老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

日銀とCP

     CPといわれると、Cost Performanceを連想してしまう。続いて、上役の「小国寡民は、CPの低い営業ばかりやって困ったものだ」の小言もぶら下がってくる。嫌な言葉だ。

  と思っていたら、CPが Commercial Paperの頭文字でもあることを、新聞で知った。

  日銀がCPを引き受けることに決めたそうだ。

  一金1000万円也と書いてハンコを押す。その紙を東京本店か仙台支店に持っていくと、1000万円の現金と交換してくれるという。ありがたいどころか夢のような話である。

  それで、喜び勇んで、小国寡民のハンコを押して持っていったとすれば、どうなるか。断られる。「1000万とは言いません、せめて10万は」、と日銀総裁、あるいは支店長に持ちかけても、十中八・九、相手にしてくれないだろう。

  これは、日銀の態度が正しいのであって、私の方に非がある。

  それを、何を錯覚したのか、企業だったら現金と換えてあげましょうと言う。トヨタ、ソニーほか大企業のCPだって、タダの紙っぺら一枚である。私のCPと何らかわらない。

  曰く、大企業は信用できる、小国寡民は信用できない、と。私が信用されないのは、もっともな面もないではないが、大企業が信用できるということは、まったく、“もっともな面”はない。

  大企業の多くが信用できるだけであって、個々の大企業については、信用できる所もあれば信用できない所もある、こういう言い方が正しいのである。

  日銀は信用できる企業しか相手にしないと言う。企業で信用できるといえば、業績優良、資金繰り円滑、これらが不可欠な条件である。それが、なんで、CPを発行して日銀から現金を回してもらおうとするのだ。するわけがない。

  こんなことをやって、じゃぶじゃぶ福沢諭吉さんの束を市中にばらまけば、あとがどうなるか。

  日銀総裁は、私と同じように、分かっている。それを、承知でやるのだから、始末におえない。

  CP、よござんすか、これはただの紙っぺらですよ。

  付の1.
  異常事態には緊急避難的行動が許されます。その通りですが、私は昨今の日本が異常であるとはいささかも感じていません。これまでの異常が正常に戻る過程であるとの認識であります。デブがスリムになる時の苦痛と同じです。一言、多かったですか。

  付の2.
  トヨタ、ソニーは代表させただけです。


s-1224メリー

公民と公僕

    民主主義に夢と期待を託していた時代。思えば衆愚政治などありえないと信じきっていた無邪気な時代だった。無論、バラマキで人気を取り付け、選挙を有利に運ぼうなどという政党はなかった。

  そんな中で、社会科の授業も真面目そのものであった。とにかく、先生が真剣であった。多分、小学校だったと思う。主権は公民にあり、役人は公僕であると教えられた。

  戦前、戦中、国家公務員が、(その中には官憲・判事も当然含まれている)国民の僕(しもべ)でなく国家権力と法律の僕となっていたことをしかと見届けたからこそ生徒にそう教えることができたと思う。

  これからが今の日本の話。

  このブログで公僕の俸給が高すぎると私は不平を言ったことがある。最高裁判事の月給についての寄稿もいただいた。

  今日、新聞を読んで唖然とした。

  国家公務員「賞与」69万2900円。一般職(ペーペー)である。最高裁判事は595万円、衆参両院議長545万円、閣僚434万円、国会議員330万円。麻生首相は410万円也。

  これは今年の冬一回のボーナスである。一般職で70万円だから管理職は軒並み100万円を超えているだろう。

  年収200万以下が1千万人いる現在、どこからこんな数字がでてきたのか、新聞記者の誰も不思議に思わないのか。

  前に書いたように覚えているが、企業で社長より従業員が高給、しかも、10倍も20倍も取っているなど聞いたことがない。

  イギリス貴族の館では、執事は、館主の残飯もどきをつましく食す。だから、館主に執事は絶対に頭が上がらない。執事が館主の所得より何十倍もあれば、主従関係はめちゃくちゃになってしまう。

  国家官僚の弊害は、戦前、戦中、戦後、そして現在と、まったく変わっていない。

  理由は上述の通り、僕の方が高給取りだからである。

  人事院も官僚だ。だから、従業員千人以上の企業の平均値を参考にして給与勧告がなされる。日本で千人以上の企業がいくつあるというのだ。何人働いているというのだ。

  人事院は大変な誤りを犯している。勧告は千人以上の企業を除いた総体を基準にしなければいけないのだ。

  軍人田母神氏の退職金6千万円は、堂々と受け取ればいいと私は言ったが、それは、彼の欠陥でなく制度の欠陥であるからまでのこと。

  もう一度、裁判官や議員のボーナスを見ていただきたい。朝、出勤し、夕方帰宅する仕事で、方や300万、方や出るや出ないや、こんな差があっていいはずがない。事務所の8時間は8時間だ。


  困った法律ばかり作っている役人に庶民の手に届かないようなボーナスが堂々とばらまかれている現在の日本が、なんで百年に一度の危機なのか。白髪三千丈もいいかげんにしなさい。

  今の日本に必要なのは、拡大再生産ではない、富の再配分である。

  付の1.
  12月10日ある大手新聞の夕刊です。

  付の2.
  賞与は前年並みとのこと。ならば、一昨年も、その前の年も同様な額が支給されたのでしょうな。

  付の3.
  公民は公僕を甘やかし過ぎてきました。今、その報いに遭っているだけのことです。まあ、身から出たサビとでも言いましょうか。

  付の4.
  新聞は、拡大鏡さえ用意すれば、何度でも読み返せます。ありがたいことです。


s-1228モモトリッキー

高校の学習指導要領改訂案

     手に入った新聞の記事である。ここで公民という科目があるのを知った。50年前は、社会、日本史、世界史だけだったように覚えている。
  この公民の中で、裁判員制度を記述するという。どんな記述が検定をパスするか初めから分かっている。品格の高い教師がどれほど教室で苦悩しなければならないか、同情を禁じえない。

  もう一つ関心を持って読んだのが、英語。すでにテレビで知っていたことなので、新聞記者の感覚を伺う意図によるものだった。

  ほとんどがどのような授業になるかの予想で、現場教師のとまどいに絞られていた。私のような痛烈な批判はどこにも見当たらなかった。

   ・日々、人間とはなんぞやなどと頭の中でこねくり回している哲学者より、仕事帰りにパブで一杯やることを楽しみにして生涯を送る者の方が、はるかに賢明な生き方であるという。

   ・教会で牧師のありがたい説教をいただいた帰りに、ピストルを持って決闘場に向かう敬虔な信徒。

  私が高校で習った授業の一部である。この授業の先生は文法も発音も意に介せず、ただひたすら英語を「美しい日本語」に変換するだけだった。

  哲学と宗教、こういう生涯を掛けても掛けきらないテーマと美しい日本語が、同時に得られる授業、これが高校英語でなければならない。

  使い物にならない語学は、あとからどうにでも使えるようになる。語学をHow to earnでなくHow to liveに戻すよう“学識経験者”は努力しなければならない。プラグマティズムはアメリカ国内で沢山だ。

