老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

職業軍人をテレビに出すな

  先に給油活動を終えた兵隊がテレビに出てあきれたが、今度は幕僚長がテレビに出て、文官の不祥事にかかわらず、自分たちは任務に励むというようなことを述べていた。

  制服を着用している限り、彼らの頭の中は、上からの命令を受ける、下に伝える、そして作戦する、これ以外に何も無いのである。カラッポである。だから、どのような記者会見が行われようとも、「誠心誠意、職務遂行」以外に出し様が無い。

  今度の防衛省不正疑惑で、国民が制服組を非難しているのならともかく、記者会見での弁明はまったく不要である。不要である程度で収まっていれば、単なる無駄で済ませられるが、こういう風に職業軍人を表に出していくと、彼らをして、ピュアーである故をもって、あたかも、政治家やマス・コミより偉いような錯覚を抱かせるようになる。頭の中がカラッポだから、ピュアーといえばこれ以上ピュアーなことはない。これが危ない。大いに危ない。

  断るまでもないが、徴兵は別である。ガダルカナル・サイパン・硫黄島の悲惨は徴兵にあって、職業軍人は仕事だから、なんの同情もいらない。ややもすれば、“お国のため”で混同しがちだ。次男・三男・学徒、かれらは、“お国のため”、軍人は、“上官の命令のため”。私は、私企業の新聞社をとやかく言わない主義であるが、この点だけは、マス・コミ全部に、言っておきたい。大正デモクラシーの崩壊を、当時の憲法や経済に求めるのは、間違っている。マス・メディアの軽率が最大の原因である、と。

  同種を殺傷するだけで生活できるのは、動物多しといえども、人間だけだ。いってみれば、人間の恥部である。どんなことがあっても、表に出す代物ではない。

  附:
  職業軍人については、陸軍少尉小野田寛郎さんの自伝、徴兵では、映画「ビルマの竪琴」と「聞けわだつみの声」(オリジナル作品。カラーのリメーク版は駄作)に、私は感動しました。

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歳末商戦  老いの自慢話



  今でこそ、インターネットで何でも買えるようになったが、私の時代では、家電品は、家電量販店に出向いて、買ったものである。大抵の人は、買う立場で生涯を終えるが(大げさな!)私は、仕事の関係で、売る立場になったことがある。

  家電は、サイフが重くなければ、爪楊枝や割り箸を買うような軽い気分で買うわけにはいかない。天下り先を転々として税金を掠め取る役人はいざ知らず、まともな人間は、年中、サイフが重いわけではない。それで、ご来店は、どうしても、ボーナス・シーズンに集中する。

  ウイーク・デーに行ってみればわかるが、郊外の量販店は、がらんどである。数人の店員も手持ち無沙汰で、展示品のテレビをつったってみているだけだ。ところが、このボーナス商戦が始まると、なぜか店員が多くなる。どこの店も忙しいのだから、回してもらったわけではない。なぜかの答えは簡単明瞭。彼らは、派遣店員なのだ。どこからの派遣か。家電メーカーからである。

  社長付き、工場長付きという無為徒食の代名詞のような肩書きの私がその一人に選ばれるのは、当然である。土曜・日曜・年末の休日に出るため、代休が与えられる。週5日の内2日休むのだから、日々の仕事が会社に影響を及ぼすような人間は、絶対に選ばれない。誤解のないようにしておくが、派遣社員ではないから、自社製品の販売拡張を大義名分とした無料サービスである。会社から、ご指名にあずかると、「しっかり売ってこいよ」と励まされる。さすがに、「どうせブラブラしているのだから、厄介払いだ」などどは決して口をすべらさない。出征兵士の心境がよくわかる瞬間である。

  さて、これも当然ながら、自社製品の売り場に陣取って、買いに来た客を、あれこれいいながら、自社製品を売りつける。これが、会社への忠誠心の発露である。ところが、量販店にとっては、自社も他社もない、さらに、テレビであろうが、洗濯機であろうが、売れればいいのだ。私の製品グループはあまり値がはらず、人気もなかったので、自然、ここでもブラブラする・・・はずである。

  これからが、私の自慢話である。

  それが、またやたらと忙しいのだ。遠くからでも、目ざとく私がいるのを知って、女性客が声を掛けてくる。冷蔵庫売り場に連れていかれ、どこの製品がいいか、教えてくれと頼まれる。ナショナル、サンヨー、日立、東芝、シャープ、輸入品、等々、どれがどうだかまったく分らない。電気掃除機、電子レンジ、電気ガマ皆、然り。初めて見る皿洗い機なんか、お客と一緒に感心しているばかりである。それが、なぜか、私は売上成績抜群なのである。買うと決まれば、倉庫から、その品を持ち出し、客と一緒にレジに行く。店長が、「おや、また小国寡民さんが、来た」という顔をする。蛍の光が流れる頃合いに、私の所にやってきて、さりげなく、「大変な売上でしたよ」と声を掛けてくれる。他の派遣店員とは別格である。

  なぜか。この答えも簡単明瞭である。ハゲじいさんとののしられる今とちがって、当時は、ビットリオ・デ・シーカかとまがうほどの銀髪紳士であった。客の応対は、長谷川一夫のあの一途な語り口、それでいて、どこか哀愁というか母性本能をくすぐるようなもろさ、まあ、マルチェロ・マストロヤンニとでもいいましょうか。その間にも、ふと見せる市川雷蔵に勝るとも劣らぬニヒルな後姿。これで、おばちゃん、姉ちゃんが、「考えておくわ、バイバイ」などと私に言えるわけがない。

  極めつきは、たとえ、洗濯機なんか使うより、川で洗濯板を使う方が、似合うようなおばちゃんにも、たとえ、掃除機なんか使うより、箒(ほうき)と雑巾(ぞうきん)がよっぽど似合う姉ちゃんにも、「奥様」「お嬢様」と呼ぶのである。普通の家電店の店員は、「奥さん」「お嬢さん」までは言うだろうが、歯の浮くような「奥様」「お嬢様」を言う勇気はもっていない。

  そんな具合で、年2回のボーナス・シーズンには、店からご指名をいただくまでになった。何年やったことか、・・・ついには、本当に歯が浮いてしまい、銀髪が消えたときには、上下、数本の歯を残して、すべて、失ってしまった。

  (注)一部、誇大表示があります。あくまでも、一部ですよ。


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額賀さんと守屋さん ウソ・ホント それがどうした


  額賀さんがウソをついているのか、守屋さんがウソをついているのか、あるいは、両人とも本当は忘れてしまっているものの、都合が悪くないように語っているだけなのか。

  これが、なぜ大問題なのか、私にはさっぱり理解できない。宴席に顔を出すのは、政治家であれば、自然なこと。福田さんも、ことさら問題にするほどではないと、言っていたが、この点は同感だ。もともと、政治家、すなわち選挙で当選する人間は、すべてにわたって、腰が軽くなければやっていられない。おっとり構えて、「来る者は拒まず」なんて言っていたのでは、落選まちがいない。宴席の声がかかれば、どんなにハードスケジュールが組まれていても、顔だけは出す、これが、政治家である。政治屋である。

  宴席で百万円の札束を懐に入れたというのならともかく、出席するくらいいいではないか。高級役人が居るのは、国会議員であれば、相応の相手だからおかしくない。

  出た、出ないは結局、水掛け論となる。証拠隠滅も証拠偽造も可能であるのなら、なおさらのことである。どちらが正直でどちらが嘘つきかなど、目くそ鼻くそだ。

  民主党はやっきになって追求しているようだが、本人が認めない限り、最後まで、水掛け論で終わる。こういう時間稼ぎは少数派のやること。一院制であったら政権の座についているはずの民主党は、(私が知らないだけで、宴席参加がそれほど国事に影響するのなら)自民も官僚も十分納得する確かな根拠をもとにして、堂々と論戦を張ってもらいたい。民主党には前原代表時代のニセ情報の前科がある。私は忘れていない。額賀さんは、これだけさわがれても、次回も地元で当選するだろう。守屋さんも、すでに失う物がないも同然。水掛け論で終わって大損するのは、民主党である。

  いいかげんに三流芸能週刊誌のレベルを抜けないと、民主党は、マスコミ・評論家には格好の材料にはなっても、まともな選挙民に見放される。

  兼好も、世の中ウソばかりと喝破している。ウソを追いかけても、空気を掴むようなもの。これが、日本人の伝統である。

  徒然草 第七十三段

  世に語り傳ふる事、眞事(まこと)はあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。
  ~
  とにもかくにも、虚言多き世なり。
  ~
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オンドリ 悲しくも確かな存在

  
  田舎暮らしに鶏の放し飼いは定番になっている。私もご多分に漏れず、菜園が一段落した時に飼い始めた。庭先で飼う以上、有精卵でなければならない。ところが、肝心のオンドリが手に入らない。縁日のヒヨコはみんなオンドリだそうだが、ここは縁日にはとても縁のない土地。それで、ウコッケイに抱卵させて、ヒナから育てた。抱いた日から正確に21日目に孵卵し、母鶏の懐から、かわいい顔をのぞかせる。

  半分はオンドリである。メンドリが60羽ほどいた時は、2~3羽に抱かせるので、一度にオンドリが6羽から8羽産まれる。オンドリはそんなに沢山いてもうるさいだけだ。産まれたばかりの時に、180日は、自然の中で思う存分生きてもらう、半年過ぎたら、2羽を残して、私が手をかける、と言い聞かせることにしていた。それでも、毎年産まれるのだから、オンドリはいつも5~6羽いた。今は、チャボ、尾長鶏、ウコッケイなど、卵に関係ない鶏を含めて、全部で10羽ほどなので、殺生はしない。

