老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

日本青年、殺害さる その三. NHKの報道良心

  前回の、“その二”で、町村官房長官の詭弁を糾弾した。

  「だから、テロとの戦いは正しいのです」は正しくない。「だから、テロとの戦いに組してはいけないのです」これが、正しい。

  これで終わりのつもりでいた。

  雨続きでは、家の中で、犬やネコと一緒になってウロウロするほかない。ただウロウロするのも時間がもったいないと思い、8時の民放をみてみた。そうしたら、ペシャワール会の中村哲医師が、私が書いたことと同じことを言っていた。

  営利を目的とした一企業である民放でさえ、殺害された青年の会の代表に、日本国民に語り掛ける機会を与えている。

  それなのに、自称公共放送であるNHKはな~んにも彼に語らせない。拉致被害のオウム返しには、国民が暗記できるほど時間を与える、オリンピックでは、選手地元の私設応援団までテレビに出して(視聴者でなく本人らを)喜ばせる、プロ野球選手には1年がかりの密着取材だ。この中村医師との落差・差別扱いは、常識の域を完全に逸脱している。

  国家権力の手先である限り、政府の意向に従うのは無理もない。中村医師をテレビに出せば、ちょうちん学者や評論家のように自民・公明政府に都合のいい発言は一切出ない。政府のアメリカ追随がいかに日本人に不幸をもたらしているかが青年の死をもって国民の前にあからさまになるだけだ。

  “その二”をブログにして以来、政府軍用機移送の確認のためNHKのニュースを努めて聴いてきたが、青年殺害のその後がまったくニュースに取り上げられなかった。

  NHKに報道の良心が少しでも残っているのなら、公共の名において民放と一線を画する気概があるのなら、即刻、1時間番組の報道特集を組み、中村哲医師に思う存分語らせることだ。

  私個人は、まったく期待していないが、NHKの中にも一人や二人、まともな神経の持ち主がいそうな気も“しないではないと言えなくもないので、予断は許されませんが、今後の動きに目が離せませんので、注意して見守るのは、無駄と言えなくはないとは言えないでしょう(NHK調)”

  民をおちょくるのも、いいかげんにせいよ、公害放送NHK!

  付の一.
  雨の日は、犬とネコはエサ食いの時に起き上がるだけで、よく寝腐れないと感心するほど、24時間無休で寝ています。ですから、正しくは、人間だけがウロウロしていると書くべきでしょう。

  付の二.
  ニュースや報道番組は民放の方がはるかに正常ではないか。NHKは演歌とふるさと番組と素人のど自慢に特化したらいいのではないか。無害であるだけでも結構なこと。そんな気がしています。

  付の三.  「日本青年、殺害さる」の部、これで完結とするつもりでいますが、福田と町村、それとへんてこな外務省副大臣がいる限り、保証はいたしかねます。

道州制 その三. 天皇制連邦国家群

   道州制を読むと、外交や金融などは無論のこと、主要な道路や河川まで、国の手元に置くようだ。これでは駄目だ。国家官僚に骨抜きにされるのが、目に見えている。

  明治以降、富国強兵を国是として、中央集権を保持してきた。大戦までは軍事力を、終戦後は経済力をいかに高めるか、それを最優先として、政治が行われてきた。軍事力が否定されたのが、太平洋戦争であり、経済力が否定されているのが、地球環境の悪化である。軍事力の否定のように敵によるものでないが、今日の気象変動を見れば、思考能力が正常である日本人なら、経済力の否定を否定しないはずだ。もっとも、見えても、見ない振りをする人間はどこにでもいるが。

  軍事力、経済力、共に否定されている現在、富国強兵はまったく無意味になった。それを推進してきた中央集権国家も、無意味となった。

  幸いに、お隣りの国々に覇権国家はいない。県を国に分散しても、これ幸いと侵攻してくる国はない。

  外交は、それぞれの県(以下、国)の考えによればいい。日米軍事同盟が好きな国は、そうすればいい。陸・海・空三軍を保有するのも国次第だ。通貨は国ごとに決める。道路が欲しければ、自分の予算を思う存分、使うことだ。黒字だろうが赤字だろうが、国債の発行も自由だ。その分、後になって国の民が疲弊しても、他国は知らない。

  裁判、警察、教育、放送、貿易、以下、同文だ。

  国連加入も、当然、国による。キーワード事典の付録で各国データとやらを調べてみたら、日本の最も人口の少ない県でも、立派に国として通用する。国民総所得においてはなおのこと。外国から、なんの苦情も来ないだろう。

  残る唯一の国家(現在の呼称)官僚は宮内庁である。40幾つにも別れた国を一つの日本民族として精神的(私はこれを“血”と呼んできた)結合の象徴にはどうしても天皇が必要である。カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、そして多くのカリブ海諸国が立憲君主制を維持しているのと比べれば、日本の天皇の重さは、イギリス王室の比ではない。

  しばらく前に、一度、ブログにしたことだが、目に余るバラマキを目にして、繰り返すことにした。決して、ボケから繰り言を言っているのではない。

  これからも、小国寡民の名に恥じず、小国でありかつ寡民である日本を理想として、このブログを続けていく。

   ― このシリーズ、終わり ―

道州制 その二. 一県一国制度

   都会では簡単でないかもしれないが、田舎では、役場の職員と親しく話し合える。結構、本音のやりとりができるものだ。これが、宮城の県民性によるのかどうかわからないが、国の予算委員会で答弁する国家上級試験合格者では窺えない誠実さを肌で感じることができる。

  政治家も然り。市議会議員のレベルであれば、私こと小国寡民でも、遠慮せず対話することができる。主義主張が異なっていても、真面目対真面目であれば、別れた後でもすがすがしい。ある政党の国会議員にも、地元出身ということもあって、これまで数回会っているし、これからも、訪ねれば、門前払いはされないだろう。

  私は、一年金生活者である。数十、数百の票が私の一言で動くような権力は持ち合わせていない。税金は、県の財政を左右するほど納めていない。それでも、直接、無理をしなくとも(後援会や支援団体に属さなくても)、政治に参加できる。もちろん、政治を動かす結果になるか、ならないかは別である。少なくとも、4年に一度しか参政できない状況にはない。

  県を国に昇格させれば、一市民が、直接国に参政できるようになる。仙台市オンブズマンほか、各種市民団体の活動が活きてくる。

  道州制は、中途半端だから“たかり”の温床となる。県まで小さくすれば、目先の“たかり”が直ちに自分にしっぺ返しとなって返ってくる。

  賢い県(国)は賢い政治家を産み、愚かな県(国)は愚かな政治家を産む。愚かな政治家による愚かな政治が、他県(他国)に及ばない。賢い政治は、他県(国)の手本になる。

  県を国にすれば、福田総理は彼の地元県(国)に留まっていただくことになる。ありがたい事態となる。

    - まだ、続きます -

道州制 その一. 県対県のたかり比べ

    都市、地方を問わず現在の日本政治の根本理念は“たかり”である。理念とたかりは、語感が揃わないが、“たかり”を利益誘導や補助金・助成金獲得などに言い換えると、どうもピンとこない。“たかり”のために陳情があり、陳情が実を結ぶために、中央とのパイプが、不可欠となる。特に地方で顕著なのだが、国会議員の選挙で、安保、第九条、思いやり予算、海上輸送などで論戦となった試しがない。弱小政党がやっきに議論をけしかけても、強大政党には、のれんに腕押しだ。そんなことにかまっていては、票がどんどん敵方に移っていくのが目に見えているからである。

  道州制になれば、この“たかり”理念が肥大する。現在は、全国から集まってきた国家官僚が、お互いに牽制しあうことで、わずかながらも歯止めが掛かっている。道州制になれば、パイプ役代議士に恐いものがなくなる。大分県の教員試験や福島県の知事などの二番手、三番手が続出する。

  県対県の予算ぶんどり合戦が道州議会の姿となる。

    - 続きます -

ばらまいて、あとは野となれ、山となれ

  先日、町村官房長官が、「バラマキ」はしないと発言した。盟友公明党のおはこであるバラマキをしないと公言したのだから大した度胸である。彼が勝手に言うはずがないから、これは、福田首相の考えであると私は受け取った。

  いつもの二枚舌と疑ったが、たまには、素直に聞くのも一興と、エールを贈ることにした。

  そんな気分でいたら、民主党が、計1000億円(重油800億円、軽油200億円)を漁業者へ直接補填する緊急支援策を公表した。これは、真性のバラマキである。公明党顔負けのバラマキである。

  あきれていた所、今度は、政府が、負けてはならじと、原油高や景気減速の対策として、総額11兆円の事業を正式決定するという。さすがに国家のサイフを握っているだけあって、同じバラマキでも民主党の1,000億円とはスケールが違う。

  今回、公明党が主張している低所得層などに対する臨時福祉特別給付金も、かつての地方振興券を思い出させる。バラマキのお手本である。これを、政府は了承したという。

  そもそも、景気の減速は一過性のものだろうか。

  ロシア、中国、インド、ブラジル、国で数えれば4つだが、人を数えれば、20億を超える。この人たちが、一人ひとり、車を持って、水洗トイレを使って、年に一度でも外国旅行するようになれば(私はそうなるものと確信している)、石油はいくらあっても足りなくなる。当然価格は2倍、3倍と上がっていく。日本の物価は、彼ら20億の人間とアメリカや日本など数億人との間で生活水準(物質面)が平衡になるまで、絶え間なく上昇していく。

