老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

格差問題 教育

  ここで言う教育は義務教育のことである。

  私は、小学校で、6年間いじめに悩まされ、やっと中学になっていやな友達から開放されたとおもったら、今度は先生にいじめられた。懐かしい思い出は、教室の窓から見た富士山の姿をくっきり映した日没と音楽の授業の度に教室の窓から飛び降りてドロンした位だ。だがら、教育を語る資格はない。それならお前は何なら資格があるのかと、まぜっかえされる危険がある。とりわけ教育を語る資格はない、と断れば許してもらえるだろう。

  田舎の学校は校庭が広い。これだけでも、都会と比べれば、優位に立つ。都会の学校こそ、広い校庭が必要なのに、箱庭のような狭いグランドしかない。校門を一歩出れば、子供がのびのびと遊べる野原も川もある田舎と大違いだ。

  さらに、生徒数が少ない。テレビを観ていると、全校生徒が40人なんていう学校もある。私の島では、廃校になる直前は、10人前後ではなかったか。それでも、校長、教頭、教師、事務方、用務員など、一通り揃えていたようだ。今の都会の1クラスが何人か知らないが、20人はいるだろう。1年から6年まで合わせて40名では、家庭教師を雇っているようなものだ。都会のような塾が無くても、決して格差ではない。

  そもそも、小学生や中学生に、多くの知識を与えることはない。大きくなってから、必要に応じて学べば、知識なんかいくらでも頭に入っていく。知識は読み書きそろばんで十分だ。それより、大人になって世間の損得が気になりだした時に、絶対に譲れない何かを骨の髄まで染み込ませておく方が大事だ。この点においては、豪華な実験設備とも多数の蔵書を備えた図書室とも、ほとんど無関係である。

  何かとは何か。「自分にして欲しくないことは、他人にしてはならない」、聖書にもあったように思うが、論語で読んだ。私はこれを何かの第一に挙げる。談合、談合からはずされた会社のことは?選挙違反、それで不利を蒙った対立候補のことは?賄賂、天下り、つましい収入から税を納めている庶民のことは?偏った報道、それが真実であるかどうか確かめることができない視聴者のことは?・・・

  教育は都会と田舎の格差ではない、人格という格差だ。

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格差問題 医

  田舎は医師不足であること、また、なかなか都会を離れたがらない医者を問題にしている。はたして、問題なのか。

  歳をとれば、自然に細胞組織が衰える。ある人は足であり、ある人は内臓であり、ある人は頭である。不老長寿は人間も哺乳類の一種である限りありえない話だ。

  Aという病気に罹る、それで医者にかかり治療を受ける、高齢であればAの病気の完治はないかあるいは完治まで時間がかかる。そのうち、Bという病気に罹る、それを治そうとしていくうちに、Cという病気に罹る。結局、医者が病気を治せば治すほど、寿命が伸び、病気が増えることになる。高齢者の病院通いあるいは住まいは、不治の病であっても延命処置がほどこされさえすれば、死ぬまで止むことは無い。

  これでは、医者が何人いようと、常に不足する。皮肉にも、医療施設が充実すればするほど、病人が増えていく。ますます医者が不足する。田舎の実情である。

  命のことでは人間も他の生き物と同じだ。子育てが終わった時が、余生の始まりである。言葉の通り生命の余りである。3年であるかもしれないし、30年であるかもしれない。単なる個体差である。

  本当に医療が必要な人は、これからの人生の人である。子供を設け、その子供が、一人立ちするまでは、なんとしても、元気でいてもらわなければならない。一家を支える主人が(それが男であれ女であれ)、病に臥してしまっては、平穏な家庭は望むべくも無い。逆境も人格を育てるとの論は余りにも無責任である。都会には、田舎では想像できないような危険とストレスがあふれている。その中で、必死に家族を養っていく世代にこそ、立派な医者と医療を用意すべきなのだ。

  はっきり言う。法律などを決め、無理をしてまで都会の医師を田舎に回すことはない。田舎にはそこそこのお医者さんでいい。子育てを終えた高齢の医師の方が、かえって、患者も落ち着くかもしれない。博士号を取らんばかりの若手医師は、これからも都会の青壮年の治療にあたってもらいたい。

  田舎の若者が病気になったらどうなる?

  憲法九条改憲論者の、敵が攻めてきたらどうする論法とまではいかないが、あまり利口な疑問ではない。田舎の若者はまず、肉体・精神とも頑丈にできている。2週間毎に病院にでかけ、山ほどの薬を喜んで抱えて帰っていくような者はいない。田舎の医師不足の原因が彼らにないことさえ理解できれば、こういう疑問は発せられない。

  医療格差の問題を政治家や報道人は表面的に捉えすぎている。知っての上での発言なら、その陰に隠されている魂胆(例えば、医療費増を理由にして消費税を上げる)を見届けたいし、無知からの発言であれば、物事をいま少し深く考えて欲しい。

  事はついでだ。次は教育を取り上げる。

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格差問題

  都会と田舎の格差。大きな社会問題として、与党、野党とも政策の重点項目となっている。果たして、問題なのか。

  名目の収入はその生活に反映されない。可処分所得如何である。都会と田舎の両方に住んで、田舎に比べると、都会では、倍の名目所得があってほぼ対等であるような感じがしてくる。

  持ち家ならローン、賃貸マンションやアパートなら家賃、猛暑なら窓を開けて扇風機で済ますというわけにはいかない。都会の月ぎめ駐車使用料は、田舎の家賃より高い。家庭菜園でさえ、タダでは借りられない。そこで出来た野菜だって、スーパーで買った方が安いだろう(鮮度や安全性は、この主題から外れるので別とする)。人手が必要でも、ちょいとお隣さんにお願いというわけにはいくまい。ドロボウ対策にセキュリティ会社と契約するかもしれない。一重、二重の鍵をドアや窓につけなければ、おちおち外出どころか、夜も安眠できまい。水洗トイレだろうから、下水料も必要だろう。渋滞がひどければ、3キロ先のホーム・センターに行くだけで、1リッターのガソリンが減るだろう。田舎はその逆だ。

  何に金を使うかは、人、それぞれの価値観によるが、そこに住むことによって必ず使わなければならない金が都会と田舎ではかように差がある。

  それを、単純な統計資料による所得格差で、都会は優遇されて、田舎は冷遇されていると決めつけるのは、どう考えてもおかしい。田舎のおじいちゃん、おばあちゃんは、「オラホの国が一番」と昼の番組で胸を張っているではないか。ヤラセ半分にしても、かなり的を得ている。

  所得格差に苦情を呈するのは、声だけが大きいごく一部の田舎の欲張りじいさんと企業が、何とか補助金や助成金といううまい汁を吸おうとしているからだ。自民も民主もまた他の党も、こんな話に耳を傾け税金をムダにしてはいけない。日本は職業選択の自由もあれば、居住地選択の自由もある恵まれた国だ。田舎に住んでいるのが不満なら、都会に移ればいい。現に、彼らの娘・息子はどんどん都会に出て行って、それがまた、田舎のおじいちゃん、おばあちゃんの自慢の種ともなっている。(60年安保の時、岸に反対するなら、日本から出て行けとなじられた学生は少なくなかった。これと、都会に移りなさいということとは、似て非なるものである)

  田舎の人間は、なんだかんだと言っても、内心、田舎の住みよさに満足している。新宿や池袋の地下街でよくすれちがう不幸と緊張の塊のような顔を田舎で見かけないのが、なによりの証拠だ。

  所得格差はあって当然。次は、医療の格差について言いたい。

(断るまでもないが、都会と田舎をマクロでとらえている。念のため)

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眼には眼を、歯には歯を

  生きるのに精一杯であった現役時代は、3面記事など、全くと言っていいほど、無関心であった。第一、そういうヒマがなかった。仙人暮らしもどきをするようになってから、却って、血なまぐさい事件をこれでもか、これでもかと見せつけられるようになった。なんとも、皮肉なめぐり合わせである。

  人が人を殺す。業は業として、昨今の殺しは、余りにも“美しい日本”の世相を反映しすぎている。自分より明らかに弱い者を殺す。ひどい場合は、集団で弱い者を殺す。被害者の死に直面した時の恐怖はどんな映画でも現せていないだろう。残った親族、友人の嘆きと怒りは、我が身に置き換えたと想像するだけで、言葉にならない。

  私は、こういう裁判官がよく口にする情状酌量の余地のない殺人を許さない。情状酌量の余地がないといっておきながら、懲役10年か20年で済ますリップ・サービス旺盛な裁判官も許さない。
  
  某大学の空手部員や某企業のラグビー部員を相手にしないで、女、子供、老人を殺す。これ以上卑劣な行為があるだろうか。

  殺人者は、金が欲しい、憎い、心神喪失、神託、探せば言い訳に事欠かぬ。いかなる弁解をしようと、その罪は重い。同じ悪でも賄賂や着服なら後からでもなんとかなる。命は一度失えば、二度と戻らない。それを承知で、相手の命を奪う。こんな人間にはなんの裁判もいらぬ。即刻死刑に処すことだ。だらだら弁護士が入れ知恵をしていくうちに、己の命が惜しくなってくる。裁判所の費用も全部税金で賄っている。ムダの極みだ。

  殺人者に年齢も不要だ。若いからといって、将来、社会復帰させる必要は無い。日本には何千万という普通の若者がいる。殺人者を周りでいろいろ苦労してまで、社会に貢献させることはない。余命いくばくもない老人だからといって、情けをかけてはいけない。少年であっても、殺人者であれば、死刑だ。刑が当人の処罰と同時に、社会への警告であることを思えば、親のしつけも必ず締まりのあるものになってくる。

