老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

「命短し・・・」 erliuzi氏の寄稿

  
  たまたま読んでいた高島俊男著『明治タレント教授』(『お言葉ですが・・・』③)に言及がありました。

  塩野七生著『わが友マキアヴェッリ』に出てくる詩「バッカスの歌」(「・・・たしかな明日はないのだから」)の影響でできたものではないかと著者が言っている由。


  ちなみに、『ゴンドラの唄』は、大正4年、帝劇で上演されたツルゲネフ作『その前夜』の主題歌だそうです。

2008/01/31(木) 21:17:16 | URL | erliuzi #- [ 編集 ]

ゴンドラの唄

  映画「生きる」の主題歌がとても好きだった。主題歌だからその映画のために作曲されたものとばかり思っていたが、最近になって、きちんとした歌であることがわかった。

  あの映画の主人公のように、生きている間になにがなんでもやりとげなければならないというような仕事はついぞめぐり合わなかった。営利企業勤めでは無理である。やはり、公僕の立場でなければ、その状況に置かれないと思う。方や、金のため、方や、民のためだ。公務員は大変恵まれた職業である。

  先日、たまたま、題名が分って、その歌詞すべてを知ることができた。“いのち短し”は、おとめに向かって語っているのではなく、映画の主人公が自分に言い聞かせているものと、理解できたのは、それからである。

  私の命は、映画の主人公ほどではない(かどうかわからない)が、青年やおとめよりは、絶対値として、短い。

  それで、時間を有効に使おうと考えた。碁を打つ。呼吸は関係ないということで、尺八の練習をする。相手が考えている間は、ヒマだから、パンをトースターに入れる。猫が寄ってくれば、どうせ左手は空いているということで、喉を撫でてやる。時計を見上げて、ちょうどになれば、ニュースを聴く。耳は空いているのだ。夕方近くになれば、そろそろ鶏小屋に出向こうかと外を眺めてみる。マルチ人間となった。一つひとつやっていては、短い命では間に合わない。

  その結果となると・・・。碁はポカの連続、尺八はスカスカ、パンは黒焦げ、猫には引っ掻かれる、ニュースで何を言っていたのかさっぱり思い出せない。鶏小屋の戸は閉め忘れる、等々、すべてが様にならない。自分の馬鹿を再確認しただけだった。

   ゴンドラの唄  
       吉井勇作詞 中山晋平 作曲大正4年(1915)

    一.いのち短し恋せよおとめ
      朱き唇あせぬ間に  
      熱き血潮の冷えぬ間に
      明日の月日のないものを

    二.いのち短し恋せよおとめ
      いざ手をとりてかの舟に
      いざ燃ゆる頬を君が頬に
      ここにはだれも来ぬものを

   三.いのち短し恋せよおとめ
     波にただよい波のように
     君が柔手(やわて)をわが肩に
     ここは人目のないものを

   四.いのち短し恋せよおとめ
     黒髪の色あせぬまに
     心のほのお消えぬまに
     今日はふたたび来ぬものを

田中真紀子さんを党首に  社民党へ提言

  両国高校は府立三中が前身。卒業式には、いつも浅沼稲次郎からの祝電が披露された。社会党の偉い人位にしか、当時、思っていなかった。頭の中は隅から隅まで受験で詰まっていて、他の何かが、入り込むスペースはなかった。現職の政治家が母校の卒業式に祝電を贈る習慣は、珍しいのではないか。今、思うと、のんびりしていた時代だった。ついでに連想したことだが、府立一中(現日比谷高校)なら、そんなことをやっていた日には、祝電だけで一時間はかかるだろう。

  社民党は社会党が前身。見る影もない。明らかに人材不足である。

  話は飛ぶが、将棋のプロが最も嫌うのが、位負けである。これは聞いた話である。相手が挑発してきた時、それは大抵は無理筋であるが、唯々諾々と、相手の注文を聞くことが位負けの意味のようだ。囲碁は、神様に自分が成り代わって白黒陰陽で天地を創造する宇宙のバーチャル・ゲームだから(な~んちゃって)、次元の低い挑発などまったく関係ない(そうだ)。

  将棋は模擬戦争である。相手との一騎打ちである。政治家の選挙は、模擬どころか、真性の戦いである。その時、相手に位負けしたのでは、もうそれで勝負はついたようなもの。

  これを、社民党の福島党首がやってしまった。先の参院戦(選)で、遊説途中、新幹線名古屋駅かどこかで、安倍自民総裁とはちあわせした。安倍氏の「お先にどうぞ」を福島党首は笑顔で断った。そして、安倍氏が先に列車に乗り込んだ。このシーンを観て、私は、「こりゃあかん」と思わず口に出した。


  安倍氏は、公家様の血筋だろう、敵に対しても、レディー・ファーストを貫こうとした。私は素直に敬意を表する。福島党首が男なら、彼は絶対に取らなかった態度である。福島氏は、堂々と、遠慮せず、なんのためらいもみせず、胸を張って、安倍氏に一瞥もくれず、当然のごとく、ああ、言葉がなくなった、安倍氏の先に乗車すべきだったのだ。戦う相手とは、そういう態度でなければいけない。

  新幹線の中で、一人の記者が、それについて、正したら、「一国の総理ですから」と福島氏が笑顔で答えた。おかしいじゃあないの。総理から引きずり落とそうとしている相手にむかって、なんの敬意がいるのか。この質問をした記者は、稀に見る鋭い感覚の持ち主である。日頃、民放も新聞も読まない私でも、この記者がどこの社のものか、知りたくなったほどである。

  民主の鳩山氏がお坊ちゃんであれば、福島氏はお嬢さんである。一国一城の主を担うのは無理である。アメリカのヒラリーのような下品さを望むものではないが、位負けだけはしない人物を社民党は党首にしなければ未来永劫、カス札のままだ。カス札が、また、福島お嬢さんにふさわしくないのだから、悲劇である。

  重ねて言う。人材不足は、明らかである。ブラジルから監督をスカウトできるサッカーをうらやましがることはない。日本にいる。田中真紀子氏である。護憲などと机上の空論をもてあそばず、具体的に、はっきり、海外派兵だけはしないと綱領を改めるだけでいい。あとは、党が一丸となって、新潟に田中真紀子氏邸を訪れ、出馬を請う、三顧で足りなければ五顧でも八顧でも、とにかく彼女が「よっしゃ」と言うまで、根気よくお願いすることだ。田中真紀子党首に反対するような、党員は除名してしまえばいい。どうせ、党員の数など、四捨五入すれば、ゼロのようなものだ。反対する労組はいない方が、社民党には幸いだ。

  ぐずぐずしていると、田中真紀子も、人の子、角栄の子、おばさんからおばあさんになってしまう。私は、国内で自衛隊がサバイバル・ゲームを遊ぶまでは、困ったことだが、しばし諦める。だが、武器を携えて日本人が外国に出向くことだけはどんな理由があろうと(捏造されようと)絶対に反対だ。共産党が頼みにならないとなれば、社民党がしっかりしてもらわなければ、自民と民主、昨日の敵は今日の友、あぶなくてあぶなくて、夜もおちおち寝ていられない。

税を使う側、納める側  新たな階級闘争

  あれだけ福田首相からずさんさを責められた社会保険庁が、相変わらず、役人根性を丸出しにして、1億6千万円かそこらの税金を無駄にした。喜んだのは、ダブルで儲けた印刷会社、製紙会社、それと、運送会社、郵便局である。悲しんだのは、資源の無駄使いとなった福田首相得意の地球環境である。怒ったのは、儲け仲間の外にいる恩恵に浴さない大衆である。あきれて物も言う気がしないという大衆もいるかもしれない。

  我ら大衆は、固定資産税でも、所得税でも、自動車税でも、健康保険税でも、およそ税と名がつく金は納めなければならない。怠れば、資産を差し押さえられ、競売にかけられてしまう。

  1億6千万円は、こうした大衆から強制的に取り立てた金である。一人1万円であれば、1万6千人の税金が、無駄になったのだ。

  私の人口約15万の石巻市は、前回の市議会議員選で、選挙管理委員会のミスから、2億円の追加で、選挙のやり直しが行われた。それから見れば、人口1億3千万の日本では、驚くほどの金でないのかもしれない。兆単位で金を扱う国の役人の金銭感覚は、1億やそこらは雑費程度かもしれない。

  昔の階級と言えば、資本家か労働者かのいずれかであった。今、それに代わって現われた階級が、官僚と大衆である。支配階級か否かは、その者が間違った行為にでた時に、罰を受けるか受けないかですぐ見分けられる。

  大衆は1万円の未納でも、容赦されない。公僕である官僚は、1億円を無駄にしても、1万円の100倍の咎さえ受けない。官僚は支配階級である。

  同時進行のガソリン暫定税が危くなって、官僚らは、真っ青になっている。これまで、金は黙っていても、自動的に自分の所に飛び込んでいたものだから、前例のない昨今の状態に右往左往している。いい気味だ。

  野党よ、ここが我慢のしどころだ。甘い誘いに乗って、妥協してはいけない。今、解散総選挙となれば、郵政民営化の裏返しで、自民・公明は惨敗、必定だ。だから福田は任期満了まで座り続ける。野党は、それまでの時間を大切にして、今のうちに立派な人材を確保・養成しておくことだ。

  明日は社民党に物申す、何事も私の身になければ。

ガソリン暫定税の罪

  地方交付税、地方への各種助成金、これらが自分の首を締める結果になるいう風に話題にすると、田舎の人の返事は、決まってこうである。「自分たちが遠慮していれば、どこか別の所で使われてしまう」

  これには、私は相手が納得するような反論を持ち合わせていない。トルストイの“イワンのばか”を長老に語るわけにはいかない。住民の信念は、簡単によそ者には変えられない。もっとも、このよそ者が、聖人君子で、かつ、行政からのばらまき銭以上に施すのであれば別であるが、私には出来ない相談だ。

  皆さんも、おそらく、どう反論していいのか私の立場になれば困るのではないかと想像する。

  私が地方交付税や諸々の補助金・助成金を嫌っているのは、役に立つとか立たないとか論じる以前に、存在すること自体が地方の人々の心を蝕(むしば)むからである。欲、しかも、己の欲のみならず、他人の欲まで秤にかけて、損得を勘定する、これを行政が助長する。

  だいぶ前に正しい答えが浮かばない問題に遭遇したとき、問題そのものを消し去るのが最善の答えという、島の賢人の考えを紹介したと覚えている。地方への金も同じ。なまじあるものだから、田舎の人間同士で奪い合う。

  遺産相続とよく似ている。仲良く付き合っていた親類・縁者が、突然転がり込んできた遺産が元で険悪な関係になることはごく普通のことだ。(話は映画に飛びますが、“河は呼んでいる”はよかった。あのギターが奏でる主題曲のおおらかさよ。ビバ、フランス!)

