老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

軍隊というもの erliuzi氏の寄稿

  国家―安保条約の再論です。

  第二次世界大戦までの国家論では、「内外の」敵対勢力に対処する軍隊は当然あるべきものでした。

  憲法9条は日本を丸裸にして抑え込もうと思った米国の身勝手から生まれました。反面、それは、国家というものを従前より一段高い存在に引き上げる貴重な試みでもありました。

  が、国際政治の現実が<9条骨抜き>に向かわせたのです。

  今、問うべきことは、自衛隊は誰の為に、何の為に巨費を費やして存在するかということ。

  小国寡民氏は<陸自>無用論でしたが、確かに、アジア太平洋戦争で関東軍は開拓農民を守ったか、沖縄守備部隊は島民になにをしたのかーなど徹底的に検証すべきです。

「老後」の話 erliuzi氏の寄稿

  小国寡民氏のものの見方は、すでにみなさま衆知のことと思います。さまざまある特点のうちでいい方から並べると、私などとは違って<合理的な判断>ができること。

  2番目は音の聞き分けができること(これは、「四声」という上げ下げのある言語で死活問題。これについては問題あり)。

  三つ目は如上の(1)がマイナスに作用する例で、日本の諺の「杓子定規」が当てはまります。加島祥三さん、最近刊の「求めない」で一般に知られたようですが、英文学者で、老荘についても詳しい人です。これ以降、再論します。

中央即応連隊 陸軍

  軍隊でもっとも原初的なのが陸軍である。人間が殺人を分業化した時にできたのが陸軍だからだ。日本でいえば、陸上自衛隊である。次に海軍、陸続きでない他国との戦争が可能になったのは、船ができてからのこと。忍者よろしく、頭に槍や刀を載せて、海戦はできない。そして、最後は空軍。いずれ、宇宙軍なんていうSFもどきの部隊ができるかもしれない。

  今日(3月30日)のニュースで、SFでなく現実に恐ろしい事態が日本に生じたことを知った。“中央即応連隊”の誕生である。もちろん陸上自衛隊という名の陸軍である。

  NHKの報道によれば、海外派兵の先遣隊の役割と国内のテロ・治安維持の目的ということだ。権力側の治安維持が何を意味するかは直近ではチベットが教えてくれる。

  軍隊は、自国民・他国民問わず、秩序を乱す輩は、命令一下、ためらいなく殺す。とりわけ陸軍はひどい。中国には、質の悪い鉄は釘になる、質の悪い人間は兵隊になるという言い伝えがある。この兵隊とは、むろん陸軍である。中国ばかりではない、どこの国でも同じだ。空軍パイロットを養成するには、大変な時間と費用が必要だが、歩兵は、鉄兜を頭に載せ(決して頭の中身を保護するためではありません、首から下が動いてくれるために頭が必要だからです)、軍靴を履かせ(これも同じです)、鉄砲を持たせれば、即実戦力だ。旧日本軍の陸軍が強かったのもこれが理由である。

  私は、島国日本に陸軍は不要という考えでいる。どこの国が、日本に軍隊を上陸させ、首都東京に戦車を走らせるというのか。唯一その可能性のある国、アメリカは既に、東京周辺に軍隊を結集している。

  強く言いたい。陸上自衛隊は、海上の給油活動とは比較にならないほど、他国にとって悪い存在である。他国にとって悪い存在は、我ら日本人にとっても悪い存在である。

  連隊長が、真面目な顔をして、正義のために命を懸けると大声で誓っていた。殺す職業だから同業者の相手から殺されても、文句は言えない。だから、命を懸けるのは、サラリーマンの出勤と何ら異なることがない、当たり前のことである。

  大問題なのは、それを“正義のため”とほざいたことである。“正義とはなんぞや”で、悩みつづけてきたのが人類の歴史である。連隊長ごときが軽々と口にすべき言葉ではない。厚顔無恥・言語道断である。これまで私は幾度もNHKに軍人をニュースに取り上げるなと忠告してきた。それにもかかわらず、海上給油の“国際貢献”に続いて、今回は“正義”にまでエスカレートさせてしまった。小泉、安倍が甘やかして育てた軍人が、軟弱な福田に業を煮やした証である。

  雪崩は、動き始めは緩やかだ。それを見過ごすと、手の施しようがなくなり、大惨事が待ち受けている。軍人も雪崩と同じだ。もたもたしていると、歴史は繰り返すことになる。防衛庁を防衛省に昇格させた国民に、早くもそのツケが回ってきた。

 愚かな51%と心中しなければならない私は、言論の自由が存在する限り、何度でも軍の増長とNHKのエセ公共性を語りつづける。そうでもしなければ、腹の虫がおさまらない。

戦争 日本国憲法 第九条 戦争放棄

  憲法九条が日本をダメにしているというような題の本があったので、借りて読んでみた。第九条が今や名だけのものとなってしまったのは、つとに最高裁の怠慢によるものと考えている私だから、なにか得る物があるかもしれぬと好奇心を持ったためである。

   一.自衛隊は軍隊である。軍隊があるのに、憲法が軍隊を認めないというのは、おかしい。だから、現行憲法は“改正”しなければならない。

   二.日米軍事同盟がある。軍事同盟は双務である。アメリカが苦労しているのに、日本の自衛隊が傍観しているのは、おかしい。だから、海外派兵を認めるべきだ。それを許さない現行憲法は、以下同文。

  おかしいのは、軍隊であり日米同盟である。話が逆さまである。なんのことはない、積極的に軍備を整え、アメリカと一緒になって戦争ができるように憲法を改めよという主張だけのことだった。それが、大国日本の国際社会の一員として責務であると言っているのは、福田首相の言と一致している。

  その本は一つの例えを示している。路上で警官が悪人を捕まえるのにてこずっている、それを見て見ぬ振りをしている同僚の警官は人の道として許されるはずがない。国も同じであると言う。

  論理の飛躍である。一つの社会で一つの規範があるから警察が機能する。国際関係を同列にするのは無理である。また、犯人が、怪人二十面相よろしく警察の制服を着て悪事を働き、私服の警官ともみ合っているような現場で、どちらに加勢せよと言うのか。国家間の争いは、これよりはるかに複雑である。

  自衛隊を擁護したくて、世間にはドロボウがうようよいるのにカギを掛けないで外出するバカはいないという論ともよく似ている。

  この種の論者は、どうもこういう理屈が好きらしい。それで、大衆を納得させられると思っているのだろう。私は大衆の一人であるが、こうした詭弁に対しては甘くない一人である。これからもこの手の本は続々と出版されるだろう。騙されるバカになって後で臍(ほぞ)を噛むことのないように。

  日本国憲法 第二章 戦争の放棄
 第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

戦争 日本国憲法  戦争放棄

  “瓢箪から駒がでる”が適切な表現として使えるかどうか、自信はないが、どういうわけか、憲法前文を読む度に、この言葉が頭に浮かぶ。

  日本の敗戦で太平洋戦争が終わり、アメリカが真っ先に考えたことは、日本に報復させないことである。他の一切は、些細なことである。アメリカが行ったウルトラA級戦争犯罪は、アメリカ自身が一番分っている。いずれ報復される。その芽は絶対に出させない。

  報復はしませんと日本に誓わせることは、さすがに、気が引けた。だから、実質的に同じ内容を、美文で表現した。これが平和憲法の前文と第九条である。平和を愛することが、世界最高の“崇高なる理想”であれば、終戦と同時に、アメリカは自分たちの憲法をそれに改めたはずである。

