老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

アフリカ開発会議 その四 核廃絶のリーダー

   国連の常任理事国は、みな核兵器を保有している、人でなし国家である。何度も言ってきたが、私は原爆を兵器とは認めていないが、周囲がそういうので、ここでは、仕方なく使っている。

  そんな仲間に核兵器を持たない日本が入れたとして、なんぼの発言ができる?

  そもそも、発言するだけの信念があるのだろうか。何か複雑な状況に直面すると、国内では、“国民の世論の動向を見極めて”、海外では、“世界の世論の動向を慎重に見守って”、・・・決まってこのワン・パターンである。要するに何も自発的に意見を述べませんと言っているのである。

  福田首相や外務官僚は口では常任理事国入りを言っているが、いざ、そうなったら、右往左往するのはまちがいない。

  朝青龍と白鳳が土俵で演じた醜態は、にらみ合いという強い意志が感じられた。そこにいくらかの救いがある。日本が常任理事国になって、国連の舞台に立たされたら、ただ、オロオロするだけだ。この醜態は、まったく救いようが無い。ただ、ただ、みっともないだけだ。

  しかし、それでも世界で名を成したいというのなら、野にいて、核廃絶のリーダーになるのがいい。これは、人でなし国家にはできないことである。アフリカ諸国のみならず、非核保有国のすべてが、日本のリーダーシップを認めるだろう。

  日本政府は、核廃絶を願っているという。リップ・サービスで終わらないことを、こういう会議で証明してもらいたい。

  大国中国に対抗しての会議との見方があるようだ。中国がいかに外交攻勢をかけようが、核廃絶の標榜ばかりは、日本に敵わない。

  ご案内:
  あまりパソコンをつかわないことにして、常時接続からダイヤル・アップに週末、切り替えます。モデムの交換やらなにやらで、アップ・ロードがすんなりいかなくなる可能性大です。うまくすれば、来週月曜、へたをすれば、いつ復活するかわかりません。すいません。

尺八

アフリカ開発会議 その三 常任理事国入り

  私には理解できない。なんで、アフリカ諸国にお願いするのかがだ。

  今の常任理事国は、第二次世界大戦の戦勝国のカルテル集団だ。おいそれと、その特権を他国に広げるわけがない。アフリカに幾つ国があるが知らないが、100あったとして、その100全てが日本の常任理事国入りを支持しても、常任理事国の判断にとって何の影響もあるまい。

  福田首相が、さながら見本市会場を回るような姿で、各国代表と面会したという。国連問題など、真剣に話し合いをして、お互いの疑問、質問をやり取りして、初めて納得が得られるような性格のもの。展示会場で名刺を交換するようなものではない。

  常任理事国入りで何を語ったのか、さっぱり知らされない。そもそも、我々日本国民になる程と思わせるような説明があったろうか。ただ、国連の分担金が大変な高額なので、それに見合う地位が欲しいというだけの説明だったように思う。常任理事国になったら何をするのか、さっぱりわからない。今回参加した代表に、聞いてみたい位だ。

亭



アフリカ開発会議 その二  ODAの対象国

 餓えた人民がいる、薬がないため子供の死亡が多い、文盲が多い、アフリカは貧困に喘いである。

  だから、経済大国である日本が援助するのは当然であって、それを期待して日本にやってくるのも、彼らの立場であれば、無理もないのではないか。それを、小国寡民は、田舎政治の補助金・助成金ねだりと同列におくのは、いくらなんでもひどい話だ。

  ちょっと待て。私はなんでもかんでも支援するなというのではない。支援する対象国を選別すべきであると言いたいのだ。

  一つ. 軍隊を保有している国にはODAの対象としない。どんな理由であれ、兵隊を食わせて、武器を死の商人から買うような国は、まず、そういう金を民生に廻すべきである。日本国の憲法第九条にもとる国に、我々日本国民の稼いだ金で手助けする必要は無い。もちろん、内政干渉はご法度だから、個々の交渉以前にこの原則をアフリカ諸国に広報する。これ位は、外務官僚でもできるはずだ。

  一つ. ただの金はいけない。無利子でいいから借款にする。ただで貰った金は、どうしても、有り難味が薄れる。日本の国家公務員や外郭団体の醜態で明らかである。日本人だけがそうであるわけがない、アフリカ人も、同じである、(と考える方が自然だ)

  一つ. 恒常的な支出は、その国の自力更生に委ねる。天災・人災の時に、思い切った援助をする。アフリカの国々は、国家予算を医療・教育・衣食住につぎ込むので精一杯であろうから、天災・人災に見舞われたら、お手上げになることは明々白々である。その時こそ援助するのだ。

  衣食住に医、この最低限の富は、その国に責任を負ってもらう。決して、冷淡な態度ではないと思うが、如何。

     論語 顔淵第十二
   子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、 曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、古皆有死、民無信不立。

付: 
 最後の「民、信無くば立たず」が大好きでしたから、北京で立派な隷書体の貴石のハンコを作り、十年以上も賀状にペタペタ押していました。しかし、小泉総理大臣(当時)の座右の銘と知って、使うのを止めました。

アフリカ開発会議 その一 ワン・パターン

  政府はODAを倍増すると約束した。その見返りに、国連の常任理事国入りを支援してもらいたいと働きかけた。

  国内で、何か問題があると、すぐに金で済ませようとするあのワン・パターンを外国にも使っているのだ。

  自衛隊基地、道路拡張、空港、原発、米軍基地、本当は、担当の役人が丁寧に民に説明して、民から賛同されなければいけないものを、面倒だから、札束をちらつかせて、事を運ぶ。

  すべての民が、唯々諾々と役人の言う事を聞くとは限らないように、アフリカ諸国の中にも、金に釣られない国があるはずだ。そんな国は、最初から福田首相の招きに応じない。参加している国は、みんな、お土産が目当てである。

  私の知っているODAは、外務省官僚が相手国との丁寧な交渉を面倒がって、金のばら撒きで、目的を達成しようという極めて横着な仕組みである。

  いくつかの国の代表から、インフラが欲しい、技術が欲しい、医療設備が欲しいと、あれこれ、田舎政治の後援会を彷彿とさせるような発言が続いた。福田首相の顔は映らなかったが、おそらく、ニコニコ顔だったろう。外務省のお膳立てどおりだからだ。

  その中で、私が感心したのが、「日本は農産物をもっと買ってほしい」という発言をした国があったことだ。売る・買うは言うまでもなく、対等の立場で成立する。ODAをありがたく思えといわんばかりの福田首相や外務官僚の顔が一瞬引きつったのではないか。

  想像しただけでも、愉快になる。

天災から学ぶもの

  新たに何か政策を打ち出す時、政府は決まって、“達成可能な”あるいは“実行可能な”を頭につけて、さもそれが、空理空論でないことを印象づけようとしている。

  即座に実行不可能と決め付けられるもの・・・

  例えば、将来に渡ってガソリンが高騰するから、一般家庭用には軽自動車を奨励して、自動車税をゼロにする、同時に、2000cc以上の車は、今の10倍に引き上げる。

  例えば、テレビ局には省エネのため深夜放送を止めさせる、国民には、余剰米の解消のため、強制的に各戸に割り当てて米を買わせる。

  例えば、悪徳企業は、お家取り潰しにする。怠慢官僚は、お引取り願う。

  例えば、田舎の道路は、現有の維持・管理で精一杯だから、延長しない。

  他に多々あるだろうが、一見無理なようだが、人間が作った社会である限り、人間がそうしようと思えばそうできるものばかりだ。“達成不可能”、“実行不可能”は人間の横着の言い訳である。

