数を数え始めた。ある数字以上になると、認知症の程度を調べることになるというお達しがあるからという。

私が書き込んだままでは、完全な認知症に当たるらしい。それで、この保健士は、どんどん「はい」と「いいえ」を認知症でないように、書き換えていった。

「役に立つ」は、個々人の世界観・人生観が基である。それを、気安くチェックリストに載せた厚生労働省の役人の厚顔にあきれる毎年恒例の健康診断であった。

付.
「役に立つ」で「はい」に○をつけた人を、認知症の前兆と、厚生省役人が設定しているのなら、私は、厚生省を見直します。

歴史 erliuzi氏の寄稿

「黒船」からの歴史を対象にすべしーという提言、とても現実的・建設的で、諸手を挙げて賛成します。

いまの大学生までの若者の祖父母(時には曾祖父母)の体験した苦難はそのあとから始まるからです。

よく「庶民」は戦争に反対したといわれますが、日露戦争で「戦利」の少ないのに怒り、暴動まがいの騒ぎを起こしたのはそのひとたちです。

「ヒロシマ・ナガサキ」も、単純に被害者一色のものとして伝えられていいとは思いません。

歴史学習とは、人名とか年号とかを多数詰め込むものではないはずです。

私の作る日本の歴史教科書

問1.大化の改新を実行した中心人物を2人あげよ。
問2.都が平安京に定められたのは紀元何年か。
問3.応仁の乱のころの幕府の将軍は、だれか。
問4.豊臣秀吉が武士・農民を統制するために行った政策は何か。
問5.日本が韓国を併合したのは、何年か。

これは、中学歴史のドリルにあったものの抜粋です。

全問正解の方はもとより1問でも正しく答えた方は今日のブログにはお呼びでありません。

私は全問みな答えられません。五者択一なら、すべての3に○をつけて、20点を稼ぎます。文部科学省の局長あたりが学力低下を嘆き悲しむ対象の一人となります。

答えられない理由は簡単で、昔々一度は覚えたかもしれませんが、昔々以後の人生でこれらの問題に出会ったことがないからです。

それでいて、一応、七十近くまで社会生活を送っているのですから、一体何のために試験があるのか、不思議でなりません。

私ばかりではありません。普通の人全員に言えると考えています。

網走番外地ではありませんが、人は姓はだれだれ名はだれだれでかまいません。時は、正解の1211年が80年の誤差の1291年であっても、いいではありませんか。それをわずか1年違えただけの1210年はばつが付きます。

そろそろ、歴史の学習を洗いなおす時期に来ていませんでしょうか。

私の持論では、大体200年前までは、NHKの大河ドラマや時代作家の捕物帳、講談や浪曲に任せればいいと思っています。彼らは気ままに筆を走らせたらいい。史実も虚構も、今の私たちには、同じであるからです。むろん、古事記などの神話も、これに含まれます。興味がある生徒は自宅で読めばいいし、興味のない生徒は、知らないまま卒業すればいいです。

それを、中学校の教科書では、古代から授業を始める。学年末が迫るから、昭和の時代は、駆け足で通りすごす。昭和史では、正しいものに○をつけよ、なんて問題を出そうものなら、史観次第で、てんやわんやの騒ぎになりますから、先生方も、この方が楽なのかもしれません。教育委員会への出世をもくろむ先生なんか、とても昭和史は教えられませんね。

私は、これを問題にしたいのです。

1年で何時間かという限られた時限で、教えるべきは、江戸末期、黒船がやってきた時からの日本史です。

今の中学生・高校生はいずれ選挙権を持って、日本の政治の担い手になります。彼らに、幕末から明治天皇、大正デモクラシー、昭和の戦争と敗戦までの歴史を学ばせ、その中から人名でなく、年代でなく、地名でない、戦争からの教訓を自らの頭で考えさせなければいけません。

国政政治家の堕落、自衛隊の海外派兵の危うさ、国家権力が発する虚偽に対するNHKや新聞の無能力、官僚の自己保身、等々、今日の政治のルーツを知ることとなりましょう。

付の1.
戦記は副読本として不可欠。命を代償に書かれた参考書と言える。

付の2.
史観の相違から生じる記述の違いはあって当然。教科書作成側(文部科学省ら権力側)と現場教師と受け手の生徒(父兄も含む)の三つ巴の戦いである。私は、この事態を混乱と見なさない。政治にとって好ましい姿と考える。

付の3.
答1.大中兄皇子と中臣鎌足
答2.794年
答3.足利義政
答4.検地、刀狩
答5.1910年

一票の重み その3 制度改革を望む 老いては子に従え

福田前首相が、大金を使って洞爺湖サミットのホストになった。ここでは金の無駄使いを云々しない。言いたいのは、2050年の温暖化ガスの削減で語られた2050年という将来のことである。