  日本が警察予備隊から始まって自衛隊と拡大に拡大を重ね、今や大軍事国家となったのは、日米安保が報復を不可能にしているからである。


  番犬は獰猛であるべきだが、きちんとした鎖を首にかけている間は、飼い犬に噛まれる心配は皆無である。鎖を外すならば、その犬は我が家の犬のように猫におびえるくらいでなければならない。

  アメリカは安保条約が存在する限り、護憲・改憲論争にまったく関心を持たない。かえって、平和憲法のままでいる方が、日米安保が解消され日本が真の独立国家に戻った時、「日本よ、憲法では、武力行使はしません、軍備はしませんとあるではないか」と、日本の自主行動に(アメリカから見れば暴走に)歯止めを掛けられるから、好ましいであろう。

  自衛隊と日米安保はワン・セットである。平和国憲法は、瓢箪から駒である。


  日本国憲法 前文

  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうに(アメリカに惨禍が起こることのないやうに(小国寡民追記))することを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

  そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

  日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の(但し、アメリカ合衆国は例外として(小国寡民追記))公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

  われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

  (アメリカ国民は国家の名誉にかけ誓わないが(小国寡民追記))日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

戦争  歴史教科書 

  私は、何事につけ、公平でありたいと願っている。私自身の考えと正反対の意見や見解にも耳を傾けるようにしている。頑として譲らない事もあるが、それでも、人の言う事は、一応聞いてみようという考えである。天邪鬼の私が、歳を重ねることにより、次第に素直にかつ円満に成長してきた証拠である。

  さて、今回は、私の考えと相反するグループの歴史教科書をテーマにする。三省堂でその教科書本体が手に入ることは分ったが、千三百円也が惜しくて買わず、図書館でその系列の本を借りて済ませた。

  大いに賛成できたのが、日本がアメリカの属国と成り下がったという主張である。歴史を見れば、敗戦して占領されれば、国そのものが無くなることは普通の出来事であることがわかる。それから見れば、日本という国名が残されただけでもありがたいのかもしれない。だが、名目は独立が保たれているが、実質は属国であるから、ありがたさもそこそこである。これを、嘆いているようなのだ。

  それなら、なんとかして属国状態から脱却すべしと大和魂に訴え、ふにゃふにゃ日本人を鼓舞するかと思いきや、アメリカなアの字も出てこない。中国や韓国・朝鮮にもっと毅然とした態度で向かえ、日本の政府・外務省は弱腰だ、日本人としての誇りを忘れるな、と続く。更に、アジア進出、朝鮮半島や台湾の日本化では日本が取り立てて悪かったわけでないと主張するのである。

  これをピント外れという。今はどんなカメラでも、昔覚えたコマーシャルの“わたしにも写せます”だ。ピントが外れることはない。そのピント外れの現象が、よりによって、中学生相手の歴史教科書に残されているとは、驚きの一語である。

  私は、海外出兵は理由がどうであれ正当化できないという考えである。まして、占領して、自国の領土として併合するなんて、もってのほかである。だから、中国や韓国・朝鮮に対しては、しばらくは(まあ、3世代90年として、後40年位は)、腰を低くしているようでなければいけないのだ。しかし、太平洋戦争の相手であったアメリカに対しては、いささかの負い目も感じることはない。軍と軍が戦っただけのことであるからである。“勝敗は兵家の常”、負けたからと言って卑屈になることはない。

  アメリカの軍と日本の民、これがどうであったかことこそ、歴史教科書に語らせよ。朝鮮統治、中国侵略、その時の中国人・朝鮮人の心情を歴史教科書に語らせよ。そこから産まれ出るものが、自国・他国に拘らぬ本当の愛国心のというものだ。

  志と誇りを失った今の日本人を嘆く前に、先ず己のピント外れを反省してもらいたい。

NHKの記者が受賞した

  先日のニュースを聴いて知ったことだが、NHKの記者が国際ジャーナリスト賞を受賞したそうな。イラク戦争での報道が高く評価されたとNHKが自慢していた。

  一瞬、我が耳を疑った。私がNHKのテレビで知っているのは、とても報道と言える代物ではなかったからだ。

   NHKアナウンサー(スタジオでぬくぬくと)、:「そちらは、どういう状況ですか」
   フリーの記者:「今、私の頭上をミサイルが飛び去りました」
   NHKアナウンサー(ぬけぬけと):「気をつけて取材に当たってください」

  こんな程度のやり取りが連日のように流れていた。私は、イライラのし通しだった。会話自体は正確でないかもしれないが、ニュアンスはこんなものである。少なくとも、NHKの記者がバクダッドから何がしかのニュースが送られてきたということはなかった。

  それがなぜ、受賞の栄誉に浴すことになったのか。

  最初に疑ったのが、NHKの二枚舌である。日本国内向けには、アメリカの意向に従って、イラクの実態を公開しない。そして、外国向けには、受賞に値する報道を流す。しかし、これは、NHKにそれほどの機動力があるとは思えないから、ありえない話である。

  次に思ったのは、放送技術をエサにした事前工作である。ふんだんに予算を有している(何しろ税金もどきで全国から集めるのだから)NHKには先端技術が腐るほどある。それを、ちびちび小出しに途上国にばらまけば、集票に効き目、間違いなしである。これではないか。いや、きっとこれに相違ない。私は、これに満足して、私の結論とした。

  地震・津波には、すばやく自分の記者を派遣して、現地から報告する。戦争や動乱には、フリーの記者を金で雇う。この違いがなぜあるのか分っているのは、私ばかりではあるまい。裏工作受賞で日本人をあざむくな。自画自賛は見苦しいぞ、NHK。

  付:
  1.賞の名は正しくないかもしれない。些細なことである。
  2.私の自画自賛は、ホラで済みますから、問題ありません。

裁判員制度  その三 プライバシーの美名の裏側

  無作為に選ばれた国民が“正当な理由がなく”拒否すれば、処罰されるなど、まったくふざけた法律を法律の専門家が決めたのだから、救われない。これは、前に何度か書いたので重複している。

  今日は、その参加者が、議論した内容を公表してはならないという文言に文句をつける。

  公表すれば、当事者のプライバシーが侵害される危惧があるという理由である。ならば、公表しなければ、どうなるか。裁判員が己の考えを述べ、それに裁判官が反対なり修正意見を述べる、そして、双方、譲らないまま、裁判が進められると仮定する。裁判官が折れればいいが、折れない時は、裁判員が我慢を強いられることになる。その経緯が、世間に全然知られないまま、裁判が進行する。

  ある裁判員が、裁判官や他の裁判員の考えにどうしても納得できない場合は、その是非の判断を、広く一般市民から良識ある意見を求め、仰ぐ(作った側の裁判員制度の趣旨でもある)のが本筋である。それには公開が欠かせない。それなのに、してはならないという。

  なんのことはない、プライバシー保護の美名の下、密室談合である。悪法の極みをここに見る。人を裁く権利や義務に鈍感になったら、その人間はお終いだ。

  付:
  権力者は、こういう悪法を通す場合、決まって数年先の実施ということで、国民にどうせ先のことと思わせる。日本人は、来年のことさえ鬼を笑わせる位だから、数年先となれば、閻魔様まで笑わせる。そして時が来る、自分が泣く。

この閻魔様方式は、日本全国の数千万台の現行テレビがゴミとなる無茶苦茶な地上波デジタル化にも応用された。

裁判員制度 その二 真実の行方

  映画は楽しい。最近、と言っても私の歳で最近というのは、数年前のことだが、私設映画館で『真実の行方』という映画を鑑賞した。

  リチャード・ギアとエドワード・ノートン共演の裁判映画である。久しぶりに面白い映画に出会った。筋にいささかの無理・不自然さがない。また、配役もそれぞれの役をきちんとこなしている。リチャード・ギアは、『コットン・クラブ』以来、よく知っているが、エドワード・ノートンは、この映画で初めて知った。見事な演技である。俳優であるばかりか、映画監督としても名を為しているのも頷ける。

