老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

地球温暖化 環境省の堕落

  炭素取り引きを、環境省が、「地球温暖化対策の動機として高く評価する」と言っていた。

  あきれた。

  取り引きは金で動く。地球温暖化がこれだけ深刻になっているのに、まだ、商売を考えている。

  経済産業省が、こう発言し、それに、環境省が猛反発する。これが、正常な姿である。

  洞爺湖サミットで50年後の夢物語を吹聴する福田首相の子分である前に、少しでいいから、地球レベルで物を言ってもらいたいものだ。これでは、元外務大臣の“国益”発言と程度の低さは同じである。

  温暖化は、シュムペータ式の技術革新によっては防げない。それどころか、事態を益々複雑にするだけである。

  なすべきは、奢侈・飽食に浸っている先進諸国民が、経済成長を放棄することである。そして、つましい生活にソフト・ランディングすることである。

  日本人ならやってできないはずはない。終戦直後、上野の地下道に座り込んでいた私と同じ年頃の子供たちを見てきたから、私は、確信を持ってこれを言う。

“学力低下を歎く”を歎く

  4月頃に、大学入試センター試験を何回か取り上げ、試験問題のくだらなさを語った。

  先週、学力低下を文部科学省が歎いた。内容はと言えば、明治維新で活躍した九州か四国の下級武士(後出世した)の名前を挙げて、どこの出身かを問う問題、どこかの県の名前を挙げて、地図に場所を示させる問題、これらの正解がたいへん低いといいうことだった。

  さてさて。

  世の皆さん、これが児童生徒の学力の尺度と文部省は決めているのです。私は、埼玉に住んで長野に別荘地を購入するまで、埼玉県の先が長野県であることを知りませんでした。ここ宮城に移住するまで、宮城の場所を知りませんでした。いまでも、その先の岩手、山形がどこにあるか、間違えたら流刑と言われると自信がありません。

  福沢諭吉は少し知っていますが、坂本竜馬は名前だけであとは何をしたのかよく知りません。彼と鞍馬天狗の違いが分らないのです。

  その私でさえ、六十余年、なんの不都合も感じず、のうのうと生きてきました。学力なんてこんなもんです。知識が多少増えようが、ブリタニカにかないません。いまなら、ネットの検索ですべて正解が得られます。

  政府の教育部門の高級官僚は、こういう知識が豊富であったからこそ、国家上級試験に合格したのでしょう。だから、知識のない人間を見下し、そういう人間の増加を歎くのです。

  文部科学省の役人に言います。児童の学力低下を歎く前に、自分達の仲間の倫理低下を歎きなさい、と。自衛隊の営舎の一部を防衛省から借り受け、徹底的に、人間教育(頭でなく体)を国家公務員に施しなさい、と。

地震の話 その三 その場の私は

  全国放送は知らないが、今でも、仙台局からは、10名の捜索活動を報じている。何百人か何十人かで、毎日続けている。

  生存の見込みは皆無である。生存者を探しているのではない。遺体を捜しているのである。

  これからどれほどの人と金が使われていくのか。最後の一人の遺体が確認された時、どうするか。火葬場で骨となり、墓に入る。結局、土に還るのである。それなら、このまま、土に還していいのではないか。少し前は、日本は土葬であったのだ。今の時代でも、世界を見渡せば、土葬が普通の土地もありそうだ。

  こういう私に向かって、遺族の身にもなって見ろといっても、通用しない。生きていればこそ、捜索する価値があると私は覚醒しているからだ。イエス・キリストも、死者をして死者を葬らせよと言っている。私も同じ意見である。

  私は、リビング・ウイルをもっている。1部は家族が保管、1部は島の病院が保管、一部は私自身の手元と、計3部である。ついでに言うと、戒名もすでに授かっている。あの世があるかないかが確かめられないので、言ってみれば、インシュアランスである。

  今回の捜索活動をニュースで見て、今は、デッド・ウィルも早急に用意することにした。

  曰く、「私が陸上・海上問わず(もう飛行機には絶対に乗らないから上空は書かない)72時間経過しても発見されない場合は、捜索を打ち切るよう関係各位に申し上げます」、と。

  付の1:
  水さえあれば、海上で1週間位生きていられそうだが、カヤックや小型漁船で海岸をうろうろしている程度の海難を考慮にいれれば、72時間で十分である。
  付の2:
  捜索期間は生命保険の求償がからむ。しかし、些細なことである。

地震の話 その二 緊急地震速報 メカニズム

  地震が起きた後、我々国民の耳にタコができたのが、この“地震のメカニズム”である。よくもあれだけ、ヒマな学者先生を見つけたものと感心してばかりいた。

  彼らのいう事は、要するに地殻変動のストレスが溜まって、限界点に達した時に、地震が起きるということだけである。関東大震災も、阪神・淡路大地震も、新潟大地震も、すべてこのメカニズムである。例外がない。例外がなければ、メカニズムの検証だけしか残らない。それを、地震が起きる度に、繰り返している。今回の岩手・宮城内陸地震も検証の材料となった。いい商売だ。

  緊急地震速報のメカニズム、いやシステムというべきか、はいたって簡単なものである。巨大地震が発生する。それをセンサーが感知する。コンピュータが計算する。情報網に伝播する。これだけのことである。

  ここには、地震のメカニズムのメの字もない。日本中、世界中回って集めたメカニズムの解明がまったく役に立っていないのだ。

  現在、日本のどこの地下でストレスが溜まりに溜まり、あと1時間後に(そこまで追求しないなら1分後に)臨界点に達する、すなわち、地震が起きる、これを間違いなく発表できるようにする、これが地震への正面から向き合う真面目な態度である。

  それができないものだから、宮城県沖地震の向こう30年で発生する確率は90%などどトボける。こういう予知は、メカニズムもストレスの分析も全然関与していない。ただ、過去の大地震のサイクルをたどって、公表しているだけである。単に統計確率論から導かれた、地震専門家や気象庁の役人でなくても、高校生でも出せる数値である。

  1分も無理なら、10秒前でいい。これを目的とする気象庁や学者であれば、1兆円の国家予算を割り当てる価値がある。自衛隊の4兆円と比べれば、はるかに安いものだ。

  その見込みがなければ、地震関連の役人はさっさと配置転換させ、建設的な仕事に就かせるべきである。かれらの生涯を無為にさせないためにも。

地震の話 その一 緊急地震速報とNHK

  前の記事で終わりにするつもりだったが、NHKが脚立男を速報効果のPRに努めているので、我慢ならず、再び、取り上げる。

  10秒前に速報が来たので、脚立から降りて助かったという話である。それに続いて、「ただし、直下で起きた地震には間に合わない場合もあります」とアナウンサーが言っていた。

  ここでの助詞は重要である。間に合わない場合“も”あるといことは、“大半は間に合う”ことが言外ではあるが前提となっている。

  震度7の直下型地震で、どういう場合が間に合うというのか。

  学歴優秀なNHKのアナウンサーも編集者も、こんな気象庁の詭弁は見抜いている。見抜いていながら、日本国民に向かって公言する。

  国営報道機関の本質がここでも露呈されている。

犬の毛、猫の毛、鶏(とり)の糞

  私の生活環境である。冬毛から夏毛に生えかわるこの時期は、映画「荒野のガンマン」のシーンのように、風が吹くと枯れ枝ならぬ犬の毛がふわふわの塊となって、部屋中を転げまわる。猫の毛はそれほどではないが、やはり、目につく。食事の時、箸を畳の上に落とせば、2~3本の毛は必ず拾っている。