以前にも、このブログで、40年先をどうこう議論する愚かさにふれたが、今の麻生首相も、福田さんに続いて、2020年がどうのこうのと真顔で語っている。

彼は、今の経済界に喜ばれたい、これで頭が一杯である。自分も、大会社の社長かなんからしいが、目先のお金のことしか考えにない。彼の志が、あきんど、ないし町方程度ということだ。とても、エリートと言えない。

目先ばかりを追う政治家とそれを支える有権者。これを改革しない限り日本の将来はな~い。

そこで、提唱する。

一つ。
七十五歳で選挙権は失う。後期高齢者の年齢である。認知症でなくても、判断力の低下は目を覆うばかりだ。車の運転免許制度も、このあたりをよく見ている。これで、今のうちに現金を握ってしまえという不心得な老人が、おとなしくなる。「老いては子に従え」は真理である。

一つ。
未成年者に投票権を与える。赤子や幼稚園児が投票できないのは分かっている。親権を有するものが投票する。親殺し、子殺しは、例外中の例外で、子供を持つ親(保護者)の気持ちは、百人中百人が、自分が死んだ後でも、すこやかな生活を子供に、と願っている。間違っても、今のうちに、濡れ手に粟式の銭を、などと考えない。

一つ。
票に加重点をつける。たとえば、61才以上は基礎票の1票。51から60までは、1.1票。41から50までは、1.2票、以下同様に続いて、満1才児1.6票とする。

これで、2050年や2020年をあの世で笑う老人向けの老人政治家は、無責任なでたらめができなくなる。

当たり前のような現行の選挙制度が、本当に当たり前であるのか否かを、日本国民は率先して考えなおすべきである。いつか、私のこうした提案が現実のものとなると私は確信している。

付の1.
バラマキや国債の刷り放題が、無くなりますね。

付の2.
水泳マスターズのように年齢を5歳単位にしてもいいでしょう。



一票の重み その2 老人の考え

私の住まいから十数キロ先に女川原発という小出しにエネルギーを放出している原爆がある。たいへん迷惑な話だが、後から来たのが私の方だから、個別の文句は控えるようにしている。

移住してからまもなく、少し親しくなった老人と、くだけた酒席で、あれこれ話しをしていくうちに原発に話が及んだ。複数の老人が、「原発のおかげで、町の道路が整備され、巨大な文化センターもできた。ありがたい」と言うのである。私も、血気盛んな五十代。民間企業が見返りなしで、周辺住民や役場に金を与えるはずがない、やましい裏があるのだ、と反論した。その再反論が、奮っていた。「事故はいつ起きるかわからない。そんな心配より、これから先何十年と生きるわけでなし、現金をもらうほうがいいんだ」、これにはあきれた。

が、彼らの言うことにも一理ある。近づいている死の後、いくら金を積まれても、自分ではどうすることもできない。この点では正しい論理である。

原発は、危険である。スリーマイルズ島、チェルノブイリが示している。安全を政府がとなえればとなえるほど、危険である度合いが深くなっていると思うべきである。

一度、建てれば、10年、20年と稼動する。今、現金を受け取る老人らは、ありがたいが、10年後、20年後に生きる人間にとっては、迷惑もいいところだ。

原発に限らずダム自衛隊駐屯地も然り。地元の選挙では、こういう地域では、必ず、誘致派と反対派がしのぎを削る。

私は、言いたい。「どなたかを忘れてはいませんか」と。

選挙権のない未成年者や生まれたばかりの赤子である。1年や2年先はともかく、長い将来にわたる政策にもっとも影響を受ける彼らに何の政治参加の権利が与えられていないのは、私にはとうてい承服できるものではない。

成人男女が享受している現行選挙制度は、当たり前のようでいても欠陥制度である。

一票の重み その1 成人男女に平等に与えられたもの

古代ギリシャや古代ローマの選挙は知らない。王政時代の戦争は、武士や騎士が主役で命を掛けて戦った。選挙はない。次は、ブルジョアジーの参政。金力が物をいったおかげだ。それから、男子の参政。武士や騎士の殺し合いから、一般男子の殺し合いとなり、失った命が物をいった。男子に参政権が与えられた。その後の戦争では、男女共に戦争に参加した。ここでも、多くの命が失われ、その代償として、女性も一票を手にすることができた。そして現在がある。

私は続けて考えた。

金と命に変化がない状態では、普通の人間は、自分のいる時代の選挙制度に、なんの疑問も不満ももたなかったのではないか。

王様と騎士が権力を握っている間は、平民は畑を耕しているだけで、政治に参加する権利などごうも望まなかった。男子の参政権が認められた時では、「ならば私たち女にも」と、叫んだ女性やフェミニストはいなかったのではないか。

