老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

政府系ファンド

  自民党の中で政府系ファンドの研究をするという。これはもう、自民党が狂ったとしか申し上げるしかない。

  聞けば、産油国や中国でやっているので、日本も負けていられないという、俗に言うバスに乗り遅れるな式の“危機感”によるものだそうだ。

  産油国のカネは天から降ったカネ、地からかわ湧いたカネ、言ってみればアブク銭である。投資に失敗してハコテンとなっても、彼らはまた駱駝に乗って行商すればいい。中国は、共産党が命令して共産党がやるのだから失敗しても、自分のお頭(つむ)を2~3回、「お馬鹿ちゃん」と言いながらポンポン叩いて済ませることができる。

  わが日本は、事情が違う。失敗すれば、年金基金や他に使い道のあるもろもろの予備費が減ってしまう。大都市で直下型地震でも起きたら、兆のカネが飛ぶ。いくら国が貯めておいても貯めすぎということはない。

  自民党が狂っているという私の根拠。

  一.投資は儲かることもあれば損することもある。中学生でもこれくらいのことは知っている。当たり前の事だが、大人は、えてして儲かることだけしか人に言わない。島にはパチンコファンが多いが、同じ心理で、損をしたことは、こちらから聞かない限り話さない。それで、陸に気晴らしに行って、パチンコをすれば、儲かって帰ってくるような印象を私にいだかせる。

  二.ファンド運営の担当者は、虚業の最高部類に属する。だから、まともな神経では務まらない。億の単位はナッツであろう。百億、千億の声で初めて、眠気が失せるのではないか。大学入試センターで満点を取るようなエリート官僚の出る幕ではない。といって、民間からスカウトすれば、年収は億単位となろう。出来高(運用益)次第で、報酬は、10億、20億と天井知らずだ。その反対となった時、前に払った10億円を返してくれとは言えない。損は、すべて、国庫負担である。御身安全第一のエリート官僚が、切った張ったのヤクザをどうコントロールできるというのか。ただ、ハラハラして傍観しているだけだ。まあ、ハラハラするのなら、良心的と言えるが、昨今の役所を見れば、ハラハラなどするわけがない。大損失が生じても、無論、管轄部署の役所も役人も責任は問われない。いつものように、国という名称が庇護してくれる。「当初、こうなるとは予想できませんでした。今回の損失を真摯(しんし)に受け止め、より一層の改善にとつめます」でしゃんしゃん。

  三.なによりいけないのが、アブク銭を儲けようという根性である。一家全員でせっせと働いて得たカネを、一家の主が、株につぎ込むようなもの。こんな家庭は、とても、まともな家庭とはいえない。隣りの家が株で大儲けして、株御殿を建てたとしても、決して羨ましく思ってはいけない。そんな御殿は、すぐ先に差し押さえと競売が控えているのだ。

  自民党が阿呆集団であることは分っていたが、ここまで狂っている議員がいることまでは、知らなんだ。つい先日、カネは農工商に任せ、志は政治家が持つものと、このブログで諭したばかりだ。八つ当たりと言われても、こんな研究を立ち上げる自民党議員に投票した選挙区の民のばか面が見たいものだ。

  私は、金利ゼロの信奉者である。投機でカネを増やそうなどと寝言をいう代議士は、早く議員宿舎に戻って、昼寝をしてもらいたい。

イージス艦事故 4. 行きと帰り

  私も、どこかの国の工作船かと、遠くから遊びにきた古い仲間からそのみすぼらしさを笑われたが、そのボロ船に乗れば船長である。

  海の恐さを知らない時は、“盲、蛇におじず”で、冬も、荒波を蹴って、しばしば、6キロほど先の本土に行ったものだ。その時を思い出すと、行きは、海上を四方八方見回しながら操舵する。何事にも落ち着きのない私が、この時に限っておっとり構えるようなことにはならない。金華山周辺の海域だから、年中大小さまざまな船が通る。それこそキョロキョロである。

  それが、帰りとなると、目視感覚がまったく違ったものになる。用が済んだのだから、後は、母港(とても小さいのだが、母港は母港だ)に帰るだけ。つい、周りの状態を疎かにしてしまう。疲れも影響しているかもしれない。2点間の最短距離は直線であると数学で習ったとおりの行動にでる。本当は、行きと同様に、周辺の状況をしっかり観察しなければいけないのだが、なかなかそれができない。

  操舵のプロである漁民の中には、私と同じ感覚を持つ人がいるのではないだろうか。どこに魚群がいるかわからない行きには、周囲に気を配るが、魚を獲り終わってから、母港に帰る段階となると、もう、一直線上しか目に入らないのではないか。帰途の数時間、疲労の極に達しているであろう時、行きと同じ緊張感を持続して海上周辺を見回すことはないのではないか。

  事故は、もう大丈夫と思った時におきやすい、と兼好法師も言っている。


    徒然草  第百九段

  高名の木のぼりといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼらせて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどはいふ事もなくて、下るる時に、軒長(のきたけ)ばかりになりて、「過ちすな。心して下りよ」と、言葉をかけ侍(はべ)りしを、「かばかりになりては、飛び降るともおりなん。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「其の事に候ふ、目くるめき、枝危ふきほどは、己(おのれ)が恐れ侍れば、申さず。過ちは、易き所になりて、必ず仕(つかまつ)る事に候ふ」といふ。

  あやしき下(げろう)なれども聖人の誡めにかなへり。鞠(まり)も、難き所を蹴出だしてのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。

   ~

イージス艦事故 3. 大臣の責任

  野党がまた、大臣更迭を要求している。ナンセンスである。石破大臣を腹話術師の顔と揶揄した私だが、更迭には、反対である。反対の理由は無意味であるばかりか、防衛省の役人根性を助長しかねないからである。

  大臣の失言で大臣の地位を失う。失言するような国会議員を大臣にするような首相も連座して当然と思うが、そこまでしつこくしなくとも、「身から出た錆び」だ、失言大臣がクビになるのは当たり前である。

  だが、今回のような事故の責任で、大臣が罷免されるとなれば、大臣のなり手がいなくなる。大臣になってもいつ罷免されるかわからない、これではおちおち大臣でいられない。

  エリート官僚の不祥事を未然に防ぐことは、大臣の手に負える代物ではない。総理大臣でさえできない。もちろん、今クビを求めている野党の中、誰が、「それなら私に任せてください」と言えるか。一度でも、官僚の立場にたって、今の大臣を眺めてみるといい。

  親の敵どころか曽祖父の代からの敵のような二世、三世議員が代議士先生となっているのだ。群馬がいい例だ。小渕首相が倒れたら、その娘が国会議員に当選してしまう。群馬にはまともな政治家がまるで一人もいないようだった。群馬に限らず、日本全土に言えることだ。門閥を頼りに一介のサラリーマンが総理大臣になる、いわんや、平の大臣においておや。片や、国家上級試験を抜群の成績で通った実力一本やりの集団。勝負はすでに終わっている。