  多分、石器時代の洞窟の中も、こんな具合に原始人は犬と生活していたのだろう。想像しただけで、楽しくなる。

  家の外は、鶏の糞だ。暖かくなってからは、午前中の小一時間、ヤギを、草刈り代わりに、我が野草園に放すから、その糞も撒かれている。ヤギ糞は固いので、なかなか空中に舞わないが、鶏の糞は、微粉となって、私の鼻を通っているはずだ。別に気にしていない。

  このようなとても人の住むような家でなくても、一部屋だけは、茶室もどきの状態を保たせている。明窓浄机は沈思黙考に不可欠。そのために、私にはなくてはならない空間である。

  その私から見て、とても仕事ができそうに思えないような場所で仕事をしている集団がいる。テレビ局である。

  地震が起きると、決まってテレビは、自分の局の部屋を映す。取材費、交通費、共にタダ、安上がりの見本である。それはそれとして、私が驚くのは、彼らの机の上の乱雑さである。痩せたい女性向けの広告に出ていた(今でもあるのかは、わからない)使用前、使用後の比較写真の正反対である。地震前、地震後、テレビで見た限り、私にはその違いがわからない。

  「その核心に迫ります」と詠いながら、その実体は、日替わりランチか学者先生のパッチワーク。あんな机に向かっていては、誰だって、そんな程度の思考しかできない。

  他人の職場にお節介するつもりはないが、報道機関は別格である。報道の仕方や内容次第で、世論は大きく変るからだ。へたな政治家の弁論よりはるかに影響力は強い。だから、何か事件が起きてからといって、その表面だけを捉えて、事終えりとしてもらっては困るのだ。第一報はありのままを伝える、しかし、第二報以降は、事件の本質に向かう姿勢を示してもらいたい。

  私のように山にこもって宇宙を想念せよとまでは言わない。だが、机の乱雑さは、頭の乱雑さそのもの。社会的使命の重大さを自覚して、カイゼンに務めるように。

  注:
  1.明窓浄机:しばしばリッキー(猫)が上がります。
  2.沈思黙考:その実、ボーと雨模様の空を眺めているだけです。
  3.核心とクローズ・アップ、どこか似ていますね。
  4.宇宙を想念:断るまでもなくホラです。感心しないでください(これはうぬぼれです)。
  5.「お前さん、はやく犬の毛がないような洞窟に引っ越さないと、わたしゃ、出て行くよ」カミさんからこう言われて苦笑いする犬好きの亭主を想像すると、なんとなく愉快になります。

世の中が嫌にならない方法

  社会に出て1年目の私は、いつもミュージカル「オクラホマ」の歌を口笛で吹いて毎朝、出勤した。なんと美し朝のことよ、空は象の目と同じくらい高い、というやつである。なぜ、象の目が空に関係するのか、今でも分からない。都立大では佐伯彰一先生の講義を直々に受けたのだから、その時に教えていただけたがそうしなかった。

  なぜなら、2年目からは、バイロン卿の詩「チャイルド・ハロルドの巡礼」の中で出会った、「私は世を愛さなかった、世もまた私を」が出勤途中の私の頭を占めたからである。都立大で学ぶ頃には、「オクラホマ」はとうに消えてしまっていた。

  それでも、無差別殺人に走る少年Aにならなかったのは、世の中が嫌になっても、好きになっても、世の中それ自体は、私とは別であることが分っていたからである。バイロンと同じ心境になっても、お坊さんになるつもりはなかった。もっと歳をとってからで十分と思っていた。

  もう一つは、個人と個人の間に、優劣が歴然として存在することを小さい時から知っていたことである。ある子供は足が速い、ある子供は足が遅い代わりに勉強ができる、魚採りは上手いが、めんこ、ビー球はからきし弱い、数えれば切りがないほど、体験している。

  高校では、頭の良し悪しを別にしても、水泳部で、優劣を味わった。速い者は、後輩でも選手になる。遅ければ、上級生となっても、一番端のコースでしか泳げない。私は、それに何の疑問を持たずに、楽しく高校時代を送れた。

  社会に出れば、すべて実力次第である。運・不運をいう人もいるが、長い目でみれば、出世しそうな同僚は出世しているし、どうも私と似たり寄ったりは、そこそこで終わっている。私は、優劣を意識するが、それが自然であることを知っているから、なんの不満も持たなかった。

  世の中なんて、そういう所である。この事を、最近の若者は分っていない。分らない程度で済めばいいのだが、優劣を認めないばかりか、優劣を認めている他人まで憎む。これが、動機不明の凶悪犯罪の源である。

  というわけで、無差別殺人を防ぐには、世の中はすべてにわたって優劣が存在するものであることを、小さい時から、体と頭に覚えこますことである。

  そこで私の教育論を披露する。

  小学生は、隔月で、全寮生活と家庭生活を繰り返す。すなわち、半年は学校で仲間と共同生活を送る。優劣をあるがままに受け入れるようになる。

  中学生は、2か月を寮、1か月を家の3か月サイクルを繰り返す。

  これでは、学力の低下が避けられないと心配する人がでるかもしれない。私の答えは、低下は後からいつでも取り戻せるということ、学校が学童に教えることはほとんど何もないということである。集団生活を送れば、ウソをつくと、どうなるか、人の物を盗むと、どういう結果になるか、弱い者はどう強い者に向かえばいいのか、家の中で通用するものの中に、仲間とでは通用しないことがある、等々、実社会のリハーサルは一通り経験できる。

  全寮制といっても、軍隊生活を送るわけではない。部活の延長くらいに考えればいいのだ。

  都市部は別として、過疎地の学校統合が進む地区だけでも、こうしたらいい。家にいる間は、野や山、川や海で、存分遊ぶ。一生の内で、気兼ねなく遊べる時期は、15歳までである。知識の増加を目的とする学力のために、ムダにしないように、教育制度の改革を提案する。

  同時に、これが、世の中が嫌にならない方法、ないし、世の中が嫌になっても他人や自分の命を奪う人間にならない方法である。

自殺 その二 60年前と比べて

  60年前の東京葛飾は、下町が点在している村だった。私が育った所は町であったから、縁台将棋、銭湯、井戸端会議など、いたるところで、大人が話しているのを聞いた。

  大人たちの話の中で、今も忘れないのが、「死んだつもりなら、恐くない」、「死ぬ気になればなんとかなる」、「死ぬことを思えば、大した事ではない」等々、“死”に係わる言い方である。

  小学校に上がる頃、そして低学年時代、耳にタコができるほど聞かされた。もちろん、家の中で、親や兄姉たちも大人同士で交わされていた。

  私は、カエル、エビガニ、川魚、蝶、トンボ、ミミズなど、田舎の子供が普通にするように採っていたから、“殺す”ことは知っていたが、人間が“死ぬ”ことは想像さえできなかった。ただ、大人たちの話では、“死ぬ”ことは、生きていく上での最後のそのまた最後の手段であるように思えただけであった。

  と言って、近所はおろか、町で自殺をしたなどという話はきいたことがなかった。今住んでいる島と同じで、当時の情報は口コミネットワークだから、遠くで自殺が起きても、一日とおかずに噂になって届いたはずだ。