  ガソリン暫定税が無くなると、道路のために、福祉・教育の予算を削らなければいけないという、あきれた三段論法がある。今日の福田首相の国会答弁でも、環境問題の解決に支障をきたし、諸外国から非難されると暫定税の堅持を国民に訴えた。大蔵(財務というのか)役人が智恵を貸したことは、間違いない。

  テロ特措法にしろ、ガソリン暫定税にしろ、外国の目ばかりを言い訳にしている。福田さん、自民・公明の議員さん、民主の中の賛成の数人に勧める、もう一度、小学校に戻って、自立精神を先生から教えてもらうことを。

ガソリン暫定税率で聞こえる地方の声

  我が家の猫は、ドライ・フードが基本である。昔、飼った時は、残飯にカツオ節、魚のアラなどを与えていた。今は、残飯は次の食事であり、魚のアラも私の貴重な蛋白源となっているため、どうしてもこうなってしまう。先日、たまたま、生協で特売があったので、缶詰のウェット・フード混ぜてやることにした。初めは喜んでくれ、猫の目に明らかに感謝が表れていた。今はどうかというと、ドライだけでは、いくら名前を呼んでも、冷蔵庫の前でじっとしているだけである。冷蔵庫の中に美味のウェットが入っているのを、覚えたからだ。

  これからは人間の話である。我らが田舎の地域振興ということで、県の役人が何度か島に足を運んで、人口500人そこそこの所に数百万円の予算を確保してくれた。島民は何もしないで、金が降ってきたのだから、ありがたく頂戴した。その後、この県の役人が島民の自助努力で島の振興をと願って、様々な事例を挙げ、NPOの開設を島民に呼びかけた。NPOはその名の通り、儲けがない団体である。

  この役人は総スカンを食った。理由は、なんで金にならない事をやらなければならないのか、バカバカしいということである。もう一つは、“そもそも活性化(地域振興)とはなんぞや”が大変な議論に発展したことである。前者は原住民から、後者は移住者から起きたものである。このあたりは、大分前にこのブログで紹介したように思う。

  一度、甘い汁を吸うと、智恵がつく。猫も人間も同じである。これまでの助成金・補助金は、巡り巡って自腹を切ることになるという真実を地方の人間はあまりにも軽視してきた。今回、ガソリンの25円かそれとも活性化かという選択を迫られたのは、まことに慶賀の至りである。

  私は、県知事や地方の土建会社のシンパが、いくら騒いでも、いざ選挙となれば、田舎の人間は、私も含め、絶対に、25円の側を選ぶと確信している。これまでは、己のサイフが痛まないため(見かけ上であるが)地域振興を歓迎してきただけだからだ。

       待ちぼうけ 
          北原白秋作詞・山田耕作作曲 大正14年(1925)
   一. 待ちぼうけ 待ちぼうけ
      ある日 せっせと 野良かせぎ
      そこへ 兎が飛んで出て
      ころり ころげた 木のねっこ

   二. 待ちぼうけ 待ちぼうけ
      しめた これから寝て待とか
      待てば 獲ものは駆けて来る
      兎ぶつかれ 木のねっこ

   三. 待ちぼうけ 待ちぼうけ
      昨日鍬とり 畑仕事
      今日は頬づえ 日向ぼこ
      うまい伐(き)り株 木のねっこ

   四. 待ちぼうけ 待ちぼうけ
      今日は今日はで 待ちぼうけ
      明日(あす)は明日はで 森のそと
      兎待ち待ち 木のねっこ

   五. 待ちぼうけ 待ちぼうけ
      もとは涼しい黍(きび)畑
      いまは荒野(あれの)の箒(ほうき)草
      寒い北風 木のねっこ

     韓非子  (五蠧) 
   宋人(そうびと)に田を耕す者あり。田中(でんちゅう)に株あり。兎走りて株に觸(ふ)れ頸(くび)を折りて死す。
   因(よ)りて其の耒(らい)を釋(す)てて株を守り、復(ま)た兎を得んことを冀(こひねが)へり。
   兎復た得べからず。而(しこう)して身は宋国の笑となれり。
   今先王の政(まつりごと)を以って当世の民を治めんと欲するは、皆株を守るの類なり。
      (耒: 畑で使うすき)

公務員制度改革  施政方針演説を読んで

  今日で、福田首相の施政方針演説は終わりとする。万能細胞、五里霧中年金、はては信頼という定義まで、細かく言えば、言えるが、もう読み飽きた。

  “公務員制度のあり方を原点に立ち返って見直すことが必要です。行政に対する信頼を取り戻すため、公務員が能力を高め、国民の立場に立ち、誇りと責任を持って職務を遂行できるよう、総合的な公務員制度改革を進めてまいります。
 国民への奉仕者である国家公務員の一層の綱紀粛正と倫理の向上を徹底します。“

  下克上の時代や戦国時代を除いて、公務員制度の改革に成功した地域も時代もかつてあったためしがない。

  大昔、イエスは、ヱホバから付託されたと自作自演した律法官ら官僚に逆らったため、磔(はりつけ)の刑に処せられた。原罪を背負ってなどというのは、あとから信徒が勝手につけた物である。

  江戸時代、3つの改革が試みられたが、いずれも、武士階級の官僚に潰されている。

  近くは、毛沢東の文革も、長征の経験がないエリート官僚によって失敗している。

  官僚組織にメスを入れようとして、すべて無残な敗北を喫している。平和が長く続けば、国という大きな組織の維持に官僚が欠かせなくなる。彼らは、強烈な自己保存・増殖本能があるので、国が次の戦乱あるいは無政府状態に陥るまで、絶対に、ギャフンという目に合うことはない。

  最近の日本ではどうか。橋本さんは省庁を改変しただけで、それを行革といっている。太陽の季節の作家の息子が行革大臣になっても、ただボケーと口を開けたままで終わってしまった。誰がやってもできないのだから、特別に非難されなくていい。

  今回、福田さんが、公務員改革を施政演説で公約した。私は、彼にも絶対にできないと断言して憚らない。できる程度の改革は、上っ面の改革である。有識者懇談会や学識経験者諮問委員会など、あれこれ立ち上げて、それの勧告を受けて、立派な規定を作り上げる。それで終わりである。

  福田さんの後、10年後の、さらにその先10年後の首相が国会の施政方針演説で、「国民への奉仕者である国家公務員の一層の綱紀粛正と倫理の向上を徹底します」と繰り返す、これも私は保証する。

  追:
  不祥事続出の官庁・警察やでたらめ企業がテレビカメラに向かって、必ず使う言葉、“真摯”と“より一層の”はなんとかならないものか。耳障りでいけない。福田さんの施政方針演説にも、使われている。一体どれだけの民衆が真摯の意味を理解できるのか。また、“一層”とは、あるレベルまで到達している状態にあることが前提である。彼らが“一層”というと、何か、これまでも“真摯”に努力してきたかのような幻覚にみまわされ、老いの身、寝つきが悪くなる。




行政改革   施政方針演説を読んで

  私は試験大好き人間である。昔、さんざん試験に悩まされ、今でも、悪夢として夜毎、私の胸を圧迫しているが、マゾ的に好きなのだから処置なしだ。(飼い猫が夜遊びから帰って、ベッドに飛び乗るものとばかり思っていたが、ある晩、うなされて目が醒めると、猫がいない。胸が苦しいのは悪夢によるものと分った)

  そういう私にとって、だから、この時期に実施される大学入試センターの試験は、年に一度の被虐的快楽である。これまでは、英語と中国語の2本に限っていた。今回は、昨年から始めた当ブログの標榜もあって、現代社会、政治・経済、倫理、国語を受験することにした。数学Ⅰも受けるつもりだが、これは、ご愛嬌の上のまたご愛嬌である。

  その政治・経済・倫理の中の問題が面白い。どうか私と一緒になって、受験生になったつもりでお考えくだされ度。

第71問
  次の文は、今国会における福田首相の施政方針演説の一部である。穴の空くほどよ~く読んで、問に答えよ。

【第一 国民本位の行財政への転換】
  国民に新たな活力を与え、生活の質を高めるために、これまでの生産者・供給者の立場から作られた法律、制度、さらには行政や政治を、国民本位のものに改めなければなりません。(a)国民の安全と福利のために置かれた役所や公の機関が、時としてむしろ国民の害となっている例が続発しております。私はこのような姿を本来の形に戻すことに全力を傾注したいと思います。