  さて、残されたオンドリはといえば、終生、メンドリのために生きているようなものだ。まず、カラス、野良猫など、外敵が来ると、負けるのが分っていても、メンドリの前にでてきて、自分が犠牲となる。自分が食われている間は、メンドリは安全である。野犬と違って、カラスや野良猫は食べるために襲うのだから、1羽で十分である。その間に、人間である私が犬・ヤギの散歩から帰ってくる。かれこれ、10年近く、オンドリを見てきたが、1羽として、例外がなかった。

  生死がかからない普通の日は、エサ運搬人である。ミミズや昆虫など大好物を見つけると、自分は食べないで、メンドリを呼ぶ。私が与える果物の残りや魚のアラも、オンドリは遠巻きにして、メンドリが食べるのを見守っている。朝夕のエサでさえ、メンドリはエサ箱の最前列に陣取って食べ、オンドリは、箱からこぼれたエサをついばむ。メンドリが満腹して、エサ箱から離れると、ようやく、エサ箱に寄ってきて、残りを食べる。これも殆ど例外がない。

  女性をいためる男、うまい料理に目がない男、昨今のテレビはこればかりだ。

  私から見たオンドリは、悲しくも確かな存在である。

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天の川 おごそかな錯覚 


  前に話したと思いますが、60年前の東京葛飾は、夜になれば、外は真っ暗。ですから、満天の星も夏の両国の花火大会も、背景が完全な黒ですから、見事という他ありません。仕事で知り合った映像機器の技術者は、最も難しい色が黒とのこと、よくわかります。

  今。半分は、本当の夜空を取り戻したいために、都会を離れたのですが、どうも、子どもの頃の夜空とは違うような気がしてなりません。私の眼がコントラストに鈍感になったのかもしれませんが、やはり、日本列島全体が光を放っているからのようです。石巻市街の光ばかりでなく、遠く仙台の光も影響しているのではないでしょうか。話が飛びますが、クリスマスの近くになれば、光のページェントと称して、あちこちでキンキラキンに夜空を照らす。私は、イエス・キリストを偲ぶのなら、はるか二千年前の荒涼たる砂漠を想像して、闇をさらに深い闇にしなければならないと思いますが、いかがでしょうか。

  私の所は、月に一回、よければ数回、天の川を見ることができます。空中の水蒸気と夜間の漁労船の明かりで、夏はほとんど駄目です。もっとも、たとえ見れたとしても、スターウォーズ顔負けのヤブ蚊軍団に総攻撃されますので、おちおち、外には出られませんが。これからの冬が本番です。

  寒いのを気にせず、天の川が見える夜は、私は数時間の間をおいて2度見ます。そうすると、当たり前ですが、天の川が天空を大きく回っていまして、私は、私が地球という風船の上に乗っていることをはっきり自覚できます。自分の体が見えなくなる竹やぶの中からですと、まるで宇宙の中にポツンと一人いるように錯覚してしまいます。この錯覚は、夏の海に浮かぶ時の生きている喜び(それは私個人のもの)とは別の、(私が)生きとし生けるものの一つであることの厳粛さを与えてくれます。

  天の川は、別名、銀河。銀河といえば、宮沢賢治。夜空を見上げると必ず私が口にする彼の言葉で今日は締めることにいたします。

  まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう

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業、官、政、残るは民

  
  都会人には、代議士も官僚も、遠い存在である。普通の仕事をしている都会人の中には、いろいろな手続きや許認可で役所と係わる者もいるだろうから、強いて言えば、官僚の方が、まだ近い方だ。主婦も、生活面のさまざまな苦情も、相手は役所であるから、同様だろう。薬害、公害なども、役所だ。代議士と接することは、まず無い。

  田舎は、その逆である。最近は一部にガタがきているが、がっちり固めた後援会組織が一つのヒエラルヒーを構成していて、国会議員であっても、国会議員すなわち県会議員の親分、県会議員すなわち市議の親分、市議はオラホの一票で当選したと、連想することで、それほど遠い存在ではない。官僚は、その反対で、最高で県職員止まりである。普通の生活では、役場の窓口以上には、係わらない。

  それが贈収賄に対する感覚の差に現われる。都会では、政治家の腐敗も官僚の腐敗も同列に扱われる。両方とも、許しがたい。一方、田舎では、政治家の腐敗に、それほど、反感を持っていない。なぜなら、ワイロで懐にした金が、地元に還元されているからである。このワイロが、政治家の床下の金塊に化けるのなら、話は違ってくるだろうが、田舎の政治家は、とにかく面倒見がいいから、その散財も馬鹿にならず、田舎の人間はこのことをよく知っている。代議士が悪いことをしても、かえって、悪いことをしてまでも、地元のために尽くしてくれていると感動する程だ。官僚の方はといえば、話題にならない。はるか遠くの存在、テレビの画面だけの存在である。

  私は、ドロボウが縄を編んでいるようなもので、政治家の不正は政治家では解決できないと考えている。国会議員が暴言を吐いたり、不正が露見したりすれば、全国共通券のマスコミに騒がれ、ほとんどの場合、辞任に追い込まれる。地元はまったく反対の価値観で代議士を測るから、ミソギを終えれば、再度、当選となる。全国共通券は総論であって、各論の田舎では通用しない。総論は優等生、悪く言えば、上っ面だけの正義感、各論は、生活に密着した実在感である。どちらが強いかは、火を見るより明らかだ。

  業、官、政とデタラメが横行しているが、本当に「隗より始めよ」と言いたいのは、民に向かってである。

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出征兵士の無事帰還を祝す NHK報道


  テロ特措法が切れたというので、軍艦が母港に帰ってきた。相変わらず、NHKが隊員にインタビューをしている。とんでもない話である。インタビューは、頭の中に何かがある者に対してするものである。自衛隊は国の安全を確保するためとの、大義名分がある。インチキであるが、とにかく名分が存在する。では、自衛隊員はどうか。人を殺すこと、傷を負わせること、これが仕事である。松島に近い私の所では、毎日ジェット機の航空ショーが見えるが、これとて、地上から見ればであって、パイロットは、人を殺す訓練に励んでいるのだ。頭には、To kill or to be killedしかない。自衛隊員の中には、並みの大学教授よりはるかに知能指数の高い者が大勢いるだろうし、テレビ出演の解説者よりはるかに世界情勢に詳しい者もいるだろう。しかし、それは、軍人としては何の意味もない。上官からの命令に従うだけの彼らには個々人の意志はあってはならないのだ。飛車や桂馬が、将棋指しの考えに関係なく、勝手に盤上をピョンピョン動いたら将棋にならないのと同じである。

  そういう人間にインタビューをするほど、バカな話はない。このバカな話をNHKは繰り返す。お人好しは、「まじめに働いてご苦労さん」という気になる。単細胞の人間も、「お疲れ様、ゆっくりお休みください」と声を掛けたくなる。立派にお勤め、即、立派なお仕事、即、給油活動は立派な活動と、すぐ短絡してしまう。このNHKの下心を、見抜けない民がわんさといるのだ。命令だけで動く人間は将棋の駒。無機質として扱われなければならない。彼らに、感情移入をしてはならない。それが出来ない民が多いのが現実である。

  無事に帰ってきて、こうだから、無言の帰還となったら、NHKは自衛隊員哀悼の(実は賛美の)特集を何本組むか、想像しただけで恐ろしい。簡単に無言の帰還と書いたが、日本国内で外敵の侵入に立ち向かった時には使わない表現。要するに既に、日本は海外に出兵しているということでもある。

  家族との面会シーンもあった。無事に帰ってくれてよかったと細君が喜んでいた。これは、長い遠洋漁業からようやく帰ってきた漁民の妻の言葉である。細君に喜ぶなと言うのではない。家に帰ってから、夫婦でじっくり無事を喜べと言っているのだ。公衆の面前で無事を喜ぶようでは、職業軍人の妻として失格である。無言の帰還となったら、おいおい泣き悲しむのだろうか。お人好しや単細胞の人間は、間違いなく、同情が極まり、敵愾心がいやでも高揚する。

  NHKよ、職業軍人をテレビに出して祝すのは、いいかげんに止めよ。軍人を甘やかすと、本当にテレビの主役になるぞ。韓国の光州事件、中国の天安門事件、今の、パキスタン、ミャンマー、ああいう風な登場となるのだ。私企業である新聞社が社旗を振って帰還自衛隊員を迎えるのはかまわない。だが、国民から受信料を取り、その報道を公共という偽装で行っているNHKを、私は見過ごすわけにはいかない。NHKは先の大戦で、軍人と同じように、時の権力者の言うがままであった。この悪しき伝統が今でも残っていることを、皮肉ってつけたのが、今日の題目である。

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偽装、さらに一つ  政治家のパーティー



パーティー券は軟派大学の軟派学生が、ダンス・パーティーを催し、その客集め・銭集めとばかり思っていた。同じ学生でありながら、方や、チャラチャラ遊びほけ、方や、日給350円のアルバイトで、30キロの鉄筋を肩に担いでなんとか授業料を払う、この違い。私は、昔から、パーティーなる言葉にいい印象は抱いていない。もっとも、ただでパーティー券をもらったとしても、ダンスができないのだから、行けば、劣等感に襲われるだけだったが。

政治家がパーティーを開き、企業などに100万単位でその券を買ってもらう。テレビに映った額賀などの顔を見れば、どじょうすくいを踊る方がぴったりするし、石破は、そののっぺりした顔から、老人ホームに出向いて、腹話術でも余興にする方が、ぴったりだ。彼らに限らず、大臣になるような政治家は、およそ、ダンスをするというエレガンスな顔ではない。