  筋はここに書かない。この映画を取り上げたのは、裁判員制度が、一般庶民の能力を超えた判断を、我々に要求していること、また、判断がいかに難しいものであるか、この2点を映画『真実の行方』が語っているからである。

  悪法も法とは、ギリシャかどこかの昔の偉い哲学者の言。日本社会が大変な不幸に見舞われようとしている今、平民は、悪法は無法と公言し、司法関係者を糾弾しよう。

裁判員制度  その一 十二人の怒れる男

 中学の頃から洋画ファンだった。堀切の隣りの四ツ木に洋画館が2つあって、よく自転車で観にいったものだ。3本立て、総天然色、今思うとどうしてあんなけばけばしい画面が気に入っていたのか。高校に入ってからは、スクリーンという映画月刊誌を毎月古本屋で買って楽しんだ。半年ほど遅れると、ちょうど四ツ木の三流館で上映されるので、タイミングがいい。高校が歓楽街江東楽天地の錦糸町駅にあったので、益々洋画にのめりこんでいった。

  その頃だと思う、ヘンリー・フォンダ主演の映画“12人の怒れる男”を観たのは。この映画はもう博物館行きと言えるほど古いので内容をばらすが、一人の陪審員が他の陪審員が有罪と決めようとした事件を無罪にするまでの話である。

  映画評論は、オーディオ評論家や自動車評論家と違って、ちょうちん記事が少ない。当時は、知性の高い評論家が大勢、映画界にはいた。その一人が、筋は綿密にかつ齟齬もない、H.フォンダと最後まで有罪を主張していた役者のやりとりも上手に仕上げられ映画としては見事であると、この映画を評した。それに続けて、この評決で無罪となった容疑者が本当に無実なのかどうかは、わからないままであると述べていた。これは、単なる映画評論家ではない、すばらしい見識を持った人物である。

  若い時に観た映画の筋は覚えていても、その評論は、他に何も覚えていない。これだけは、半世紀過ぎた今でも、はっきり覚えている。

  有罪か無実か。明々白々である場合もあれば、闇の中を手探りしなければわからない場合もある。後者であれば、言葉巧みな一人の人間により、無実も有罪に、犯罪も無罪になる事が十分ある。その映画は次のブログで紹介する。

  今、日本は、司法界までもアメリカの真似をするまでに成り下がり、平凡な生活を送っている我々市民を巻き添えにしようとしている。私は、どんな処罰を受けようとも、裁判員になるつもりはないが、素直で善良な同胞が、巻き添えになると思っただけで、この裁判員制度に怒りが込み上げてくる。こんな制度に反対しなかった国会議員は社会の反面教師である。


老後は心配無用 その四 公的年金

  老後は心配無用と先週書き連ねた。これは、公的年金が確かに支給されるという前提があっての話である。公的年金が、自分の番になった時、「実はありません」なんて役場から通知が来たら、目も当てられない。

  行制度は、掛けたチップが必ず倍になって戻ってくる政府公認のブラック・ジャックである。長生きすれば、5倍にも10倍にもなって戻ってくる。だから、資金が枯渇するのは当然である。それを、現役世代に負担させようとしているのだから、政府公認のネズミ講・マルチ商法であるとも言える。社会保険庁や天下り役人がおこぼれに与かっている姿も、ネズミ講であれば尤もな話である。

  いかなるネズミ講も、火星人でも勧誘しない限り、地球上の人間がすべて加入した時点で破綻する。時間の問題である。現行年金も同じ性格である。頭脳明晰な厚生省役人が、成立時点で分かっていないはずはない。破綻が数十年先に必ずやってくることも承知していた。しかし、その時は、自分は退官して、どこかに天下りしているから、まったく問題にしなかった。彼にとって時間軸が入っている問題は、己の身がその軸から外れさえすれば問題ではないということだ。とぼけるための言い訳は、マス・コミと共同作戦して作った“少子高齢化社会の到来”である。

  戦後ではなくなったと政府が言った年から、少子高齢化社会が来ることは分っていたのに、今になって騒ぐのは、いつに厚生省役人の悪智恵によるものだ。先進国に仲間入りすれば、出産数は減り、寿命は長くなる。“多子低歳化社会”がどういう国かを考えれば、すぐにわかる、当たり前のことだ。

  公的年金制度の抜本的見直しをする気があるなら、是非、私の提案を採用すべきである。高級官僚がつけいる隙を残さないためにも。

  付:
  昨年7月22日のブログを再掲した。老後の心配無用には、公的年金に対する私の考えを、新規訪問者の方々(複数にしてありますが、実際には一人もいなかったりして・・・)に知ってもらいたいためである。

  『公的年金 上限設定の正しさ』

  歳をとってからの1万円は働き盛りの10万円以上にありがたい。67歳の私の実感である。なら、100万円手元にあれば、ありがたみが100倍あるかと問われると、否である。

 公的年金の支給額は、生活保護費と同額でいい。この生活保護費の算定は地域の事情を考慮したもので、基本的な生命維持と社会参加が保障される額となっている。

 個人差がある必要はない。そもそも、払う段階で期間と金額の二本立てが間違っている。一括して払いたい者はそうすればいいし、分割で払いたい者が年なり月単位で払い込んでいけばいい。高額所得者も、定額所得者も、払い込む総額は同一である。

 六十歳から六十五歳までは、本人に別途収入があるなしに関係なく全額支給する。六十五歳からは、所得分を差し引いて支給する。例えばであるが,合理的であろう。

 老後は夫婦で世界一周の旅に出たい、毎年、どこか海外旅行したい、日本の温泉巡りを楽しみたい、銀座でうまいフランス料理を食いたい、クルーザーを持ちたい、病気をしたら最高の治療を受けたい、意識があろうがなかろうか、とにかく長生きだけはしたい、等々、老後の夢は一人一人違う。それは、公的年金の埒外である。価値観の違いから生じる費用をまかなうための年金は、保険会社と個々に契約すればいい。保険会社が信用できなければ、個人で貯金しておくことだ。

 かくも年金制度が複雑であり混乱をもたらした原因は、ひとえに、ひまな厚生省の高級役人が、己の存在感を示す必要にかられたからである。高度な処理能力を必要としなければならない電算システムの導入過程も官業癒着のにおいがする。天下り先の確保が考慮に入れられているのは、言うまでもない。

 今、守護神のようにもてはやされている社会労務士などという専門家がいなければならないこと自体がいかに現行の、また、安倍が改革したと自負する年金制度がでたらめかを象徴している。社会保険庁の解体は事の本質を糊塗するに過ぎぬ。

 繰り返して言う。年収3000万の所得者がその収入に応じた高い年金保険料を収める必要はない。もし彼が豪華客船による世界一周旅行を老後に計画しているとすれば、それは公的年金によるべきではない。 

 公的年金は、現役時代の地位、所得に関係なく、生活保護費と同額にすべきである。複雑な手続きや管理はいらない。通帳ひとつで事足りる。少子高齢化のお題目も、効き目がなくなる。公明正大な公的年金であることから、若年層支持はまちがいなく受ける。上限設定は正しい施策である。 

