老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

山口二区の自民・公明 敗軍の将

  兵を語るに、自民・公明政府の方針は正しかったが、自陣の準備不足が敗因であるとのこと。

  ウソである。いつ成立したのかわからないような高齢者医療や裁判員制度が敗因であることは間違いなく、また、選挙民への説明不足が敗因と言っているが、説明すればするほど、票が減るのも間違いなかった。

  このことを当人は知っていても、そう言わない。将であれば、こんなバカな政治を祭って、勝てと言う方が、どうかしているとはっきり言えばいいのだ。この位の気迫があれば、敵ながら天晴れとなり、春秋の時代なら、敵の王様に、スカウトもされよう。彼の弁は敗軍の将ならぬ敗軍の官だ。

  自民・公明両党も、敗けたものだから、自分達の政策とは別と言っている。勝っていたら、「高齢者医療やガソリン税に国民(山口二区の選挙民を飛び越して)の理解が得られたもの」と勝因を政策に結びつけていた。二枚舌の使い分けだ。

  それにしても、田舎の選挙にしては立派な結果だ。私は、山口という田舎政治のメッカ故、自民が勝ってもしかたがないと思っていた。今度の結果で、自民は完全にガタガタになっていることがわかった。公明党も、もはや学会員から見放されているのではないか。少なくとも、公明党の党員がかつてのような滅私奉公的な姿で、選挙活動はしなかったのではないか。ヒラの学会員も、上の指示に、「はい、はい」と笑顔で応対するだけで、投票はさぼったのではなかったか。

  これから地方補選があれば、必ず自民は負ける。年寄りの後援会が、もはや頼りにならなくなったのだ。結構な事である。

  一つだけ。前からの繰り返しになるが、民主党はガードが甘い。勝てば勝つほど、身辺をきれいにしておかないと、マス・コミの餌食となる。金、異性問題、自民の企業に相当する労組が加わる。労働貴族が紛れ込んでいる労組は、常に連座の危険がある。

  また、現執行部の勝利を、苦々しく思っている議員・党員が党内部にうようよいると疑ってかかる方が、間違いが少ない。

  浮き足立った自民党議員は、今後、なりふり構わず、民主の切り崩し、すなわち、新党結成にやっきとなる。その時に、ばらばらにならないよう、今から、たがを締めておくように。

s-網小の桜

オリンピックの怪 その四 そもそもスポーツとは

  プロのスポーツは見世物である。カネを払って他人が観てくれることが必須である。アマは、自分の健康や仲間同士の楽しみで、自分で体を動かす。

  先日、文部科学省が、日本人の児童の基礎運動能力が前に比べて劣っていることを発表した。年中ケータイを使い、パソコンに向かっていれば、せいぜい手先が器用になるだけだ。当然の成り行きだ。

  問題は、これではいけないと警鐘を鳴らしている文部省自身が、税金や公営ギャンブルのテラ銭を、オリンピックに出場させる極々限られた数人のために湯水のように使っていることである。かつてのソ連、東欧ならいざ知らず、また、今の中国ならいざ知らず、オリンピックでメダルを獲ったからとて、何になる。参加するのに意義があるなどとは、時代錯誤もはなはだしい。

 これは、文部科学省の管轄するスポーツ団体に(たぶん天下りが盛んであろう)、国の金をに使わせるためだ。

  オリンピックほど、“一将功成りて万骨枯る”を想起させるものは無い。日本は、有り余る国からの金で、出る前から“功成らぬ”が分っている種目まで選手を送る。選手にぶら下がって事務方も送られる。そしてNHKを筆頭に選手団以上ではないかと思われるほどの報道関係者が競技場の周りで選手を取り巻く。

  そんな金があったら、小学生、中学生を陸上自衛隊のサバイバル・ゲーム演習場に年に何回か連れて行き、野営、野宿でもさせた方がよっぽどましだ。昔のコマーシャルに、“私食べる人、あなた作る人”があった。こと体を動かす運動に限っては、“私、テレビの前で観る人、あなた、税金で育てられた映る人”であってはならない。

  「体を鍛えておけ」。これは、革命を志す若者の特許ではない。並みの児童が並みの大人になって並みの生活を送るために必要なものである。いくらかでも酔い覚めしている北京オリンピックを絶好の機会として捉え、スポーツを見世物ものから児童・青少年に取り戻そう。 

  それでも、オリンピック、オリンピックと騒ぐなら、“一将たりとも功成らずして万骨枯る”。これを文部科学省の高級官僚に投げつける。

オリンピックの怪 その三. スポーツの祭典や否や

  昔、ヒトラーが国威国威発揚にオリンピックを利用した。ロス大会から、ビジネス・チャンスとして利用するようになった。

  それでも、当時は、選手がアマチュアであるという歯止めが掛かっていた。国威発揚の場がオリンピックしかなかったソ連・東欧に対して、資本主義国は大目に見ていた。商売敵にならなかったからである。

  あのロス以来、オリンピックが変形していき、今はアマもプロもなくなった。スポーツ用具メーカーの祭典に成り下がっているのである。何の種目であっても、必ず、スポンサーの広告が目に入る。どれほど、資金提供をしているのか知らないが、そんなことまでして、スポーツをやることはない。

  体力・技量を純粋に競うのであれば、道具を使う種目をオリンピックからはずすべきである。古代ギリシャでなされたというように、裸で競えばいいのだ。

  中国がオリンピックに夢中になるのは、よく理解(賛意は別)できる。こちら日本がなんでこんなに騒ぐのかは、まったく理解(文部科学省の利権のため、民衆のガス抜き利用であることは知っている)できない。

  スポーツは、記録や名誉のためにやるものではない。プロになってカネのためにやるとするのなら、国庫からの補助金・助成金は廃止するのが道理というものだ。

  もうすぐ、NHKほか放送局が、バカ騒ぎを煽る時期になる。わが地、テレビが映らなくて良かった、良かった。

  付:
  運動神経ゼロの私がやっかみで言っているのではありません。



オリンピックの怪 その二. 金(かね)と金(きん)

  野球。前回のオリンピックで、参加した国が幾つか、ついに聞かれず終いで終わった。調べれば、分ることだが、こんな事を確認するヒマはなかったので、どうせ、50には達しまいということで、終わりにしてしまった。

  今年の北京に何か国が参加するのか。同じ入賞でも、100か国の中からか、10か国かは、その重みに雲泥の差がある。

  日本人の体型は、西欧のスポーツに向いていない。無理をしてまで、金メダルを狙うことはない。他に使い道の多い国庫の金(かね)を、4年に1度の金(きん)のために、浪費することはない。スポーツ振興など、どれほどのカネが使われていることか。純金なら、トン単位で買えるのではないか。

  たかが、打刻した金のために、もったいない、もったいない。

  付:
  私は水泳で一回だけ3位に入賞したことがあった。マスターズ参加の生涯で一回だけ。泳いだのは、3人だけであった。

オリンピック怪 その一. ビーチ・バレーとスカーリング

  世の中、大抵の事には驚かなくなったが、この二つがスポーツであることには驚いた。

  ビーチ・バレーは、どこから見ても、湘南のおネエちゃんの遊びである。石原都知事のファン位しかやらない。今年のオリンピックにも残っているかどうか調べていないが、とにかく、つまらない。それを、前回のオリンピックか、NHKが延々と流していた。オリンピックでもなければ観戦できないマイナーな、しかし伝統のあるスポーツを観たいと、何回、スイッチをONしても、あればかりであった。