  ミャンマー、中国の天災で、所有物一切を失った人々。十分に食べる、温かく着る、ゆっくり寝る、病に罹らない、これら四つが満たさないために苦しんでいる。その苦しみは本当の苦しみであるから一寸たりとも譲ってはならない。

  兼好は、それ以上の事や物での苦しみは、苦しみであらずして奢りであると言う。

  奢りであれば、無ければ無いでいいし、変えようとすれば変えられる、これが私の考えである。以前、ここに挙げたと思うが、改めて、その段を示す。

   徒然草 第百二十三段  
  ~
   思ふべし、人の身に止むことを得ずして營む所、第一に食ふ物、第二に着る物、第三に居る所なり。人間の大事、此の三つには過ぎず。饑ゑず、寒からず、風雨にをかされずして、閑に過すを樂とす。たゞし、人皆病あり。病にをかされぬれば、その愁忍び難し。醫療を忘るべからず。藥を加へて、四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ、缼けざるを富めりとす。この四つの外を求め營むを奢りとす。四つの事儉約ならば、誰の人か足らずとせん。

後期高齢者医療保険 国家による個人への干渉

  社会生活のうち、何がありがたいかといって、人間一人ひとりの価値観が国家権力によって規制されないことに勝るものはない。

  価値観の一つに生死観がある。よく言われている“太く短く”、“細く長く”は代表的なものである。中には“太く長く”と欲の深いお方もおられようが、とにかく、生死観は個々人の問題であり、そのことで、他人がとやかく口出しすべきものではない。

  後期高齢者といえば、家族の面でも社会の面でも、一通り責任を果たした人々である。75歳まで生きてきたのだから、世間の甘さも苦さも十分味わっているはずだ。人生の経験者である。

  ある人は、病気になっても、いずれは何かの病気で死ぬのだと、生きているうちが花なのよと、金を趣味や博打につぎ込むかもしれないし、ある人は、何がなんでも長生きだけはしたいと、現役時代から、ひたすら金を貯めて、大病の治療に備えてきたかもしれない。そして、たいがいの人はその中間でうろうろしているはずだ。

  その人たちが、75歳以降、どう生きるかは、周りであれこれ言う必要はない。まあ、親族や友人が助言するのは結構なことだが、国家が、(厚生官僚の欲望を密かにし)その強制力を行使して、十羽一絡げで、彼らの生活を干渉・規定するのは大いなる誤りである。

  生死観は私の階層ではレベル2で、国家・社会のレベル4よりはるかに高い。

  後期高齢者医療保険制度の悪の原点がここにある。六十歳までは、社会は、主役である構成員の生命・健康を保障しなければならない。その後の生命・健康は、個々人の価値観に任せよう。互助を重んじる人たちは、保険組合を作ればいいし、資産に自信があれば、参加しない人もいるにちがいない。

  そして、「宵越しの銭は持たねぇ」と豪語してきた江戸っ子が、歳をとって泣き顔を見せても、社会は、面倒を見る必要はない。
己の価値観で生きてきたのだから、当然である。

  好きなように生きて、それに応じて死んでいく。私の思想の原点である。社会の良し悪しを測る原点でもある。

採否在民

  有名無実である主権在民の代わりに採否在民を提唱したいと思います。

  偉いお役人さんがコネコネして作った法律・条令も、今のやり方ですと、ぜ~んぶ国会を通ってしまいますよね。

  小泉さんを選んだ人、小泉チルドレンといわれたフリーター君を選んだ人、こんなはずじゃなかったのにと臍を噛んでいます、でも残念、It’s too late!

  福田さんがオレやめたと言わないかぎり、延々と続くお役人さんの法律の通過、困ったもんだと思うのは、私ばかりではないでしょう。

  なにも自民党・公明党が悪いわけではありません。民主党が政権を取ったとしても、民主党がお役人さんをしっかりコントロールしない限り、同じ事の繰り返しです。はっきり言いましょう、コントロールなんか無理です、出来ません。今でこそ反対していますが、仮に、民主党が政権を担っていたら、ガソリン暫定も後期高齢者保険も裁判員制度も、必死になって弁護したことでしょう。それほど、お役人さんは、先生がたを味方につけるのがうまい人たちなのです。

  対抗策として少し前、立法員制度を提唱しました。対抗策はもう一つあります。

  それは、年度内に成立した法案すべてを、年に一度、国民投票にかけることです。千件あろうが1万件あろうが、かまいません。一冊の本の厚さになってもかまいません。

  民はそれを受け取って、自分の関心のある法律に○か×をつけるのです。最高裁判事の適否にある×でなければ賛成というような権力者に都合のよいやり方はいけません。○が多ければ、法律が制定され、×が多ければ、廃案とします。

  民はそれぞれの価値観がありますから、自分に関心のないものは、○も×もつけません。関心のあるものだけを選んで、○×をつけます。

  これの最も優れた点は、○にせよ×にせよ、己の確固たる意志で判断するということです。賛成か反対かの一騎打ちになります。

  「分らない」あるいは「関心がない」人は、じっとして家でテレビでも観ていてもらえばいいのです。

  これまで、そして、今でもそうですが、ある政治テーマについて真剣に考えている人もどうでもいいと思っている人も、等しく選挙では1票の権利を行使する、このシステムが政治をダメにしているのです。ですから、きっと私の提案は役に立つと思いますが、いかがでしょうか。

  付: 
  1.品の良い福田さんのことですから、「オレ」でなく「私」でしょうね。
  2.民衆を衆愚と言っているのではありません。国会議員に立法を
    白紙委任するのは止めましょうと言っているのです。
  3.民主党が自民・公明並みと言っているのではありません。
    絶望の自民と希望の民主の差は歴然としています。

遊歩道から島を望む


一院制の動き

  おおぴっらに一院制を唱える議員がでてきた。前からこの動きはあったのだろうが、ねじれ国会の禍を転じて福となすことになるのだから、おおいに結構なことである。

  大日本帝国において、天皇直属の陸軍が大臣を出さないため、国会が空洞化したことは、中学校で習った。今で言えば、参院の反対で政府が四苦八苦しているようなものだった。議会を翼賛にまとめた大日本帝国がその後どうなったかは、私は学校で教わるまでもなく、じかに経験している。

  いつもの様に、反対する議員が出てきた。参議院議員らしいが、自分が失職することになるのだから、議員先生にとっては大問題であろう。

  ところで、私の町が石巻市に合併された時、町長以下町会議員全員の辞表が集められた。若干の退職金、企業の早期退職金のようなものか、があったかもしれないが、わずか6千人弱の町のことだから、あったとしても、わずかなものだったと思う。こういう時は、だいたいゴタゴタが起きるものだが、間近に見ていても、すっきり失職してくれた。私は、さわやかさを感じた。

  町の議員でさえ、こうである。まして、国会議員となれば、数段の潔さが備わっていなければならない。それを、なんだかんだと理屈をこねて、2院制を続けさせようとする、みっともない。

  とは言え、彼らをポイ捨てにするのも哀れだ。そこで、任期4年を6年に延長し、3年毎に半数の改選とするように、私の従来の提案を改めることにした。6年の身分保障があれば、少しは落ち着いて、政治に集中できるのではないかという希望もある。初めの選挙は、600名全員を選ぶ。ただし、半分は任期3年とする。文句が出ないように、議員報酬は、思い切って6年分与える。

  3年毎に選挙が行われるから、直近の世論が反映される。同時に、半数は現状のままだから、浮ついた世論でガラッと議員の構成が変ることはない。

  解散も大丈夫だ。次回選挙にあたる300名に限って行う。そうすれば、どんなに短くても、3年は議員でいられる。現行の衆議院のように、ようやく先生と呼ばれるようになったのに、すぐ、解散・失職となるような恐怖にビクビクしなくていい。こうすれば、3年毎の改選や突然の解散にも、国会の空白は生じない。