  「眼には眼を、歯には歯を」。これほど平等な表現はない。私は、この言葉を、死刑を絞首刑に限るべきではない、その殺人犯が殺した通りで処刑すべきことと解釈している。粘着テープで窒息死させたら粘着テープで、出刃なら出刃で、ピストルならピストルで、毒殺ならその毒で、生き埋めなら生き埋めで、放火殺人は火あぶりの刑で、酒酔い運転者は、道路の真ん中に立たせ同じタイプの車で同じ速度で轢く、これが本当の「眼には眼を」である。

  国としての自立心を失った日本では、内にはタガがはずれてしまった。これからも陰湿かつ残忍な殺人が続出する。被害者の会のようなものができて、政府に保障制度を確立するように求めているようだが、どれほど保障がなされても、殺人犯が、20年やそこらの懲役でなお生き続けていることのくやしさと無念さは、決して消えまい。肝心なのは、いかに保障に万全を期したとしても、殺人犯罪の減少にいささかも貢献しないということだ。

  即刻、同じ手段で死刑。これで、1年365人の被害者が10分の1に減るのは確かだ。人権擁護団体や弁護士連中から、野蛮だと非難が起きるかもしれない。だが、これにより、殺されなければ明日も生きていられたはずの330人が殺されないで済むとなれば、また、330人を囲む平穏な家族に怒りや悲しみを味あわせずに済むとなれば、36人の殺人者を被害者にしたやり方で仕返しする位は、野蛮どころか、極めて合理的かつ効果的であるといえる。

  「眼には眼を、歯に歯を」、この見事なまでに簡潔に公平を社会に求めた言葉は旧約聖書の中にある。

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使えない使えるテレビ

  電子機器工業界と政府・官僚の癒着を出したついでに、テレビを取り上げる。

  扇風機や冷蔵庫は古かろうが新しかろうが、使えるものは使える。テレビはいくら性能が優れていても、放送がなければ、粗大ゴミである。粗大ゴミはその廃棄が常に問題となる。

  日本は、政府命令ですべての地上波テレビを粗大ゴミとすることにした。数千万台のテレビが、ある時からぱったり使えなくなる。故障で使えなくなるのではなく、政府が強制的に使えなくさせる。民放は私企業だから、突然止めても、文句が言える筋合いではない。NHKは、観なければ受信料を払わない。それだけのことだ・・・。

  はたして、それだけのことだろうか。十分使用に耐える物を、作為的にゴミとする。新しいテレビのためにエネルギーと資源が使われる。環境省から苦情の一つもでないのか。

  テレビはとうの昔に家庭の必需品となっている。一家に数台あるかもしれない。それが買い換えとなるのだから、間違いなく需要予測が可能となる。しかも約束された数量が。あとはテレビ・メーカーのシェアー争いだけだ。いや、争うまでも無く、現有の設備であれば、どう転んでも、腹一杯になる注文はどこのメーカーにもやってくる。専売特許以外の業界にこれほどおいしい話はかつてなかった。天下りを一度に10人や20人引き取っても、十分お釣りが残る。私たちがたくらみましたといいたくないものだから、例によって、有識者や専門家などを集めて、こじつけがましい提言を並べさせ事を進めた形にしてあるのだろう。

  政府の強制が働くのであれば、まして、日常生活に密着したテレビであれば、国民に賛否を問うべきである。あせることはない、衆議院選挙の時に、1枚賛否の投票用紙を配るだけでいい。業界や政府はこんなことは百も承知である。実施すれば、今のままで結構という票が圧倒的多数となることが分っているから、やらなかった。

  番組の良し悪しは受け側のテレビの精細な画面やあれこれ面倒な機能によるものではない。内容だ。針の音がシャーシャーするSP盤であってもカルーソーはやはり偉大なのだ。

  これから2010年まで、年2回のボーナス時期には、必ず家電量販店の景気のいい姿をテレビで見ることになる。ゼネコン談合でさえかすんでみえるような業官癒着の醜態を実感する時でもあり、環境破壊の真の張本人が誰であるかを再確認する時でもある。

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古い扇風機

  扇風機から出火して、火事となった。持ち主はいずれも高齢者のようだ。おじいちゃんの形見に扇風機を引き取る若夫婦はいないだろうから、そうであろう。ふと、自分も高齢者であることに気づき、今使っている扇風機を見てみた。話題となったSANYO製である。早速サンヨーに電話を掛けたら、29年前のものだから、使用し続けてかまわないとのこと。

  先ず思ったことは、30年を過ぎた電気製品に火事の責任を負わすのは酷であるということである。身の回りを見回して、30年前の物と言えば、アルミナベしかない。家電製品はこの扇風機だけである。他のメーカーの名がでない所をみると、彼らの物は30年を待たずに故障して、廃棄されているのではないか。サンヨーが格段に優れた耐久性を有しているのではないか。サンヨーが左前になったとか、むべなるかな。

  次に思ったことは、扇風機は、使用条件が非常に甘いということである。冷蔵庫は24時間、常に電源ON、庫内温度の変化に応じて、オン・オフを繰り返す。私は年金暮らしを始めて以来、ビールなる豪華飲料を冷蔵庫に置いたことはないが、大抵の家では、10本とはいかないまでも、カン・ビールの5個や6個は入っているだろう。無くなれば、ぬるいカンを補充する。こういう負荷変動は電気製品にとって厳しい条件である。方や、扇風機は、せいぜい7月、8月、9月。それも、暑い昼間から夜にかけてだけである。だいたい1度スイッチをいれたら、回しっぱなしである。部屋で風は起きないから、今回の参院選で自民に当たったような逆風はない。台風の時に扇風機を回す者もいないから、常に、無風かわずかな順風下で使われる。冷蔵庫が5年持つのなら、経時劣化を勘定にいれても、扇風機が50年使えても、なんら、感歎すべき事柄でないのではないか。

  そして、最後に不思議に思ったことは、ほとんどの家電製品のメーカー保証期間が1年となっていることである。どうして、扇風機がたとえば10年になっていないのか。電子レンジが3年となっていないのか。さらに、どのメーカーも一律の保証期間となっている。わが社の洗濯機は丈夫なので5年の保証をいたします、なんて聞いたことも、見たこともない。

  この自問自答はこうである。家電業界と経済産業省が談合した。会合が表向きには(多分)立派な名を付けているのは、他の業界と役人の癒着関係と変りはない。そして、なんという名前がついているか知らないが、家電業界の総本山的業会が、異論を唱える日本の家電メーカーや輸入業者がいれば、陰に陽に、談合された保障期間を守るよう、プレッシャーをかける。経済産業省は見て見ぬ振りをしているか、積極的に業会をガイドと称して支援する。

  1年の保証期間と10年の保障期間では、部品の選定、環境試験、製造基準など、すべてにわたって異なる。10年保証のつもりのメーカーもアホらしくなり、安価でそこそこの耐久性の製品でお茶を濁す。かくして、これからの日本では、今回のサンヨー扇風機のように30年持つ家電製品は絶対に生まれない。

  けだし、消費を美徳とする資本主義経済では、長期耐久性能はもっとも忌むものである。それは、少子高齢化論議で常に老人がマイナス要因とされるのも、揆を一にしている・・・とは、私のひがみ根性。

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生きていてよかった

  生きていてよかった。私は、結構長く生きてきた方だが、特別に生きるか死ぬかのような必死の状況に置かれたことはない。だから、生きていてよかったという大層な表現を使う資格はないと思う。しかし、政界、官界、学界、どこを見回しても、かの小野田寛郎さんに匹敵するような生き方をしている人物を見ないので、私も、厚顔にして使うことにした。今の私の感情にもっとふさわしい表現があると思うが、貧弱な語彙力ではいかんともしがたい。

  島はお盆が過ぎるまでは、海水浴客が湘南の海水浴場とは比べ物にならない数だが、それでも大勢やってくる。それを目当てに売店が浜辺に建てられる。海水浴客だけなら、静かなのだが、この売店がうるさい。バカの一つ覚えさながら、朝から同じ演歌を流す。安いアンプを最大にするものだから、音がひずむ。そんなのを、ガンガン聞かされるのだから、家に帰って、己の身に余るオーディオ・システムで、ベートーベンの弦楽四重奏を何回聴いても、心は休まらない。モーターボートでくる若造は、決まって、水上オートバイを乗り回す。これが、また、うるさい。太平洋に出ればいいものを、これ見よがしに海水浴場すれすれで暴れる。小野田さんならずとも、こんな日本で生きていてよかったとはお世辞にも言えない。

  生きていてよかった。これは毎年私がお盆過ぎまで生きていて、人もまばらとなった海に出て、全身から力を抜いて、仰向けになり、空を眺める一刻にしみじみ感じる言葉である。雲が流れていてもよし、無くてもよし、ただ水の上に浮かんで空を見るだけで、十分だ。

  小野田さんは、帰還当時、日本人のいやしさにほとほと愛想が尽きてブラジルに行ってしまった。私は、どこにも行かない。どれほど今の日本がでたらめであっても、今日のような一日が私をして、「生きていてよかった」と言わしめてくれるからである。




NHKかAHKか

NHKが昨夜9時の報道で、自衛隊の海上給油活動をやっていた。

石油が何千トンか何万トンか量を数字で言っていた。庶民には、ガソリンや灯油の20リットルならわかるが、トンの単位では、どれほどのものか見当がつかない。私も聞いたが、今、覚えていない。これを「216億円支援しました、続ければ、毎年20億円はかかります」と言えば、テレビを観た人の中、なんでそんな大金を、と疑問の声があがってくる。本当にそれだけの価値があるのかと、考えるようになる。新潟の地震被害者でなくとも、考える。それが困るものだから、金には言及しない。我々には想像できないトン数でお茶を濁す。

  その後、防衛省担当トップという記者が、出てきて、しきりに防衛省の立場を述べていた。報道人たる者、その担当になったら、いくら嫌われようが、しつこくつきまとい、その組織の矛盾・不正を白日の下に晒すのが使命である。あれでは、防衛省のお抱え広報担当員である。防衛省の役人と親しくなって得られる情報は、広報資料だけである。