  大臣の更迭はいともたやすい。だが、そこからは、何も生まれない。大衆の溜飲を下げるだけでしかない。つまらないことに野党はエネルギーを消耗しないように。

  追: 
  “親の仇”は“親の敵”が正しいような。先の入試センターの倫理試験で知った。前のブログは仇となっているはず。いつか書き直します。



イージス艦事故 2. 救命胴衣

  前に救命胴衣は、同時に索体胴衣でもあるとブログに書いた。

 今度の事故でも、もしも、漁船側の二人が、着衣していたのなら、こうまで捜索が長引くことはなかったと思う。衝突する直前に、イージス艦に気づき、海にそのまま飛び込んでも、あるいは、助かったかもしれない。胴衣はエンジ色で海では特別に目立つから、海上に浮かんでいさえすれば、いくらイージス艦の甲板が高くても認識できたのではなかったか。軍艦であるから、強力なサーチ・ライトだって備わっていたはずだ。

  ところで、今、ニュースを聴いていると、正悪がオール・オア・ナッシングであるかのようだ。少しでもイージス艦側を弁護しようものなら、放送局に非難のメールや電話が殺到するのではないか。

  海上自衛隊がからんだ事故は、今に始まったことではない。防衛省という軍人というより役人と言った方がふさわしい体質のなせる技である。それでも、今回の事故で100%の非をイージス艦に求めるのは公平ではないと思う。

  少なくとも、事故発生後、今もって漁民二人が発見されない原因をイージス艦や防衛省の責任とするのは私には、無理筋に思える。

  船舶免許更新の講習会でも、また漁協でも、救命胴衣の着用を強力に勧めている。小型船舶の程度で着用義務の有無があるが、車のシート・ベルトと同様、すべて義務・罰則を適用すべきである。

  海難事故は、日本海軍が増強されればされるほど、軍艦と漁船・商船との間で発生する。「あってはならない」は虚言である。「あるもの」との前提から考えれば、自己防衛のために、救命胴衣は不可欠である。

  自衛隊から自衛するのだから、皮肉と言えばこの上なく皮肉な現象だが。

  注:
  漁民の二人が救命胴衣を着用していたのかどうかは私には不明である。だから、このブログは、着用していないかった場合に比べれば着用していた場合の方が、周りへの迷惑が軽減されるものとして、私自身の誡めとして書かれたものである。

イージス艦事故 1.  大きな船と小さな舟

  高校の仲間が東京商船大に入学した関係で、年中、越中島の商船大に遊びに行っていた。当時商船大は、前期2年が静岡の清水、後期の2年半か3年が東京の越中島であった。

  中国語大嫌いかつ海大好き人間の私は、年中彼らの寮に入り浸り、商船大生から、「お前は、どっちの大学生なのか」とよく冷やかされたものだ。

  商船大の楽しみは色々あったが、もっとも楽しいのが、カッター・レースで、商船大以外の学生も少人数参加が許され、2年、その一人になれた。なにが基準か覚えていないが、多分、高校の仲間のコネに依ったものだろう。

  レースは1週間程だったと思うが、最後の日に商船大の練習船の操舵室に入れてもらえた。無論航行中にである。きびきびした態度、無駄口のない伝達、シーマンシップを目の当たりに見ることができた。

  もう一つ、非常に驚いたのが、漁船がまるで、オモチャの舟に見えたことである。かれこれ50年前のことだから、ほとんどが木造船で、櫓が使われていた。見えるのも、横からでなく上からであるので、“天下を睥睨(へいげい)する”の観である。

  反対にカッターからは、大型貨物船は巨大なビルである。朝もやの中、突然目の前にヌーと現れた時の印象がそうである。商船大生の中にいるので、少しの不安も起きなかったが、あれが、一人であったら、恐怖にかられたことだろう。

  イージス艦は軍艦だ。民間の漁船が勝負して勝てるわけがない。法律や規則がどうのこうの、責任がどちらにあるか、報道でやかましく議論されているが、すべて、結果論である。いくら、正しくても、命を落としてしまったら、お終いだ。「長いものには巻かれよ」。私はこれが大嫌いであるが、海の上では、小さいものが、大きいものの何倍もの神経を使わなければならない。こればかりは、メイファーズ(没法子)、仕方がない。

  と、ここまで書いたら、何も海の上ばかりでないことに気がついた。深夜の東名高速道、こちら、わが愛車ジムニー、両脇に10トントラック。いくらジムニーが頑丈であっても、所詮軽貨物、相手が道交法を遵守してくれないからと言って、トラックに体当たりをするわけにはいかない。

  付:それと、大型船は方向変換がのろいので、小型船の方が、衝突の危険回避をしなければならないとどこかで聞いたような気がする。航行の優先順位にからんでいたようだが。これは、定かでない。 こっそり付の2.商船大のカッター・レース、全然客人扱いしてくれなかったネ。

大学入試センター試験 英語

  今年の問題は、2題を間違えて、減点各2で計4点。196点の成績である。例年、4問ほど間違える。半分は実力の不足、半分は軽率なミスによる。例えば、第34問の正解が2であることが分っていながら、第34問の4が頭にこびりついて、つい4を選んでしまう、こんな軽率である。

  今年は、ヤギを山林に放している間に解いたので、時間は十分にあった。おかげで、軽率なミスは犯さずに済んだ。ただ、ヤギがこっそり後ろから迫ってきて、問題を食おうとするので、その点で気が散っただけだった。何点取ろうが、私の将来が左右されるわけでなし、まあ、牧歌的である。

  英語の力は毎年衰える一方なので、問題のレベルが年々同じと考えている。今日は、問題を問題として取り上げる。溜めておいた文句である。

  先ず、内容が貧弱である。いやしくも語とつく以上、伝達するその中味も相応のものであってもらいたい。数年前に、街の地図が示され、右に曲がり、直進し、いくつかのロックを過ぎたら郵便局がある、正解はどれか、というような問題があった。前年か、ガレージにある自分の車はエレベータを降りて進むとどこにあるか、というのがあった。今年は、英語の夏期講習の受講料と宿泊代がいくらになるか、正解を選べ、である。

  20ページを超える問題のすべてがこんなものである。ここには、イギリスの田園を語るでもなし、ヨセミテ公園の小鳥のさえずりも聞かれない。易しい文章のエッセイはイギリス文学にいくらでもあるし、珠玉の短編小説ならアメリカ文学で間に合う。

  会話の問題も然り。男女のつまらない会話がテーマである。心にグッとくるものがない。折角、シェイクスピアというすばらしい対話があるのにだ。古語が混じっているのが悪ければ、現代語に代えればいい。

  試験問題がこれでは、受験生が試験に良い成績を上げようと努力すればするほど、英語の魅力から遠ざかってしまう。ただ、実務的な正確さのみを追うという情けない勉強になっていく。

  15歳から18歳の高校生時代は、己が情緒を豊かにする人生で最も大事なひと時である。まさに、「一寸の光陰、軽んずべからず」である。それをこんなくだらない試験の準備のために空しくしなければならないとは、オー、ミゼラブル。

  詩もない。バイロン、キーツでなくていい。ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジム・モリスン、ピンク・フロイド、みな、素晴らしい詩を残している。People look strange、 when you are alone. Money,it‘s gas. Imagine.こういう生涯忘れないような詩を試験の材料にしてもらいたい。高校生向けの散文なら、絶対に、ラフカディオ・ハーンだ。

  問題のレベルについても一言。難易度が全然考慮されていない。これでは、51問(今年の問題数)が200問になっても、ある実力があれば、全問正解となる。50題あれば、10題は、易しい問題、10題はやや易しい問題、と順に送られ、10題はそこそこ、10題はやや難しい、残りの10題は難しい問題と分散させるべきである。今の(ここ数年の)問題の出し方では満点を取る受験生の真の実力は証明されない。