  海上給油、ガソリン暫定、裁判員制度、後期高齢者保険、みんな、小泉純一郎さんが大勝したことによるご利益である。当時、「純チャ~ン」と彼の行く先々まで追っかけていた都会のオバちゃんも、これほどまでに彼に白紙委任したつもりはなかったはずだ。

  私は、参議院を国家規模の世論調査と嘲笑した。その通りに動いているので、かねてからの持論を少々“カイゼン”して、一院制を提唱している国会議員にエールを送ることにした。

  付: 
  私の分らないのは、次の衆議院総選挙で、自民・公明が議席の過半数は占めたものの3分の2を占めなかった時、どうなるかである。まさか、自衛隊の青年将校が国会の無能に怒ってクーデターを起すことはないと思うが、心配だ。

過労死 純人間の行為

  世の中、大抵のことは分ってきたつもりだが、わからない事もないではない。その一つが、過労死である。

  労災が認定されるかどうかという個人のレベルとしてなら、私は、ブログに取り上げない。過労死で亡くなった人には、一人ひとりの事情がおありのことと思うからである。

  私は一度動物の仲間の人間の行為として過労死を考える。

  過労死は、人間にしか見られない死に方ではないか。動物では、餓えで死ぬ、怪我で死ぬ、老衰して死ぬ、他の動物(主に人間)や微生物で殺される、などしか私には思い浮かばない。

  もちろん、人間も動物の一種だから、動物の死に方はすべて備わっている。だが、過労死だけは、どう考えても別格である。

  世間では、百時間を超える残業で死んだ(殺された)、度重なる海外出張で死んだ(殺された)、睡眠時間が十分取れないままの運転で死んだ(殺された)、と言う。殺す”は他動詞、“死ぬ”は自動詞、過労死をいずれのカテゴリーで見るかによって意味がまったく違ってくる。私は自動詞派である。どう見ても、死ぬ程までしなければならない職種ではない。兵隊ではないのにだ。

  過労がその人を殺したのだから自動詞とはいえない、と反論する人がいるかもしれない。それに対しては、過労は“自分自身”の体の疲れであると答えるだけで十分であろう。

  世間は過労死を社会問題として扱う風潮にあるようだ。私は、過労死に対しては、極めて冷ややかな目でいる。人間である前に動物であることを放棄し、純人間になってしまった人の行為であるからである。

  付:
  最近、付が多くなっている。申し訳ないが、アップ・ロードの間際で、見直しているせいである。誤解のないようにしておきたいのは、亡くなられた人や家族を話題にしているのではないということ。

ノブリス オブリージュ 国家高級官僚に望みを託す

  士農工商のうち農工商の民に彼らの希望を聞けば、「景気をよくしてもらいたい」、「医療を充実させてもらいたい」、この2点が圧倒的多数を占めると思う。

  一つは、多寡で測れる金、もう一つは長短で測れる命、共通しているのは、数字という客観性を有した尺度に頼っていることである。

  金:そこには、どうやって金を増やしたか、貯めた金をどのように使おうとしているのか、金のクオリティーはまったく考慮されていない。

  命:そこには、どのように青年期を過ごすのか、壮年期を送るのか、終末を迎えるのか、命のクオリティーは、まったく考慮されていない。

  間接民主主義の代議士は、選挙民の持つ各自1票の集まりでできている。だから、国会議員は、農工商の代弁者として、年中、金と命で騒いでいても不思議はない。与党と野党はこのレベルのケンカをしているに過ぎぬ。

  私が、エリート官僚の怠慢・欺瞞に憤っているのは、彼らに士農工商の士の役割を期待しているからである。特に、最高裁は、国の基(もとい)をしっかり固めていてもらわなければならない。外務省は国の姿であるから、凛として背筋を伸ばしていてもらいたい。一縷の望みである。

  ノブリス オブリージュ、とても響きのいい言葉である。

 付:
  今日アップ・ロードする段になって、やはり、付を付けたい気になった。それは、私の心の底では、一縷も彼らに望みを抱いていないということである。ノブリス オブリージュで締めたら、私が自己矛盾に悩むのはまちがいない。それを避けることにした。

日本霊異記 続き

 お話の項

  昔むかし、一人の行商人が仕事を済ませて、自分の村に帰る途中、2匹の鬼にすれ違いました。とても人懐っこい顔の鬼でしたから、声をかけました。

  鬼:「村の純一兵衛という男を、閻魔様の所に連れていこうとしたが、いなかったよ」
  純一兵衛:「その純一兵衛とは私のことですよ」
  鬼:「オー、ラッキー!じゃあ、一緒にいこうか」
  純:「まだ死にたくないんです。なんとかなりませんか」
  鬼:「手ぶらで帰ったら閻魔様に叱られるんだ。誰か、代わりがあればねえ」
  純:「隣村の康助が同じ歳ですよ」
  鬼:「それは結構、康助でいいや。でも、お前を助けたのだから、牛1頭をくれないかね」
  純:「いいですよ」
  鬼:「牛を食うと、罪障が増えるので、オレたちのために、お経を千遍、あげてくれないかい」
  純「いいですよ」

  こうして、隣り村の康助は死にました。純兵衛は、生き延びました。鬼もお経のお陰で仏様のもとにいくことができました。

  お話はこれでお終い。

  考察の項

  先ず、純一兵衛なる男、ずいぶん正直である。日頃命は天に任せるなんて哲人ぶっている私でも、その場になったら、顔面蒼白となって、「小国寡民を探しているの、そんなバカは知らないね」とウソをつくに決まっている。パオロだって白を切ったのだ。なんで私だけ正直でなければいけない。

  次に、身代わりを、悪びれた様子もなく教えたこと。これは、隣り村の康助にとって、大変迷惑な話である。私にとって気に食わない政治家はごまんといるが、私の身代わりに閻魔様に突き出そうという気にまではなれない。

  そして、鬼が牛を欲しいといったこと。当時、牛1頭がどれほどの価値のあったものか私は知らないが、人間が食べる物ではなかったことだけはわかる。吉野家さんは、昔むかしだったら鬼をお客にして、24時間営業をしなければならなかったろう。

  冗談はさておき、身代わりを立てたことに何の咎めもないことに感心した。最も感心したのが、ワイロのやり取りを悪いと書いていないことである。昔から日本は、“地獄の沙汰も金次第”で有名だが、改めてワイロに対する寛大さを認識した。

  21世紀の今になっても、贈収賄は絶える事がない。50年前の新聞、30年前の新聞、開けば、必ず、官・業の癒着、贈収賄が紙面を飾り、時の政府が抜本的改革を誓っている(はずだ)。

  30年後も50年後も、日本人が日本人でいる限り、ワイロはなくならないと前にこのブログに書いた。

  ありがたい仏さんのお話で、ワイロがサラリと書き流されているこのお話は、私の正しさが認められたような気がして、嬉しいような、情けないような。

  付:
  名前は本文と違っています。筋も大まかです。大勢に影響はありません。

後期高齢者保険制度の見直し 偽善

  60歳以降の保険はすべからく任意にすべしが私の持論である。任意である以上、国が独占する必要もない。民間の参入も歓迎する。国(この場合は厚生労働省の役人の面々)が、その時になって、断ろうと思えば断れる国民から契約を取り付ける(お金をいただく)ことがいかに難しいか初めてわかることであろう。少しは、税の無駄使いを反省するかもしれない。

  このことは、いずれまたとして、現在の制度を残して、政府と与党は見直しを検討するという。民から金を取る制度で見直しといえば、ひとつのパターンがある。それは、低所得者に気配りをして、世論を沈静化させることである。