  さくらのキャスターが、イラクで反対しなかったフランスやドイツがアフガニスタンでは活動していると言って、あたかも、海上給油を延長しないことが、国際社会に顔向けできないような口ぶりであった。先日のアメリカ総局長の、延長拒否がアメリカとの関係を損ね、それが、日本にとってたいへん悪いことのように言っていたのと、同じラインである。彼らにすれば、アメリカすなわち国際社会である。

  さらに続く。小池大臣の言葉をただ、伝えるだけ。民主の鳩山幹事長のコメントもただ伝えるだけ。報道は、単なる伝言板ではない。テロの撲滅のためと言う小池には、テロ対策に本当に有効なのか、反論材料(あくまでも一部の材料で十分)を用意して小池に確かめなければいけない。ますますアフガニスタンが悪化していると言う鳩山には、アフガニスタンの現地に記者を出し、そこから反論材料(これも、あくまでも一部の材料で十分)を用意し、鳩山に正す。この意志はまったく感じられない。

  NHKの本当の略名はAMKである。日本の視聴者の視聴料によって支えられているアメリカ放送協会である。

  ウソだと思ったら、番組表をみればいい。朝から延々と数人の日本選手しかでていないアメリカの野球。ほとんどが日本人で構成されている日本の12球団はないがしろだ。シーズンが来れば、決まってアメリカン・フットボールとアメリカのプロ・バスケット。こんなスポーツは日本ではマイナーである。同じマイナースポーツでありながら、日本の柔道、剣道、弓道、空手道はないがしろだ。コンバット。機略と勇気にあふれるアメリカ兵とその正反対のドイツ兵がでてくる40年前の戦争映画。こんなのはマニアが恥ずかしそうにDVDを買って自分の部屋で観るものだ。


  NHKは中国侵略で始まった先の大戦の超・ウルトラ・スーパー・トリプルA級戦犯である。その体質は、試聴料の強制徴収が続くかぎり改まらない。私は、AMKがPPV(観た番組だけに金を払う)方式を採用するまで、その欺瞞に満ちた公共性を眼の敵にして止まない。

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正社員と非正社員

  連合が非正社員に目を向けるという。それに対し、官公庁や大企業の労組が、自分たちの待遇が劣化すると懸念している。懸念を表明する位だから、組合の幹部であろう。幹部は組合員によって承認される仕組みであるから、組合員の意見でもある。格差問題を自民の責任にしている政党の支持母体がこの体たらくである。万国の労働者よ団結せよどころか、一国でこうだ。こんなことだから、戦争となると簡単に自国優先の愛国主義者となる。その上、憲法九条を守れと叫ぶものだから、九条までがうさん臭くみられてしまう。

  私は転職を繰り返した中で、数回、工場長付きの肩書きで、工場の現場勤務を経験している。ついでだから、言っておくが、「付き」は少しも偉くない。社長付きももらったことがあったが、同じだ。副工場長や副社長は大したものだが、「付き」は、他の職場で使えないから、どこかにぶらさげておけという程度のいってみれば職場のフリーターである。ぶら下がっているものだから、いつも工場長について回る。自然、工場長の悩みも聞くことになる。

  ある会社の工場長は、生産ラインで働いている全員が正社員でそのトップであった。些細なミスでも、所帯持ちであろうが、入社早々の若者であろうが、人前で容赦なく怒鳴る。明日から来なくていいとか、辞表をすぐ書いてこいとか、あれなら旧陸軍のビンタの方がましだと傍目に映るほどの罵詈雑言で叱る。

  別の会社の工場長は100人中正社員が5名ほどという、ほとんどがパート社員の職場であった。一般にパート社員は熟練工である。まず間違いは起こさない。それでも、まれに、ミスを犯す。工場長は、そのミスが重大で次の役員会でつるし上げられることがわかっていても、こめかみをひくひくさせながらも、ぐっとこらえる。パートは女性である。少しの小言でも、10倍になって返ってくる。悪くすると、集団で欠勤してしまい、ラインが止ってしまう。だから、いつも、奥様、お嬢様とまではいかないまでも、腫れ物にさわるような扱いである。知らない人がみたら、どちらが上役か見分けがつかないだろう。

  さて、いずれの工場長が、より大きなすトレスを抱えているか。

  答えは正社員の工場長である。私が「付き」で働いていた当時、会社は急成長し、毎年新卒が十数名工場に配置される。彼らは5年から10年の内に必ず、結婚する。結婚シーズンとなれば、毎週のように招かれる。成長株の部下であれば、たいてい仲人役を頼まれる。一つ前例ができれば、次は断れない。仲人に外れても、主賓として招かれる。包む額も千円単位ではない。仲人ともなれば、礼に特級酒が何本届けられてもとても間尺に合わない金額となる。こうして、年2回のボーナスの半分近くが消えていく。会社は冠婚葬祭分までボーナスに上乗せしない。パートの工場長はといえば、「今度結婚しますので、1週間休ませていただきます」、「そうかい、よかったね。君ならいい奥さんになるよ」で、チョン。どなりつけることを我慢しても(宮仕えに我慢がつきものであることは、工場長とて同じ)、ボーナスが減らない方をほどありがたいと思うのは人情だ。

  今、正社員が減って、非正社員が増えている傾向にあるという。報道では、人件費の軽減ばかりがその要因と分析されているようだが、現場の総指揮官である工場長の意向も相当、反映されているのではないか。

  パートを仲間に入れようとしない労働貴族、できればパートで生産ラインを動かしたい工場長、それぞれの背景に思いを馳せれば、いずれに共感できるかは、言うまでもあるまい。

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京都議定書の愚

  城が攻められている最中に、ああでもない、こうでもないと一国のトップが集まって言い合う。ご存知、小田原評定。彼らにしてみれば、国の存亡がかかった重大な会議であって、真剣に議論をしたことであったろうが、後世の我々はそれを嗤う。

 地球が人類にとって住みづらくなっているのが、わかっていながら、その対策については、ああでもない、こうでもないと世界の国々が言い合っている。いくつかの国は国益に反するから賛成しないとまで発言し、あからさまに反対する。

 京都議定書に、クリーン開発メカニズムというのがあることを今日のニュースで知った。聴きながらメモを取ったので字句に間違いない。クリーンはたいへん響きのいい言葉である。大和言葉なら「清らかな」か。ニュースを聴いていくうちにそれが、羊頭狗肉であることを知った。ある国で目標の炭酸ガス排出量に満たなければ、その差分を欲しい国があれば売ることが出来るということらしい。買った方は、その分を放出できる仕組みとのこと。世界の多くの国が同意しているようだ。私は小田原評定を決まらないことで嗤うが、京都議定書は決まったことで嗤う。他にどのような高邁な条項があろうと、この決め事だけで、京都議定書は唾棄すべきものとなった。

 地球温暖化は地球の問題ではない、人類の問題だ。人という種が将来にわたって地球で存続できるか否かの大問題だ。炭酸ガス排出は減れば減るほど存続の期間は長くなる。京都議定書で設定された総量規制を満たせばそれで事足れりというものではない。ある国が目標の9割で済ませたら、お前の国も9割にせよと詰め寄らなければならぬ。それどころか、ヨーロッパではこの炭酸ガス排出の証券取引のような場ができたそうだ。売ったり買ったりするのも、ひどい話だが、それを金儲けに利用しようとするとは、正に金の亡者の真骨頂だ。

 沈んでいく船の甲板で、男が船室の金貨が惜しくなり、周りの制止もなんの、ついには金貨を両手に抱え、船もろとも消えていく、そんな映画があったような気がする。この男を私は嗤わない。彼は命より金の方に価値を認めるという彼個人の価値観によっただけのことだからだ。

 今の炭酸ガス排出の売買は、金貨を抱きかかえるだけで満足せず、沈んでいく船の船底にドリルで孔を開けていることに他ならない。私は、これを嗤う。

 温暖化で困るのは、人間。海面が10メートル上がろうが、夏が毎夜50度の熱帯夜になろうが、それに適した植物、動物、微生物は限りなく存在し、人間抜きで調和した世界(この言葉が適切かどうかに自信はない)を築くのは確かだ。それが神の摂理であるとどこかの宗教家に言わせないためにも、京都議定書の愚を次の議定書に引き継がせてはならない。

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詐欺に弱い宮城県民

  宮城県はオレオレ詐欺では全国でトップ・ランキングである。移住してきた当初は、人を信じ易い、人を疑うことに慣れていない県民性によるものと、性善説を見たような気でいた。また、宮城県では、平民を裏切るような騙し政治も、政宗、政宗の連呼に辟易していたとは言え、古来、行われていなかった証左でもあると、県民の一人として、内心、悪い気はしなかった。

 何事も10年付き合えば、様子がわかるもの。騙されが、単にお上や権威に弱いだけに過ぎないことが分って、すっかり酔いが覚めてしまった。社会、福祉、協議会、共同、協賛、こんな言葉がでようもうのなら、一も二もなく、お金を差し出す。福祉とは名ばかり、集めた金の3割が車椅子になり、残りがその団体の理事の退職金や職員の給与、また、その団体のPR誌の印刷代に使われても、文句を言わない。車椅子1台に感謝する。よくしたもので、PR誌は人件費・事務費をすべて福祉項目に振り分ける。その団体自体が福祉を唱えているのだから、すべてが福祉といわれればその通りである。ウソではないが、実態を現してはいない。

 権威に弱い平民が、警察署や弁護士、法務局などの名前が出てきたら、コロッと参るのは不思議ではない。宮城県の風土としてである。当たり前だが、百人が百人ではない。千人に千人でもない。しかし、一万人に一人はいるかもしれない。十万人に一人は必ずいる。詐欺師は根気良くひたすら電話を掛ければいい。