  英語を伝達手段の道具に止めるのは惜しい。道順や金勘定は社会に出てから、いやという程英語で出会う。ここ数年の問題を見ると、出題者の頭が無機質でできているのではないかと疑う。

  大学入試センターの試験でよい成績を上げるためには、英米文学を英語で学ばなければならない、それにより英米文学の良さが分り、生涯共にする、・・・そういう風に青年への英語教育を転換してもらいたい。小国寡民、文部科学省に切に望む。

国内での排出権売買

  この前、二酸化炭素排出権の市場が欧州にあることを知って、京都議定書がまやかしであると非難した。

  日本の政府は、国内で売買ができるようなシステム作りを検討すると言った。地球がどうのこうのと美辞麗句や御託を並べていても、本音は、すべてカネで処理してしまえという、まことに情けない発想である。落ちる所まで落ちた。

  排出枠に達しない企業や団体には、ボーナスを与えるとか特別減税するとかのインセンティブを用意すればいい。本来、こういうカネも使うべきではなく、表彰状の一枚でいいのだが、まあ大目に見ることにしよう。

  大目にも細目にもみることができないのが、政府の検討である。環境省という省は一体何をしているのか。どこかの野鳥の会の支援が能ではあるまいに。

  経済は成長する、同時に環境は改善する、まことにありがたい話だが、虫がよすぎる。大自然を甘く見過ぎているのではあるまいか。少なくとも、今の日本の政治家や官僚にそんな器用な芸当ができる才能は備わっていない。

  繰り言を繰り返すようだが、介護や環境でカネ儲けをしようなどと浅ましい根性でいると、痛いしっぺ返しが待っている。排出権というへんてこりんな権利は、人間に与えられていないはずだ。奢るな、日本政府。

冬を惜しむ

  つい先日、最後の泳ぎをやったように覚えているのに、もう冬が終わろうとしている。徒然草の言葉が心に浮かぶ。

  冬は、良いことが多い。先ず、ハチが休業している。特に、スズメ蜂は、スズメに申し訳ないくらい、嫌いである。人間、犬、猫、みんな、一度は被害に遭っている。私は、左腕がパンパンにはれて、病院嫌いで有名な私も、我慢できず、医師に助けを求めた程である。犬は、全身がむくみ、マント・ヒヒのあだなの飼い犬が大福餅のような顔になってしまった。縁の下でただうずくまっているだけで、まるまる4日過ぎた。4日目、水をわずかにでも飲んでくれた時の私の安堵感は大変なものだった。猫は、普通のハチのようだった。それでも、顔がむくんで、痛々しい限りであった。カミさんも島から逃げる少し前にやられた。これについては、あまり語らないことにする。

  次に、ありがたいことといえば、蚊がいないことだ。私の家は、文才ある島民の一人からスズメのお宿の隣りといわれるように竹林の一軒家である。竹林の七賢が、当時、どのように藪蚊とのスターウォーズを戦ったのか、参考に知りたいと思うほどである。刺される前に皮膚感覚が目覚めればいいのだが、たいてい、かゆみを感じるのは、刺された後だ。It‘s too late!なにも、老人の薄い血を吸わなくてもよさそうにと思うが、島では、若い方だからしかたがない。その蚊が冬はいない。

  次は、マムシと蛇がいないことである。彼らも休業中である。私のオーディオシステムは大いに自慢できるもので、ケーブル類は99.9999の純銅で統一してある。銅は銅色だが、皮膜は黒だ。しかも太い。ケーブルに紛れ込んでいる蛇の子供と間違える。夏は、だから、ケーブル類のセッテイングは控えている。青大将は、身の丈1間(1.8メートル)を超えるものがいる。昨年、処罰した青大将の勇姿をデジカメに収めたが、このブログでの公開はためらっている。

  次は、夜空がきれいなことである。寒さでガタガタ震えながら、夜空を仰ぐのは一興である。月夜は、シュロの葉が月光で冴える。湿気がないため、月の光が1本1本の線のようになる。

  そして、島一番の横着者の私にとって、なによりありがたいのが、草刈りをしなくていいことだ。鶏を60羽ほど飼っていた時は、300坪の敷地すべてが、土の表面であった。今、10羽、しかも高齢者ばかりなので、地面を活発にほじくらない。自然、竹や草の方が勢力を増し伸びていく。夏は、我が家は見事なまでに野草園となり、敷地内を歩くにも、棒で前をつっつきながら進まなければ、いつマムシや蛇を踏みつけるかわからない。冬は、自然の恩恵で、"自然”に地面が現れてくる。

  思いついただけでもこれだけある。寒い地方といわれる東北で、冬を惜しむ気持ちが分ってもらえたであろうか。しかし、これで止めておく。あまり冬を惜しむと、天の神様に、「それほど、冬が惜しいのであれば、善人の手本のような小国寡民の願いだ、もう2ヶ月ほど、彼のところだけ、冬に留めておいてやろう」なんて気配りされかねないからである。




沖縄強姦事件 その四  日米安保

  副大臣が沖縄に出向いて、抗議したという。これも、元の漢人官僚が支配者モンゴル軍に苦情を申し上げるのと同じである。ホット・ラインがあるのだから、ブッシュだって電話口に出せるのに、それが出来ない。属国の宿命である。


  福沢諭吉は“門閥は親の仇でござる”と言ったとか。私は、“日米安保は、日本人の仇でござる”と言う。テロとの戦いはアメリカ国内でも起こる可能性がある。アメリカ政府がそう言っている。ならば、ワシントン、ニューヨーク、シカゴ、それとロス・アンゼルスの近郊に自衛隊を日本から派遣してもよさそうなものだ。それぞれに1000人と言わぬ、100人の配置でいい。そんなことを話題にしただけで、その大統領は即刻クビが飛ぶ。暗殺だって起こる。どこの独立国が、自国の一等地に外人部隊を駐留させる?アメリカ人も例外ではない。外国の基地、いや軍人の常駐でさえ、屈辱に感じるはずだ。振り返って、わが日本の首相はなんだ。それを頭に戴く選挙民は、なんなんだ。

  明治の政治家の願いは、ただ一つ、平等条約の締結にあった。非力の日本をなんとしても列国並みに扱われたいという志があった。当然である。彼らは、いかに下層とはいえ、れっきとした、武士階級である。志は士の心と書く。今の日本は、小商人(あきんど)、百姓、職工、あとは芸人だけの国である。福田首相が、先の施政方針演説で、いみじくも、『農商工連携』と日本経済の姿を形容した。ここでは、カネ、カネ、カネ、カネが万能だ。志のひとかけらもない。そのくせ、彼は、外交の段になると、“志のある国”を目指すといっている。明治の政治家をタイム・マシンに乗せて、日本の現状を見てもらいたい。

  民主党の鳩山幹事長も福田首相も怒りを顕わにした。だが、同床異夢である。片や、外国の基地があることそのものが独立国として異常であることに怒り、片や、基地の運営に支障が生じる懸念からである。

  志。士農工商の農工商に望んでも無理というものだ。彼らはせっせと米を作り、自動車を組み立て、雷門で土産を売っていればいい。それが、彼らの生きがいである。その上に、福沢諭吉ばりの志まで求めるのは、少し酷である。志は、その他の、言ってみれば遊民こそ持たなければいけないものである。