  わたしは、これを偽善の徳政と言う。高所得者の金も低所得者の金も何ら差はない。日本は一物一価、スーパーで、金持ち向けと貧乏人向けの値札が並んでいない。

  なにより、高所得者は、それなりの努力をして金持ちになったのであって、ブラブラして高所得者になったのではない。今の日本は世界でも稀に見るほど公平な社会である。低所得者は、彼らの多くが、金儲けとは別の価値観を持った人たちである。

  一生懸命に働いても、生活が苦しい人はどうなんだ、と言われるかもしれない。しかし、これは、政府の見直しの正当性とは別の問題である。

  国民の間に不満が湧く度に、低所得者対策と称する徳政ですり抜けてきた為政者の偽善を私は看過しない。

  付:
  悪事で大金持ちになった人もいますが、それは、正規度数分布からみれば3σの外側、いや4σの外側の極々一部であると私は思っています。同様に、正直に働いていながら、食うや食わずの人も、4σの外側でしょう。

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裁判員制度のリハーサル 卑劣なカモフラージュ

   演習と本番とは大違い。

  その一.
  だいぶ前の事、私の部落で、消防訓練が行われた。私より上の年代の人で都会人は、覚えているはずだが、バケツリレーである。初めは、バケツに半分位水が入っていた。続けていくうちに、水源の水が減って、リレー訓練の終わりになると、空同然のバケツをリレーするという高齢者にとってありがたい状況になった。みんなゲラゲラ笑いながら、「ホイヨッ」「アラヨッ」である。消防所からのお偉いさんが、「今日は、立派な訓練が皆様のご協力によりなされました」と我々を誉めてくれた。

  しばらくして、部落で本当に火事が起こった。てきぱき働いたのは、島の反対側の部落の消防団員である。我が部落の消防といえば、てんでんばらばらの個人技。リレーどころではない。

  その二.
  少し前、オリンピック選考を兼ねた女子マラソンがあった。42キロを走ったことがない選手が、途中でダウン、それでも気力でなんとかヨレヨレになりながらもゴールした。解説者は誉めなかった。半分怒り、半分あきれた。

  その三.
  尺八の稽古。初心者は息が続かない。5分の曲でさえ終わりに近づくと、正に息も絶え絶えの体である。師匠は教える、5分の曲を満足に吹くためには、その曲を休まず2回吹き続けよ、と。

  その四.
  水泳のブレストは200メートル競泳が最大である。その練習には、必ず300や400のロングが入る。私は、200メートルでアップ・アップ。だから、私は長くて100メートルである。

  さて、日本の法制史上、生類憐れみ令と肩を並べるほどの民を食った裁判員制度。各地でリハーサルをやっているという。報道管制か官製裁判員かしらないが、「絶対廃止すべきです」などという意見はニュースにでてきていない。

  驚いた事に、死刑判決を下すか否かのリハーサルは、避けていると言う。理由は、リハーサルで過度の負荷を参加者にかけないためとのこと。

  私が、その一からその四まで、長々と書いたのは、このリハーサルの卑劣さを取り上げたかったからである。

  スタートが避けられなければ、仕方がない。しばらくは我慢だ。しかし、次の政権には、即座に廃止にもっていってもらいたい。そして、こんな目茶苦茶な制度を作った法務省役人と最高裁をリスト・アップして、陪審員リンチ制度のあるアメリカに追放してもらいたい。心から願う。



泥棒が縄を綯(な)う  官僚組織改革

  10年前に発売された我が老パソコンよ、今しばらくは元気でいて欲しい。焦りはないが、といって、のんびり福田さんをながめてはいられない。

  いよいよ官僚組織改革を行うべく、新たな組織を首相直轄のもとに作ることになったと言う。強い権限を持たせて、天下りや業界との癒着を取り締まると言う。

  例によって、有識者のお出ましだ。先ず、この手の有識者はちょうちん持ち兼操り人形だから、どこの大学教授であろうが何の専門家であろうが、無視する。語るに値しない。目障りなだけだ。

   本丸は、官僚である。官僚が官僚を規制しようとするのだから、笑止千万なことである。どうせ、いろいろな省庁から、余分な人間を寄せ集めて、組織と称するだけの事だ。自己増殖するガン細胞がここにも発生する。

  国家官僚、しかも、最高学府を最高の成績で卒業した官僚に、天下りや癒着がどういうものであるか、分っていないはずがない。すべて、承知の上での行動である。言ってみれば、確信犯であるから、いかに規制を強化したとしても、必ず、抜け道からスルリと抜ける。ましてや、官僚が自分で作るのだから、世間はますます見抜きにくく巧妙に仕組まれていく。そもそも、世間なぞ眼中にないのだ。

  エリート官僚に欠けているのは、倫理観である。士農工商の士の志である。“武士は食わねど高楊枝”の志である。地位や金が欲しければ、早稲田や慶応でいい。東大、京大、東北大、みな旧帝国大学である。明治時代からの国策大学だ。国を憂えずして、己の身ばかり、己の仲間ばかりでコソコソ動いて恥を感じないのか。

  大分前、東大出の投資社長か誰かが、「お金儲けして、何が悪いんですか」と、テレビで叫んだことを思い出す。東大出だから金を儲けるなと、世間が言っているのではない。も少し、まともな稼ぎ方があったのではないかと、言っていたのだ。

  まあ、民間だから世間からどういわれようと、己の信念で、金儲けに励めばいい。しかし、国家の役人は、それでは済まされない。国家の役人に、彼らは公僕であるという原点を、もう一度、一度で理解できなければ、何度でも、自覚させなければならない。彼らは、頭がいいから、言われれば、分るはずだ。

  「志」と「誇り」、民間企業の人間には、職場で味わうことのない美徳、これをエリート官僚は、持とうと思えば持てる立場にある。それを自分から放棄して、世間に嗤われてまで、地位や金に執着するとなれば、もう、救いようのないダメ人間である。

  ダメ人間にいくらダメ人間にならないように組織を作らせても、ダメはダメだ。ダメな事をさも役に立つように自慢する福田さんは、ダメの上にダメが重なる。

  “泥棒を捕らえて縄を綯う”は古来日本の諺。“泥棒が縄を綯う”は、小国寡民の造語。いかがでしょうか。

  付:
   一. “泥棒が縄を綯う”はすでに人口に膾炙されているかもしれません。
     
   二. 早稲田、慶応は、私立だから例えに出しただけです。早稲田・慶応出身で優れた官僚がいるのは、当然の話です。

NHKアンケート 洞爺湖サミット

  地上波アナログ(デジではありません)が映画鑑賞に堪えられる画像を期待できない島暮らしということで、昨年だったかスカパーを導入した。これなら、思う存分、洋画が楽しめそうとワクワクして、あるチャンネルと契約した。

  失望した。映画の途中に、CMが入っているのである。年寄りにはトイレタイムが必要と、以前のブログに書いたが、ままならぬこの世、せめてトイレ位、自分のタイミングを許してもらいたい。

  こんなチャンネルは、即座に解約したいと連絡したら、1か月単位であるという。わずか、豆腐5丁の金とはいえ惜しいが、しかたがない。

  解約の手続きの中に、解約の理由についてのアンケートが入っていた。

  私は、映画の途中のコマーシャルがいけないと伝えることにした。しかし、その項目がないのである。やれ、好みの映画がすくないの、やれ、なんのかんの、どうでもいい項目の羅列である。その運営会社にしてみれば、コマーシャルの項目に○をつけられたら、困るからだ。それで、いっそのこと項目自体を消してしまえというわけだ。