 詐欺に弱い民は権威に弱い民でもある。オレオレ詐欺は、これからも形を換えて、続いていく。そして、宮城県は、これからもトップの地位を占めていく。県庁、市庁、協議会、警察、弁護士、その他諸々の権威を県民が自分の頭で根本から再検討しようとしない限り・・・

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孤独死

 私が民生委員をしていた頃、それは2年ほど前であるが、孤独死がよくニュースになっていた。部落のほとんどの人は70を過ぎているが、様々な背景から、孤独死の可能性は皆無であった。だから、孤独死を出した地区の民生委員はさぞ大変であろうと思うだけで、不謹慎とは知りつつも、孤独死のニュースは対岸の火事でしかなかった。最近、ニュースに出てこないのは、孤独死が無くなったのか、それとも、他の事件との軽重で割愛されているのか、私には、わからない。

 その報道で一つ気になってしかたがないことがあった。それは、孤独死を悲しい出来事と決め、孤独死を出した社会に問題があるという観点に立っていることである。

 死は孤独である。孤独であるのが自然である。孤独でない死を考えてみればいい。一家心中、ファミリー・ドライブでの交通事故死、台風・地震災害、大きくは、戦禍としての死、進んで選ぶ者は一人としていまい。
 
 孤独死といわれて死んだ人は、かなりの割合で、孤独にさいなまれつつ死んだのではないというのが私の考えである。すなわち、病院の大部屋で白壁に囲まれ、廊下を行き来する看護婦の気ぜわしい足音や見舞い客のまるで隠し事でもあるかのような声、その中で死ぬのを拒んだ人ではないか。親族に囲まれて迎える死も孤独であることには変りがないと分り、生をともにした天井、家具や食器、その他なじみの物ばかりの中の死を望みかつ実行した人ではないか。(三日後に発見されようが、半年後に発見されようが、本人は関係ない。この意味では、利己主義者である。私も、後は勝手にしてくれという方なので利己主義者の部類だ)。

 下の文は1年半前、後任の民生委員に頼まれて書き、部落住民に読んでもらった自己紹介である。前の部分は、いつか語るので、軽く読み流してもらいたい。

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      島に来たわけ、去る姿

  敗軍ノ将ハ兵ヲ語ラズ、民生委員の話はしない。

  55歳、会社から「定年までの5年間、5千万は保障するが、仕事はない。どうするか」と来た。お金は働いて得るもの。それを、時間だけくれれば金を出すとは。私の命を値踏みした。その場で辞めると答えた。私には、することがあった。中国語学習と中国古典の融合の試(こころ)みである。5年は欲しい。金を時に替える時だ。後は、場所。電気は引かれているが、夜は一切の人工の光が家から見えないこと。私の中国古典にはどうしても必要な条件であった。土地探しは困難を極(きわ)めた。ようやく浪入田にたどり着いた。私のライフワークは着実に進み、60歳を前に終わった。私の真の余生が始まった。

  さて、去る姿。昨夜は久しぶりにベートーベンの第九を聴いた。大正生まれの好敵手との対局は、負けはしたが、いい碁だった。外に出ると、満天の星。天の川が広がっていた。今、ハンモックに横たわっている。空は抜けるように青く、雲はあくまでも白い。猫が腹の上に飛び乗った。オンドリが啼いている。ヤギはいつもの場所で昼寝だ。犬は、散歩を期待して、傍(かたわ)らで時々上目を使う。遠くで波の音がする。初夏の風はとても心地よい。最後の息を肺の奥まで深く吸う。私が島を去る姿だ・・・・・・

  人は、その人に最もふさわしい時に、その人に最もふさわしい所で、その人に最もふさわしい形で死ぬ。だから、島を去る姿が、このようでなくても、それはそれでいいと思っている。自分で蒔いた種は自分で刈り取らねばならぬ。こう私は信じているからだ。  H18.3.24.

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今もこの考えでいる。今日は、私の誕生日。死を考えるに最もふさわしい日である。


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生き物を殺す 

 私の家は集落からかなり離れている。竹やぶの中にあるので、竹の子採りのシーズンに何人かはやってくる。でも、私の敷地には入ってこない。来る人は月に1回の電気の検針と数ヶ月に1度のプロパンガス交換の人だけである。静かなものである。その分、人間以外の多くの招かれざる客がくる。向こうに言わせれば、私こそ招かれざる客と言いたいところだろうが。

 ここ、10日ばかり、卵の数が少なくなっていた。夏からは産卵が減るので、それに、すでに老鶏なので、無理もないと思っていた。鶏は昼までに産むので、いつもは、だいたい2時頃、鶏小屋に入る。昨日は、夕立の気配があったので、昼、早めに取りにいった。

 巣箱では1間(1.8メートル)ほどのシマヘビがとぐろを巻いて、卵を呑んでいた。ヘビの口は180度開く。写真に収めるためデジカメを手にして戻った時は、すでに卵は殻だけ。ヘビは金網の隙間から逃げようとしていた。

 逃がせば、また来る。鶏小屋から引きずり出して、犬と一緒に退治した。8年前(鶏を飼い始めた頃)初めて、ヘビを殺す時は、異様に興奮していたことが、自分でも分った。でも、毎年のことだから、いつのまにか殺すのは慣れてしまった。

 ヘビに限らす、ここに住んでから、生き物は相当数殺してきた。そして殺す度に、連想する。アメリカ兵がアフガニスタンやイラクで女子供を(意図せずとはいえ、また、誰も見ていないとはいえ)殺す時も、初めは、心臓が止まる思いであったろう。しかし、何回が繰り返せば、いわゆる「慣れっこ」になる、と。
 
 私は、カラスがヒナを殺すように、カラスを殺す。卵を呑むヘビも殺す。メンドリを殺す野良猫も殺す。鶏のエサを掠めるネズミも殺す。スズメ蜂も殺す。しかし、やたらと殺すことはしない。わが家の敷地300坪の中だけで行う。彼らにはそんな人間の縄張りがわからないだろう。人間だって、ヘビやカラスの縄張りはわからない。マムシのテリトリーの草藪にサンダルで入れば、マムシは容赦なく噛みつく。スズメ蜂のテリトリーに半袖で入ればスズメ蜂は容赦なく刺す。お互い様だ。その代わり、敷地の外であれば、首や腕にとまっている蚊以外は、殺生は絶対にしない。

 自然との共生。人間も自然である。だから、この言葉は矛盾である。他の人間はどうかしらないが、少なくとも、私は、生きるも、死ぬも、殺すも、(病原菌や細菌で)殺されるも、これらの生き物と対等でありたいという考えでいる。     

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国民健康保険税という妙な税名

 保険は万が一に備えてお互いに金を出し合って成り立っているものと私は理解している。保険料は加入者が納め、加入者以外は保険料を払わない。加入するかしないかは本人の自由である。税金は国を維持するために国民が絶対に払わなければならない。だから、徴収と言う。万が一の保険と日常の税とは、根本が違う。

 何が万が一であるかは、一人ひとりの考え次第である。特に健康保険に関しては差が大きい。ある人はクシャミ一つで病院に行く、ある人は、40度の熱を出しても、家で寝ている。ある人は、パイプを3つも4つも喉や口につなげてまでも、とにかく生きていこうとする。ある人は、五体満足でありながら自分で命を捨てる。

 それを、国民すべてに保険加入を強要する。これでは税と変らない。

 昨日、平成19年度の健康保険の通知が届いた。よく見たら、国民健康保険税納税通知書となっていた。税とはっきり書いてある。税なのだ。それなら保険という表現を削除しなければならない。

 高校の世界史で、窓がある家に窓の数に応じて税金をとった国があると習った。太陽の恩恵を受けるだけで税を取るとは、悪政の極みとあきれたのを覚えている。健康保険税は、生きていることを理由に税を取る。窓に税もひどいが、それよりはるかにひどい悪政である。21世紀の日本の現実である。

 万が一が心配な人は、万が一の心配の程度に従って保険に入ればいい。心配があってもその時はその時と決めている人は加入しなくていい。先を天に任せ、今日一日が満ち足りていればいいという人は当然入らない。その代わり、病気やケガをしても、すべて自分で処理する。自己責任である。私はこの考え。健康保険が任意であれば、絶対に入らない。

 さて通知書であるが、所得金額が136万円でそれに基づいた国民保険税額が156,900円也。1割を超えている。前に話した介護保険と合わせると、さすがに気が滅入ってくる。

 病気やケガ、不慮の事故は、人生にはつきもの。その人生が長くなればなるほど、遭遇する機会は増えていく。自分も他人もない、自然の流れだ。

 通知書の最後のページにこう書いてあった。

「保険税は、みんなの医療費を支払うため、また、みんなで介護を支えるための財源です」

 ウソつけ。

 保険税は、みんなではありませんよ、医者にかかりたい人のですよ、医療費を支払うため、また、みんなではありませんよ、長生きしたい人のですよ、介護を支えるための財源です。この財源はですね、私たち役人の給与や天下り官僚の退職金、印刷代、通信費、他ありとあらゆる自称必要経費をまかなう財源でもあるのです。その額は、ピンハネどころではありません。だから、払ってもらわないと、みんなではありませんよ、私たち役人が困るのです。これからも年金がどれほど減ろうが、おかまいなくハネますからなにとぞご覚悟のほどを、いや失礼、ご理解のほどを。

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哀れ、白い恋人たち

 雪印、不二家、みな白い恋人たちだ。

 世間は、これらの恋人をまるで恋敵扱いだ。豚肉を牛肉と偽った北海道のミート・ホープと同じ扱いを受けている。どうもそれがかわいそうでならない。

 雪印だったか不二家だったかの工場長が、消費期限が1日過ぎた材料を使った言い訳を、「捨てるのがもったいなかった」ためと語ったとき、単純な言い訳とは受け取れなかった。工場の現場勤めを経験した私には、その気持ちが手に取るようにわかるからだ。使える部品は使う。使えない部品は廃棄する。日付で判断しない。品質検査をして判定する。廃棄は損失を意味する。