  その度に、景気対策や緊急支援していたら、日本はどうなる。

  物価高に遭っても、周章狼狽しないように、国民を納得させるのが、国家を預かる者の責務である。苦労を伴おうとも自助努力をするように国民に勧める。それを怠り、国民にいい顔をしようとするバラマキは、結果として、日本を衰退させる。

  痛みを国民にお願いできない。お願いすれば、政府の無駄遣いはなんだ、国家官僚の高給報酬はなんだ、特殊法人の天下りはなんだ、防衛省は何をしているんだ、官舎の家賃はどうなっているんだ、社会保険庁の懲戒者を厚生省に再雇用するとはなにごとか、国会議員の政党助成金はどうなっているんだ、以下続々、政府ばかりか、野党政治家にも跳ね返ってくる。国民にあれこれ突付かれる。

  それなら、どうせ人の金だ、税金を思う存分使って、カラになれば、国債を印刷すればいいや、ということになる。気軽なもんである。

  「ばらまいて、あとは野となれ、山となれ」

  十数年前、親しい仲間に送った賀状の政府風刺の文言である。あれから、日本の政治は一向に進歩していない。残念だ。

  付:
  景気減速は地球環境に好ましい事態である。カンフル注射して、地球を更に狂わせていくのでは、何のための注射かわからない。日本はすでに“十分以上”に物質的に豊かになっている。“十分”のレベルまで下げるに何の憂いがあろうや。

s-a0829モモとリッキートリム

日本青年、殺害さる その二. 居留地の自国民の安全

   軍隊を外国に派遣、すなわち侵略行為をする時、100%とは言わぬが99%は、在外自国民の生命・財産の確保を大義名分とする。

  本音は領土が欲しいのだが、それではあまりにも露骨なので、自国民の安全を前面に出す。在外の外の方からみれば、理不尽極まりなくても、自国民の拍手喝采には、これほど効果的な理屈はない。「自分の兄弟・息子、娘が、外地で迫害に遭って黙って見過ごせるか」、この一言で十分だからだ。例の拉致被害と同じレベルである。

  チャールトン・へストン主演の映画「北京の55日」を出すまでもなく、大日本帝国の中国大陸侵略の第一歩は、この自国民の安全から始まったと言っていい。

  それがいかに無理筋であるかは、中学・高校の日本史が教えてくれているところだ。

  歴史は繰り返すか。

  町村官房長官が、亡霊を呼び戻そうとしている。純な日本青年の死を利用し、ここぞとばかり、「だから、テロとの戦いは正しいのです」と、厳かな顔で、記者会見を締めた。私の目は節穴ではない。彼の二つの瞳が活き活きと輝いていたのを、見逃さなかった。大臣・役所の不祥事の弁明記者会見とは、大違いである。

  町村、その親分の福田は、歴史を繰り返そうとやっきになっている。もうあと2~3人日本人が殺害されれば、自衛隊の給油活動は無論のこと、機関銃や装甲車を携えた自衛隊派遣まで、正当化されるはずと期待している。

  冗談じゃない。

  「だから、テロとの戦いは正しいのです」は正しくない。「だから、テロとの戦いに組してはいけないのです」これが、正しい。

  上海の租借地を列強に交じって占拠した大日本帝国。アメリカに従ってアフガニスタンを占拠しようとする民主国家日本。

  わたしゃ、そんな日本、御免だね。ねぇ、メリーちゃん。

s-a0828メリーと鶏トリム

日本青年、殺害さる その一. NGOがPGOに落ちた日

   昼のニュースで、遺体は軍用機で運ばれるという。一瞬、我が耳を疑った。先日のオバマ氏の核廃絶公約に続いて、二度目である。福田・町村の口を疑うばかりか、自分の耳まで疑うようになった。困ったことだ。

  殺害された日本青年は、あるNGOに所属して、政治色抜きで、アフガニスタン人民の幸せを願って行動してきた。内戦の巻き添えを食って死ぬかもしれぬこと位は百も承知の上での行動だ。だから、私は彼に同情するつもりはない。彼も、同情を受けるような軟弱な人物ではあるまい。ただ、冥福を祈るのみである。

  問題は、彼の遺体がアフガニスタンの軍用機で移送されることである。これでは、本人や所属団体が、いかに中立の立場であると主張しても、アフガニスタン政府側の者のレッテルが貼られる。

  カール・マルクスが口癖にしていた、「本人がどのように自分を定義づけようが、事態になんら変化はない」のである。

  NGOはNon。それが、PGO、すなわちPro(親)―政府団体に変貌してしまった。

  遺体はどんなことがあっても、政府の手に渡してはならなかった。たとえ陸路が危険であろうとも、自分達の車を使うべきであった。

  反政府勢力は、軍用機の移送を知って、そうでなくても日本政府に好感を抱いていないのだから、日本のNGOも結局は、アフガニスタン傀儡政権の手下でしかないと、決めつけるだろう。“完全”重装備のアメリカなどの軍隊に敵わないとみれば、“完全”無防備の日本青年が標的にされる。これから受難の時代がやってくる。

  優秀なスタッフが揃っているあのNGOが、どうして軍用機に遺体を載せたのか、このことが不思議でならない。NHKがデタラメを流すはずがないので、我が耳を疑うことした。

  夜7時のニュースでこの疑いは晴れるが、今日は、町村官房長官の記者会見に怒りが込み上げてきたので、早々と書くことにした。

  耳の老化を認めるのは悔しいが、なお私は私の聞き違いであることを願う。

アメリカ軍艦への海上給油

    一般の人は耳にした事が無い言葉に、「みかじめ料」がある。学生時代、ヤクザ映画ファンだった私は知っている。

  ヤクザが、「ここは大変物騒な場所ですよ。私たちが、守ってあげますから、安心してください。いえ、謝礼なんかほんの少しで結構です」と飲食店などに持ちかける。この時の謝礼が、「みかじめ料」である。

  物騒なのは、当のヤクザであるのは明白だ。しかし、断れば、本当に物騒な事態となる。だから、大抵は泣く泣く従う。これを見かねて立ち上がるのが、高倉健であり、鶴田浩二であり、勝新太郎である。

  池袋の地下映画館から出る時は、まるで自分が高倉健になったようで、普段柔和な私の目つきが、鋭い眼光に変る。

  さて、アメリカから油を買って、その油を、再びアメリカに差し上げる給油活動。

  日本の石油は80%だか90%を中近東から運んでいるから、シー・レーンの確保は国の存亡にかかわる最重要事項と、福田と町村は口を揃える。そして、そのシー・レーンがテロに脅かされているから、アメリカにお願いして、守ってもらうと言う。

  これでは、ヤクザがもちかける前に、店主の方から、みかじめ料を払いますからよろしくと、頭を下げることと同じだ。こんな映画が上映されても、誰一人観にいかない。

 国際関係において云々などと、福田は民を煙に巻いているが、どこが国際関係なのか、さっぱり分らない。

  福田は、この際、思い切って、国民に向い、「アメリカから、『みかじめ料を払わないと、ある日、突然、日本のタンカーが我が軍艦のミサイルで誤爆されるかもしれないよ~。その時はごめんね』と言われているのです」と正直に打ち明ければいいのだ。

  続けて、「それでも、給油活動を拒否するなら、食糧も石油も値段が3倍に上がります。国民の皆さん、どうしますか」と国民に判断を委ねればいい。

  なにがなんだかとんと分らない国際社会を持ち出されるより、よほど、すっきりする。

  日本国民の大半が、それならやっぱり景気優先だというのなら、それまでの事。小国寡民は何も言わない。いや、ヤクザに払う金などビタ一文ない、というのなら、日本人の一人であることを誇りとする。

  付.
  おもいやり予算といい海上給油といい、自民党政府は、本当に、日本の自由選挙で選ばれた国会議員で構成されているのか、疑っています。民主党政権になっても、同じかね。

NHK この30年 変わったもの 変らないもの

   変らないものは、これまで何十遍と繰り返してきたように、国家権力の宣伝部隊であることである。文革当時の紅衛兵と同じと思っていれば間違いない。国家に都合の悪い話題をニュースとして提供することは、極力避けてきた。

  これは、なにも30年と言わず、太平洋戦争以前から一貫しているから、60年、70年のスパンである。

  今日は、「変ったもの」を考えることにした。

  質の高い番組が消えたこと、優れたディレクターが、(たぶん)干されていることなどを挙げてもいいが、最も顕著な変化は、自社CMの氾濫である。

  30年前は、日曜の大河ドラマの事前紹介程度だった。他に記憶がない。

  今は、ほとんど30分に1本の割合で、CMが流されている。「BS1ではなにがありますよ」、「BS2では」「ハイビジョンでは」、「総合テレビでは」、「今夜、8時には」、「今夜10時には」、「来週の番組は」、延々と“お知らせ”を視聴者に“知らせ”結語は決まって、「お楽しみに」である。

  第一の問題。お知らせが流されれば、その時間だけ、正常な番組が削られること。30分が与えられれば、意を尽くせるものを、29分になったため、やむなくカットしなければならないことなど、日常茶飯事であるはずだ。