  生きているのに、わざわざ死を選ぶ。いずれ時がくれば、間違いなく死ぬのに、待てずに死ぬ。

  私は、どんな理由があるにせよ、自殺者に一片の同情を持たない。また、自殺者に同情する人間も同情からの行動にも嫌悪感を抱いている。大和ことばでいえば、吐き気をもよおす。

  付:
  “死ぬこと”を乗り越えてたくましく生きた当時の大人たちを英雄扱いにするつもりはまったくありません。死ぬほどの苦労に見舞われたのは、その大人たちが、日の丸の旗を振って、中国、朝鮮に出兵し、アメリカと戦争をしたからだからです。

  そんなに“死ぬこと”を思うのなら、なんで、台湾・満州を中国に返し、朝鮮から手を引かなかったのですか。大日本帝国臣民が“死ぬ気”になればできることだったでしょうに。ボロボロになって、初めて死ぬ気が起きてきたのだから、英雄でもなんでもありませんよ。それどころか、反戦思想者を、彼らの意志に反して、“死なせた”とは、・・・大衆の愚かさの証明となっているだけです。

自殺 その一 鶏と比べる

  私の鶏たちは、三世同堂だったから、真っ先にエサにありつくのは、もっとも力の強い壮年期の鶏である。

  60日令(産まれて60日)くらいのヒナは、大人の鶏の隙を縫ってエサにありつく。大人の鶏は、ヒナの頭を突っついて、追い払う。

  老鶏も、壮年期の鶏に頭を突っつかれ、追い払われる。ヒナは、すばしこく逃げて、大人の隙をみては、エサにありつけるが、年寄り鶏は、そうはいかない。弱ればそれだけ、エサから遠のくから、益々弱ってくる。

  ヒナはこれから大人になるから、問題ないが、老鶏は、次第に歩けなくなり、周りの元気な鶏から、突付きまわされる。最後には、鶏小屋の隅でうずくまる。

  人間の私の目から見れば、集団暴行そのものである。ひどいイジメである。

  それでも、死ぬまでイジメを受けていながらも、1羽として、自ら命を絶った鶏はいない。

  人間社会というレベル4で自殺を考えれば、借金だの、うつ病だの、イジメだのと、専門家好みの分析がなされようが、地球というレベル2から見れば、自殺は人間が他の生き物より劣っていることの証明である。新約聖書で、イエス・キリストが歎いているのも、私はよく分る。

鳩山法相と前任者たち

  裁判所が刑罰を決める、その一つが死刑である。法務大臣が決めるのではない。中学生でも知っているこの当たり前のことを、死刑廃止論者は、どうも、よく分っていないようだ。

  偶数月に死刑が執行されるのを、鳩山法相は、偶然であると、言い訳がましく会見で語っていたが、偶数月に気がついて、それを質問するような程度の低い記者には、言い訳など、まったく無用である。職務に忠実であることに胸を張ればいい。

  幼児殺害犯が死刑確定後、18年も生きていた。鳩山法相の前任者が何人いたのか。その全員が、自分の職責を果たさなかったから、死刑囚は、ただただ檻の中で“生かされて”きた。

  死刑執行にハンコを押さなかった歴代の大臣は、地位だけはいただきます、いやな仕事はいたしません、という真に身勝手な“名ばかり”大臣である。その尻拭いをさせられている鳩山法相は、敬意を払われこそすれ、周りからとやかく言われる筋合いにはない。

  それでも、先の記者のような浅薄な人間が世の中にいるのだから、そういう輩が騒がないように、判決即執行と制度を改めることだ。

  以前、他の悪事を大目に見る裁判に手をつけず、死刑だけに判を押すのは、単なる死刑執行人だと書いたように覚えている。実行力のある鳩山法相に、裁判員制度の廃止の意志を表明してもらいたい。そうすれば、法務省官僚や政治家も、青くなって撤回に務めること疑いなし。彼に願ってもムダとは知っているが。

朝鮮 テロ支援国家解除

  朝鮮戦争が起きたとき、私は小学生だった。担任の先生に引率され、「火を噴く38度線」という映画を観た。

  教室に戻ってから、先生が、朝鮮は、北は鉱物が主、南は農業が主だから、38度線で国が分れているのは、たいへん朝鮮人にとって不幸であることを聞かされた。

  この先生はとても面白い先生で、自由時間に「再軍備賛成か反対か」をクラス討論のテーマにしてくれた。振り返ると、主権在民が実感できた時代だったからだと思う。

  さて、アメリカがテロ支援国家解除に動き出した。朝鮮に原爆がなければ、硬軟いずれの外交手段もアメリカによる選択が保証される。

  アメリカ政府は考えた。「無理してまで、将軍様を潰すことはない。いずれ崩壊するのだ。今のうちに、既得権を作っておこう。北には、希少価値の資源が豊富に残されているから」

  このように、アメリカの狙いは、鉱物資源の確保にあるのではないか。

  アメリカの権力者たちは、そろばん勘定なしでは、何事もしない。これも、あながち、私の妄想とばかり言えないと思っている。

警察官 いくらいても足りない理由

  社会不安の増大に対応するためと称し、警察官の増員が叫ばれている。

  秋葉原の事件で、さもありなんという気になった。

  あれだけの目撃者がいたのに、逮捕の理由が、「殺人未遂」である。数時間後には、死亡者が出ているにもかかわらずである。
ようやく昨日、「殺人」で再逮捕した。

  その上、何十人という警察官が、現場の検証にあたっていた。さらに、犯行現場に容疑者を連れていき、同じように検証を行った。あれだけの目撃者、報道カメラが、殺人現場を捉えているのにである。

  この分では、何十人もの警察官が、ワープロ(今はパソコンか)に向かって、何十日もかけて、犯行事実を文書にすることだろう。

  そして、裁判。その分厚い文書を検事、判事が丁寧に読んでいく。弁護士が反論のために多大な時間と労力を費やす。弁護士は、国費でもたかが知れているだろうが、警察官、検事、判事はケタが違う。役人のムダの一つである。

  0.00001%の疑いも無ければ、1枚の死刑宣告書で十分である。そんな凶悪犯を“きめ細かく”面倒を見ていると、ヒマ人扱いされても仕方がなかろう。

  牢屋にはいっている犯人を、“再逮捕”するに至っては、お笑い番組顔負けのお笑い(お嗤い)である。

死刑廃止論

  亀井静香国会議員が、死刑の廃止論者であることを、この前、知った。彼、曰く、「死刑が行われても、一向に凶悪殺人がなくならないではないか。死刑が無意味である証拠だ」と。

  私は、死刑を抑止力や再発防止策として捉えたことは一度もなかった。考えもしなかった。亀井議員の話は、だから、とても新鮮であり衝撃的であった。

  先ず、死刑を凶悪犯罪抑止のためにあるという彼の発想がわからない。それが目的とすれば、江戸時代のように、磔(はりつけ)にするとかさらし首にするとかで、公開されているはずだ。今のように、隠れた場所で死刑を執行しているということは、抑止を目的としていない証である。

  次ぎに、彼には、“罪の償い”の概念がない。死刑は、他人の命を己の命で償うということだ。社会がどうの精神がこうのとは、私のいうレベル4の次元である。地球のレベル2であれば、命対命という極めて公平な扱いである。

  抑止効果を認めなくて、死刑廃止を主張する人もいる。

  その中には、前世の報いであると信じている人がいて、秋葉原で殺された人たちは、前世で、集団で彼(犯人)を殺した、だから、現世では、殺されたのだという。笑う人がいるかもしれないが、日本霊異記などを読むと、長い歴史においては日本人の中では少数派とも言い切れない気がする。