  遊民とは、政治家、官僚、学者、教師、文化人、報道人、専業主婦、宗教者、年金生活者、学識経験者、有識者、etc.のことである。農工商に志が欠けていても許されるが、これら遊民に志がなければ、ほんとうの遊民、無駄食い人種である。私の自戒であることは、言うまでもないが。

  この位で止める。事件の真相は、新聞や週刊誌がいろいろ書くだろうが、それと、この私の一般論とは無関係である。誤解なさらぬよう改めて申し上げる。

沖縄強姦事件 その三  再発防止策は無理策

  夜の8時過ぎ。島ではもう深夜である。県道、町道、農道、人っ子一人歩かない。街灯が空しくかつ無駄のまま道路を照らしているだけだ。南国とはいえ、女子中学生が、夜の8時過ぎに外出していることは正常ではない。普通の家庭の子女でない。

  3人兄弟の長女で、母は、五年前に死別、父親は病の床で、当日の夜、急に痛みが出て、どうしても薬屋に行かなければならない。その途中、アメリカ兵に捕まり、強姦された。求める薬は買えず、父は重態に陥り、救急車が来た時には、既に、息が途切れていた。幼い妹と弟と3人でこれからどう生きていけばいいのか、途方に暮れ、身寄りのない女子中学生は、やむなく、警察の届け出た。

  もう一人、女子中学生がいる。チンピラとぐるになって、美人局で小遣いを稼ぎケータイやドラッグの金に充てている。いつもの様に、アメリカ兵のカモがやってきた。英語でfree!とかno charge!とかなんとか声を掛け、車の中に入った。これも、いつものように、頃合を見計らって、チンピラが来るはずだったが、彼、突然の腹痛に見舞われ、数回のトイレの往復に時間がかかった。予定の時間に間に合わなければ、美人局は商売にならない、そこで、車を飛ばした。途中、運悪く、ネズミ捕りにひっかかり、もたもたしてしまった。まさか、交通機動隊に急いでいる訳を語れない。そうこうしているうちに、アメリカ兵は本当にdischargeしてしまった。くやしくて、警察に届け出た。

  強姦事件は、少し想像しただけでも、これだけの幅があるのだ。あらゆる強姦事件は、その報道を私は信頼していない。一つだけはっきり言えるのは、この種の事件はどんなに規制や罰則を設けてもなくならないということである。

  事件の再発防止は、栄養満点で精力が余っているアメリカ兵の撤兵しかない。それができなければ、頭に血を巡らす必要のない分、下半身に血が活発に循環している兵隊の性欲の処理手段のためにアメリカ駐留軍に日本政府がマニュアルを作って差し上げることだ。これは、アメリカ兵に限らない。日本の自衛隊員でも、同様の問題があるはずで、それの対策も完璧なはずである。従って、マニュアルの資料集めは防衛省や内閣府の役人にとっては、朝飯前のことだ。ヒマをもてあましている外務省の役人に英訳を頼めばあっという間にできてしまう。

  高校の英語の先生が、『お前たち(下町の高校ではごく自然な語りかけである)、本当に金に困ったら、食欲と性欲の小説を書け』とまじめ顔で話してくれた。一つは個体の維持、一つは種の保存、いずれも、生き物である人間の自然の行為である。これには、アメリカ男性も日本女性も区別はない。私は、金に困ったことはあったが、"本当に”でなかったので、この手の小説家にまで落ちぶれずに済んだ。今、テレビといえば、食い物のシーンばかり。性欲のシーンがはばかられるものだから、その分、食欲で視聴者を惹き付ける。マス・コミが、既に落ちぶれている証拠だ。話が飛んだようだが、再発防止が無理であることを福田首相が内心思っていることに対して、私も同意見であることを言いたかっただけのこと。

沖縄強姦事件 その二  アメリカ兵とNHK解説委員 

  NHKの解説委員が、アメリカ兵の中には、日本が今でもアメリカの占領地であるような誤った考えでいるのではないかと解説していた。誤っているのは、解説委員の方である。現在でも日本はまぎれもなく、アメリカの占領地である。

  昔、モンゴル民族が漢民族を支配したことがあった。その時、漢民族の官僚を使って、ほとんど完全自治の形で、元という国家を長く維持してきた。モンゴルの軍は、城内をウロウロすることを控え、北京城の周りに控えていて、何か反乱の気配があれば、すぐに、首都を攻めることができるようにしていた。

  千年後の歴史教科書では、今から何世紀か前の元と今の日本を同類の占領地と記述するはずである。なるほど元には外交がなかったが、今の日本も、形は外交機能があるようでも、常任理事国入りをアメリカから拒否されたことでわかるように、実質的には、無能である。アメリカの反対することに、賛成は絶対にできない。さらに、元と同様、おもいやり予算の名の元、駐留軍の維持費を負担しているのも、占領地の宿命である。

  ということで、占領地とみなしているアメリカ兵の方が、正常な感覚の持ち主で、NHKの解説委員の方が、誤った考えを持っているのである。

  自衛隊が、赤坂かどこかにミサイル発射基地を設営できるかどうかと、調査したらしい。厚木や横須賀の基地から飛び立つアメリカ空軍をどうミサイルで打ち落とすというのかね。

沖縄暴行(強姦)事件 その一  言葉

  最近、ニュースを熱心に聴いていない。だから、この事件の推移は知らない。時は夜の8時過ぎ,所は沖縄、当事者がアメリカ兵と女子中学生、これ以上詳しい状況は知らない。知りたいとも思わない。第一、テレビ・ラジオ・新聞いくら集めて観たり読んだりしたところで、何が真実かはわからないのだ。とにかく、TPOのOが欠けているから、この事件は材料にするだけに留めて、一般論として持論を申し上げる。

  第一に、暴行という表現が気に食わない。強姦である。日本語にあるのに、使わない。言葉がどぎついからか。強姦自体がどぎついのだから、相応の言葉を使えばいい。暴行は、“殴る蹴るの暴行”というように使われるべきである。

  言葉といえば、NHKを聴いていると、過激派、穏健派という表現がやたらと出てくる。中庸を重んじる日本人の耳には、過激派は、危険な集団をイメージとして聞こえる。それが、民族解放戦線であってもだ。祖国を守るためにやむなく武器を持って戦う何も無ければただの農民であってもだ。穏健派の言葉を使えば、たとえ時の権力者や外国の傀儡を意味するものであっても、耳には聞こえがいい。しかも、過激派と呼ぶ対象が、決まって少数派である。ブッシュやライスの集団を過激派と呼んだニュースやニュース解説をNHKで聞いたことがない。それでも、過激派と呼ばれている集団が、自分たちを過激派と称しているのなら、かまわない。そうでなければ、言葉の中立を犯していることになる。

  強姦行為は強姦とはっきり呼ぶべきである。暴行と表現するのは、実際は格段の過激派であるブシュやイスラエルを穏健派と称するようなミス・リードがみえみえである。

  報道に携わる者が、こんな初歩を知らないわけがない。すべて、知っての上でのトボケである。人間、ややもすれば耳あたりの良い言葉を期待しがちなもの。言葉尻りを捕まえたり揚げ足を取るのは品が悪いが、ある意図をもった偏向表現に対しては、敏感でなければいけない。反対に、耳障りな言葉でも、真実を述べる際に必要とあれば、敢えて使わなければいけないし、また、我慢して聴かなければいけない。古人曰く、「良薬は口に苦く、忠言は耳に逆らう」と。