  第二の問題。民放でこれだけ大量の自社CMを組む局は一つもない。一秒単位の時間が商品だから、自分の所の商品を自分で食いつぶすようでは、収入にならない。だから当然である。NHKがやっているような編成をすれば、民放なら、営業部長は即刻クビだ。

  NHKにそれができるのは、視聴料が黙っていても自分の懐に入ってくるからである。いってみれば、視聴者は、今やNHKにNHKの宣伝費まで負担しているようなものだ。

  新聞には、広告の紙面占有に歯止めがあると聞いている。NHKには歯止めはいらない。一切の自社CMを禁止すればいいだけだからである。

  このまま、野放しにしておけば、つまらない番組になんとか国民をつなげようとして、益々自社CMに彼らなりの心血を注ぐようになり、肝腎の正規の番組が疎かになっていく。

  私の知っている限りでも、金光寿郎による福岡正信師との対談、倉本聡氏の自然環境をテーマにした対談、グラフィック・オーディオ、外国メディアの優れた番組の紹介など、NHKにもいいものがたくさんある。

  自社CMに頼らず質の高い番組で視聴者を惹き付けよ。

  「桃季言わざれども下自ら蹊(みち)を成す」というではないか。

付:
 ここでは大河ドラマとしていますが、前に書きましたとおり、「せせらぎドラマ」が妥当な表現です。

我が闘病記 その四. 病は気から、気はネットから

  この気は病気の気。ネットはインターネットのネット。

  ネットに参加したのは、確か5年前だったか、碁の相手が欲しかったからである。それに、付随する形で、メールの交換、少し慣れてきて、オークション出品、そして、昨年から始めたブログと続いた。

  ここは、光も届かぬ地の果て、ADSLも永遠に来ないとNTTに念を押されている。せめてというわけで、フレッツISDNの常時接続で通してきた。

  その中味と言えば・・・

  ネット碁。碁は脳の活性に役立つかのように言う人もいるが、ほとんどウソだと思う。私は、数十年碁を打ってきたが、一向に頭の内部に変化は見られない。碁キチの仲間は沢山いるが、ノーベル賞を取ったとか、科挙に受かったという話は賀状を見る限り皆無である。

  オークション。あの世に出掛ける前に(と言って戻るつもりはありませんが)、身辺を整理しようと心がけて始めた。かれこれ2年ばかりやった。今年の春には、ついに売りに出す物が無くなってしまった。人から見れば赤貧、自分で言えば清貧である。

  そこにきて、七十の手習いの尺八である。入門当初は、師匠から、「小国寡民さん、音が出ましたね、素質十分です」などとおだてられ、いい気分でいたが、三年もすれば、兄弟弟子と比べるようになり、自分のレベルの低さを自覚することになる。

  そうなると、ヘタなゴルファーと同じで、己の実力を棚に上げる。ご存知の通り、ヘタなゴルファーに限って、フック、スライス、バンカーからの脱出、パット、みんなクラブのせいにして、東京御徒町のゴルフ街にせっせと通うものである。

  自分がいい音を出せないのは、ひょっとして、尺八に原因があるのではなかろうか、という気持ちになってしまった。少しまともな尺八となれば、20万円、30万円が相場とのこと。私の尺八は、8千円で落札した無銘。

  それで、私は計算した。

  碁は進歩がないから止める。出品できる物はないからヤフーのプレミア会員を下りる。残るは、メールとブログだけ。これなら、何も、常時接続でなくていいではないか。メールは下書き、ブログはWORDで作成して、あとでアップ・ロードすればいい。一日、5分とかかるまい。ならば、ダイヤル・アップで十分。

  そうすれば、差額を貯め続けた4年後には、20万円とはいかなくても、かなりの尺八が手に入る。ふふふ。冷静に考えれば、4年後には、尺八が吹けるどころか、息をしているかもわからないのにだ。

  NTTとプロバイダとの手続き、アダプタ交換、環境設定、等々、やっとのことで、ダイヤル・アップに変更。

  これが、思ったことと実際とは大違い。大誤算。

  プロバイダまでは届くのだが、その先につながらない。「ページを表示できません」。何度トライしても、白い画面にこればかりが表示される。プロバイダに接続されているので、課金だけは、分単位で増えていく。“老いの一筆”にしようにも、年がら年中門前払いを食わされる。一つの記事のために、1時間以上も、自分のブログに接続を試みること、ほとんど毎日である。

  もう一つ、メールに写真が添付されている場合。縮小されないまま送られてきたものは、2時間かかった。ウイルス・ソフトが小刻みに確認しながら、取り込んでいるためだろうが、数行の「今夜の集まり」文に付いている写真のために2時間。いくらなんでも長すぎる。このメールが開かれないことには、あとのメールが読めない。初めから2時間と分っていれば、まだしも、いつ終わるか分らない、ひたすら待つだけである。並みの添付でも、5分、10分はざらであった。せっかく近況報告を写真にしてくれている人たちに、いらないとは死んでも言えない。

  6月1日からの受難続き。尺八の買い替えどころではない。毎日1回はパソコンに向かい、向かえば、先の警告表示ばかりで、前に進まない。精も根も尽き果てた。完全に神経衰弱になってしまった。今風に言えば、ノイローゼ、ストレスの塊だ。

  下痢が病気だったが、たまたま下痢であっただけで、蜂に刺されても入院となったろう。散歩の途中、防波堤から落ちて骨折していたかもしれない。寝冷えから、急性肺炎になったかもしれない。

  すでに、私の全身を包んでいる気は病気の気になっていたのだ。

  付の一.
  ダイヤル・アップの送受信速度は、31.2kです。皆さんとは、2桁違うでしょう。

  付の二.
  今月半ば、フレッツISDNに戻しました。これでさえ、62kです。通信棄民です。別に怨みませんが。

  付の三.
  ネット碁も再開しました。頭は良くなりませんが、ボケの進み加減の物差しになることがわかったからです。

s-a0826リッキー

世界は戦争、日本は平和

  タイトルはできるだけ簡潔にするものと、国語の授業で習った。今日のタイトルが簡潔であるのはそのためである。

  タイム・マシンによる昔の話はもう終わりとして、今の世界を宇宙船からざっと見下ろしてみると、あちらこちらで人間の集団同士が殺しあっている。戦争をしている。

  当事者のいずれもが、胸を張って「我らに正義あり」と叫んでいる。兵隊は言わずもがな、一般市民まで、街頭に集まって、こぶしを挙げて、「我らに正義あり」と叫んでいる。公平をモットーとしている私は、地上に降りて、それぞれの言い分を聞く。すると、いかに相手が極悪非道であるか、こればかりで、自分たちの正当性へはいささかの懐疑も聞かれなかった。


  「相手さんはこう言っていましたよ」と、告げ口をすれば、ますますムキになって反論するに決まっている。それを、また、戻って、「相手さんは、こう言っていましたよ」となれば、火に油を注ぐことになる。日本のマス・コミの得意のやり方だが、えげつないので私は、「ふん、ふん」と聞くに留めておく。

  島の我が庵に戻って、つらつら思うに、結局、どちらの味方につくかで、正義の行方が決まることに、気がついた。戦争を起している国のどちらにも組するつもりはないから、戦争をやりたければ、やればいいし、やりたくなければ、やめればいい。それだけのことである。

  賢治は、「ケンカや訴訟はつまらないから止めろ」という人間になりたかったようだが、戦争を起している国に向かって、「戦争はつまらないからやめたらどうでしょう」などと、言おうものなら、殺気立った将校により即銃殺あるいは監獄入り、よくて国外追放である。骨折り損である。

  それでも、間に入って、仲介を演じるのは、その国が、仲介によって骨折り損どころかおおいに潤うソロバン、いいかえれば、国益があるからである。賢治とここが違う。

  “世界は戦争があるのも自然だし平和であるのも自然である。日本は世界と無関係に平和でいられる”、やや無理気味を承知でこれを簡潔にしたのが、本日のタイトルである。

  温泉は湧いても石油は湧かない。金・銀・財宝、どこを掘っても見込みない。ガレー船用に捕虜にしたくても、4階に上がるのでさえエスカレーターに殺到する若者はヘナヘナで全然使いものにならない。富士山頂から見回せば、サル山、イノシシ山、シカ山。自国民を殖民させるに十分な耕地がない。

  これほど、ないない尽くしなのだから、日本は、軍事同盟さえなければ、他国から戦争を仕掛けられる危険は万に一もない。平和に限って言えば、世界でも稀な恵まれた国である。

  日米安保条約は我が国の平和保障条約ではなく、戦争誘発危険条約である。福田や町村は、石油の海上輸送の安全確保に自衛隊の給油活動が不可欠という。テロを育成しているアメリカに給油活動をするからこそ、危険にさらされる。国際関係を理由にするのは、他に言い訳のしようが無いからである。 Shame on you!