  付:12月23日のある大手新聞朝刊です。

s-1227モモとリッキー

NHKのラジオ番組はなぜ良質なのか 自民・公明のバラマキ

     夜の番組を聴いていたら、どこかの大学の先生に電話で、政府の経済対策をアナウンサーが伺っていた。

  その先生、曰く。

  自民・公明政府は、ありったけの金、あるもの、無いもの、すべてをばらまくだろう。

  ばらまいて、それがうまく働けば、自分たちの成果となる。後に民主党政府がどれほど成功しても、あれは、オレたちが蒔いた種が育っただけだ、と言える。

  ばらまいて、なんの成果も残らず、ただ借金だけが増えるのなら、民主党政府に、ツケが回って、四苦八苦の目に遭わせられる。いい気味だ。

  というわけで、どちらに転んでも、肥満予算を通すことに、損はない。だから、補正予算も来年度予算も、メチャクチャに大型になろう。

  と、こういう話であった。

  日頃、大学教授に碌な者がいないと嘆いている私も、感心した。まともな教授も中にいることを確認できただけでも幸せである。

  この放送は1か月位前にあった。今、その通りに政府が動いている。彼は特別になんとか経済学の博士ではなかろう。普通の感覚の持ち主であれば、誰でもこの程度は分かるのである。

  となると、真に感心しなければならない対象は、NHKのラジオ番組編集者ということになる。

  どこかの大学の先生は、裁判員制度と違ってクジ画面で決めるのではない。彼がどういう考えを持っているか、ラジオ担当者が、事前に十分把握した上での、電話インタビューである。

  NHKのテレビはニュースも報道も解説もまったく人のためになっていない。あいかわらず、「~と思われます」、「~と言えなくもありません」、「~と一部にですが存在します」、それで、締めくくりが、「~予断を許しません」あるいは「目が離せません」。これがテレビで幅をきかしているのだから、まともなディレクターはみんな島流しならぬラジオ流しに遭っているのではなかろうか。

  自民・公明政府の予算は本当にバラマキである。そのバラマキ禍を予見する大学教授を登板させたNHKラジオの勇気に乾杯!

s-1224リッキー

GDP ある国と日本の比較

     ついでだ。GDPの追加。

  日本はGDPが世界で上から何番目かという。正確には知らないが、10本の指には入っているのだろう。オネスト(正直者)麻生が自慢するのだから、間違いいあるまい。

  ある国では、戦車・戦闘機の生産は言わずもがな、車の生産、テレビの生産さえない。車は輸入に頼っているので、そう多くない。だから、道路もそこそこしか走っていない。

  輸出するだけの食料は生産できないから、外貨もそこそこである。

  前回紹介したようなポッコリ人生を送る人は一人もいない。

  さてさて、この国のGDPは、人口が一億であっても恐らく世界の中では、下から何番目かであろう。とてもオネスト麻生は我慢できない位置に置かれているはずだ。

  ある国を語り始めると切りが無いので、今日のブログはこれで終りとする。言いたい事が、GDPの人間生活にとっての無意味さだからである。

s-小さいモモと鶏

一生、ポックリは嫌だよね。 GDP国内総生産

     新聞は面白い。たまに読むから、有り難味まで加わる。年に数回の読者である私は、手にした新聞をくまなく読む。記者の記事に感心するものはまったくと言っていいほどないが、広告は世相を表しているようなので、浦島太郎こと小国寡民には、広告も丁寧に読むことにしている。もちろん、ビタ一文、広告を知って、それに使うことはしないが。

  その中で、ビックリした広告があった。

  「一生、ポックリは嫌だよね」

  ポックリとは、長く生き過ぎたおじいさんやおばあさんが、最後の我がままなる願いとばかり思っていた。死ぬ時はポックリが好き、故に、生きている時は嫌い、まあ、なんとか理屈をこじつけられないわけではない。

  と、よくよく見れば、ポックリでなく、ポッコリだった。

  広辞苑2千7百余頁の隅から隅まで知り尽くしている私には、ポッコリなる表現が日本語として目に入ってこなかったのだ。

  「ポッコリが気になったらダイエットサポート ××××」とサブ・タイトルで、初めて肥満人向けの商品であることを知った。

  こんな人にはおすすめ!と感嘆符までつけて特定された“こんな人”とは、

      ・ 外食が多い方
      ・ 食生活が不規則な方
      ・ 運動をあまりしない方
      ・ 野菜をあまり食べない方

  のことである。

  現役諸氏でこれに相当しない人は自衛隊員を除けば一人としていないのではないか。東京の高層ビルで働いている事務員、地方の工場で働いている工員、居酒屋タクシーに乗りなれている役人、天下り先で日長窓際で新聞を読んでいる元高級役人、この商品の顧客として十分な資格を備えている。

  小さな字で、約30日分5,800円と書かれていた。

  そこで考えた。
  
  日本人の半分がポッコリだとする。彼ら、彼女らが、待ってましたとばかり、これに飛びつく。月3千6百億円の売り上げ、年、4兆円に達する。

  すると、生産ラインは増強、人員は募集、能書きも増刷、印刷会社や製紙会社は受注拡大、運送業者は全国各地に配送で商売繁盛、トラックメーカーも潤う。宣伝の効果として、広告会社の営業員が毎夜銀座で高級ブランディーの接待。

  国内総生産に多大なる貢献をしたことになる。

  話を反転させる。

  日本人の半分がポッコリだとする。彼ら、彼女らが、なるほど健康によくないと気づき(この広告には、ポックリが健康によくないと丁寧に書かれている)、別な行動を取った。

  すなわち、

  ・外食が多い方は、スロー・フードで作る喜びを味わい、かつ、サンマ一匹の命を実感しながら、一食にありつけたことを喜ぶ。

  ・食生活が不規則な方は、無理して形ばかりの残業をしないで、通勤電車できちんと家に帰り、居酒屋タクシーの缶ビールの代わりに女房のお酌で一杯やる。つまらない経営会議を打ち止めて、定時退社を営業員に勧める。

  ・運動をあまりしない方は、ポチ(元総理大臣ではありません)を飼って、早朝の散歩を実行する。

  ・野菜をあまり食べない方は、生協で、一把99円均一の小松菜、ほうれん草、春菊、もやし等を月に990円買う。5,800円も買ったら、その人は、馬かヤギだ。

  これでは、国内総生産に多大なる貢献をしたことにならない。このメーカーは、生産工場を縮小しなければならず、人員も整理しなければならず、配送業者への依頼も激減する。銀行からの借入金の返済に苦労する。減産は当然のこと、へたをすれば、倒産だ。

  今、経済危機の真っ只中に日本が置かれているといいい、政府は大変だという。マス・コミは騒ぐ。業界は何とかしてくれと族議員に泣きつく。

  ポッコリ商品がいい例で、国民が健康で健全な生活を送ることと経済危機は反比例しているのだ。

  国民が絶対的飢餓線の近くをうろうろしていた60年前はGDPも少しは意味があったが、今は、まったく無意味な統計となってしまった。

  まともに生産活動、サービス活動をしてもGDPは上がる。まともでない商売でもDGPは上がる。ごちゃまぜとなっているから、なお面倒だ。

  何が何でもGDPを上げる景気の回復、この美名の下、それに便乗する日本国民にとって悪いあるいは不要な商品やサービスが、横行する。

  ポッコリとポックリ。日本がある日、ポックリ行かなければいいが。

  付の1:
  大手新聞の9月30日夕刊にありました。

  付の2:
  このメーカー、「多くの人に健康でいてほしいいう願い」が動機だそうです。ウソこけ。金を儲けたいと正直に言わんかい。


s-1224aメリー

鳩山大臣の快挙 農山漁村へ配置転換策

    昔々、日本が著しい経済成長をしていた時、その原動力は、農村の中卒、金のタマゴ、の大量雇用であった。私が、輸出部門で張り切って仕事をし、外貨を稼いだからばかりではない。

