老いの一筆

Fair is foul, and foul is fair – Macbeth Act 1 SceneⅠ・・・きれいはきたない、きたないはきれい

巡航速度に入った老いの一筆

ブログを開設して20日が過ぎた。今日が月末という区切りのよい日なので、レガッタでいうスタート・ダッシュは今日で終わりとする。これからは巡航速度で進めていく。

 東北の小さな島に移住した当時は、マスコミ情報を一切受けない生活を試みた。都会では、電車に乗っただけで、中吊り広告が眼に入る。まさか、眼をつぶったままで、乗車するわけにはいかない。テレビを観なくても、新聞を読まなくても、世間の騒ぎがインプットされる。世間の騒ぎが、実際はマスコミの騒ぎ立てであると感じていたので、それが正しいか否かの実験である。テレビは映画だけ、新聞は読まない。半年続けた結果は、私の感じが正しかったことが証明された。しごく平和で平穏でのどかで、仙人もかくやと思われる生活を送ることが出来た(断っておくが、心に限ったことであって、自然や人間との関係では、とても平穏ではない。いずれ、紹介する)。友人から賀状で仙人暮らしと冷やかされても、素直に受け止めた。半年が過ぎ、いろいろな経緯を経て、テレビのニュースは毎日20分ほど観るようになった。今も続いている。

 当然、島でもはやり始めたインターネットを荷台を空にして暴走する大型トラックに思え、5年前までは見向きもしなかった。新聞は相変わらず読まない。先月東京に行った時、新聞の多色刷りに驚いた。友人によると、今では、中国の新聞さえカラーとのこと。かように浦島太郎の身である。

 さて、ブログが誰でも作れることを知ったのは、県の役人の音頭で無料ブログ講習会が島で開かれた時である。パソコン知識が少しでも増えればとの気持ちで参加した。講習会の終わりに、役人が、「もう皆さんはブログが開けるので、是非、島興しのために活用していただきい」、云々。美辞麗句で紹介するような島にはとても私には思えず、貴重な時間を無駄にしたような気分で帰った。2年ばかり前の話である。

 今は、こうしてブログを書いている。どこの料理がうまいの、どこの温泉の湯がよかったなどというブログばかりでないことを最近知ったことが一つ(料理や温泉がある人にとっては貴重な情報であることは承知している)、次に、市井の人々が、原稿料無しで自分の体験なり思想を披露していること、まじめさが伝わってくるブログに出会うと、本当に頭が下がる。浦島太郎にはいい刺激となった。そして、決定的なのが、親しい友からの定例便と称する時事の話題提供である。メールもあれば、コピーもある。その感想を日誌に書いていては、すぐスペースが無くなってしまう。ブログがwebの日記であるならば、活用しない手はない。ただし、素性だけははっきりさせる。好き勝手に書くのだから、せめて書いた内容には責任を持ちたい。文句がある人が、注文をつけようにも、どんな書き手か想像もつかなければ、シャドー・ボクシングみたいで、フェアーとは言えまい。それで、プロフィールの他に、初日のブログには、恥ずかしながら、人相書きも載せておいた。

 老いの一筆、ざっと、こういう次第である。

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内部告発奨励法

 マリリン・モンローとロバート・ミッチャム共演の映画「帰らざる河」の中で、主人公が、「悪には前も後ろも関係ない」と言うシーンがある(正確な表現は忘れた)。映画を観た人は、「ああ、あの場面か」と分ってくれるし、まだ観ていない人には、興を削ぐことになるので、詳しく述べない。

 組織の中の不正行為(不作為を含め)は、外からはわからない。外で分るようになるのは、その不正行為が、実害を生じた場合だけである。そこで初めて正される。誰かが犠牲にならない限り、組織の不正は発覚しない。永遠に続く。

 一方、組織の中にいる者には、当事者であるから、不正を知っている。北海道の偽牛肉事件では、パート作業員でさえ知っていた。テレビの記者に聞かれて、「私も生活がかかっているので」と答えた。こういう言い訳を聞く度に、アウシュビッツにユダヤ人を送り込んだ者の言い訳とイメージが重なって、暗い気分になっていく。不正を長年続ければ、最後には、パートさんの家庭の生活までかかってしまう。そうなったら、もう、一か八か続けるしかしかない。やけっぱちである。

 どんな不正も、初めは小さいもの。その段階で、待ったをかけられれば、結局は組織も社会も得をする。その制度を早く作り上げる、これが、内部告発奨励法の趣旨である。

 密告・たれこみ・スパイ・裏切り・卑怯と内部告発にはかんばしくない、非道徳的なニュアンスがついてまわる。そうでないことを、分らせてくれたのが、映画「帰らざる河」だった。