  日本は、どんな理由にせよ、海外派兵をしてはならない。タイム・マシンに乗っても宇宙船に乗っても、結局、小国寡民の行き着く先は、「海外派兵、絶対反対」である。

戦争と敗戦

   私の最も好きな乗り物は、タイム・マシンである。バック・トゥ・ザ・フューチャーにあったギンギラギンの車でなく、座ればどの時代にもいけるH.G.ウエルズ製のタイム・マシンである。

  最後に乗ったのは数年前だった。戦争に対する意見を求めての旅である。

  ジンギス・カーン、アレキサンダー大王、ジュリアス・シーザー、ビクトリア女王(何世か忘れた)、始皇帝、リンカーン大統領、いずれも戦争の主人公である。一度夢の中で握手した毛沢東にも、再会して話を聞いた。

  この人たちは、ひとりも、戦争を否定していない。それどころか、栄光と繁栄をもたらした戦争を偉業と誇らしげに語っていた。

  どうも妙な感じがして、ヒトラー政権時代の開戦前のドイツに行ってみた。ヒトラーは独裁者のレッテルを貼られているようだが、ドイツ国民が自由選挙で総統に選んだドイツ国民の総代である。それで、彼を選んだドイツ人に聞くことした。一人として、戦争は嫌だと答えなかった。

  ますます妙な感じになって、ご当地、日本に戻ってくることにした。日清戦争、日露戦争の時代である。ここでも、日本人が、栄光と繁栄を語っていた。戦争はいけないことだという日本人には、ついぞ会えなかった。土産にもらった紙製の日の丸がタイム・マシンから溢れんばかりとなった。

  第二次世界大戦の勃発当時も、然り。共産主義者、宗教家、ほか数人の大学教授の他はみな、戦争の賛美者であった。

  昨今の日本の平和思想と大違いである。

  そこで、考えた。

  ベトナム戦争でアメリカ人が反戦運動をしたことも、戦争に反対したのではなく、負け戦さだったからではなかったのか。数ヶ月でベトナムを負かしていれば、凱旋パレードこそあれ、決して反戦運動の機運は起きなかったのではなかったか。負けたベトナム人に同情するとは思えない。

  我らが日本。戦争反対の活動が絶える事がない。八月の恒例行事にまでなっている。戦争体験の語り手たちは戦争の悲惨さを懸命に後世に伝えようとしている。

  だが、待て。これが、戦争に勝っていれば、忠君愛国の武勇伝のオン・パレードになっていたのではないか。八月は戦勝記念日の月になったのではないか。旧満州、朝鮮半島、台湾の人たちの苦しみなんか、勘定に入れずにだ。

  悲惨なのは戦争でなく敗戦にある。戦争それ自体は、戦勝国と敗戦国のゼロ・サムである。戦争が悲惨であるのではなく、敗戦が悲惨なのである。内戦に、といっても大きな中国のことだから、日本の関が原の合戦がいくつあっても追いつかない規模だが、勝利を収めた毛沢東の口からも、悲惨の「ひ」の字も出なかった。

  さて、この時のタイム・マシンで、最後に会った人は、諸葛孔明であった、戦争の悲惨さはおろか、善悪さえ語らない。さすがと感じたのは、この人だけが、戦争は勝つ戦争もあれば負ける戦争もあることを、理解していた。さらに、戦争をしている最中、将来、負けることが分っていて、その時の対応策まで残して死んでいった。

  彼は私に別れ際、「愚かな君主(民主主義の時代なら大衆)は戦争を勝つものとしか考えない。勝つと思うから戦争をする」と話してくれた。

  負けを承知の戦もあるが、例外中の例外のこと故、敢えて反論しなかった。

  太平洋戦争(敗戦)の悲劇。開戦当初は、勝つものと思っていた。諸葛孔明ほどの智恵者でない限り仕方がない。これに私がなにか文句をつけようとするなら、結果論を振り回すことになる。しかし、戦争半ば、敗戦の色が濃くなった時点でも、なお、負けを考えようとしなかった愚かな君主、すなわち東条英機政府、および、NHKを通して聞かされた大本営発表を信じて疑わなかった(お人好しの)愚かな大衆には、文句を幾度重ねても言い足りない。

  これが分ってからは、タイム・マシンに乗っていない。もう、十分だからだ。

  先日、六十八歳の誕生日を迎えることができた。これは、その日の記念に予定していたブログである。

  付:ゼロ・サムは雀荘を想像してください。4人のだれが勝っても誰が負けても、ゼロ・サム。雀荘が儲かるだけです。戦争では、軍需産業、兵器メーカー、その商社、ブローカー、献金を受ける政治家、国益を唱えて金にする評論家、学者、破壊された道路を修復するゼネコン、等々、これらが雀荘です。

オリンピック その十一 史上最悪のNHKテレビ

   クリスマス・カードを受け取る度に、昔の友を懐かしく思い出すというような、クリスマス・ソングがあったように覚えている。

  私は4年に一度のオリンピックがそれに当たる。北米、中米、南米、西欧、東欧、ソ連、アジア、カタログを担いだどさ回りがほとんどであったが、クレームで人質として送り込まれた国もあった。

  どこも懐かしいが、とりわけ西インド諸島の小さな島々は、懐かしい。オリンピック以外に彼らの顔を見ることがないからである。苦い失敗談は山ほどあるが、それは不思議に思い出さない。十数人、少なければ数人の代表団の活躍を願うことで一杯なのだ。

  今年のオリンピックは、日本選手の活躍ばかりが叫ばれて、なにがなんだかさっぱりわからないまま終わってしまった。

  わずかに、ジャマイカ(現地では、ジャメーカ。ジャマイカ英語が分るには、英語力より連想力が大切)の陸上を知ったのみである。

  ハンガリーのカヤック、ドイツの射撃、ケイリン、ついに観戦できなかった。

  その分、NHKは延々と野球や卓球を放映して、終わってみれば、感動と勇気どころか、虚脱感と失意を日本全国に撒き散らしただけだった。

  北京オリンピックの放映権が2600億円とのこと。NHKがそのうちいくら払ったのか知らないが、はんぱな額ではあるまい。それまでして、年中見ている、はっきり言わせてもらえば、見飽きている日本人選手を追っかけることはなかったはずだ。

  金メダルは、剥奪されない限り、選手のもの。ライブに拘って絶叫しなくても録画で十分だ。あとで、NHKは好きなだけ、再放送すればいい。

  島国根性の視聴者から、他国の選手の活躍を放映すると、「なんで、日本人を映さない」と苦情が山となって来るのだろう。中には、「日本人を映さなければ、契約を取り消す」と脅迫電話もあっただろう。

  NHKがオリンピック精神を理解し、尊重していれば、そんな低次元の要求などつっぱねていたはずだ。

  4年後は、地上デジタルで放映される。私は、タダで機械がもらえても、視聴料を払うつもりがないので、今年のオリンピックが、私にとって最後のオリンピックであった。

  永遠にさらば、懐かしきドサ回り先。

  付の一.
  野球が8カ国であることを知りました。陸上100メートルなど3次予選から始まるのに比べ、スタート時点で、準々決勝というまことに参加国にとって都合のいい競技です。7試合で決着がつくのに、総当り戦とは。次回は種目から外されるとのこと、当たり前です。

  付の二.
  その野球。有終完美を飾った韓国チーム。偉い!勇気は貰いませんでしたが、感動をふくんだ興奮は頂戴いたしました。ハラハラさせおって。この中継、NHKでしたっけ。

  付の三.
  それにしても、陸上競走で黒人選手の強いこと。アメリカの奴隷制度、フランス、イギリスの帝国主義、思わぬところで、国威発揚をもたらしました。

  付の四.
  今日の日本人の閉塞感を、金メダルで払拭しようと懸命に努力したNHKとその監督庁の総務省よ。空しさばかりが残って、閉塞感は、募るばかり。言うでしょ、ヤケ酒で人生は変えられないって。

  付の五.
  本文からも汲んでいただけるとは思いますが、私はオリンピックにいささかの未練はありません。

# 少子化 その四 産むな 増やすな 地を空けよ



旧約聖書は、「産めよ、増やせよ、地に溢てよ」である。

これは、まだ人間がライオンに襲われたり、オオカミに赤ん坊がさらわれたりした時代の人間に向かっての叱咤激励である。

自然災害に遭えば、人間なんかあっという間に命を失う。今もそうだが、当時は、今の被害の比ではあるまい。人間種は、それこそ必死になって生きていかなければならなかった。

そういう時代だから、この旧約の言葉に重みがある。真実がある。

21世紀の今日、人間種は、あらゆる生き物が束になってかかってきても、びくともしないほど強くなっている。食うわ食うわ、テレビのスイッチを入れたとたんに映るのが餓鬼番組である。それだけ植物・動物を食うのなら、食物連鎖に何がしかの貢献をしてよさそうなものを、すべて、最後は重油の世話で終わる。

どう考えても、人間は他の生き物に対して不公平である。何事も一人勝ちは良くない。

これからの百年は、「産むな 増やすな 地を空けよ」を合言葉にして、地球全体の風通しをよくしようではないか。

少子化は大いなる前進である。

付の一.
ここの旧約の文言、正確でないと思います。調べるのが面倒なので、意味が通じれば可としました。

付の二.
個々の世帯の子供の数を言っているのではありません。小国“寡民”というまことに好ましい方向に向かっている日本を、なんとかぶち壊そうとやっきになっている厚生労働省に彼らの誤りを気づかせたいためです。