不思議に思ってよく聞くと、パーティーの主催者は、自民も民主もだが、パーティーはダンスではなく、食事会を開くことのようだ。これなら分る。総入れ歯でも、食べる分には、不自由しない。もう一つの疑問、なんで、食事会なのか。みんな、相応の暮らしをしている人達だし、生ハム目当て、ロースト・ビーフが食いたいために出席するというのは不自然だ。よくよく聞けば、政治家の商売とのこと。コスト千円の食費で1万円の券を売る。1万円をただで貰えば、乞食だが、何がしかを提供すれば、正当な取り引きである、・・・という論法らしい。あるいは、1万円をただで貰えば、政治献金か何かの規制にひっかかり面倒なのかもしれない。どちらにせよ、その政治家は金が目当てである。商人に変身する。買う方は、買う方で、相応の見返りがあるからこそ、安い料理に大枚を払う。(営利を目的としている企業で、ドブに金を捨てるところは一社としてない)。料理が選ばれるのは、ゴルフコンペ主催や海外旅行企画などより、世間に体裁が取り繕えるからであろう。私なぞ、食事会とは名ばかりで、実際には、パーティーにさえ、出ないのではないかと疑っている。

形がどうであれ、これは政治家が金集めのためにやっている水増しというりっぱな偽装である。その証拠に、やましいものだから、買って貰った企業なり団体の雲行きが悪くなると、政治家はあわてて全額返却ということになる。

これでは、政が、業の水増し請求を当たり前にしている官にいくら襟を正せといっても、官に聞き入れられるわけがない。

政こそ、隗より始めよ。

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もう一つの偽装

 
  囲碁・将棋の大タイトル戦は、だいたい、7局の対戦で、4勝した方がタイトルを取る。勝てば数千万円の賞金と向こう一年、タイトル保持者として名誉が保証される。最終局が終わって、勝者と敗者が決まると、直ちにスポンサーの新聞記者がインタビューをする。勝者は、「今の心境は?」と問われると、例外無しに、「まだまだ力はありません。今回は、運が味方してくれただけです」と、今にも泣き出しそうな顔で答える。間違っても、「オレが少し本気を出せば、こんなものよ。実力の差はどうしようもありませんな。カッカッカッ」と言わない。盤の向こうに座っている敗者たる相手を思いやっているからだ。(勝つと万歳連呼の代議士や、わずか1ゴールで大の男が公衆の面前でゲイ同様に抱き合うサッカー選手など、思いやりのかけらも無い。日本男児も地に落ちたものだ、ブツブツ)

  思いやり予算も、私は最近まで、なにか、不運に見舞われた地域や事業に政府が手を差し伸べる予算と思っていた。それが、在日米軍基地の諸経費を日本が肩代わりする予算であることを知ったのは、最近のことである。自称憂国の士なんて言っても、底はこの程度である。それはそれとして、知ったとたんに、あまりの日本語の誤用に初め呆れかえり、次第に腹が立ってきた。世界最強の軍隊になにが思いやりだ。はっきり、ヤクザの上納金となぜ言わない。

  “動物愛護センター”に匹敵する大いなる言葉の偽装である。こんなことで、官が民の偽装を正せるわけがない。隗より始めよ。

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偽装  いっそ死ぬまで騙されていたら


  石巻は養殖カキの産地である。その中に韓国産のカキが交じって仲買人に渡ったということで、数年前、ローカル規模ではあったが大問題になった。例によって、風評被害、再発防止等々、がたがた騒がれた。最近では、老舗(しにせ)が牛肉産地を偽っていることが発覚して、全国規模のスケールで大問題となっている。

  私は、ここで、ふと立ち止まる。前に、内部告発奨励条例を作れと提言したし、牛頭豚肉は、お家取り潰しの罰を与えるべしと主張した。しかし、それだけでは、片手落ちというものだ。

  買う側のことだ。彼らは、豚肉を牛肉と信じて、牛肉相応の対価を払って買っていく。そして、対価にふさわしい満足度で、賞味する。「なんだこりゃ、豚肉を食わせやがって」など、ついぞ、口からでない。カキも同じ。酢カキ、カキナベ、冬の定番だが、石巻産と信じて、韓国産のカキを食べても、「なんだこりゃ、輸入カキを食わせやがって」などと苦情は起きなかった。比内地鶏とブロイラー、但馬牛と九州牛、みな、同じ。払う金が高ければ高いほど、ありがた味が増大する人間心理が働いていく。

  ならば、いっそのこと、知らないままで、過ごす方がよかったのではないか。なまじ、内部告発などするものだから、知ったとたんに、だまされたとなり不愉快になってしまう。但馬牛を毎年お歳暮に送っていた人も、それを受け取っていた人も、妙な気分になることだろう。(ついぞ、お歳暮など届けられたことがないので、“妙な”としかいいようがない)

  高い金を払える人間は、払えばいい。騙されたとわかったら、身の程を過ぎた奢りのしっぺ返しと猛省すればいい。味に違いがあるじゃなし、貧乏人は真性ブロイラーを食うこととし、九州産だろうがオーストラリア産だろうが並みの牛肉をありがたがって食うことだ。私なんぞ、牛肉といえば、最近できたスーパーの“愛犬用牛スジ肉”500グラム100円のほか眼中にない(今は値上がりして300グラム100円)。高い金を払って、いわゆる高級食品をありがたがって求めるブランド志向の愚か者をせせら笑いながら、我が家の犬と分け合って食べるスジ肉のうまいことといったら。(負け惜しみに聞こえるなぁ)

  いたちの最後っ屁ではないが、一言。テレビで、「もう、何を信じたらいいのかわかりません」と不平をいう主婦たちよ、己の五感を棚に上げて誰に文句を言っているのだ。大和なでしこはここまで、他力本願になっているのだ。嘆かわしい(断っておきますが、うちのカミさんは別です)。

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犬と猫


  人間を二つに分ける遊びは、昔からあったようだ。私の大好きな話は、チャールズ・ラムのエリア随筆集にある、金を借りる人種と金を貸す人種である。ラムについては、書きたいことが沢山あるので、いつかまとめてみたいと思っている。

  今日のテーマは、犬と猫。人間には犬好きと猫好きと二つに分けられるとどこかで読んだことがある。まことしやかに、その性格の違いを述べてあったが、腑に落ちなかった。その後、そうではない、動物好きと動物嫌いに分ける方が正しいという本を読んだ。納得できた。とは言え、犬好き、猫好きと分ける気持ちも私にはよく分る。私が知っている俚諺(対句?)・・・

  一.犬は、(人のいう事が)分らなくても、分った振りをする。猫は、分っても、分らない振りをする。  見事な観察だ。
  二.犬は、(人を)下から見て、猫は上から見る。(見上げる、見下すということ)  これも、見事。

  私も、これに劣らないような名文句が作れないものか、年中、悩んでいる。できれば、このブログを通して、日本中に知れ渡り、いつの日にか、どこかのテレビにクイズとして出されたら、天にも昇る気持ちになるであろう。死んだら、地獄行きだから、せめて、気持ちだけでも、天に昇ってもらいたい。その願いをこめて、披露する。

  一.犬は、(人の)前を歩き、猫は後を歩く。(犬と人は犬が露払い、猫と人は人が露払い)
  二.犬は(人に)ご飯をくださいとお願いする。猫はメシをよこせと脅す。
  三.犬は(人に)かまってもらいたい、猫はほっておいてもらいたい。
  四.犬は猫がいれば気になる、猫は犬がいても気にしない。
五.(知らない人に対し)犬は白眼、猫は青眼。