 今年を「生活者や消費者が主役となる社会」へ向けたスタートの年と位置付け、あらゆる制度を見直していきます。現在進めている法律や制度の(b)「国民目線の総点検」に加えて、食品表示の偽装問題への対応など、各省庁縦割りになっている消費者行政を統一的・一元的に推進するための、強い権限を持つ新組織を発足させます。併せて消費者行政担当大臣を常設します。新組織は、国民の意見や苦情の窓口となり、政策に直結させ、消費者を主役とする政府の舵(かじ)取り役になるものです。すでに検討を開始しており、なるべく早期に具体像を固める予定です。

  公務員の意識の改革も併せて必要です。「常に国民の立場に立つ」をモットーに、例えば利用者の利便を考え、手続の簡素化を進めるなど、現場の公務員も含め、仕事への取り組み方を大きく変えていきます。

  (国民の信頼を取り戻す行財政改革)
  高齢化の進展に伴い、年金や医療など社会保障に要する費用は増加せざるを得ません。地球温暖化問題など新たな時代の課題への対応も必要となってきます。行政に対する信頼を回復するとともに、国民生活に真に必要な分野の財源を確保するため、(c)徹底した行財政改革を断行します。

 来年度予算は、成長力強化、地域活性化、国民の安全・安心といった重要な政策課題にきめ細かく配慮し、メリハリのあるものとしました。新規国債発行額を本年度以下に抑えるとともに、特別会計改革を進め、九兆八千億円を国債の償還に充てました。(d)来年度四千人以上の公務員の純減を行います。

  予算の執行面においては、特に随意契約について、第三者による入札等監視委員会を全府省に設置しました。一般競争入札等への切り替えを徹底するとともに、すべての契約状況を厳しく監視し、その結果を公表します。また、(e)会計検査院の中立性の確保や機能の強化も必要であると考えます。  
  (中略)

   【むすび】
  〈中略〉
   私は日本人の力を信じています。日本人は、目前に困難があろうとも、必ずや未来を切り拓く、その力があると確信しています。

  「井戸を掘るなら、水が湧(わ)くまで掘れ」

   明治時代の農村指導者である、石川理紀之助の言葉です。疲弊にあえぐ東北の農村復興にその生涯を捧(ささ)げた人物です。彼はどんな時も決して諦(あきら)めることなく、結果を出すまで努力することの大切さを教えました。

  そして彼は、様々な事業において、「何よりも得難いのは信頼である。進歩とは、厚い信頼でできた巣の中ですくすく育つのだ」とも述べています。

   私は、本日申し上げました政策を推進するに当たり、どんな困難があろうとも、諦めずに全力で結果を出す努力をしてまいります。そして、活力ある日本、世界に貢献する日本へと進歩するためにも、進歩を育む信頼という巣を、国民と行政、国民と政治の間につくってまいりたいと思います。

  国民の皆様のご理解とご協力を、切に望むものであります。


問1.(a)国民の安全と福利のために置かれた役所や公の機関が、時としてむしろ国民の害となっている例が続発しております。
  例としてふさわしくないものを次の①~④のうちから一つ選べ。
  ①国民年金制度を複雑に組み立て、社会保険庁が国民を愚弄していること。
  ②テロ対策と称して、給油活動の名目で自衛隊を海外に派兵していること。
  ③判事・検事・弁護士らの良識の欠如を、裁判員制度の実施により、一般国民の強制参加で補おうとすること。
  ④首相が“国民の害となっている例が続発しております”と言っていながら一向に改めようとしないこと。

問2.(b)「国民目線の総点検」
  ここで言う国民とは何か、次の①~④から一つ選べ。
  ①後援会名簿に記されている地元選挙民
  ②キャリア官僚
  ③世論調査の度に変節が露呈する大衆
  ④アメリカ国民

問3.(c)徹底した行財政改革を断行します。
  断行の意味で誤りであるものを、次の①~④から一つ選べ。
  ①断じて行わないこと
  ②アメリカに断ってから行うこと
  ③小泉前首相にすべて委ねること
  ④庶民の首をギロチンに掛け(断)、役所の栄華を続(行)させること

問4.(d)来年度四千人以上の公務員の純減を行います。
  削減あるいは消滅が必要な公務員を次ぎの①~④から一つ選べ。
  ①気象庁地震担当部署の職員
  ②自衛隊員
  ③参議院議員
  ④外務省高級官僚

問5.(e)会計検査院の中立性の確保や機能の強化も必要であると考えます。
  次の①と②から正しいと思われるものを選べ。
  ①口で言うだけで、実行は不可能である。
  ②考えるだけ、考えないよりマシということである。

問6.この施政方針演説の原稿は誰の手によるものであるか。
  次の①~⑥のうちから一つ選べ。
  ①首相本人
  ②内務役人
  ③某新聞社の記者
  ④NHK論説委員
  ⑤アメリカCIAの日本人職員
  ⑥小国寡民

  (施政方針演説の他は人物および内容すべてフィクション、すなわち私の遊戯です。初めに断ったら、読んでくれなもんね。すいませ~ん)

ねんきん特別便   ゆりかもめ氏の寄稿

  相変わらず社会保険庁の年金問題が片付かない。それどころか、このごろでは泥沼状態になってきた。ものの本質を捉えないでパッチワークで仕事をするから次々に問題が起こってしまう。

  まず、「年金問題を片付ける」というのはただ「宙に浮いた年金記録を訂正する」ということだけだということを認識しなければいけない。年金問題が片付けば受給者の利益になるということでないことを忘れてはいけない。

  「ねんきん特別便」や「ねんきん特別便の追跡」といったことが次々に話されると、まるで受給者の利益のためになされるように聞こえるが、これはただただ国の記録を整えるだけなのだ。

  例えば私の夫の例がいい例だ。去年12月に「ねんきん特別便」の最初のロットが発送された。おどろくことに翌日夫にその特別便が届いた。夫は卒業以来一日の空白もなく仕事をしてきたから、年金も一日も欠けることなくかけ続けていたと信じていた。

  この日は最初の通知が発送されたというので、ニュースでもかなり詳しく取り上げられていた。いつものように・・この問題に詳しい・・人の解説も流れた。彼らは「今回の通知は何らかの問題があると思われる人に送られているので、社会保険庁に出向いたほうがいい」と口をそろえて勧めた。

  私の友人に社会保険労務士がいる。彼女も同じように「今回特別便をもらった人は必ずなにかある人だから社会保険庁に行って調べてもらったほうがいい」という。

  夫はとりわけサッパリした人だから、送られてきた記録と自分の記憶に違いが無いのでそれ以上のことは無いとさっさと返信ハガキを出した。(が、私が内緒でホールドしている)

  年が明けてまたその友人と話す機会があり、行ったかどうか聞かれた。彼女の話では、特別便には個人情報保護となりすましのごまかしを防ぐために、問題があると思われる情報は書かれていないが、社会保険事務所へ行けばなんらかのヒントや暗示をいってくれて記憶を呼び覚ませてくれるのだという。(遊びじゃないんだぜ!)

  私は「よしんば国の記録と自分の記録の差異を確認したところで、もし自分に有利な記録がないならば出向いた被保険者はなんの利益も得られないじゃないか?ただ単に国の不完全な記録を整えるために協力しているに過ぎないのではないか?」といった。しかし、年金問題というアリ地獄にはまっている人にはピンとこなかったようだ。

  おためごがしのようなことを言って、お金と時間を際限なく使うのみならず、個人の時間とお金まで使っている。どうにかならないのか!!

  よく考えると、いま問題にしている年金記録は、あくまで加入期間や納入月数の記録の精査であり、金額については別なのだ。嗚呼!

  PS このやり方なんだか素人が参加する裁判員制度みたい。


地球環境問題  施政方針演説を読んで

  福田首相が彼の施政方針で目玉商品ととしているのが、環境問題への取り組みである。以下は抜粋である。質の悪い記者が、発言者の揚げ足をとるために、・・・それは、自分の記事が話題になることで、卑小な自分の存在感を誇示したいがためであるが、・・・偏向した抜粋にするようなことはしていない。ご安心くだされ。

  “さらに、地球温暖化問題への対応を行うためにも、現行の税率を維持する必要があります。”

  “我が国が有する世界最高水準の環境関連技術を、世界が必要としています。当面は、更なる省エネ技術の開発や、食料生産に影響を与えないバイオマス技術、燃料電池の実用化などの新エネルギーの本格利用に向けた取組を加速することが重要ですが、中長期的には、地球温暖化問題の根本的な解決に向けて、温室効果ガスの排出を究極的にゼロとするような革新的な技術開発を行わなければなりません。このため、「環境エネルギー技術革新計画」を策定し、これらの技術課題の克服に取り組んでまいります。”

  “我が国を低炭素社会に転換していくためには、ライフスタイル、都市や交通のあり方など社会の仕組みを根本から変えていく必要があります。「二〇〇年住宅」の取組もその一環ですが、自治体と連携し、温室効果ガスの大幅な削減など、高い目標を掲げ、先駆的な取組にチャレンジする都市を十か所選び、環境モデル都市をつくります。低炭素社会とはどのようなものか、どうすれば実現できるのかなどを分かりやすくお示しできるよう、を開催することとしています。国民の皆様に低炭素社会を目指す運動に賛同をいただき、ご参加をお願いします。”