 食品の場合、消費期限を境として、劣化(細菌の増殖・腐敗等々)が突然進むのだろうか。たとえば、期限まではだいたい1から5位で、期限を過ぎると5だったものが100になるのだろうか。細胞分裂なら二乗増殖もありそうだ。しかし、食品すべてがその消費期限を境にして、良品から不良品に変わるとは思えない。

 どこかに敷居を設けなければ取り締まりができない。その通りである。だが、これは正しいようで正しくない。すなわち、取り締まりが前提となっていることだ。取り締まりを前提から取り除けば、敷居は必要がなくなる。食品を扱う工場は食品のプロである。検査設備も整っているだろうし、見たり、嗅いだり、舐めたりと、いわゆる官能試験のプロが揃っているはずだ。消費期限という時間で決めるより、はるかに合理的であると私は思う。

 すべての食品会社がかように良心的であるとは限らない。もっともである。それに応えて、消費期限は存続させる。その上で、期限過ぎのものでも、問題なしと判断されれば使用を認める。不祥事が起きた場合、消費期限を超えていたか否かが罰の軽重に反映されるようにしておけば、そう甘い判断基準は作られない。

 これが相当の実効性をもつことは、車の速度制限で証明済みである。制限速度40となっていても、安全であれば時速60キロで走る。路面が凍結していれば、10キロでも走らない。運転手が判断する。ただし、事故が発生したら、制限速度が物をいう。食品も同じことだ。

人は言うかもしれない、食品の事故は起きてからでは遅い、と。ならば聞く、起きてからでも遅くない事故があるか、と。

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216億円 鈴木宗男 小沢代表 小池大臣

 ムネオハウスで有名な鈴木宗男議員の問いに答えて外務省が、海上給油に使った税金の額である。今でも、毎年20~30億円かかっていると言っている。さすが、荒い金遣いに気がさしたのか、アメリカを初め諸外国から高く評価されていると付け足した。諸外国ってどこだ。競馬ですってまた親に金を無心するドラ息子の言い訳と違わない。

 アメリカはアフガンであれイラクであれ、戦争が続けられさえすれば儲かる。金がなくなってくれば、ドル札を印刷すればいい。日本はそうはいかない。216億円を投資して、何が得られたか?アジアの平和に貢献できたか?侵略から日本を守ったとでも言うのか?

 昔、社会党が、この金があれば、家が何戸建つ、道路が何キロできるといって、税のムダ使いを追及していた(ように記憶している)。億の単位は私の如き庶民にはなじまないが、千万なら少しはわかる。仮設住宅にやっと入れるといって感謝している新潟地震の老人。仮設なんてケチなことは言ってくれるな。老夫婦なら2部屋15坪の平屋で十分だ。ただで差し上げるのに難色があるなら、家賃なしで終生住んで貰う。せいぜい10年か20年で空家になる。その時、改めて新しい使い道を考えればいい。プレハブ工法なら(在来工法でないという意味)、解体して、次の震災に備えておくこともできる。216億円があれば2,160戸の一戸建てができた。田舎のことだ、国有地、自治体の保有地、腐るほどある。毎年30億をアメリカに使わなければ、300戸建てられ、その30億円は地方の建設業者、大工のうるおいとなる。公共事業が削られ倒産続きの田舎にとってたいへん結構なことだ。侵略戦争の片棒担ぎとは大違いだ。

 外務省がアメリカに嫌われないようにしたければ、外務省の役人が己の頭を使って、そうしなければいけない。そのために、ビスマルクとまでは望まないが、外交官という職がある。権力維持や組織防衛に費やしている時間の100分の1でも使って考えよ。震災被災者に回るべき金を使ってアメリカの機嫌をとるのなら、ポチでもできる。

 さて、この前、わざわざ党に出向いてきたシ-ファー大使に民主の小沢代表がきっぱり反対の意を表示した。国連決議云々は関係ない。日本に良くないことは良くないのだ。久しぶりの政治家たる政治家を見た思いがした。

 それにつけても、小池大臣の程度の低さよ。アメリカに行ったと思えば、頭をナデナデして貰って喜んでいる。政府専用機で出向いたポチがボールを投げて貰ったのを覚えていたのだろう。今、人事で防衛官僚とすったもんだやっている。目くそ鼻くそとはこのことだ。こんな大臣にマスコミは仮にも、次期首相では、などと誘ってはいけない。私なんかとても口では言っても、顔が私こそ、と語っている。ブタもおだてりゃ木に登る。ブタはブタ小屋というふさわしい住みかがある。小池が大臣にふさわしいか、どうか。自明というなかれ。少し間違えば、とんでもない男を総理にしてしまう日本人がいるのだ。

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戦争反対は空念仏

 仏様にお願いするから念仏。神様に向かってなら、平和への祈りとなるか。

 先日、原爆の日に少女が涙を流しながら核廃絶か平和の誓いかを訴えていた。多分、原爆の被害を蒙った親類がいる家の少女であろう。ジャリタレではなかろうが、演出も度が過ぎるとイヤミになる。センチメンタリズムである。少女趣味である。核廃絶の実現はパンダが欲しいのとはレベルが違う。

 終戦記念日には、あの少女のと同じような事が例年通り繰り返される。行事だ。風化を恐れてやたらに記念館が作られる。すべて空しい。何回も書いてきたが、人類には戦争と平和は空気のようなもの。その空気を掴もうと願ったり祈ったり誓ったりするのだから、文字通り空しいのだ。

 祈りなどと呑気なことを語るな。戦争で犠牲になった(断っておくが、兵士の戦死は犠牲ではない)老人、女、子供、乳児、馬、牛、犬、猫、鶏、ほかすべての生き物の恨みを語れ。

 そのため、米国政府に対し原爆投下と焼夷弾投下で謝罪を求めるべきである。衆参両院議員の決議としてである。非人道的行為であることを理由にせず(無差別殺戮は人間しかやらない。だから、人道の一つである。ヒューマニズムは人間が勝手に己を美化した造語だ)、卑劣であることの一点のみを理由にする。ごちゃごちゃ言うと、物事が複雑になるから、卑劣だけでいい。

 外務省の役人は、国際法や数々の条約を持ち出して、そういう謝罪要求を不適当であることを言い立てるだろう。彼らの頭の中には、法律、面子、慣習、無事平穏、現状維持しかない。誇り、志、勇気など1細胞1シナプスもない。卑劣な行為に対する憎悪どころか嫌悪感すら産まれてこないのは当然である。そんな連中に耳を貸す必要はない。

 日本から議員決議がアメリカに出される。当然、南京大虐殺、朝鮮人強制労働、他、次から次へと、日本政府にアジア各国から議員決議が出される。日本政府は、すでに国と国との間で解決済みなどとぼけておれなくなる。すべてが出尽くされて初めて戦後処理が完了する。

 自国の恨みに鈍感であるから他国の恨みにも鈍感なのだ。超党派の議員決議がこれを解消する最良の手段だと私は確信する。
 
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戦犯 NHK

 この時期になると必ず戦争責任の特別番組が組まれる。昭和天皇、A級戦犯、無力の議会、だいたいこういうことが中心となるのが恒例となっている。

 責任は重層的な性格のものである。その中の1層、通奏低音といっていい、がNHKである。彼らは、事が自分たちの手に負えなくなる前に、自分の足で現地に出向き、あるがままの報道をしなかった。中国大陸で関東軍がしていることを、関東軍が根負けするまで、しつこく追いかけ(正に、これが、報道人の使命であり、不可欠な資質である)、それを国民に知らせること、これを怠った。

 相当額の視聴料を使って関係各国に出向き、あれこれ、資料を集めて分析するのも結構だが、先ず、なぜ、自分たちが公共の名において、一般大衆にでたらめな報道をすることに専念したのか、検証すべきだ。

 私は、先のイラク戦争前後からかなりNHKを観るようになったが、その報道人としての無自覚に我慢がならなかった。ここ数年、確かに内容の濃い番組が増えてきた。だが、それはそれ、NHK自身の総括を自らの手で番組を作り、全国に流してもらいたい。

 のど自慢のように毎週やれと言っているのではない。年1回、8月の終戦記念日だけでいい。一般大衆が、いかに公共の名があやういものであるかを、毎年、再確認できるように。

 
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拉致問題と国交正常化

 物事には順序というものがある。部品を集めて製品とする、予選があって最後に決勝がある。何を今更と言うなかれ。

 拉致問題がこの「今更」の見本なのだ。国交正常化は60年の懸案。拉致はせいぜい30年だ。さっさと国交正常化を済ませておけば、拉致は絶対に起こらなかった。

 安倍総理は、二言めには、「拉致問題の解決なくして、国交正常化なし」と言う。これでは、いつまでたってもケリがつかない。将軍様がお亡くなりになるまで気長に待とうというのなら、まだしも、本音は、拉致問題は解決して欲しくないのだ。あくまでも、北朝鮮を日本の安全を脅かす恐ろしい国としておきたい。仲良くなったら、日米安保はいらない、防衛省は防衛庁に格下げになる、兵器産業が疲弊する、なんていう風向きになりかねない。安倍総理の二言めには、無理筋ではあっても話の筋は通る。