  字にしてみると、どれも、大したことがないなぁ。

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隗より始めよ erliuzi氏からの寄稿

  これは、erliuzi氏からいただきましたコメントの転載です。

  以下全文。

   ~~~~~~~~~~~~~

  隗より始めよ

  第二次世界大戦後、アメリカの<世界支配>の手段は「核」と「ドル」でした。核は拡散していまやイスラエル、インド、パキスタン、北朝鮮が保有するに至っています。逆説的ですが、核廃絶の一つの方法は<徹底的に拡散すること>でしょう。ただし、運搬手段の伴わない核は相手に脅威にならないために、この方法は非現実的です(ほかにも理由ありますが)。

  次は、日本から「核」をなくし、入れないこと。詰まるところは日米安保条約破棄・北東アジア地域平和宣言です。91年、北朝鮮に行ったとき、中ソ双方から孤立した北朝鮮が(韓国と日本を覆う)「核」を恐れていることが如実に感じられました。70年代、北朝鮮が日本社会党などを対象に「北東アジア非核化地域構想」を提案していたことが思い起こされます。

  中国は、「ズボンをはかなくても原爆は持つ」と核保有国になりました。北朝鮮も同じ考えです。市場経済を導入した中国は外資導入もあって経済成長をとげました。しかし、北朝鮮はこのままではパンツもはけなくなるでしょう。そうなる前に、日本にはやるべきことがあります。「核のない独立国」であることを示すためにも、日本の政治・経済・軍事に骨がらみなっている「日米同盟体制」を転換することです。

  長くなりました。続きはいずれ。


  ·2007/11/19(月) 16:18:31
  ・erliuzi

「聯合国」を超えて erliuzi氏からの寄稿

  これは、erliuzi氏からいただいた非常に重みのあるコメントであります。小さなコメント欄に収まったままでは、あるいは見過ごされる読者もいるのではと危惧しまして、一つの寄稿作品として、本文に転載させていただきました。ご本人からの事前了解を得てはいませんが(術がありません)、コメントで公開されていますので、許されることと判断いたしました。

  erliuzi氏のコメントは私のブログにとって正に洛陽の紙価であります。これからも、題名の付いたコメントは、寄稿として本文に転載させていただきたく存じます。不都合でありましたら、いつか次回のコメントでその旨お申し付けください。

  以下全文です。

    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「聯合国」を超えて

韓国で「9条の会」発足(共同通信)
 【ソウル17日共同】憲法9条を守ろうと作家の大江健三郎氏らがつくった「9条の会」の趣旨に賛成する韓国の学者や市民ら約100人が17日、ソウルで「韓国9条の会」を結成した。日本の護憲運動を応援するとともに、朝鮮半島で平和憲法を実現することが目標。結成の中心になった尹海東・成均館大教授は「平和憲法は日本に侵略された国の人々の平和への願いも含まれた世界の希望だ」と評価(色づけは引用者)。アジア太平洋戦争を含む第二次世界大戦は、<聯合国> VS <枢軸国で決しました。「国連」はその“名残り”です。そんなものを「中心」にするのではなく、世界に冠たるわが憲法を名実ともに実行・実践していけばいいのです。
日本というとすぐ「36年の統治」がオウム返しになり、またそこで止まってしまっていた韓国で、<東アジアのヌーヴェルバーグ>が始まったようです。

· 2007/11/17(土) 23:45:44
· erliuzi

犬・猫から学んだ私の文明論


  このブログに犬や猫は写真でしか登場していなかった。人間には腐るほど文句が言える私も(もちろん、自己嫌悪にさいなまれながらであるが)、犬や猫ばかりには、文句のつけようがない。そのため、書く必要がなかった。世間では、出来そこないの人間を“犬畜生のような”と表現するが、とんでもない誤用である。映画『猿の惑星』にあったように、同種を殺す猿に向かって、“人間のような”と非難する方がよほど正しい用法だ。これからは、少しずつ取り上げるようにする。人間界の滅入る話題ばかりでは、私が本当に滅入ってしまう。

  私は、生涯、犬4匹、猫3匹と生活を共にした。過去形を使うのは、私の歳ではこれから新しく飼うことはないので、マージャンの先付けアリと同じ巧みである。生き物は飼い主に似るとの通りで、贔屓目にみてもだいたいが貧相の部類であった。それでも、私の生活を人との付き合いより、はるかに豊かにしてくれた。兼好は、名声や利得を追う愚かさを言ったが、私にしてみれば、「犬を飼わずして、一生を終えるこそ、愚かなれ」である。人間、何が最も偉いかといえば、犬を作出したことに尽きる。その太古の時代以降、まったく人間はろくな物を作っていない。

  犬や猫から学んだ私の文明論:

  人間には強い者もいれば、弱い者もいる。その弱い人間より格段に弱い生き物の犬や猫が道の真ん中をノコノコ歩いていられる国こそ、民度の高い真の文明国と私は考えている。

  私の今いる場所は、民度が低く偽の文明国の中にあって、例外的な土地である。(人間であることの)劣等コンプレックスの塊の私が、贖罪の意識を抱きつつも、どうにか、平常心でいられるのは、この犬や猫がなんの心配もなく短い生涯を終えられる日本では例外的な地を(選んだ私自身を含めて)自慢できるからである。

  徒然草 第三十八段

  名利につかはれて、静かなるいとまなく、一生を苦しむるこそ愚かなれ。

  財(たから)多ければ身を守るにまどし。害を買ひ累(わずらひ)を招くなかだちなり。身の後には金(こがね)をして北斗を支ふとも、人のためにぞ煩(わづら)はるべき。愚かなる人の目を喜ばしむる樂しみ、またあぢきなし。大いなる車、肥たる馬、金玉の飾も、心あらん人は、うたておろかなりとぞ見るべき。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり。
  ~



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国連 核廃絶 日本が本気なら


  貴重なコメントをいただいたので、調子に乗って、昨日の続きを書く。

  私は色々会社勤めをしたが、一度として経理に回されたことはなかった。多分、会社の金をちょろまかすような顔だったのだろう。お陰さまで、大した犯罪もしないで、娑婆を渡ることができた。

  では、どこに行かされたかというと、販売である。販売には特別に優秀な人間か、他に使いようのない人間しかいない。上司、「小国寡民、どうだった」、私、「断られました」。こんな返事をしようものなら、いつもの鞭打ち100回である。断られたからと言って、サヨナラをしていたのでは、いつまでたっても、契約などできない。セールスは断られた時に始まる・・・永遠の真理である。これはイヤが何十個もつくほど、経験した。経験させられた。

  これまでが前置きで、これからが、国連の日本代表のことである。

  核廃絶の提案が拒否された。こんなのは、当然、提案する時点で折り込み済みである。日本代表は、核保有国の連中が、「よくぞ、提案してくれた、ではそうしよう」など、夢にも期待していない。保有国の側も、日本が、提案が拒否されたからといって、特別にどうこうするわけでないことを承知している。お互いに、あうんの呼吸で店じまいにする。

  福田内閣の新テロ特措法に対する情熱を、その半分でもいいから、核廃絶に向けたら、国連の様子、すなわち、日本に対する各国の見方も大分変わるはずだ。福田がブッシュと会って話をしても、核廃絶の話は一言も出なかったはずだ。自民や公明の代議士が、外遊と称し、アメリカや中国に行くことがあるが、同じようなものであろう。国連での提案は、人を小馬鹿にした、広島・長崎、原爆反対団体へのリップ・サービスなどである。

  そして、国連で日本がどれほど頑張っても駄目な時は、最後の手段を取ればいい。自衛隊の予算を減し、その金で、原爆を1個作り、保有国すべてが廃絶しないなら、10個に増やすと、すごむのだ。効き目がなければ、100個に増やす。

  人は危険だというかもしれない。だが、医学の分野では、どうにもならない病気がワクチンで防げるではないか。毒をもって毒を制する、これは立派な方法論である。如何。

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国連、なんぼのものじゃい

  かなり前の話であった。国連で、日本の代表が、核兵器廃絶の提案をした。大多数の国が賛成したが、中国とアメリカは反対した。先日、クラスター爆弾の使用禁止を、どこかの代表が提案した。大多数の国が賛成したが、またもや、中国とアメリカは反対した。中国は、帝国主義国家からの民族解放運動のためと言い、アメリカは、民主主義と正義のためと言う・・・のならまだしも、単に自国の兵器を輸出して儲けたいがためである。こんなのが、未来永劫、常任理事国になって、日本の出資金を湯水の様に使い続ける。日本が常任理事国入りしようにも、アメリカの属国にしか見られていないから、中国は賛成しない。アメリカも、でしゃばるなと反対する。これでは、未来永劫!日本は常任理事国になれない。

  憂国はストレスが溜まる。近頃は、もう属国でもなんでも好きにしてくれと言うことにしようかと思っている。たとえ属国よわばりされても、軍隊を外国に出したり、兵器を輸出したりする常任理事国より、はるかに国の品位は高い。彼らは、真性下等国家である。

  民主党が国連のもとなら、出兵すべきだと言っている。初め、テロ特措法の当て馬と思っていたが、どうやら本気で言っているようだ。出兵すれば、犠牲がでる。民主党政権政府は、NHKを存分利用して、国論を主戦論に統一する。増派する。片方からにらまれ、本当にテロに見舞われる、それ見たことかと、新々テロ特措法を作る、なんのことはない、自民党と同じだ・・・・国連を過大評価する結果である。杞憂であろうか。

追記:棄権だったかもしれません。賛成でなかったことは確かです。定かでないこと、ボケ老人に免じて、許してください。

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Shame on you! 日本政府に向かって