  また、ある人々は、命は神が決めることであるから、人間が係わるのは神への冒涜であるという。これは、前世因果説より、かなり、広範に支持されているように見える。

  私は、前世があるともないとも、ここでは語らない。神の存在も、語らない。死刑を論ずる場が、前世や神にとってあまりにも低次元であるからである。

  死刑廃止論者の理屈がわからないまま、これを書いた。

最高裁はお芝居か

  戯曲は、筋に無理があれば、観る側に、どこと指摘できなくても、不快感を残すものだ。シェイクスピアの「ベニスの商人」が、その典型である。金を借りて返さない方が、金を貸して返してもらえない方より、ハッピーで終わるという、世間の通念とはまったく反対の筋である。高利貸しをユダヤ人としたのは、当時のイギリス市民の受けを狙ったものだが、行き過ぎである。

  他の作品と同じように、セリフにいいものがあるので、救われているが、私は、あまり好きでない。「肉1ポンドを皿の上に載せて出すこと」を条件にすること位、老練なシャイロックなら考えそうなものであるのに、そうしなかった。そうなれば、芝居にならないからだ。

  ともあれ、これは所詮、娯楽の世界。好みの問題である。

  ところが、現実社会で、“借りた金も場合によっては返さなくてもいい”となったらどうであろう。普通の感覚の持ち主であるなら、「そりゃあないよ」と直感するはずだ。この「そりゃあないよ」が最高裁で「それでいいのだ」と置き換えられてしまった。

  不当な高利貸しの金とて、金は金。その金は高利貸しのもの。利子が不当であるなら、不当な部分の利子は、借主に返すべきである。しかし、元金まで、借主のもののままで終わるのは、どう考えても不自然である。不当な高利貸しは、不当と定めた法律により処罰されるはずだ。その上に、元金まで没収とは無茶である。没収した元金が国庫に納められるのなら、まだしも、借りた側が「使ってしまいました」で終わるのだから、到底、普通の感覚で納得できるものではない。

  不当な高利と、私は“止むをえず”とここでは表現しているが、どこから上が不当か、どこまでが正当かなど、本当の所はわからないのである。時の政府が法律で線引きするだけで、ある時代の正当が、別の時代の不当になることはごく普通にあり得るのだ。

  一方、あいまいな利子に対して元金は万人の認める金額という明快な姿を有している。それで米が何升買えるか、ガソリンが何リットル買えるかは別のことであって、1万円は1万円、百万円は百万円だ。

  公務員の着服・横領・裏金には、全額返還すれば、おとがめなし。今回の借りた金は返さなくていいという判決とは裏と表の関係である。共に、世間一般常識からかけ離れた世界に巣を作っている連中の考えである。

  悪党の金でも金は金。元金に限って言えば、借り倒しの方が、悪党である。弱者の皮をかぶった悪党である。

  オスカー・ワイルドは、「世間は舞台だ、配役が悪すぎるが」と言ったとか。最高裁は、お芝居だったのだ。

地震と棲み分け

   今では、聴かないが、私はNHK第二の文化講演会の大ファンであった。日曜午前は、それが楽しみだった。大河ドラマの前になると、PR版、すなわち、ドラマにまつわるテーマの講演となるのだが、そういう時は、パスするだけで、聴いて感心する講演が多かった。


  その一つ。地震の講演。温泉が湧く場所は、地下の熔岩が浅い所であるし活断層のある所だから、温泉は欲しいは、地震は困るは、という訳にはいかないと話てくれた。講演を、方丈記の地震の個所を読むことから始まったので、とても、感心したことを覚えている。さらに、地震は、日本のどこで起きても不自然でないことも話にあった。予知についても、雨の予報と同じで、70%の確率でも、ある人は、傘を持たないで外出する(地震で言えば、備えない)だろうし、30%の確率でも、傘を持っていく(地震でいえば、備える)人もいるという、確率と受け手の行動が別であることも話してくれた。

  その一つ。生き物の共生というような題の講演で、ヤマメとイワナが同じ川にいながら、上手に棲み分けしていることが話された。共生というと、共に栄えるような印象を受けるが、鹿とオオカミの関係を例に挙げて、そんなに簡単なことではないことも話してくれた。鹿は、オオカミに食われる数を勘定にいれて仔を産み、オオカミも鹿の数を持続するように繁殖する、これも共生と言えるというのだ。

  地震に備えるといっても、家をトーチカにしたり、外出する時に鉄兜をかぶるわけにはいかない。いつ地震がきてもいいようにと、車を装甲車に乗り換えるわけにはいかない。備えには、このように程度問題が常についてまわる。

  だが、もう一つの棲み分けは、大臣の誰かではないが、実行可能である。

  この棲み分けとは、人間と人間以外の生き物のことである。人間が住みやすい所を人間が住み、人間が住み難い所は、他の生き物に住んでもらう。日本は、その区分けを、地震、台風、豪雨など、日本と縁のきれない自然災害の発生して、人間が安全でいられるか否かで定める。

  今は、日本人は、人間が棲み分けすべき領域をはみ出して、熊や鹿の持ち場まで侵食してしまった。人口増加に悩んだ昔はともかく、人口減少に悩む今日、無理してまで、熊や鹿の持ち場にしがみつくことはない。もっと快適で安全な場所がいくらでもある。

  人間が住む所は、人間が人間らしく住める環境に、他の所は、地震で亀裂が生じようが、台風で倒木しようが、豪雨で地すべりしようが、自然のなすがままに任せる。

  無為自然、天災に向かう際の極意でもある。

  付:
  それでも、山暮らしがいいという人は、相応の覚悟をしなければならない。覚悟というより、悟りというべきか。仙人は読んで字の如く山に人、仙人は道路の不通くらいで騒いではいけない。騒ぐのなら、さっさと、谷に移ることだ。その時は、谷の人、すなわち、俗人に変身することになるが。

岩手・宮城内陸地震 道路の復旧 25億円の行方

   一口に25億円と言うが、一億円の宝くじが一度に25本当たることである。私の金銭感覚の限界である100万円なら、2千500個の札束、とにかく大変な金だ。

  私の住んでいる島の人口が500名。等分すると、一人当たり500万円である。

  今回の被災者の数がいくらか、覚えていないが、山間の過疎地だからそう大した数ではあるまい。それに、25億円が使われる。どう考えても不自然である。以前は、これが、なかなか腑に落ちなかった。

  今は分る。

  25億円は、土建業者に行くのである。道路財源確保にやっきとなっている集団にわたるのだ。特定財源がどうのこうのと言われずに、堂々と受注できる。テレビに映ったおじいちゃん・おばあちゃんは、早晩、天国に行く。その前でも、車を運転して、あの新品同様の舗装道路を行き来するとは想像できない。然り、彼ら住民は大義名分であって、本性は、土建業者に国交省がばら撒きたいがためである。

  それが証拠に、なぜ25億円が、そのように使われなければいけないかが、まったく議論されていない。

  あの場所は、地震がまた来れば、また崩落する。それなら、いっそ、もっと安全な地域に全戸移住させたらいい。今や、山間のみならず、都市集中により全国至る所が過疎同然となっている。入植した時代とは条件が大きく違っている。25億円の予算があれば、1坪千円の土地が、2千500万坪手当てできる。山林や元田畑の再開墾となれば、土木作業が必要だろうから、25億円のうち、半分を割いていい。それでも、千250万坪が、被災者に与えられる。