 では、内部告発を受け付ける機関をどうするか。難題だ。司法・警察はだめ。真っ先に内部告発をさせなければならない組織である。有識者・学識経験者の集まりもだめ。机に向かって何十年も本ばかり読んできた人間に現場の実体把握はできない。政治家もだめ。捕らえてみれば我が子だらけだ。業界団体は論外だ。役場に置けば、告発者は村八分になる。新聞社、テレビ局、自作自演のプロだ。信用できない。庶民の陪審員に任せるか。長の名が付いた者が手を出せば、感激して頭を下げて握手に応じる。そんなことで、大企業の幹部や中央官庁の官僚に太刀打ちできるわけがない。ダメだ。

 はっきり言う。今の日本には、正義を正義として扱うに足る人材がいないのである。いるかもしれないが、求める術がない。

 私は、国連の活用を提案する。途上国へ、不正選挙を監視するために、国連が派遣している、あの選挙監視団と同じである。国連が、東京に事務所を設け、常時、内部告発を受け付ける。日本人の職員は置かない。日本語を日本人以上に使いこなせる外国人はいくらでもいる。

 情けない話だが、今日の我れら日本人が情けないのだからやむを得ぬ。ついでに言っておくが、内部告発者は完全に身の安全を保証されるばかりか、程度に応じて報奨金を用意する。生涯年金を与えても、なお余りあるような組織犯罪がボロボロ出てくるのは間違いあるまい。

美しくなる前に、まず、清潔であること。女性に限ったことではない。 
 
 
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清き2票を投じよう

 参院選という壮大かつ浪費の極みの世論調査が今日で終わる。終わった後に、選挙のことを言っても、始まらない。言葉通りである。次ぎの選挙まで待っていると、老いの身ゆえ、忘れてしまうかもしれない。だから、言っておく。

 1.1人1票は悪い制度慣習である。私は戦争放棄・戦争準備禁止を明記しいる憲法第九条を守る政党を支持する。自衛隊を日本から外に出すのに、平和のためとか国際貢献のためなどと理由付けするのは、すべて、屁理屈である。日の丸マークが入った制服は軍服である。銃を携え外国に行けは、出兵である。安倍の目論む憲法改正(正がここで使われなければならないのは、日本語の貧困だ)は憲法と現実の乖離に、彼の一派が大変居心地が悪いためである。居心地が悪いと感じるところは、前の小泉よりはるかに人間の質は高いのだが、小泉よりましというだけである。それはさて置き、私は、一方で、自民の政権をなんとしても倒さなければならないと考えている。護憲と政権交代は私にとっていずれも欠かせない政治参加である。護憲に1票を投じれば、もう私の手元に何も残らない。政治参加はこれで終わってしまう。5票も10票もくれとは言わない。せめて2票は持ちたい。自民と公明が好きなら、自民と公明を選ぶ。日本新党と民主が好きでも同様である。共産党しか頭になければ、共産党だけにすればいい。2票は権利だが、行使は1票でもいいことにする。ただし、同じ政党を記せば無効票になる。これにより、私の政党多数化の念願が成就する。

 2.全国区だけにする。全国だから区を使うのはおかしいが、国会議員は国全体の内政・外交を討議・決定するためにある。山形のためでもなく、愛媛のためでもない。地域の問題は県会議員に解決させる。国会に千葉も鳥取もない。10年毎に行われている国勢調査を票の格差是正に反映しようとしない怠慢悪質のシンボル最高裁判事の跳梁する余地もなくなる。

 3.政党に投票する。個人名は表にでない。選挙活動は党首はじめ、その団体の人間が行うのは当然だが、投票は政党を選ぶことにする。獲得票の割合で議員数がきまる。今の、ドント方式とがいう数学の先生でもない限りわからないやり方はしない。分母と分数の計算だけ、義務教育のレベルで間に合う。真理は常にシンプルである。(このドント方式なるけったいな物、こねあげたエリート役人がどこの大学出か、察しはついている。年金制度と軌を一にしているからすぐわかる。ここではいわない。別にその大学が悪いわけではないからである)地盤・看板・後援会など地元利益還元のパイプが無意味になる。外交問題・憲法問題ほか国としてのあり方を各政党が真正面からそれぞれ主張するようになる。宮城では宮城に響きのいい演説をし、高知では高知向けに原稿を改めるなどという芸は通用しない。

 4.政党助成金は廃止する。議員報酬も、並みの会社の並みの重役程度にする。もろもろの名目の特権は一切与えない。彼らの年収は彼らの家族が普通に生活できる程度の少し上でいい。個々人の政治活動は、やりたければ、すべて自腹で行う。買収もどきの慶弔に生活費を割いてまで金を使う議員もいなくなるだろうし、議員個人から見返りが期待できないとなれば、後援会も動かなくなる。金の切れ目は縁の切れ目だ。