  もう一つがスカーリング。あれがスポーツというのなら、トイレ掃除のおばちゃんを選手にすべきである。東北地方のおばちゃんでも、凍りついたトイレの床をモップ拭きはしないから、北海道のおばちゃんがいいだろう。

  この2種は、まともな国家はスポーツと考えていないだろうから、参加国数は少ないのではないか。だから、入賞、あわよくば金も狙えるのか。カネに目がくらんでいる日本は、ここらあたりで、金を稼ごうという魂胆であろう。あきれる。

s-高山のボケ


  

水泳 最後の砦が陥落

  久し振りにテレビが映る所で1週間を過ごした。たまたま、水泳のオリンピック出場選手選考会が放映されていた。高校時代、第1コースが専用コースであった私でも、速い選手の力泳は見ていて気持ちがいい。羨ましい気持ちは、はなから起きない。

  嘆きの一. 場内がうるさい。スピーカーから流れているアナウンサーの声であることが判った。何をわめいているのかわからない。声が反響してただワンワンと響いているだけだ。

  嘆きの二. 選手の呼び出しが、興醒めである。私が知っている選手紹介は、「第一のコ~ス、小国寡民君、両国高校」、しばらく間を置いて、「第二のコ~ス、サルニコフ君」以下ビオンディ君と競泳特有の言い回しで行われた。のんびりした“コ~ス”が何とも言えぬ風情があった。

  嘆きの三. ゴール間際で、突然色付きの2本の線がコースに現れた。最後の力を振り絞りゴールに向かう選手の少し先をその線がゴールに向かって移動していく。CGでプールに描いていると聞かされた。

  一に対する不満。 水泳は多くの運動の中でとりわけ静かなスポーツだ。派手な演技も大声での気合もなく、ただ、水面を往復するだけ。そこが水泳のいい所。ストローク毎に起きるリズミカルな波音が静かな会場に流れる。もうそれを期待することができなくなった。もはや、日本人は、あらゆる場面で、落ち着いて物を観ることができなくなったのではなかろうか。なにか、動くか騒ぐかしないと、却って不安になるのか。初めから終わりまで音楽を絶やさないアメリカ映画を連想した。

  二に対する不満。 観衆が声援を送れるのは、スタータが、「位置について、用意」、パーン。このパーンと選手が水中に没するわずか数秒である。この呼吸がまたなんともいえずいいムードである。それも、間延びした呼び出しの前奏があるからだ。そのムードも今やない。

  三に対する不満。 こういうバカをするのは、言わずと知れたNHKである。最後のタッチまで、選手対選手の戦いである。記録は後にゆっくり時計で確認すればいい。バシャとタッチする最後にして最高の瞬間がCGとの比較とは、まったく情けない。

  柔道もカラー化された。卓球もカラー化されたようだ。せめて競泳だけはと願っていたが、もうお終いだ。テレビで観戦して、私は、アメリカ文化の圧勝を苦々しくも認めざるを得なかった。

都会の楽しみ 映画館

  久し振りに都会にでた。都会と言っても、埼玉の郊外の人口15万かそこらの市である。

  せっかく東京が日帰りできる所に来たのだから、C席でいいから、なにか音楽会と思った。朝刊、夕刊いずれも見たが、見当たらない。昔は、3行か4行で、ギター、声楽、ピアノやバイオリンのリサイタル、弦楽四重奏、タイミングがよければ交響楽団の演奏も広告になっていたように覚えている。

  それを話したら、身内の者が、こども音楽教室の発表会でも探したらどうかと言ってくれた。まさかね。

  仕方なく、映画館に行くことにした。今流行のシネプレックスとやらである。歩いていけるほどの近さもあって、早速それにした。

  嘆き。新作ばかり6種同時上映されていたが、私の好みが一つとしてない。映画と音楽には、政治と違って、私は相当許容範囲の広い寛大な人間であるが、ダメである。せめてもと思ってダイアン・レインの「ダーク・サイト」に入った。私には、思った通り、とてもつまらない映画だった。(リトル・ロマンスを家に帰って観ました。理由はご想像の通りです)

  驚き。ウイークデイの朝一番の上映。400席にわずか5人。それも、みんな私と同じような歳格好。座席は本革、音響設備は最高。タキシードが相応しい雰囲気に、よれよれのじいさんはいかにも場違い。

  哀れ。映画は、終わりに近づけば、近づくほど、目が離せなくなるもの。クライマックスに登っていく。ところが、こちら、歳のせいか、用事が出てくる。我慢すれば、するほど、終わりに近づいて席を立たなければならなくなる。複数映画館だから、トイレは一番奥にある。こういう時に限って、カー・チェイスのシーンがない。そこで、老躯に鞭打って、ダッシュする。息が切れる。空白の数分で何が起こったのか、ついぞ分らずじまい。

  じっと考えた。映画は面白い。そういえるかどうかは、一に作品にかかっている。いくら、映画館が立派でも、音響装置が最新鋭でも、上映する作品が駄作であれば、論じるに値しない。

  65歳以上は千円と優遇されても、歩いていける場所でも、貸切同然の館内でも、私の私設映画館と比べればはるかに劣る。

  私の映画館は、安いプロジェクターと白地のタペストリー、2チャンネルのステレオ、これだけである。だが、何十年と蓄えてきたライブラリーから、その夜の気分で、好きな映画を観る事ができるのだから、最高の映画館と私は言う。熱いコーヒーと数粒のピーナッツ。用事ができれば、停止かバックだ。ダッシュ不要。あぐらをかいてもいい、足を伸ばしてもいい。

  都会の楽しみの程度が知れたので、遠島島流しの生活もそこそこであると鼻を高くした次第。

  付:
  ロード・ショウでなく、"椿三十郎”でも上映してくれたら、最高の映写設備が活きるのだが。何十遍と観たから、筋は当然のこと、セリフだって全部暗記している。用事ができても、心配ないというわけ。

私の小さな楽園 鶏の章

  私が島に連れてこられたのが2005年の6月だから、この世で3年が過ぎた。春から秋まで卵を毎日のように産んだのは、大人になってからの最初の1年だけで、最近はほとんど産まない。昔なら4年も5年もかかる数の卵を、品種改良によって短い間に産むようにされたためである。採算ラインを切れば、廃鶏としてどこかに引き取られる。多分、ペットの餌になるのだろう。1年半から2年の短い寿命である。

  彼(小国寡民のこと)は、体力の衰えを意識し、ピーク時には60羽を越えたものを徐々に減らし、私の代は5羽である。育苗小屋の大勢の中から無作為に選ばれた私は、300坪の彼の敷地を自由に掘り返し、ミミズや小さな他の動くものを存分についばんできた。カラスに襲われることもあったが、オンドリが間に入って、身代わりになってくれた。鶏を飼い始めた頃は、犬がいなかったので、年中、野良猫にやられたそうだが、今は、犬も猫もいるので、外部からの侵入者はいない。

  同じ時期に産まれた仲間は、とうにこの世にいない。私たち5羽だけが、こうして、春の日差しの下、砂かぶりをしながら、昼寝を楽しんでいる。

  彼の懐具合から、1個100円が限界であることは前々から分かっていた。今は、私たち5羽で3日に1個のペースだから、1個300円の単価となっている。産卵時期の春でこの程度であるから、これからの1年、せいぜい50個である。年間4万円をエサにかけて、50個だから、単価は800円となる。いくら放し飼いの自然卵とはいえ、800円の卵は常識外だ。