今の今。男女同権で、ある年齢以上のすべての国民にそれぞれ1票が与えられている。それにより、国会から町議会までの政治家が選ばれる。昔がそうであったように、今も、今の制度になんの疑問も不満ももたないで、当たり前のように、続けられている。

これが、公平であろうか。私は疑う。

老いの確認 面相篇

顔つきのことである。

先日、銃砲等所持許可の3年毎の更新講習会を受けるべく、町せ自分のインスタント写真を撮った。前もって、確認しておけば、家のデジカメとプリンタで済んだものを、700円也を無駄に使ってしまった。無駄に使った金は、1銭でも惜しい。700円は大金である。

それは、それとして、スルりと出てきた写真を見てびっくりした。映画「アマデウス」でモーツアルトが父親を迎えた時の心境なのだ。映画を観た人は、おわかりだろうが、モーツアルトの突然現れた父親を見たときの驚きの表情。その表情と寸分違わない顔を私がしていたはずだ。

そう、自分の顔が今の自分の年齢当時の父親の顔にそっくりだったのである。

学校でいろいろ学び、社会でいろいろな人と出会い、頭の中身は、親とは、良し悪しは別として、ずいぶん違っているはずだ。

以前、六十歳ころだったと思うが、島の人が余興で私の帰園田去の姿を撮ってくれた。その時のは、父親とは似ても似つかぬ顔をしていた。

特にここ数年の間に親の顔に似てきて今はかくのごとくである。これから30年先、生き続けられればの架空の話だが、自画像を写真で見れば、百歳の人間の顔でしかなくなるだろう。その時は、もはや、誰に似ているかどうかなど関係がなくなり、ただ、日本人の顔だけを見ることになるにちがいない。

付:
私は、三島由紀夫の自殺事件を知ってから、極力、鏡を見ないことにしてきました。彼ほど、老醜を嫌った日本人はいないのではないでしょうか。

「地方首長選で民主が3連勝」なぜだ

田舎に住んで、自分が田舎人であることを認識できるようになってから分かったことの一つが、田舎人の政治感覚である。

都会人であった頃は、どうして田舎の人間が年百年中、選挙の度に、自民党に投票するのがわからなかった。新聞や雑誌などによれば、保守傾向が強いためということだった。それを、なるほどと思っていた。

今はこの見方が間違いであることをはっきり言うことができる。田舎人は、保守であろうが革新であろうが、無関係である。あるのは、時の権力に「おすがり」して、いくばくかの恩恵に浴したい、これ一本なのである。

民主党の政策・主義主張と自民・公明のそれらと比べて、優れている、共鳴する、あるいは、民主の方が、いくらかでもまし、そういう考えで1票を投じていない。

どうやら、次は、民主党が政権を握ることになることは間違いない。その時に、自民党の首長であれば、嫌われないまでも、政府とのパイプが細くなり、さまざまな陳情・助成ができなくなる。だから、今のうちに、民主党の首長になるように動いて、少しは貸しを作っておこう。

マス・コミは、自民・公明対民主の図式を描いて、大衆に説明するかもしれない。本当は、どちらが権力を握るか、これだけで動いているに過ぎない。己の政治信念を権力側につく事と言ってはばからない人間を、私は軽蔑する。

私は、田舎人である。田舎人を田舎人が軽蔑しても、誰からも文句は出まい。だから、堂々と軽蔑して止まない。

付:
千葉市長選で若干31才の青年が当選したとマス・コミは騒いでいます。バカバカしいですね。私は、5才の子供(被選挙権あれば)が当選しても驚きません。理由は上に述べた通りです。

岩手・宮城内陸地震と行方不明者

地震の日から1年が過ぎた。昨年は、冬場になるまで、必死の遺体捜索が行われた。それでも、数人の行方不明者の遺体は土砂の下に埋もれたまま、発見できなかった。

遺族は、打ち切りに無念の感情を表した。

ここまでは心情として、理解する。

先日来、その捜索を再開している。私は、これの費用が遺族から出ているのであれば、何も言わない。どうもそうではないらしい。行政が負担しているようである。

遺体を行方不明者とは常識では言わない。生きているという想定があって、初めて、その人がどこにいるのか、捜索するものである。生きていることに一縷の望みを託すのである。

あるいは遺族の身になってみよという人がいるかもしれない。それは、遺族は己の全財産を費やして、現場作業者を雇い、とことん捜索して、もうどうにも手が打てない段階でいう言葉である。

行政は、そうした遺族の姿を見てから、どのように対処するか考えるのが、筋道である。

海難事故の場合は、ある期間、海上保安庁や自衛隊ばかりに頼ることなく、漁にでれば一日当たり数十万、数百万の水揚げがあるものを、止めにして、僚船が捜索にあたる。そのある期間で発見できない遺体は、海に置かれたまま、捜索が打ち切られる。