  そのお陰で、自動車が安く作れ、売れた。安く作れたのは、中卒だからだ。中卒がいなくなった田舎は、荒れ放題。

  自動車の生産が、国内の需要の何倍もしているのが、異常であることは、前のブログで言った。今、大量解雇が自動車業界で起こっている。当然の流れである。これを、再び拡大再生産のペースに戻そうとするのは、無謀である。そんなことをすれば、先々、もっと大きな不幸が待っている。

  自動車業界は不要な人員と設備をさっさと整理するといい。設備は、スクラップにする。人員は、金のタマゴ(もう成鶏か)として、再び農村に戻す。太陽の下でさわやかな汗を流す。土地は余っている。自衛隊の戦車で、ジャングルに化した畑を平らにすれば、あとは、適地適作、農の安全が保証される。もちろん、自給率も格段に改善される。

  私と同じ考えを鳩山大臣がしているようなので、誉めてあげることにした。

  付:
  持論の自衛隊の屯田兵化も含まれます。上級国家官僚も、最高裁判事以下、文字通りの天下りをしてもらいましょう。日の下、頭の機能復帰にもいいです。


自動車生産量大幅ダウン 正常化への第一歩

     自動車メーカーの団体のスポークスマンが、今回は、異常な落ち込みと記者会見で述べていた。

  彼にしてみれば、好ましくない現象だから、“異常”としたのだが、頭を冷やしてよく考えてみれば、異常なのはこれまでの日本の生産台数の方であることがわかる。

  出生数が年100万、免許を全員とり全員が自動車を持つとしても、年に100万台生産すれば日本は十分なのである。2度目の車検で新車に買い換えなど、奢侈以外の何者でもない。普通に使っても10年はもつ。車なんかそれでいいのだ。

  日本で使われる以上の車は輸出される。当然、輸出先では金を払わなければならない。金が無くなれば、日本の車であろうが、ドイツの車であろうが、買えない。

  トヨタが超優良企業とちやほやされるのも、なんのことはない、外国で金を払ってくれるお客様があってのこと。いなくなれば、タダの大企業である。いい例がアメリカのビッグ・スリーであることは言うを待たない。

  自動車産業に未来はない。クビになっても嘆くな。正社員でも、転職が出来る若さであれば、さっさと足を洗って、別の職業を探すことだ。

  政府は自動車産業の永遠なる成長のためにじゃぶじゃぶ金を注ぐだろうが、そんなことに乗ると後が怖いぞ。


高校英語を英語で 狂ったか、文部科学省の役人

    たった今、ニュースで知った。ゆとり教育を改める一環として、英語の授業は、英語で行うという。

  バカもいい加減にしてもらいたい。

  これまで何度も英語のことは語ったが、文部科学省が、本気で英語で英語の授業をさせるように仕向けるらしいので、こちらも、本気で怒ることにした。

  高校の3年間は、人生観を確立するための最も貴重な時期である。さまざまな思想や世界観に接し、そして吸収する。すぐに咀嚼できるものもあれば、40年後にようやくはっと気づくものもある。

  そういう材料をどうやって、英語を使って生徒に与えられるというのだ。シェイクスピアの戯曲とは言わぬ、ホイットマンの詩、小泉八雲のエッセイを、教師が英語でどう教えるというのだ。

  高校英語は英会話学校の授業ではない。「飛行場に着いて」、「レストランでの食事」、「キャンプ場で」etc.英語で英語を教えるとしたら、せいぜいこんな内容だ。英語教師が発音に自信がないと言っていた。そんな心配をさせる教育界は愚人の集まりだ。

  嗚呼、無駄な青春よ!

梅原仙台市長の出処進退伺い 国家官僚のお手本

     タクシー券代200万円、全額返納、市長報酬3か月半額減給。

  これが、彼の発想である。省の不始末などでも、大臣はせいぜい1割か2割、彼にしてみれば、思い切った決断だったのかもしれない。

  半額は65万、3月で200万、返納金とあわせて400万。

  月額報酬が130万円は市長風情にいかにももったいないが、それは別として、問題にしたいのは、彼のやり方が、まさに国家官僚のやり方、すなわち、文句があれば、金で済ませる、その典型であることだ。

  千葉の空港、ダム建設、薬害被害、自衛隊演習、沖縄米軍基地、他国家、その実、官僚が関与して悪の限りを尽くし、最後に、逃げられないとなると、国庫、その実、税金を積んで国民を黙らせる。

  今でこそ、最高裁が権力側に有利に判決をして、悪を救済しているが、一県一国制になったら、市民オンブズマンが、こんな堕落は許さない。

  早く来い来い、お正月。

宮城県恥の上塗り 梅原仙台市長

     目的地不明のタクシー券が200万円を超えた。それがバレて、全額、市に返した。金を返せばいいだろうと金で始末しようと考えた所はいかにも国家官僚出である。

  ここまでは、前のブログに書いた。

  今日の記者会見でも、まだ、誰に渡したかを言わない。理由が振るっている、「覚えていない」だって。

  数年前からバレるまで、延々と続けてきたのだから、忘れるはずがない。

  仙台芸者:「あら、梅さん、いい男だねぇ」
  梅原市長:「そりゃあ当たりまえだよ、顔で市長になったんだからね」
  仙台芸者:「ちょいと、帰り、一緒に乗せていってくれない」
  梅原市長:「一緒はまずいよ、ほれ、これで帰りな」

  といって、タクシー券を渡す。「覚えていない」以外に記者会見で言いようがない。

  仙台芸者の代わりに、仙台のクラブのホステスでも一向に構わない。

  しかし、男の私から見ても、とても“いい男”には見えないから、これはないだろう。

  もう一つ。後援会のメンバーに渡した。

  これは、十分考えられる。それも、後援会の偉い人だけならよかったが、使い走りにまで、気前よくタクシー券を渡した。これだけならまだよかったが、彼は軽率にも、偉い人にタクシー券を渡す時、つい口を滑らした。

  梅原市長:「偉い人にだけしか使ってもらいません、どうか内緒に」
  偉い人:「ふんふん、なにせ、おらぁ偉いからなぁ」

  仮に、記者会見で、どこそこの何某さんと口を割ったら(滑らすのではない)、後援会の偉い人は、「なんだ、おらばかりと言って。ウソこきゃあがって」と怒りだすだろう。運悪く、タクシー券にありつけなかった後援会の偉い人だったら、「おらぁ、もらっていない。あやつごときがもらったんか」と、次回の選挙支援を金輪際断ることになるだろう。

  これでもなければ、他に何が残っているのか。

  最後、金券ショップで、こっそり現金にしていた。これはないだろう。

  いずれにしても、「忘れました」しか彼には選択肢が残されていないのだ。プライバシーを盾にとって、受け取った人に迷惑がかかると言うのも、ウソである。バレて迷惑をこうむるのは、梅原市長自身である。迷惑とは再選が消えることだ。

甘くないよ、資本主義は

     景気が上向いている限り、程度の差こそあれ、みんな金を手にして、その金で相応の生活をしていられる。

  不景気があっても、数年、我慢すれば、なんとかなってきたので、日本人は、資本主義を少し甘く見すぎたのではないか。

  失業で苦しいとグチをこぼす人間がいる。適当に働けば適当に生活が送れる、こんな日本社会を当たり前に見ていた節があるとしか思えない。

  ご存知、国家強権で有無を言わさず働かせる旧社会主義国家には失業がなかった。フルシチョフが、アメリカには橋の下で野宿する自由があると資本主義をうまく皮肉ったことでもわかる。