  そこで、彼は、5月から隔週で、私たちを1羽づつ処分することに決めた。老鶏だから、肉はまずくて食えない。内臓だけを取る考えでいる。隔週にするのは、一度に処分すれば、保存に困るからである。

  私は何番目になるかわからない。最後の番に当たっても、7月の日光浴はもう望めない。家禽である私は、それで仕方がないと思っている。家禽に限らずすべての生き物は、遅かれ早かれ一生を終える。私は、鶏舎の狭いケージで生涯を送ることなく、心ゆくまで、鶏らしく生きることができた。これで十分である。

  ここは、私の小さな楽園である。しばらくすれば、「楽園であった」と表さなければならないが。

新聞とNHK erliuzi氏の寄稿

  新聞各紙の活字が大きくなりました。これも“談合”なのですね。報道それ自体も、購読価格もそうですが、「競争原理」が働いていないように思われます(ボクは『産経』はネットで見ています。月額¥315rpt¥315)。

  その他の問題もそうですが、「自民党一党支配」が長く続き過ぎたのが問題の根源です。いつ政権が代わるか分からない状況になれば、官僚層もその同類のNHKもこれまでのようなやり方では済まされないことがわかるでしょう。

  ただ、一言、NHKを弁護すれば、ドキュメンタリー番組には民放がやろうともしない(やりたくてもできない)ものがあります。残念ながら、その多くが衛星放送やハイビジョン枠なので、その契約のない我が家では見られないのが多いのですが・・・。

  「ローマは、パンとサーカスで滅んだ」とむかし習いました。「面白くなければテレビじゃない」というテレビ放送はまさしく「サーカス」でしょう。「パン」は農薬入りかどうか気にしなくてはならないようですが。

NHKと新聞

  先週、久しぶりに都会に出て、1週間ばかり新聞を読んだ。ちょうど、後期高齢者医療制度が話題になっていた。つい先程は、裁判員制度であった。

  凶悪犯罪と同じで、新しい犯罪が発生すると、前の犯罪がニュースの片隅に追いやられ、また、新しく犯罪が起きれば、もう、前の前の犯罪となって、紙面を飾らない。裁判が始まり、そのとき改めて、数年前の出来事と、民衆は思い出す。

  新聞が読んで字の如しである限り、新聞自体はそれでかまわないが、公共をうたい文句にしているNHKはそうであってはならない。

  裁判員制度に毎日10分使っていたのなら、この問題が解決されるまで、10分を使わなければならない。後期高齢者保険の問題が出てきたら、それにも10分使う、そうして積もっていけば、のんきにアメリカの映画やスポーツなんか放映している時間などないはずだ。

  こんなことは、百も承知の上で番組を編成しているのだから、NHKだけにニュースを頼ってはいけない。分かっていても田舎では、頼らざるを得ないのが実情である。新聞の情報量がNHKと格段の差があるのだ。

  この差は、活字と電波の違いによるものではない。発信者の姿勢によるものである。新聞には新聞社の思想が表れている。その思想に共鳴した者がその新聞を買う。いやなら、別の新聞にする。それがいいのだ。

  私は、NHKがPPVとなるまで、NHKを話題に取り上げる。金の出どころが、国の定めによる受信料であれば、国にへつらう。報道のへつらいがいかなるものかは、お隣の国々が他山の石になってくれている。

  他国は他山でも、日本が他山の仲間であってはならない。

 付:
  ある新聞がまだ、“天声人語”という言葉を使っている。昔、どこかの県の知事が談合に係わったとき、陰で、その知事の指示を天の声と呼んでいた。たかが知事・新聞のくせに、天の声とは、本気にせよ冗談にせよ、傲慢の極みである。私はこういう輩を最も嫌う。

宗教団体政党が国を悪くする訳

  宗教が、万人を救うためにあると思っている人は、あまりにもシンプルである。宗教は、その宗教に属している人だけを選んで救うのである。

  だから、国が悪くなればなる程、自分の出番が回ってくる。結構な話である。

  昨今の日本の政治を見れば、そうではないと反論できまい。仮に、日本の民がなべてそこそこに生活していけるようになったとすれば、宗教のつけいる余地は、今よりはるかに限られたものになるだろう。

  私は、特定の宗教団体を指して言っているのではない。世界中、どこの国、どの地域でも、宗教がからむと、その宗教に属していない人間が不幸になると言っているのだ。たまたま、日本では公明党がそうなっているだけの話である。

  日本全体を良くしたいのであれば、宗教団体の政党には遠慮願うことだ。それがイヤなら、いっそ入信して、仲間になるといい。面倒見の良さは、社民、民主、共産の比ではない。本当に親身になって助けてくれる。もっとも、世の中が悪くなった分だけだが。

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拉致問題 目的と手段

  拉致被害ほど、目的と手段の違いの重要性を教える材料はない。

  拉致被害者の団体の目的は、朝鮮に拉致されたままでいる家族の無事帰国であるとなっている。家族が拉致されてそのままにおかれている身になれば、一刻も早く取り戻したい気持ちになる。これは、私にも理解できる。

  私が常日頃、この集団をヒステリー集団と呼んでいるのは、この目的に対する手段がヒステリー症状を呈しているからである。

  先ず、アメリカに泣き付く、フランスなど外国へ行って朝鮮の非を訴える。この愚である。毒にも薬にもならないから、訪問先の外国では、「そうですね、そうですね」と慰めてもらえる。それだけのことである。

  次は、経済制裁を政府に要求する愚である。経済制裁をして、苦しむのは朝鮮人民である。将軍様とその軍隊は、なんら痛痒を感じない。日本人民が薬害で苦しんでも、年金で苦しんでも、日本政府が安穏としているのと同じである。経済制裁は、悪いことに、中古自転車や日本ではゴミとなるような物の輸出を生業としている小さな貿易商社を不幸にする。政府は、いくばくかの補償に税金を使う。他にましな使い道がいくらでもあるのに、税がもったいない。

  加えて、署名活動と各地での演説会。こういう活動が無意味であることは、護憲活動で十分証明されている愚である。

 これを、飽きもせず、何年も続けてきた。普通の感覚の持ち主であれば、自分のやり方を見直すが、ヒステリーの病いに冒されているから、繰り返すばかりだ。

 私は提案する。拉致被害者の会は、デモを連日のように組むことだ。そして、暑い日中、汗を流して行進している姿をテレビに映させることだ。

 デモ隊の行く先は・・・ 日本の外務省に決まっている。その帰りに首相官邸に寄ることを忘れてはならない。
 プラカードには・・・ 朝鮮と平和条約を早急に締結せよ!