 わからないのが、拉致被害者の会とかいう団体の行動だ。署名活動をやるかと思えば、アメリカやフランスまで行って同情と理解を取り付けようとする。お門違いもはなはだしい。本当に拉致問題を解決したければ、日本の政府に国交正常化を促すべきである。それを、何を勘違いしたのか、経済封鎖をせよとまで言い出す。さらにわからないのが、何を以って解決というのか。あのヒステリックな言動を見ていると、自分たちが満足する解決以外は一切解決と認めないのではないか。己の正義を信じていても、妥協しなければならない事など、平民生活においてでさえ日常茶飯事だ。まして、民族も言葉も風習も違う国際間のこと。自分だけの主張一点張りでは、世間も世界も通らない。あんな我がまま集団のままでいると、家族の救出が目的ではなく、実は、好戦主義者のひそかな団体だったなんてことになりかねない。

 ついでに、思っていることを述べる。拉致は大陸の人間にとってはそれほど驚くようなことではないのではないか。家畜になじんでいる彼らは、首に輪をかけて持ち去るのは、特別な行動ではないのではないか。敵のものなら、拉致に動物も人間もない。それと、史記あたりを読むと、拉致が結構頻繁に起きている。拉致された人間も、その土地で才能を発揮し結構優遇されている。我々日本人は、農耕一本槍だったから、拉致となると、強制連行、強制労働しか連想できない。つらい田畑での労働だ。家畜なら却って連れて来られた放牧場の方が良かったなんていうこともあろう。小泉さんの平壌宣言で帰国した拉致被害者をみても、生きるか死ぬかの生活を送っていたのではないことがわかる。生存者がまだ、北に残っているとしても、地下牢住まいとは思えない。ついでの話はこれで終え、結論を急ぐ。

 拉致被害の会は、ここらあたりでマスコミにちやほやされて驕ることから、政府に国交正常化を迫ることに方向変換すべきだ。産業界にも味方はいる。特需で儲ける大手商社やゼネコンだ。孤立無援ではない。私も応援する。テレビのニュースから早く拉致問題が消えて、もっとましなニュースを流してもらいたい願いからである。NHKが費やした秒数を計算すると、費やされた視聴料は10億や20億ではきかない額に昇っているはずだ。

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我は海の子

 人口500人ほどの島には子供が数人しかいない。私の部落は一人もいない。子供の声が聞こえるのはお盆の時だけだ。ところが、ここ数年、お盆の時期でさえ、子供の声がしなくなってきた。

 孫たちは小学生の高学年にもなると、おじいちゃん、おばあちゃんに会いにいくよりもっと楽しいこと、忙しいことがあるのだろう。

 最近、別の理由があることを知った。それはトイレである。簡易水洗に改築して住んでいる移住者を除けば、昔ながらのままである。緑豊かな島(正しくは、荒れ放題のジャングル)なのだから、犬や猫と同じように外で用をたせばいいのに、今の子供は、水洗でなければいやだという。孫の願いを聞き入れて、外便所を内便所にした家もある。

 さて、成田は今年もにぎやかな様子だ。若い家族連れがやたらに多い。海外旅行なんかは何十年と働いた後にやっと手にするご褒美だ。それを、ガキどもが、やれハワイだ、やれグアムだとVサインをしている。

 水洗トイレでしか用をたせない子供、成田でVサインする子供。「われは海の子」は一体どこにいるのだ。

 
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家の安全 国の安全

 私の家はカギを掛けない。10年以上そうしているが、被害に遭っていない。

 なぜ必要がないかを考えると、第一に、周囲の人がすべてよく知っている同士であること、第二に、盗まれる物がないこと、に絞られるようだ。また、夜中にすーと忍び込んで狙うほどの命でもない。黙っていても、しばらくすれば、神様がまちがいなく引き取ってくれる。私が島に住んでいるからではない。多分日本のほとんどの農漁村・山村でもカギは掛けていないと思う。

 国だって同じことではないか。隣国と親しくしていれば、日本に無理難題を吹っかけて戦争を仕掛けまい。日本が石油でもふんだんにあれば別だが、とりたてて戦利品とするような物もない。命も同じだ。日本を占領したところで、体力不足の日本人を徴用して使えまい。オチャラケ番組で騒いでいる若者は戦勝国の重荷になるだけだ。ついでに言ってしまうが、ああいう連中をどこかよその国に引き取ってもらいたいと願っている老人は、結構多いのではないか。

 かように、家と国は安全において似ているのだ。家が社会の細胞であれば、当然のこと。

 しかし、シーレーンの確保はどうするか。

 私は家から1.5キロ程離れた漁業組合にガソリンを買いに行く。途中、誰かに待ち伏せされて、引き返したことは一度もない。怨まれていないからだ。私を快く思わない人はいるかもしれないが、待ち伏せされるほどではない。

 私が何を言わんとしているかは、おわかりのことと思う。しかし、何かと言えば、すぐニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストを持ち出す(知識吸収力に優れていても)思考能力が欠如している人間のために申し上げる。

 もともと日本に有事はない。有事があるのは暴れ放題で世界の鼻つまみとなっている者のお先棒担ぎをしているからである。自衛隊のアメリカ軍への海上給油を是認する者は有事を願っている者だ。有事を願っているとは、さすがに公言できないから、何かと理由をこねあげる。小池大臣のニタニタ笑いは、理由をこねあげるのさえ面倒、愚かな大衆には笑いで十分、元ニュース・キャスターの面目躍如たり。ついでだから、言い添えた。

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人事院勧告 平均

 3日ほど前、人事院から民間企業の平均年収が639万円であるから、公務員の給与も上向きに調整しよう、さもないと、優秀な人材が集まらない恐れがある、という内容の勧告が出された。

「平均」には嫌な思いをした。三十半ば、テレビで1世帯平均貯蓄額が2,000万円(正確ではない)と発表された。その頃は民放も入っていたので、NHKかどうかわからない。とにかく、それを見て、家内が、「なぜ、家はその1割もないのか」と聞いてきた。亭主の稼ぎが悪いことを自白させようという顔だ。東大在学中に博士になり卒業と同時にノーベル物理学賞を取ろうかという私(卒業の前に入学できなかった)は、得意の統計確率論を持ち出し、「我が家の貯金が10万でも、五十過ぎの偉い人が3,990万貯金しているから、足して2で割って、2,000万」と逃げた。家内は口を尖らせて黙った。

 それから20年位後のある晩、テレビでまた、貯蓄額を言った。その時は2,500万かそこらだったろう。家内がそれを見て、「20年前、あなたは何と言いましたか」と聞いてきた。一瞬、何のことか分らなかった。私の統計理論が正しければ、我が家には、5,000万円近くの貯蓄があるはずだ。その1割もないのは、どういうわけか、説明してほしいというのである。あの時、度数分布、偏差、中央値、等々丁寧に説明しておけばよかったと後悔したが、後の祭り。

 さて、本題。人事院の639万はどう考えても、高すぎる。民間である以上、町工場も入る。そば屋の従業員だった含まれる。同時に勧告された最低賃金700円で働く所も中に入れなければいけない(時給700円で計算すると、年収150万である)。

 先ず、NHKは平均値にはすべからく、分布を伴わせて報道しなければならない。さもないと、639万以下の稼ぎの亭主がつらい思いをする。

 次に、国家公務員は国に仕えているのではない。国民に仕えているのである。親方日の丸は国鉄の消滅と同時に死語となっている。企業を選別してはならぬ。年収150万の民間人を計算から除外するのなら、同数、トップの優良上場会社も除外しなければ筋が通らぬ。統計でいうサンプリングである。

 最後に優秀な人材についてである。公務員は倒産がない、失業の心配は皆無である。これだけで、民間人の収入より10%低く設定すべき十分な理由となる。さらに公務員は、能率・効率改善で悩まされない。これで10%追加削減する。断っておくが、現業は別である。毎日、役所でパソコンを叩いているか、会議を開いているか、役所間を出張しているか、そんな事務職のことを言っているのである。事務次官、局長は公務員の最高位だ。予算委員会で説明している彼らは、眼に輝きはなく、口は揚げ足ばかりを気にし、歩く姿は背広が泣かんばかりだ。人事院の優秀な人材確保が聞いてあきれる。あれが人事院の優秀な人間というのなら、民間より20%低くしても、どんどん人は集まる。「隗より初めよ」の現代版だ。

 「人事院」と「平均」。これらの2語が重なると、ついこんな語りになる。

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原爆 核不拡散条約 非核三原則

 今夜の7時のニュースでは、戦争反対、平和への願いが何度となく繰り返されると思う。戦争が悪で平和が善であることがまるで当然のことのようだ。私が戦争を人間の業と考えている。従って、戦争賛成でもなければ戦争反対でもない。平和も同じだ。賛成でもなければ、反対でもない。私が賛成したり反対したりするのは、個別の戦争であり平和である。「戦争反対、平和への願い」の無意味なスローガンはもういいかげんにしようではないか。戦争に反対するのなら、その戦争をはっきり名指して反対しよう。

 核不拡散条約:不の次に拡散があるので、漢文で言えば「拡散セズ」だ。核保有国同士が、お互いにしっかり保管し、原爆が世界に散らばるのを防ぐ条約だとばっかり思っていた。北朝鮮の核が話題になってどうも様子がおかしいので、調べたら、現在核を保有している国は持っていても許す、しかし、現在核を保有していない国は持つことを許さない、となっていた。売ってやらないというのならわかる。作ってはならないというのだ。これには呆れかえった。座頭市なら、「お前さん方、そんな道理のねえ話なんぞ、市には通りませんよ」といってすごむ所だ。

 非核三原則:「持たず、作らず、持ち込ませず」なんのことはない、保有国の思う壺だ。核不拡散条約と表裏一体なのだ。保有国の身勝手を難詰するのではなく、すすんでそのお先棒を担いでいる。非核三原則を誇らしげに語る者は、政治家であろうが評論家であろうが、保有国から陰で笑われているノーテンキだ。

 私は、非核三原則を日本は取り下げるべきだという考えである。その次に、核不拡散条約の不当性を国際世論に訴える。この条約には道理がないので、日本は正々堂々と論をはってよい。やがて核保有国がそこら中にでてくる。アメリカをはじめ、ロシア、中国は悲鳴をあげる。