 5.政治活動は放送大学方式にする。観る方はタダ。年中政党の主張が放映される。白熱した論戦もあれば、平穏に日々の活動をPRする時もある。こればかりは、税でまかなう。地上波デジタル放送が近づいているが、安倍の鼻毛1本1本を鮮明に見ることができたとて、それに感嘆する国民ばかりはない。エレクトロニクス先端技術がつまらないオチャラケの道具であるばかりでなく、したり顔の有識者のお説教の道具であるばかりでなく、少々地味でも、しっかりした番組のために役立ててもらいたいものだ。

 6.参議院は不要である。衆議院を2年毎半数改選とする。前に書いた通りである。

 ここまで来て、己の2票提案にどこか似たようなものがあるのに気が付いた。私はやったことがないので、不確かだが、競馬がどうもそうらしい。1着と2着を選び、両方当たれば、配当金がでるようだ。

 そうなると、私の2票提案も、あながち荒唐無稽とは言えないのではないか。競馬を例にとることが、果たして、人間に失礼なのか馬に失礼なのかは、脇に置いて。

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自民大敗、野党圧勝

 塩崎官房長官が記者会見で、「だから言ったでしょ、今回の参院選は政権交代の選挙でないって」、小沢代表、「安倍内閣を追い詰めていく、万歳、万歳」、その他の党首、「わが党の主張が正しいことを国民が認めた、万歳、万歳」・・・

 
 この際、公明党はどうでもいい。この党は、与党となっていればいいだけの党だから、自民がだめなら次ぎの政権政党にさっさと鞍替えする。

 果たして、万歳三唱するほどのことか。言ってみれば、バブルの頂点の時の株価が平常に戻ったのと同じである。暴落ではあるが、急騰の反動という面から見れば、どうということはない。

 私は、早く2大政党の時代は終えるべきであると考えている。ガードの甘い民主党は今回勝っても早晩ボロを出す。国民は、やはり、自民でなければと思い直す。自民が暴走すると、また、民主が伸びる。こんなシーソーゲームは、もう止めにしなければならない。政党助成金の無駄が証明されるだけである。

 日本には、多様化している価値観に従って、少なくとも、10位政党があるのがいい。この位あれば、それぞれが程々の勢力を持つようになる。当然連立内閣である。

 離合集散の心配はいらない。党が少ないから、今度の防衛大臣のように節操なく出たり入ったりするのである。

 「烏合の衆」という日本語を使う者には、外来語の「プロジェクト・チーム」と言い換えるよう丁寧に頼もう。

 まさか、安倍総理が、「国民の審判は私が正しかったことを示すものだった。これからの国会運営もひきつづき好き放題にいたします」なんてテレビで言う場面はないだろうと、将棋でいう所の勝手読みをした次第。

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長寿国日本 ご同慶の至り?

 文章はそれ自体に意味があるので、読めばわかる。数字はそうはいかない。特に、統計には要注意だ。数字の意味と数字を出した意図の二つを考えなければならないからである。

 女子は世界一、男子は世界二、サッカー、オリンピックは言うまでもなく、中国には経済成長で後ろからあおられ、北朝鮮からは無視され、アメリカからはいい子だから大人しくしてねと国連で諭される。せめて、寿命だけでも、世界一に、と願う気持ちは、わからないではない。わかるが、無意味であることも同時にわかる。命は長さではない。長かろうが短かろうが、命は命である。

 数字が無意味なら、残りは数字を出した意図である。国威発揚なんて厚生労働省が考えるわけがない。少子高齢化の再確認を国民に求め、諸々の税の増加を納得させるためである。日本の医療制度が決して劣っていないことを国民に認めさせるためである。

 安倍首相率いる美しい国、日本で毎年3万人以上自殺していても、平均寿命にとっては統計的誤差の範囲でしかないといっているようなものだ。

 平均寿命の数字を見て、オレはもう5年も得をした、オラ、あと10年は生きられる、安心、安心なんて考える者は、いるかも知れぬが、考え違いである。

 くどくど言わぬ。優れた本があるからである。読みやすい上、厚生労働省の発表が、いかに、単純な計算で出来上がっているかがよく説明されている。大気汚染、化学物質入り食品、温暖化、子育てストレス、等々、まったくパレメータとして組み込まれていないこともよくわかる。

 その本とは、西丸震哉著「41歳寿命説」および「人生密度7年説」である。何十年も前の出版であるから、絶版となっているかもしれない。若い世代の人は知らないと思う。今、読んでも立派に通用する。それだけ、役人に進歩がないということでもある。たいていの図書館にはあるはずなので、是非、読んで見てほしい。他人の著書をあれこれ言わぬのが私の主義だが、いい本はいいのである。