 拉致被害者の集団が心から自分たちの家族の帰還を目的とするなら、他に手段はない。他の手段を講じている限り、私は、これからも、彼らを軍需政府に踊らされているヒステリー集団と躊躇せず呼びつづける。

  付: 
    その一.このデモで、真っ先に困るのは、外務省と日米安保賛美者である。
    その二.福田さんは、総裁選のとき、わたしが解決しますと自民党党員に公約したのではなかったか。口先だけだとしたら、小泉さんのすぐれた所を真似したというわけだ。

私の小さな楽園 その一  猫の章

  我輩は猫である。まだ名前はない。ここからの続きはない。私の主人(小国寡民のこと、以下面倒なので彼)は、この本の最初の数ページを読んだだけで、“ロマン・ロランに遠く及ばない、つまらない作品だ”と言ってやめてしまったからだ。しかし、記憶力がいいとは言えない彼でも、ここまでは覚えている。

  私には名がある。母猫の乳を飲んでいた時は、「たけぞう」だった。武蔵か竹三かわからない。その家の小学生がつけてくれた名前である。もらわれて来た先の彼は、私がアメリカン・ショートヘアの雑種であることから、アメリカ人の名前に代えよう目論んだ。シュワルツネッガーが第一候補、ホイットマンが第二候補、ポール・ニューマンも上がった。ヤンキーもあった。他いつもの様に口から出任せで、彼はあれこれ名前を挙げたが、いずれも彼の女房に断られ、ロッキーだけ残った。スタローンの映画の主人公である。決めようとした段階で、ロッキーではつまらないから、ロをリに代えると女房が言い出した。すべてに独断専行の彼は、ここで譲歩し、寛大な人物であることを女房に印象づけようと、素直に従った。それで、リッキーという名が私に与えられた。

  最近観た映画で、リッキーという名が女性のものであることを知った彼は、かなりショックを受けたようだ。すでに、3年目に入っているので、今更、別の名にできない。

  さて、私がここを小さな楽園というのは、周囲1万坪に車の気配がしないことである。ジャングルであるから当然であるが、猫の私にとってありがたいことだ。ネズミも適当にいる。小鳥も鳥獣保護区だから狙える。

 食べ物は、私がガォガォガォと催促すれば、どんなに難しい形勢の碁を打っていても、彼は、中断して用意してくれる。後で、お前のせいで負けたと文句を言うが、私は知らぬ振りを通す。

  冬は、寝ている彼のベッドにもぐりこむ。夜遊びして帰るのは大体午前3時頃と決まっているから、私の足の裏は氷のように冷たい。先ず、ベッドに飛び乗る。彼の腹の辺りだ。それから、上の方に移動する。彼は額と頭の分かれ目がとっくに消えているから、かまわず、顔の上を歩く。彼は目を覚ますが、怒りもせず、ふとんの中にいれてくれる。彼を起こす方法は、他に、耳元でささやく手、鼻を私のざらついた舌でなめる手がある。適宜使い分けている。

  春から秋までは、ふとんの上に乗る。主に脚の上で寝る。彼が、夢の中で悪漢に襲われても逃げられないのは、私の体重によるものである。私は、それでもかまわない。

  遊びたい時に外に出る、食べたい時に戻ってくる、寝たい時には、ふとんの中か上。私の小さな楽園である。

後期高齢者医療制度

  世間が騒いでいる割に、私には、どうも、ピンとこない。

  漱石は坂道を上りながら考えたそうだが(草枕は歯切れがいい小説だ)、私は、朝風呂に入りながら考える。

  論点が根元の部分で私と違っているのだ。みんな、誰が負担するのか、どの位負担するのか、そればかりである。

  私は、高齢者に、国の強制保険は不要であるとの考えできている。子育てが終われば、あとは、余生という付録である。3大付録であろうが、8大付録であろうが、どうでもいいのだ。本体の中身が濃ければ、付録なしでも、世間は評価する。

  金がからむ問題は、誰かの満足は誰かの不満であり、その度合いもバランスがとれている。ゼロ・サムである。したがって、いかなる保険制度も、国民全員が納得させることはできない。制度とは、そういうものだ。

  私は、だから、制度の良し悪しはどうでもいいという考えである。問題は、これが強制参加であることにあるのだ。

  ヒマな役人がどんな保険を作ってもかまわない。それに加入するかしないかが、民の自由意志である限り、勝手である。その役人への俸給はもったいないが、大目にみてあげよう。いい制度と思った人は加入、悪いと思えば敬遠する、それだけのことである。

  くどいかも知れないが、制度の見直しが叫ばれているようだが、高齢者に限って言えば、国の強制は不要、きつく言えば、悪である。金が黙って入る悪が一つ増えるだけだからだ。

  長寿は付録。厚生省の役人に貢ぐ強制保険は任意加入が必須条件とすべし。この視点から、世間が騒ぐようになることを願っている。

宮城の恥 知事と仙台市長

  警察のデタラメ。仙台市民オンブズマンが珍しく勝訴した。

  “下手な鉄砲、数打ちゃ当たる”。仙台市民オンブズマンは優秀なスナイパーだ。彼らが銃を構え、トリッガーに指を掛ける瞬間に、的がす~と消えるので、当たらないだけだ。だから、“上手な鉄砲、的なきゃ当たらぬ”と言い換えなければならない。

  的が消えるの“消える”は、自動詞。正しくは、権力者側に組する者が他動詞“消す”のである。

  宮城県知事と仙台市長が、地裁の判断が出たにもかかわらず、そろって、警察の無実を疑わない旨、コメントした。言い換えれば、地裁を疑うということである。地裁判事以上に詳しく調べた上での見解であれるのならともかく、この二人がそんな事をするわけがない。

  悪代官の見本が、宮城県民と仙台市民の自由意志で選ばれたと思うと、宮城県人の政宗崇拝が、ダテであることがよくわかる。単なる懐古趣味にすぎないということだ。私は今、れっきとした宮城県人である。その仲間に、こんな知事を選ぶ者がいると思うと、情けないやら、あきれるやら・・・・


付:
その一. 知事と市長の名前を今日は書かない。私の誇り高きブログがあんな出来そこないの二人の名で汚したくないからである。

その二. 私はいろいろ警察には世話になってきた。そこで感じるのは、窓口の警察官は、例外なく親切で思いやりの深い人たちであることだ。交番詰めの巡査も、当然その中の一人である。前に社会保険庁の窓口を誉めたことがあるが、彼らも同じように、職務に励んでいる。数年おきに転勤し、役職がどんどん上がっていく現行の昇格制度は、体のいい天下りである。上であればあるほど、質が落ちるのもむべなるかな。

宮城の誇り 仙台市民オンブズマン

  宮城県は、他に偉大な人物がいないせいか、どこに行っても伊達政宗である。NHKの6時のニュースが「テレマサムネ」。これがテレビと政宗のコンビネーションであることが分かったのは、最近である。移住した当時は、ラムネ飲料を、連想して不思議に思ったものだ。家康にとってやっかいな存在であったことは確かなようだ。中央集権におめおめと屈服しない彼の精神に、県民の誇りを見た。

  その伝統を仙台オンブズマンが引き継いでいる。

  彼らは、憲法論争をしない。ひたすら役人の不正を地道な証拠集めを通して、糾弾している。初めは、当事者である役人に正すが、役人は、「知らぬ存ぜぬ」を繰り返すだけである。埒があかないから、裁判所に訴え出る。私がここ10年ばかりニュースを見た限りでは、仙台オンブズマンは六大学野球の東大である。裁判所は、“確たる証拠がない”から“犯罪と決められない”と言う。

  この証拠が傑作である。税の不正使用かどうかを確かようとしても、オンブズマンに渡されるのが、墨がべたべた塗られた領収書なのだ。相手先、金額、使われた場所、日付、これらが真っ黒であれば、文房具店に並んでいるまっさらの領収書と変らない。これでは確たる証拠も証拠たらぬ証拠も出ない。

  己にやましい所がなければ、県警は堂々と領収書を公開して、「参ったか、3べん回ってワンと言え」と見得を切ればいいのだ。

  出来ないから、プライバシーの侵害とか聞いたようなセリフを繰り返す。

  昔は、悪いことをした者が、白を切れば、「それで済めば、警察はいらない」と啖呵が切り返された。

  それほど、警察は信頼されていた。今は、悪い役所の代表格だ。悪い事をした上に、ウソをつくのだから、当然の資格である。

  警察が市民にとって頼りがいのある存在、今は昔の物語である。地道な活動を続ける仙台市民オンブズマンに宮城県警の看板を移し、今のエリート警察官僚を白洲に引き出すべきである。