少子化 その三 厚生労働省役人世帯の家族構成の公表を

  少子高齢化はもう耳にタコができた。

  国民の一人として、少子化の歯止めには、この歳では申し訳ないが国に協力できない。ならば、せめて高齢化の方でご一助をと頼まれても、(こちらの方は、できないわけではないが)、わざわざ首を吊るつもりはない。国からの要請とあらば、なおさらのこと、意地でも長生きしてやろうという気になる。

  国民に金で押し付ける厚生労働省。何万人の役人が国民に奉仕しているのか知らないが、彼ら自身の少子化対策の実体報告をしていただきたい。

  男子職員も女子職員も、結婚している者はすべて、今、子供が何人いるのか、これから、何人作る予定なのか、国民の前に明らかにしてほしい。子供二人は、ダメである。2.2人なんて数はないから、3人以上でなければいけない。4人、5人の子供がいてこそ、国民に大声で子供作りを推奨できる。そうでなければ、将来の高齢者の年金負担を国民の子供たちだけに負わせて、自分達は、安穏と暮らすことになる。

  欲しくても産めない職員もいるだろう。無理とはいわない。そういう者は、アフリカの餓えた赤ん坊の孤児を養子にすることだ。しっかり育てれば、そこらの日本人よりずっと立派な成人となり、高齢者を支えてくれる。舛添大臣、副大臣ならびに次官は、一人10人、局長クラスは、5人、以下、全職員が最少3人の子供を持つようにアフリカから養子をとる。なまじのODAより、はるかにアフリカ貢献でもある。

  どうせ地獄行きが約束されている厚生労働省だ。せめて、この位は白状して、せめてもの罪滅ぼしとせよ。

  付の一.
  オリンピック陸上で黒人の活躍を見れば、同一環境では、白人、黄色人種より彼らが秀でることがわかる。
  付の二.
  家族構成は統計でいい。個々の役人の名前はプライバシーである。

少子化 その二 国が金を用意する時は要注意

  厚生労働省が、国民の視線で仕事をしてきていないことは、何をいまさらである。

  さて、私の住いの10数キロ先に、年がら年中トラブルを起しているかの有名な(英語なら、famousでなくnotorious)東北電力女川原発がある。海水温度の改ざんもバレたが、今はどうかわからない。ないと社長が記者会見しても、私は信用しない。

  その東北電力から、莫大な金が所在地の町や近隣の市に毎年贈呈されている。何を隠そう、私の家にも、原発協力とかなにかの名目で、微小の額が振り込まれている。

  東北電力は営利を目的として活動している私企業である。事務所では、コピー用紙一枚でも無駄にしようものなら、総務部長が駆けつけるだろう。

  東北電力が周りに金を渡すのは、それなりの理由があるからだ。トヨタやソニーが工場を作っても、トヨタもソニーも、周りの行政や住民にびた一文金をタダで渡す事は無い。

  出産時の一時金も、これと似たようなもの。東北電力は自分の金だが、厚生労働省から出る金は役人が気軽に使える税金である。それで、少子化が解消するなら、これほど、厚生労働省にとって都合のいいことはない。

  昔からタダより高いものはないという。出産費用はタダ、10年先、20年先に、とんでもないほど高くつく、その時、国に泣き言を言っても、門前払い必定である。中国残留孤児のその後を見よ。要注意。

少子化 その一  国家の甘言か小国寡民の忠言か

  厚生労働省が少子化に歯止めをかけようと、やっきになっている。

  出産の入院費を全額、国が負担する計画があるらしい。国が負担すると言っても、厚生労働省の役人が自分のサイフのヒモを解くわけではない。

  とんでもない話である。結婚や出産は、動物の一員の身分で、人間が個人的に判断して、行動すべき事柄である。判断は自分達の人生観によってもいいし、経済状況によってもいいし、数十年先の社会をどう見るかであってもいい。

  なぜ少子化がいけないのか、厚生省の説明は、高齢者を支える勤労者人口が減るからであるというだけである。支えるとは聞こえがいいが、要するに金である。金と人口に相関関係がないことは、金持ちも貧乏人も、共に頭数では一人と勘定することではっきりわかることだ。

  彼らは、年金制度を改めずして、ただ人間の数が減るから大変だとわめいている。

  大体からして、多産奨励は、明治政府の富国強兵策が発端である。男子は兵隊として、女子は銃後の守りと兵隊を産む機械として、多ければ多いほどよかった。その果てが、狭い日本に日本人が溢れ出し、遠くブラジルへ移民、近くは、中国・朝鮮・台湾への殖民を国策となってしまった。ブラジルは平和裏に行われたから、難儀とはいえまだしも、アジアに至っては、増えた人口分だけを、よその国に腕力で押し付けたのだから、押しつけられた国はたまったものではない。同時に、国の意に従順に従って、産まれた子供たちも、さんざんな目に遭っている。国がこのことで過ちを認めたとは、ついぞ聞いていない。

  なにごとによらず、国の奨励策は疑ってかかることだ。一時金に惑わされないよう、若い世代に忠言する。

「マムシがいます」と書かなかった訳

  渋谷にサルが出没する時世だから、我が家から歩いて2分にあるメリーの放牧場兼モモのドッグ・ランに、マムシが出てきてもなんら驚くに値しない。

  実際、一昨年、マムシが道の真ん中でとぐろを巻いているのに出くわした。犬が第一発見者なら大騒動になるのだが、誰かが残したバーベキューの匂いに釣られ、浜に直行、私一人の対面だった。殺そうとして、持っている尺八で危く叩くところだった。その瞬間、メリーを叩いて、尺八を壊し大損したことを思い出して、ストップ。マムシも助かり私のサイフも助かった。

  島に来て分ったことだが、蛇は少々胴体をたたいてもビクともしない。2メートルを越える青大将は、軽トラで轢いてもケロリとしている。島の長老の一人は、こういう時、一度バックして、アイロンがけ作業をする。彼を尊敬してやまない私も、当然そうしている。

  話が飛んだが、周りを見回しても、枯れ枝ばかりである。枯れ枝では闘えない。ムカデと違って、ゴム長でねじり潰そうとすれば、どんな反撃に遭うかもわからない。

  思案に暮れているうちに、マムシが草の茂みに消えていった。

  自分の敷地ならどうでもいいが、公共の場だ。あくる日、看板を立てることにした。

  「マムシに咬まれたら、すぐ○○医院へ。電話××―××××」

  咬には子供が読めるように「か」とふりがなをつけておいた。鳥は通うがケータイは届かぬ土地であっても、一応電話番号もつけた。

  これは、熟慮の上のフレーズである。「本当に出ます」と書けば迫力が増す。普通はそうだが、私が書くと、「また、ホラを吹やがって」と逆に取られかねない。あるいは、「小国寡民は、あの場所を独り占めしておきたいから、脅かしているだけだ」と私の半分本心が見破られるかもしれない。

  また、迷い込んだ海水浴客が、「なんだ、いないじゃないか。ウソつきめ」と、島民全体の評判を落とすことも十分考えられる。いればいたで、昨今の大和撫子にあっては、「アラ、可愛い!」とデジカメを取り出すかもしれない。マイナスのイメージの「マムシ注意」を読めば、「だから田舎もんはセンスがないのよ」とバカにされるかもしれない。私はかまわないが、島民の中には、屈辱を感じる人がいないとも限らない。

  そんなわけで、咬まれるまでは、私は不干渉主義に徹することにした。

  余計なことは、言わない、書かない。この看板一つからも、私のブログの質(の高さ)が推量されようというもの。

  注の一.
  看板を出した者が誰であるかは、私の集落では、知られています。
  注の二.
  看板と文面、きちんと島のコミュニティから了解を貰っています。
  注の三.
  このブログのリンク先「あぢしま的生活」の「看板に偽りなし」を訪ねていただくと、面白みが倍増しします。管理者は、私のパソコンおよびブログの師匠です。

62人減って143人 お盆の間の交通事故死

  昨年の同時期に比べて、これだけの数が減ったという。ほぼ30%である。

  これは、飲酒運転の罰則がきつくなったからではない。警視庁が言っているとおり、ガソリン高騰による車での帰省や観光が大幅に減ったことが原因である。

  どういう基準で死亡者を数えるのか知らないが、恐らく、死亡者の数倍は重傷者、軽傷者がいるのではないか。だとすれば、交通事故による障害者の数も、30%分のその倍数だけ、減ったことになる。

  非常に好ましい姿である。世間の一部では、ガソリン高騰の到来をあたかも、不幸の手紙のように考えているようだが、ガソリンに対するとんでもない偏見である。

  投機筋の金が一時的に石油の高騰を招いていると論じる者がいるが、私はそうは思わない。実需の増大で(それを見越して投機がなされているのが現在だが)、ガソリンが400円になる時期が10年以内にやってくると読んでいる。中国の高層建築ラッシュをみれば、想像に難くない。その時は、更に、交通事故死が減る。おおいに歓迎すべき事態である。

  車を持つのはよいとして、やみくもに乗り回すのは環境によろしくない。100円なら40リットル、400円なら10リットル、これが庶民感覚の支出である。サイフから1万円札があふれるような人はともかく、普通の収入の人なら、400円となって40リットル買うことはあるまい。

  手持ち無沙汰の交通機動隊員。経済産業省の苦虫を噛み潰したような顔、環境省のしてやったりの得意顔。

  ここまで物質的に豊かになった日本。これからは、そこそこの貧乏でいるのがいい。昭和最高の名言、「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」、忘れる莫れ。