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自然災害 ボランティア 国の仕事

 日本という国では戦争は起きないが自然災害は年中起こる。戦争はその前段階で複雑な外交交渉が重ねられるので、それなりに準備は出来る。自然災害はそれこそ自然任せ。地震となれば、前にも言ったように、シミュレーション・ゲームで遊んでいる気象庁技官、専門家が無能なのでいつ起こるか分らない。

 ボランティアの活躍は住民から深く感謝されている。昨今の暗い世相においては一筋の光明である。ここまではいい。しかし、ここで、終わっては、話半分である。

 民が平穏な日々を過ごしている間は、国は静かに見守っていればいい。善政である。困った時に、黙って見捨てるのは、悪政である。

 ボランティアは善意である。それに甘んじて、国がそこそこしかしないのは、悪政と言ってよい。災害の担当大臣が、「ボランティアの皆さん、ご苦労様でした。後は、私たち、政府の仕事ですから、どうか、安心して、お帰りください」と言わなければならぬのだ。

 予算がない?人手がない?いい加減にして欲しい。イラクに幾ら遣った、外郭団体へ幾ら助成金を流した?天下りに幾ら退職金を払った?アメリカの言葉に、「慈善は家から始める」とある。己が民の苦しみを前にして、予算がないとは言わせない。

 人手。自衛隊がある。昔、国土保全隊という提案もあったようだが、いつ起こるかわからない戦争のために駐屯地で体を鍛えるより、10日でも1か月でも、被災地で復興活動をすべきである。10日も訓練を怠れば、隊員の能力が著しく低下するだって?なら、イラクに何日出て行った?確かあれは、平和のためと政府は言っていた。実戦活動でないので、隊員の能力がとてつもなく低下したはずだ。

 「出来ることしか言いません。言ったことは必ずやります」出来ない事はいわないのだから、出来ないことはやらない。役所仕事である。安倍をトップとする政府の仕事振りである。

 どこかの党首がテレビで言っていた、「出来ることをやると言って胸を張ってもらっては困る。やらなければならないことは、万難を排してもやる、これが、国を背負っている政治家の姿勢ではないか」と。至言である。

 ボランティアの美談で国の怠慢をご破算にしてはならぬ。マスコミも心して、話を前半分で終わらせるな。

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小泉さんのツケは安倍さんに

 自民をぶっつぶすと言った。素直な選挙民はまともに受け取り、小泉を盛り立てた。理屈っぽいお姉ちゃん、へんてこなおばさん、フリーターのアンチャン、みんなで当選させた。

 ぶっつぶすどころか、自民は天下無敵の党となった。小泉のペテンである。選挙民は文句をつけようにも、彼はさっさと楽屋に下がってしまった。

 思い出せば、ひどいものだった。曰く、公約は破ってもかまわない、曰く、イラクには大量破壊兵器があると言ったアメリカが間違っていたのであって、アメリカを信じた私は間違っていない、曰く、国会議員は消耗品だ、等々。

 素直はいいことだ。しかし、騙されたことを知っても、相変わらずニコニコしているなら、それは、お人よしが単なるバカだ。「出来ることしかしない」と臆面もなく演説する安倍は小泉の跡取りである。まず、小泉のツケを払わせてから、じっくり彼の力量を測っても遅くはない。

 今度の参院選では、彼の党に、どこをさがしても「負けたのではない」との言い訳がみつからないまでに完璧に痛めつけよう。選挙民をなめ切った党がどうなるのか、わからせる絶好の機会だ。そうでもしなければ、参院選が本当に世論調査で終わってしまう。


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格差是正は空虚なスローガン

 新明解国語辞典を開くと、格差は”格付けの上での違い”とあって、「給与格差」が用例として示されている。

 日本はどんどん格差社会になっていく。たいへん悪いことである。何とかしなければいけない。怠れば、政府与党の怠慢であると言う。

 果たして、そうなのか。

 町会議員、県会議員、国会議員は同じ格ではない。歳費に差があるのは当然である。序の口、幕の内、横綱は同じ格ではない。業績不調の会社と好調の会社は同じ格として扱われない。銀座に100坪を所有している地主と田舎の山奥に100坪もっている地主は同じ格ではない。議員、力士、会社、地主、それぞれ同じカテゴリーでありながら、格差があり、また、あって当然なのである。

 グローバル化が進む以上、国内の格差は広がっていく。グローバル化が国家間の平準化をもたらすからである。格差是正を訴えて選挙に勝とうと思っている政党は、鎖国以外に手段がないことを先ず、選挙民に語らなければならない。こればかりは、政府・与党の責任ではない。