注:
 宮城県警の1999年度の犯罪捜査報償費のほとんだが架空支出との判断が、仙台地裁で下された。

裁判員制度 続 鳩山法務大臣とは

  先日、ユーモア混じりで、鳩山法務大臣に、裁判員制度を死刑にしたらと勧めた。その彼は、先だって、裁判員制度に欠けているのは国民への啓蒙であると、笑顔で語っていた。あの笑顔はどう見ても、冷酷な死刑執行人の顔である。

  歴代の法務大臣が、死刑執行にハンコをつかないのは、大臣職を退いたあと、夜毎にうなされるのを嫌ったからである。嫌う位なら、初めから法務大臣を断ればいいものを、元大臣の肩書きの誘惑に負けるのだ。ハンコをつかなくても、だれからも職務怠慢を非難されないから、こんなにいい役はない。

  私は、だいぶ前に述べたように、犯罪者に対しては、「目には目を、歯には歯を」を貫くべきであるとの論者である。死刑に値する犯罪者に死刑を執行することは、法務大臣の仕事である。なんらやましい事は無い。

  しかし、その大前提を忘れて貰っては困る。それは、法務大臣が民の為に大変尽くしていて、その一つが死刑執行でなければいけないということである。それがなければ、死刑執行は、単なるサディストの快楽である。この顔を、鳩山大臣に見た。

  さらに分かったことは、彼は、国会議員は国民が投票で選んだ公僕であることをまったく認識していないことである。啓蒙・啓発は、高等人間が無知蒙昧の下等人間を教え導く時に使うものではないか。啓蒙を使った彼は、自分が高等な人物であると自称するに等しい。まことに、片腹痛い。

  裁判員制度は今からでも、まだ廃止が間に合う。それは、次の衆議院議員選挙が施行前に入るからだ。裁判所本体も鳩山大臣もまったく役に立たないことが分った今、選挙で反対する候補者を当選させる以外に我ら民に打つ手はない。

イラク侵略 NHKの汚名挽回 

  
  今も続いているイラク侵略戦争で、アメリカ兵が4,000人死んだそうだ。“そうだ”と他人事のように私が表現するのは、まさしく他人事だからである。

  誰も頼まないのに、づかづか他人の国に入ってきて、あらゆる狼藉を振舞えば、タダではすまないこと、当然である。4千人であろうが、4万人であろうが、驚くに値しない。

  もう一つの数字、15万人。150,000人とゼロを使って表せば、桁が違うのがわかる。アメリカのイラク侵略開始から、これまでのイラク人の死者の数である。これは、“そうだ”で済ますわけにはいかない。民族間、宗派間、階級間、等々、15万に達した死者の場面はさまざまであろうが、アメリカの侵略がなければ、出てこない数字である。

  15万人の死者は、その親族、友人、仕事仲間を加えれば、100万人以上の悲しみと憎しみである。イラクのどこに行っても、取材の対象に事欠かない。毎日ドキュメンタリを流しても、1年や2年で種は尽きない。

  ネットで知るテレビ番組表を見れば、実にくだらない昔のアメリカ映画の再放送が年中流されている。そんなのは、さっさと止めにして、イラクの15万人の周囲を取材し報道せよ。

  太平洋戦争では、報道人の誇りをかなぐり捨て、ひたすら、時の権力者におもねり、国民を欺いた。過ぎた事は取り返しがつかない。その分、イラクの報道でその汚名を返上しなければならない。

  私からの温情あふれる助言である。

工場誘致と地球温暖化 宮城県

  
  数年前の猛暑が続いた夏、養鶏場で鶏が千・万の単位でばたばた死んだ。大人になる少し前から身動きができないほどの狭いケージに押し込められ、そこで卵を産み続ければ、暑さに対する抵抗力はゼロに等しいであろう。

  工場で働く人間も同じだ。寒さは、作業員が主にいる場所に強力はヒーターを置くことでしのげるものの、暑さには、工場全体を冷房しなければならない。これは、生産工場の現場務めをした人は分かってくれると思う。

  トヨタの自動車の組み立て工場が宮城に新設される。この自動車メーカーは、軽自動車には目もくれず、2000ccの税制改悪に、すなわち、大排気量の税金が低くなった時から、大排気量の車を続々生産して儲けた会社である。地球温暖化への貢献度、日本はおろか世界でも名をとどろかせている。お蔭で、日本は温暖化の真っ只中に入っている。もはや、九州や四国で工場を建てたら、その冷房費だけで、莫大な固定的コストがかかる時代となった。だから、新工場設置が、一昔前の関東の同じような気温環境となっている東北に決められたのは、経済的な観点からすればごく自然のことである。彼らにしてみれば、自作自演である。

  さて、この工場進出で、宮城県知事が、舞い上がった。県からみれば、誘致に成功したというわけだ。あたかも、自分の努力が実ったように振る舞い、県庁に、なにか特別プロジェクトを設けたらしい。知事本人も、“誘致に成功した”その自動車工場の本社に宮城県民を代表して挨拶に出向いた。

  政治家だから、ポーズを取るのは苦笑で済ますことができる。しかし、本気で、自分の実績と思うとなれば、やはり、彼の頭の質を疑わないわけにはいかない。

  竜巻、台風、水害、猛暑、すべて、工場の嫌うものである。冷害は農家には痛手だが、生産工場には無害である。日本国内の比較において、有利な東北地方は、黙っていても、工場がやってくる。

  このことがわかっていないから、誘致に奨励金まで用意している。企業が殺到するのは、当たり前。“泥棒に追い銭”の対にあたる諺があるのか。なければ、日本語始まって以来の、新しい諺の材料を提供したことになる。その時は、ぜひ、頭に村井知事の名をつけて、後世の物笑いの具としてもらいたい。


   付:宮城県の立地奨励金

  企業誘致に懸命な宮城県が、おいでいただくために用意したお金。もちろん、税金である。県知事のポケットマネーではない。進出してくる企業の多さから、奨励金の底がつく心配が出てきた。財政当局も奨励金の捻出(ねんしゅつ)策に悩むようになった。

  「もし足りなくなれば、(それだけ宮城に来てもらえたのだから)涙を流して喜ばないといけない」と、願望を込めて話していた村井知事。それが、現実味を帯びてきたため、うれしい悲鳴をあげる村井知事。あたかも、工場進出が自分の手柄であるかのように、県民に語りかける。


高齢者の自覚 漁民とマージン

  
  ここのマージンは、余裕の意味のマージンである。余裕よりマージンの方が私にはしっくりいくので、マージンを使う。

  春は海難事故が頻発する。低気圧という気象条件が背景にあることは、これまで何度も書いた。今日は、事故当事者について語る。

  漁業を間近に見ていると、また、漁業経験者に直接聞いてみると、どうも、漁労というものは、魚の存在と船の能力という枠の中で、人のマージンを試す仕事ではないかという気がしてならない。

  魚がいなければ話が始まらない。当たり前だ。魚は向こうから網や針にかかってこない。人が魚群を探して、そこに行かなければならない。船の能力が問われる。魚がいる間だけの勝負だから、船の能力をぎりぎりまで引き出す。マージンがゼロである。