  失業は困る、自由は欲しい、これは、どうみても虫がよすぎる。失業が嫌なら、失業する前に失業しないように自助努力しなければならない。

  その自助努力も嫌いなら、みんな国家公務員になればいい。そういう制度の社会がどういうものかは、ソ連がとっくに教えてくれている。

 わたしゃ、ご免だね。

1215モモ

国会中継 「百年に一度」の乱用

     国会中継を見ていると、初めから終りまで、景気が悪くなった、それにどう対処するか、こればかりが議論されていたようだ。

  百年に一度の危機が合言葉になって、麻生総理に至っては、今後百年まで安心できる仕組みまで考えていると言う。昔、写真で百年持ちますと宣伝したフイルムメーカーがあったが、百年目に、ウソだったことが分かっても仕方がない。

  だから、だれも今後の百年は気にしない。しかし、過去百年となると、それのウソかホントかが問題となってくる。

  中国大陸侵攻と占領、対米戦争、そして終戦の世相・・・これらはみんな過去百年の間に起きたことである。今の景気後退を百年の危機というにはあまりにも大げさ過ぎる。芸能事件なら面白おかしくなければ話にならないだろうが、国政の場で、こんな針小棒大は国民を惑わすだけだ。

  景気の悪化は、好景気があったからこそ起こったこと。ゼロ・サムなのだ。それを、景気が好いときは、酒池肉林におぼれ、悪くなったらどうしてくれるんだと、文句を言われても、資本主義殿下、苦笑いするだけで返事のしようがあるまい。

  国会中継を飛ばし飛ばし見た限り、国のあり方の再考など、質問者から一言もなかった。

  政治家がやらないなら、我々平民で、どんな社会が望ましいのかを、語り合ったらどうか。

尺八三年 首振り三年 

     尺八の稽古を始めたのが、3年前の12月。あっという間の3年だった。

  指穴を全開したままで音を出す、これが始まりである。尺八の孔は5つ、それを順次塞いで音をだすわけだが、これが難しい。だいたい、半年かかったように覚えている。

  次に進むと、メリという孔の塞ぎ加減で全開の孔と孔の間の音程を作る。これが、更に難しい。全開で曲がりなりにも音が出てから、次の夏まで結局丸々一年かかった。それでも、人前で鳴らしてみろと言われたら、「三十六計逃げるに如かず」。

  道具のことも一言。

  最初は安いプラスチックの尺八で始めた。師匠はどうせ習うのなら最低20万円の尺八ぐらいは、と嫌な顔をしたが、「貧乏年金生活者だから仕方がありません」と言い訳をした。しかし、音が出るようになると楽しくてやはり本物の竹製の尺八が欲しくなってきた。碁盤や碁石をオークションに出し資金を捻出し、念願の竹を同じオークションで手に入れた。

  これで妙なる音色が竹林に響き渡る・・・はずであった。

  驚いた。音が出ないのである。すごろくではないが、振り出しに戻ってしまった。息の出し入れを変え、口の形を変え、口の中を変え、「手を変え品を変え」を尽くして、ようやくそこそこの音が再び出るようになった。これが今年12月、やっとの3年目である。

  人は言う、「首振り三年」と。私は到達できなかった。うまくすれば、あと1年、うまくしなければ、あと3年、まずければ、首が振れる前に息そのものが吸えなくなってしまう。

  「あせるな」と「あきらめろ」の二つの命令により、私の心は乱れている。

  付の1.
  楽しくなって本物云々はウソです。進歩の遅いのをプラスチック管のせいにしたためです。

  付の2.
  首振りは、民謡のこぶしのようなもの。「う~ぅ~」てな感じです。

  付の3.
  「首振り三年」の真意は、どんなにへたな者でも、「三年」やれば、できるようになるということのようです。ある尺八吹きの話です。ガックリ。

  付の4.
  若い人は言うに及ばず中高年でも、3年で師範格に達することが珍しくないとのこと。尺八は難しいと敬遠なさらないように。
 
  付の5.
  竹製の尺八、20万はしませんでしたが、食費半月分は用意しました。

1212リッキー

COP14 日本、化石賞一位の栄誉に与る

     NHKでは絶対に取り上げないニュースと思う。現に私はこれをネットで初めて知った。

  昼のNHKのニュースは、COP14がまとまらないまま終わったことを告げた。日本の環境大臣が有意義だったと笑顔で語っていた。

  どこから有意義という言葉がでるのか。あきれた。世界の良識から世界一の時代錯誤者と誉められて、すまし顔でいられる神経を、同じ日本人の一人として、恥ずかしく思う。

  温暖化対策の実行は経済成長の妨げになると苦情を呈する国があるらしい。

  途上国の大勢がそう発言するのは納得がいく。しかし、先進国はこれを言ってはならない。もう十分に成長したのだ。私に言わせれば、先進諸国は成長をはるかに越えて、爛熟、腐敗の域に達してしまっている。向こう10年位は「足踏み揃え!」がいいのだ。

  金融危機はアブク銭さえ追放すれば解決する。温暖化は止めなければ、人類という種が滅びる。いずれが大事か、ピンとこなければ、とくと考えよ。

  付:
  更に細かにネットを読んだら、4度目の一位とのこと。なにが経済大国かね。こういう国は成金国家というのですよ、麻生さん。

首相の記者会見

    時々、首相の記者会見の番組に出会う幸運に恵まれる。

  昨日だったか、麻生首相の景気対策などについての記者会見があった。

  いとも簡単に1兆円、10兆円と彼の口から飛び出すのに驚いた。本当に彼は1兆円の意味が分かっているのだろうか。彼の財閥からでる寄付金でないという意味がわかっているのかということである。

  すべて、日本国民からこれまで巻き上げた、今巻き上げている、いずれ巻き上げる金である。

  この驚きはさしたる驚きではない。日常茶飯事である。本当に驚いたのは、記者の質の悪さである。

  一流大手新聞社の代表質問に立った記者が、「あの~、むにゃむにゃ、あの~ですね、ぼそぼそ、あの~、あの~、ほそぼそ、あの~ですね・・・」こんな具合で、まったく質問の体をなしていないのだ。

  こんな発言を民間企業である新聞社がよくも雇ったままでいるのか不思議でならなかった。商社は無論、メーカーでさえ、こんな発言をしようものなら、社長から、「何をいいたいのか、バカヤロ」と怒鳴られること必定である。

  テレビに出る彼らは、新聞社や通信社の代表である。NHKがタダで宣伝してくれるような場である。それを、なんであんな低レベル記者に任せたのか、もったいない。

  麻生さんが、再三、顔を傾けて質問の内容を確認した。要領を得ない質問に、素直に回答すると、すぐさま、待ってましたとばかり揚げ足を取られるから、用心してのことだ。

  麻生さんがバッシングにあっている。それで、少し同情しようかと思う気持ちになった。

  前の福田さんも、イタチの最後っ屁よろしく、「私はあんたより先が分かるんです」とどこかの記者をにらんだが、今から思っても、“拍手”100回の価値はある。

  私企業である新聞社や通信社にケチをつけるつもりはないが、最近、古い仲間から番記者制度の実態と大手マス・コミの保守談合体質を教えてもらったので、いい機会と思い書いてみた。