  “日本には、優れた技術を開発する力、すなわち、人材という得難い資源の宝庫があったからです。数回にわたるエネルギー危機を経験した日本は、人の力、人の能力によってその危機を回避し、ついには、地球の危機をも救えるかもしれない、高い技術力を保有するに至りました。”

  “無駄な排出を極力減らす、低炭素社会を実現するために、日本の力、日本人の力を今、世界が必要としているのです。また地球環境を守ることは、私たちの大切な家族、子や孫の生命を守ることでもあるのです。”

  私の感想:

  その一. ガソリン暫定税率の継続が環境問題への対応とどう関係があるのか、不明瞭である。

  その二. 環境破壊は技術革新で解消できない。シュムペーター経済学の限界を知ってか知らずか。"足るを知る”、それは、アメリカ思想に対峙するもの、これ以外に道はない。

  その三. 「有識者による環境問題に関する懇談会」、相変わらず、つまらない逃げ口上の場を設けようとしている。

  私が首相だったら、真っ先に、官公庁の車をすべて軽自動車にする。クリーンな車とかなんとか言っても、1トンを超える車体を60キロの人間が移動させること自体が問題である。大臣ともなれば、運転手が付くだろうから、二人して重い鉄の塊を運ぶ。軽は、その名の通り軽い。第一、クリーンといっても、電気を使えば、発電所が必要になる。重油をそこで使えば、川下の環境破壊が川上に移っただけのこと。原発なら、いつか産廃を、地中か海中に捨てなければならない。大型の車が環境に優しいことはあり得ない。

  軽は危険か。それがどうしたというのだ。首相以下、大臣、次官、みなdisposableである。disposableが失礼にあたるなら、replaceableと言っておく。日本全国、誰一人として、欠けたら大問題になるような人物はいない。必ず、ネクスト・バッターズ・サークルに次ぎの打者が控えている。ピラミッドを構成している民主国家とはそういうもの。だから、民の軽に対する感情と同じでいいのだ。環境・環境と繰り返しうるさく言う前に、少し口を閉じて、自分の身を以って、民に模範を示したらどうか。どれほど最先端技術を駆使したとしても、重い車は環境に悪い車なのである。

  我が石巻市役所の駐車場には、役所のマークの入った軽が沢山並んでいる。環境にやさしいからか、貧乏予算からか、怪しいものだが、とにかく軽で十分間に合っている。やろうと思えば、永田町・霞ヶ関でもできる。

  福田首相が、官公庁・外郭団体の車を今後3年ですべて、軽に換えると、所信を述べたら、本物の地球環境内閣だったのだが。

  北海道洞爺湖サミットはfakeである。イカサマである。

  附:
  断るまでもないが、大臣が自分の家にベンツを持とうが、フェラーリを持とうが、三輪車を持とうが、周りのとやかく言うことではない。自分の金で自分の好きな車を買う、これまで、地球環境問題のために我慢せよとは、誰も言えない。


核兵器  施政方針演説を読んで

 私が最も腹を立てたのが、核についての発言である。

  “テロとの闘いや大量破壊兵器の不拡散問題に積極的に取り組みます”

  朝鮮に対して核の放棄を迫りながら、大量保有国家のアメリカ、中国、ロシアに気兼ねして、大量破壊兵器を核と読ませることでごまかしている。不拡散と廃絶は同時に現実化されない矛盾である。廃絶であるべきを、不拡散であたかも平和を願っているように見せかけている。

  これでは、話にならないので、くまなく演説を読んでいった。そして、ようやく、環境問題の重要性に言及した所で、核兵器という言葉に出会うことができた。

  “人類はこれまで、幾多の困難を乗り越え、二十一世紀を迎えました。今我々が直面しているのは、二十世紀に経験した戦争や核兵器開発などといった、各国の利害が絡み合う問題ではなく、放っておけば地球全体が滅びるという危機なのです”

  はからずも、戦争と核兵器が各国の利害問題であることを明言した結果となった。おそらく、この部分の原稿は環境省によるものだろう。それはさておき、これは、正に、テロとの戦いという戦争が万国共通の正義からではないことを、白状しているものである。ついでに、言葉尻を捕らえれば、“などといった”などと(!)気軽な表現で戦争や核兵器を引き合いに出すな、といいたい。地球全体とは、これまた大げさな。人類が滅びるだけなのに。

  要するに、あれだけの長文でありながら“核”についての発言がないのである。核兵器を正面から取り組まないまま、今年の夏、長崎・広島に出かけるつもりだろうか。叩けばキーンと音がする鉄面皮という面を下げて。

  他にも、多々あるが、明日をも知れぬ我が身ゆえ、ワースト順に開陳していくつもりだ。折角、高いインクを使って(くどいなぁ)プリントアウトしたのだ、1回や2回のブログで止めらるか。

  追: 昨日のブログの拉致問題
  産軍共同体の伸張著しいわが日本政府は拉致問題の解決をできることなら永久に、少なくとも、次の仮想敵国を作るまで、延ばそうという魂胆である。福田は、総裁選で勝ちたいがために、党員の耳に快い言葉を言ってみただけのことだ。

  前にも書いたが、現実するはずのない実行犯の引渡しを勇ましく吠えたのは、アメリカの威を借りたから(イソップ寓話に習ったか)。そのアメリカが、朝鮮民主主義人民共和国と敬意を表して、朝鮮を呼ぶのだから、びっくり仰天。

  日独防共協定に安穏としていたら、突如として、独ソ不可侵条約が結ばれた。外務省の情報活動なんて、昔も今も、こんなものよ。危なっかしくって見ていられない、いや、目が離せない。



 

拉致問題の「落としどころ」 erliuzi氏の寄稿

  施政方針演説の引用がありました。「すべての(生存している)拉致被害者の一刻も早い」とカッコ内を補って読むべきものです。

  拉致問題は重要です。ただ、それがすべてということではないはずなのに、「情緒過多」の癖がまたもや繰り返され、「帰せ、戻せ」。多くの人びとは、拉致被害者の家族に同情を寄せながらも、その声にあらずば国民の声にあらずー式のお仕着せはおかしいと思っていることでしょう。

  日本と朝鮮の正常な関係の回復には、日本と韓国のそれを実現したとき以上の「情と理」かなった方式が求められるのでしょう。


解散  施政方針演説を読んで

   衆議院の解散があるのかないのか。

  解散権を持つ福田さんが、死んでもイヤだといえば、どれほど彼の人気が落ちたと周りで騒いでも、解散はない。内閣総辞職は衆議院で自民が与党でいる限り、ありえない。ここまでは、私にも分る。ならば、解散はないのか・・・。

  福田さんは頭の切れる男だ。負け戦さを仕掛けることはない。勝ち目の頼りがあるとすれば、ただ一つ、拉致問題の解決である。福田さんは総裁選で、「私が拉致問題を解決します」と豪語した。敢えて豪語と使ったのは、解決の性格をきちんと定義付けしないまま、公言したからである。

  その解決が、例えば、拉致されたままでいるとされて日本人がすべて死亡していたと判明したことになれば、福田さんの人気は下がりはしても、上がることはない。一人や二人、追加帰国しても、拉致被害者の団体は、まだ残っているはずだ、と不平を言うに決まっている。はっきりとした拉致被害の員数がないのだから、十人の帰国でも同じである。まだ残っているはずだ、と。

  このジレンマを、福田さんがどう対応するつもりなのか、この一点だけ、施政方針演説から知りたいと思った。断っておくが、拉致問題に関心があるのではなく、解散の可能性を占うためにである。幸い、いつも手助けしてくれている友が、全文を教えてくれたので、【はじめに】から【むすび】まで、生まれて初めて日本国首相の施政演説を読んだ。

  “北朝鮮に対しては、六者会合などの場を通じ、関係各国と連携して核の放棄を求めていきます。また、すべての拉致被害者の一刻も早い帰国を実現し、不幸な過去を清算し日朝国交正常化を図るべく、引き続き最大限の努力を行っていきます。”

  高いインクを泣く泣く使って、全文プリントアウトしたら、12ページになった。朝鮮に言及したのは、上のわずか数行、拉致に限って言えば、文字数で21文字。どう実現するのか、まったく具体的な表現がない。“不幸な過去を清算し”を先にすればいいものを、小泉さん・阿部さんの流れのままでいる。しかも、“すべて”と軽率にも付け加えてしまった。

  さて、これからが私の推論である。拉致問題の結末はとうの昔、外務省が把握している。あれだけ、長い期間、頻繁に六カ国会合があったのだから、日本の外務省が中国や韓国に、拉致の実態を探るよう頼んだのは間違いない。それで知ったのが、日本国を沸かすようなサプライズがないことだった。麻生さんが総裁になっていれば、その事実の公表が対朝鮮強硬策の材料となったが、福田さんがなったので、どうにも格好がつかなくなった。福田さんは首相になって、初めて知ったものだから、尻切れトンボだ、何も言えない。彼に解決の確信があれば、施政演説で“長々と”その伏線をほのめかすはずだ。人気回復ならなんでも、あり。今は、出し惜しみする雰囲気でないことを彼自身が一番知っている。

  あわよくば解散総選挙の数日前に、拉致問題を劇的に解決し、一気に選挙戦を勝利に導くというシナリオが夢と幻になってしまった。福田さんに残された選択肢は、民主党の大失敗(これが結構あり得るのだから困ったものだ)にわずかな望みを託して、改選までじっと我慢の子でいるのみとなった。

  繰り返しになるが、彼は頭がいい。我慢ができる男だ。施政方針演説の拉致の個所を読んで、私は、今年の解散がないのではないかとの思いに至った。まあ、おとなしい人間ほど、やけのやんぱちになったら恐いというこのもあるが。