  船は、エンジンやほかの部品、船体の補修まで、その都度、能力の劣化を防ぐ手段を講じている。ところが、肝心の人の方は、加齢による劣化に、防ぐ手段を講じる事ができない。

  漁業従事者はほとんどが15歳位に海に出て、船の上にその生涯を浮かべる。二十代、三十代と力のある間は、船の能力に対して、50%のマージンを残した人力で処理できる。これが、五十代となれば、30%になるだろう。七十代ではもはや、マージンゼロとなるのではないか。やる事は二十代と変らないから、七十になっても、同じ感覚で漁にでる。

  普通の環境でない環境に置かれた時に、そのマージンの有無が意味を持つことになる。それが、海難事故となる。

  船の事故は、車の事故とは比べ絶対数は少ない。しかし、運動量を勘定にいれたら、さらに高齢者に限れば、大差がないどころか、海難事故の方が圧倒的に高いように思える。

  前にも、このブログで書いたが、好天に海難事故は起きない。好天で起きる事故は起す当事者の怠慢そのものであり、これは、別の論である。

  千の風の季節が終わろうとしている。私のブログで海難事故を取り上げるのは、今日が終わりである。

新社会人に与える その二 派遣店員

  
  これは昨年11月のこと。派遣店員の事情を、ホラを連発して、私は私の気分を良くさせた。派遣店員で成功するには、私のように容姿端麗、闊達自在でなければいけないと、絶望感に襲われるのではないかと、危惧するのである。(07年11月29日のブログを読んでいなければ、このブログは無益である)。

      ・・・・・・・
  私の告白...

  来店のお客さんから、似たような製品が並んでいる売り場で、それぞれの違いを教えてほしいと頼まれたら、答えられないのが普通です。先ず、そういう答えられない質問を出す客を軽蔑した顔で見ないことです。困った顔を見せてもいけません。その瞬間に、店でよく分かっている人を呼んでくれと言われるに相違ないからです。分かった人がくれば、あなたは無用のレッテルを貼られます。

  毎年新製品が発表されるのですから、しかも、一社から数点一度に、覚えきれるものではありません。違いなんか、ほとんどありません。でも、そう言って、だから好きなものを勝手に買ってくれと言ったらお終いです。これは、禁句。

  「今、おうちでお使いの電気製品がおありですね。電気製品ですから、長年お使いになれば、どうしても修理が必要になることでしょう。そのとき、頼りになるのは、サービス・センターです。サービスの人は修理でお宅にお邪魔したときに、自分の会社の製品が他にあれば嬉しいものです。その数が多ければ多いほど、嬉しいのです。サービスにも熱が入ろうというもの。ですから、おうちにあるメーカーと同じ商品がよろしいかと存じます。修理に出したことがなければ、それも、また、結構なことですから、そのメーカーの品物もいいでしょう」

  てな程度で十分です。こういう話法が通じない客もいます。だいたい見るからにヒマそうな七十近い老人です。今の小国寡民の年頃(年頃というのは、花開く乙女の専用語ではありません。老人にも使いましょう)は、しつこいだけで、買うものといったら、乾電池くらいです。そういう客を相手にしていては、日が暮れてしまうので、「ホームセンターに行って、ローソクでも買ったら」追い帰しましょう。ついでに、「線香も」は言いすぎですが。

・ ・・・・

  私の告白はこれで終わり。あれから半年、己の大ボラに良心が咎めていたが、これで、すっきりした。次回から、また、尺八とホラが気分よく吹けそうだ。

新社会人に与える言葉 その一 悪事

  
  前に領収書を改ざんして、金をちょろまかしたり、直帰と言って、碁会所にしけこんだりした悪事を、ユーモアを交えて語ったことがある。

  このブログになじんでいる方々は、また例のホラと、笑ってくれるが、まじめな新社会人がそこだけ読んで、「そんなにたやすいのなら、自分も」、などと真似られては困る。この心配が、多重債務やマルチ商法に引っかかる若者のニュースが引きも切らず続いていることから、杞憂であるとは言い切れない。それで、追加説明をしておく。

  端的に言うと、悪事は自分だけが知られていないと思っているだけで、回りはちゃんと気づくものであるということである。どんなに巧妙にウソを言っても、顔や目の動き、体全体のしぐさから、ウソはばれるものなのだ。

  私がインチキをしとおせたのは、私の優れた演技力からではなく、上司や回りの人間が「小国寡民のあの程度の悪事は許容の範囲である」と黙認してくれたことによるものである。

  世間の眼は一部の若者が思うほど、節穴ではない。今の日本はなんだかんだと言っても、こと庶民が属している世間は、正直者には正直の、ウソつきにはウソつきの、横着者には横着の報いを必ず用意してくれている。

  それに比べ、高級官僚の世界は、・・・と続けるとエンドレスとなるので、ここは、これで締めることにする。


裁判員制度 続 リンチとお白州

  
  アメリカの陪審員制度は、体裁よく繕っただけのリンチである。

  アメリカ建国当時、白い鬘(カツラ)を頭に載せて、由緒ある名門出の裁判官が、ぞろぞろ、新大陸に上陸したという記録は多分ないであろう。私は想像できない。記録があったとしても、あとから、捏造したものと疑う。

  アメリカは、初めから、裁判制度などなかったのだ。物をいうのは、腰の2丁拳銃で、それの他といえば、群集のリンチだけだった。

  頭に血が上った群衆がどんな判断や行動をとるかは、ジュリアス・シーザーを待つまでもなく、アメリカ西部劇映画が語ってくれる。そのリンチ場面を思い出してもらいたい。男連が、女子供の見ている前で、捕まえた無頼の流れ者をハンギング・ツリーに架ける。無頼ならまだしも、気に食わなければ、悪人に仕立て、見境いなしにハンギングする。幾多の黒人が群集によって悪人と判断されたことか。

  こちら、日本。聖徳太子の時代から、“和ヲ以テ尊シトナス”の精神構造である。当時から、年中いざこざが絶えなかったことの裏の証明でもあるが、狭い日本の中で生きていくためには、最も都合のよい処世術である。これは、賢治の“喧嘩ヤ訴訟ガアレバ、行ッテツマラナイカラヤメロトイイ”の精神まで連綿として継承されている。島国のまた島国に住んでみれば、多少の摩擦があっても、警察沙汰にするより長老が間に入って“談合”する方が、後々うまくいくことに、私と同様、気が付くはずだ。

  また、自分たちの手に負えない凶悪犯罪などは、大岡越前守や遠山の金さんに裁判の判断を委ねるというお上思考なのである。平民の日本人は、一度として、平民が同じ平民を裁いたことがなかった。ワイロ漬けの裁判官がいても、それにとって代わろうとはしなかった。仏教思想からか、民が民を裁くことを避けるようにしてきた。日本人の血である。

  私は、裁判員制度が日本に根付くようになれば、日本人の悲劇であると繰り返し叫ぶ。15%は積極的に参加するとアンケートにあったが、これが、大衆受けして(今のテレビのトークショウの繁栄を見ればありうることだ)、30%になり、60%になり、日本人全部が、裁判員になりたがるようになったら、日本はお終いだ。

  無能な司法関係者の尻拭いを、罰則まで設けていやがる民に押し付ける裁判員制度は、アメリカの血をむりやり日本に輸血するようなもの。

   “終わりの始まり”がある。しかし、こと裁判員制度にあたっては、始まる前に終わりにしなければならない。

  ヒマを持て余した役人が、己の存在価値を認めさせようと、アメリカがやっていることに小手先でいじりまわして作った安易な制度。

  役人にお願いする。どれほど年俸がでているのか知らないが、せめて、なにもしないで、年俸を受け取っていてもらいたい。悪法を作れば、ダブルで民を不幸にする。昔から言うではないか、動くバカは、静かなバカより始末が悪いと。