  この言葉は学校で習わなかった。これが、「恥を知れ!」という意味であることを知ったのは、先のアメリカ大統領選の時だった。もっとも、学校で習ったとしても、使うことはなかったと思う。 “Shame on me!”の場面なら数限りない。これが英語として通用するかどうか、私にはわからないが。

どういうわけか、この言葉がいつも頭から離れず、一度でいいから、使ってみたいものと、機会をうかがっていた。今日がその日となった。

拉致被害者の会とやらが、アメリカに行って、政府高官と面会し、テロ支援国家を指定解除しないように頼んだ。さらに、100名ほどのアメリカの議員に同様の依頼の手紙を書いたという。

  あの会がヒステリー集団であることは、何度も書いてきたから、いまさら、云々するつもりはない。一言、拉致事件の文句の行き先が、戦後処理を疎かにし、戦争状態に終止符を打たない日本政府(外務省を含め)であるはずのものが、朝鮮に向けられているという、ピント外れを言っておく。

  国としての存在・誇りは、対外交渉があって初めて自覚するもの。国内で少々のすったもんだがあっても、内輪もめだから、大目にみていい。言ってみれば、我が家の夫婦げんかのようなもの。ケチな会社の派閥争いのようなもの。単にくだらないだけだ。“Shame on you!”は使わない。しかし、あの会のやっていることといったら、サラリーマンの女房が、亭主を差し置いて、亭主の昇給を社長に直談判しているようなものだ。バカな女房はどこにでもいるから(我が家は違います)、かまわないが、その亭主は、まさに“Shame on you!”である。

  国の外交はその国の顔である。政権政党があの会を野放しにしているのか、外務省が煽っているのか、そんな詮索は評論家の分析にまかせる。どちらにしても、日本国の顔、中国語で面子(マージャンのメンツではありません)が丸つぶれであることをはっきり言っておく。どこの国も口にこそ出さないが、世界中の物笑いとなっているはずだ。

“Shame on you!”、「日本政府よ、恥を知れ」。

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高級官僚をオークションに出そう


  気軽に家電量販店やホーム・センターに行けない土地に住んでいると、ネット・オークションはとても助かる。今使っているパソコン、自家発電機、尺八、ガス台等々、みなオークションで手に入れたものである。私自身が文句なしの中古品であるから、身の周りの品も中古で十分であると考えている。その上、新品に比べ、出費が格段に低いのもありがたい。

  不要品の処分でも助かる。強くなったら読もうと若い時に溜めていた新品同様の高段者向けの囲碁の本は、己の棋力の限界を自覚してから、オークションにどんどん出品した。入手困難な物は満足以上の値でさばけた。

  今でも売り買いは細々と続けているが(処分する品物がなくなってきたため!)、世間という所は品物に値段をつける時、非常に公平であるとつくづく感じている。安い物には安い値、高い物には高い値が正直につけられ落札価格となる。“お金は正直者”は私とマルクスの共通認識である。 

  振り返ってみると、人間に対しても世間は同様であるように思える。何十年か過ぎて、風の便りで聞くと、若い時に一緒に仕事をしていて、スケールの大きい印象をもった同僚たちは、会社の規模にもよるがほとんどが重役や部長になっている。人をオークションに見立てるのは、奴隷売買と間違われそうだが、そのつもりはない。誰もが自由に参画できる市場では、人も物も、それ相応の価値が与えられるといいたいのだ。

  さて、私は、前にも言ったと思うが、官僚機構のガンは、国家試験という科挙にあるとにらんでいる。大学を出た時に試験を通ったことは、生涯、優秀である保証ではない。家電品の発売当時の値段(希望小売価格)は、どこのメーカーのものでも、大差はない。それが、2年、3年と古くなるにつれ、価格に差が出てくる。世間からのきびしい目がその2年、3年の間に注がれるから、もうメーカーはどうしようもないのだ。

  官僚だけは、国家というメーカーの庇護のもと、国家試験当初の売価が永久に保証されている。オークションという衆人の評価にさらされることなく、天下りという特設ルートに乗って高値で買い取られていく。

  オークション詐欺がしばしば話題になるが、何万、何十万件に数件の極めて稀なケースであると思う。少なくとも、エリート官僚の当たり外れよりは、世間にさらされているだけ、まっとうであると思う。一度でいいから、彼らをオークションに出して、世間の目がどれほどまっとうか、彼らにわからせたいものだ。

  (それにしても、国会答弁、記憶にございません、さだかでありません、だって。そんな私並みの記憶力で東大に入れた位なら、私だって、10回くらい合格しているわね、ホント)

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全国学力試験を難ず


  先日、小中学生を対象にして全国規模で行われた学力試験の結果が県ごとにランクが発表された。まず、主論に入る前に、どこかの教育委員会で不参加を決めたところがあり、その勇気と賢明さを賞賛したい。

  さて、結果は、我が宮城県はかなり下のランクであったようだ。最下位の沖縄県は、国に教育環境の充実を陳情した。これからも全国共通の試験が行われる限り、トップがあれば、必ず最下位の県がでてくるから、永久に陳情が絶えないことになる。くだらない。そのくだらなさを、今日のテーマとする。

  学校の試験はその元をさぐれば、論理と記憶の二つに行くつくと思う。

  例えば、左側に “I”と“My teacher”、中央に“is”と“am”、右に“clever”と“stupid”があって、線で正しくつなげなさい、とあれば、生徒は、“I-am-clever.”と“My teacher-is-stupid.”と結ぶ。論理的だから万人の認める正解である。

  それでは、“紫式部”と“松尾芭蕉”、“奥の細道”と“源氏物語”、“平安時代“と“江戸時代”が同じような形で試験に出たら、どうか。なんのこれしきとすぐに正解を出せる人は、知っているからである。知らなければ、組み合わせの確率で1/4でしか正解を出せない。記憶の試験である。

  先の全国試験に、相当これに似たような知識を問う問題があったのではないか。そうであれば、生徒は頭脳を働かせることなく(言ってみれば、CPUです)、記憶量の程度で、学力が判定されたことになる(Memoryです)。学力は学問する力、物事を自分の頭脳を働かせて、正しく判断する力であって、国語辞典でも百科事典でもない。

  私は問いたい。紫式部と芭蕉の正解を出せなかった生徒と出せた生徒に、なんの違いがあろうか、と。名前なんか記号だ。時代だって、今では、両方とも遠い昔だ。どれほどの違いがあるというのか。こういう試験問題は、国文学者の資格試験(あるかどうかわかりません)用で、義務教育の試験にはまったくふさわしくない。我が宮城県よ、はるかかなたの沖縄県よ、どうでもいいような試験で、ランクが低いと分っても、少しも嘆くことはない。まして、こんな試験結果でもって、富国強兵の前兆と用心こそすれ、陳情などいけない。文科省の教育への介入が目に見えている。

  どさくさまぎれに言ってしまうと、私が東大に落ちたのも、同様な理由からののようだ。人の数倍優れた論理力といえども、人の数十倍劣っている記憶力を如何ともしがたかったというわけだ。世間に出た後でも、My teacher is stupid.のかわりに、いつも、My boss is stupid.を口の中でもぐもぐ言っていたのだから、私の論理性の高さは疑う余地はない、蛇足だが。(冗談、冗談ですよ、当たり前ですが)


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我が青春の資本論


  資本論となると、つい長くなる。昨日、雑文が面白いと書いた。それでは、本筋の所はどうなのかというと、面白くもおかしくもない。彼自身が科学的と言っているように、当時の社会から資本主義の公式を見出しただけである。なべて公式というものはとても単純である。

  その公式とは、資本家が儲けた分を再投資していけば、労働者にはその分だけ搾取が拡大される、だから、資本主義社会では、労働者が働けば働くほど、資本家を儲けさせ、資本家はその儲けでさらに労働者を働かせるので、益々、資本家は太っていく、一方、労働者は資本家の儲けにあずかれないので働いた分に甘んじつづける、だが、いずれ貧富の差に我慢できず、ブッツンして、反旗を翻す、労働者対資本家、衆寡敵せず、労働者が勝つ、それが、資本主義の終焉である、平たく言えばこれに尽きる。生きた資本家・生きた労働者は、平たくない。こんなのっぺらぼうではない。私が「蒸留」を使った理由はここにある。

  例えば・・・野球の球は物理の法則で放物線を描いて飛んでいく。サッカーのボールも、ゴルフのボールも同じだ。それでは、ピッチャーの投げる球が常に放物線を描くかというと、とんでもない。空気抵抗という流体力学が絡んでくるため、シュート、フォーク、スライダー、チェンジアップ、等々多彩だ。ピッチャーが投げた球の軌跡は物理の諸法則を用いれば分析することができるだろうが、野球解説を、物理学者に頼んだという話は聞いたことがない。

  資本論は非常に面白い。その資本家vs労働者の公式も正しい。しかし、私は、野球解説に力学を持ち込む物理学者のようにはならなかった。時間的にゆとりのあった学生時代に読んだ本。わが青春のマリアンヌ、じゃなかった我が青春の資本論、万歳。

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資本論は面白い



  外国の内情がどうであっても、私は関心ないが、先日、M・L毛沢東思想を堅持しているなんて、共産党大会でいけしゃあしゃあとトップが語っているのを知って、我が懐かしのMことマルクスの資本論を思い出した。

  東外大で勉強した思い出はあまりない。板張りの貧弱な図書室で、世界文学ばかり読んでいたのは覚えている。モーパッサンのような短編ならまだしも、ロシア文学となれば、買うにも相当な金がいる。貧乏書生には無理だ。どうせ、2度と読まないのだ、と自分に言い聞かせながら、年中、図書館で済ませていた。欲しいものでも、神田の古本屋だ。あるいは、学友からのプレゼントもあった。