  こういうアンケートが解約理由の真実を現さないことは自明である。

  さて、洞爺湖サミットである。

  NHKのアンケートによれば、“温暖化対策に期待する”が70%、“期待しない”が30%ということである。福田を喜ばせる数字である。

  ちょっと待て。

  期待する、しないのは、アンケートを受けた側の主観である。

  正しく洞爺湖サミットに対する民の感覚を知りたければ、“温暖化対策に期待できる”、“期待できない”としなければならない。

  仮に、私がアンケートを依頼されれば、“期待したい”、“期待はできない”と2段構えを答えとする。

  スカパーは、別のチャンネルに切り替えることで事無きを得た。政治はそうないかない。

  裁判員制度といい、官製アンケートは、その意図によほど気をつけないと錯覚させられる。

  追:
  一. サミットは、二十世紀から二十一世紀にかけてのアンシャン・レジームである。
  二. 70、30は、おおよその数字である。

s-石戸



国会議員のガソリン水増し

 公明党や自民党の議員が、選挙中に、ガソリンを多く使ったように見せかけ、税金をネコババした。言い訳すればするほど、品格が疑われる。疑うというより、本性が露顕したというべきか。

  報告書のガソリン消費量が奮っている。毎日、60リットルである。別の議員のは、毎日52.4リットルである。

  私の偽領収書作りは、もう少し、手がこんでいた。ある時は、29,800円であり、ある時は、14,350円である。毎回毎回、19,000円を出せば、私の不正が分っている経理でも、受け取っていては、上から、なんでこんなのに、不信を抱かなかったかと、詰められる。

  私が言いたい第一はこれである。数ヶ月前だったか東京区議のガソリンの不正申告がバレた。区議がやるのだから、国会議員がやっても驚くに値しない。驚くことは、選挙管理委員会とやら、報告書を受けた側の怠慢である。だれが見ても、おかしいのを、単に報告が来たというだけで、ハンコをつく。この横着さ、無能さが役人の本性なのだ。国会議員も、それを知っているものだから、なめきっている。もちろん、議員秘書も同類である。“驚くことは”と書いたのは、文章の流れからそうしただけであって、私には、なんら驚きではない。

  第二は、こちらの方が、深刻であるが、このニュースが、ガソリン暫定税率が与党らの再可決の後に流されたことである。

  自民、公明の議員のデタラメを、再可決前に報道したら、政府の立場は、大いに不利に置かれたはずだ。再可決がなされたとしても、福田政権へのダメ―ジは相当であったはず。

  四川大地震のどさくさにまぎれて、こういう議員の不正を報道するマス・コミ、これが日本の報道スタイルなのだ。

  時の権力者におもねる以上、当然見返りがある。その見返りを、私は探るつもりはない。見返りが間違いなくあるとだけ言っておく。

  天の声とか、縷縷きれいごとをならべても、日本の報道なんかこの程度である。

官僚は自己増殖するガン

  消費者庁が設置されると、福田が得意顔で語った。消費者を代表しているかのような女性から期待の言葉も添えられていた。

  こんなのが、お芝居であることは、私でさえ分る。

  消費者庁なんか、不要である。現有の役所がしっかりするだけで、消費者問題の全てが解決される。人はうじゃうじゃいるのだ。金も、天下り先にばらまくほど、有り余っている。

  しっかりするだけの“だけ”が、国家の役人にはできないのである。その役人連が、各省から寄せ集められて消費者庁を作っても、もともとしっかりできない人間の集まりだから、同じである。

  消費者庁の看板、名刺、印刷物、設備、人事異動、はては、新たな庁長の就任、コンピュータの情報更新、等々、金が湯水のように使われるだけである。金を使えば、さも何かしたような気分になる。民にそう思い込ませる。やり方が姑息だ。

  いずれ、民が消費者庁を相手取って訴訟を起す。その時、消費者庁が消費者のためのものかどうか、はっきりする。その時、福田にエールを贈ったおばさんの顔がどうなるか、お楽しみだ。

  民の真面目な要請を逆手に取り、国家官僚は、総理大臣を操り、巧みに己の細胞を増殖していく。役所は癌の一種である。

競泳着 その二 最先端技術

  練習には、6尺ふんどし、試合の時だけ、木綿製の競泳用パンツ着用。私は、遅かったから、高校をふんどしで通した。そんな関係で、競泳着となると、すっぱい思い出が脳裏を横切る。 

  その一.
  船でも体でも、水上を進む時の阻害は、造波抵抗である。これ、小学校の理科。競泳用水着は、人間の皮膚が起す造波抵抗より値が大きかったため、男子、女子ともに、極力薄くかつ小さいものにしてきた。

  それが、ここにきて、皮膚より造波抵抗の小さい素材が開発された。こうなれば、出来る限り皮膚を被う方がよいとなる。先日、テレビで紹介された水着はこんなところだろう。

  その二.
  究極のナノ技術により、繊維の中に、極小の推力モーターが織り込まれている。選手の体から放出される熱を動力としているのだから、馬力をだして泳げば泳ぐほど、推進力は強くなる。これで、世界記録は、これからも更新されていく。

  その三.
  モーターは、飛行機でいえば、プロペラ。ジェット機の時代には、すでに博物館行きだ。それで、これもナノ技術によるのだが、繊維が、体温と水温の差をうまく利用する無数の熱交換器になっている。体熱を直接推進力に変換してしまうのだ。これで、世界記録は、これからも更新されていく。

  理性ある人たちは私を嗤うかもしれない、「こんなことをやっても、人の発生させる熱エネルギーなぞ、選手の手足の推力から比べれば、微々たるもの」と。

  もっともだ。

  ついでだから、私からも、一つ、もっともな話を付け加える。

  オリンピックに限らず、世界記録の更新は、もはや、人間の基本的な能力からは得られない。記録が大幅に更新されたのは、ターンの規定やスタート台の角度など、環境を改めたことによる。むろん、競泳着の進歩も含まれている。

  しかしである。いくら小国寡民が生まれ変って、超一流の水泳選手に成長したとしても、100メートル・フリー(自由形)で、陸上並みに10秒は出せない。30秒でも不可能であろう。私が言いたいのはこれである。

  オリンピックで金だ銀だと、世を挙げて騒ぎ始めた。ある限界に達すれば、100分の1秒を争うのではなく、10万分の1秒を争う事になる。私が高校の水泳部にいた時は、人間がストップ・ウオッチで計時していた。私ばかりが計られたのではなく、その前までは、愚かにも晩年を汚した古橋広之進なども同じように計られたのである。多分、当時は1秒の単位であったろう。

  この辺りで、記録更新の熱を冷ましたらどうか。所詮、100分の1秒の世界である。スポーツ用具メーカーがやっきとなって、煽り立てる世界である。金、銀、銅、・・・欲しい国があれば、持っていってもらおう。

  日本国は、欲しい国が騒ぐのを、温かく見守ってやる位のノーブルさでいることだ。

  水着の技術革新の妄想から、最後に行き着く所はこれである。

競泳着 その一 オリンピックの金(きん)と金(かね)

  イギリスで新しい競泳着が開発されたという。日本のオリンピック委員会が選抜選手にも試着させて泳がせた。選手のコメントに、早く泳げた感じがしたとあった。

  世界に伍して戦える選手にとって、こういう感じは何より大切なものだ(と想像する)。

  それでは、北京オリンピックに採用すればいいと思うが、それが、日本のスポーツ用品メーカーとの契約が絡んでいて、簡単にいかないとのこと。

  水泳はアマチュア選手ばかりだ。そのアマチュアにまで、商売の手は伸びている。競泳着はキャップに小さく、しかし、テレビ映りに最適な場所にメーカーのブランドが貼られている。イギリスのブランドが貼られたのでは、その選手が優勝して、日本国旗が掲揚され、日本国歌が歌われても、なんのために、献金してきたのかわからない。日本の契約メーカーが難色を示すのも無理は無い。