  東京環状8号線が、寸断されたら、100億であろうが、千億であろうが、修復しなければならない。理由は簡単、日本の大動脈だからだ。それに比べ、栗原村の道路は、指先の毛細血管である。

  道路が寸断される、それ復旧だ。こういう図式はそろそろ止めた方がいい。

  付:
  私のいる島は、昔3千人いた。海洋性気候だから、みかんが成るほど温暖な土地である。シュロの木は土地の境界杭代わりに使われている。

  今、500人だから、いざとなれば、あと2千500人の容量がある。イワナは養殖できないかもしれないが、ヤギ牧場なら絶対に商売になる。花の栽培がいいと本土の人から勧められたこともある。

  私のような年寄りでも、わずかな年金で生活していける大変いい場所である。

  島でさえ、こうなのだから、陸では、もっといい所がたくさんあるはずだ。


ガス田 日中共同開発 譲歩

   昨日、共同開発が合意されたという報道があった。

  NHKの外務省キャップが、日本外交の成功として高く評価していた。(キャップはフタでなくキャプテンの略称か)

  そして、これほどまでに中国側が譲歩したのは、トップ同士の親密さによるものと福田首相を褒め称えた。

  ちょっと待て。

  譲歩は、もともと中国語である。発音はランプーであるから日本語とは異なるが、意味は同じ、道を譲ることである。

  この地域が日本に属するのか中国に属するのか、これが問題の本質である。中国側が、どんな“譲歩”をしたというのか。

  中国外交部のスポークスマンが、この合意を中国国内に発表した際、この地域は中国の領土であると明確に述べている。

  これを、外務省キャップとやらは、日本に譲歩した印象を中国国内に与えると政府に不満を持つ大衆がいるので、敢えて、中国の領土であると、中国政府の苦しい立場を忖度した。

  あきれた。

  頭の中が、譲歩で一杯になっているから、そういう解釈をする。一応、つじつまは合う。視聴者になるほどと思わせる理屈は通っている。しかし、前提である譲歩自体が正しくなければ、この論理は破綻する。

  中国政府は、中国大衆向けにリップ・サービスをしたのではない。本心から、領有権は“譲らない”と言っているのだ。

  今回の合意の内容を聞くと、折半の投資で、儲けは折半。これは、外資導入の単なる一経済活動に過ぎない。たまたま北京から遠く離れた内陸に外資を受け入れる代わりに遠く離れた海の真ん中に外資を受けただけのことである。

  私は、領土問題を問題にすれば問題となり、問題としなければ問題とならない問題と、禅問答のような答えを用意している。だから、今回の合意についても、領土問題に進展がなくても、是もなし非もなし、との考えでいる。

  だが、この合意が、まるで福田首相の功徳とか外務省の成功などとお人好しの報道がされると、黙って聞き流すわけにはいかない。それで、老いの一筆とした。

国籍取得

   この前、最高裁で、日本男子とフィリピン女性との間にできた子供に日本国籍を与える判決がでた。ニュースの上っ面だけ聞いていると、日本男子が認知した子供であるから、それを否定している現行国籍法は憲法違反と言っている。両親が出産届けを役場に出せば、自動的に戸籍に載るものとばかり思っていた私にはよくわからなかった。

  ニュース解説でチラッと触れたのを聞き逃さなかったのが幸いして、意味が分った。日本男子は既に別の女性と結婚して家庭を持っているのである。これでは役場に行けない。

  最初に思ったのが、いかほどフィリピン女性が魅力的であったとしても(あの秋葉原の日本女性を見れば惹かれる気持ちがわからないではないが)、子供を作るのは行き過ぎであるということだ。最高裁は時代の流れを理由にしているが、間違いである。理由は、母親と子供が共に日本国籍を望むなら、無条件に与えるべきであるということを理由にすべきである。同時に、少子化が騒がれているのだから、作るのなら自分の家庭で作れと、係わった日本男子を誡めるべきである。こうした子供が3万人以上いるということは、係わった日本男子も相当な数に登るはずだ。きちんと、離婚届を出し、受理され、別れる女房が納得するような善後策を講じてから、初めて、別な女性と子供を作る、これが順序というものであり、公序良俗である。

  しかし、よくよく考えてみると、この現象は日本にとって歓迎すべき事であるのではないか。昔、我らの先祖が、アメリカ人がインディアンを駆逐したように、アイヌ人を追い払って、日本の島に住み着いて以来、日本人は大げさに言えば一種の近親結婚のような状態が続き、新しい血が入ってこなかった。純血種がひ弱であるのは、血統書付きの犬や猫で明らかである。雑草のような強さが、日本人にないのは、このためである。それを、公序良俗に反する行為を行った日本男子が、打破した。3万人の子供たちは、血の半分が外国の血である。日本人のよどんだ血をいくらかでも、きれいにしてくれるかもしれない。

  記者会見に出た少女が、大人になったらお巡りさんになりたいと瞳を輝かせて話していた。国籍を意識しないまま成長して、「世の中が嫌になった」と、身勝手な行動で他人を傷つける日本人と、やっとの思いで国籍を取り、大人になった時の自分をはっきり語る日本人、日本の将来をどちらに託すのが賢明か。

  先に述べたように、弥生人の末裔である我々も元をたぐれば、日本列島の移住者である。たまたま千年以上過去というだけで、アメリカの騎兵隊と大した違いのないことをやってきた。アメリカは、自分達の先祖の経緯をよく知っているから、今でも、国籍取得には、世界一寛大である(確かではないが多分そうだろう)。

  「どうせアメリカを真似るなら、悪い所だけ真似ないで、いい所も真似るようにする」、これが、最高裁が“時代の流れ”という時に使う言葉である。

緊急地震速報の欺瞞

    毎週月曜を基準としているこのブログ、火曜の今日は、構想の日としておくつもりだったが、我慢ならず、書く事となった。

  昨日、この速報で、脚立に乗って作業をしていた男性が、4秒前の速報で、急いで降りて、事無きを得たと、NHKが、その効果を報道した。何千万円が何億円か予算を知らないが、一人の男性の骨折を防ぐために、よくぞ国費を費やしたものとあきれた。

  さすが、それだけでは、気が引けるとみえて、今夕6時のニュースで、ある化学工場とある病院のケースを取り上げ、効果の程を披露した。化学工場では、バルブを閉じる時間があった、病院では、透析を受けている患者が自分の手でパイプをにぎることができた、と紹介していた。

  これがNHKが総力を挙げて集めた、あるいは、気象庁が総力を挙げて集めた、脚立男の上を行くかれら自慢の効果の実例である。

  あきれた後に、直ぐに腹が立った。

  先ず、速報は人命を第一の優先とするものである。物や金はあとからどうにでもなる、人命だけが一度失われたら、戻らない。だからこそ、緊急地震速報の意義がある。震源地で人命が失われて、なにが速報だ。緊急地震速報が間に合わずに、死んでいった震源地の人たちを無視してなんという無神経さだ。

  次ぎ、その化学工場や病院が、速報を受けなければ、重大な事故が発生するはずだったとすれば、この方が問題である。震度5やそこらで、猛毒ガスが空中に散って、周辺住民が苦しむようでは、その工場の安全・保安対策が杜撰である証拠であるし、患者からパイプがはずれ、生死の境に迷うようでは、その病院に医術思想がないということである。