海と違って、土砂に埋まっているから、捜索を続ければ、いつかは必ず発見できる。しかし、1年過ぎても続けるのは、いかにも、やりすぎである。

行政の金は生きている者にこそ使われるべきである。

弟子が親の葬儀を終えてから、キリストに従いたいと数日の猶予を願ったら、キリストは、「死者をして死者を葬らせよ」と答えた。私はキリスト信者ではないが、この覚悟を命じたキリストに同感する。

あまり長く書くと、誤解を招かねないので、これで終わる。

付の1.
レイテ島やルソン島への遺骨収集団は、時の日本政府が徴兵して戦死した遺体の母国の土に戻すという、政府の責任が係わっているからうなずけます。

付の2.
地震は、天災。地震が起きた場所に家を建てたのも、温泉客として逗留したのも、個々人の自発的作為です。日本兵士と同列には扱えません。

Too Poor To Save

鎌倉幕府が倒れた主な原因は、元寇と戦った武士に論功を与えることができなかったからと、中学校で習った。

神風こと台風で元(げん)の兵士が日本国土に上陸する前にへばってしまったことも、聞かされたように覚えている。

勝てば、何がしかの戦利品にありつける。それは、大抵が賠償金(身代金)と領土である。

降って湧いたような元寇との戦さでも、職業軍人である武士たちは、戦った以上、見返りを求めるのは当然である。慈善事業やボランティアで、刀を振り回すのではない。

簡単にフセイン政権を倒したアメリカだって、イラクと戦争して勝てば、戦利品にありつけることが分かっていたからやった。勝つことが約束されている戦争だから、覚えたての相手に名人が将棋を指すようなもの。

アメリカの戦利品は、開戦当時から欧州で言われていた石油である。イラク人民の救済は、あからさまに石油がほしいと言えない故の大義名分である。

何を今更と哂われることを承知で、ここまでを前置きとした。

朝鮮は、長距離弾道ミサイルもあれば彼らの話を信じれば原爆も持っている。アメリカにとって、かつてのイラクより数十倍、数百倍危険な国家であるはずだ。それなのに、今なお軍事行動にでないまま、日本政府や愛国集団をイライラさせている。

金政権を倒すことは、アメリカにとってわけのないこと。問題は、その後。これにアメリカはタッチしたくないのである。朝鮮人民の疲弊を一手に引き受けて、国家そのものを立て直すには、あまりにも経済的負担が重過ぎる。見返りの戦利品は、ほとんど皆無といっていい。昨今の経済状況では、そんな金は星条旗の星の数ほど州があっても、どこからも出てこない。

私は、しばらく前の六か国会議で合意された視察団の調査で、朝鮮の原爆製造の進捗状況および原爆の質の程度を、アメリカは正確に把握してしまったと思っている。大陸間弾道弾の開発と並んで、当面は、アメリカ本土への脅威はない、これをアメリカは確信している。横流しについても技術の程度を調べ終わっているから、心配をしていない。

征伐して得るものはない、あるのは、貧困にあえいでいる朝鮮人民への食料とインフラ整備にアメリカ人民のドルが消えていくのみ。

とは言え、これをあからさまにしたのでは、日本や韓国の政権から苦情がでる。だから、一応、旗頭となって、リップ・サービスに専念している。

アメリカの軟弱政策、朝鮮の瀬戸際外交、みんな、みんな、承知の上のお芝居だ。我ら日本人、本気になって舞台に登ったら、猿まわしの猿となる。

「座して死を待つより・・・」が現役国会議員の口から出る今、何を今更とばかり言えない気がして、「今更」をここに書いてみた。

付の1.
朝鮮の空威張りが実体化するときは、アメリカはためらうことなく空爆しますね。実体化とは、原爆の完成とミサイルの完成、それと、それらの輸出です。

付の2.
アメリカ政府も日本外務省も、「将軍様、背伸びしているなぁ」と内心、ゆとりを持って笑っています。顔は苦虫面ですが。

付の3.
太平洋戦争は、日本が仕掛けた戦さだから、やむを得ず受けて立った。終戦の日本は、案の定、なんの戦利品も用意されていなかった。鎌倉武士と違って、それで時の大統領が失権するようなことはなかった、当時のアメリカは偉かったと思います。

付の4.
「日本政府や愛国集団をイライラさせている」は、イライラしているフリをしているだけです。

付の5.
「座して死を待つ」を潔しとしない国会議員が、この時代に存在していることが、私には不思議でなりません。タイム・スリップしたのではと、ほっぺをつねってみました。

鳩山大臣の辞任 政対民でありません 民対官です 

私はあらゆる国営事業の民営化に賛成である。その中には、競輪・競馬、宝くじも含まれる。ただし、天下り官僚の行き先でない、官の影響を受けない完全な民営化という条件がついての話である。