  オリンピック委員会は、スポンサーに嫌われたくない。文部科学省の高級役人も、将来の天下りを考えれば、同じ気分だろう(と想像する)。

  金(きん)は欲しし、金(かね)は惜しし。

  どちらに転んでも、オリンピックは金漬け、金がらみ。マス・コミに引き回されないよう、ご用心。

s-長渡港

私の小さな楽園  人の章

  こういう言葉が大好きだ。“小さな”の一語が、何事につけ控え目な私の性分に合っているせいであろうか。

  この小さな楽園に欠かせないのがハンモックである。これがなければ、私の小さな楽園は、とてもつまらない物となる。春になるとこれが分る。

  日差しが益々強くなってきた。風もシュロの葉を振るわせる程度に、竹の葉音を聞かせる程度に吹いている。もう北西の風ではない。

  こういう日の午前11時は、ハンモックに横たわる事に限る。空はあくまでも青い。朝方うるさかったカラス達も少しおとなしくなり、ウグイスの声がよく響いてくる。ここは、国定公園の中の鳥獣保護区だから色々な野鳥がいる。きれいに鳴く鳥もいれば、だみ声の鳥もいる。私の耳はすべてを受け入れる。

  遠くで波の音がする。ガガガでなく、ざぶ~ん、ざぶ~んだ。一定の周期で繰り返しているから、耳にストレスがかからない。最高のBGMだ。車の音、人の声、まったくしない。時折り、松島航空自衛隊の戦闘機が頭上を飛ぶ。青い空をバックにした戦闘機は美しい。機能美の粋である。一瞬の爆音は、鳥達や波の音の引き立て役である。高い税金で飛ばしているだけの元が取れた気分である。漱石流でいえば“愉快”である。

  サングラスを掛けて、論語を読む。読む所が決まっているので、すぐに飽きる。目を移せば、昨日たらふく道草を食ったヤギが半分居眠りしながら反芻している。あれは、しばらくすれば、昼寝をするはずだ。私も負けてはいられない。それで、うとうとする。

  私の小さな楽園。この季節に生きていることの幸せが実感できるのはハンモックのお陰である。


  付:

  1.ブラジル映画「私の小さな楽園」の楽園はこの私の“小さな楽園”とはまた違った楽園です。共通しているのは、ど田舎であるだけです。

  2.ハンモックに乗って仰向けになるという動作をどう表現すべきか、ぴったりした言葉が見当たりません。

  3.他の生き物を優先させたため、4週間遅れの記事です。

NHK 災害援助隊の報道

  NHKが、連日、四川大地震を報道している。初期の報道から次第にその内容に変化が見られるのに、私はすばやく感じ取った。

  初めは、現地の惨状である。惨状は、変化がない。毎日、毎晩同じように崩壊現場を撮影し報道することになる。朝鮮の核施設の映像と似たようなものになってしまう。困ったことになる。

  今は、日本からの援助隊の活動である。できれば、活躍と表現したいのだろうが、サッカー試合ではあるまいし、あまり、活き活きと報道するにはためらいがある。あって当然である。

  ためらいまでは認めるものの、これでもか、これでもかと聴かされると、いささかうんざりする。救援隊が救援に全力を尽くすのは当然で、取り立てるほどの美談ではない。

  それを、まるで、日本が中国に対して多大な支援をしているように、報道されると、うんざりを通り越して、不快になる。

  そう、これは、中国人民を大東亜共栄圏の下に救済すべしと、六十余年前の支那出兵を従軍記者が得々と報じた姿そのものだからだ。

  人に親切にする。結構なことだ。人からそれで感謝される。これも自然なことだ。しかし、それを、自分から、「人様に親切にしましたので、人様から私は感謝されました」と、いや、一言、「人様に親切にしました」と言うだけで、やったことすべてが自慢・慢心に帰してしまう。

  国も同じ。日本の救助隊の活動は、中国の報道をして語らせよ。自分から言い出すものではない。せっかくの善意が、大本営発表のレベルに落ちてしまう。

  NHKに助言する、「過ぎたるは、及ばざるに如かず」、と。

  付: 
     論語 先進 十六

     過猶不及也 (過ぎたるは、なお及ばざるが如し

      

日本霊異記

  中国のとびきり面白い幽霊やキツネの話に夢中になった手前、日本はいかがなものかと、市営図書館から、それらしき物を借りてきた。

  日本霊異記である。読んでみたら、仏さんのありがたいお話ばかり。人が悪い事をすれば、現世で罰があたるか、現世をうまくすり抜けても、あの世で、必ず報いが待っているという、そうでありそうな、そうでなさそうな話のオン・パレードである。

  その一つ。

  カラスの夫婦がいて、巣には子供がいる。旦那がエサを捕りに外に飛んでいく。彼が外出している時に、女房の方が、別な男とでき、子供を巣に置いたまま、その間男とどこかに飛んでいってしまう。エサを運んできた旦那が母親のいなくなった巣で、途方に暮れる。これを見た男が、世を空しく思い出家した。

  私は、この話がとても気に入った。この男、よほどヒマな人間である。それがいい。私も、チンゲンサイを家庭菜園で始めた頃、野鳥が育ったチンゲンサイをついばんでいるのを、飽きずに眺めていたものだ。

  次に、この男、カラスの個体を識別する能力を備えていた。これもすばらしい。私は、鶏でさえ、せいぜい5羽までしか区別ができない。みんな同じようにみえてしまう。まして、カラスなど、何羽か懲らしめたが、手にとってまじまじと観察しても、どこに違いがあるのか分らなかった。

  皆様の中には、人間の姦通をカラスに託したお話だと思う方もおられよう。しかし、この日本霊異記をざっと読めば、これが作り話でないことがわかる。霊異記はダメな人間を遠慮なくダメ人間として扱っている。第一、この事件がカラスだからこそ面白いのである。

  縁側に日長、座って、カラスを見て過ごす。ありがたいお坊さんの説教から感銘を受けて出家するような平凡さがない。

  こういう世間離れした人間が日本にいたことは、日本人の誇りである。読んでよかった。

  付: 

  1.次週は、もう一つ書きます。私に何事もなければ。

  2.第何巻か、メモしていません。いずれ、図書館にいったとき、ここに追記します。

5月の雨  思考を超越する

  今日の雨は静かな雨だ。波の音は聞こえない。ときどき野鳥の声がするだけだ。

  家の生き物たちもそれぞれのねぐらでおとなしくしている。

  この分では、一日中雨だろう。日課の散歩は無理なようだ。特に面倒とは思っていないが、雨・雪の日以外は、欠かさずしなければならないので、潜在意識で義務となっているにちがいない。だから、散歩は日課と言える。

  今日は、その日課からも開放される。メリーには、ヘイ・キューブを与えればいい。モモは、雨を嫌うから、日長、寝る。私は、外に出る必要がない。

  私は、こういう日には、朝風呂に浸かる。そして、このブログに載せている写真の部屋に入る。わずか六畳、鴨長明に倣って、方丈と呼んでいる部屋である。低くて小さな案(つくえ)と座布団、一組の盤石、尺八2管、それだけの空間である。

  ガラスサッシを通して、向かいの木々がかすんで見える。

  案を前に端座する。先ず、日常の瑣事に係わる諸問題を日誌に書き並べて、その解決策を考える。天地がひっくり返るような問題ならば別だが、一老人の瑣事であるから、簡単に済ませることができる。例をあげると、カラスに腹いせから糞を落されたジムニーのフロント・グラスを洗うべきか、それとも、大雨が降って流してくれるのを待つべきか、ネット銀行に思い切って2万円を補充すべきか、それとも、1万円で凌ぐか、今度の灯油の購入は何缶にしたらいいのか、こんな程度のものだ。