4月という月

  
  私の新年は、3回あると前に書いた。元旦、4月1日、それと自分の誕生日である。

  4月が日本の四季の初めであるからと説明したが、もうひとつ理由があった。あったとは、今は、正真正銘の四季の初めだけが残っているからだ。

  もうひとつの理由。それは、4月1日をもって、年次有給休暇がリセットされ、満額に戻るからである。

  私は、どこの職場でも、目いっぱい、有給休暇を消化した。4月に入ると、年次計画を作成する。偉い人たちが、職場で、経営・販売・財務などの年次計画を策定しているのを脇で見て、それを真似して作った。正確な数字は忘れたが、20日前後だったと思う。12ヶ月のうちほぼ1か月が休めるのだから、アイ アム ハッピー。

  先ず、カンチャン(マージャン用語で、両脇があいていること。たとえば、3と5)に充てる。そうすれば、3連休となる。それからあれこれ考えて、出社がだるい日のために5日位残す。あとは実行するのみ。

  ある年、秋の紅葉があまりにも美しかったので、当時もっていた別荘地の長野に週末ごとに行った。そんな様子のまま、12月に休みを取ったとき、休暇を管理している女子社員から、「小国寡民さん、もう、有給休暇はこれが最後です」と言われた。偉い人たちの年次計画同様、始まってしまえば、私の有給休暇消化年次策定書もごみ箱行きだったので言われるまで気が付かない。

  有給休暇でなければ、欠勤扱いとされる。そこまでは、知っていた。それが、何を意味するのかまでは、考えたことはなかった。もともと、いつまでここの職場にいるかわからないものだから、規則なんか読んだためしがない。しかし、置かれた立場から、初めて就業規則を総務から借りて読んだ。びっくりした。遅刻をすれば2万円、休めば5万円がボーナスから削られることが、試算してわかったからである。遅刻は適当なウソでごまかせても、休みは、「急にお客様から私の自宅に電話が入り、ぜひと言われました。それで、直行で大阪に出張します」なんてことで通らない。

  これは本当にきつかった。口は、「金は天下の回りもの」だが、腹は「やはり5万円は惜しい」だ。正月休み明けから3月31日まで、無遅刻、無欠勤である。このときほど、賢治の雨ニモマケズを実感したことはない。小学校入学以来、まともに1学期を送ったことのない私が、金惜しさに、成し遂げたのである。

  “なせばなる、なさねばならぬ、・・・”は人格者向け。私は、“なせばなる、金のためなら、なせばなる”。我ながら、自分の小物さ加減にあきれる。

  4月を日本の四季の始めなどと体裁よく言ったものの、己の半分ウソがとめるので、恥を忍んで告白した。

ペンと剣 erliuzi氏の寄稿

  ペンと剣

  語呂がいいというのは「ペンとケン」という日本語訳のことですね。

  大学受験界で、往年の都立高校(旧ナンバースクール)に取って代わった開成の制服ボタンが「ペンと剣」だと思い起こしました。

  英語の諺は19世紀の英国戯曲で有名になったそうですが、その作者の孫がリットン調査団長だとか。

  本筋に戻れば、「武器は説得に屈する」というキケロの考えに源泉がありそう。チベットでの抗議・不満などの表明は(武)力で抑え込まれています。しかし、それに対して広がりつつある意思表示(文)は続くことでしょう。

  われらの政治については小国寡民氏の言うとおりです。

チャールトン・へストンに思う  ペンか剣か

  チャールトン・へストンが世を去った。老人になってからの映画は知らないが、彼の映画はほとんど観ている。

  その彼が、アメリカのライフル銃賛美者であることを知ったときは、大変な違和感をいだいた。最後に観た作品が「猿の惑星」であったためだと思う。

  今は、さもありなんという風に受け止めている。

  なぜなら、それまでの映画の中では、彼の勝利への手段が、道具であるにせよ、筋肉にあるにせよ、物理的な力で一貫しているからだ。私のように一筆で悪をとっちめようなどという高邁な精神活動とは無縁である。

  力に物を言わせること、正しい者と悪者が白黒の碁石のようにはっきり区別していること、共にいかにもアメリカ的である。チャールトン・ヘストンが演じたのは、アメリカ国民そのものであった。

  アメリカ人は、正しいようでその実正しくない、悪いようでその実悪くない、こんな世間では当たり前のことに、頭を働かせることが嫌いな人種である。できない人種である。

  “ペンは剣より強し”を英語の授業で習った。ペンと剣の語呂がいいので、日本語にこう訳した翻訳家を尊敬してやまないが、この諺には追加説明が必要である。それは、ペンが強いのは、剣に転化した時だけである、という説明である。

  戦後数十年、核廃絶活動・護憲運動が止んだ年は一年とない。演説、論評、出版と、ペンの活躍は衰えたことがない。それにもかかわらず、今や、憲法の無視どころか、アジア最大の軍備国家となった。ペンがペン・パルの仲間同士の居心地のよいサロン談義から、一歩も抜け出ようとしないからである。今の剣は、言うまでもなく選挙の票。

  ペンが票に転化しない限り、“ペンは剣より強し”は教室用語にすぎない。空しい、空しい。

ガソリン暫定税率 よくぞ我慢した、野党!

  ガソリン暫定税率が4月1日でストップした。私の考えのどこかに、民主党がヘナヘナに崩れて妥協するのではないかという心配があった。

  それが、Noと言い続けた。田舎の知事連の鼻をあかしただけでも偉い。NHKが地方の自治体への影響が大変であることを、幾度となく放送していたが、それも空しくした。これも偉い。

  道路は作れば作るほど、メンテ(維持)に金がかかる。オラホがご当地、牡鹿半島に縦横に延びている、数時間に1回か2回軽トラが通るような道路でも、夏になれば沿道の草刈りが欠かせない。作業中の看板がいたるところで立てられている。

  暫定税率がなくなると道路の保守ができなくなると知事連が騒いだ。今でさえ、保守に金がかかるのに、これから新しく道路を作ってどうするつもりなのか。いずれ、知事たちは、この暫定税率停止を決めさせた民主党、社民党、共産党に感謝することになる。

  私が、何より、この廃止を歓迎するのは、補助金・助成金が減ることにつながるからである。役人やその手の団体の語るに落ちる不品行は論外として、補助金・助成金は、その美名とは裏腹に、田舎の素直な民の心を蝕む。

  先日も、宮城のどこかの市か町で、自衛隊が来る時に落とされる補助金と名のつく税金を見込んで、予算を組んだ。それが、自衛隊がこなくなったため、補助金が落ちなくなり、大慌てをした。そして、国に何とかしてくださいと泣きついた。バカな話である。

  どこの地方も、その身の丈にあった収支を貫かなければならない。五十年前の地方の道路がどんなものか、みんな分っているのに、必要だ必要だと騒ぐ。なら、五十年前、どうやって人が移動したのか、聞きたいくらいだ。

  わずか25円といえども、金は正直者だ。これに続いて、防衛省・自衛隊を撤廃すれば、一人、毎年4万円が、バックされますと、宣伝してほしい。論壇諸先生の憲法空論と違って、効果間違い無しである。25円の正直者は、4万円となれば、なお一層の正直者になる。