鳩山大臣が郵政会社の社長に文句をつけているのは、国民の財産を払い下げに甘えて、ずさんな財産処分をしたことである。何も、郵政民営化を恨んでいたのではない。

それを、民営化反対か賛成かの方向にもっていく。明らかに策謀である。小泉から追放された民営化反対議員が続々復党したのは、昔のことではない。麻生だって、賛成していないと話したではないか。

今回の騒動は、民営化に参画した官僚対選挙で当選した国会議員との戦いであり、官僚の勝利に終わったということである。

外務省官僚と大臣の戦いは、先の田中真紀子さんの敗北に続いて国民が2敗した。

かように、国家高級官僚は、強いのである。

私は、政治信条の異なる人であっても、信念を貫く限り、一目置くことにしている。死刑執行を信念に基づいて命令した鳩山大臣は、その中の一人である。

NHKはじめマス・コミは、郵政民営化の賛成派と反対派の抗争へと今回の辞任劇を故意に捻じ曲げようとするだろう。

私は、騙されない。

付の1.
民主党が政権を担って、本当に官僚の横暴を止めることができるのでしょうか。やはり、小沢さんあたりの頑固オヤジにでてもらわないと、いいように丸め込まれそう。心配です。

付の2.
あの小泉ができなかったことが、麻生にできるわけがありません。もっとも、今の小泉は老人ボケがすすんだ秀吉並みに自分の息子の行く末のみで頭が一杯。一目を置くどろこか、見損なった。がっかり。

映画の脇見鑑賞

自動車の脇見運転はそのまま事故につながる大変危険な行為である。映画ならどうか。

最近の映画は、シナリオが安易過ぎるように思えてならない。幸せな二人に突然襲った不幸、これは大概が交通事故である。あるいは、やっとの思いで結ばれた恋人が残り数ヶ月の命であることを知らされる。反対は、絶望的な人生の男に届いた電報が、遠い親戚からの莫大な遺産相続権の知らせ。不治の病に冒されている恋人が、再検査したら医者の誤診。不幸が一転して、幸せのエンディングとなる。これでは、あまりにも安直で私の感性は満足しない。

最初に筋を読めば、つまらない映画は観ないで済むが、面白い筋であれば、結末を知ってしまって興ざめとなる。結局、つまらない映画もおもしろい映画も、終わりまで素直に観ることにしていた。

つまらない映画の場合、尺八を吹いたり、ネット碁を打ったりして時間をつぶす。それが好ましくないことを覚り、いろいろ考えた末に達した結論が表題の「脇見鑑賞」である。

その中身とは、筋ではなく、映像そのものを鑑賞するというもので、町並み、夜景、車や列車など、一つの絵画として映画を捉えることである。

最近のいい例が、「エニグマ」と「サン・ジャックへの道」の2本。それぞれイギリスとフランスの私の知らない田園風景が堪能できる。

もう一つ、印象に残っているのが、中国映画の「初恋の来た道」。筋は特に述べるほどのものではない。自然、脇見となった。脇見の先は、学校の校舎である。薄い壁があって、薄い屋根が乗っていて、薄い扉といくつかの窓がある。金銭的にはきわめて安上がりの校舎であることがわかる。

しかし、それによって、勉学に支障を来たすわけではない。校舎なんかこれでいいのだと確信した矢先、四川省に大地震が発生し、学童が数百人か数千人が瓦礫の下で命を落としたことをニュースで知った。

子孫を残し、子々孫々、家名をつなげることがなにより大事に思う漢人にとってこれほどの悲劇はない。責任追及は当然なされる。建築の専門家でなくても、昨今の中国を見ていれば、手抜き工事が原因であることは簡単に想像できる。

私は、ここで考えた。確かに手抜き工事は悪い。耐震構造となるように鉄筋をしっかり入れておかなければならないものである。正規の価格で請け負っていながら、材料費をハネたのか、格安で請け負ったため、材料費をケチらなければならなかったのか、そのいずれかであろうが、ここでは問題にしない。

問題は、2階建て、3階建てなど、立派な校舎が必要であったかどうかを地元の親たちや役所が検討したかである。

地震はどこでも起きる可能性がある。中国では唐山にあった。今の中国人が知らないはずがない。ふんだんにあるのならともかく、限られた予算であれば、耐震には目をつぶり見てくれのいい校舎にするのか、外観が粗末であっても地震に強い平屋の校舎にするのか、択一であったはずだ。