  記者諸君、「あの~、え~、あの~」は要らないから、代わりに政治家や官僚の顔が引きつるような鋭い質問を記者会見で投げたまえ。伊達に名刺を持っているのではあるまいに。

六か国協議 物別れ 日本外務省の勝利

     アメリカの失業率が6%を超えたという。ジャーナリストむのたけじさんに言わせると、朝鮮戦争が予想できたのは、この6%を超えるとアメリカは必ずどこかで戦争を起こすからだそうだ。

  今回の金融危機によって6%を越した失業率。

  アメリカは戦争を起こしたくてうずうずしているかもしれない。しかし、戦争する相手とは戦争をすでに始めてしまっている。目障りなキューバ、ベネズエラ、これらには大義名分が立たない。

  最も相手にできそうなのが、朝鮮である。イラクでは、ありもしない大量破壊兵器の存在をでっちあげ、兵器産業に巨大な富を築かせた。朝鮮が核兵器を準備していることは、世界中の誰もが知っている明々白々な事実である。大義名分にこれほどふさわしい事態はない。

  核施設がどこにあるかは分かっているから、ピン・ポイント空爆をする気になれば、一瞬でケリがつく。国民の鬱積感の解消にも絶大な効果が約束されている。しかし、残念ながら、それが出来ない。朝鮮のお隣りの大国、中国が、「好、好」と言わないからだ。

  朝鮮も、どうせ自国の崩壊が目に見えている、ソウル侵攻をやってしまえ、とやけのやんぱちを考えるには考える。だが、これも出来ない。中国が、「好、好」と言わないからである。

  結局、この六か国協議、議長国中国の手の中で踊らされているだけだ。踊っている姿を自国民に見せるのは、みっともないから、体裁を繕う、アメリカ代表、韓国代表、中国代表、みんな、深刻な顔でインタビューに応じていた。

  中でも、最も深刻な顔をしていたのが、日本代表である。困ったからではない。

  喜ばしい事態に直面したときに、満面笑顔になっては、外交官が勤まらないからだ。

  核の問題が解決したら、残るのは拉致問題だけとなる。六か国が二か国となる。アメリカや中国の陰でこそこそしておれなくなる。面と向かわなければならなくなる。だから、少し前に“いいかげんな”合意なら合意文書なんか無い方がいいと、口を滑らせたのである。

  当分、拉致の解決をしなくて済む。日米同盟における仮想敵も温存される。なんとか重工業などの軍需産業にいい顔もできる。日本代表がこれ以上ないという程深刻な顔をしたのは当然である。

  拉致被害者の会とかはどうするって。そんなもんは、拉致担当大臣に相手をさせておけだって。

  悔しいが、日本の外務省はいい年が越せることになった。

  付:
  勝利というより、たなぼたですかね。

公明党 永世与党を目指して

     昨夜、久しぶりに司馬遷と会った。

  以下は彼の語ってくれた政局談である。

  公明党は麻生政権を見限った。それでは誰にすればいいのか、誰もいない。誰が麻生に代わっても与党であり続けられない。完全に自民党を見限った。

  公明党は民主党が政権を担うことになっても、恥も外聞のあろうものか、とにかく与党の座に着いていたい。

  しかし、突然、民主党側に鞍替えするとなれば、やはり、外聞が悪い。そこで、知恵を絞った。

  先ず、自民党を分裂させる。島の松食い虫に冒された松の大木と同じで、一夜の強風で倒れる状態だから、いともたやすいことだ。

  そして、自分の殿様を裏切った側と手を組む。グループの員数はどうでもいい。マス・コミが騒いでくれさえすれば十分だ。

  次に、大連立を画策する。このままでは出番のない民主党の一部を巻き込めばそれほど難しいものではない。

  ありがたいことに、世論調査によれば大連立が大人気である。渡りに舟とはこのことだ。

  大連立には先の自民分派が参加する。そうなれば、自動的に自分たちもその仲間の一員として、加わることになる。

  ビリヤードのクッション・ボールではないが、こうして麻生政権を見限った公明党は、ワン・クッション方式で、その後も、政権与党となる。

  大体、こんな具合であった。

  もしも、今後の政局がまったく違った方向に進んでいくとしたら、それは、私の聞き違いである。司馬遷ともあろう人物が、器の小さな(ケチな)日本政治ごときで間違うはずがないからである。



子供のモモ

宮城県人の恥さらし(3)  政治家よ、自腹を切れ

     使途不明瞭な税金が話題になる度に、政治家は、「これは、公務でありまして、相手様の立場もありまして、むにゃ、むにゃ」と周りがイライラするほど、歯切れが悪い。

  梅原よ、宮城県議よ、そんな言い訳までして、税金を使いたいのか。
 
  私ごとき一平社員でさえ、仕事のためには、自腹をしばしば切って本を買い、人を尋ねたものだ。仕事のためでありながら、結局は自分の能力向上のためであることを知っていたからだ。

  梅原や村井に冬のボーナスが400万円渡るという。それに値するほどの貢献を、自ら進んで認め、その半分くらいは自分の仕事に投資したらどうか。タクシー代なんか典型的な例だ。自分の財布から自分の金を使っていれば、こんな恥っさらしに遭わなくてすんだ。(もっとも、国家官僚の常として、恥の意識がないのだが)

  県議だってどんな政治活動をしたのかしらないが、自分の財布から自分の金で研修なり出張すればいいのだ。高額の年収だ。1割を割いても、十分間に合うだろうに。

  税金の使い道で言い訳するほど、政治家としてみっともないことはなかろう。

  政治家よ、市のため、県のため、国のため、自腹を切れ!

  付:
  選ばれたバカ、選ぶバカ。

1210モモとリッキー

宮城県人の恥さらし(2) 県議と村井知事 政治活動費 

   仙台市には、梅原市長のような出来そこないがいる一方、仙台オンブズマンという宮城県の誇りとも言える団体が存在する。

  県会議員の金の使い方がおかしいではないかと仙台地裁に訴えたら、地裁が認め、県に返納するよう判決を下した。

  そうしたら、県議の連中が、村井知事に上告して欲しいと共産党議員を除くすべての議員が連名で陳情の次第となった。裁判官に政治が分かってたまるかいな、という主意からである。受けた知事は、「その通りですね」といって上告に前向きの姿勢を取った。

  大問題である。

  県議には自民党、公明党、民主党、社民党、他、無所属としていながら実質的には、どこかの党員であるものばかりだ。

  わずか数百万の金の使い道で、「大連立」が早くも出来上がってしまった。国家規模となれば数千億円になるかもしれない。大連立さえできてしまえば、まかりとおることになる。国家規模だから裁判所も最高裁の出番で、仙台地裁のような判決など、はなっから期待できない。

  すでに出来上がっているのが、政党助成金である。私は、何度このブログでぐちったか。憤ったか。

  世論調査によれば、大連立に期待する声が広がっているらしい。金融危機を国家危機と錯覚して、大政翼賛会を復活させる気か。何を寝ぼけているのか、有権者各位よ。

  非宮城県人に願う、愚かな宮城県議と愚かな村井知事を以って他山の石とされんことを。




宮城県人の恥さらし(1) 梅原仙台市長 タクシー券 

     この人、以前やたらに外国に出たがった困った市長だが、外国に行く回数が減った分、タクシーを“やたらに”使うようになった。

  行き先不明のレシートで、税金を取っていた。200万円かそこら使ったが、すべて公務でありやましい所は少しもないと記者会見で大見得を張った。

  NHKと違って真面目な地元の新聞社が追求していったら、自分が使ったのではなく、会った相手  に渡したと白状した。ウソを言うつもりはなかった、渡した相手のプライバシーに係わることだから、と言い訳を付け加えることは忘れなかった。