 格差是正はできない相談だ。しなければならない相談(安倍がいくらできることしかやりませんと言っていても)は、不公平・非公正である。企業なら一生うだつが上がらないような失敗をしても、地位が保たれ、賞与までいただいている役人、利権をえさに天下りする高級官僚、ネコババしておきながら、ばれたら、同額を返済して事が済む助成金ドロボー、こういう人間がまかり通っている社会を是正の対象とするべきである。

 格差是正は空しいスローガンである。不公平・非公正の解消をスローガンにして、安倍政権・政権政党の非を糾弾していくことだ。

 

安倍自民党党首の頭の中身

  県大会出場選手が、「私は、県大会に出ます」とコーチに言ったら、聞いたコーチはどう思うだろう。

 売上1,000万のセールスマンが、「私は1,000万、売上ます」と営業部長に言ったら、聞いた部長はどう思うだろう。

 三流大学に合格できる受験生が、「ぼくは、三流大学に合格します」と両親にいったら、両親はどう思うだろう。

 安倍が「私は出来ることしか言いません。言ったことは必ず実行いたします」と演説した。表現自体には矛盾はない。だが・・・

 どこの世界で、こんな退嬰的な姿勢が通用するのか。役所である。外郭団体である。今日の仕事は昨日と変わりなく、明日の仕事も今日と変わりない。

 安倍党首で終われば、自民党だけの問題だから自民党が役所並みであろうがなかろうがかまわないが、一国の首相となれば、話は違ってくる。

 頭の中がカラッポな人間は、顔で取り繕おうとする。特に、舌先でである。自民をぶっつぶすなんて叫んだ大ペテン師で証明済みである。安倍はその後継者である。

 努力を出し惜しみする、そして、それを、恥じることなく公約する安倍を、まともな日本人を不幸にする悪相・凶相の中川とひとまとめにして、地面に這いつくばらせなければならない。彼らを、自民党という金魚鉢の中で泳がせておくことだ。国の政治を任せてはいけない。

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公的年金ー上限設定の正しさ

 歳をとってからの1万円は働き盛りの10万円以上にありがたい。67歳の私の実感である。なら、100万円手元にあれば、ありがたみが100倍あるかと問われると、否である。

 公的年金の支給額は、生活保護費と同額でいい。この生活保護費の算定は地域の事情を考慮したもので、基本的な生命維持と社会参加が保障される額となっている。

 個人差がある必要はない。そもそも、払う段階で期間と金額の二本立てが間違っている。一括して払いたい者はそうすればいいし、分割で払いたい者が年なり月単位で払い込んでいけばいい。高額所得者も、定額所得者も、払い込む総額は同一である。

 六十歳から六十五歳までは、本人に別途収入があるなしに関係なく全額支給する。六十五歳からは、所得分を差し引いて支給する。例えばであるが,合理的であろう。

 老後は夫婦で世界一周の旅に出たい、毎年、どこか海外旅行したい、日本の温泉巡りを楽しみたい、銀座でうまいフランス料理を食いたい、クルーザーを持ちたい、病気をしたら最高の治療を受けたい、意識があろうがなかろうか、とにかく長生きだけはしたい、等々、老後の夢は一人一人違う。それは、公的年金の埒外である。価値観の違いから生じる費用をまかなうための年金は、保険会社と個々に契約すればいい。保険会社が信用できなければ、個人で貯金しておくことだ。

 かくも年金制度が複雑であり混乱をもたらした原因は、ひとえに、ひまな厚生省の高級役人が、己の存在感を示す必要にかられたからである。高度な処理能力を必要としなければならない電算システムの導入過程も官業癒着のにおいがする。天下り先の確保が考慮に入れられているのは、言うまでもない。

 今、守護神のようにもてはやされている社会労務士などという専門家がいなければならないこと自体がいかに現行の、また、安倍が改革したと自負する年金制度がでたらめかを象徴している。社会保険庁の解体は事の本質を糊塗するに過ぎぬ。

 繰り返して言う。年収3000万の所得者がその収入に応じた高い年金保険料を収める必要はない。もし彼が豪華客船による世界一周旅行を老後に計画しているとすれば、それは公的年金によるべきではない。 

 公的年金は、現役時代の地位、所得に関係なく、生活保護費と同額にすべきである。複雑な手続きや管理はいらない。通帳ひとつで事足りる。少子高齢化のお題目も、効き目がなくなる。公明正大な公的年金であることから、若年層支持はまちがいなく受ける。上限設定は正しい施策である。


 
  

国家規模の世論調査ー参院選

 参議院不要論がある。

 今度の選挙で与党が勝てば(あるいは勝ったと言い張れば)、与党は国民から信任されたと言う。野党が勝てば(あるいは勝ったと言い張れば)、与党が国民から不信任されたと言う。