他国の事情に不干渉であるのが、私の原則である。だから、この件も政府と人民がどのような動きにでるのかなるのか、分析や予想はしない。

脇見鑑賞の効用の例として取り上げただけである。

付の1.
私の世代ですが、小学校入学当時は二部授業(午前と午後)がほとんどではなかったかでしょうか。二宮尊徳像のある校庭で勉強したこともありました。

付の2.
都会の電車に乗って驚いたのは、大学の広告の多さです。どれも、見事な校舎です。空箱でなければいいのですが。

麻生総理 売家と唐様に書く三代目

ひょんな事で知り合いになった若いお坊さんから聞いた話ですが、お寺の住職は大体が世襲だそうです。それが三代目になるくと、どうもうまくいかなくなるとのこと。私がそのお坊さんに、何代目に当たるのか聞きましたら、「三代目です」と答えてくれました。二人で大笑い。

麻生総理は吉田茂の孫に当たる真正の三代目であります。吉田茂に対する評価は、さまざまでしょうが、開戦当初から日米戦争が日本の敗北で終わると確信していたことは、並みの官僚でなかったことの証拠だと思います。

その三代目の麻生総理の演説を昨日のニュースで聞きました。曰く、「我々は戦うべき時は戦わねばならない。その覚悟を持たなければ、国の安全なんて守れるはずがない」、と。

これまで、私は、日本の愛国政治家や愛国評論家が朝鮮脅威論を唱えていても、口先だけで、本音は、軍需産業の振興と軍事大国化にあると考えてきました。今もこの持論は変えるつもりはありませんが、今回の麻生総理の発言は、あまりにも度が過ぎていて、もはや単に脅威論とは言えないのではないかと心配になってきました。

「戦うべき時」なんて、開戦前夜に全国民に向かって使う言葉でしょう。それに続いて、「覚悟」と言うのですから、口先や冗談で済ませられません。私のように分別のある人ばかりなら、「日本の総理大臣はバカだなぁ」で済むでしょうが、世界には、バカもいれば利口もいます。

麻生総理が名指しで戦う相手としている朝鮮の総理大臣が(総書記と呼ぶのでしょうか)、近々三代目に代わろうとしています。初代は朝鮮戦争を経験した苦労人、二代目は、親の威光にあやかりながら、国体維持に専念して、他のことはまったく無関心。本気の戦争準備は密かに行うもの、ポンポン打ち上げているロケットからは保身のための背伸びしか見えません。今は、こうですから、麻生総理がどんなにヨタを飛ばしても、安全です。しかし、朝鮮の三代目が、麻生総理と同じ程度の利口さであったら、大変です。売り言葉に買い言葉、日本と朝鮮の両方の国営メディアが、それぞれの大衆の敵愾心を煽り始めます。今、すでに始まっていますから、「その頂点に達します」、と表わすべきでしょうか。

「国の安全なんか守れるはずがない」、「その覚悟を持て」、「戦わねばならない」、麻生総理の演説を後ろから言い換えていくと、朝鮮国営放送と見事に一致します。

「朝鮮と戦争して、負けるはずがない」、この言葉が口から出る前に、麻生総理に引っ込んでもらわなければいけません。彼に日本を売家に出させてはいけません。

付:
朝鮮の三代目の賢君・愚君を詮索する前に、わが国の愚君を降ろすこと。前者は他力本願、後者は自力本願。

LDとLP

音楽モノで、LDにあるものは、ほとんどLDに買い換えてライブラリーとなって手元にある。ないのは、LDとなっていないものである。

その典型が、ブラジルのサンバ。映画「黒いオルフェ」がフランス語になっているのが気に食わず、ポルトガル語の本場のサンバ(だじゃれではありません)を、買いあさった。それらは埼玉に置いたままにしておいた。

今回、どうしても島で聞きたい衝動にかられ、ごっそり宅配で持ってきた。

それには、絶対不可欠な条件があった。レコード・プレーヤの存在と交換針の供給確認である。4台のプレーヤは、確かめたら、1台しか残っておらず、10数個のヘッドシェル付きのカートリッジや20個ほどの交換針はすべて無くなっていた。そのプレーヤは実働するが、これがダメになったら、ネット・オークションに頼る以外にない。中古品の針は、どれほど磨耗しているかわからない。それが、心配だった。

よく調べたら、まったく心配無用であることがわかった。家電メーカの数社から依然として新製品がライン・アップされていて、交換針はナガオカが面倒を見てくれる。ありがたいことである。

これで安心して、サンバが踊れる。犬と猫とヤギと鶏の前では、我流サンバでなんの不都合があろう。愉快になった。

ここで思考を停止しておけばいいものを、思いはLDに馳せた。

以前、LDプレーヤの製造中止を宣言したパイオニアをけなして、そんなことをすると、会社がおかしくなるぞと、このブログで忠告したことがある。その通りに、この会社は左前になってしまった。