「国家」というもの erliuzi氏の寄稿

  「老後」というのはヘンなことばです。お役人のつくった「後期高齢者」なんてのもそうで、「高貴高齢者」ぐらいに言い換えてほしいものです。

  この話題はツライので「日米安保」。

  ニクソン訪中を準備した周恩来とキッシンジャーの会談録をみると双方がいかに日本を意識していたか、よくわかります。そこからすぐ出てくるのが小国寡民氏も内容を指摘している「ビンのふた」論です。だから、在日米軍は、一朝ことあった時、そのまま日本鎮圧軍になることでしょう。

  あ〃それなのに、それなのに、「思いやり予算」までつけてやる人の好さ。個人レベルでは「人の好さ」はいいのですが、国家関係では「バカ丸出し」。このテーマ、再論します。

老後は心配無用 その三 未練を残すべからず

  私は、少し前のブログで告白したように、その時に当然済ませておかなければならなかっとことを、放っておいたため、後で相当ひどい目に遭った。“後悔先に立たず”という諺位は知っていたが、知っていても、そうできなかったのが、凡人以下の人間、即ち私である。

  年金暮らしは、限られた金額で生活をすることになる。目減りは、この国の政治家と官僚を民衆が温存させている限り、これからも続いていく。

  そこで、これから老後を考えようとしている人に老婆心ながら、申し上げる。それは、現役時代に、金のかかる楽しみを、納得いくまで、正確を期せば、"もう飽きた。沢山だ”と公言できるまで、し尽くすことである。

  外国旅行をしたい。ならば、働いたらその分だけ収入が増える現役時代に済ませる。21年もののシバス・リーガルが飲みたい、椿山荘の懐石料理、銀座のフランス料理、結構。BMWもジャガーも良い。駐車料だけで私の年金の1か月分が消えるような高層マンションのペントハウスでナポレオンを飲みながら、都会の夜景を楽しむ、bon!

  私は、自分の年金額を早くから知っていたし、同じ大尽なら金より時でなりたいと思っていたので、上に挙げたような未練はなかった。しかし、一つだけ、最近、ぶり返してきた。それは、音楽会である。生演奏である。昼も夜も、近所迷惑にならずオーディオを大音響で楽しんできたが、やはり、生演奏を聴いたあとの、帰りの電車の中で、耳に残って聞こえるバイオリンやピアノの音(ね)を反芻する快感は、得られない。

  私には都会と現役生活は同体である。未練を残すなと言っていながら、なお、私はすべてに未練がないと胸を張って言い切れない。私の外面(そとづら)と内面(うちづら)の矛盾の最たる物である。

  付:
  都会への未練を扱った映画は、ジャン・ギャバン主演の「望郷」が出色である。私は彼のパリに対する望郷の念ほど東京には抱かない。もっとも、死ぬまで、この島から出てはならぬと、石巻警察の刑事に宣告されたら、どうかわからないが。

老後は心配無用 その二 田舎暮らし

  現役時代に比べ、収入は四分の一に減った。私は、初めから承知の上で、自分の意志でそうしたのだから、減ったことになんの不満もない。

  年金支給開始の六十歳の時に至って、目の当たりにした政治(助成金・補助金漬けの田舎政治)が全国津々浦々でなされているのだから、二割の目減りは覚悟しなければなるまいと、覚悟を覚悟した。今、税や何やら年金からの天引きが大きくなり、その通りになっている。

  それでも、今、私は私の生活に金銭的な苦痛を感じていない。

    一. 埴生の宿ではあるが、自分の家を持っている。固定資産税は1万5千円位。調べるのが面倒だから位としているが、2万は超えていない。地目山林の1000坪を含めてである。

    二. 軽貨物車と50ccバイクを所有していても、自分の敷地300坪の中に停めるので、駐車場に金がかからない。

    三. 準漁業組合員のため、小型漁船1艘に、ヨット・ハーバーでかかるような繋留費がいらない。年2,500円だったか。

    四. 衣装代は、すぐ穴が開く中国製の長靴と冬の厚手の靴下だけである。背広・ネクタイ・革靴は、使わない。

    五. 床屋は2カ月に一度、1,500円のチェーン店。昔の5,000円がうそのよう。それでも、床屋にすれば、私は割のいい客であるはずだ。

    六. 1万円以上する新品の家電製品は買わない。ネット・オークションで十分である。現に、このパソコンは、送料込みで5,000円していない。十分、働いてくれている。壊れたら、修理にださない。修理代で、2台買い換えることができるからだ。ビデオ・カメラは要らない。撮影しても、自分も観なければ他人も観ないからである。 
  
    七. 本は買わない。市営の図書館で足りる。新刊で私を感激させるような本はないからでもある。たとえあるとしても、1,000冊に1冊あるかないか。そのために、千冊を買うことはない。

   八. 酒は自家製ドブロクである。アルコール度は1%か2%位だから、“酒は微酔”の風流を地で行っている。残り酒を種にして壷に仕込むと、数日は飲めないから、自然休肝日が得られる。美食は、食べ物に頼らず、体に頼る。すなわち、ヤギや犬と一緒になって私の歳相応に体を動かした後では、生協の3個100円の納豆がグルメとなるのである。

   九. 海外旅行は言わずもがな、国内温泉旅行はご法度である。島に住んだら、島から出ないことである。山に住んだら、ヨット遊びはしないことである。

    十. 新聞は取らない。貧乏老人が、新車の全面広告を見てもしかたがない。

    十一. NHKの受信料は払わない。これは、老後の前から、私の信念である。今は、映らないので、おあいこだ。

  その他、すぐには思いつかないこともあるはずだ。とにかく、金は必要と思えば必要であり、十分であると思えば十分である。これは、寿命とそっくりである。また、田舎のバカ知事連がわめいている道路整備とも似ている。

  老後は、“あるに任せよ、なすに任せよ”、これを金科玉条にして、毎朝、三唱すれば、なんの憂いがあろうぞ。

老後は心配無用 その一 年金暮らし

  年金暮らしは確定申告をしなければならない。宮仕えの時は、天引きを兼ねて、総務か経理がすべて代わりにやってくれた。残った分が銀行振込となったから、天引きの内訳を詳しく知ろうという気にはならなかった。

  都会の年金暮らしの場合はどうなっているのかわからないが、ここ私の住んでいる島は、役場がわざわざ島に来てくれ会社の総務を代行してくれている。すなわち、収入と支出の証明書をまとめて指定の日に持っていけば、すべて計算してくれるのだ。

  隠居する時はしっかり六十歳からの年金額を確かめたが、当たり前になってきてからは、3月に行われる確定申告しか、自分の年金額を見る機会はない。

  私の年金額は夫婦それぞれ受け取るとして宮城の生活保護基準とほぼ同額である。生活保護世帯が健康保険税の免除や、他にいろいろな特典が与えられているのに対し、私の場合は、それがない。それほど、私の収入は低いと断っておく。

  昔はやったフォーク・ソング“七つの水仙”の通りだから、貸しマンションの家賃は入ってこない。「ぜひとも"カミさんから尊敬される十の秘訣”で一冊の本を」と私に声を掛けてくれたおおらかな出版社が一社もなかったので、印税もない。アワビやウニを採って漁協に持っていけば、現金収入になるが、高校、大学と通っても、採り方は教わらなかった。それで、いつも組合の通帳は常にゼロだ。要するに、私は純粋に年金に頼っている老人である。

  テレビを観ると(映っていた時の話だが、何年も前のことではない)、今が老後である人間も、数十年先に老後となる人間も、競って、「老後が心配です」とカメラに向かって語っている。「老後は老後でなんとかなるさ」と答えた人間は、大勢いるはずなのに、編集で没となる。