作るには作ったが、その後・・・

  行きはよいよい、帰りはこわい。建築物・道路・橋梁は作るのは簡単だが、その後の保守・管理は一過性のものではない。永久に経費がかかる。

  私の今いる田舎に、女川原発のたいへんありがたいご利益(りやく)で、立派な建物が数年前できた。図書館、温水プール、最新の機器を備えたトレーニング・ルーム。東京は港区あたりに建設されたらそれこそ、大入り満員であろう。何しろ、公営なので入場料がバカ安ときている。惜しいかな、ここは地の果て、向こうは海よ。閑古鳥が鳴いている。

  目の前に太平洋という天然プールがあっても、住民は泳がない。一銭の金にもならないからだ。素人がドライブを楽しむ風光明媚な観光道路も、地元のタクシーの運ちゃんは、金にならない空車で車を走らせない。これと同じである。

  東北の冬は寒い。その冬でも、プールの水は温水である。図書館は、いつ行っても、受け付けで職員がブラブラしている。普通の高齢者は、細かい字の本を読むよりコタツに足を入れ、分りやすいテレビを観る。泳がないプールにしろ、読まない図書館にしろ、建てる前から、みんな承知した上でやっていることだ。金、あぶく銭と表現するべきだろう、なまじそんな金があるために、建ててしまう。

  その後の保守・管理にまで原発のご利益は及ばない。結局、市が維持・管理する。税金でだ。そのための税金が公債であろうが交付税であろうが市民税であろうが、とにかく、延々と使われていく。某大手ゼネコンが建てたものだが、彼らは、その後の面倒は見ない。見てほしければ、お金を用意してください、と言うにきまっている。

  原発のご利益を例にあげたが、地方交付税も似たようなものだ。労せずして手にする金であることには変わりない。政府はガソリン暫定税が無くなれば、地方交付税が消えると脅かしている。私は、一度、ゼロにしたらいいと考えている。陳情すれば、都市から金が回ってくるという横着な考えがしみついている地方の人間を、真人間に厚生するには、これが最もいい方法である。その時、初めて自分たちの水ぶくれ思想(根性)の誤りに気がつく。それぞれの地方が、己の身の丈に合った贅沢を楽しむようになる。

  人間、無ければ無いなりにやっていくもの。地方も同じ。後々、やっかいになるようなものは、たとえタダでも、最初から作らないことだ。

道は続くよ、どこまでも

  大都市Aの周辺都市10箇所から道路を引いてくれと陳情団がくる。「わかりました」と道路を作る。そうすると、その10個所の一つひとつにまたその周辺の市や町10個所から自分のところまで、道路を延ばしてくれと陳情がくる。「わかりました」と道路を作る。ここまで計100本の道路ができたことになる。すると、100本を目の前にした住民が、あそこまで道路ができたのだから、それなら自分の玄関まで道路を作ってくれと、また末端当たり10件の陳情がでる。以下同文。その先は、隣りの町村とつながる道を作ってくれという陳情になる。最後は、日本全土が道路で覆われる。

  このように、道路を作れば作るほど、陳情が等比級数的に増加する。

  冬柴大臣が、地方の陳情で最も多いのが道路建設であると感に堪えぬ表情で、暫定税率の継続を訴えていた。自分の国交省が地方の声を一番よく知っていると言いたいのだ。陳情が多い理由は、単純な算数にすぎない。

  もう一つの理由、これがまた始末におえない。それは、ゼネコン・土建業者の営業活動である。陳情そのものが彼らの営業活動なのだ。役所や外郭団体の窓口に日参すれば、役人は、悪い気はしない。私は一時カタログ印刷や広告を出す方の仕事に携わったことがあったが、打ち合わせのアポはこちら次第、つまらない話題にも喜んで乗ってくれる、盆暮れは、自宅にデパートから届け物がきまってくる。さすがに、盆暮れはなかろうが、役人だって、俗物の程度は私とたいして違いはあるまい、いい気分でいるはずだ。これが、あたかも住民の切なる願いと銘打った陳情となる。ガソリンの値上げを止めて欲しいと役場に陳情するヒマな民はいない。

  今、自民・公明が政権の座からずり落ちる時を考えて、ブラック・ジャックのインシュランスよろしく、民主党にしきりにゼネコン・土建が擦り寄ってきている。あわよくば、道路建設の言質をとろうという魂胆がミエミエである。

  冬柴大臣は頭が悪いから、陳情を鵜呑みにしても、止むを得ないが、民主党まで、一緒になって、頭を悪くする必要はない。民主党よ、暫定税率の廃止で、リッター当たり25円安くなる、・・・・もうこれ以上何も言わないで、民衆に向かえばいい。具体的な金銭表示はウソ・言い訳ができないことを、民はよく知っている。ポピュリズムなどと、地方商品券とやらを出した公明・自民に言う資格はない。陳情には「ハイハイ」と聞き流しておけばいい。

  私は机上の空論が大嫌いである。道路の増殖についても、信じないようなら、宮城の牡鹿半島にお出ましくださればいい。昼間、いくら道路わきで見張っても、車の通行台数は、カウンターでカチ・カチ・カチだ。夜間は絶対に、鹿の通行量の方が多い。

  道路は、金があればあっただけ需要が増える。それは、逆に言えば、金がなければないなりにやっていけるということでもある。昨日のブログで、防衛予算の1割と政党助成金で、暫定税率分を補えばいいと書いた。今日、それではとても補えないと知ったので、道路行政の本質を昨日の続きとして書いてみた。


暫定のたどり着く先

  工場に勤めていた頃の話。年中、現場では合理化、合理化の掛け声の嵐で、半年に1回、いわゆるカイゼン(改善)提案が審査・表彰された。それと同時に、品質管理の標語集めも行われた。

  私は、『取りあえず、取りあえずが、命取り』を生涯の傑作として提案箱に入れ、入選を祈った。私は例の工場長付だったから(すなわちヒマ人だったから)、選考委員の一人に選ばれ、山とつまれた応募作品の選考に当たった。平凡な標語がぞろぞろ出てきて、(例えば、『よい品を、みんなで作れば笑い顔』なんてレベル。消防庁の火災予防の標語並み)、ついに自分の番がきた。他の委員は笑うだけで、私がいくら、素晴らしいと褒めても、ボツになってしまった。

  工場の現場を一度でも経験したことのある人は分るだろうが、この『取りあえず』は実に便利な言葉である。しかし、あくまでもその場しのぎであるから、根本的な問題解決にはなっていない。そのうちに、しのぎきれずに、大問題に発展する。このパターンを私は何度も見てきた。また、私自身の仕事振りや生活態度も『取りあえず』で今日まできたようなものだから確信して言える。

  この苦い思い出を蘇がえさせられたのが、ガソリンの暫定上乗せ税率である。暫定は、くだいて言えば、『取りあえず』だ。何十年も『取りあえず』で済ませてきなのだから、ひずみが生じない方がおかしい。国交省も地方も、どうせ、取りあえずなのだからと言って、ゼネコンとグルになって、どんどん使い込んできた。

  今になって、この暫定上乗せが廃止されると、あたかも、今後、日本の道路が一本もできないかのようにまことしやかに説明し、人心を惑わす。

  そんなに上乗せ税の減少がたいへんだったら、まず、サバイバル・ゲームで遊んでいる防衛省から、その予算の1割を、国交省は分捕ってくればいい。それでも、足りなければ、政党助成金の半額返納を国会議員に迫ればいい。

  冬柴レスラーと石破レスラーが、福田レフリーを間にして、「道路が無くてもいいのか」、「軍隊が無くてもいいのか」と、最後には取っ組み合いのけんかをする。周りは、それぞれの省の高級役人が応援団として陣取っている。

  民の税金を心底ありがたく感じるのなら、これ位の事態に至っても当然ではなかろうか。

  暫定税は、撤廃すべし。

福田首相の演説

  福田首相の演説を夜7時のラジオで聴いた。「つまらない演説だなあ」が私の印象である。役人の原稿を棒読みしているのが、みえみえだ。一国のトップ(政治の)がこれだから困ったものだ。

  映画「独裁者」では、チャップリンがインチキ語で演説する。ドイツ語の発音によく似ているが、まったくドイツ語とは別で、ただがなっているだけである。それでも、彼が何を訴えているのか、“よ~く”わかる。

  福田首相は、まともな日本語で語ってはいるが、“な~ん”にも伝わってこない。感激のない演説は、眠気を催すだけだ。彼が、「ジュリアス・シーザー」のアントニオが演説する場面を観ていれば!