  最後にして最大の欺瞞の証。その化学工場や病院の周りで、速報を聞かなかった工場、病院、学校、民家、商店等の倒壊が発生し、そして、そういう中にいた人がバタバタ死んだり行方不明になったりしたのなら、なるほど、速報はありがたいものだと認める。

  事実は、聞いても聞かなくても、なんら差がなかった。つまり、速報は意味をなさなかった。

  役立たずの気象庁地震班とNHKがコンビを組んでこんな欺瞞を日本全国の善良な市民に垂れ流したのに、私は我慢ならず、せっかくの思考の夕べを無にして、このブログを書いた。

  くどいのは承知の上で、直下型地震の予報でない速報は、まったく意味のない税金の無駄使いであることを、再度繰り返す。

仙台市病院の採血器具の使い回し

  こちらのローカルニュースで、注射に使う道具を何度も使っていたという。仙台市長が記者会見で謝罪した。

  針の方は、規定に従って、一回の使用で廃棄していたが、その本体は消毒して繰り返し使っていた。

  私は、最初に関西の料亭の焼き魚を連想した。箸をつけない前の客の物を、後から来た客に出したというあの料亭である。その時、私は、もったいないという板前の考えに賛同して、それで下痢の症状を訴えたケースがないのだから結構なことと、世間の反対の事を言った。

  今度の件も、私は仙台市病院に同情する。もったいないという精神が気に入っているからである。針の消毒をしなかったのは多分、難しいからか針そのもののコストが低かったのいずれか、あるいはその両方の理由からであろう。

  そもそも一回のみの使用は、前の客(来院者)の悪い何かが後の客に、注射器を通して移ることがないようにするのが目的である。

  悪い何かは、消毒で殺菌される。明治以来、西洋医学で確立された技術である。仙台市病院はそれを知っているから、規則を知っていながら、繰り返し使った。

  消毒で殺菌されることが分っているのは、病院ばかりではない。厚生労働省の中の担当役人だって知っている。それを、諸毒は完璧とは言えないと、病院の仕事に信頼を置かず、使い捨てを法律にしたのは、医療機器メーカーに儲けさせるためである。

  「完全な消毒はありません」なんと耳に響きのいいことよ。ならば、完全に使い捨てがなされるというのか。不完全には不完全を、完全には完全を条件にしなければ、公平な議論は成り立たない。

  市職員の不正は別として、なんでもかんでも規則に反した事実だけで、ただ謝るだけでは、ボンクラ市長である。規則自体の再検討まで掘り下げなければいけないのだ。

  国家官僚が作った法律や規則は不純な動機で作られている例は枚挙にいとまがない。これもそのひとつである。

  付:
   夏は来ぬ 
  うのはなの にほふかきねに ほととぎす
  はやもきなきて しのびねもらす なつはきぬ
  (尺八譜から。この位は吹けるようになりました。エヘン)

  さみだれの とどく山田に 早乙女が 
  裳裾ぬらして 玉苗植うる 夏は来ぬ
 

なんか変だな 三題

  一.クラスター爆弾の廃止に日本政府が加わった。この政府の決断を誉める人。
  私が知っていたのは、政府か外務省かが、「アメリカの参加しないクラスター爆弾廃止条約は無意味である」とこの条約に極めて冷淡であったことである。成立後、民放のインタビューに答えて、どこかの参加国の代表が、「日本は最後まで参加をためらっていた。恥ずべきである」と日本を非難した。東にアメリカ、西に中国、クラスター爆弾の大量保有国である。右顧左眄ならぬ東顧西眄。

  そして、日本自体が、大量に保有し、処理に100億円掛かるとのニュース。保有の理由が、クラスター爆弾の持つ抑止力だって。他国に爆弾を落とすことは憲法で禁じられているから、クラスター爆弾が“抑止力”で収まらなくなったら、新潟、北海道、宮城、どこに落とすつもりなのだろう。

   一.競泳着の選択を選手の自由選択に任せた日本のスポーツ用品メーカーと水泳連盟を、英断と誉めた人。

  そもそも、こんな問題があること自体が問題なのだ。かつてマラソンで優勝したランナーが、「私が優勝したのは、このシューズのお陰です」と、あるメーカーを持ち上げた。

  私たちが知らないだけで、今のアマチュアスポーツ界は、がんじがらめのヒモで縛られきっているのではないか。正月の駅伝で新聞社の旗が沿道になびくのは、ご愛嬌で済むが、宝くじや競輪・競馬のテラ銭を選手育成に廻している政府支援の選手を協会とスポーツ用品メーカーの馴れ合いで拘束するのは、行き過ぎである。テラ銭の使途は他にいくらでもある。元来体のよろしい分だけ頭のよろしくない連中の集まりである体育系協会だから、ヒモの自覚がなくても仕方ないのかもしれないが、周りが英断とまで誉めることはあるまい。

  一.先週の地震で、緊急地震速報が、東京に4秒前に来たと感心した人。

  4秒前とは、その感心した人が地震の揺れを感じる前の4秒のことである。その感心した人は、翌日テレビに元気な姿ででていた。

  何事もない場所であれば、4秒といわず、たとえ1分前に速報がだされてみても、まったく意味がない。震源地からの距離の2乗でエネルギーは減衰するとすれば、岩手・宮城内陸地震は、東京にとっては四川大地震と同じ感覚でいられたのだ。だから、元気な姿でテレビに出られた。

  緊急地震速報は、発生前の時間を単独で語ると性格のものではない。岩手と東京の直線距離を考えればいい。4百キロ位はあるだろう。それで4秒である。東京の直下型とまでは言わない。半径50キロ内で同じ規模の地震が起きたら、その感心した人は、どうするつもりだろう。1秒前に出されましたと、感心するだろうか。そもそも、テレビ局にたどり着けるかどうかが怪しいはずだ。

  気象台の課長が、昨日、記者会見で、ついに、緊急地震速報がパーフェクトでないことを白状した。記者席は空席ばかり、ガランとしていた。ヒマなNHKテレビと他に2~3人座っていただけだった。民放各社および新聞社は、総力を挙げて現場の取材に向かっていて、のんきに気象台の課長にかまっていられなかったのだろう。

  いかがですか。この人たちって、とっても変でしょう。それとも、変に思う私こと小国寡民が変なのでしょうか。

岩手・宮城内陸地震 その五 僻地に住む限り

   山間僻地を、人は道路が不通になる度に決まって、陸の孤島という。

  孤島とは、見渡す限り海、浜を歩けば、小1時間で一回りできる島と私は考えている。だから、本土から4キロ離れている私の住んでいる島は島には違いないが離島ではない。

  道路が使えなくなっても、陸は、文字通り陸続きである。孤島とは大げさな表現である。

  その道路も、“孤島”の中の道路でなく、そこから最寄の都市や市街へ通じる道路である。お隣りさん宅にお茶飲みのために行く道に支障はない。

  そこで、私は考えた。

  片道一車線のガードレールまで備わった舗装道路が出来て、それから入植した人たちが何人いるのだろうか、ということである。

  テレビで観る限り、ピカピカの道路が出来る前から、そこに住んでいるような人ばかりである。彼らの祖先は明治時代どころか、鎌倉時代まで遡ることが出来るのではないか。

  日本のほとんどの平野は、すでに道路で蜘蛛の巣状態である。道路族の皆さんは、困り果てて、海の上や山の斜面に道路を作ろうとやっきとなっている。

  一度、便利になれば、不便は不愉快だ。だから、道路が寸断されれば、なんとしても、復旧してくれとなる。これこそ、思うつぼ、願ったり叶ったり、ケインズの一般理論を地でいく。