 それだけのことである。安倍が法案を提出すれば、多数決により、すべて、成立する。これまでと変わらない。

 参院選は、莫大な税金を費やして行う世論調査である。新聞社やテレビ局が自費でやっていることを国税でやっているに過ぎぬ。(言っておくが、NHKは自費ではない。公共の名目として税もどきを使ってやっている)

 参議院は不要である。そして、衆議院を2年毎に半数、改選する。こうすれば、国会の空白は免れる上、何より、2年毎に、国民の審判が実質的に政治を動かすことになる。一院なので、衆議院とは言わない。国会議院でいい。スタート時点での半数の決め方は、実務レベルであるので、なんとでもなる。

 憲法を改正(これこそ改正と称していい)をする。先生という名声やら政党助成金やら年金やら議院運営費やらその他諸々を享受している議員・政党は己の既得権を守るのに必死であろうが、そうでない志をしっかり持った党が必ず新しく出現する。昨今のいいかげんな国会運営や選挙を見ればよく分る。

 それが起きなければ、・・・・国会議院は、政治という民にとって最も貴重な権利を形骸化させる。そして、道徳的に衰退し、大政翼賛の雄たけびだけが響き渡る国となる。悪夢の再現である。 

税の無駄使いー六カ国会議参加

  外相、外務省役人、インタビューに対するコメントは、きまって、「北朝鮮の今後の動向を見守る」である。

 物は言いようとは、正に、これである。要するに、何もしないということなのだ。「何もしません」と言えば、国民は、「何をしてんだ」となる。「見守る」なら、体裁がいい。

 拉致被害家族会と同じレベルである。あれも、これまで、何度、「重要であることを再確認した」ことか。アメリカ議会に出向いて、フランスに出向いて、他、あれやこれやの来日政治家と会って、やることといえば、「再確認」である。彼らは、自分で段取りが出来るはずがない。みんな、政府の助けでやっている。税の無駄である。

 「見守る」、「再確認」には、何の能動性、主体性がない。こんなことで、わざわざ、外務官僚を北京まで行かせる事はない。

 発言を許されない、あるいは、発言しても、周りから鼻であしらわれることほど、会議に出て、みじめな思いはない。もともと発言する内容をもっていないのだから、参加することに意義があるなんて思っているのか。

 北朝鮮代表は当然として、飼い犬位しかみていないアメリカも、当然として、中国も韓国もロシアも、要するに参加国すべてが日本を無視して、会議を進める。普通の感覚をもった人間なら、そんな中に、1時間も、座っていられまい。

 外務官僚の鉄面皮は、田中真紀子の時、既に確認されているので、ここで改めて再確認!する必要はない。

 確認したいのは、会議への参加が税の無駄使いであるということである。 

法と情 - 裁判官の質

  同じ案件が、判事により、正反対の判決が下りる。国と民(日本人に限らず、韓国人、中国人、台湾人を含め)が争う場合は、最高裁の判決は、ほとんど国が勝訴する。

 曰く、「国がそうしなかったからといって、民がああなったとは言えない」、「すでに、国と国とで合意されているので、民には訴える権利はない」等々。
 
 法の前に情があることを、まったく理解しない。六法全書の「公序良俗」の基が情であることさえ無視している。

 テレビで判事の顔が映る。それを見て、いつも思う。民に敗訴を与える判事の顔には、以下の3点の印が共通していることを。

 1.家庭で生き物を育てた経験がない。
 2.子供の頃、伝記を読んでいない。
 3.青年時代、世界文学に接していない。

 人間を裁く人間が、命の尊厳を実体験しないまま、人間の崇高な面を知らないまま、また、生身の人間を知らないまま、法の最高位に登りつく。こうした法の番人(民の番人ではない!)が大手を振って世にまかり通っている限り、国という隠れ蓑を着た高級役人が民を虐げる不幸は無くならない。 

棄権は政治批判の一つであるのか

  投票所に行かない者(若い世代に多い)の言い分は、決まって次ぎの2点のいずれかである。

 1.支持する政党がない。
 2.1票ではどうにもならない。

 1.物事に対する人の見方は、何から何まで自分と同じなどということはありえない。まして、大勢の人間の集合体が政党である。これだけは譲れないという信条の一つか二つを用意して、スクリーンにかければ、支持する政党が浮かび上がるに違いない。それもなければ、最もきらいな政党の反対党に投票するのがいい。好きな事を探すより、嫌いな事を探す方が、人間、たやすいもの。棄権は、支持率に無力である。反対党に入れれば、出入り計算となるから、支持率に変化をもたらす。