  なんであんな小物(オヤジの跡を継がなければ、せいぜいどこかの会社で総務部長止まりでしょうな)が総理大臣となっていられるのか、あゝわからない。

     あゝわからない

    あゝわからない わからない
   今の浮世は わからない
   文明開化と いうけれど
   表面(うわべ)ばかりじゃ わからない

   瓦斯(ガス)や電気は 立派でも
   蒸気の力は 便利でも
   メッキ細工か 天ぷらか
   見かけ倒しの 夏玉子

   人は不景気不景気と
   泣き言ばかり くり返し
   年がら年中 火の車
   廻しているのが わからない

   あゝわからない わからない
   賢い人が なんぼでも
   ある世の中に 馬鹿者が
   議員になるのが わからない

  明治39年、西暦1906年の作詞である。

三等書記官自伝  

  友はありがたい。島の暮らしはまともな活字と接する機会がないといつか話しをしたら、それからというもの、毎月、定例便と称して、コピーを郵送してくれている。役場やなんとか協会、なんとか協議会が発行している会報如きに、活字の楽しみはない。無駄な印刷と腹を立てながら、読まずにゴミ箱行きだ。たまに、自分に関係する行事の予定が書かれているから、後になって、慌てることもある。例えば、税金の申告、保険証の更新などである。この程度だから、どこそこの会館ですずめ踊りをやったとか、どこそこの浜で地引網の実習があったとか、10年前に知ってしまったことは読まないで済ませることにしている。相手もよく見ているもの、ここ半年は、回覧版も回ってこない。来れば、班長に戻さなければならないので、初めから来ない今の方がいい。友からの定例便は来てありがたい、役場などからの定例便は来ないことがありがたい。

  その友からの定例便に、鈴木宗男がらみで牢屋に入った外務省の役人の自伝がある。宗男さんは公人だから、名を挙げたが、この役人は名前はAでもBでもかまわない。内容にもコメントしない。生きている市井の人間を私はあれこれ評する気はない。だから、ここは外務省の一般論である。

  びっくりしたのが、既に何年も外務省に勤務していなくなっているにも係わらず、俸給の6割が振り込まれていることである。ニ度と役所に戻ることのない男になぜ、休職扱いの名目で失業手当もどきが与えられるのか。不思議でならない。むろん、当人は、返上する必要はない。そういう外務省のシステムが問題だからだ。裁判にも金がかかろう。何しろ、相手は税金に糸目をつけず裁判を起こしているのだから。この事は、だいぶ前の連載にあった。

  今回は、もっと驚いた。毎月60万円が精算の不要な、すなわち、自分の好きなように使っていいという、凡人には夢のような在外勤務手当てがあることである。外交官の体面の維持や休暇でリフレッシュするためとのこと。その体面の維持のために、ベンツやBMWを買うそうな。休暇でリフレッシュのために、エーゲ海に旅行するそうな。ここを読んで、しばらくは、ボケ老人さながらに開いた口がしまらなかった。自伝作家のように現地の教育に使うのはめずらしいというニュアンスだった。

  天下国家を司る政治家の領収証騒ぎが1円単位である。防衛省役人の接待ゴルフは1万円で自腹を切ったかどうかをマスコミが大騒ぎしている。ウソの証言となれば、ニュース・キャスターは鬼の首でも取ったような興奮状態に陥る。この自伝作家三等書記官である。外交官の資格でと断っているが、三等は三等重役というように、下っ端の位だろう。正式な外交官なら、60万どころか、天井知らずのフリー・マネーがついて回るのではないか。

  ここまできて、私は考えた。裁判官の生活保証は、金銭の誘惑に負けないようにということで厚くしている(厚すぎるが)。外交官は、その上に、体面保証まで用意されている。こんな職業に一度就いたら、馬鹿らしくて仕事なんかできなくなる、少なくとも、私は、絶対に仕事などしない。すべて、事務方に「よしなに」!

  友はありがたい。この三等書記官とは別に、外交政策に対する己の信念を貫いたために、外交官を辞したエリート外交官(これが真のエリートである。並みの外交官なら、あの巨大な組織の中で、一人の信念が取り沙汰されるはずがない)がいると教えてくれたのである。私は、外務省は官僚の中でも、とりわけ(頭がいいだけの)ダメ人間の集まりと信じているが、そうでない人物もいることが分った。

  正しくは、“そういう人物がいた”が“今はいない”のだから、結局は、外務省には、ベンツとエーゲ海で税金を毎月60万円使って、体面とリフレッシュに精を出すダメ人間しか残っていないということか。

  この三等書記官の記事の信憑性は疑わないことにして、今ブログを書いている。いつか別の外務省官僚の自伝を読む機会に恵まれたいものだ。

人が宙に浮く

  まだCG技術がトロン程度の頃だったから、20年近く前であろうか。プールにムシロを並べ、その上を傘をさした中国人が、歩いて渡ったテレビを観た。時々、腰のあたりまで沈むこともあったが、とにかく、水の上を歩いた。テレビ側の人間二人が、同じように試したら、二人とも“傘をさして三歩歩めず”、水中にどぶん。それに前後して、これも中国だが、空中の扇子を、自由自在に操って舞ってみせた。CGや合成写真でない本物だ。

  それからしばらくして、上海の雑技団が直菅蛍光灯にぶら下がったのを直接、観客の一人として見る事ができた。普通の蛍光灯であることを示すために、点灯していたし、技の後、カチャンと割って見せたのは言わずもがな。

  マジックは面白い。だが、私にとって宙に浮くマジックは面白い以上のものである。なぜなら、イエス・キリストの奇蹟が実際に行われたことを、私は新約の言葉を信じるからでなく、こうした“超能力”者の存在で知ったからである。

  そして、ここ数年、ストリート・マジシャンが空中に浮く技を披露してくれている。ニュートン力学が通用しない。昔、早稲田に大槻教授という人物がよくテレビに出て、超能力のインチキ・カラクリを暴いていたのを、覚えている。今、第二の大槻教授はいないのだろうか。

  政治における権謀術数は史記でとくと学んだ。世間の喜怒哀楽はシェイクスピアで堪能した。この世に残る未練は、 “人が宙に浮く” 訳(わけ)だけだ。バカバカしくて話にならないと言わず、どなたか、是非、物理学的見地から、この現象を解説していただきたい。白頭(実際は禿頭)を垂れて切に請う。

国を訴える 国が謝罪する

  どうもしっくりこない。大学の博士はいざしらず、ハゲ頭にタオルを載せて湯船に浸かり鼻歌を歌う庶民には、この国というものがわからない。国民は分る。われわれのことだ。国家もわかる。対外的な意味で、日本国をいうのだ。世界政府ができたら、国家が死語になるはずだ。それが、単に、国となるとわからない。はっきり言わせてもらえば、国というあいまいな表現で、官僚の汚物をすべて処理しているように思えてならないのだ。その証拠に、ニュースにでてくる“国”は、たいていが悪役である。民に対抗する者として扱われる。

  私は、わずか6,000円の年間授業料で4年間(私の場合は5年間)自由に時間を使って学問に専念(私のことではない)できる大学があったことに対して、国に感謝している(私の場合は、まあ、数人の教授と数人の外国人講師で運営できるという、これ以上安くできないという程まことに安上がりな大学だった)。月額2,000円の奨学金(結婚してからも返済が続いたので、私学出のカミさんにイヤミを言われはしたが。初めての冬のボーナスで完済しておけばよかった!)でどれほど、助かったことか、これも、国にありがたく思っている。

  深夜の田舎道、制限速度を20キロオーバーしただけで、捕まったときは、きたないヤツと、警察を怨んでも、国を怨むことはなかった。70年安保の時、機動隊に蹴られたり、小突かれたりしても、同じだ。(ついでの話。70年安保の機動隊はひどい暴力集団だった。60年の時は、樺美智子さんのことがあったにせよ、お互いにある線を守っていたように思う。70年は都立大時代のデモだから、夜の行動となる。暗闇にまぎれて、圧倒的多数の機動隊が挑発行動に出る。東外大の時は未成年だったから、ブタ小屋でもかまわないが、都立大の時は、捕まったら、失職の上、下手をすれば前科がつく。一回で止めた)卒業間際、最後まで就職が決まらず、教授ばかりか、事務職員まで心配してくれたこと、これも国に感謝している。総じて、私は、国に感謝こそすれ、悪意を抱くことはなかった。

  ならば、仮に薬害の当事者になったらどうか、拉致被害者家族の一人になったらどうか。そんな甘いことを言っていられるか、と反論されるかもしれない。私は、これに対して明快な返答を用意している。すなわち、私は国を訴えたり、国に謝罪を求めたりしないということである。薬害は将来大変なことになることが分っていながら政治家に進言しなかった厚生官僚の罪である。拉致は、朝鮮との戦争状態の早期終結を政治家に進言しなかった外務官僚の罪である。国民年金も然り。すべて、担当部署に罪がある。だから、国といわずに、官庁をspecify(英語がぴったりなので英語を使った。日本語なら“名指し”か)して訴え、謝罪を求める。

  まだある。首相が国の名で民に謝罪する。これが非常におかしい。首相は曲がりなりにも国民の多数を代表する、いわば国民の親分である。会社でいえば株主代表である。それが、どうして、民と対立する度に官僚の肩を持つのか。官僚の立場に立つのか。首相は、担当部署の担当官僚を烈火の如く怒って然るべきではないのか。原告側の一番手前の席に着くべきではないのか。

  私は8月のブログで、“国”という日本語を気軽に使ってくれるなと、NHKに苦情を呈した。半年経っても、一向に反省する気配がない。それどころか、最近ラジオなので、耳障りであること、限りない。いまいましいから、こちらも、老いの一徹で、繰り返し、同じ文句をいう、・・・わかったようなわからないような“国”でごまかすな、と。


個人消費の伸び悩み  美徳を悩む不可解さ

  勤倹節約と覚ていたが、少しあやふやだったので広辞苑を開いた。やはり、間違いで、勤倹尚武とあった。倹約の倹がすでに節約の意味だから当然のことだ。尚武という美徳は、自衛隊にでも入らなければ今の世の中、味わえない。勤の美徳は、サービス残業がはびこっているから、まあ、経験したければ、できない話ではない。

  倹はどうか。私は、これも不変の美徳と信じてきた。宮仕えでは、自分の金も会社の金も、かなり浪費をしてきたが、それは悲しいかな私にこの徳が備わっていなかったからである。いわゆる、不徳の致す所である。今になって、その報いが来て、否が応でも、倹約しなければならないことになった。(とはいえ、私の人生設計通りに運ばれているのだが。もっとも、人生設計といっても、己の身の丈に合った人生設計だから、大げさなものではない)

  ところが、昨今、ニュースを聞いていると、どうも、倹約は不変の美徳ではないらしい。物を大切にする、無駄はしないようにする、あるもので間に合えば、できるだけ直してでも使っていく、そうすると、消費が低迷するというのだ。私は大いに結構なことだと思うが、本当は、大いに困ることのようだ。そうでなければ、個人消費は依然として伸び“悩み”などと、表現するはずがない。だれが悩んでいるのか。そんなに悩むのなら、戦争でも始めればいい。どんどん物資が消えていくこと間違いない。ハリケーンやモンスーンを起せばいい。家や車の注文がどっと来る。

  とここまで、頭を使って考えついた皮肉を言ったつもりだったが、アメリカや日本などの消費大国の現実であることに気づき、自称イマジネーションの大家も形無しと相成った。

  本当に消費は美徳かね?