人の性は悪なり  私のブログの千秋楽について

  私のブログも早や半年が過ぎた。世間に向かって、大体書くべきは書いたし、言うべきは言った。

  これからは、活字が読めなくなった時の自分に備えることに重点を置くことにする。写経が多くなるはずだ。あれこれ書き込むことがあると思うが、それは、すべて、私の独り言として許していただきたい。

  また、ブログの千秋楽は決めている。小国寡民の出所である老子である。上篇、下篇すべて写経したいと思っている。

  さて、今日は性悪説。私は気に入っている。荀子先生、惜しいことに、「其の善なる者は偽なり」と、つい筆を滑らせてしまった。私以上に軽率な人物である。

  人の人たる所以は、その悪を備えたからである。しかし、善を偽というのは正しくない。生き物としての人は、哺乳類や鳥などの動物と同様の善を持っているのである。何を以って善と称するかは、荀子先生が表している悪の反対と思えばいい。

  荀子  性惡篇 第二十三

  人の性は惡なり。其の善なる者は偽なり。今人の性生れながらにして利を好むあり。是に順ふ、故に爭奪生じて辭讓亡ぶ。生れながらにして疾惡(しつを)する有り。是に順ふ、故に殘賊生じて忠信亡ぶ。生れながらにして、耳目の欲有り、聲色を好む有り。是に順ふ、故に淫亂生じて禮義文理亡ぶ。

  人之性惡、其善者偽也。今人之性生而有好利焉。順是、故爭奪生而辭讓亡焉。生而有疾惡。順是、故殘賊生而忠信亡焉。生而有耳目之欲、有好聲色焉。順是、故淫亂生而禮義文理亡。

  ご注意:今後、ブログ更新は毎月曜といたします。月曜の不更新は、小国寡民のダウンを意味します。カウント9で起き上がれるか、それとも、白タオルがリングに投げ込まれるかは、その時のお楽しみ。

私のシェイクスピアの千秋楽

  シェイクスピア戯曲の総まとめがテンペストであるとあちこちで聞いたり読んだりしていたので、最上の料理が最後に出てくる晩餐会に倣って、四十の歳まで、我慢して読まないでいた。四十歳になって、わくわくして開いたのだが、それほど面白くない。

  後になって観た、ジョン・カサヴェテス主演の映画『テンペスト』の方が、ずっと楽しかった。白い建物とエーゲ海を大画面で眺めていると、あたかも、自分がその中に入って、一緒に魔法をかける事ができるような錯覚に陥ることができたのである。主人公の都会の喧騒に疲労困憊した惨めな顔もなかなかよかった。

  結局、私のシェイクスピアは、「お気に召すまま」を最高の傑作とすることで、完了することになった。たわいないお遊び喜劇であるとも言えるが、他人に押し付けるわけでなし、私の好き嫌いは私が決めていいのだ。

  その中の歌がすばらしい。さらさらしたアルファベットで書かれているため、山水画を彷彿とさせる。かえって漢字の陶淵明の詩の方が、私には油絵を観ているような気がしてならない。

  今日は、私のシェイクスピアの千秋楽。奇をてらうことなく、易しい言葉で、寒い冬の中、生きていることだけで満ち足りていると命を詠うこの詩で締めることにする。

      As You Like It
         Act 2, Scene 5

   Under the greenwood tree,
   Who loves to lie with me,
   And turn his merry note
   Unto the sweet bird’s throat...
   Come hither, come hither, come hither;
      Here shall he see
      No enemy,
   But winter and rough weather.


   Who doth ambition shun,
   And loves to live i’th’sun...
   Seeking the food he eats,
   And pleased with what he gets...
   Come hither, come hither, come hither;
      Here shall he see
      No enemy,
   But winter and rough weather.



私の経済学の千秋楽

  アダム・スミス、マルクス、ケインズ、シュンペータ、この辺りは、普通の大学では一般教養課程で習うもので、経済学を専攻する学生でなくとも、およその学説は知っているはずである。私は、その他にいくつか経済学の分野の本は読んだが、まったく面白く感じなかった。必読書といわれたケインズでさえ、途中で投げ出したと記憶している。

  ケインズと平行して読んだのが、レーニンの『帝国主義論』であった。この帝国主義論の前では、ケインズなど物の数に入らなかった。当時、神田にナウカというソ連関連の本屋があって、プロパガンダの一環であろう、本が驚くほど安いのである。英訳が岩波の邦訳本の3割位の値段だったと思う。貧乏学生にはありがたかった。英語といっても、J.ジョイスの『ダブリン市民』の正反対で、易しい単語と易しい文体だから、苦にならない。プロパガンダだから、難しくては、役に立たないのだから当然のことだ。

  当時の私は、この帝国主義論の感想を、“血湧き肉踊る”と記した。マルクスには、申し訳ないが、大英博物館の博学は、政治闘争の真っ只中の実践に敵わないことを知ったからである。

  レーニン像が建てられ、そして倒されたロシアの現代史。建てたのは民衆、倒したのも民衆、ロシアの民衆に限らず、民衆とは愚かな集団である。

  前置きはこれ位にして、私の今日のブログは、私の経済学に対する結論のことである。以下に記す。

  すべての経済活動の基本を、金利ゼロに置かなければならない。日銀のゼロ金利政策はまやかしである。私の主張は真性のゼロである。すなわち、借りる側もゼロ、貸す側もゼロ。国債に利子はつけない。株の配当はなし。要するに、金はいつまでたっても、金を産まない社会にすることである。そうすると、金が海外に出て行ってしまうと、心配する声が聞こえそうだ。出ていって結構。なぜならその金はバブルだからだ。

  マルクスは、私有財産制を否定することでこの目的を達成しようとした。彼は、哺乳類のレベル、動物の本能と言い換えてもいい、にさかのぼったので失敗した。私は、人間のレベルに留まる。

  これに到達したのは、齢五十近くになってである。都立大の経済学部に断られてからというもの、経営の本は多数読んだが、経済学は一切やっていなかった。この結論は経済学の書物で得られたものではない。一つは、宮沢賢治の家が、高利貸し、聞こえが悪ければ質屋と言い直す、であること、もう一つは、トルストイの「イワンの馬鹿」を深く読んだこと、ここから導き出されたものである。

  金が金を産まない社会。多分誰かが既に学説あるいは空想小説として発表しているはずである。と思っていたら、昨年読んだ旧約聖書に書かれていた。曰く、ユダヤ人(びと)、イスラエル人から利子を取ってはならない、と。大変ショックを受けたので、日誌にその個所を写し取ったのだが、自分で書いた字が読めない。それで、どこの巻だか、ここに表せない。存在していることは確かである。

  私、小国寡民の理想社会は、金利ゼロの社会である。こればかりは、誰がなんと言おうと、死ぬまで変わらない。




稽古

  月に一日だけ、早起きしなければないらない日があります。2月は今日がその日。氷点下の外気は冷たいのですが、起きないことには、連絡船に乗れません。乗れなければ、隠居の手習いに差し支えます。

  教える時は、口で言うばかりでなく、体でやって見せることが、大事であるものと、聞いていました。スポーツはむろんのこと、倫理・道徳も、先ず、上に立つ者がお手本を示すということでしょう。その通りであると思ってきました。