  私は、敢えて言う。そんな風評にまどわされるなと、そして、老後は心配するな、と。

宇宙ステーション  天上に架ける夢より地上の楽園を

  連日、スペース・シャトルのニュースが流れている。大成功とのことで、搭乗員は英雄扱いだ。

  最初、大気圏外へ人間を打ち上げたのは、ソ連だった。ガガーリンが英雄として凱旋し、一方のアメリカはじたんだを踏んで遅れを悔しがったことを覚えている。ソ連の意図は明白で、国威発揚である。アメリカのじたんだも明白で、国威失墜である。もともと、大気圏外に人間を送らなければならない理由など、こと市民生活に関しては無かったのだ。

  今もそれは変わらない。宇宙に人間を飛ばしている国は、すべて大国、はっきり言えば、国民を幸せにできない、また、ロケットでも打ち上げなければ自慢の種のない三流俗国だけである。

  ロケット1本を飛ばすためには、数十億円の金が必要だろう。頭のいい科学者も何人も給料を払わなければなるまい。宇宙会社に十分な儲けも用意しなければなるまい。

  無重力の中で何が作られても、大量生産することになれば、すべて、宇宙に運ばなければならない。そんな合金か生物かしらないが、あってなんになろう。実験の成功で喜ぶのは、国民の閉塞感を希釈する意図を持った為政者と実験に携わっている技術者だけである。

  昨日のニュースで、宮城県では、ある公営病院の累積赤字がひどく、破産を避けるために、医師・看護士・ほか職員の削減を余儀なくされているようだ。宮城に限らず、多くの県でも同様な悩みを抱えて、病院のベッド数を減少させているとのこと。この問題が一筋縄で解決できないことは、以前のブログに書いた。しかし、根本の解決は別として、1億円があれば1億円分の、10億円あれば10億円分の削減・縮小回避が間違いなくできるのだ。

  ロケットを天空に打ち上げるのは少年の夢であっていい。その夢を忘れない大人が宇宙に飛び出すのもいい。しかし、こういう夢は、自腹を切ってやってもらいたい。

  福田首相が宇宙飛行士と交信したとことがニュースとなった。落ち目の彼にとっては、たいへん結構なイベントであるだろうが、国庫から出ている金でイベントをやってもらっては、地上の民が救われない。天に舞うのも結構だが、足を地につけ、自国を楽園にしてからの話でなければならない。

  病に伏している女房や老婆をほっぽって、両国の花火大会の夜、天を見上げるために、隅田川に屋形船を浮かべるバカオヤジはいまい。

戦争の音 番外その二  日米安保条約

  将棋のプロに加藤一二三九段がおられる。私と同じ1940年生まれである。生まれた年が同じだけで、彼は15歳にして、天才と世間から注目され、一方の私の15歳は、先輩からデッキブラシで頭を叩かれ叩かれ、汚い水のプールを黙々と(当たり前です)往復していた。

  彼は、対局中に、他の棋士がしない行動をとる。囲碁・将棋をまったく知らない日本人でも、盤をはさんで向かい合って試合を進めることぐらいはわかっているだろう。自分の席と相手の席は、対局中に入れ替わることは絶対にない。それを、やってのけるのが加藤九段である。さすがに、相手が座っている時には遠慮しているが、相手が席を外している間に、相手の側に移り、そこから、盤を眺めるのである。プロなら誰でも、盤面など見なくても、すべて頭で動かせるし、形勢判断もできる。それでも、相手の側に立つということは、意味のある行為のようである。

  あまり真似をするのが好きでない私も、これは一度、何かで試してみたいと考えていた。その材料が太平洋戦争である。

  アメリカより先に日本が原爆の開発に成功し、どこかの外国船籍に積み込み、ニューヨーク、マイアミ、サン・フランシスコ、ロス・アンゼルスに原爆を爆発させたとする。真珠湾攻撃前にすでに開発済みであり、開戦と同時に空爆したと仮定すれば、なおわかりやすい。

  アメリカは降伏する。アメリカの海軍や空軍がいくら勇猛であっても、国内の都市を次々に廃墟にされれば、戦争を止めないわけにはいかない。時の大統領が、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と降伏宣言を述べる。

  日本軍はアメリカ本土に駐留する。武装解除を完璧にして、二度と戦争はしませんと合衆国憲法を改定させる。しばらくして、アメリカを独立国と認める。

  この時である。日本軍は、アメリカからすべて撤退するだろうか。否である。主要な都市と港には、日本軍を駐留させて、アメリカの動向を見張っていくに決まっている。なぜなら、アメリカを自由にさせたら、いつ原爆の怨みから報復の準備をされるかわからないからである。何十万という無垢のアメリカ人が殺戮されたままで、アメリカ人が黙っているわけがないことを考えれば、当然の理由である。

  ここから、現実の世界に戻る。日米安保条約は、共産主義の浸透に対抗するものとして、成立したことになっている。共産主義の脅威は既に消えている。今も存続しているではないかと、朝鮮を引き合いにだすのは、アメリカにとってキューバがそうだというのと等しく論理の飛躍・暴論である。

  共産主義の脅威がなくなっても、アメリカにとっては、日本の報復がきがかりなのである。どんなに親密な関係であっても、国と国の関係など、いつ敵対関係に変わるかわかったものではない。人と人も同じであるが、話をそらさないで進める。

  日米安保条約は、形式的には、軍事同盟であるが、実質的には、原爆と焼夷弾を投下したアメリカの日本監視である。中国・台湾解決、朝鮮統一、北方四島、竹島、尖閣諸島、日本を取り巻くすべての国際問題が(日本国およびアメリカ合衆国の許容の範囲において)円満に解決されたとしても、アメリカは、日米安保を存続させていく。アメリカ兵の撤兵とアメリカの基地を返還することは絶対にない。

  もう一つの絶対は、日本の原爆開発をアメリカが許さないことである。これは朝鮮、イランに対する警戒の比ではない。日本がアメリカの1州となっても、これだけはジャパン州に許さない。いつ日本民族が謀反を起すか分らないからだ。

  日本の政府は、アメリカのご機嫌取りにやっきとなって、核不拡散のPRに熱心であるが、アメリカは、心からは信用していない。AMKや民間新聞社がこぞって、アメリカは日本の最大かつ最高のパートナーと崇めても、信用されることはない。だいたい日本人がウソつきであることは、日本の外務省が幾度となく世界に公表していることなのだ。

  私は、日米安保条約は、かつてのローマ帝国やモンゴル帝国のようにアメリカ合衆国が瓦解するまで、なくならないと無念であるが諦めている。だからと言って、アメリカに対して尾っぽを振り、なにがしかのご利益にありつこうというつもりはないから、ご心配なく。

  かすかな望みであるが、親の敵である日米安保条約を解消する有能な政治家が向こう10年までに出てくると保証されれば、ボケ老人なろうが寝たきり老人になろうが、それまで生き延びて、なんとしてでも見届けたいと思っている。

戦争の音 番外その一 民間人の殺傷

  アメリカ軍の原爆と焼夷弾は、戦争当事者の日本から見ても、正当化されるものではない。

  空襲は、ドイツのドレスデンにもイギリスによって行われたことを、先日知った。空爆に参加した元パイロットが、その命令を受けた時の強い苦悩を告白していた。結局、命令に従って空爆に参加したのだが、私は、彼の苦悩を半分以上も信じない。ロンドン市もドイツから空襲を受けていたからである。まあ、一人の軍人の告白はどうでもいい。軍事施設でない所を空襲したという事実で十分である。

  ホロコースト、南京虐殺、兵士でない人間を殺したことの罪は歴史から消えることはない。アメリカは、アメリカ合衆国が存在する限り、原爆と焼夷弾による民間人殺戮の罪を背負っていくことになる。