ニュースを追う

  将棋の格言に、「王手は追う手」というのがある。相手の王様を捕まえようして、王手、王手と行くと、三十六計逃げるに如かず、となる。逃げる先は、こちらの陣営が手薄な場所なので(わざわざ敵の強い所にいく王様はいない!)、ついに逃げられてしまう。典型的なヘボ将棋、私の将棋である。

  碁でも、相手の石を殺そうとして、アタリ、アタリとやっていくと、相手の石は、捕まえられたら、盤上から抹殺されるので、必死になって、広い空間の方へ延びていく。結局、殺せない、そればかりか、取ろう、取ろうと夢中になっているものだから、気がついたら(と言うより、相手の反撃に遭って初めて気づかされる)、自陣がガタガタになっている。これは典型的なザル碁、私の碁である。

  私のブログのテーマは、小見出しにあるように、日本の世事・世相である。これらも、追えば逃げていく。だから、追わず、待ち伏せして捕まえようとしてきた。ヘボ将棋・ザル碁の轍を踏みたくないからである。

  私のこの考えと正反対と思われるのが、毎日流されているニュースとその解説である。いみじくも“ニュースを追って”という。彼らジャーナリストは、追う限りニュースはなくならない、すなわち、彼らの生業(なりわい)が将来にわたって保証されている、それが分っているのではないか。私は下司と言われようが言われまいが、こう勘ぐっている。

絶望という名の音楽  私のお気に入り

  クラシック、ポピュラー、ジャズ、民族音楽ほか、手当たり次第、何でも聴いてきたが(演歌は除く)、どれほど悲しい曲でも、いくらかの救いは感じられた。最高の悲劇トスカでさえ、最後の身を投げる場面では、神様に訴える、あるいはすがるというアリアである。失望や失意までの範囲に留めておくことが、音楽に限らず、文学、芸術に対する西欧人の価値観なのだ。そうでなければ、神そのものが不存在となってしまうから当然のかもしれない。

  その失望の先にある“絶望”まで踏み込んだ音楽を、私は、尺八の古典曲で知った。聴いていても、まったく救いがないのだ。本来、尺八は吹禅(すいぜん)と言われたように、虚無僧のお経代わりに使われたのだから、西洋の神様に対抗して、仏様の救いがあっていい。それが感じられない。聴けば聴くほど、奈落の淵に沈んでいく。虚無(きょむ)そのものである。

  愉快になる音楽、魂が揺さぶられる音楽、元気になる音楽、心が癒される音楽、このようなものなら、これからも多数世に出る。だが、この曲の絶望感を凌ぐような曲はもう出ないと思う。

  曲名は、一二三(ひふみ)鉢返(はちかえし)。横山勝也のCDが千円で買える。わずか9分の演奏だが、一つの楽器から響く音の流れで絶望が実感できること、私が請け負う。


百見は一聞に如かず erliuzi氏の寄稿

  そうでしたか。某メーカーは「家族経営」など批判されたりしましたが、企業年金では良さが出ていますね。私の古巣の某新聞社などは、年金の基準になる本俸を低く抑えた上に企業年金は5年で打ち切り。だから銀座で「貸しビル業」ができるのでしょう。

  本題に戻ると、ラジオ放送はアナウンサーや記者の描写力を鍛えました。ことば(音声か文字)だけで「実況」を伝えることがいかにむつかしいものか。

  もちろん、リアルに伝えられる映像を否定するわけではありません。ただ、伝説的になっている六大学野球中継放送の「神宮球場、カラスが三羽・・・」など、空中に待っている三羽のカラスをテレビが映し出したところで「あれ何だ?」ということでしかないでしょう。

  テレビの持つ特性をちっとも活かしてないテレビ放送、料金が只だから、などさもしいことを言わずに、切りましょう。「いつまでもバカにすんな!」です。

2008/01/11(金) 13:07:18 | URL | erliuzi #- [ 編集 ]

老人の夢

  老年は第二の子供時代と、シェイクスピアが言っている。社会に対して無責任でいられること、金がない分ヒマがあること、確かに共通しているが、一つ、“大きくなったら何になる”だけはない。既に大きくなって、何にもならなかったことがはっきり示されているからだ。中には子供の時の夢の通りの“何”になった人もいるかもしれないが、稀であると思う。自分がそうでなかったから、そう思って、自分を慰めている。

  何事にも代わりというものがあるもの。老年には、“生まれかわったら何になる”である。私は、「無」の思想家だから、生まれかわるとは考えていない。それでも、余興に、“今度生まれたら、何処がいい“は若い時から、しばしば空想した。

  日本は今世で甘さも苦さも十分堪能した。アメリカは白人に生まれても黒人に生まれても、ありがたくない。中国は、私の理想とする小国に正反対の国だからだめ。ギリシャやカリブ海の島々はいいが、年中観光客が押し寄せてくるので、問題だ。あれこれ世界地図をみて、もっとも望ましいところが、ポリネシアであった。周囲は海、戦争の心配はない。一日中、ハンモックでうとうとしていれば、いつのまにか夜になる。天然のプラネタリウム。地図のほか、映画「最後の楽園」の口笛の調べ「パペーテの夜明け」の底抜けに明るい楽天も私を惹きつけて止まなかった。映画「ハリケーン」の植民地総督など問題にしなかった。

  それが、最近、地球温暖化の影響で、島そのものが水没するかもしれないとのこと。現に、水位が上昇して、住めなくなった所もあるとか。超高層ビルが林立すれば、その分、エネルギー消費が嵩み、地面が消えていく。

  消えていく前にポリネシアに移住するのもままならず、冬の北西の風が吹いても、当面、水没する心配のない東北のこの小島が私の最後の楽園である。住めば都”ならぬ“住めば楽園”ということだ。

地球温暖化に関するNHKの論説で


  今、6時のラジオ夕刊を聴いたところです。地球温暖化の各国の動きなどを、某論説委員が解説してくれました。

  1.EUが大幅な削減ができたのは、社会主義国の崩壊によるもので、彼らの努力ではない。
  2.日本は、達成できない数値を出して、後で、足かせになるようなことは避けるべきである。

  どう思います?私は呆れ果てました。それぞれの国や地域はそれぞれの背景があるのは当然です。成績優秀な人を、下から見上げ、あれこれケチをつける卑しい根性です。達成できないですって?人のやることで達成できないものは何一つありません。早い話、テレビ放送を1日12時間にしてみたらどうですか。地上波がある間、デジタルは控えることもできるのです。NHKが、他人事とせず、率先すれば、電力消費はぐっと減り、温暖化対策として立派に貢献できます。彼らの車も軽にできるのです。

  地球温暖化の問題は、株価やサブ・プライム・ローンとはまったく次元が違います。

  彼は、アメリカの大統領選にも触れ、たとえ民主党になっても、数値は出さないだろうと、まるで、自分の考えが正しいようにも言っていました。

  昨日は、大げさな題名でラジオを持ち上げましたが、矢張り、内容です。

  ついでですが、アメリカが賛同しない限り、実効性がないのだから、アメリカの要望を聞かなければいけないという、不思議な論法があるそうな。話は逆ですね。アメリカが言う事を聞かなければ、経済制裁課す・スポーツ対戦をボイコットする位の姿勢でないと、地球は、ガキ大将のいうなりとなり、アウトになってしまいます。

  今日の夕刊とは別ですが、もう一つ。反対しているアメリカと中国を同断してはいけません。方や、さんざん物質的恩恵に浴してきた国、方や、これから、少しばかり物質的にゆとりを持とうとしている国。

  誰だって、うな重、かつ丼、中華料理、フランス料理、等々食べ飽きた人が、これからは、みんなかけソバだ、といったら、文句の一言も言いたくなりますでしょう。

  地球温暖化をビジネス・チャンスから見るなんてとんでもない発想です。儲けるための高齢者介護がどういう現状か見れば、わかることです。あの論説委員の話をなるほどと感心する人はまずいないと思いますが、今夜の夕飯がまずくなった腹いせに書きました。お許しを。





立証されたラジオの素晴らしさ

  昨年終わりからテレビをやめてニュースをラジオに頼るようになったことは既に述べた。その後のこと。年末の交通渋滞、新年の陛下のお言葉、各地の催し物、すべて、ラジオで足りた。サッカー天皇杯、箱根駅伝などスポーツ番組も、あるいはと思っていたが、ラジオで十分だった。画面にポツンとしか映らないサッカー選手は、彼がAであってもBであっても、一向に差し支えなかった。駅伝で、坂にかかって苦しいとアナウンサーが話せば、A大学のランナーであってもB大学のランアーであっても、苦痛にゆがんだ顔が目に浮かぶだけだった。