 彼らをして、核廃絶せしめるには、この手段しかない。他のやり方は、賽の河原だ。


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1円の領収証

 石原議員が自民の集まりで、1円から領収証をつけることを提案、「ご理解の程を」と頭を下げた。石原議員のこの提案を聞いた民主の鳩山議員は、「党で検討する」と言っていた。参院選前の旧聞である。いずれ再度話題になるだろうから、一筆する。

 反対する議員の反対の理由が事務の煩雑化である。国会議員が1円まで細かく管理しなければならいことを想像すれば、聞く側もつい納得したくなる。せめて5万位に止めては、という考えにも理解が得られよう。

 だが、事務の煩雑化はウソである。後援会役員におごったラーメンの領収証は出せない。応援に駆けつけてくれた時に与えた電車賃、船賃に、後援会の諸々の人間に領収証を発行してくれとは言えない。祝電、弔電、賀状、暑中見舞いの一つひとつに領収証はつかない。領収証は、初めから添付できないのだ。

 石原議員は都会が地盤だ。1円の領収証が義務付けられても、何ら痛痒を感じない。田舎の議員にとっては大事(おおごと)である。接待なしが後援会の消滅を招くからだ。鳩山議員が、「当然の事、党に持ち帰るまでもない」と即答しなかったのも、民主も田舎の議員を抱えているからである。

 しかし、この話は議論の方向(内容ではない)に間違いがある。

 国家予算が100兆円とし、国会議員が1,000人とすれば、一人の国会議員は年間1,000億円を動かす立場にある。正確な数字ではないが、とにかく大金を扱っている。それが5万だ1円だとまじめに議論している。町工場の親父が税金対策で苦心する額である。1円に至っては、間口一間の駄菓子屋のおばあちゃんが心配する額だ。(こんな程度だから、議員の不祥事が発覚したとたん、予算委員会で本来扱うべき1,000億円の使途が100万単位の騒動でかき消される。役人仕立ての予算が精査されない。役人がほくそえむ)。

 もう一つ、この報告が政治活動に係わることであり、正直に報告すれば、何か特典があるらしいことだ。経費で落とせるのか、税が免除になるのか、国から税金を貰えるのか、多分そんなことだろう。5万やそこらの金は政治活動ではない。選挙活動である。これをまぜこぜにするのは、モーツアルトが酔って酒場でピアノを弾く、それを音楽活動であるというのと同じだ。

 石原議員は、頭を下げなくていい。はっきり、「選挙活動を政治活動の一部というのならそれも結構。報告も要いりません。ただし、5万までは自分の財布からどうぞ」と胸を張って言うだけでよかった。

 5万だ、1円だ、もう勘弁してほしい。スケールの大きい立場の人はそれに見合ったスケールの金を扱うべきである。軽トラの座席の下に落ちている10円玉を見つけて、小躍りする老人はそう思う。

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核廃絶より核不拡散条約廃絶を

 条約に廃絶という言葉はどうもそぐわない観がするが、核兵器廃絶と語呂を合わせた。

 長崎市長が核廃絶を訴えた。無理な話である。根気よく保有国を説得すれば、いつか分ってくれるとでも思っているのか。出来もしない相談を安倍首相に持ちかけただけの、単なるいやがらせである。

 核兵器は、人類の発生が武器を手にしたことに起因を求めた私に言わせれば、人類の最高の道具である。アインシュタインを頂点とする現代科学の粋である。これを地上から消せと言うのは、人間であることを否定せよと言っているに等しい。

 アメリカは、典型的な人間の国だ。しかも、世界中で悪事を重ねてきているので、恨みを買っている。枕を高くして夜は寝られない。数千発の原爆が、枕元にあることで、かろうじて安堵できるのである。保険と同じだ。べらぼうな保険料払って維持しているのだろうが、いつどこから恨みを晴らされるかわからないから、高くついても我慢する。高リスクには高額の保険料がかかるのは、一般の保険と変わらない。アメリカも中国もロシアも、使うつもりは全く無い。あれば安心なだけである。

 問題は、彼ら保有国が、その安心を自分たちだけのものにしていることである。他国に己が享受している安心を許していないことである。北朝鮮を例にあげれば、国家として、自分もその安心を得たいと思うのは、当然である。飢餓、独裁、脱北、これら国内事情は別の問題である。

 戦争は人間の業である。戦争が悲惨なのではない。職業軍人が戦場で戦うのは、壮絶である場合もあろうが、悲惨ではない。市民や生き物を巻き添えにする形式の戦争が悲惨なのである。第一、戦争が悲惨であれば、人類そのものが悲惨ということになってしまう。(私はこの考えに極めて近いが)。核兵器が悲惨なのではない。使ったから悲惨なのである。使わなければ、床の間に鎮座している銘刀正宗である。

 核不拡散条約が不合理なカルテルであることは世界が承知している。核不拡散条約を無効にすれば、核保有国が続出する。アメリカの暴走が終わる。

 繰り返す。核廃絶をアメリカや中国に望むの無駄である。鼻先であしらわれるだけだ。核不拡散条約の廃絶は、彼ら保有国を震撼させる。

 そして、日本は非核三原則を撤回すべきである。民主、共産、社民ではできない。安倍政権でなければできない。非核三原則を堅持などと心にも無いことを言ってくれるな。撤回した時、アメリカ、中国、ロシア、イギリス、彼らがどんな反応を示すか、想像すれば、撤回の正しさが分る。ヨレヨレの彼に気の毒だが、勇気を奮って世の不評をもう一度、買ってもらいたい。
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原爆 ひとまず一言

 私は、同種を殺すことが人類発生の源であると考えている。手に物を持って同種を殺す。これが、他の生き物と人間の分岐であったと考えている。殺すために使った物だから武器である。それは多分、石か棒切れであったろう。

 原爆が核兵器と呼ばれているが、兵器の一つと私は思っていない。殺す道具の一つと思っている。その非情を、語ろうと練っていた矢先、友からメールで日本政府の抗議文が届いた。その友は時事の世界で名を鳴らした人物なのでこの抗議文は信用できる。むろん、誤りがあれば、ブログ管理者の責である。以下、紹介する。

   ***********

1945.8.10帝国政府はスイス政府を通じて米国政府宛抗議文を提出した。

 ――本件爆弾はその性能の無差別、かつ残虐性において従来かかる性能を有するがゆえに使用停止せられをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり。米国は国際法および人道の根本原則を無視してすでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来たり、多数の老幼婦女子を殺傷し、神社、仏閣、学校、病院、一般民家を倒壊、または焼失せしめたり。

 しかしていまや新奇にしてかつ従来の如何なる兵器、投射物にも比し得ざる無差別残忍性を有する本件爆弾を使用せるは、人類文化に対する新なる罪悪なり。帝国政府はここに自らの名において米国政府を糾弾するとともに、即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを早急に要求す。――

   ***********

 昭和天皇率いる皇軍が戦争をしていた1945年に出されている。要するに卑怯だといっているのである。堂々と戦場で戦おうではないかと言っているのである。敗軍の将の言葉でも正論は正論だ。私が原爆と焼夷弾を話題にする度に繰り返す言葉が既に60余年前にあったのだ。

 私は、「老幼婦女子」に馬、犬、猫、その他の生き物、草木を常に添えることにしている。そうすることで、人類文化に対する罪悪どころか「生きとし生けるもの」に対する罪悪であることが明白になる。

 ところで、この帝国日本が罪悪と難じた行為は聖書で正当化されている。旧約にある。相手が悪なら女・子供・家畜、皆殺しにしてしまえと教えている。新約だけがキリスト教徒のバイブルではなかろう。信じる者に向かって信じるなと説いても無益なこと。今日に至っても、アメリカは変わっていない。国際世論で国連の片隅に追いやる以外に手はない。日本の首相が(しぶしぶながらでも)その旗頭なるよう、日本の世論を盛り上げていく。

 もう一つ。「しようがない」発言で、安倍総理は、相次ぐ閣僚の失言に対する態度と同様、「誤解を招くような言動は慎むように」と言った。問題なのは、その閣僚の思想・信条である。表現ではない。相手のスケート選手の転倒を祈っていた、女は産む機械、アルツハイマー、失言ではない。本音である。安倍が閣僚のトップである以上、かれらの誤った考え(失言と認めているのが証拠)を諭すのが先決だ。

 最後にもう一つ。「しようがない」と思っている私の同世代人が相当存在していることである。我々が生きていられるのは、原爆と焼夷弾のお陰だという者さえいる。「風が吹けば桶屋が儲かる」は落語の世界。平民のことをとやかく言わない主義であるが、こんな日本人ばかりには、「あんたの頭の中はどうなっているの」と聞きたくなる。碌な返事しか返ってこないのがわかっているので、わざわざ聞きはしないが。

 今日はこれまでにするが、これからも、原爆と焼夷弾は、書いていく。ボケたら当然のこと、ボケなくてもボケた振りをして、何度となく、繰り返す。

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祭りの後(後の祭りでも宴の後でもない)

 参院選から1週間経った。マスコミも落ち着きを取り戻した頃ではないか。彼らの論評は、大方、自民の敗北と民主の躍進の要因が中心となっているであろう。新聞は来ないし、民放も映らないから、想像である。

 台風が過ぎてから、進路の解説をするようなものだから、それが検証と立派な呼称でなされていても関心はない。検証が、役に立つのは、大学の講義の教材としてであって、今とこれからが問題の実社会にはほとんど無益である。

 それはそれとして、私が感心したのは、舛添要一議員の検証である。彼は、自民敗北の原因を小泉政権の光と影にあるとコメントした。さすがである。彼が大学教授であれば、選挙前にそう発言していたろうし、彼の分析能力の高さに一層箔がついたろう。惜しむらくは、祭りの後だから、他の後知恵と同じ扱いを受けてしまった。