  その後は、何も考えない。しばらくすると、思うことさえしなくなる。五感は活動しているが、寒くもなく暑くもないこの時期は、皮膚からの刺激は感じられない。光は、山水画にみられるような濃淡だけ、音は、時折りの野鳥の声。

  “考える”、“思う”、これらは、ともに言語活動だ。思考は言語活動であり、言語は記号である故有形である。無限大とはいえ宇宙も有形である。有形を脱した間は私が宇宙を越えたことになる。レベル0に達しているのだ。思考を超越するということは、こういうことである。

  だが、見るでもなく、聞くでもないこうした状態は、長くは続かない。我に返るまでのしばしであるが、5月の雨は、私にレベル0の存在を教えてくれるありがたい雨である。

舛添大臣の狂相

   テレビが再びゴーストはあっても一応映るようになった。ちょうど、舛添大臣が、後期高齢者医療制度に触れ、「直すべき所は直ちに直すよう関係官僚に指示した」と胸を張って、記者会見していた。

  驚いた。わずか、半年で、一人の男の顔が、かくも激しく変ったのだ。

  彼をテレビで最後に見たのは、総務大臣に会って、社会保険庁の悪に言及し、「盗人は最後まで許さない、総務大臣も協力してもらいたい」と、総務大臣がたじたじする程、意気軒昂に語っていた。彼の瞳はらんらんと輝いていた。

  その直後、舛添大臣は、宮城県のどこかの市の下っ端役人を告訴することになった。そこの市長がすでに懲戒免職させたのだから穏便にとの願いをつっぱねての告訴である。私は、落選の心配のない大臣の強さを感じ取った。

  ところがである。下っ端役人を告訴したのだから、あまたの厚生役人を次々に絞り上げるかと思いきや、あれからというもの、ねんきん特別便とやらで二度手間による税の倍増し浪費、できもしない約束云々での言い訳、まったくミニ福田に終始している。

  そして、冒頭の発言である。これは、明らかに高級官僚のスタイルである。地元後援会に気兼ねしない議員でも、こうなったら、役立たずである。

  イエス・キリストは、「お前さんは地の塩だよ、塩気が失せたら、外にほっぽり出されるからね」と大昔、語っている。それを、舛添大臣ともあろう者が知らないはずはない。

  加えて、この高齢者医療制度が悪法であることも、彼は重々分っている。

  脳の半分で、悪法を意識し、残りの半分で厚生労働省の役人を意識する。これでは、彼でなくとも、顔がいびつになっても、頭が狂ってもなんら不思議でない。

  吉凶の凶相でなく、狂った方の狂相を私が感じ取ったのは、こういうことからであった。

  自民崩壊後の政権政党に、舛添を迎えよと提言したのは、正気の舛添である。役人に気兼ねする舛添に用はない。野に捨つるのみ。


NHK オーディオ・グラフィック

  少し前、私がこのブログで年中NHKを謗っているせいか、コメントで、悪いばかりではない、NHKの番組だっていいところがあると、読者からいただいた。

  私にとっていい番組は、「オーディオ・グラフィック」である。これは、BS放送が実験放送の段階から初期までによく放映された、高画質、高音質という衛星放送の特長を遺憾なく発揮した番組であった。

  先ず、解説やナレーションの音声が入っていない。近頃のしゃべりまくるディスク・ジョッキーもどきがまったくない。安心して観、そして聴ける。

  次に、番組がこま切れでない。ようやく、その雰囲気に浸ったという時に、ガラリと映像なり音楽が変わったのでは、イライラするだけだ。このオーディオ・グラフィックは、1時間が最低の単位で、深夜などは4時間ぶっ通しで流れていた。

  まだビデオ・テープの時代だったので、放送時の品質を楽しむには、その放送時間しかなかった。家にAV防音室を設けたのも、半分はこの番組のためであった。それほど、この番組は、私にとって素晴らしかった。

  衛星放送が普及するにつれ、VHFで間に合うような雑多な番組が増えていき、私が絶望した時には、30分や20分の番組となっていた。惜しい、惜しい。

  当時の録画テープを、この前、すべてDVDに落とした。うれしい驚きは、画質・音質、共に著しい劣化がみられなかったことである。

  今、その一つ、フィンランドを聴いている。このブログを書きながら、チラッ、チラッと脇のテレビで影像も楽しんでいる。今夜の私設映画館の上映はオーディオ・グラフィックに決めた。"今は昔”を懐かしむために。

 付の一. 価値観の相違・・・
  私の好みが普遍的であると思うほど、私はうぬぼれていない。ある人には、「コンバット」が、また別のある人には、「奥様は魔女」が、私のオーディオ・グラフィックであるかもしれない。

  だからこそ、常々私は、PPVにせよとNHKに提言しているのである。1時間のオーディオ・グラフィックに私は大枚千円を用意する。毎日、観ても飽きないから、月に3,000円の出費だ。私には、十分その価値がある。だから、コンバットにも値段を付けて、観る人に払わせればいい。BSばかりではない、日曜素人のど自慢だって有料化する。国会中継も然り。

  これが実現して、初めて、NHKは受信料の義務化から開放され、同時に時の権力者からも自由になる。

  付の二. 
  オーディオ・グラフィックにたずさわったNHKのスタッフは、もう定年退職しているのだろうか。私は心から感謝の意を表します。

NHK 天災の報道 人災の報道

  ミャンマーといい中国といい、不幸な出来事があちこちで続く。

  NHKの記者が一早く現地入りをして、生々しい影像を送ってくる。それはそれで結構なことだが、どうもニュースの端はしに、NHKだからこそやったのだぞというおごりが窺われ、折角の報道を台無しにしている。

  どちらの災害でも、一万人を超える死傷者、行方不明者が出ている。大変な惨事である。天災の恐ろしい所である。

  さて、仮にこのニュースを、五年と言わず一年でも過ぎてから、実は、昨年の今日、ミャンマーで、中国で、数万人の犠牲者がでた惨事がありましたとやったら、どうだろう。「ふざけるな」と罵声をNHKは浴びるはずだ。

  日本も加担しているイラクの侵略戦争。この死者は15万人を超えているという。15万人は、ミャンマーや中国と同じように住民である。この死者の数は、連日留まることなく増え続いている。突然の天災に駆けつけて報道するまでもなく、行こうと思えばいつでも行ける。

  そうしようとしないのは、日本政府に都合の悪い結果が目に見えているからである。天災なら、責任を誰に問う事もないが、人災である戦争となれば、アメリカに加担した正しさを国民に納得させなければならない苦しい立場に政府は置かれる。NHKがやりたがらない理由はここにある。

  私は予言する。五年先、遅くとも10年先に、NHKは、"NHKの総力を挙げて”などと前口上を使って、“イラク戦争の真実”というドキュメンタリーを放送する。15万人の悲劇を生々しく語る。

  私の言う“証文の出し遅れ”である。その時になって、いくら正義と公正を唱えても、私が発する言葉は、「ふざけるな」の一語である。

"最後の一歯” 我は小人なり 

  昨年度は15万円程の健康保険税を払ったまま、一度も保険証を使う機会に恵まれなかった。遭わなかったというべきか。

  下側の歯は一本だけ残っている。それが、ときどき痛む。痛む時は、己の体力を過信して何か戸外の事をやった後とかネット碁で10連敗した後とかであり、数日経れば、だいたい収まってきた。

  今度ばかりは一週間過ぎても、痛みが消えず、ついに、保険証を携え陸の歯医者に出向いた。先生は、「もう歯の中の神経が腐っているから、取ってしまいましょう」と言う。

  虫歯のプロの私は、歯の神経を抜くのがどれほどの痛みか、よく知っている。“聞くは一時の恥、聞かぬは一生の損”、“抜くは一時の痛、抜かぬは一生の難”。なんとか自分に言い聞かせ、先生にお任せすることにした。