付の一.
「欲しがりません、勝つまでは」これも名句ですね。次点です。

付の二.
環境省のことは、皮肉です。

裁判員制度 日弁連の緊急声明 日弁連は詭弁連 

  前々からこの日弁連なる団体、うさんくさくてかなわなかった。前々とは、裁判員制度に対する彼らのコメントを知ってからである。

  曰く、「裁判員制度は広く世界で行われているもので、刑事裁判が必要としているのはあなたの良識です」、と。

  みんながやっているから自分たちも、という発想は日本の権力者の悪法導入の常套手段であるから、なにもこの裁判員制度に始まった事ではない。問題は、刑事裁判に「あなた、すなわち、一般市民の良識が必要」という彼らの発想である。これは、司法にかかわる者には良識がありませんので、どうかお助けくださいといっていることと同じである。

  さすがに、私たち弁護士がそうだとは言わず、今回の緊急声明では、「欠陥を抱えた現行の刑事裁判」では、「捜査も裁判も官のみが行う状況ではチェックが働かず、冤罪はなくならない」、だから裁判員制度が必要だと述べている。

  欠陥があることの点では、私もまったく同感で、早く憲法を“改正”してもらいたいと願っている。それを、市民の参加で欠陥というほころびを隠そうと言う提案だからあきれる。欠陥があれば、まずこの欠陥を除去しなければならない。

  更に、刑事裁判を、「私たち市民の自由や権利と深くかかわる」刑事裁判と規定する。少し考えれば、この自由と権利は裁判員制度となんら関係がないのだ。どうして、市民の関与が不可欠という結論に達するのか、完全に論理の飛躍である。

  これでもまだ言い足りないと見えて、裁判員制度は冤罪をなくすためでもあると表現している。

  私は死刑について何度もこのブログで意見を述べてきた。述べてきた中で、対象を99.9999%以上間違いない現行犯だけに絞っていた。そして、絶対に触れなかったものが冤罪である。これは、もう人間ではどうしようもないと諦めているからである。

  最近の、毒入りカレー事件、筋弛緩剤点滴事件、いずれも当人は否定している。犯人であって無罪とすれば、社会正義が損なわれる、無罪であって死刑となれば、社会が殺人を犯すことになり、かつ真の犯人が大手を振って世間を闊歩するという事態となり、二重に正義が損なわれる。これを、一般市民の参加で解消しましょうとは、いくらなんでも筋が通らない。

  少し続けて、日弁連のホーム・ページをめくっていくと、トヨタ自動車の会長かだれかと対談している。私の疑問はここですべて氷解した。

  日弁連は、弱者の正義を守る団体ではない。民事裁判を手元にがっちり抱え込んで札束の匂いに酔いしれ、血なまぐさい裁判だけを市民に押し付ける、アメリカの映画にしばしばでてくるハーバード大出の悪徳弁護士の日本版である。

  私のこの考え、間違っているだろうか。君子は誤りを直すにためらいはないという。匹夫においても然り。誤りがあるなら、どなたかご指摘していただければ幸甚である。

  それまでは、日弁連を詭弁連と侮蔑して止まない。どうやら、社民党のほか、日本共産党も反対しているらしい。ガンバレ日本。残るは民主党だ。法務省に丸め込まれないことを願う。

沈没船のネズミの行動と公明党の行動

  これは政党公明党に限っての話で、創価学会に言及していない。私のよく知っている学会員は一応に、皆優れた社会人であるから、誤解を招かれないよう、初めに断っておく。

  航海途中、船が難破しようとする時、人間が気づく前に、船倉のネズミが、ゾロゾロ甲板に登ってくる。そんな話を、子供の時、聞かされた。面白い話なので、今でも覚えているが、聴かされた時から今にいたるまで、心の中では、半信半疑のままでいる。

  “全信無疑”が、公明党の動きである。この党ほど正直な党はない。選挙の度に、「政権政党だからこそ、なんとかが、かんとかができます。どうか清き一票を」と民衆に向かって演説する。野党に下れば、法律一つ思うように通せないから、その通りであることは、確かだが、それにしても正直な党である。

  自民党についてきたのも、自民党だからでなく、自民党が政権政党であるからである。小泉さんが首相になるかならないかの瀬戸際の時、公明党は小泉さんの擁立に難色を示した。小泉さんが首相になるや、以降、べったりであった。これからも、公明党の正直さがわかる。

  自民党は派閥が腹に一物どころか五物六物当たり前、テレビ局や新聞社のベテラン政治記者でも、「~かと思われます」、「~とも言えそうです」、「予断は許されません」と、奥歯に物が挟まったような末尾で締めなければならない始末。だから、普通の我々がごちゃごちゃの自民党派閥を追いかけても無駄。自民党の消長は、公明党の動きを観察するのが一番手っ取り早いし確かだ。

  ここからが私の考えである。

  公明党は、今や、自民に見切りをつけた。自民と心中するような方針はもとより公明党にない。だから、今は、次の政権政党と連立を組めるように懸命な努力をしている最中である。次の政権政党に手土産を持参することは、ヤクザならずとも仁義のイロハだから、これから当分、次の政権政党、すなわち、民主党へのご機嫌伺いが激しくなる。

  ここからは、私の民主党への提案である。

  公明党は黙っていても、スリよってくる。これほど“正直”かつ“信頼のおけない”政党はない。だから、どんな手土産を携えて挨拶に来ようが、相手にしてはならない。すぐに裏切られる。それより、共産党、社民党と大同団結して、とことんバラマキ民衆迎合政党を叩き潰すことに専念すべきである。

  もたもたしていると、昔社会党がいともたやすく丸め込まれたように、民主党も、海千山千の自民党に骨抜きにされる。このことが、私には、やや心配どころか、大いに心配である。共産党から外務大臣か防衛大臣がでれば、怠慢の極に達した国家官僚どもになにがしかの影響をあたえることができる。

  先の話とはいえ、そうなるかと思っただけで嬉しくなる。

オリンピック その十 女子格闘技の醜

  自然界で、メス同士が体をぶつけて争う生き物はいません。道具を持たないから、角、くちばし、頭など、双方平等に所有している素手(素足というべきか)で闘うのですが、すべてオス同士です。

  種の優性遺伝のためには、公平な闘いが必要で、勝者となったオスが、晴れてメスと結ばれ子孫を残す、この摂理が自然界では21世紀の今日も保たれています。

  話は突然極小の私の話になります。50羽ほどのメンドリがいた頃、複数いれば必ずオンドリ同士が闘い、最強の1羽が独占していました。この争いは凄まじいもので、トサカから赤い血を流しながら、周りに人間がいようが犬がいようが、全く無視して、粉塵(糞塵)を舞い上げながら、決着がつくまで続けられるのです。他所から引き取って鶏小屋に放つと、その5分と経ないうちに、原住民と新参者と総当り戦の戦闘がはじまります。同じ母鶏の懐から産まれた同士でさえ、ヒナから大人になった瞬間に始まります。

  序列が確立されれば平穏になりますが、二番手、三番手のオンドリは、しばしば一番手の眼を盗んで、マウントしようとします。遠くでそれに気づくと、一番手は何をさておいても、突進して、けちらすます。こうして産まれた私の所の有精卵がまずいはずがありません。当時、陰で私を「たまご屋」と呼んでいたそうな。あのまま、鶏を飼っていたら、「たまご屋」が屋号になったことでしょう。

  前置きが長くなりましたが、人間の格闘技も、他の生き物と同じように、男の分野であることを言いたかったのです。

  それが、いつからか、女子柔道と女子レスリングがオリンピックの種目に加えられ、今や、狂ったかと錯覚するほど、日本中の日本人が熱くなっています。

  柔道もどきも、小学生のうちなら、「おてんば」で可愛げがりますが、年頃過ぎの女が襟を掴んでもみ合うのは、醜くさの極であります。ならば、女子プロレスはどうかと問われれば、あれは見世物ですと答えるだけで十分でしょう。マットの上でドタンバタン取っ組み合って争うのを、スポーツ美という者がいれば、その者の頭に重大な欠陥があると私は確信します。

  相撲も然り。相撲のよさは、男が素手で体と体をぶつけて、その体力の優劣を争うことにあります。女がまわしをつけて土俵上でしこを踏むとなれば、様相は一転いたします。

  何十年か前、イスラエル兵士の中に、銃を捧げている女性をニュースで見てあきれ返りましたが、今ではオリンピックでごく当たり前に、そういう女性を見ることができます。

  格闘技に女性は似合いません。醜です。

  こんな種目でやれ金だ銀だと、一喜一憂する無邪気な国民の顔が見たい、いや、全然見たくないものです。源氏物語の女房や茶を摘む乙女とまでは望みませんが、イスラエル女性兵士を連想させない姿でいて欲しい、老いたりといえども、私も日本男児の一人、大和撫子にそう望みます。

戦争と平和 戦争の善悪

  外国の領土を戦争で分捕ることが、いかに悪い結末になるかを大東亜戦争が教えてくれた。それで、私は、どんな理由にせよ、日本は一兵たりとも海外に出してはならぬと、これまで繰り返し書いてきた。