  ところが、私の師匠は、お手本を最初に見せて(尺八ですから、聞かせて)くれません。一緒に譜面を声を出して読むだけです。西洋音楽でも、オタマジャクシが並んでいる譜面を見て、即座にメロデーをとらえることのできる人は、アマチュアでも上位の人ではないでしょうか。当然ながら、初心者の私は、どんな曲なのかさっぱりわかりません。家に帰って、自分で譜面を見ながらつっかえつっかえ練習することになります。正しいものかどうか、次回の稽古まで、わからないまま・・・。

  お手本を初めに示してくれない理由は、今はわかります。すなわち、師匠のお手本に頼るクセをつけないようにするためということです。いろいろ耳にしていますと、この稽古の仕方は、邦楽では、普通のようです。

  同じ稽古でも、プロ養成となれば、殺人事件が起きるまで、人を殺すことが悪いと知らない(それも、本人が自ら気づくのではなく、周りが悪いというものだから、悪いと知る、あるいは知ったふりをする)スポーツがあるのですね。隠居の手習いでよかった、よかった。

洗心と洗脳

  昨日は洗心についてホラを交えて十二分に告白しました。脳の方は、まだ若干言い足りないので、続けさせていただきます。

  四十過ぎの転職先が、大変意欲的な会社でございまして、エリート・コース社員は、全員、4泊5日の研修を課せられます。中途採用の私は、エリートではありません。たぶん、我が社風に遅まきながら馴染せようという考えからでしょう、私も研修を受けることになりました。ドイツの商社で、自由気ままな職場環境を満喫していた所を、スカウトされたのですから、根性を鍛えなおさなければ、使い物にならないと心配したようにも思えます。

  伊豆のその研修所は、自衛隊出身の組織で、別名、死の研修と、会社では呼ばれていました。四十過ぎの参加は会社では初めてということで、万歳三唱の雰囲気で送られました。今、振り返ると、外野席は私が途中でぶっ倒れるのではないかと期待を顔に表していたようにも思えます。実際に、研修途中で、心臓発作で死んだ例があるとのことでした。

  駅を降りると、研修所の旗をもった頑強な青年が、「電車は込んでいませんでしたか。ご苦労様です。たいへん、お疲れさまでした。今回は、ようこそお出でくださいました、ブラ・ブラ・ブラ」と、温泉旅館の客引きに見習わせたい程の立派な日本語と丁重な態度で、迎えてくれました。何が、死の研修と内心いぶかりました。いわゆる温泉気分で、今頃、工場長からガミガミ怒鳴られているに相違ない同僚を想像して、ほくそえんだものです。

  ところが、研修所の門をくぐるや否や、そのいかつい青年の態度がガラリとかわり、もうあとは、私たちは、虫けら同然の扱いです。初日のうちに、自尊心が奪われます。

  朝、毛布のたたみ方が悪いといって、だらしなさで怒鳴られます。四隅がぴたりと合っていなければNG、辺がたるんでいてもNG、OKが出るまで、怒鳴られ怒鳴られやり直しさせられます。つくづく親の躾をまじめに受けておけばよかったと後悔しました。

  昼は、回れ右。これをピタリとやらないと、毛布と同じ目に遭います。小学校、中学校と、運動会前には、回れ右を繰り返しやってきましたが、だいたいが群衆の中のひとつの顔。それですから、まともに出来る参加者は多くありません。なお、これは、10人ほどのグループに分けられ、すべてが共同責任です。一人でも、回れ右ができないと、そのグループ全員が、直立不動です。初めは、とろいヤツなんて冷ややかに見ていましたが、そうなってくると、成功してくれと祈るようになります。

  途中、いろいろありますが、最終日は、グループ同士の行軍競争。軍靴を履いて、最も効率の良いルートを前の晩に検討し、その通り移動するゲームです。これがイタチの最後っ屁。きつい。落伍者が一人いても、アウトというルールなので、疲れの見える仲間には、初めは声を掛けて励ますだけですが、足元がおぼつかなくなると、両脇から支えて、目的地に向かいます。まさに敗走する行軍です。余談ですが、10組かそこらの中で、私のグループが優勝。終わって、このゲームはほとんど、作戦(ルート選び)で勝敗が決まるから、私のグループの担当教官は提出されたルートからすでに優勝を予知していたと語ってくれました。

  最終日の夕食時。抱き合って、まるで、10年來の友のような感覚に浸ったのです。別れ際には、それぞれの電話番号まで交換しあい、それこそ涙を流さんばかりで別れました。

  私も、初日は鬼に見えた教官が、ギリシャ神話の雄雄しい神々の一人に見えました。感激して、教官に、「この経験は一生忘れません」と拝むように、両手で彼の手を握ったものです。男の手を握ったのは、小学校以来の出来事です。

  わずか5日の研修。それで、リベラリスト別称規則大嫌い人間の私が、180度変身してしまったのです。

  新興宗教、ネズミ講、儲かる話、等々、周りから見ると、なんて馬鹿なヤツと、まるで、馬鹿以外は引っかからないように報道されますが、そうではありません。あらゆる洗脳は、拷問・虐待でなされたものではない、当人の自発的行為によるもの、そして巧みに仕組まれた当人が自発的に洗脳されるよう仕向けるシステムによるものと、私は、確信しています。

  ナチス、大政翼賛、学徒出陣、皆同系です。これらは後になって、なんであんな馬鹿なことと評しますが、それは評論です。ネズミ講も然り。傍で馬鹿を笑いますが、やはり評論です。

  今の日本は自由に発言しまた行動できます。私の研修所体験のような強制はありません。ですから、私は、自分も含めて、今の日本人のすべては、己の言動に対して、自己責任があると思っています。何十年か後に、知らぬ間に、政府に騙されたなどと平成十九年の政治に繰り言をいってはいけません。

  追:研修後、しばらくして私は、元の完全なリベラリストに戻ってしまいました。電話は一度も掛けないし、一度も来ません。しかし、今でも、政治色を抜きにした、あの研修会の元自衛隊員の背筋を張ったキビキビした行動には、尊敬の念を抱いています。


一片ノ冰心

  私の最も好きな漢字の言葉は、一片冰心です。冰は氷。氷の心は、冷酷な人間のものではありません。私のような清澄な人物が持ついささかのわだかまりもない心のことです。

  私は、時々ですか、自分の心が汚れていることに気が付きます。汚れているのは、世俗の塵埃によって汚されているからであります。その時、私は、心臓を体から取り出して、清水に浸すことにしています。この清水は、高い山々の新雪が溶けて小さな流れとなっている場所でなければいけません。少し、下流になって、ヤマメやイワナ、沢蟹なんて生息する場所はもう駄目です。水草も生えていてはいけません。要するに、純なる水だけの場所です。

  そこに、しばらく心臓を浸しておくと、心臓の周りに付着していたゴミ類がきれいに洗い流されます。私は冰心を取り戻すことに成功し、おもむろに体の中に戻します。私は甦生します。

  それでは、脳はどうでしょう。私は、脳の方が、心に比べるとはるかに多くの狭雑物で汚染されています。ですから、脳の方も、同じように清水に浸したいのですが、かないません。理由は二つあります。打ち明けましょう。一つは、脳の隙間という隙間にバラのトゲのように深く入り込んでしまっていますので、清水では落ちないのです。強力なピンセットかラジオペンチでなければ無理です。もう一つは、へたに清水に漬けようものなら、信州味噌のように、溶けて消えてしますのではないかと心配するからであります。やったはいいが、頭の中に残ったのが、水戸納豆の藁(わら)だけとなった日には、目も当てられません。