  唯一、新本で買った長編物が資本論であった。50年前、(半世紀前となったか)、少しまともな学生が安酒での話題にするのはマルクスであった。一方、少しもまともでない学生は、だいたいが、「ぼかぁ~、幸せだな~」と安保闘争以後の平穏を謳歌していた。彼らは、依然として安保の束縛から開放されていない今でも、「ぼかぁ~、幸せだな~」と言っているのだろうか。

  さて、私の資本論。大学は真理の追求の場である。その真理の主題は、“人間とは何か”である。この主題の解答を期待して、全3巻を読むことにした。たまたま、角川書店から新訳がでたので、そのペースで読んでいった。文庫本で分冊になっていたから、金銭的な負担も分散され、ありがたかった。

  読んでいくうちに、不思議な気持ちになってきた。連立一次方程式のような幼稚な算数がやたらと出てくる。数式で表せば、いとも簡単な方程式も、文章で表すとなると、大変な作業となる。肝心の“人間とは何か”がなかなか出てこない。そうこうしているうちに、「資本家がたとえ家庭の良き父親であっても、事態はなんら変わりない」に出会った。労働者を搾取する限りにおいて資本家は最後まで資本家(倒されるべき資本家階級の一員)であるということだ。それなら、労働者はなんだというと、これがあいまいなのである。私に言わせれば、「労働者がたとえ飲んだくれで、家で女房をぶん殴っても、搾取される限りにおいて、事態はなんら変わりない」ということも書いておいてもらいたかった。ところが、飲んだくれは、被搾取が原因であるなんてことで、お茶を濁している。

  もう一つ、ダイヤモンド、ピカソの絵画、ベートーベン第九を演奏するゲバントハウスをどう扱うかが、ほとんど書かれていない。当時大人気だったエルビス・プレスリーの収入にも納得するような解明がなされない。いつか言及されるだろうと期待したが、最後の方でちょろっとでているだけで終わってしまった。

  要するに、マルクスの資本論は、フラスコの中に蒸留した労働者と蒸留した資本家を放り込んでどうなるかと言っているだけで、生身の人間は、主役になっていないのだ。資本主義の生成から、発展、消滅までを解明すると豪語しているが、この場合も、フラスコの中の資本主義である。マルクスも自分で書いていて、それだけでは面白くないことに気が付いたのだろう、大英博物館の資料をかき集めては、気晴らしに雑文を入れている。資本論がだらだらと長いのはこれが理由である。

  だが、私は、資本論に失望しなかった。それどころか、いたって満足している。理由は、この雑文の部分が面白かったからである。資本論は、経済学書として学ぶものではない、エッセイとして楽しむものなのだ。

  お隣りさんの中国がM・Lと今でも言っているのを知って、ふと思い出した。

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テロ特措法  これは落語か


  ケチはどこでも嫌われ者だ。それが落語となると、とたんに愛嬌者に変わるから、日本の落語は大したものだ。

  「おい、隣りから、ノコギリを借りて来い」
  「はい、分りました」
  「どうした、手ぶらで」
  「歯が減るからと言って、貸してくれません」
  「なんだ、ケチなやつだな。しかたがない、うちのを使うか」


  「おい、日本から、油を貰って来い」
  「はい、分りました」
  「どうした、手ぶらで」
  「国論がまとまらないと言って、出してくれません」
  「なんだ、ケチな国だな。しかたがない、うちのを使うか」

  たしかテロ特措法は10月31日で期限が切れたはず。政府は、給油活動を止めると、世界で孤立せんばかりの大変な不幸が日本にやってくるようなことを言っていた。しかし、アメリカが、頭に来たから大使を引き上げるということはなかった。どこかの国から国交断絶の最後通告が届いたという形跡もない。国連からも、国際貢献に尽くさないということの非難声明は日本に出されなかった。

  日本国の一部である私の所も、全然、変わらなかった。11月1日の前と後で違ったことといえば、例年通りの今年最初のアワビの口開けだけだ。明日の天候(アワビがとれるかどうかが決まる)は部落中で話題になったが、テロ特措法の期限切れが話題になることはなかった。

  なんの事はない、自民・公明が騒ぐほど、特措法は、世界はむろんのこと、アメリカでさえ重大事項ではなかったのだ。「じゃあ、テキサスの油を使うか」でチョン。

  今、私が最も心配しているのは、小沢代表が総理大臣になった時、兵隊を日の丸の小旗を振って送るのではないかということである。老いの一筆はご愛嬌で済むが、老いの一徹は、間違うととんでもないことになる。軍備拡大と派兵増強が約束されている恒久法が民主から出されれば、自民・公明、表向きの顔は苦々しくしても、内心は万歳三唱だ。

  ・・・ここで、文体がハ長調からヘ短調に移調する・・・

  地方の1票の獲得のために体の汗を流そうとせず、護憲を何とかの一つ覚えよろしく舌三寸で繰り返す横着者社民党、いつまでたっても舞台の中央に出たがらない共産党、とても頼りになりません。菅さん、鳩山さん、どんな場合でも、海外に日本の兵隊さんを出してはいけません。しっかり老人を見守ってください。老人と言っても、軽妙洒脱・天衣無縫(またまたヌケヌケと)の私ではありません、ボケの兆しが見られる小沢さんのことですよ。どうせ彼は先が長くありません。彼が生きている間に、しっかり票を集めてもらって、体制固めをし、“まことの、誠の”(新約のコピーです)内政不干渉中立国家に日本を変えてください。彼と同様、私も長くありませんので、それでできれば、早めに。

   追伸:
   1.贈呈するはずだった油はさっさとガソリンにして、都会のガソリンスタンドに配ってしまいましょう。特措法が復活すれば、アメリカは、休んだ分だけ、ふっかけてきますから。そのとき、「もう使ってしまったのでありませ~ん」、ととぼけるのです。都会のマイ・カー族の値上げ前の列を見るとつい情(情けないという情)が移ります。
   2.ノコギリだったか、ハサミだったか定かでありません。どなたか、落語の題目を教えてください。いつか市営図書館で借りたいと思っていますので。ひょっとして、「アメリカ給油」だったりして。コメントでよろしく。

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外国語の会話力 中途半端の悲哀 閻魔様お許しを

  前に英会話学校に通うのなら、同じ金と時間で他のことをしたらどうかと、書いた。例の英会話学校が、今日のニュースでまた、話題に取り上げられた。こういう呑気な世事が、日本に平穏が戻った証であるというのなら、結構なことだが、果たしてそうだろうか。ま、それはそれとして。

  外国語を使わなければならない仕事に就くと、しばしば、向こうの方からも、同じ立場の人間がでてくる。先ずは、出席者の相互紹介。国内取引と変わらない。しかし、その時の二言三言のやり取りで、通訳の優劣が瞬時にわかる。相手の言い方、発音を聞いて、これならオレの方が上だのわかると、とたんに舌が滑らかになる。本格的な会議では、つまらない質問に対しても、a good question!なんてお世辞が言える。ゆとりである。私は、稀にしか経験しなかったが、この優越感は、散歩の途中で、弱い犬に出くわした時の、強い犬が顔に表す優越感と同じものだ。まあ、質の低い優越感だ。

  質が高かろうが低かろうが、自分が有利ならいいが、逆の場合は悲惨の一語である。相手の通訳が、帰国子女かと疑いたくなるような流暢さでしゃべられると、もう、いけない。こちらは、完全に萎縮してしまう。「生憎の雨の中、遠い××国から、ようこそおいでくださいました」程度がなかなか出てこなくなる。私は、ほとんどがこちらの側だったので、この惨めさは今でも忘れない。

  だから、通訳無しの客は大歓迎だった。少々、でたらめに訳したところで、周りの人間にはわからないから、私の天下だ。何を言っているか聞き取れなくても、「ア、フフ~ン」と言いながら頷(うなず)いていればいい。

  何も、会議に限らない。外国でも同じだ。あれは日本人の顧客と連れ立ったドイツの出張の時だった。彼が、こっそり大英博物館を見に行きたいと言ってきた。いつもは傘下の商社を使うので、仕事する場所以外にどこにも行けない、こういう機会に面倒をみて欲しいというわけだ。こちらも、かねがねマルクスが資本論を書いた所という大英博物館は見たいと思っていたので、渡りに船。ところが行ったはいいが、ロンドンの時間借りしたタクシーの運ちゃんの話がさっぱりわからない。大事なお客の手前、分った振りをしなければならず、例の「ア、フフーン」を連発する。そうすると、運ちゃんが、益々調子に乗って、ペラペラしゃべる。私は、遅れずに、「ア、フフ~ン」、「I see」を繰り返す。その合い間合い間に、観光ガイドブックで頭に入れておいた知識を流暢な日本語で話す。運ちゃんの英語と私の日本語には全く関係がない。それと知らぬ彼はしきりに感心する。罪の意識にさいなまれながらも、ようやくホテルに戻った。やれやれと思いきや、今度は、バーバリのコートを買いたいといいだした。昼間のタクシーに比べれば、朝飯前と、フロントに尋ねるが、全然、分らないという。そんなバカな、と、バーバリ本店はベルリンでもパリでもない、このロンドンだろうが、とふんぞり返って言ったのだが、やはりないという。フロントにホテルの従業員が集まりだしてくる。お客は、何でもめているのかわからないまま、脇に立っている。しばらくした後、ハッと気が付いたのが、私の発音であった。カタカナ読みは易しいが、“バーバリ”も“コート”も、英語の発音は難しい(少なくとも、私には)。プライドがどうの面子がこうのと言っていられず、紙に書いて見せた。もちろん、即座に分ってくれた。(都立大の英米文学科でローマ字は習っていた!)彼がコートを何着も買い求めた時、そのすべてを、さすが、○○さんは、お買い物上手と褒めに褒めた。タクシーのデタラメの罰(ばち)があたったとはいえ、帰国後、へたにさわがれては困るのだ。

  これまでも、思い出す度に良心がとがめる事をいくつかブログに書いてきた。今日もその一つ。それは、万分の1でも、いずれ訪れる先に閻魔様がいるとしたら、国会での政治家や官僚のような「存じません」、「記憶にございません」は通用しないだろうし、今のうちに白状しておけば、少しは、情状酌量してくれるのではないかと期待しているからである。

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島暮らし 帰りの連絡船に乗る時は