  島に暮らして、はや12年。春先の強風や台風で年に10回以上も本土と行き来できなくなっても、私は少しもおびえない。

  着る物、食べる物、住む所、ローソク、冷蔵庫を冷やすに足りる発電機、灯油、ガソリン、備えは十分だ。燃料は裏山で腐るほどあるし、横着しなければ、磯で形がムール貝に似た小粒の貝は採り放題だ。本当に餓えたら、メリーを肉にする(いたずらする度に、私は、こうののしっているから、彼女は覚悟している)。

  山間部の人たちが、飲料や食糧を給水車やトラックから受け取っているのが不思議でならない。一週間や十日位、孤立しても耐えられる準備はそういう地に住んでいる以上、当然のことであると思っているからだ。

  道路がない時代から住み着いている人たちが、たまたま便利になった道路に頼り、自立生活を忘れるようでは、道路のない長い時間、その地で終えたご先祖様に申し訳ないと思わないのだろうか。

  私は、民をとやかく論評するつもりはない。ただ、せっかく桃源郷にその生を受けていながら、利権亡者の甘言に乗せられて、「道路をおらほの村まで」と陳情するのが情けないことであると言いたいだけである。

通り魔事件 その五 秋葉原の昔と今

   私は、普通の人の10倍位は想像力あるのではないかと、自信(人はうぬぼれという)がある。何を以って10倍と言うかは、問われれば、都鳥に聞いてくれと答えるだけだ。少なくとも赤毛のアンに引けはとらない。

  その自信からくるのだが、通り魔事件と聞いただけで、50年前の秋葉原にすぐタイム・スリップしてしまう。しつこくて傲慢な電気街の店員と部品名を細かく書いたメモを持ってウロウロする痩せこけた客。その中を肩がぶつかり合いながら歩いている私。

  ところが、テレビを見て驚いた。

  マネキンが歩いているのである。おとぎ話にでてくるようなメルヘンチックとでもいうのか、およそ、公道をおおっぴらに歩けるような衣装でない格好ばかりなのだ。それでも、アンデルセンの話のように、乙女らしい顔や髪型ならいいが、まるで、趣味の悪い仮装行列もかくやと思われるような醜さである。英語はできるだけ避けているが、ここばかりはuglyも並べることにする。醜さだけでは、その醜さを表現できないからだ。

  いずれ彼女らも誰かの女房になり、その数年後には誰かの母親になるのだから、その誰かに申し訳ないので、これ以上は、差し控えることにするが、我が島だったら、チンドン屋だ。

  神田からあのあたりまで、安保の時はデモが通った所だ。そして、歩行者天国は、若い夫婦が子供の手を引いて楽しむ所だ。それが、あんな姿になっていたとは、・・・浦島太郎の心境である。

通り魔事件 その四 裁判員制度

  この悪い制度が施行されてから、秋葉原のような案件が起きたら、裁判員はどうするのだろう。

  強制的に呼び出され、犯行現場の証拠確認をしなればならないのだろうか。フロントグラスにひびが入ったトラック、路上に散乱した破片、ここまではテレビによく出ている。まれに血痕も映されているから、たいていの裁判員は平常心で確認作業をできるだろう。

  しかし、これらはいわゆる状況の確認であって、真の確認となれば、胸や腹を刺された死体、着衣の姿も刺された部分の肌も確認しなければなるまい。本人確認のために、死体の顔を見なければなるまい。テレビのニュースで映った程度の写真では、人を裁くには不十分であるからだ。

  こういう確認が普通に生活している民にできるはずがない。

  それを、司法への理解とかなんとか屁理屈をつけて、無理矢理、民に押し付けるのは、憲法第何条かに違反するはずである。少なくとも、公序良俗に反する行為である。

  警察殺人課、検察、判事、弁護士、この人たちは、死体(実体にせよ写真にせよ)との面会を承知の上で仕事に就いた人たちである。国の法律で強制的に死体を見るわけではない。それを、民に限って強要する。

  すべてがアメリカナイズされた日本は、犯罪もその例に漏れない。秋葉原通り魔事件は、場所を変えて、これからも繰り返される。一億円の宝くじが当たれば、幸せだが、買わない人には当たらない。裁判員は、日本人成人であるだけで、必ず誰かが当たる。そういう不幸のくじである。

  次の政権は、真っ先に、裁判員制度を廃止しなければならない。廃止になるまで、このブログは何度でも繰り返して訴える。

文を書く

  本当は、「物を書く」としたいところだが、「物を書く」→「物書き」→「プロ」に連なるので、アマの私は「文を書く」とする。

  高校の国語の期末試験だったと思う。文章を書いたら、直ぐに表に出さず、数日、机の中にしまっておくのがいいとあった。言っている事は、書いた時は、一種の興奮状態にあるから、言葉の選択や文の構成がどうしても雑になってしまう。机の中の数日は、頭の中の冷却期間でもあるから、その間、読み直すことで、粗雑な個所を改めることができる。結果として、洗練された文章となる、こんな意味であった。

  なるほどそういうものかと、読み続けていくと、そうとも言いえないと反転する。なるほど、冷却すれば、洗練されるだろうが、書き初めの熱が冷えることにもなる、熱が失せたら、読者の心の奥まで、書き手の訴えは届かない、だから多少不具合があっても、そのまま出す方がいいのだ、というのだ。

  Aも正しいような、反Aも正しいような内容のテーマであった。これの設問が何であったかは、とうの昔、忘れてしまった。

  今、私は、書きたいように書いている。引用の括弧や句読点もいい加減である。今更、作文教室に通うつもりはない。お寄りいただいた方が、ここは間違っているが、小国寡民の言わんとしていることはわかる、これで私は十分以上に満足であるからである。

  付: 
  「小国寡民の言う事は“文章としてはわかる”が、内容に私は賛成しない」とおっしゃる方も当然おられよう。しかし、それは、“文”とは別の次元である。

岩手・宮城内陸地震 その四 寸断される道路

   地震・台風の度に見せられるのが、道路の陥没や埋没である。

  そういう被害に遭っているのは、決まって山間の片道1車線の道路である。夜はもとより、昼も鹿か熊の横断量が車の通行量より多いかと思われるような道路である。

  こういう道路が、ガソリン道路特定財源によって、日本全国くまなく網羅されている。だから、どこで地震が起きても、台風に見舞われても、必ず道路が寸断される。

  特定財源が役人や政府お抱えの団体で浪費されていることで済めば、断崖絶壁に這うようにして道路は作られなかったろうが、役人連が使い切れないほどの金だから、やはり作られてしまう。

  作れば、日本では必ず被害に遭う。遭えば、補修が必要となる。金が掛かる。掛かった金は、誰かの懐に入る。道路族は、道路を作ることで、作った時にすでに、補修する金まで約束されているのだ。

  彼らはすぐに、“必要な”道路という。大きな偽りである。“あれば便利な、なければ不便な”道路というべきである。

  以上が理論で、次ぎは実例である。

  牡鹿半島の峰にコバルトラインという素晴らしい道路がある。車が通らないから、都心やその近郊道路のようにわだちができていない。いつまでも新品である。

  先の台風で道路が寸断された。予算がないとのことで、だいぶ永く不通となったままだった。海岸線道路で間に合っているので、地元住民に影響はなく、そのまま山に戻してもよかった。