       芙蓉楼送辛漸   
              王 昌齢 (唐)
     寒雨連江夜入呉
     平明送客楚山孤
     洛陽親友如相問
     一片冰心在玉壷

       芙蓉楼ニテ辛漸ヲ送ル 
              王 昌齢 (唐)
     寒雨ハ江(こう)ニ連ナリ夜呉ニ入ル
     平明ニ客ヲ送レバ楚山ハ孤ナリ
     洛陽ノ親シキ友如(も)シ相問(あいと)ハバ
     一片ノ冰心玉壷ニ在リト (伝えてくれ給え)
       (送りは小国寡民の自己流です)

  上は中国語。下は漢文。中国語の朗読を聴いてください。最後の「在玉壷」の所が、下がる、下がる、上がるの尻り上がりの発音で、スパッと切れまして、余韻がとてもいいのです。ボサ・ノバの歌詞はポルトガル語ですが、意味が分らなくても、音感で良さがわかりますよね。それと同じで、機会があったら、ぜひ、どうぞ。

   昨日、久しぶりに漢文に接したついでに、今日のブログは、漢詩一首に致しました。

  追:ミッキー・ローク主演の映画「エンゼル・ハート」は、いい映画ですが、観るんじゃなかった。

入試センター試験  国語を受けて

  先に実施された大学入試センターの試験を受けてみました。前に話しましたように、中国語と英語はほとんど毎年受けてきました。今年は、国語にチャレンジ。

  第1問は現代文。なんでこんなに難しい表現をするのかと、驚きました。ミンコフスキーやら上田篤やら槇文彦を引用して、何を語っているかというと闇についてです。この人達を私はまったく知りません。でも、闇については、この文を読んでみて、私の方が、はるかに的確な見方を持っていると確信しました。闇を空間の一つと捕らえることが、そもそも、誤りです。この筆者の闇は真の闇ではありません。音が聞こえ、かすかな光さえ感じるような闇です。私が以前、このブログで書いた闇は、まったくの闇、漆黒の闇(この表現はどうもよくないようです)のことです。その場にいると、私そのものが、物体として認識されず、したがって、地面に立っていることはその通りなのですが、あたかも、意識のみが存在するような錯覚に陥ります。われ思う、ゆえに我あり。

  試験問題に戻ります。先ほど述べましたように、難解な表現が続きます。国語は高校生にもなれば、理解できない文章はないはず。できない文章は文章の方が悪いのです。その見本のような問題でした。第1問は全部正解。

  第2問も現代文。漱石の『彼岸過迄』の1節。読んでいって、私が若い頃、なぜ日本現代文学を嫌っていたのか、再確認できました。とにかく、スケールが小さい。漱石は『坊ちゃん』と『草枕』、あといくつかの短編を読んだだけでした。それで良かったと安堵しています。

  問15の、“僕”の高木に対する感情で私は、正解と違った答えをだして、減点となってしまいました。しかし、私は、この段階では、“僕”はまだ、羨望であると読み取りました。彼の言動をしばらく観察していくうちに、不快に思うようになるのです。「不快」が正解ですが、私が試験官でしたら、「羨ましい」を正解にします。羨望が不快に移行していく心理過程の描写であるからです。ここで、痛い7点減点。

  第3問は古文。私が得意とする妖怪・幽霊の話なので、全問正解と意気込んでいましたが、問21と問22が減点。正解と私の誤解とは、そんなにかけ離れているのではないので、せめて半分位点が欲しいのですが、情状酌量なし。問24は文法。50年前、古文の文法には手を焼きました。自信がないので、卑怯とは知りながら、消去法で答えました。結果は正解でしたので、前の2問分の半分を取り戻せた気分です。問題は問29.正解は、角左衛門の情けの方ですが、私は、幽霊が婚家に仕えている方を選びました。全体が幽霊の話だから、この婚家も幽霊屋敷でいいのです。文にも二つの古き塚とありまして、それが、舅・姑のものであると言っているのです。また、正解の方では、角左衛門を“生真面目とばかりは言えないものの”とありますが、本文のどこにもそれを連想するものがありません。“やや傍に寄り、手を取りて”を指しているのでしょうが、それを生真面目に関係つけるのは飛躍でしょう。ここで、4点減点。

  第4問は漢文。解釈は当然ながらノー・プロブレム。しかし、返り点の使い方は忘れてしまっています。幸いに、書き下ろし文が親切にも付いていましたので、救われました。減点ゼロ。

  以上です。全部で21点減点。200点満点の179点です。A4で40ページの問題でしたが、結構楽しめました。

 終わってからの印象ですが、現代文はもっと易しくすべきです。こういう問題で高得点を挙げるような生徒が、一流大学を経て、官僚や言論のリーダーになるから、我々庶民にわからない法令や規則や議論が続出するのです。もう一つ、ヒアリングの試験を国語でも実施すべきです。西田やカントはいりません、なにか、簡単な物語でも聞かせて、それに対する理解度(集中力)を測るのです。今の大学生は、講義を始業から終業まで聞き通すような能力に欠けているはずです。文章は、時間を掛ければなんとかなります。でも、聴くのは、一過性ですから、一度聞き逃すと、アウトです。教授に向かって学生が、Once more, pleaseとお願いできませんものね。

 私のこのブログも、こんな程度の国語能力(言い訳がましいですが、入試センターの尺度で)遣り繰りしているのです。お許しの程を。

米国に「シカト」できたら  erliuzi氏の寄稿

  古今東西に通じている小国寡民氏、「シカト」の語源はご存知か。花札の鹿の絵札、そっぽ向いてるでしょう。あれです。

  日本が米国に対してあれをやれたら・・・というのが拙稿の趣旨ですが、賢明なみなさまの予想通り、否です。

  米国の世界覇権の二本柱はドルと核でした。どちらもどんどん衰えています。一所懸命支えているのがわが日本です。

  「思いやり予算」までつけて維持している在日米軍は、誰のために、どこを仮想敵としているのか、海上自衛隊の中核である「海中自衛隊」(潜水艦隊)は米海軍の下請けになっていないか、金に糸目をつけずに最新鋭機を買い入れる防衛省は「打ち出の小槌」でも持っているつもりか・・・・。

  思い悩んだら基本に還れといいます。「平成」も20年目に入ったいま、「平静」に基本を考えてみたいものです。

排出ガス枠取り引き  赤貧と清貧

  温暖化防止として各国に割り当てらた炭酸ガスの排出枠に日本がどうやら収まりそうにないことがわかった。それで、日本政府は、ハンガリーとチェコから、排出する権利を買うことにしようとしている・・・という内容のニュースを数日前に聴いた。

  欧州でこのガス排出の売買市場が形成されていると知って、このブログで京都議定書の欺瞞に対し憤慨したことを覚えている。今、日本もその仲間に入って、(税)金で買い取るとなれば、もう、何をかいわんやである。それでも、言うぞ。

  ガス排出は、エネルギーの裏返しだ。エネルギーは、その国の物質的豊かさに不可欠なものだ。ハンガリーにせよチェコにせよ、ようやく自由に物質文明の恩恵にあずかることができるようになった国々である。排出枠が余っているはずがない。外貨が必要だから、泣く泣く枠を売るのである。言ってみれば、成長期の若者から栄養豊富な食べ物を、老人が前のままの贅沢を続けたいがために、金に物を言わせて、巻き上げるようなものだ。