 付:
  公共事業は失業対策である。共産党が無駄な公共事業を止めよと選挙で叫んでも、共感が得られないのは当然である。私は、土建業界の失業対策として、みんな陸上自衛隊に送り込めばいいと思っている。そして、今の自衛隊員を、世間に返すのだ。普通に働ける人間を、サバイバル・ゲームで遊ばせておく事はない。

くじらの親子

  歳をとるにしたがって、嫌な話や嫌なシーンは避けるようになった。最近、その傾向が益々強くなってきているのが、自分でもよくわかる。

  生々しい現実はもう沢山だ、淡いセンチメンタリズムの世界に身を置きたい、そういう感じである。

  そう願っている私に、調査捕鯨に反対する団体が発表したくじらの親子の写真は、苦痛そのものであった。大きなくじらの脇に横たわっている小さなくじら、誰が見ても、母と子であることがわかる。

  もしも、私が、生き物に囲まれていなかったら、完全に精神異常をきたしていたことであろう。無心な動物が側にいてくれているから、助かったようなものだ。

  紀貫之、中原中也、エリック・クラプトン、この人達の小さいまま子供を失った親の気持ちは、そういう不幸に見舞われてこなかった私にさえ、よく伝わる。私ばかりでなく、普通の人は皆そうであろう。

  くじらを食しない文化の人々から、くじらを食する文化の我々が、とやかく言われる筋合いはない。これは、正論である。私もこの正論論者の一人である。しかし、理屈はそうであっても、ああいうシーンを見せられれば、子を失った親の気持ちがオーバーラップして、感情が耐えられなくなってしまう。まして、くじら食文化をもたない人は、くじらを食べる人種を野蛮人と反感さえいだくのではないか。

  私は、“正しい事して何が悪い”と主張するのは、自己満足であると思っている。捕鯨再開を真剣に願うのであれば、こういうシーンを人に見られるような甘いガードではいけない。

  捕鯨従事者に配慮を期待することはできない。そもそも、生き物を殺してそれを生業としている人たちだからだ。だから、関係する役人が、カバーしてやらなければならない。それが、殺生をしないくせに殺生による水揚げで食っている担当部署の役人の最低の義務である。

  私は、還暦近くで、人間は、生き物を殺して食べなければ存続しないことに納得し、ようやく宮沢賢治の呪縛から開放された。だが、あのくじらの親子の並んだ姿で、私は再び賢治の世界に呼び戻された。不幸である。今は、あれはコンピュータ・グラフィックスの合成写真であると、自分に言い聞かせている。いや、信じ込んでいる。

  同時に、くじら保護団体を怨む。同程度に、それを許した日本の役所を憎む。







沖縄集団自決訴訟 その三 空襲と裁判

  小国寡民、またかよ、とうんざりしないでいただきたい。

  私は、歳相応に、火葬場に足を運んでいる。本当に悲しい人に限って、列席しているから、歳相応と言っても、それほどではないかもしれない。

  それはともかくとして、私は、あのボイラーの音が大嫌いである。お棺が、スライドする。スイッチが入れられる。重油が燃える音が聞こえる。これが私の神経を参らせる。

  棺桶にいずれ私も入ることになるから、棺桶の中で、あの業火ともいえる高温の火中に置かれる。それを思うから、神経が参るのである。私は、その時、間違いなく、こんな熱い思い(ナタリー・ウッドやダイアン・レインへの想いではありません)をする位なら、いっそ、一思いに殺してくれと、火葬場の職員に棺桶から頼むであろう。

  東京大空襲。先ず、周辺を焦土と化し、人、生き物、すべての退路を断って、それから、おもむろに、焼夷弾をばら撒く。逃げ場を失った人も生き物も、棺桶の中の私と同じ灼熱地獄の中で死んでいった。

  鬼畜英米という言葉が、戦時中では、少しも大げさな表現ではなかった。アメリカ兵が来たら、何をされるかわからないと考えたのは、アメリカ兵が来ても身の危険はないと考えるより、はるかに自然な発想である。正気である。

  日本人よ、過去を題材にして日本人同士のいがみ合いはいいかげんに止めよ。沖縄集団自決に軍が関与したかしなかったかの議論は無益の極みだ。裁判沙汰に持ち込まれただけで、次の国政選挙で、護憲政党の票は減りはしても、増えはしない。被告は、地方判事の無罪判決を褒め称えた。いずれ上級裁判所で、逆転判決が出るだろう。その時には、有罪判決を非難する。何のことはない、裁判でなく、己の意見と同じか違うかだけを基準とした評価なのだ。

  日本の裁判の判決を頼みにしなければならないような空しい議論を私は悲しむ。

沖縄集団自決訴訟 その二 鬼畜英米

  古来、戦争に負けると、男は殺されるか、ガレー船を代表とする奴隷となるかのいずれかであるのが普通である。ここの男とは、兵士を言う。戦場で戦うのは限られた男で、農民などは、脇で畑を耕していたはずだ。女も、同様で、好きになれば、戦争に勝った方の兵隊と結婚するかも知れない。

  古来はそうでも、太平洋戦争はそうでない。一般市民を標的とした戦争であった。標的と言うのは、適切な表現ではない。一般市民を巻き添えにした戦争であった。巻き添えと言うのも適切でない。無条件降伏をしなければ、日本人が地上から消滅してしまう殲滅作戦が実行されたのだ。そうなれば、もちろん、土佐犬も日本ネコも消えてしまったはずだ。

  戦争を遂行させるには、敵愾心を煽らなければならない。最も簡単な方法が、スローガン、次が軍歌である。

  大日本帝国は、国民の敵愾心を煽る目的で鬼畜英米とアメリカを形容した。それが、敵愾心どころか、本当に現実がそうなってしまった。悲劇の瓢箪から駒である。

  日本軍人が自決を勧めたことに、私はなんら不自然さを抱かない。少なくとも、多くの軍人の中にそれを勧めた者が十人や百人いても、非情な兵士と私は、彼らを責めることはしない。それが、たとえ、軍の組織が関与したことであっても、軍を弾劾するつもりはない。結果論ではあっても、原爆と焼夷弾の事実が鬼畜を証明してくれたからである。いや、たとえこれらがなくても、国民総動員の戦争であるかぎり、軍を非難しない。もともと、軍は頭がないと言っている私だから、軍の思考を云々しては、自己矛盾に陥るのだ。

  私は、鬼も畜生も大好きである。中国の鬼は愛すべき鬼であり、四足動物が、人間の清らかな部分だけで生涯を終えることも知っている。だから、鬼畜と表現するのには、異議があるが、極悪非道ではスローガンにならなかったから苦肉の策と許すことにしている。

  旧日本軍を非難することは、いともたやすいことだ。いくらでも検証できる。生き証人もまだまだ探せば出てくる。しかし、非難の先はお門違いというものだ。そこまで追い詰めた、日本人大衆を非難すべきなのである。

  これからも、沖縄集団自決の裁判は続く。最高裁でどういう判決が下されようと、この種の議論が不毛であることになんの影響も及ぼさない。第二次世界大戦は、日本の軍部と一部政治家によるもので、中国人民と日本国民は共に戦争の被害者であるという隣国指導者の慰めに劣らぬトンチンカンに気を良くしていると、大変な事になっていく。


付:
  私が懲りもせず、NHKをこのブログでとりあげるのも、大本営発表を公共の名の元に、延々とウソを無知の国民に流し、軍をウソを言い続けなければならないような立場に追い込み、終戦を長引かせた責任をまったく反省していないからである。

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