  しかし作った以上、ムダと知りながらも、補修し、開通させた。将来、おなじ規模の台風と大雨でまた、不通になるのが分っていながら、そうする。田舎の道路を作れば、ムダが倍増する。

  都会の皆さん、田舎もんのすべてが、道路をありがたがっているわけでは、ありませんよ。

岩手・宮城内陸地震 その三 兵隊さん お国のためにご苦労さん

   こんな唱歌があったように覚えている。小学校に入る前である。家にあった地図の日本が、中国東北、朝鮮半島、台湾、千島と赤く印刷されていた頃の話だ。ついでに言うと、姉や兄が、地図を見ていた私に、日本がこんなに広いと自慢して語ってくれたことも覚えている。

  岩手県知事、宮城県知事、地震発生から時間を置かず、陸上自衛隊の派遣要請を行った。ひと昔前は、憲法違反の自衛隊に救援を頼むことには、地方でさえかなり抵抗があったように覚えている。産学協同が今や当たり前になっていることからも、時代の流れをつくづく感じる。

  自衛隊の活用、大いに結構である。私に言わせれば、災害時ばかりでなく、1年365日、お願いしていいのだ。

  戦時中は、兵隊さんはお国のためと感謝された。その兵隊さんが傭兵(職業軍人)か徴兵(民百姓)かに関係なく、国のためとされていた。

  今、自衛隊という傭兵は、完全に国民のお荷物となっている。赤ん坊も数にいれて、一人年4万円を貢いでいるのだ。災害時くらいしっかり働いてくれよと、知事が思うのも当然である。

  張作霖爆破のような自作自演を自衛隊演じない限り、政府がアメリカのお先棒を担がない限り、日本国土に当面戦争は起きない。

  起きない戦争と起きる天災のどちらに、大切な国庫をつかいますか。NHKに是非アンケートを実施していただきたい。

  ちなみに、お隣り中国でも、八路、新四、原爆、クラスター爆弾、役に立っていません。役に立っているのは、若者の体力とブルドーザーです。

岩手・宮城内陸地震  その二 石巻震度5弱

    先日、披露したように、我が家は耐震性評価で、最低のお墨付きをいただいている。

  今日の地震でゆさゆさ揺れたが、被害ゼロである。犬は、恐怖からか林の中に走っていった。オオカミと同根の時代の本能というべきか。逃げてくれたので、今後大地震で家が倒壊し、私が身動きとれなくなっても、これ幸いとばから、顔をベロベロ舐められなくて済むことが分って、嬉しくなった。

  川原発が牡鹿半島の反対側に設置されたということは、ここ一帯の地盤が強いということであるから、元海とか池の埋立地とはまさに立地条件が違う。その上、竹林の中だから、家全体がセーフティ・ネットの上にある。(そういえば、この言葉、一時はやったが、今、どうしているのだろう)

  私は、地震に対しては、まったく不安がない。このような科学的かつ客観的なものを根拠とするからである。ところが、世間は広いもので、根拠がないまま不安でない人々がいるのだ。

  裏山が迫っている、庭のすぐ前が断崖である、奥行きのある狭い入り江(津波の被害甚大)に面している、等々、いつ自分の真下で起きるかわからないのに、起きれば間違いなく被害に遭うのに、平気でいられる。私に言わせれば、毎日、清水寺の舞台で生活しているようなものだ。

  人は地震を天災と言う。私は、“地震は人災”という。なぜなら、地震は発生するのは天の技であるが、それが災害に転化するのは、人の奢りからであるからである。

岩手・宮城内陸地震 その一 私にも出来る職業

  宮城県沖地震の確率に夢中になっている最中、山で地震が発生した。山の確率を出していないのは、高い確率でないから、気象台が無視したのに相違ない。

  先日、テレビで知ったことは、宮城県沖地震は、過去百数十年の間、定規ではかったように30年周期で発生しているということだ。チラッと観ただけだが、4回位あったようだ。

  ここから、気象台は、次ぎも30年のスパンで起きるだろうから、宮城県沖地震は直ぐに起きても不思議でない、という結論を導く。

  一方、今回の震源地では、過去に地震がなかったので、これからもあるまいと判断していた。

  小学生に、ある一定の間隔に並べられた石の絵を示し、「この次ぎに石を置くとすれば、どこに置きますか」と聞けば、よほどのへそ曲がりでない限り、等間隔の先に石を置くであろう。これが地震を専門に扱っている公務員の程度である。

  地震緊急速報も、最初の地震では、民放テレビに流れなかった。何回かの余震には出た。私がその余震を感じてからである。余震を感じるわずか前には、私の脇にいた犬が動揺した。コンマ何秒かかも知れないが、地震の前と後では天と地の違いがある。無論、犬の方が偉い。

  私は、もう一度若返って、仕事に就くとしたら何ができるかと、考えたことがある。悲しいかな、何も思い当たらないのである。だから、今のようにわずかな年金をありがたく使わせていただくことで満足以上の気持ちでいる。

  しかし、最近になって、そうでもないような気もしてきた。気象台の地震担当官なら、私でも出来ると自信が湧いてきた。一生ヒラだったが、テレビで、当たり前のことを言って澄ましている課長を観たら、ひょっとしたら、ここの部署なら、私も課長位にはなれると確信した。

  困った問題は、税金をそんなことでいただいていいものかどうか、そんなことで自分の一生を費やしていいものかどうか、悩むこと必定であることである。

  職業に貴賎なし。されど、職業に益無益あり。

NHK番組訴訟 最高裁の判決

  「戦争と女性への暴力」を私は観ていない。話も聞いていない。だから、その内容は知らない。問題は内容にあるのではなく、手法の評価にある。だから私は、即座にこれを書く。

  最高裁の言っていることから、知ったことは、報道機関は、取材をしたあとは、報道機関の意向の通り、編集し公開してよろしいということだ。

  せっかく、輝く海を眺めて、いい気分になった所に、厄病神がやってきてしまった。

  私の友人の幾人かは、取材に応じたものの、本人の意見とまったく反対の記事になっていたと、憤っていたのを覚えている。私も、これまで数回、雑誌社の取材を受けたが、私の名が出る記事は、自分で“すべて”書き改めた。それほど、注意しなければ取材は取材側のペースに乗らされるのだ。

  今回の事件も、取材される側のNHKに対する認識の甘さ、取材一般に対するガードの甘さが禍したものである。それは、しかし、NHKを信頼したことによるものであって、取材された側の善意や好意の証でもある。

  方や、NHK。取材しておきながら、(甘言で擦り寄ったはずだ)、後になって、「わたしゃ存じません」である。人の善意を無にしたばかりか、正に「恩を仇で返す」稀代の卑劣漢である。

  7時のニュースで言ったことが振るっている。最高裁の尻馬に乗って、「これからも自立した報道により一層務めます」だと。

  前のブログで、2大政党とNHKがまとまったら大変なことになると警告した。今度は、更に、最高裁までが、グルになった。

  何度も繰り返してきたように、民放や新聞社は、私は気にしない。視聴者、購読者に見る、見ない、読む、読まないの裁量がまかされているからだ。

  NHKは違う。強制徴収が許されている、その等しい程度で、国民の義務となっている報道である。それが国家権力の代弁者であってどうするつもりだ。

  「自立した報道」との言、厚顔無恥、前にどこかで使った記憶があるが、かまわない、もう一度、ここで使うことにする。

FC2Ad