  大東亜戦争ばかりでなく、今日のイスラエルの殖民政策、少数民族の分離・独立運動、みな、他国に兵隊を送ることで、事態を複雑にしている。“どんな理由”の最大悪が“正義”であることもくどいほど言ってきた。

  反面、私は、戦争自体には、寛大な態度をとっている。寛大どころか、世間の平和愛好者を軽蔑してやまない。そもそも、人間が人間種として独立した発端が、前足で武器という道具を持ったからで、戦争はそれに付随したもの。戦争を認めないということは、人間の歴史の半分を無視するということで、いくらなんでも無茶な仮定である。

  だから、前に何べんも書いたように、太平洋戦争それ自体を私は誤ちであるとは考えていない。坂道を転がる前の国民と報道を問題にしているだけである。映画「椿三十郎」にあるように、「腹の虫が治まらない」状態では、だれも止めようがないのである。

  仲代達矢はそれで命を落とすのだが、戦争は、その点、よくできていて、ある程度、腹の虫が治まれば、すなわち、相手に太刀打ちできないことがわかれば、なにがしかの譲歩で終結する。

  相手国皆殺しは、これまでの歴史に見ることはできない。その歴史をあやうく塗り替えそうになったのが、日本である。皆殺しでなく、“皆殺され”の立場であるが。

  無差別一律平和論者を私は嗤う。私が自信をもって彼らを嗤うのは、戦争一切否定論者でないことを自負しているからである。

我が闘病記 その五 病院の居心地のよさ

  私は病院が大嫌いである。その私があやうく好きになりそうになった。

 入院初日は、死期の近きを連想させる点滴とトイレの往復に、頭と体がそれぞれつきっきりとなっていた。

  2日目になると、周りを見回すゆとりができた。

  先ず、病室。広さと設備は、ほとんどシェラトンに負けない。ヒルトンよりは上である。ムカデ・マムシはいわずもがな、蚊や屁くさ虫も全然いない。

  2時間ごとに、看護士あるいは看護婦が、血圧と脈拍を測りにくる。先生は定時の巡回の他に、帰宅する6時過ぎ、再度、容態を尋ねに部屋に来てくれる。その上、深夜でも、ボタン一つで、数秒のうちに、誰かが飛んできてくれる。安心して、病気になれる。高齢者の一人暮らしでは、こうはいかない。

  食事。朝、昼、夕、決まった時刻から早遅2分と違わず、運ばれてくる。見事なルーム・サービスだ。シェラトン並みのテーブルとソファーがあるので、左腕にこそ点滴パイプがぶら下がっているが、誰に気兼ねすることなく、ゆっくり、食を楽しむことができる。何よりありがたいのは、今夜は、浜松のうな重にしようか、帝国ホテルのビーフ・シチューにしようか、ロブスターか、それとも北京ダックか、ロースト・ビーフもいいし、フォアグラ、キャビアも悪くない、どれにしようか、酒はコニャック、大吟醸、プレミア・ビール、ドイツの貴腐ワイン、21年もののウイスキー、いずれにすべきか、こういう家にいる時の悩みが一切不要であることだ。

  「風呂に入りたい」と願えば、湯をはって、「どうぞ」と言ってくれる。レジオネラ菌、黄色ぶどう球菌、大腸菌が結集したのではと疑うような薄黒い綿状物質が、湯船に浮き上がってくることもない。これも家とは大違いだ。

  そして人。集落のすべての人とは顔見知りとはいえ、共通話題に欠けていることと山間僻地に居を構えていることとで、私は特に人に会うことはない。3日、4日、人の顔を見ないのは、普通である。それが、病院の中で会うと、急に懐かしくなり、病気という共通話題で会話が弾む。病気が招く苦痛でゆがむどころか、終始笑顔が絶えない。

  病院は、このように大変居心地のよい所である。しばらく、ここにいれば、いつか碁の相手が隣りの部屋に来てくれるかもしれないという夢まである。

  私があやうく好きになりそうになった次第である。

アフリカの飢餓

  タイム誌の広告に、しばしば登場したのが、アフリカの子供の写真である。目だけ大きく開かれ、腕や胴体、脚は、骨と皮で、見ているだけで、こちらが苦しくなった。30年前のことである。

  それが、今も同じように続いている。なぜ、30年前をだしたかというと、当時の子供たちが、現在は、父親となり母親となって、彼らが、また骨と皮の子供たちを作っているということを言いたいためである。

  貧困と飢餓が確実に予測されていながら、なお、子供を作ることに、先進諸国の成人のほとんどは、ためらうはずだ。ここ日本においては、飢餓どころか、大学卒業まで掛かる出費から子供の数を考える。

  ある先進国では、宗教的な観点から援助する、別の先進国では、商社に儲けさせるために援助する。それらが、どういう成果をもたらしたか、30年前の広告と今の現実が語っている。

  私は、地球レベルで人間を見るから、イワシも人間も同等に扱う。イワシは、読んで字の如く弱い魚である。その産卵たるや、数えるあたわずである。そして老衰死に至るまで生きるのは、わずが2匹、これが自然である。

  アフリカで何百万の子供が餓死していると、人道支援を“人道的観点”から続けているが、空しい行為なのである。支援が続く限り、子供は増えつづけ、飢餓が止まない。最後まで生き残る二人を残して。

  私は、緑豊かなアフリカを荒廃させておき、あとから人道支援を唱える西欧人の考えを否定する。

  奥の細道の途中、捨て子を道端に見た芭蕉は、そのまま通り過ぎた。彼なら弟子に申し付けてその命を救うことなどたやすかったはずだ。そうしなかった彼に、一片の偽善もない。

  あるに任せよ、なすに任せよ。

北方4島をどうする

  民間企業では、どこの部署にも、勤務評定がある。特に営業部門は、成績が数字で表れるから、悪ければ、ゴマすりも、りんご磨きも、いつのまにか、会議の席がどんどん出口に近くなっていく。

  扱い品目や担当地域により、ハンデが生じるが、そこは、よくしたもので、みんなが納得するような公平さは保たれている。

  これは、私の経験から言っているのだが、恐らくどこの企業でも似たようなものだろうと思う。

  それで、分らないのが、外務省高級幹部の仕事である。ビザ発行、ダンス・パーティー開催、晩餐会への招待などのルーチン・ワークは、高級幹部でなくても、高価な背広と革靴さえ与えられれば、誰にでもできそうに思える。

  今日、北方四島の視察が行われたという。台所で聞いていたので、誰だかわからない。聞き違いかもしれない。しかし、私の頭の中がそれがヒントになって、もぞもぞしてきたので、書き始めた。

  北方4島は、ソ連時代から問題となっていた。当時は、ソ連は共産主義国家で、アメリカと冷戦状態だから故と、時の政府は、解決できないことの言い訳をしていた。

  今や、れっきとした資本主義国家となったロシア。とっくに解決済みとなっているはずが、今もって、なにがどうなっているのか、国民はさっぱりわからない。

  外務大臣、特別担当大臣、あと何人大臣を増やそうとも、これでは、国民がつんぼ桟敷におかれたままだ。

 外務省のいうことが、また、ふるっている。「外国との交渉には、秘密が必要です」だと。

  交渉に秘密が必要なことは、私にも分らないではない。だが、結果が出てこないことについては、大いに不満である。一体、何年その秘密とやらの交渉をしてきたのか。

  営業会議の席上、「今は相手と交渉中であります」と、報告するのは1回は許される。だが、2回、3回と結果をださないまま、「引き続き、交渉中であります。これからも交渉することに双方同意しました」と営業マンが発言したら、即座に、会議室から追い出される。その後に鞭打ち100回の刑が待っている。

  福田総理と外務省、本当のところは、な~んにもしていないのではなかろうか。あるいは、北方4島問題、拉致被害問題、これらの解決を次期総選挙のサプライズとして温存しているのではなかろうか。あるいは、私のかねてからの持論の通り、軍事大国で日本があり続けるため仮想敵を温存しているのではなかろうか。

  どなたか、私のこういった退嬰的な想像をきれいに払拭していただけませんでしょうか。外務省の高級幹部なら甚平・ゴム長スタイルの私にもできたのではないかと、己の職場遍歴に加えそこなったことに後悔しそうなのです。

 付:
  これまで、鞭打ち300回としてきた。日本霊異記で100回が最も重い刑であることを知ったので今後は100回とする。

動物園で命の大切さを体験 NHKのニュース

  子供たちが、動物にエサをやったり体を洗ってやることが、NHKによると、命の大切さを体験することになるらしい。そのようにアナウンサーが言っていた。

  動物園の動物は、そのルーツをたどれば、みんな、それぞれの古巣・故里で、それぞれの生き方、死に方をしていたものばかりである。

  アフリカから黒人を奴隷として売る方、買う方、共に人間史の汚点であるが、動物園も、同類である。

  鳥はネットの中で、4つ足は、柵の中で、魚は水槽の中で、生涯を終える。こんな哀れなことがあろうか。

  食べる物の保証、外敵から安全であること、これが、彼らにとって何の意味があろう。

  あらゆる生き物は、ひと組のつがい(夫婦)が、ふたつの子孫を残すことで種の保存がなされる。多産であることは、外敵に残りが食われてもいいということである。命の大切さと無関係である。