  あの一分間何万回転かの音がしたとたん、歯の神経ばかりか、全身の神経が参ってしまった。次が麻酔の注射であることは経験済みで分っている。そして、細長い金属棒か何かで、神経を処理する。いくら麻酔がかかっているとはいえ、“直接”神経にさわられれば、痛みを“直接”感じる。先入観である。

  そこで、少年時代に読んだ三国志を無理矢理思い出すことにした。関羽が、毒の回った骨を削る手術を、麻酔なしで、その上、手術の最中、酒を飲みながら、碁を打った件(くだり)である。

  自分が、関羽並みの英雄になったと錯覚することから始める。いよいよ処置の開始である。私は、頭の中に碁盤を浮かべ、定石を打っていく。簡単な定石もおぼつかない。これではいけないと、今度は布石を想定する。これもあやふやである。攻め合い、ヨセと、いろいろやってみたが、完全にお手上げである。碁なんぞ、少しも役に立たない。早く終わることだけを願っていた。

  私のような人間を、“世間俗子”と関羽は軽蔑している。その通りだから、いつもの強がりは聞き苦しいので、素直に認めることにした。

   三国志演義 第七十五回
   ~
  公飲数杯酒卒、一面仍与馬良弈棋、伸臂令佗割之。~ 曰:“某便下手。君侯勿驚。”公曰:“任汝医治。吾豈比世間俗子、惧痛者耶!”~ 公飲酒食肉、談笑弈棋、全無痛苦之色。
  ~
  注: 佗 (彼。ここでは医者)

NHK 中国国営テレビ

  四川の大地震の報道で、NHKは、中国国営テレビは中国政府の救援活動ばかりを強調している、ブログには政府への批判が結構あるのに、と解説していた。

  傑作である。御用報道機関の揃い踏みは、中国国家主席の来日で披露されたが、今度は、自分はあたかも自主独立の報道姿勢であるかのような態度である。

  目くそ鼻くそである。 “五十歩退ク者、百歩退ク者ヲ笑フ”である。

  こう言われるのが心外であるなら、国の権威に頼って続けている受信料の強制徴収を即刻廃止することだ。

  断っておくが、NHKに対する非難のブログは私だけではありませんぞ。

s-長渡港


私の思考階層

   レベル 0 全てなるもの
  レベル 1 宇宙
  レベル 2 その中の地球 
  レベル 3 その中の人間
  レベル 4 その作品(文芸、音楽、政治、社会、等々)
  レベル 5 その解説
  レベル 6 その評価・批判

  私の思考の基本的階層である。私はレベル3の中の一人である。このブログにお寄りいただいている皆様もレベル3におられる。

  レベル3には、宮沢賢治もいれば、シェイクスピア、ドストエフスキー、レーニン、モーツァルト、ナポレオンもいる。もっとも、これは偉大な人々をランダムに列記しただけである。

  私は、レベル3にあって、生きている間に、レベル2から上を少しでもいいから分りたいと願ってきた。

  レベル4は、私にとってそのためにある。これは少年時代から常に意識してきたから、今では、潜在意識となってしまっている。

  例えば、宮沢賢治。彼の生い立ちや家庭環境など、私は関心がない。「フィガロの結婚」が作曲された時、モーツァルトの家計がどうであったか、シェイクスピアが財産を残したかどうか、レーニンが「帝国主義論」を執筆した際、ライターがいたのかどうか、同じく関心がない。

  知識人は言う、作品が作られた環境なり背景を知ることで、その作品に対する理解がより深まると。その通り。だが、私は、作品を理解する目的で作品を手にするのではない。作品は、レベル2、更にレベル1と私が登っていくための道具なのだ。

  夏目漱石論や司馬遼太郎論などは、レベル5の低次元である。それらの論をまた評するのは、更に低いレベル6であり、知識人の論壇は、大体、このレベル5からレベル6を行き来しているに過ぎない。もとより私の関心とする所のものでない。だから、世事世相を語るこのブログでも、せめてレベル4に留めておきたい。すなわち、どこの論壇がこう言った、ああ言ったと評するレベル5以下までは落ちたくない気持ちでいる。

  それでも、やむを得ず、取り上げる必要になることもしばしばある。私のブログがレベル4以下の低次元の話題となると、ホラが混じるのは、真面目でいるのが何となく恥ずかしいためだ。

  私が真に尊敬・敬服する人間は、レベル0に到達しようと試みた先人である。その一人が老子だ。若い時は難しい漢字の注釈は読まない訳にはいかなかった。今は、老子の参考書を読まない。分らない所は、そのままでいい。私の思考は、老子を解釈するためではなく、老子と同じように、レベル0に到達するためにあるからである。小国寡民の由来でもある。

付:
宗教の開祖はレベル0を目指した人。宗教家はぐっと落ちてレベル5。信者は、己の思考を放棄し、白票という評を下したレベル6。

叙勲 ゆりかもめ氏の寄稿

  きのう会社時代の友人4人で泊りがけのおしゃべり会をした。
アメリカへ嫁に行った一人が何年ぶりかで帰国したからだ。
この4人のお泊り会は日本で初めてG8が開かれたころから始まったので勝手に<サミット>と呼んでいる。

  今回 久々の<サミット>は竹橋あたりのホテルにした。
上層階のレストランは皇居を見下ろして絶景だった。
このホテルはどうやら以前は公務員の共済組合の施設だったようで、安いのに眺めもよく、サミットの面々には超・満足してもらい世話役としては<秀>の評価をもらった。

  昨晩の泊り客は私たちより一回りくらい年上の一団だった。でも、「田舎のおじいさん・おばあさん」とはなんかちょっと違う雰囲気だった。
胸に名札をつけたり、腰の曲がり具合、背の高さ、などはまさに「田舎のおじいさん・おばあさん」そのままなのだが、ときどき あっ先生だ! とか、ちょっとインテリかな?といった風の人が混ざっている。

  朝のレストランもこの人たちであふれかえっていた。
朝食のテーブルが2転しても、この種の人たちのみだった。

  チェックアウトでフロントに降りてみたら、今度はその大群が着飾っている。男も女も着飾って、それも『正装』である。
エレベーターで上等な和服を着た正装のおばあさんと一緒になったとき、連れが「すばらしいお着物ですね」と声をかけた。すると正装女性は、「これから皇居にいくんです」といった。

  そう、きょうは春の叙勲=その他大勢の部=の日だったようだ。

  注意してみれば、フロント脇には表彰状と記念写真一式の額が飾ってあり、叙勲記念写真の注文を受けていた。
がってん・がってん!!

  帰宅して朝刊に目を通していたら、読者の欄に『瑞宝章・元公務員の功績に疑問』という投書が出ていた。

  曰く、

  叙勲のうち受賞者が最も多い瑞宝章に該当する元公務員にはいつも疑問を抱く。顕彰対象は功労であるべきなのに、在職中の地位だけが考慮されている。地位に対してはすでに給与で優遇されている。はっきり功労があった人はそれを公表すべきだ。。。

  といった内容だ。

  冥途の土産に表彰状や小さなメダルの一つや二つはいいが、おそらく叙勲にまつわる行動の一切合財が公費でまかなわれるのではないか?と勘ぐってしまう。

民間の、それも外資などに働いた国賊労働者としては、そんな叙勲なんて機会は未来永劫露ほどにもないだろうから、それを考えると気が遠くなりそうだ。
お金の多寡ではなく住む世界が違った ということだ。

                              2008年5月14日

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