CD全盛の時代にありながら、細々とでも生産を続けるLPプレーヤ・メーカ。片や、DVDがカバーすることに甘えて、さっさと中止したLDプレーヤ・メーカ。

今しばらくは、いまいましいがLDからDVDへのダビングを続けなければならない。でも、これからはLPがある。救われた。

付の1.
ピンク・フロイド、サンタナ、懐かしいアーティストとの再会もあります。物理的に加工された音は、20年経っても健在でした。私は、アナログ人間だぁ。

付の2.
「黒いオルフェ」は私のお気に入り。これまで何回観たことだろう。これでポルトガル語だったら・・・残念無念。

映画「過去のない男」 貧乏と貧困

シーン その1.
暴漢に襲われてすべてを失った中年男と彼を助けたコンテナで生活している中年男との歩きながらの会話。

コンテナの男:「今日、賃金が入った。女房に内緒だが、ビールを飲む位の金がある。飲もう」
食堂でそれぞれ1杯づつ飲む。
コンテナの男:「もう1杯づつ、飲もう」
失った男:「これで十分だ」
コンテナの男:「オレはもう1杯飲むよ」

シーン その2.
失った男が食堂に入り、店員にお湯はいくらかと聞く。無料と店員が応えるとグラスに湯を注ぎ、席に着く。おもむろにティーバッグをポケットから出して、お湯に溶かす。それを見た店員はにらみつけるような目をして、店の奥に行く。しばらくして料理が盛ってある皿を、この失った男の前に置く。男は、払えないと言う。店員は、どうせ残り物だから、食べろと言う。

1のシーンにも2のシーンにも、笑顔がない。みんな仏頂面をしている。

この映画に出てくる主人公らは、貧乏生活を送っている。しかし、その貧乏を貧困と受け取っていない。貧富というピラミッドにおいては、完全に底辺を構成している人たちである。

年収がいくらだの貯金がいくらだのと銭を尺度にして他人や自分をみていない。

フィンランドのいい映画である。

役賠責を提案する

古い新聞に、福島県の中学校だったかで、生徒が怪我をして、一生元の体に戻らないと出ていた。原因は教師らの現場管理の手落ちにあるとして、裁判所は、1億5千万円の賠償を県に命じた。

国や県の公僕のミスで、市民が苦しむ。その責任を市民が追求する。公僕は、これに対して、「私が悪うございました。煮るなり焼くなりご随意に」と言った試しがない。ぬらりくらりと言い逃れに努める。

「言い逃れ」には偏見が含まれているから、「責任のないことを主張すること」と言い換えるべきかもしれない。

いずれにしても、公僕対市民の図式が公僕並市民になることはない。

裁判になり、市民が勝てば、「勝訴」のヒラヒラが、聞き入れられなければ、「不当判決」のヒラヒラがテレビに映される。敵対関係にある証拠だ。

公僕が敗訴した場合、多くは公僕の牢屋入りはない。お金が支払われてお終いとなる。

私は、ここの所が腑に落ちない。市民が勝って、お金が入ってきた。お金より元の体、あるいは命を返してくれと怒っても、後の祭りだから、結局、お金で補わされる。

さて、この金は、どこから出るのか。

結局は、市民の税金からである。国債だ競馬の寺銭だといっても、元をたどれば、税金である。百歩譲っても、市民に賠償しなくて済むのであれば、他の役に立ったはずの金である。

なんのことはない、勝った、負けたといっても、しょせん市民の間のやりとりなのだ。

それが、私には腑に落ちないのである。腑に落ちるまで考えようと努力していた最中、都会の自動車を見ていたら、あるシステムを思いついた。

役人賠償責任保険である。

国家公務員、地方公務員全員をこの保険に加入させ、毎月、掛け金を俸給から天引きする。何か事故が起きたら、そこから賠償金が支払われることにする。

自動車賠償責任保険と同様、強制保険である。「私は運転して事故は起こさないから、加入しません」が認められないように、どんなに勤勉・誠実な役人であっても、加入しなければならない。

福島県の例では、1億5千万円が15億になっても、民の税金は無傷のままでいられる。

自賠責は人身事故に限られているが、役賠責は、生命・財産ともに対象となる。公僕である以上、当然のことである。

都会の静寂 田舎の喧騒

暫くぶりに都会にでて一週間ほど過ごした。

昼間は視覚を通して物事を感じるから、田舎と都会の区別は、誰もが考えている通りである。

問題は、聴覚の世界に入る夜中から朝方までの時間である。都会の夜がとても静かであることに気がついた。初めは窓のサッシで外界と屋内がしっかり遮断されているせいかと思った。次の夜、少し開けてみた。やはり静かなのだ。

私の住んでいる所の夜中は、こんな静けさは一年のうちに何夜かしかない。先ず、風。シュロ、竹、裏のジャングルの木々、風が強ければ大きく、弱ければ小さくと、止むことを知らない。次が波。波の音を枕にして、と言えば、風流だが、遠く関東地方の低気圧でも、うねりは押し寄せてくる。当然音となってやってくる。