  戦争や争いは、これからも絶えることはない。昔の戦争は、音が伴っていた。初めは、殺される人間の断末魔の叫び、中世では、大砲の音、近代になっては、戦車の音、爆撃機の音。今は、まるでテレビゲームでも遊んでいるように、無音で殺傷する。おぞましいことだ。

  大量破壊兵器はイラクや他の中小企業国家にあるのではない。大国と称されている国にある。大量破壊兵器を保有している国は、どんなに科学・技術を誇っても、どんなに文化・生活水準を自慢しても、野蛮な劣等国である。まともに付き合える相手ではないことを、肝に銘じておくことだ。

戦争と音  その三 ざわわ ざわわ

  防空頭巾をかぶって、防空壕にうずくまったこと自体は、私には特別の思いはない。工場跡地や洞穴や材木置き場の蔭など、かくれんぼの遊びでどこにでも隠れる所があった。サイレンの音、B29の音、この二つを防空壕で聞いていたから、今でも、防空壕を覚えているのである。

  それで、いつも思うのが、NHKのみんなの歌で知った、“ざわわ ざわわ”である。私の身内から戦争の犠牲者は出なかったから、戦争の音は単に嫌な思い出で済むが、あの“ざわわ”は父をさとうきび畑で失った子供の歌である。

  沖縄は今もさとうきびを作っていることだろう。そこに立てば、さとうきびの葉のこすれる音が聞こえてくる。その度に、父を思い出すことになるのだから、部外者の想像がつかないほど、悲しいにちがいない。

  襲ったのは、自衛隊と同じ殺傷を仕事とする職業軍人である。襲われたのは、民間人である。子供の頃、家でさとうきびを作っていた。よく似ているトウモロコシの葉が風で震える音を聞くたびに、今も、あの“ざわわ、ざわわ”の歌を思い出し、やるかたない憤りを軍人に覚える。

  自衛隊が武器を持って海外に出れば、いつかは、“ざわわ ざわわ”が繰り返される。私の海外派兵反対論は、国際関係云々によらぬ、強いて言えば、こういう小さな歌によりゆるぎないものとなっている。

 付:
  NHKもこんなにいい歌があったのかと感激し、早速秋葉原に行き、「NHKみんなの歌」のLPを買ってきた。家で勇んで聴くと、“ざわわ”の他は、どれもこれも軽薄なものばかり。それでも、この沖縄の歌一曲だけでLP一枚の価値は十分にあった。



戦争の音 その二 プロペラ機とジェット機

  甲子園とは関係ないが、音の記憶の連想ということでもう一度B29を取り上げる。

  見たものの記憶と聞いたものの記憶の違いを、私は深く考えたことはない。人間は視覚が発達した分だけ聴覚が劣化したのではないかと、私は疑っている。襲われる一方のヤギは外敵から身を守るために、大きな耳を持っている。犬や猫は襲う獲物の存在を知るために大きな耳を持っている。それに比べると、人間の耳などお粗末なものだ。襲う事も襲われる事も普通に生きていく限り生涯にあるかないかのことだから当然のことだろう。

  さて、サイレンの後に来るのが、B29の重低音である。初めは極々小さな音である。それが、ボレロと同様なスタイル、すなわち、単調でかつ高音域を排除したスタイルで、次第に大きくなってくる。これは、本当に恐かった。サイレンが鳴って、防空壕に入ったら、暗闇の中、すべての神経は音に集中する。必ず来れば、まだ救われる(本当は救われない)が、“待てど暮らせど来ぬB29を”がしばしば繰り返されるのである。空襲警報解除がでるまではじっと我慢の子でいなければならない。

  B29はプロペラ機である。大人になって、飛行機に乗る機会が多くなっても、ジェット機だから、B29を思い出すことはなかった。しかし、南米だったと思うが、まだプロペラ機が飛んでいる所があった。ジェット機のキーンという音とはまったく違った、ブ~ンが聞こえてきた時には、一瞬、恐怖にかられた。これは、いつものホラではない。飛行場の待合室で、5歳の私に戻ってしまった。

  私は、プロペラで助かった。イラクやアフガニスタンの子供たちは、アメリカ空軍のジェット機に脅かされて育っている。たとえ爆弾が投下されなくても、そのジェット機の音が遠くから迫ってきて、通り過ぎるだけでもだ。ジェット機が、別のエンジン機に替わらない限り、生涯、トラウマ(最近知った言葉)として心に残ることだろう。

  アメリカ政府に告ぐ、自国の子供を大事にするのなら、他国の子供も大事にせよ、そうしないと、人道主義を標榜する資格がないぞ。

戦争の音 その一 甲子園のサイレン

  夏の甲子園は戦争体験の特集番組の放送・放映と時期が重なりあっている。恒例行事のようなものである。私にとっては、春の甲子園も戦争の記憶を呼び戻す恒例行事の一つである。

  戦争に愉快な思い出がある人はまずいまい。その一人として私は、気分が晴れやかになりかけたこの春の季節に、毎年、春の甲子園で気分が落ち込んでしまう。あのサイレンのためである。

  私が小学校に入る前だから、もう60年以上も前のことである。東京とは名ばかり、四国の山奥の田舎より田舎であった葛飾の上空にもB29が飛んできた。田んぼと畑と林と小川ばかりだから、いくら物資が豊富とはいえ、アメリカ軍は人や生き物を殺せない場所に焼夷弾は落とさない。しかし、通路となっていたようで、敗戦間近な時、それは私が記憶できる歳になった頃と合致するのであるが、年中、防空壕にもぐらなければならなかった。

  その予告があのサイレンの音なのである。“う~う~”と鳴ると、何をさておいても、防空壕に駆け込んだ。

  東京は50Hz、甲子園のある関西は60Hz。恐らく甲子園のサイレンの音は当時より少し音程が高いはず。だが、私の耳には、同じように聞こえる。

  多分、甲子園のサイレンが無くても、忘れることはなかったと思うが、年2回、毎年、あれを聞かされれば、いやおうなく、脳のメモリがリフレッシュされ、あの戦争が60年前の出来事とは思えなくなってしまう。この分では、死ぬまで忘れられない、いやな思い出である。

  付:
  焼夷弾が一つだけ付近に落ちた。大人の話であるが、狙って落としたのではなく、バカなB29が間違って落としたのだという。沼地に落ちたので、不発でそのまま底に沈んだ。そこは「爆弾池」と呼ばれ、近づくのは、大人からきつく禁じられていた。私たち子供は、魚が沢山いることを知っていたが、誰も近づく者はいなかった。

山桜 あれは 雲だと多数決 erliuzi氏の寄稿

     山桜 あれは 雲だと多数決

  のっけから川柳などを引いて済みません。でも良くできた一首です。選挙民の愚かさを嘆く(なじる)小国寡民氏の一文のタイトルにしてもいいぐらいです。

  石原知事は大言壮語にも関わらず新銀行問題で追い込まれましたが、最後の一手「居直り」で頑張っています。一票を投じた有権者の多くもあきれていることでしょう。

  選挙民の資質という点では、政治的にはるかに揉まれて(洗練された)韓国や台湾の人たちがすぐれています。

  小泉政権の発足時世論調査で80%台の支持率となりましたが、参院選での与党大敗はそのシッペ返しでした。

  新銀行問題では税金からまた400億円もの巨費を投じることになりそうです。

  いつどこでそのシッペ返しをするか、22日投票の台湾総統選挙を見ながら考えるつもりです。

大学入試センター試験 倫理

  昨年から始めたこのブログで何回か倫理に係わるテーマを取り上げた手前、いつか世間の倫理に対する考えを知ろうと思っていました。

  例年通り、センター試験で英語、中国語とリストをたどっていくと、運良く倫理がありましたから、開くことにしました。問題が面白ければ、試験を受けてもいいとも思いました。