  いかにも国家官僚上がりの政治家である。

  市の担当職員が、行き先を書いてくださいと頼んだら、「私は市長だ、文句あるか」叱責したという。

  悪代官そのものである。担当職員の勇気(今時では当たり前の事でさえ勇気がいる)と梅原の狭量は良対象である。

  彼は、200万を全額返納した。未練がましく、私にやましい所はないが、市民感情を考慮したためと語る。これも、高級官僚の言い草である。

  彼の冬のボーナスが、彼に400万何がしかと言う。年収200万の勤労者二人の丸々一年分より高い金額が、こんな市長に、一回に与えられるのである。

  私は、元幕僚長田母神氏は退職金を堂々と受け取ればいいと書いた。主義・主張は違ってはいても、人間として下品さが感じられないからだ。

  梅原は辞職しないという。己のやった行為の下品さがわからないからである。

  恥を知れ、梅原!



1201モモ

設備投資の減価償却を一年に短縮するという政府

     日本に失業の嵐が吹いているという。有り余った金を目当てに物を作り過ぎた結果である。作るためには、設備が必要となる。人員の確保も必要だ。

  それで、バスに乗り遅れるなとばかり、増設と増員に現(うつつ)をぬかした。結果は見ての通り。

  今、しなければならないことは、実体経済の主権回復である。

  それを、何を勘違いしたのか、不景気対策に、ドンドン設備を増やしなさいと誘う。それのために、減価償却を一年に短縮してあげましょうという。

  政府は、じゃぶじゃぶ金を市中に流す。それを目当てに設備を増やすなら、病の元を断とうとせず、病人に栄養剤を与えて治療しましたとうそぶくヤブ医者と一緒だ。

  今の日本は、貧乏ではない。少なくとも絶対的飢餓の心配はない。ただ、富の再分配を実行してないだけだ。政府は、この所に話題が及ぶことを恐れるばかりに、上っ面だけ取り繕っている。

  町工場のオヤジさんたち。2年目から設備がタダの評価となると甘い話に乗って、設備を入れると、後で泣きを見ますよ。

  まして、無利子融資の甘言を頼りに借金をしてまで設備するなど論外です。

鶏のエサを食うモモ

1年対3時間

  NHKは、ラジオにいいものを持っている。

  篠笛を始めて1年、なんとかピーヒャララができるようになった頃の話。

  NHKのアナウンサーが小学校の音楽の先生と対談した。小中学校では、今、邦楽が義務化されているという。しかも、児童生徒は何か一つ楽器を使えることがカリキュラムになっているとのこと。

  対談の合間に、児童の筝の合奏が流れた。正月のテレビの出演者には及ばないが、素人離れしている演奏である。一人なら、家元の子供だろうかと疑うが、何十人の合奏であるから、やはり学校で習ったものと認めざるを得ない。

  私の篠笛は、“なんとか”に達するまで、丸々一年掛かった。ヤギと犬の散歩をしながら1時間半、家の中で1時間、毎日のように休まず練習した成果である。

  児童の演奏を聴いていて、「この子供たちも大変な苦労をしたのだろうなぁ、NHKに出るというので、田舎のじじ・ばば並みに密かに特訓を受けたのだろうなぁ。ご苦労なこった」と同情しながら聴いていた。

  アナウンサーも感心したようで、その先生に、「上手ですね。どれ位練習させたのですか」と聞いた。

  先生、「3時間です」

  一瞬、聞き間違いかと我が耳を疑った。続いた話から、その通り3時間である。大抵の事には動揺しない私も、これには参った。絶対値の比較でさえ気が遠くなるのに、平均余命を基にした比率なら、10年の1年、70年の3時間。まさに、天文学的“格差”である。

  このラジオ番組を聴くまでは、私のピーヒャララは一年の甲斐あって満更でもないと自負していた。それが3時間に及ばぬとは。

  アナウンサーは別に驚いた様子もなく、続いて、邦楽教育のネックは楽器がないことにある、できれば、家に眠っている筝・三味線などがあれば寄贈してもらいたい、そんな話になっていった。

  自己嫌悪が原因とは思いたくないが、邦楽教育を取り巻く環境など、あとの話はまったく上の空でしか聞いていなかった。

  You cannot teach an old dog new tricks.



金融廃絶法案を望む  新築600万円の免税

     今回の金融危機の発端がアメリカのサブ・プライム・ローンであるという。何年か何十年か知らないが、長期ローンを組んだまではいいが、その返済ができないということらしい。

  政府も日銀も社民党までも、労働組合までも、諸悪の根源がこのローンにあるという。100年に1度とは大げさ過ぎると思うが、とにかく、「み~んなローンが悪いのよ」の合唱だらけだ。

  今、政府は、新築家屋を建てる契約者に最高600万円の免税を施すという。本来600万円の税金が国庫に納まるはずなのに、一種の国家規模の脱税行為奨励である。先ず、これが私には気に食わぬ。600万円あれば、1万円を600人に分け与えられる善政も可能だ。

  それはさておく。

  この減税策は政府は景気回復のためであるという。減税を民に示せば、民はどんどん家を建てる。耳を揃えてポンと数千万円の金が出る者ばかりではない。この際、思い切って10年のローンを組もうか、どうせ借りるのなら1千万でなく2千万にしようか、などと“夢”をふくらませる人間の方が圧倒的に多いはずだ。

  免税措置がなければ契約をためらう程度の貯蓄しかない人間に、免税をエサに契約させようとしている。これでは、まったくサブ・プライム・ローンではないか。

  景気の回復どころか、数年先の金融危機が約束されているようなものだ。その時には、千年に1度というつもりか。

  金融危機の抜本策は、実体経済に悪さばかりをしている金融システムを廃絶すること以外にない。

  世界に日本だけそうできるかって。出来ますとも。廃絶に嫌気を差して日本から出て行く金は何千兆円であろうと、アブク銭なんですから。

  我ら日本人。カタギの経済社会に戻る絶好の機会ですぞ。こういう事に「百年に一度」は使うもの。

君ら、大学三年生  しっかりせい!