この近くは魚場のため、波の穏やかな夜は、漁船のエンジン音が聞こえる。拡声器による漁労長の命令まで聞こえることがある。

雄鶏は、明け方は無論、深夜の1時、2時にも、しばしば啼く。季節性のものも多い。天井からは、蛇の這うす~す~という音。壁の中を動くときにも音がする。夏はやぶ蚊のプー。ムカデが壁から落ちるときは、パタンと音がする。カエルの合唱は年々大きくなっているようだ。

そうこうしていると、猫が深夜の外出からにゃ~といって帰ってくる。餌を食べる音。犬のいびきは夜通し続く。

明け方は、毎日、雄鶏のとき。カラスのが~が~声がすると、雌鳥が騒ぎ始める。とくに、ウコッケイは甲高い声を出す。

都会の夜の静けさはわずか1行で済むが、田舎の喧騒は、これほどまでに言葉を要する。

大分前に田舎の情景を童謡にした作詞家はすべて都会人の空想によるとこのブログに書いたが、「都会の喧騒」はともかく、「田舎の静寂」も、、都会人の無知によるもの、善意に解釈すれば、都会人の誤認である。

ここで考えることを止めればいいものを、つい、空山や深山を題材にした漢詩まで疑ってしまう。あれは、本当に山に入って作ったものではない、山の奥なら、野鳥、ネズミ、イノシシ、狼の遠吠え、等々、うるさくておちおち詩なんぞ作っておれないはずだ、と。

付の1.
喧騒は人に限りません。生き物すべてに言っていいことで、喧騒と見るか、生命の躍動と見るかは、人それぞれでしょう。

付の2.
ここでの都会は、住宅街です。環状8号線を下に見るマンション・エリアでは、ありません。同様に、ここの田舎は、私の田舎でして、ゴビ砂漠の真ん中の田舎ではありません。

一国の宰相が六分の一 麻生首相のリーダーシップ

先月末、久しぶりに埼玉に行った。宮城在住の私の選挙区は、民主が常勝で、自民がどんなに頑張っても、公明がどんなに援護射撃しても、自民の候補者に勝ち目がない。傍で見ていると、自民の候補者は、実にこまめにあちこちに顔を出している。その一徹さには感心する。

埼玉は、移住するまで選挙権を行使していた土地。同じ田舎でも、埼玉の方が東京に近い分、まだ都会的センスは優れていると思っている。

そんな気分で街中を歩いて目にしたものに、自民党のポスターがあった。

これには驚いた。

一人の候補予定者と5人の自民党の要人が正確に6分割されて顔写真が載っている。

山口議員、麻生総裁、枡添大臣、小渕大臣、石破大臣、石原幹事長代理の6名である。名前なんかどうでもいいというのが私の原則であるが、間違いはよくないと思い、デジカメに収めて、これら6名は確認してある。

公明党のポスターは、代表一人。民主党のは、候補予定者(私の推測)と代表で2分割。ほとんどが鳩山代表であるが、まだ小沢代表のままのもあった。このあたりは、埼玉もまだまだ田舎である。

驚いたのは、6分割したその一つで、麻生総裁が笑顔をふりまいていることである。日本政治の最高の地位でありながら、他の並の大臣と同列に収まって、笑顔を見せる感覚は、私には到底理解できない。

私が理解できないということは、問題であるということである。

残り5人は一人が候補予定者、他の4人は、大衆に人気がある者ばかりだ。小渕は、男の写真だけでは、じじむさいので、紅一点として、ポスターの引き立て役を買っている。案外、これが大衆受けするのかもしれない。

麻生の口癖はリーダーシップだったように覚えている。ポスターを見て、彼のリーダーシップの底の深さを改めて知らされた。

韓信が股をくぐったのは、子供時代である。大将になってから、手下の股をくぐるようでは、バカかお人よしだ。むろん、韓信はバカでもなければお人よしでもなかった。命と金だけを後生大事にするような町方風情でなければ、当たり前のことだ。

ニコニコ笑っている麻生を見ていると、自民党に日本の首相がなめられているばかりか、私まで、なめられているような気分になってしまう。

な~んにも考えないで、周りの思いつきだけで、ちゃかちゃか動き回って、リーダーシップを三唱しそれで首相が務まるのなら、私だって、・・・いや、やめとこ。

付の1.
前に福島社民党代表が安倍自民総裁に名古屋駅で乗車を譲って、これでは、社民党はだめだと書いたと思います。一国一城の主の位負けは致命傷です。

付の2.
都会的センスは誉め言葉ではありません。オリンピック招致をするような石原を知事に選ぶのだから、都民だって大したことはありません。

付の3.
ポスターを添付したいのですが、選挙違反が怖くて、止めておきました。埼玉に行ったら、見てください。

ブル

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