  でも、プリント・アウトした第1ページを読んだだけで、匙を投げることにしました。

  以下の言葉や人名は問題の中にでてきたものです。

     自我同一性
     シュプランガー
     レヴィン
     境界人
     五蘊
     藤原惺窩
     植村正久
     ベルクソン
     ホイジンガ
     自由の刑

  いかがでしょうか。上の10個のうち、いくつ知っていますか。私は、一つも知りません。最後の“自由の刑”はサルトルの有名な言葉とありまして、知らない私を小バカにしているようです。でも、これらを知っていることと、倫理となんの関係があるのでしょうか。

  一流企業で偉くなる人や国家試験を合格して官僚になったり裁判官になったりする人は、十人中十人が、全部を知っていると思います。もちろん、この入試センター程度の倫理試験では満点をとることでしょう。

  島の中には私と同様、一つも知らない人がほとんどであると思います。しかし、彼らの行動は、一部のエリート官僚や最高裁判事などよりはるかに倫理的に優れています。

  満点を取ったからといって、倫理的であるともいえないし、倫理的でないともいえない、零点を取ったとしても同じ事がいえます。

  私は思います、そもそも倫理は点数を競う試験になじまないのではないかと、また、知識と行動とは、別物ではないかと。

  倫理でいいものを、倫理学に仕立ててしまう事に誤りがあるのです。知識人はなんにでも学をつけたがります。倫理学のほかに、神学がいい例です。イエスの言葉はそれほどないのに、膨大な学問体系を後世のヒマ人がつくりあげ、やたらに難しくして、“知らざるもの、神に近づくあたわざる”としてしまっています。仏教も同列です。スッパニパーダで必要かつ十分であるものを、三蔵法師でしたか、膨大な経典を持ち帰り、それを、後世のヒマ人があれこれ注釈をつけて、難しくしてしまいました。

  人間の行動なんかくどい学説などに依らず、シンプルな規範に依ればいいのです。聖人君子ぶった識者が倫理、倫理と青少年に押し付ける無意味さを、この試験問題は正直に語ってくています。




Noと言える日本、Noと言えない東京 (その二)

  石原都知事も都知事なら、対抗馬も対抗馬だった。前回の選挙で、元宮城県知事が立候補したことをさす。

  宮城県で続けようと思えば、続けられたはずなのに、どんな心境からかは窺えないが、自発的に降りて、しばらくしてから、東京の知事になりたいと立ったのである。自発的行為であろうが、それとも民主党に請われたのかは、どうでもいい。愚かなことだった。目くそ鼻くそである。目くそは石原に投じた都民、鼻くそは、民主党である。

  この民主党が、銀行設立に賛成し、その反省もものかは、破綻の分析資料を公表しない側に立っているという。自民、公明とグルになって、追加の400億円かを都税でまかない、それで問題をうやむやにしようということだ。共産党が孤軍奮闘しているようだが、石原都知事に、「くやしかったら多数党になりな」と、一蹴された。

  私は、こんな発言をする人間を知事にした(日本最高位の都市の)民の愚かさに、民主主義の廃頽を見た。また、かつての大政翼賛が一部資本家や軍の暴走からでないことを、改めて確認することができた。

  地方自治は万能薬どころか、風邪薬というラベルを貼った砂糖水である。もっとも、あの石原都知事ときたら、唐辛子とドクダミをふんだんに入れた塩水という方がふさわしいが。

  制度は器。中味の人間が、四国の山奥のサル並みであったら、百万都市であろうが一千万都市であろうが、そこの知事はお山の大将だ。どこに尊敬の念を抱かせるものがあるというのか。

Noと言える日本、Noと言えない東京 (その一)

  ふる里は遠きにありて思うもの。東京都が運営している銀行が、大赤字となったという。ニュースを聴いていると、もうバカバカしさを通り越して、バカそのものである。

  普通の銀行が貸さない相手は、借金しても返せない相手である。少なくとも、何がしかの利息を期待できない相手である。銀行は、人様の金を預かって、それを使うのだから、貸してコゲたら、人様に、自分の金を返さなければならない。真剣に相手を見るのは当然である。借りにきた相手に、笑顔で丁寧な応対はするかもしれないが、別れた瞬間に笑顔は消えて、鬼のような形相で、審査に入る。

  都の銀行は、貸す金は徴収した都税である。税であるから、返さなくてもいい。返さなくてもいい金だから、貸した相手が「返せません」と言えば、「困ったもんだ」で済んでしまう。それに、貸した相手というものが、普通の銀行から融資を断られたカスばかりというのだから、貸す方も借りる方も、まったくいい加減な態度で通してきた。不真面目そのものである。

  都庁は頭の切れる者から箸にも棒にもならない者まで揃っているだろう。後者に属する職員でさえ、こんな銀行が破綻する事ぐらい分っていたはずである。退庁後、赤提灯で一杯やりながら、職員同士で語り合っていたことだろう。

  破綻の責任は、石原都知事にある。石原のような独尊と自大を自家交配したような人物に、面と向かって、「知事、これは失敗しますよ」と言うような職員が都庁で勤続(続ですよ)しているわけが無い。何事にも臆病な公務員に勇気を求めるのは無理な話だ。これは、国家も地方も違いはない。

  昔、「Noと言える日本」がベストセラーになった。その著者が、今、Noと言わせない東京を作り、都政を独裁している。

  石原に投票した都民は自業自得だからかまわない。哀れなのは、石原に反対してきた都民である。小粒の知事で悩んでいる宮城県民の一人から、大粒の知事で悩んでいる東京都民に、心から同情申し上げる。


チベット (その二)  中国国営テレビと日本放送協会

  ラサでチベット人と漢人が衝突した報道で、中国国営テレビを、100%信じる日本人は、恐らくいないと思う。国営だから、国家の好ましい方向に国内世論を誘導するのが当然であることを知っているからだ。

  これは、かの国が共産党一党独裁である故ではない。どこの国でも、国家権力とはそういうものなのである。

  私は、日本も例外ではない事を繰り返し言っておきたい。ふだんは、ふるさと自慢や温泉めぐり、全国民謡に始まり、各種教養番組、スポーツから、数十年前のつまらないアメリカの戦争映画や家庭映画までバラエティーに富んではいても、いざとなれば、今の中国国営テレビと同じ態度にでるのだ。

  仮に、北海道のアイヌ民族が、北海道共和国を宣言したらどうなるか、沖縄で、琉球王国を復活させると宣言したら、どうなるか。陸上自衛隊が出動して、死者が多数出たとしても、日本放送協会のテレビは、治安維持、暴徒鎮圧の名で日本政府の正当性のみを報道するに決まっている。

  今、日本国民は、中国国営テレビのチベットの報道に不信を抱いている。だが、NHKも同じ体質であることには、気づいていない日本国民もいる。国営の危険を再確認するのにいい機会だ、中国の報道を“他山の石とする”ことをお勧めする。

チベット (その一) 国際協力と内政不干渉

  初めて北京に行ったのは、25年以上も前。その時に、市井の漢人が、チベットは僧侶が独裁していて、民衆は奴隷同然だ、だから、我々漢人が救わなければいけない、と私の「なぜ、民族独立の盟主である中国がチベットを独立させないのか」の問に答えてくれた。当時の中国は、今では想像がつかないほど、均一化されていた。中国共産党の威光が燦然と輝いていたので、漢人の誰に聞いても、同じ意見が返ってきたと思う。一党独裁の中国では言論の自由は存在していなかったから、当時の私からみれば、奴隷とまでは言わないが、かなりそれに近い国に見えた。何事にも一言も二言も言わなければ気がすまない私には、絶対に耐えられない国であったからだ。