       12月は師走。正月を迎えられない弟子のいない師匠が金繰りに走る故事からだからと何かで読んだ。たぶんウソであろう。

  今日のニュースで、学生が就職できるかどうか心配でならないというのがあった。学生が走っているのである。

  振り返ってみた。どうせどこかに採用されるだろうと軽く見ていた私は、採用試験を片っ端から面白半分に受けた。12月はその半分だった面白さも、年が明けたというのに、不採用の手紙ばかりが届くばかりで、卒業という2月に入った時には、さすがに、9割方失せてしまった。

  優の数が少なかったのが理由だと思う。他に考えられない。後から知ったことだが、本当はもう一年大学に残そうかと教授連が会議したそうだ。卒業を前提としていた私は呑気なものだった。

  これは、昔々の大学4年の話である。

  私と違って不真面目な学生でない学生の諸君が12月になっても就職先が決まらないとは可愛そうなことだ、と少しばかり同情しながら、テレビを観ていると、どうも様子が妙なのである。

  驚くなかれ、彼らは大学三年生であった。最初、テロップの間違いかと疑った位だ。

  大学後期は後期老齢者の後期とは全くわけがちがう。それこそ春秋の年代だ。その時に、何をがたがた1年4か月先の就職で浮き足立っているのだ。国家官僚などのあきれる対象としては若すぎるので、私は、ただ落胆するばかりだった。

  一度社会に出れば、普通の人であれば30年以上、好むと好まざるとに係わらず(マルクス経済学の得意とする表現だった)仕事と付き合うことになる。男子は女房・子供を養わなければならないし、女子は旦那・子供を養しなわなければならない。生涯独身でも、自分の身だけは養うことになる。

  思う存分学問に接することができるのは、大学でしかない。高卒の仲間はすでに3年も働いているのだ。その時間を天からの授かり物と押し戴いて、どうして勉学に励まないのか。就職を心配する代わりにどうして世界・人間を思考しないのか。

  インタビューをしたアナウンサーも、せっかくのチャンスに、「君たち、大学三年生、就職活動なんか後回しでいいんだよ」と助言しないのか。一緒になって、金融危機の余波がここにも及んでいます、だって。

  故筑紫哲也氏もこのテレビを観たら、私と同じコメントを流すはずだ。

     偶成詩    宋 朱熹
    少年易老學難成,
    一寸光陰不可輕。
    未覺池塘春草夢,
    階前梧葉已秋聲。

 付:
  「偶成詩」はこのブログ、2度目かも知れません。忘れました。    

昔の資本家 今の資本家

     昔の資本家は、額に「資本家」とスタンプが押されていた。労働者は、首に「労働者」というプレートをぶら下げていた。だから、マルクス先生は、事態を極めて単純に考えることができた。あらゆる科学がその本質がシンプルである故、彼は、自分の社会主義思想を、その単純さを頼みとして「科学的社会主義」と定義した。

  今の資本家はどうか。

  零細企業の社長は、従業員が帰った後でも、一人、黙々と仕事を続ける。下町の工場で、深夜まで機械を動かしているのは、決まって、社長である。労働者以上に労働者である。彼に、「あんた、資本家かね」と聞いたら、ビックリするだけだ。「お前、バカか」と怒られるかもしれない。私は、こういう現場をある時は相手として、ある時は自分の勤め先としてさんざん見てきた。

  経団連の会長、東証の理事、はどうか。彼らさえ、資本家と言われて、「その通り」と答えることはないように思う。

  株価の動きを眺めて一喜一憂している個人投資家も、テレビに映っている人を見る限り、資本家のイメージが湧いてこない。

  また、日本人全員から、「自分が資本家であると思いますか」というアンケートをとってみるといい。限りなくゼロに近い数字がでるはずだ。

  資本主義の限界を100年に1度の金融危機と呼ぶのは誤りである。他人の金を使って拡大再生産する仕組みを壊さなければ、これから金融危機の拡大再生産を繰り返すことになる。

  昔なら、そのためには、血なまぐさい行為で資本家という生身の人間を世から抹消しなければならなかったろう。

  今は、その必要はない。制度を改めるだけで済むのである。制度は人間が作っただけのこと。その気になれば、どうにでも変えられる。

  禍いを転じて福となす。百年に一度のいい機会である。

裁判員制度 企業の採用試験から

    私は転職の経験が人より豊かなように思う。

  転職の内、2回が新聞広告である。写真付きの履歴書を送る。公家の再来かと紛う高貴な顔写真が物を言う。大学の成績表添付が条件であったら、すべてご破算になったはずだが、幸いにして、そんな会社は一社としてない。やがて面接となる。ここまでくればもうしめた物。「お前さんはほんとに稀代のペテン師だねぇ」とカミさんが保証してくれるほどの弁舌だ。採用通知が手元に届く。失業保険から、早期就職に対するご褒美で、特別一時金が手に入る。めでたし、めでたし。

  世間は常に裏表があるもの。ある会社で、自分の担当する部署に人員を増加するからと、その面接に立ち会えと言われた。採用されるか否かの立場しか経験していないから、何も分からず、「諾、諾」と答えた。

  先ず、履歴書がどっさり渡され、面接の日までに読むように言われる。これが面白い。写真が真っ先に目に入る。笑っている顔は一つもない。真面目そのものである。それから、学歴、職歴、ついでに家族構成までわかる。前科はどうかとみれば、“賞罰なし”

  そして、面接。就職希望者は皆、真剣である。面接する側のあらゆる質問に対して写真の顔と同じように真面目に反応する。私の立ち会った時の人事担当者はとても紳士的だったからよかったものの、性質(たち)の悪い担当者が性質の悪い質問をされても、我慢して応えたはずである。

  「小国寡民、君、何か聞いておくことがあるかい」と言われても、「ないね」。それで二人目からは、私はただ座っているだけとなった。

  履歴書から面接までの間、何となく愉快であった。履歴書から人のプライバシーを垣間見る。面接からはこの人間の生活基盤の与奪権利を実感する。私がダメと言えば不採用になる。普通の人間はなかなかできない経験である。これが愉快の原因である。

  しかし、終わって見ると、この愉快は、なんとなく後味が悪い。採用された人間の歓迎会の帰り道でその理由が分かった。

  人のプライバシーを覗くピーピング・トムの卑しさが一つ。これは、芸能人やスポーツ選手の裏側をこれでもかこれでもかと暴露してみせるテレビ番組の卑しさと同一である。もう一つが、人を選ぶ、落とすという権利の行使である。募集人員の数だけ選ばれれば残りはそれで終りである。仕事をしたいと応募してきた人を、落とす。不採用の通知が届けられた応募者の気分はいかなるものか。

  私は、二度と採用試験に立ち会うことなく宮仕えを終えた。

  裁判員制度。

  犯罪者と被害者の双方のプライバシーと今後の人生を、彼らから一段高い席から見下ろし、決定する。どのように決定しようとも、自分自身の身には何の影響もない。

  私のように良心の化身であればともかく、スキャンダルをテレビで観て楽しむ人間の多くは、不愉快どころか快感を覚えるのではないか。

  来年5月から実施されるという。選ばれていやいや参加した裁判員の中から、人を裁くことに快感を覚える者が多数でても不思議ではない。

  私は、前に、積極的に参加したいとする割合が15%に留まっているアンケートに、これが増えるようになったら日本はお終いだと書いた。今も、その考えは変わらない。裁判員制度が実施されて、参加裁判員が、「やりがいがあった」、「充実感があった」などと話すようになることを今から心配している。

  誰かが言っていた、「人の不幸は蜜の味」と。平穏に日々を送っている我ら民にはこんな言葉が無縁であって欲しかった。

裁判員制度 竹崎最高裁長官を誰が裁くか

    11月26日付けの某大手新聞が手に入った。そこに、竹崎新長官の略歴が載っていた。

  彼が、裁判員制度の張本人であるらしい。アメリカに官費で渡って、そこの陪審員制度にいたく感動したという。

  そして、「日本の裁判が過度に専門化したように映った」そうだ。

  それが、好ましくないから、市民を中に入れて、希釈しようと意図した。これが狂い始めである。過度に専門化したことが不都合であるなら、自分たちで改めれば済むことである。判例を引っ張り出して、そのコピーを繰り返してばかりいたから、こんな事態になったのだ。