  動物園は、残酷な見世物屋敷である。兼好は、めずらしい生き物を日本に持ってくるのは、中国の残忍君主と同じだと、いましめている。動物園がいつ日本にできたか知らないが、多分人間支配を認めた西欧文化が入ってきたころだと思う。

  野生の生き物を、本当に見たければ、横着せず現地に行けばいい。ただ、エサやりや体を洗うだけで、彼らを故郷からひっぱてくることはない。写真集かパネルで十分だ。

  動物園の動物を見て、かわいそうと泣き出す子供が、真に命の大切さを知っている心のやさしい子供である。

  かわいいパンダ、かわいいペンギン。本人の身にもなってみろ。

福岡正信師逝去 今を生きた日本人で私は幸せだ

  私のブログは、公僕以外、本人が生きている間、個人を名指しで話題にしないことを決めている。後で怨まれる心配からというわけでなく、10万読者に公開するに当たり、事前了解が欠かせず、それが、億劫であるからだ。

  まあ、この人間にはとうてい私はかなわないというような人物がいないということが、本当の理由であるが。

  その傲慢といわれても仕方のない私が、唯一、尊敬してきたのが福岡正信師である。どういう人物かは、私が尊敬する位だから、想像に難くないと思うが、とにかく、日本の歴史のどのページを開いても、彼に勝る人物はいない。その思想は10冊近くの著作に余すことなく述べられている。

  思想や考えは、私と大して違わない。大きく違うのは、私が、世間にあって、ああだろうかこうだろうかと悩みつづけ、50近くになり、ようやく「無」にたどり着いたのに対して、かれは、若干25歳で宇宙のすべてを理解したことである。

  無論、イエス、釈迦、マホメッドらと同じように、大きな書架に並んでいる分厚い書物を頼りになんかしなかった。どこかの海岸を見て、突然ひらめいたのである。

  私のすぐ近くの人に、四国に彼を尋ねた人がいる。その風格に圧倒されたそうな。私は数回のテレビ放送でしか顔格好を知らないが、宇宙すべてを理解した者の光は全身から感じ取れた。

  政治や世相は、「史記」が私の座標軸である。それより上位の地球、宇宙、そのまた上の“すべて”に対しては、「老子」がそれである。その老子の思想を生身の姿で具現化した人物を平成の日本で知ることができた私は、本当に恵まれた星の下に産まれたものと感無量である。

  95歳、老衰による死とか。偉大な人物にふさわしい最期であった。いつかはやってくると覚悟はしていたが、無を実践してやむことないまま今日、ついに無に還った。合掌。

  付:
  ・物質文明と精神文明の共存はありえない。
  ・人間の智恵が役立たないということが、この百年で証明されただけ。
  ・人間は何も作り出していない。
  ・師を敬称にしたのは、特に私の師ということでなく、他に敬称のつけようがないからである。
  ・知らぬ他人に趣味と読書は強要しない主義であるが、福岡正信師の「無の思想」3部作だけは、日本語で読める特権を活かして、是非是非読まれんことを勧める。

オバマ氏の核廃絶 人騒がせな

  今日のニュースで、民主党のオバマ氏が核廃絶を選挙の論点とするというような事を聞いた。

  一瞬、我が耳を疑った。オバマ氏はアメリカ人、しかも政治家、しかも次期大統領の座を狙っている人物、これが、核廃絶を提唱するわけがないからである。

  これまで、幾度となく、書いてきたが、アメリカは3000発かそこらの原爆を保有しているからこそ、枕を高くして寝られるのである。保有しているからこそ、世界最高の通常兵器を用いて世界のいたる所で乱暴狼藉を働けるのである。

  これはアメリカ産軍共同体政府に限ったことでなく、アメリカ人のほとんどの潜在意識である。それを無視して、オバマ氏が選挙に勝てると思っているのか、どう考えても、私には納得できなかった。

  昔の仲間に聞い合わせたら、このオバマ氏の話、とんだ食わせ物であることがわかった。すなわち、核保有はアメリカにとって欠かせない(現実)、すべての核が廃絶されればアメリカは安全(仮定)、この2本立てであることがわかった。

  「自分から率先して廃絶はしませんよ」と言っているに過ぎぬ。クラスター爆弾や地球温暖化問題に対する姿勢となんら異なることがない。ロシア、中国、インド、パキスタン、フランス、どこの国がアメリカより先に核を廃絶するというのか。

  私は、大分前、ヒマに任せて、アメリカ大統領選を取り上げ、共和党も民主党も目くそ鼻くそ、あるいは、五十歩百歩と形容して、つまらない話題でNHKは貴重な放送時間を費やすなと言ったように覚えている。同時に、この選挙戦の顛末も予想して、現実にその通り経過しているから、取り合わないでおいた。

  それを、今日、敢えて再度、取り上げたのは、先日の病気で自分の耳に変調をきたしたのか不安になったからである。ニュースを録音していないから、私の聞き違いかどうか、確かめようがない。

  ひとつ、オバマ氏が、夢と現(うつつ)を故意にごちゃごちゃにして、世界の人民を惑わそうと意図していることだけは、確かめられた。

  アメリカの大統領なんて、こんなもの。

ヘボ将棋と太平洋戦争

  へたな碁はザル碁といい、ヘタな将棋はヘボ将棋という。ザル碁の表現が日本語の粋であることは、私が一番よく知っている。気分よく相手を攻めるまではいいが、攻め合いの最後に一手で、自分の石がちょうど、ザルの目から落ちているように、切れていることに気がつく。その時は既に遅い。

  将棋はヘボという。語感だけで、へたさ加減が十分に伝わる。そのヘボ将棋で、とりわけいやな負け方がある。

  将棋のルールを知らない日本人でも、王様の行き場がなくなれば、負けで、これくらいは知っているだろう。それで、ゲーム・セットとなる。残りの駒がどれほど多く残っていても、終わりである。

  いやな負け方。それは、相手の実力がこちらより数段、数十段上で、まったく勝負にならない時に稀に生じる負け方である。

  相手はいつでもこちらの王様を捕獲できるのに、そうせず、まわりの金将、銀将、飛車角、を次々に捕獲して、最後にわずかに残った歩兵を、飛車や角を使って、ばたばたさらう。ついには、王様が裸の王様になる。

  実際には、こうはならない。私の方で、こんななぶり者にされたまま、将棋を続けないからである。「負けました」、この一言を言うだけでいい。つらい瞬間だが、自分の駒が相手の一手一手に一つづつ失われる痛ましさを考えれば、「負けました」の選択に躊躇はない。むろん、こういう将棋道にもとる相手とは、二度と対局を願わない。

  長々とヘボ将棋を解説したのは、これと太平洋戦争の末期がそっくりであるからだ。

  第一次世界大戦までは、王様を殺すか捕虜にするかで戦争が終わった。身代金や領土が失うことがあっても、一般平民が直接命を奪われることはなかった。

  当時の日本は昭和天皇が将棋でいう王将である。形勢逆転した時点で、アメリカが皇居をピン・ポイント爆撃して天皇を殺すか捕獲すれば、戦争は終結したはずである。神様がいなくなれば、信者である臣民は戦意喪失し、陸軍は為すすべを知らず、東条率いる時の政府も、無条件とはいわないまでも、相当の譲歩をして講和したはずである。

  それをせず、将棋でいう王将を攻めず、歩兵を片端から原爆と焼夷弾で盤上から消していったアメリカ。私は、アメリカの意図をとやかく詮索するつもりはない。ああでもあり、こうでもあるという学者・研究者の論争に立ち入るほどヒマでないからだ。

  私が、どうしても言っておきたいことは、勝負がついた時に、それは、開戦していくばくも経ていない時のことだが、日本政府が、「負けました」と言わなかったことである。負け戦であることは、戦後の検証を待つような結果論を必要としない。日本政府は、すでに敗戦を実感していた。それでも、なお、威勢のいい言葉ばかりを大本営発表としたのは、初めの小さなウソを、ウソのまま押し通そうとしたからである。

  「実は、南洋諸島での戦いでは、わが軍は負けていました。スイマセン」と言わなかった、これである。国民はNHKのラヂオと新聞の記事でしか戦況を知ることができない。刻々と伝えられてきたニュースで、赫々たる戦果を知らされているから、「実はウソ」を受け入れるはずがない。旧満州・台湾・朝鮮半島、どうなるか、思っただけでも、ぞっとしただろう。

  政府・役人は、国民の混乱と怒りが恐く、自分らの責任問題に間違いなく発展する「実はウソ」が言えないでいた。

  終戦間際のウソのすごさは、今でこそ、ジョークとしか思えないが、日本政府と役人(高級軍人も含む)は、己の面子を保つためだけに、垂れ流していた。いずれバレることは、無論承知の上である。

  アメリカの原爆・焼夷弾、とんでもない話だ。しかし、彼らの建国以来の歴史を知れば、やりかねないことはわかるはずである。彼らのフロンティア精神を軽んじ、ひたすら神の国大日本帝国の大和魂にすがってきた太平洋戦争。

  なぶり者にされるまで、「負けました」と言えなかった国日本。こちらの方が、はるかにとんでもない話である。

  ヘボ将棋の見本である。この見本が今でも、外務省・防衛省・裁判所・警察・偽装企業で生きていることに、私は、日本人のウソ好き・ウソ隠し・ウソ容認をみることができる。残念だ。

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