  日本の割り当てが達成できそうにないならば、深夜のテレビ放映を中止すればいい。どれほどの電力が節約できるか。自家用車の運転を偶数奇数で制限することもできる。海上輸送のエネルギーの低減のため、外国産の酒はもちろん、魚や小麦の輸入も、数年、控えてみることだ。米は余っている。パン党の私もがまんする。こんなことをすれば、景気が後退する!その通り、おおいに結構なことである。毎年自殺者が3万人も出るほど(個々人の理由は別である)贅沢な社会を、身の丈にふさわしい国に戻すいい機会である。

  福田首相は、北海道サミットで環境問題をテーマとしたイベント屋を買って出た。その前に、地球温暖化対策と国際的な約束のためとして、国民に、痛みを分かち合うよう国会で訴えるべきである。終戦当時を思えば、朝飯前である。我慢できない若者がいれば、どこかへ島流しにしてしまえばいい。

  日本が率先して枠の達成に向かう。これこそ、真の国際社会における誇りとなる。同時に、まだ物質文明をエンジョイしていない国が、それなりに、物質的な豊かさを実感することになる。その時、初めて、アメリカ流の、今は、中国流というのか、物質至上主義の空しさが理解できるというものだ。清貧は赤貧からは生まれない。

スーパー・チューズディ

  アメリカの大統領が誰になるかを占うのでさえ、バカバカしいのに、今、日本のメデァは総動員体制で、民主党の候補者が誰にになるかを分析・解説して、騒いでいる。

  曰く、ヒラリーは女性、初の女性大統領になる。性転換でもしない限り、彼女が大統領になれば、自動的にそうなる。曰く、オバマは黒人、アフリカ系アメリカ人と表現すべきか、初の黒人大統領。最先端の医療でも施さないかぎり、自動的にそうなる。

  アメリカで何か新風でも巻き上がるとでも思っているのか。女性で黒人という両方を兼ねた政治家が現にいるではないか。ライス長官である。彼女がどれほど、アメリカの黒幕を代弁して、国際社会をかきまわしていることか。彼女は日本でいえば、外務大臣、軍隊を出さないで、(威嚇までは許すとして)、外交交渉で、国際紛争を円満に解決すべき立場の人物である。

  NHKのニュースや解説委員の話を聞いていると、まるで、日本がアメリカの1州で、スーパーチューズデイとやらには、日本州で投票が行われるような錯覚に陥ってしまう。そんな合い間を縫うようにして、私の知らない内に、大阪の府知事選があり、また、小泉ばりのオッチョコチョイが大差で勝利してしまった。知らないのは私の責任ではない、NHKが全国的な規模で、逐一、報道していなかったのが悪い。

  アメリカの大統領が誰になろうと、戦争さえもちだせば、国論が統一される野蛮なアメリカは、変わらない。ケネディは確か民主党だった。NHKはAMKであるから、大統領選挙に熱を上げるのはしかたがないとしても、民間マス・コミは、西部開拓史から少しも進化していないあのドンちゃん騒ぎの選挙を、漢語では冷淡に、大和言葉では冷ややかに、突き放して、できるこのなら、シカト(私はこの下品な言葉をつい最近知った。いつか使ってみたいとウズウズしていた。無視する意である)してもらいたい。

  朝鮮から核が除かれ、中国・ロシアとも良好な関係が保たれている、台湾海峡も波穏やか、だから、日米安保条約は、日本側が望めば、破棄する用意がある、なんて発言してくれたら、その候補者に、私は、貧者の一灯だ、10ドルほど、喜んで献金するつもりでいる。だから、しばらくは、私も、大統領選のニュースは聴くようにしている。

自民と民主の談合がもたらすもの

  ガソリン暫定税の政府と民主のやりとりが分らないと昨日、書いた。何事も、分らないレベルの人間は、分らないなりに、自分の頭で考える、これも大切なことだ。

  そういうわけで、昨日から考えたのが、福田首相が、どれほど支持率が下がろうとも任期満了までその座に座り続ける、すなわち、衆院の解散はしないと、確約として、民主に伝えたのではないかということである。

  解散は首相の伝家の宝刀、時期についてだけは首相のウソが認められると聞いたことがある。だから、解散をしないと約束することは、外堀も内堀も埋めてしまったことになる。そこまで打ち明けられれば、民主も、スズメの目に涙、違った、武士の情け、折れる所は簡単に折れる。民主にとって、もともと、ガソリン暫定税の件も、解散が無いとなれば、あわててどうこうする程のものではないのだ。彼らもガソリンの25円などスズメの涙の高給取りの特権階級である。

  国会で議論することなく、普段は政党から軽く見られている大した役柄でない衆参両院の議長が間に入って、かくもスラスラ事が運んだこと自体が、不自然極まりない。私が分らなかったのは、ここだった。今は爽快である。彼ら二大政党が談合を始めた証を目の当たりにしたのだから。

  爽快なのは頭、気分は最低である。国連の平和維持活動の名目で、軍隊の海外派兵が一般法として成立する危険が、ますます増大してきたからである。

  時代劇映画で、それも、ほとんどが渡世人の映画で、老いぼれが、「オレの目の黒いうちは~」といきがるシーンが、大抵一つある。私はオレなどと品のない言葉は吐きません、「私の目の黒いうちは、威風堂々と軍隊が外国に出張することだけはない」よう、民主の良識ある面々、社民さん、共産様、お願いしますよ、ほんとに。

  追: もしも、任期満了前に、解散・総選挙があるようなことになれば、私は今日の軽率な発言の責任をとって、その場で切腹します、と言いたいところですが、痛そうなので、坊主にします。どうせ、残り少ない白髪じゃけん。




政治家の使う”必要”という言葉

  政府側が、ガソリン暫定税が消えると、必要な道路が作れなくなるといい、民主党は消えても、必要な道路は作れるといっている。

  私が聞いた感じだから、正確でないかもしれない。それでも、引っかかって仕方がない。

  ある道路を作るためには、ある金額の予算が必要であるというのであれば、私にも理解できる。しかし、ある道路が必要であると言われると、なんと反応していいか戸惑ってしまう。

  ヤギ、鶏、犬、猫、それに天井裏にはネズミ、そういう物を私は飼っているが(ネズミは不本意ながら)、私の精神衛生上必要である。だが、ある人は、金魚が必要だと言うかもしれない。小鳥であるかもしれない。また、別の人は、まったくの無駄であると考えるかもしれない。

  酒もそうだ。ある人の生活には欠かせないもの、ある人には、無くてもいいもの。宝石、朝の味噌汁、テレビ、車、すべて同じで、皆、その人の価値観によって必要・不必要という判断がなされる。

  それが、道路となると、なぜ“必要”という言葉が使われるのか、わからない。私なりに分ろうと努力した末、“必要な道路が作れない、必要な道路は作れる”と議論すること自体が、空論であるとの結論に達した。

  政府がつなぎ法案を撤回した意図、野党が合意した意図、これもさっぱり理解できないでいる。“必要”をいい加減に使っている政治家先生方に、一度、“必要”の定義付けをお願いしたい。そこからスタートしないことには、今の政治の動きは、まるで風を捕らえようとする様で空しくてかなわない。

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