  世間の苦を知らず、高額の俸給と身分の永世保障が授けられているのだから、それくらい自分たちで処理しなければならない。そもそも、弊害と感じた“専門化”は、市民の責任ではないのだ。自分たちの怠慢と保身から生じたものであろう。

  狂い始めの次にあるのが、殺人事件などにしか裁判員を参加させないことである。もしも、竹崎新長官が“官費”で学んだアメリカの陪審員制度に、巨悪に対して真っ向から争うアメリカ市民の姿を見なければ、彼が使った“税金”はまったく無駄金となる。

  現実にはその通りである。裁判員制度から、大企業・国家官僚・政治家(その他近頃大学経営者まで)の不正儀に市民が参加することをさりげなく除外している。

  隠蔽工作がばれて、100億円、200億円と賠償判決が出されたら、目も当てられないからである。アメリカで彼が目にした事を日本では見たくないという彼の権力側の立場では当然の帰結である。

  市民の苦労を代償にして、権力の都合のよいように司法を温存させるこういう最高裁長官こそ裁判にかけるべきである。

クモの巣 拡大再生産思想の誤り

     1月前までは、敷地は当然のこと、家のいたる所でクモを見ることができた。

  大きなクモは大きな巣、小さなクモは小さな巣、先のブログに書いた通りである。

  クモがコツコツ休まず作った巣だから、やたらに私は壊すようなことはしない。自分が歩くのに支障がある所だけ、尺八の管尻を使って取り除くことにしていた。これも前に書いた通りである。

  数週間前から急にクモの巣が少なくなった。残っているのも、すでにクモの巣の形をなしていない。近寄って見ると、9月にはパンパンに張っていた腹が見る影もなく痩せ細っている。

  息を掛けると、もぞもぞ動いたので、まだ生きていることがわかったが、雨と風にもう2~3回あたれば、クモの巣は消えてしまうだろう。そして、クモも死んでいくことだろう。わずか一夏の地上での命である。

  ここ日本最後の楽園で、私はこれまで12年間、したがって12回であるが、こうした姿を見てきた。誰かの漢詩の一節にあったように、同じ場所に張ってはいても、その主人は新しいクモである。

  昨年の巣より今年の巣が1割ばかり大きい、来年の巣は2割は更に大きくなるだろう・・・こんなことは絶対にならない。軒先から物干し竿までの巣は、私がその物干し竿を別の場所に移さない限り、永遠にそこに作られる巣は同じ大きさである。そして、そこに住居兼仕事場を構えるクモも同じ大きさである。

  私はこの“拡大しない”循環が大好きである。かつ、このクモたちは、獲物が豊富に捕れるからといって、第一工場、第二工場を作るようなことはしない。ましてや、隣りのクモが作った巣を、力づくで奪うようなことは絶対にありえない。


  クモは、自分の死と共に、自分のすべてをきれいに始末する。だから、来年、また同じ場所に新しい命が同じ大きさの巣が張られる。

  人間の世界はどうか。

  拡大再生産は、社会そしてそれを構成している人々にとっては、決して必要不可欠なものではない。単に資本主義という主義が必要としているに過ぎないのである。

  今年度の自動車生産台数が昨年度と同じでどこが不都合か。工場労働者の賃金が昨年と同じでどこが不都合か。飢えてどうにもならない時代ならともかく、これだけ富が蓄積されている現在、拡大再生産はまったく意味のない行為である。

  他人の金を借りてまで事業をすることはない。余分な金を他人に貸して、タダ儲けをたくらむ人種をのさばらせるだけのことだ。

  かつての社会主義国家は国家官僚によって食い物にされた。今の資本主義国家日本は国家官僚プラス資本家によって平安が乱されている。

  日本人はもともと贅沢が似合う人種ではない。世界で1番だ2番だと背伸びをしてまで拡大再生産を続けることはない。

  クモの巣は、毎年、こう私に教えてくれている。

  付の1.
  前に書いたが、死んだ人間の持ち物一切を燃やしてしまうというジプシーの映画に感動した。美田とまではいわなくても、家の一軒くらい残しておきたいものという俗物に冷や水を浴びせる映画だったからだ。何を隠そう、私も俗物一人だ。

  付の2.
  向こう10年は、富の再配分に全力を注ぐべきである。私の意見は、年収200万円の世帯が安心して生活ができる社会を実現させるべし、である。



1201モモ

筑紫哲也氏 「若者への提言」

     先月の新聞を読んでいたら、彼が世を去ったとあった。

  同世代人にはほとんど関心を持っていない私だが、この人ともう後二人の評論家には尊敬の念を抱いている。その二人は生きているので、名前は挙げない。

  以下は筑紫氏の講演の要約からの抜粋である。

   ~~~~~~~~~~~
  「若者への提言」
  自己充実とはどういうことか

  筑紫哲也 朝日ジャーナル編集長


  冒頭の部分

  エジプトで考古学者たちが遺跡の発掘をしていると、洞窟に落書がしてありました。解読してみると「近頃の若い者は・・・」と若者に対する苦情が書いてあったということです。前の世代が若い世代に向かって「近頃の若い者は・・・」と何やらぶつぶつ文句を言って歴史をつくってきたのが、古今東西を問わず人間の常のようです。

  そういうことを言い出すことは自分が“オジン”になったことを認めることになりますから、しゃくなので小言めいたことは言うまいと思っています。しかし、反面、年長者が文句を言って人間が順送りになってきたのなら、そのカードを一回くらいは使ってもよいのではないかとも思うようになりました。

  結語の部分

  最後になりますが、あえて皆さんへ提言らしいことを言うと、「若いころはずいぶんやったのよね」と言って、年をとったらすべて捨ててしまうようなことはしないで欲しい。

  よくあなたたちの世代はモラトリアム人間と非難されますが、悪い面ばかりではありません。文化、芸術、自分の好きな、若いときに執着したもの、そういうし好を、ビジネス社会のルールだけに従って、「そういうことは若いころやったよな」というかたちで捨ててしまう、家庭に入ったらほうり投げるというのが私たちの社会が作ってきた文化のパターンです。しかしこれがモラトリアムによって、少しずつ遅くまでのびていくという変化を見せ始めている。皆さんも是非、自分の好きなものと付き合うのを簡単にやめないで欲しいと思います。

   ~~~~~~~


  転記したこの最初と最後の部分は、当時45歳の私にとって、正に「我が意を得たり」であった。

  人間とは何か、戦争、殺人とは何か、考えつつ悩みつつ宮仕えを続けていた私の人生のちょうど中間点に出会った記事であった。

  彼の死去を知って、大事にしまってあるスクラップの中から探し出し、昔を忘れないように今日、ブログに残すことにした。

   合掌。

  付の1.
  中間には、政治、世代、真善美などについて多く語られています。しかし、こういう事については、彼の多数の著作で言い表されていることと思い、また取り立てる程の新鮮味もないので省きました。

  付の2.
  日本IBMの広報誌「IBM USERS」1985年5月となっています。勤務先の電算システムがIBMでしたので、毎月ただで読みました。「本稿は関東IBM研究会の「若人のためのセミナー」で行われた同氏の講演」と注がついています。

  付の3.
  20歳で“正式に”悩み始め、45歳でこの記事に出会い、そして今もうすぐ70。だから、私にとっては中間点なのです。

  付の4.
  今年は福岡正信師が逝きました。そして、筑紫哲也氏も。確固たる信念を持った人たちが去っていきました。世の常とはいえ、さびしいものです。

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