  ラジオで嬉しいことは他にもある。先月、電気料が大幅に減ったのだ。我が家の契約はつましく20Aであるため(島では15Aの世帯もあるらしい)、テレビをつけない効果は抜群、1割の減額となった。これで思ったことは、全国の規模のラジオ化となれば、かの憎っくき原発の1基や2基、不要になるのではないか、ということである。

  もう一つは、放送局側での経費節減である。中央道や関越道の上空をヘリまでチャーターして、車の行列を映さなくて済む。飛行機事故の説明に、わざわざ座席の模型を作る必要もない。男性アナウンサーは無精ひげを生やしたままで、OKだ。女性アナウンサーは、男性アナウンサーが話している間、ホステスもどきの作り笑いしなくていい。キャバレー姿の女性天気予報士もジーパンでかまわない。その上、ラジオに出てくるアナウンサーは、ほんの数名で足りる。今の私は、声でわかる。それで十分対処できる。

  まだある。例えば落語。テレビで観るより、ラジオの方が、よほど楽しい。テレビはどうしても、落語家の表情や扇子の動きに気を取られる。“とき蕎麦”をラジオで聞くと、自分が、北風の吹く寒い夜、屋台に駆け込んだ気分になる。テレビにはそれができない。

  かようにラジオはありがたい道具である。私は改めてラジオファンになった・・・。

  でも、観なくていいですから、某メーカーの超薄型テレビを買うだけは買ってください。私の企業年金がそこから出ていまして、国民年金の足しになり、かろうじて、老いの糊口を凌いでいるのです。某としたのは、名前を出すと、こんなブログを書いているやつのいたメーカーのなんか、死んでも買ってやるものかと、逆宣伝になるのが関の山だからです。これでも、塩爺のように大臣の座にあった時はとぼけ通して、辞めたとたんに自分のいた役所の官僚の悪口を言い出すような下劣な輩と違いまして、私の愛社精神は終始一貫しています。ならば、先ず自分で買えとおっしゃるのですか。こればかりは、“ジブンヲカンジョウニ入レズニ”です。その某メーカーのテレビを買ったら、一年間、海草ばかり食べなければいけなくなりますので。

不老長寿

  島にも、新聞を購読している知識人が相当数います。その一人の人と会った時の話ですが、老化するメカニズムが解明され予防も可能になりそうとか。テレビもニュースとして取り上げたそうです。

  古来、不老長寿は人間の夢とされていますが、すべての人間の夢とは言い切れません。なによりの証拠が、自殺する人間が、日本で、毎年、3万人を超えていることです。また、私の碁では、ありませんが(座して死を待つ類です)、ジリ貧の生活をダラダラ続ける位なら、一か八か、兵隊になって戦場に行った方がましという人もいましょう。

  しかし、ごく普通の人は、出来れば、長生きしたいと願っているのではないでしょうか。願っているのは、その願いが叶わないから許されるもの。これが、実現できるとなったら、大変なことになりましょう。宇宙旅行と同じで、初めは10億円でわずか10歳の追加が、需要が増え量産体制が整えば、10歳につき10万円となることは間違いありません。

  そうなったら、男性も女性も、大抵の人は、20代で生涯(?)を送るようになりますよね。中には、ピーターパンのように、子供のままでいたいという人もいるでしょう。そして、喜寿・米寿が、人が生き延びる分だけ死語になっていきます。少子高齢化を懐かしむ時代となります。、

  そういう世の中は恐ろしい世の中です。単純に考えただけでも、出産があって、出棺がないのだから、地球上人間だらけになってしまうということでしょう。

  現代医学は、もう、救いようがないほど、間違った方向に進んでいます。輸血までは、許容するとしても、臓器移植の段階で、人間は、身の程をわきまえなければいけなかったのです。世間は識者を集め、生体間さえすでに移植の存在を前提にし、その程度問題を倫理規定で解決しようとしています。これではいけません。こうした医術があること、そのものが誤っているのです。

  子供の頃観た映画「仔鹿物語」の中で、私とよく似てひ弱なしかしイマジネーション豊かな子供が、何かの病気で死んでいったシーンがありました。大人たちが、「彼は神に召された」と、主人公の少年を慰めていました。神の存在・不在はともかく、現実は、子供でも死に遭遇するということを、その時、はっきり心に刻みました。100歳まで生きる人がいれば、1歳を待たずに死んでいく人もいる。それを、甘受することが、生き物としての最低限のつつましさではないでしょうか。

  膨大な国家予算を各国が用意して、ベクトルを考えない頭脳明晰な科学者が競って研究していく。この不埒なジグソーパズルの最後の1ピースを埋めたとき、人類は破滅する・・・・私は、これを予言しかつ憂えます。

  神父さん、お坊さん、あなた方の出番ですよ。今のうちに、きちんとした生死観で、医学に歯止めをかけなければいけません。失職の憂き目にもあわないためにも。

囲碁は我慢比べ  私が弱いわけ

  
  碁の話になったらもう止らない。今日も、昨日の続きである。

  稽古事はすべてそうだろうが、プロに習うのが正攻法でかつ、もっとも上達が早い。碁も然り。大分前に、私の昔の失敗談を語ったので、師につかない愚かさはもう繰り返して述べない。今日は今の話である。

  対局すれば、棋譜というのが残る。これを、規定の謝礼でもってプロに見てもらう。ネットで送り、添削・講評が添えられて戻ってくる。これが、楽しい。勝った碁はどうでもいい。負けた碁を見てもらうのである。たまに、勝った碁の講評を依頼する人もいるらしいが、稀である。試験で満点取ったのを、家庭教師にみてもらうようなものだから。

  碁はまことにその人の性格が現われる。私への講評は、毎回のように、軽率と我慢の不足が指摘される。軽率はこれまでの人生で、周りの人間から、陰に陽に言われてきたから、“改めて”とは思わない。しかし、我慢については、碁の打ち方を見てもらって初めて分ったことである。考えてみれば、軽率は、会社なり仲間に迷惑をかけるから、クレームとなるが、我慢は、本人自身だけの問題である。だから、周りも、“こらえ性のないヤツ”位を内心で思うだけで、面と向かって私に言わなかったのだ。

  話は急に大きくなる・・・。世界で囲碁が盛んな国を見回してみる。すると、本家中国(政治を抜きにして、台湾も含め)、韓国、日本の3か国しか数え挙げられない。数千年を経ても、これら東アジアの国でしか普及してこなかった。この理由を、私は、我慢に求めた。自分がそうであるから、十分説得力があると信じている。

  この我慢を尺度として測れば、ラテン系民族はダメである。ロシアは我慢強いから、将来は見込みがあるかもしれない。もっともダメなのが、毎度のアメリカ人である。かれらは、あれこれ考えるような面倒を嫌って、すぐに腰の2丁拳銃をぶっ放す。話が飛ぶが、ロシア文学など、最初の人物描写の数ページで音を上げてしまうのではないか。

  戻ってわが日本。江戸時代は、一局を数日から長いと数十日かけて打ちついで勝敗を決した。現代でも、今でこそ持ち時間が短くなったが、一昔前は、双方、10時間を与えられ、それでも、終盤になると、時間に追われるのが普通であった。正に、我慢比べである。

  囲碁を考案した中国と囲碁を楽しめないアメリカ。ザル碁党の私が軍配をどちらに上げるか、明々白々である。そして、我慢が出来ずに自滅する碁を打つ度に、私は、“私もついにアメリカ並みに短気になったか”と嘆くのである。

  附:プロのアメリカ人がいます。時々、テレビの囲碁番組で、非常に品の良い日本語で解説してくれています。突然変異と私は思っています。碁を知らない人でも、彼の素直な日本語が楽しめます。いかが。

偉大なり、中国のヒマ人  囲碁

  人類がホモ・ルーデンスという別称を持っていることを、明確に示してくれたのが中国人である。彼らの発明に、火薬と羅針盤があると聞いたが、その火薬は花火に使われたらしい。どこかの国のように焼夷弾を作ったという記録はないだろう。羅針盤でも、どこかの国のように中南米まででかけて、原住民に対して殺戮の限りを尽くすために使ったという記録もないはずだ。

  彼らは基本的に遊び人である。天安門を前にして記念撮影する現代のおのぼりさんを指していない。数千年昔の士大夫階級のことを言っている。彼らは、年がら年中酒池肉林に溺れていたわけでなく、人類最高のゲーム、すなわち、囲碁とマージャンを発明(開発)してくれた人達だ。この2点だけで、彼らの中華思想を許すことができる。マージャンは、さておき、囲碁は哲学的な(呉清源師は宇宙の調和という)一面を表現している。それが、お経や学問でなく、遊びであることに、私は敬意を表するのである。


  昨今、中国の経済発展が騒がれているが、経済発展は何も特別中国に限ったことではない。長いスパンで見れば、泡沫である。人類が存続する限り廃れることのない囲碁こそ、中国が世界に誇れる今なお健在な文化遺産である。

  ザル碁党の私がなにを生意気な、と言わそうだが、バイオリンが弾けなくても、聴けば演奏の良し悪しが分ることと同じである。というわけで、私は、勝っても負けても、中国に足を向けて寝られないでいる。もっとも、勝ち碁を、終盤の大ポカで一瞬のうちに失った夜は、足をどこに向けても、悔しくて寝られないが。

 

FC2Ad