  考えれば、彼の目でみたチベット、私の目から見た中国、いずれも、外野席から観戦しているうようなものであった。奴隷状態であっても、僧侶からありがたい仏の言葉を貰うことで、満足することもあろう。社会に不満をぶつける必要を感じないまま、毛沢東の建国英雄伝に中華人民としての誇りで心が満たされることもあろう。こういうことは、傍で推測するだけで、本当のことはよく分らないのである。傍はあくまでも傍であって、当事者が考えているだけの深さで考えることは不可能である。

  今、中国で、チベット人が漢人に向かって抵抗運動を市街で開始した。時の権力に力で向かえば、権力側も力で応じるのは、自然であるから、死傷者が出るのも自然である。

  中国国内の問題は、中国国内の人間に任せよ。それが、最も、妥当な対応である。日本政府は、一切、コメントを出さないことだ。アメリカがどう言おうが追随してはならない。

  争いに公平な正義は存在しない。正義と称して介入するのは、正義という美名で、国益を勘定にいれるからである。日本が他国の争いで利益を得るのは、過去の朝鮮戦争とベトナム戦争で沢山だ。

  日本は、チベット人が中国から逃げてきたら、食料・医療その他、戦闘にかかわらない分野で援助する、これが真(まこと)の“義を見てせざるは勇無きなり”である。

宮城県財政破綻 再生団体に転落も

  夕張市が財政再建で大変な思いをしていると聞いている。市民生活にさまざまな不便が生じていて、みんな我慢を強いられているそうな。よその市からの支援にも感謝しているとの報道もあった。

  大赤字。赤字は、入る分より出る分を大きくしたこと、財務諸表を読めない私でも分ることだ。それについては、なかなかニュースでは伝わらない。私が常々言っているように、自分の身の丈に合った生活、市だから行政か、をしていれば、絶対に赤字にならない。市は国と同じ感覚で、倒産がないから、銀行からどんどん借りる。同時に、倒産がない相手だから銀行も喜んで貸す。こうして身の程知らずの金で、地域住民にいい思いをさせ、市会議員もそれに便乗していい思いをして、にっちもさっちもいかなくなった。これが実情ではないか。

  夕張市が天災にみまわれ、道路、建物、家屋、田畑、工場、すべて壊滅状態に陥いり、その結果の赤字であれば、同情の余地はあろう。しかし、そうでなければ、甘い生活と甘い行政に浸った市民が、そのツケを払うのに、何の同情もいらない。

  振り返ってみれば、わが宮城県も、同じコースを走っているのではないか。前のブログに書いたように、採算が取れないのを承知してオリンピック選手が育ったというだけでスケート・リンクを再生したり、泳ぎもしないプールを冬でも温水にしておくような無駄を目の当たりにすると、他人事とは思えない。

  因果応報とはよく言ったものだ。身から出た錆びもいい言葉だ。我々県民が、自分だけはいい思いをしようと行政に金をせびると、ついには、自分の首を締めることになる。今日のニュースで、宮城県もこのままいけば、数年後に財政再建県になりかねないと知ったので、ブログにしてみた。

  注:
  夕張市の事情は、深く知りません。知らなくても書いたのは、大赤字であることだけは歴然としているからです。この事実の前には、あらゆる事情・言い訳が無意味であります。


最大の天下り その二 国会議員は大臣になれない制度を

   新しい職場に入ると、最初の1年は、修行である。2年目になって、ようやく自分なりの仕事ができる。3年目には、まるでそこで10年働いているような気分となる。転職を繰り返してきた私だから、自信をもって言える。

  ヒラ社員でさえ、そこの職場が分るまで1年かかる。これが1万人を有する会社の社長となったら、私では、千年かかっても、会社全体を把握できないだろう。私の10倍優秀な人物でも、10年はかかるのではないか。

  世の中には不思議な組織もあるもので、1万どころか1億の人間のトップに、いとも簡単に座る人間がいる。大臣である。その心臓の強さは、頭の良さに反比例するのではないかと疑うほどである。

  なぜなら、どこの省にせよ、民間企業のレベルとは比較にならない高度の責任が課せられていながら、10年はおろか1年の修行期間もなく、大臣になるからである。その厚顔に頭の悪さを私は見るわけである。

  国会答弁を一度でいいから聞いてみるといい。数ヶ月前になったばかりの大臣が、一人前の答弁をしている。野党議員もりっぱな質問をする。私は、これができるのは、すべて、官僚がお膳立てしているからと踏んでいる。言ってみれば、野党の質問も大臣の答弁も、みんな、官僚の代弁者、操り人形なのである。これで、エリート官僚に、国会議員を尊敬せよと命じても無理である。国会議員を選んだ国民の公僕に徹せよと論じても、馬耳東風である。

  国会議員で、一度でも大臣を経験すれば、生涯選挙に負けないという田舎は今や、四国の山奥にもあるまい。大臣になれないと分っていても、なお、国会議員になって、国政に参与しようとする人物こそ、国会議員の最低条件を満たす者である。

  行政のトップに大統領を置けばどうか。ダメである。日本の民衆は、選挙を芸能人の人気投票と錯覚している節がみられるからである。行政は地道な仕事である。東京、宮崎、大阪、どれをみても、テレビタレントで通用はしても行政のトップの資格者には程遠い。

  憲法改定があるのなら、是非、私こと小国寡民の提案を実現させてもらいたい。公務員の怠慢、解消疑いなし。

最大の天下り その一 大臣のポスト

  薬害、イージス艦事故、年金問題、道路財源の無駄使い、みんな、役人や元役人のからんだ国家的犯罪である。“的”を使ったのは、真の国家でないからで、“的”を省くとすれば、公務員犯罪といわねばならない。

  今、国会中継を聞いていると、不思議な問答が大臣と議員とで交わされている。大臣が一生懸命に役人の不祥事で言い訳をしていることである。大臣は、多くが、国会議員である。堂々と選挙で選ばれた国民の代表である。それが、なんで、怠慢公務員をかばうのか。

  福田首相、舛添大臣、冬柴大臣、石破大臣、みんな、内心、「なんでオレがかばわなければいけないのか」と思っているはずだ。彼らは、できることなら、質問席に座って、野党と一緒になって、官僚に文句を言いたいはずである。ごつい顔の冬柴大臣がおどおどして答弁するのを聞いていると、哀れを禁じえない。福田首相も、野党からネチネチ絞られ、救いようの無い官僚組織を恨んでいるはずだ。

  その原因は、すべて、大臣職の天下りにある。行政は役人に任せ、議会は、そのチェックに徹すればいい。大臣は、その省の最高位であるから、役人に渡す。無論、国家上級試験などというケッタイな試験は廃止してからの話であるが。その省の中で優れた人物が次第に上に登り、ついに大臣の座に就く。就いた以上、省内すべての責任を負うことになるが、下から上がってきた人物であるから、今のような他人事(ひとごと)仕事では終わらせる事はない。

  国会は、その大臣に対して、いろいろ注文をつけたり、確認をしたりすればいい。本当にダメなら、クビにしてもいい。三権分立とは名ばかり。能のない議員(行政に関してだが)が、全権を掌握している。

  責任と地位は表裏一体でなければならない。役人を次官というセカンド・ランクにおいておけば、責任だってセカンドにすませる。人間とはそういうものだ。


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