 2.田舎の老人は、1票の重さをよく知っている。町の選挙、県の選挙とその重さが軽くなるのは否定できないが、それでも、自分の1票が、親類縁者の1票、自分が属しているなんとか会の1票と、積み重なって、最後には、大きな成果をもたらすことを、肌で感じている。群集の中の一人という環境に置かれているため、都会の若者が、1票を重さでなく軽さと取るのも無理はない。だが、己の1票を無にすればするほど、田舎の老人の1票の価値が上がる。これも、出入り計算である。

 投票日以外の数百日は、政権政党が国家の名の元に権力を思うままに行使することにおいて、近くの独裁国と日本は違わない。

 投票日というわずか1日の民主主義を、自発的に放棄するのは、愚かな不作為である。

 

役立たずの地震予知

  税の無駄使いの代表格が地震予知に係わる人件費である。

 私が住んでいる所は東北の三陸近くで、向こう20年のうちに大地震が起きる確率が80%とか。大地震がくれば予測が当たったことになる。20年経っても発生しなければ、起きない確率の20%が当たったという事になる。正に、当たるも八卦、当たらぬも八卦である。

 用心のためによいことだという論には、大金を使う必要がない、消防署が簡単なチラシでも配ればいいことと反論したい。

 阪神淡路大地震、重なる新潟大地震、これらの地域に、なぜ、向こう1年、いや、せめて5年のうちでもいいから大地震が高い確率で発生すると予測しなかったのか。

 答えは簡単。出来ないのである。日本中、どこで地震が起きても不思議でないことは、とうに、まじめな学者が告白している。

 地震予知に関係する者らは、コンピュータの大型化を常に要求していた。国も地震対策が重要であることから、無条件に許し、予算を割く。むろん、地震対策と地震予知とは無関係である。方や、現実、方や、理屈。

 大地震が発生する度に、現地に担当官が出張する。そして、現場の状況を持ち帰る。スタジオでは学者がしたり顔をし発生のメカニズムを解説し、アナウンサーはありがたくお言葉をいただく。中国では、こういうのを、「事後の諸葛孔明」と言う。

 これからも地震予知に税を使うのなら、ただ一つ、大地震の発生する地域の順番を確率でいいから、彼らに示させることである。すなわち、「私たちの予知では、A地域、B地域、つぎにC地域の順で大地震が発生する確率が最も高いとなりました」と言わせることである。当たらなければ、失職させる。役立たずがわかれば、税金で養うことはない。当たらない占い師が食えなくなるのと同じである。単発的に一地域を20年のスパンで云々するのは、大人の仕事ではない。

  今の地震予知は膨大な税金を使ったシュミレーション・ゲームである。現地で調査するのは、そのゲームをより複雑にし、面白くするためでしかない。

 彼らは今日も、オフィスのディスプレイに向かってそのゲームを楽しんでいる。20年間の確率を免罪符として。 

共産党ーアカ

  孤高を保つ。人間の生き方の一つではあっても、政党のあり方としては失格である。政権を担ってこそ、その政党に理念が実現されるからである。

 田舎の老人と話をすると、今でもアカという言葉が飛び出す。初め、聞いたとき、一瞬なんの事かわからなかった。都会ではとっくに死語となっている。この言い方でわかるように、共産党の印象はよろしくない。

 ソ連、東欧の崩壊、中国、北朝鮮の独裁、いずれも、共産主義を嫌う十分な理由となる。かつての対ソ共産党とのイデオロギー論争など誰も知らない。

 日本共産党は、早く党名を変更しなければならない。共和党とすれば、「共」の名を引き継げる。それで我慢することだ。天皇制を認めたからと言って、共和党であってはならないという事にはならない。土地、生産手段の国有化を党是としていなければ、共産党と称していることの方が不適切である。

 議席を数個伸ばせば、大躍進と胸を張るレベルにこれからも日本共産党は留まるのか。下世話で言えば,刺身になるのか、ワサビに甘んじるのか。

 2大政党化という退廃ムードの中で、日本共産党の成長は、正に国益、国民益である。そのためにも、一刻も早く、日本共産党は共和党に党名を変更し、悪しきかついわれなき印象を払拭すべきである。アカを使う老人は早晩死んでいく。いずれ、アカも死語となる。その時まで、待つというのか。

 外野席でラッパを吹いている日本共産党を、そのまた外野席から見ている一選挙民の野次でもありもエールでもある。

 

 

 

田舎の選挙

  自民・公明は実績を、民主は安倍政権の横暴を、共産・社民は護憲を、それぞれ旗にあげているとマスコミは報じている。

 我が田舎は、まったくと言っていいほど、無関係である。いつもの様に、後援会加入と勧誘のお願いパンフレットと電話がくるだけ。

 移住した頃、田舎の選挙に交じって分ったのは、選挙は、地元に直接的利益をもたらせるかどうかが焦点となっていることで、10年以上過ぎた今でも、変わっていない。憲法問題、役人の天下り、民主主義の基本等々国の根幹に関わる問題に話を向けても、「そげなこたぁ、政治家にまかせろ」でチョン。数年前、己の非力を自覚し、以降、政治活動から手を引いた。
 