  昨日は、連絡船から降りた時の話でした。今日は、片手落ちにならないように、日本大陸から、連絡船に乗る時の事を話たいと思います。どうか、両手落ちでもいいから、さっさと他の話題に移ってくれなんて言わないでください。他の話題でも、つまらないこと、これと、似たり寄ったりであることは、ご存知の通りですので。

  さて、老後、自費で海外旅行ができるほどの金持ちになることなど、私にできるわけがないと、自覚していましたから、現役のうちに、できるだけ、会社の費用で出張するようにしました。旅行と言っても、我が県会議員の出張と違い、ただ、遊びにいくのではありません。しかし、実際は遊びに行くようなものです。唯一の例外が、クレーム処理です。これはきつい。商売に、クレームがつきもの。そのクレームも軽ければ、相対性理論を出すまでもなく、こちらから遠い相手は、向こうからも遠いわけでして、大体、いわゆるビジネス・レターで済ませます。それができない、あるいは、こじれた場合に、「お前、行ってこい」となります。技術部門や製造部門のいい訳をたっぷり聞かされ(因果を含まされ)、上からは、相手を怒らせて取り引きが切れたら、鞭打ち100回の刑だなんて脅かされます。相手といえば、品質管理の現場担当者(これが、日本と同じで、堅物ときている)、購買(日本と同じで値引きを人生の快楽と勘違いしている)、販売(これも、また、日本と同じで、売れない理由をここぞとばかりクレームのせいにする)、みなさん、手ぐすね引いて待っています。向こうの偉い人間も、会議の初めにだけ顔を出し、私を品定めするのも目に見えています。これでは老後の旅行を今のうちに楽しんでしまおうなどという気分で成田に向かえません。それでもです。それでも、登場ゲートをくぐり、パタンパタンと通路を通って、自分のシートに座り、ベルトを着用した時の開放感は言葉では表わせません。

  連絡船に乗る時が、これと全く同じです。どうしてでしょうか。島は私にとって外国である、これだと思います。十数年過ごしても、やはり、外国です。部落の全員とお互いに顔見知りとなり、酒を飲んで減らず口を叩き合うようになっても、やはり、外国です。私が、外国にいる時と同じように、ここの生活にストレスは感じないのも、この理由によるものと思っています。

  今日は、月に一度の尺八稽古日。帰りの船で、空いた席の肘掛を上げ、横になると、ガランとした747の座席にいるようで、いい気持ちでひと眠りできました、あの同じ開放感に浸りながら・・・。

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島暮らし 船を降りれば もう我が家

  町の中に住んでいた頃は、外出先から帰って、ホッと一息するのは、家の玄関のカギを開けた時だった。わずか60坪ほどの敷地だから、門から玄関まで、数歩の幅である。それでも、緊張がほぐれるのは、門でなく玄関先であった。(門とは聞こえがいいが、ホームセンターでいつも半額表示をしている、アルミでできた例の安物である。適当な言葉を忘れたので、門と言った。(改築時、小国寡民邸と看板にあったので、大工に、邸とは映画「ジャイアンツ」に出てくるような屋敷をいうのだから、小国寡民屋に書き換えてくれと頼んだ。しかし、どこでも必ず邸といたしますので、と聞き入れてくれず、隣近所の手前、恥ずかしい思いをした。それがきっかけで、新築・改築に注意すると、どんなに贔屓目にみても長屋そのものの看板に、メゾン、マンション、中にはシャトーとまで名がついている。少し脱線したが、私のいう門とは、この手法を流用しただけで、平たく言えば、公道と敷地の境目に取り付けたペラペラの戸のことだ)

  島では、どうか。連絡船を降りた瞬間に、まるで我が家の玄関に立ったように感じるのである。移住してきた頃はこれが不思議でならなかった。いろいろ考えた末、たどり着いた結論が、ここが小さな島であるということ、人が少ないということ、この2点によるということだった。

  佐渡島や淡路島であれば、バスに乗るにせよ、歩くにせよ、到底、自分の家に着いたとは感じられまい。東京駅の地下街とまではいかなくても、仙台駅程度の人が、しかも、見知らぬ人が、うようよいたのでは、安らかな心どころではあるまい。だから、私の結論は正しい。

   田舎暮らしには、がっくりするような現実がつきものだが、嬉しい錯覚も稀にある。この連絡船から降りた瞬間の、島全部がまるで自分の土地のように思える錯覚は、その一つ、大いなる一つである。ちなみに、私の家は、船着場から1.5キロ先の山奥にある。

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詐欺に遭う人 被害者or愚か者 しっかり区別を


  昔、堺屋太一が、経企庁長官を辞めたあと、これからは老人にいかに金を使わせるかが課題である旨の発言をした。ずいぶんはっきり物をいう人である。それからか、国は高齢者なんとか保険や介護保険やらで税を取り立てるのだから、先見の明まで備わった人でもある。だが、老人にとっては、大変迷惑なことだし、青壮年もいずれ老人になるのだから、彼らにも迷惑が待ち構えている時代となった。ただ頭のいいだけが取り柄の人間には、全く困ったものだ。

  国が無理矢理に取り立てることと比べれば、いわゆる詐欺商法は、yesかnoの判断を相手に任せる意味で、テレビで騒ぐほど、悪徳ではない。詐欺に遭うのは、たいていが私のような高齢者である。みんな数十年、社会で騙したり騙されたり、そうでなくとも、いやという程、他人が騙すのを、あるいは、騙されるのを見てきたはずだ。それでも、甘い言葉に誘われて、ほいほいと契約するのだから、もう、他人がとやかくいう筋合いではないのではないか。

  私がセールスの仕事に就いていた時に分ったのは、人間とは、自分の代価が高ければ高いほど、買った品物にありがた味を強く感じるということだった。最初に安い物を出す。次に、CP(コスト・パフォーマンス)の高いお買い得品、そうして、順次高い物を見せる。安い物を買った客と高い物を買った客とは、満足度に雲泥の差が生じる。はっきり顔に現れる。サービス産業の頂点に君臨する宗教においても然り。自分のお布施の額に応じて、自分の満足度を決めているのだ。

  だから、詐欺商法で何百億の金が集まったり一人で数百万払ったりするのは、何ら不自然ではない。これが、契約単位が、百円とか千円とかなら、絶対に詐欺にひっかからない。高額であるからこそ、引っかかる。

  詐欺が発覚する度に、弁護士が音頭を取り、被害者の会が作られる。弁護士は商売だから被害者と呼んでお客様にする。だが、ニュースまで、引っかかった者を被害者と呼ぶ必要は無い。愚か者、うぬぼれ者で十分だ。インタビューとなれば、顔を隠して、声を変えて、いかに大切な金が騙し取られたかばかりを、当人に語らせる。それは、駄目だ。声はそのままで顔を映し、全国のお茶の間に愚か者の見本として、恥を晒させなければいけない。七十であろうが八十であろうが、愚か者は、愚か者だ。同情の余地はない。

  最後に、被害者が後で騒ぐ大切な金、云々があるが、詐欺で取られなければ、タンスの中で眠っているだけのこと、死んだら、普段、電話も掛けてこない子・孫の浅ましい分捕り合戦の火種、必定だ。詐欺に遭おうが遭うまいが、いずれにしても、死に金。徒然草に、使わない金を持っているのは、持っていないのと同じと喝破している。それどころか、持っていない方がましだといっている。なにやら私が褒められているようで、ますます徒然草が好きになる。

  徒然草  第二百十七段
(ある大金持ちが、「貧しくては、生けるかひなし」と言って、ひたすら金を貯めるよう人に勧めたのを聞いて、吉田兼好の曰く)~

 そもそも、人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひを叶ふるが故なり。所願あれども叶へず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者と同じ。何をか楽しびとせん。この掟は、たゞ、人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞こえたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、如かじ、財なからんには。癰疽(ようそ)を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんには如かじ。こゝに至りては、貧・富分く所なし。究竟は理即に等し。大欲は無欲に似たり。
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一寸先は闇  本当の闇

 
  終戦当時、東京葛飾は、年中停電していた。街路灯は、無論ない。夜は、しばしば闇夜となる。日が暮れるまで外で遊ぶものだから、夕飯が終わってから、風呂屋に行く。これが、恐くてたまらない。わずか500メートルほどの距離だったろうが、途中、片側が小川で片側が竹やぶとなっていて、そこの闇が恐いのである。

  今の子供たちは、闇が恐いと感じないかもしれないが、あの頃の娯楽と言えばラジオだけで、夏になればきまって怪談が放送された。八人家族の三男坊の私は、大人の娯楽を、いやでも、聞かされる(自分の部屋なんかない)。幽霊は暗闇に出てくる、しかも、後ろからそ~と忍び足で来る。または、カランコロンと下駄の音をさせながら来る。兄姉らは、私が臆病者であることを知っているものだから、風呂屋の手前のあの辺りは、幽霊が出ることもあると、したり顔で私をいじめる。これでは、私が平静でいられるわけがない。

  風呂屋の行き帰り、我慢して歩くが、自分の下駄の音がこだまで返ってくると、もう、限界だ。一目散に走る。走っても、背中の後ろに幽霊がいると思っているものだから、動悸はおさまらない。子どもの頃の闇夜はこういうものだった。しばらく経ち、小学校3年位には、幽霊の心配をしなくなった。臆病でなくなったのでなく、日本が復興を始めて、家の中も外も夜が明るくなったためである。同時に、闇という言葉を忘れてしまった。

  それが、五十を過ぎて、原始時代からこの方、ある動物から人間が分派したとたんに失った最大の宝が闇であることに、気がついた。あまり私は自慢しないたちであるが(エヘヘ、ご冗談を)、この発見は自慢したい。とうの昔、誰かがすでに発見していたとしても、自力で発見したのだから、自慢する。政界などでよく使われるような“一寸先は闇”の闇でなく、子どもの頃と同じ正真正銘の暗闇である。凡人は、すぐ、光を言う。神様でさえ後光という位だから、無理も無いが、私は、生きている間に、闇を、すなわち原始の姿をどうしても自分のものにしたかった。