 感心した後に、また、考えた。彼は選挙前から分っていた。しかし、言えなかった。光と影なんていう奥歯に物が挟まったような言い方しかしなかった。なぜか。彼の地位と立場である。加えて、彼が、自民を潰すと豪語した小泉よりスケールが小さいからである。正確な分析を持ち出し、だから負けたのだと言っても、それが後の話であれば、そこらに転がっている政治記者や評論家と変わりはない。

 さて、自民の大敗を確信していた政治家が他に、二人いた。一人は、小泉前総理である。湘南ボーイだけあって、要領よく、体裁よく、抜けていった。もう一人は、その女房役であった福田前官房長官である。亭主が女房にバカにされるのは、なにも、我が家ばかりではない。庶民を引き合いに出すのが彼に不名誉なら、ナポレオンがいる。福田は、亭主のいい加減さをつぶさに見て、それのツケが、次期総裁に回っていくことを肌で感じていた。よい頭の持ち主がよい選択をした。それを不出馬の理由にしなかった所も頭のよさ所以である。

 安倍が年金問題を絶対に解決すると誓った。街頭演説を聞いて(テレビである)彼の熱意はよく伝わってきた。是非、実行して欲しい。安倍は悪党ではない。陰険な男でもない。私とはベクトルが違うが、まじめな政治家である。大敗を安倍の責任にするマスコミがあるとすれば、ピント外れもはなはだしい。

 安倍党首は貧乏くじを引いた。だが、貧乏くじしか残っていないのに、喜んで自ら引いたのだから、同情はしない。祭りの後は彼には後の祭りである。

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朝青龍 外務省 文部科学省 皇室

 病気を理由に巡業に出ず、モンゴルでサッカーをやった。それで、二場所の出場停止となった。ニュースで知った。

 白鵬が横綱になる前なら、こんな決定はできなかった。歯軋りするだけである。一人欠けても、まだ、一人残っているから、欠場させるのである。姑息だ。

 朝青龍はモンゴルの誇りである。子供たちにとっては憧れの的であり、大人たちにとってはジンギス汗の末裔であることの証(あかし)となる。

 力士が土俵に上がれないのは、ライオンを檻の中に閉じ込めることと同じである。朝青龍が優勝する可能性が二場所完全に消えた。買わない宝くじである。

 北の海理事長の愚行である。安倍首相の強行採決以上の暴挙である。

 もともと、彼は、強い外国人力士を望んでいない。「日本人の力士、一体どうしたのだ」、と言われているからである。言うのは日本人の少数、すなわち、彼の取り巻き連中である。白鵬の横綱昇進も、一度待ったをかけた。己の横綱昇進時の成績を抜いていたのにである。スポーツ界きっての良識人舞の海がしきりに疑問を投げていた。

 言葉ではかっこうのいい事を言っているが、横綱にさせたくなかった。前には、ハワイ出身、今、モンゴル。日本の相撲はすでに外国人抜きでは成り立たない。まわし一つを身にまとっただけの、世界でも稀に見るフェアーな格闘技だから、これは素直に認めるべきである。認めたくないものだから土俵の外で画策する。揚げ足を取る材料を常に狙っていた。

 外務省はOECDだったか、大変な額の援助を途上国に与えている。相手の国から気に入ってもらいたいためである。官僚は何でも金(人の金、税金)で解決しようとする習性があるが、外国の中には、金より名誉を重んじる国があるもので、モンゴルがその一つであれば、この一件は、税をムダにしてしまった行為である。外務省は北の海理事長に損害賠償を請求すべきである。再発防止を誓約させるべきである。
 
 子供は英雄にあこがれる。裏でこそこそやって出世した人物を偉いとは思わない。モンゴルの子供たちは、朝青龍が一緒にサッカーをやってくれて、どれだけ励まされたことか。どれほど、嬉しかったことか。その結果が、とてつもない被害を英雄に与えたとなれば、どれほど、心が傷つくことか。文部科学省の大臣は、子供の教育に反したこの行為で北の海理事長を問責すべきである。子供憲章を唱っているユネスコに出向かせ陳謝させるべきである。

 過日、皇太子が病弱な妃をおいて、単身モンゴルに出向き、両国の友好関係を増進させた。皇室外交の努力はモンゴル政府に高く評価されたはずである。朝青龍という現代の英雄をコケにされて、いっぺんにその努力がフイになってしまった。皇室はたとえ愚かであっても民は民、文句が言えない立場だ。文句は言えないが、今後、両国国技館に足を運ばないことで抗議の意思表示が出来る。北の海が理事長を辞めたら、再び、皇室揃ってご覧いただく。昭和天皇がA級戦犯を祭ったとたんに、靖国参拝を止めた習いもある。

 朝青龍が欠場することで、間違いなく日本力士が優勝する可能性が高まった。しかし、こんなことで相撲が面白くなるとでもいうのか。相撲を観ながら、夕飯を取るのは、私を含め、多くの老人の楽しみであろう。現役世代が汗を流している時間帯である。年金生活者の大きな特権である。骨折して欠場なら、分る。了見の狭隘な北の海理事長になんのお咎めを示さない、外務省、文部科学省、理事長審議会と改名してほしいボンクラ集団の横綱審議会のせいで、朝青龍の相撲が観れないとは、なんとも腹立たしい。

付録
「お前、なんだ、巡業に出ないといっておきながら、サッカーをやったんだって。まあ、白鵬がいるから、巡業の方は心配いらないよ。久しぶりの優勝だ。国に帰って、子供たちと遊べてよかったな。体が悪いのに、サッカーとはたいへんだったろう。でもな、周りには重箱の隅をつつくうるさい連中がいるから、この次は、行く前にちょっと、オレに一言言ってくれよな。ゆっくり体を直して、また頑張ってくれ」これが、長と付く名の言葉である。

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石巻市の介護保険料額(年間)

 市長名で通知がきた。特別徴収義務者名は社会保険庁となっている。

 対象者を6段階に分けて、保険料を決める。規準額があって、所得の多い者は掛け率が高い仕組みである。

 私は所得が200万円以下(年間ですぞ)ということで48,000円也となっている。宮城県の低額所得者層か否かの所得基準の半分以下の高齢者にとって48,000円は痛い。まあ、それでも、何とかやっていく。保険については、言いたいことが山ほどあるので、後回しにする。

 今、すぐに言いたいのは、段階の最高位、第一段階に生活保護者の名前が載っていることである。驚いた。私は民生委員をやっていたから、生活保護者の、しかも、高齢者の生活がどういうものかよく知っている。

 生命保険に加入していれば、解約させられる。預貯金がゼロであることを証明させる。親類縁者の経済状況まで、調べ上げる。生活保護とは、社会生活を最低限維持することである。言い換えれば、食べる・着る・寝るの生活なのだ。およそゆとりとは縁遠い。そういう者にも、年額19,200円徴収するという。

 私は年金から天引きされる。生活保護者は月々生活保護費から天引きされるのだろうか。「怒る前に情けない」のではなく、心から怒る。

 かつて、大学生からも年金保険料を徴収すると知って、怒ったことがあった。怒りの深度はその時以来のものである。怒りを表に出せば、人を不快にするのは承知している。しかし、ここで言わなければ、私のストレスが解消しない。エリート役人の策定する保険制度なんかこんな程度だ。相互扶助なんて美名だ。

 「強きを助け、弱きをくじく」・・・正しい俚諺となる日は遠い先の話ではない。

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サウジのライス発言

 サウジでライス長官が「アメリカは平和のために戦う」と言っていた。議論を戦かわすのではでない。武器を手にして戦うのである。戦争だ。

 黒の反対はと、国語の試験に出れば、白が答え。好きの反対は嫌いだ。白い雲を黒い雲と言ったり、嫌いだから好きと言うのは、文学的表現であって、政治の世界にとっては迷惑である。

 平和の反対は、トルストイの小説の出すまでもなく、戦争だ。ライス長官ほどの者が、小学生でさえ正解をだす問題に間違えるはずがない。

 彼女は、本来、「アメリカは、アメリカの石油会社の社員がイスラム圏において平和裏に石油権益を維持・拡張するために、イスラム圏においてアメリカに逆らうイスラム人と戦争をする」と言うべきである。言わないのは、言えば損をするからだ。

 こんなのはプロパガンダである。NHKはそのままテロップに流していたが、卑しくも報道に携わる者は、発言の内容が観る側、読む側にわかるように、せめて括弧つきででも補足する責任がある。言われたことを、そのまま放映するのでは、単なる伝言版だ。プロパガンダを広めるのだから、伝言版より悪質だろう。これが日本テレビや朝日テレビならかまわない。社により主義・主張があって然るべきであるし、観たい人間が観るだけだから。NHKは違う。視聴者から金を取る名目が「公共」であるからである。

 大本営発表をそのまま流し、ウソの戦果を国民に伝えて恥じを感じない前歴の持ち主なので、彼らのニュースを素直に受け取る者ばかりではないことを、老いの繰り言とする。繰り言だから、これからも繰り返す。

 ライスをNHKで締めれば、表題を替えなければならない。替えないからライスを語る。ライスの顔を見ていると、どこかで見たような気がしてならなかった。最近、それが、映画のプリデターであり猿の惑星であることが分った。アメリカ外交のトップにふさわしい下品な顔である。日本の先の外相の貧相といい勝負だ。

 人間を肌の色で評価を下してはいけない。色は本人の埒外である。だが、顔で判断することは、許される。顔にその人間の品性・知性・感情等々すべてが刻み込まれているからだ。「人は見かけによらぬもの」は間違いである。見る人が見れば、すべてお見通しとなる。

 これからも、日本の政治家が入れ替わり立ち代りテレビにでる。舌三寸はウソをいう。顔はウソを言わない。ライスを見て、ますます確信の度が深まった。

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