  私の家の周辺は竹やぶで、冬でも葉に覆われ星明りがさえぎられる。普通の暗がりは、しばらくすれば、眼が慣れてくるものだが、ここは、違う。中に身を置けば、いつまでも自分の指が見えない。玄関を出る時、懐中電灯を手にする。不便を感じるどころか、今、私は夢を叶えてくれた“島一番の小さな家”にとても満足している。また、私が六十年を過ぎて、ようやくではあるが、闇におじけなくなった成長振りにも満足している。

  みなさん、闇はいいものです。騙されたと思って、完全な闇を一度味わってみてください。正直者の私が(エヘヘ、ご冗談を)言うのですから、間違いありません。

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ざる碁と政治  我慢のしどころ


  ざる碁の話。あっという間に勝負が決まる碁は、読みの力の差が物を言う。しかし、形勢がはっきりしないまま、あの碁盤の目を埋めていく息の長い勝負には、我慢が最も物を言う。私のような短気者には、それが出来ない。自分から仕掛けて、自滅する。情けないが、毎日、このパターンを繰り返している。だから、いつまでたってもざる碁の域をでない。先日、プロの対局をみた。負けたプロが、「形勢が自分に有利である事がわかっていたのに、つい、調子に乗ってしまった。我慢しておけば、残ったのに(勝ったのに)」としきりにぼやいていた。プロでさえ同じ誤りをする。碁に遠い人には、ピンとこないかもしれないが、小次郎と武蔵の決闘なら分ってもらえるだろう、我慢の大切さを。

  政治の話。当地のさわやかな秋の空と空気をブログで自慢したいところだが、民主党が騒がれているので、政治・経済を標榜する故、私のブログも一口乗せてもらわなければならない。

  これまで書いたように、福田は、民主党の仲間割れを画策している。自民党が生き残るためには、絶対に必要であるからだ。国会で何も法案が通らないと困惑を露(あらわ)にしているが、世論を二分する法案だけを通そうとするからであって、民主、共産、ほか野党も賛成するような、すなわち、国民の大多数が納得するような法案を自民が出していないだけのことである。(学校の試験で、難しい問題を後回しにして、易しい問題から、解答していき、残った時間で、難しい問題に当たる、試験の常識である。第一問の出来ない問題にこだわって、時間を無益に消費する生徒は、自分の要領の悪さを自覚すべきで、問題の難しさで教師を非難してはいけない)

  大連立ができれば良し(小沢の首班指名などお安い御用だ)、できなくても、民主党内部に不協和音を生じさせれば、先ずは成功である。いま、正に、福田の思惑通りとなっている。

  ここで、ざる碁と政治を結んでみる。

  自民も民主も、お互いに苦しい。苦しい度合いは自民の方だが、とにかく、今は我慢比べである。先に、仕掛けた方が負ける。頭脳明晰の福田は、今のところ、技ありである。小沢は単純素朴だから、福田の思うままに動いた。福田は、小沢社長に、自社の製品が欠陥商品であるとまで、言わせた。ここで、民主党は、浮き足立ってはいけない。若手に、「こんな発言をした大将の下では選挙が戦えない」などと公言させてはならない。福田の思う壺だ。「さすが我が党首。党首の言葉を謙虚に受け取り、日々、精進に励みます。国民の皆さん、マス・コミの皆さん、これからの私たちを見てください」と、涼しい顔で、記者会見する。これが、福田に最大のダメージを与える。

  さて、小沢。これを、絶対に党外に出してはいけない。田舎の政治を目の当たりに見てきた私は、小沢こそ、田舎の人間から共感をもたれる政治家の“顔”であると確信している。鳩山、菅、岡田、前原、どれをとっても、都会のインテリである。彼等は、永田町で、あるいは、国際社会で通用する知性派である。だが、これまで何度となく書いてきたように、知性や理性で田舎の1票は取れない。前回の参院選圧勝も、小沢が党首となったからこそである。彼の価値を最もよく理解しているのが、福田。それに劣らぬように、民主党は彼を、評価しなければならない。彼は、選挙の顔である。日本人の深層心理に潜む土着性・非論理性を具現している。その上、彼が離党すれば、幾人かも従うだろう。自民は大歓迎会を催すことになる。

  今日の結論。民主党は、小沢を褒め殺しでもいい、飼い殺しでもいい、とにかく、離党させてはならぬ。彼のダダごねは、彼の慢性持病と大目にみてやる。代表留任ができなければ、彼を、次期選挙の選対本部長に置く。

  小沢で票を稼ぎ、どこの国のトップと並べても恥ずかしくない菅と近頃一皮剥けた鳩山で国政を司る。私の多党化思想とは別に、このまま、福田イアーゴのペースで日本が動くようでは、世も末となるので、民主党に助言した。

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自衛隊 軍隊 憲法改定の進め方

  私の憲法草案では、軍隊基金という漫画的な名称にしたが、その主意はいたってまじめである。

  そもそも、自衛隊があるから戦後日本は平和でいられた、いや、自衛隊がなくても平和だったという議論自体が、水掛け論である。どちらも立証できない。安保条約についても同じだ。だから、この論争は論壇諸兄のお茶飲み談義に任せる。

  次ぎ、自衛のための軍隊を持たなければ不安だ、いや、持たなくても安心だということにおいては、立証以前に、個人の考えの違いである。どちらが正しいとも言えない。“備えあれば憂いなし”は万人の知るところだが、“備えなくても憂いなし”だって言われてみればうなずける事例が多いはずだ。

  そこで考えたのが、双方の顔を立てるこの軍隊基金の憲法条項である。軍備不要の立場の人は、自分の税金が軍備に使われたくない。当然である。軍備賛成の立場の人は、自分の金を出して、日本国に軍隊を保有させる。安心が保証されるから、満足する。むろん、人の金を使うのではないのだから、他人からとやかく言われる筋合いはない。堂々と、三軍持てばいい。私兵でないから、国の管理に置かれる。資金だけ提供する・・・

  私は、昨今の政治を見るにつけ、憲法改定は、そんな遠い先ではないような気がする。その時の国民投票が従来通りの一人一枚の投票用紙であっては改正どころか改悪、まちがいない。自分の庭先の周りに損か得かで政治を動かす田舎人の1票を私はまったく信頼していない。同時に、気分やムードでふらふら支持政党を変える都会人の1票も、まったく信用していない。私が唯一信用しているのは世界一の正直者、金である。

  以下、具体的に説明する。

  軍隊の是非は、憲法改定では、最大の焦点となる。その時、投票を記名式で金額を投票用紙に書き込むのである。軍備反対者はゼロ円。賛成者は、1円でも1億円でも、自分が毎年、支払う金額を記入する。これは、一度書き込んだら、生涯責任を持つ。国の税と同じ拘束力を持つ。さもないと、年度ごとに軍人の数が増減して、組織として成り立っていかないからだ。

  軍備賛成の大学教授、有名女性評論家、同様の考えの自民、民主の政治家先生、みんな好きなだけ拠出すればいい。今、5兆円近くの税金が防衛関係費として使われている。軍備賛成派が自腹を切って5兆円出すか見ものだ。平行して、5兆円の税金は、国民一人あたり、40,000円であるから、一律、減税することは言うまでもない。ワイロ、不正取引、政治献金、etc.税金が使われないのだから、好きにしてもらえばいい。

  田舎の人間も、こうなれば、村の有力者から頼まれたとて、おいそれと、軍備不要論者の分を増額するどころか、減税分の4万円だって記入しまい。都会の人間も、こうなれば、いくら慎太郎君(あるいは淳ちゃん)がかっこいいからといって、4万円を終生払うのには躊躇するだろう。

  繰り返す。ペラペラな投票用紙(昔風では赤紙一枚)で軍備の是非を決めてはならない。正直者の金に登場願わなければならない。

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一自衛官の発言 シビリアン・コントロール NHKの悪徳  



  テロ特措法が期限切れとなる10月31日のニュースだったと記憶している。艦上で、一人の自衛隊員が、「職務を忠実に遂行しました。個人的ですが、国際社会に貢献できたことを誇りに思います」というような内容の発言をした。

  大問題だ。

  第一の問題。自衛隊員が職務に励むことは、陸上であれ洋上であれ、当然のことである。彼らはスカラなのだ。だが、国際社会に貢献できたと、彼に言う資格はない。日本の世論がこのことで二分されている重大なベクトルである。1自衛官が制服で発言したのだから、明らかなシビリアン・コントロールからの逸脱だ。

  第二の問題は、これに、福田首相も石破防衛大臣も文句をつけていないことだ。仮に、「職務を忠実に遂行しました、個人的ですが、国際社会に貢献できたとはとても考えられません。仕事だからやりましたが、誇りはありません」と彼が発言したら、どうだろう。かれらの取り巻き連中がご注進にあがる。その時、「個人的ならいいだろう」で済ませるだろうか。ネバー!否!!

  第三の問題が最も深刻である。公共放送を自認するNHKが放映したことである。第二の問題で仮定した発言でも放映しただろうか。ネバー!否!!かくも、NHKは権力に追随して、世論を操作している。艦上の若手記者は従軍記者である。従軍記者は、どこの軍隊でも、特別扱いを受ける。もともと口べたな軍は批判的な報道を嫌うからだ。できれば、好意的に報道してもらいたい。魂胆がミエミエである。このインタビューの記者も、不相応な待遇で舞い上がってしまったのだろう。先の中国侵略戦争から脈々と続いているNHKの伝統である。現場が舞い上がっても、デスクが常識人であればよい。今回も、NHKの編集室でボツにすれば、済んだことだ。繰り返す。シビリアン・コントロールの違反を承知でニュースにしたのは、福田を、正確を期せば、アメリカを援護する意図があるからである。なんといっても、アメリカ放送協会なのだから。

  私の所が、地上デジタル放送のエリア外であることを先日知った。その前にこちらがくたばればよし、くたばらなければ、観れなくなるまで、素人のど自慢や、昼どき日本列島で、客を呼び寄せて、とんでもない商品を売りつける悪徳商法に、いちゃもんを言い続けていくつもりだ。  

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