 先の国会でのメチャクチャな安倍内閣の行動も、その非を難じるどころか、権力を有している政党は、何でもできる、野党は騒ぐだけ何もできない、だから頼りになるのは政権政党側である、と結論する。 

 この頼りとは、補助金・助成金を他の地域より一銭でも多くもらうための頼りである。私の住む部落の平均年齢は70歳を越えている。「死ななきゃ直らない」の主語は敢えて言わぬ。だが、「死ぬまで直らない」にふさわしい主語を、「田舎の政治感覚」にするのにははばからない。

 反骨精神は、時に勇気を必要とする。乞食根性は、もみ手と叩頭だけで十分である。わずかにいるとすれば、数年に一度、選挙で政権政党側に投票することである。

 
 

米国が北朝鮮に譲歩しているという論

  アメリカがなぜ北朝鮮に甘いのか、あれこれ理由付けがなされている。甘いという認識が前提となっているようだ。

 当時のフセイン政府が大量破壊兵器を持っていないと繰り返し国連で発言していながら、あると言い張り軍事行動に出た。北朝鮮には、核施設の存在を確認していながら、ピンポイント空爆さえしない。北朝鮮に対して甘いと見るのは、イラクに対するアメリカの態度との比較によるものであろう。

 現象だけで判断することによる誤りである。アメリカの目的を考えれば、分る。イラクには石油を求めること,北朝鮮には核兵器の輸出がなされないこと、かくも質が違う。

 イラクに石油がなく単なる独裁国家であるならば、武力の行使には踏み切らない。また、フセインが傀儡政権になる見込みがあれば(石油が自分の管理下に置くことができる故)、軍事行動には至らない。イラクはやはり石油である。

 北朝鮮は、核兵器を製造できるようになれば、必ず、輸出する。輸出先を完全に追跡することは不可能である。アメリカにはそれが脅威である。北朝鮮は核兵器である。 

 中国、韓国、ロシアとの関係から北朝鮮に対し軍事行動はできないとする論は、二次的な理由である。

 外交交渉で核施設が解体させられれば、それでアメリカは目的を十分達成したことになるのである。北朝鮮に対して甘いのではない。アメリカ政府は、常に、目的と手段を合理的に判断して行動する。それだけのこと。

 アメリカ譲歩論は誤りである。

 

極東の緊張緩和と日米安保

  安保条約が軍事同盟であること、また、軍備が専守防衛の大義名分によることから、北朝鮮が米国の敵国で無くなれば、日本にとって安保条約が無意味になるという論がある。中国と台湾の間も戦争(紛争ではない)の現実性が今後ますます薄れていくから、アメリカも日本との軍事同盟を必要としないとも言う。

 はたして、そうなのか。

 今日の日本で、アメリカ本土に攻撃を掛ける国があるとは、誰も考えていまい。日本に宣戦を布告する国もあるとも考えていまい。(テロとの戦いは、戦争ではない)

 それでは、なぜ、日米両国は、極東の緊張が薄らぐ度に、とってつけたように、安保の重要性を強調するのか。

 双方の思惑が軍事に無いからである。

 日本は食料と石油をアメリカに依存している。自力で石油を確保するには、高度な外交手腕を必要となる。その自信が政治家・外務省に無い。食料自給は、飽食生活に漬かっている日本人を粗食に甘んじさせなければいけないが、政治家・農水省は説得する意志は無い。アメリカに気に入られている限り、そういう面倒はしなくて済む。

 アメリカは太平洋戦争末期、日本国で非戦闘員を無差別に殺戮した。あの原爆と空襲は、さらに大規模な殺戮が日本で行われない限り、アメリカは日本からの報復を恐れ続ける。、常に日本を監視していかなければ安心できない。軍事同盟の名の元、日本各地に基地を設けておくことが最良の手段である。同盟とは名ばかり、真の機密は日本の防衛省に与えていない。

 安保条約は第三国に対する軍事同盟を装っただけのもので、実質、日米二国間のギブ・アンド・テイクである。東アジアに戦争の危険が皆無になったとしても、(仮に、北朝鮮、韓国、中国、台湾、日本が友好条約を結ぶなど)、安保条約は存続していく。日本の米軍基地は無くならない。

従軍慰安婦問題

 強制連行があったかなかったのか、記録があればあった、なければなかったという論が中心となって、マスコミが2分している。元従軍慰安婦も役場の担当職員も担当斡旋業者までもわずかではあっても生存している現在、簡単に事実が完全に抹消されるとは考えられぬ。当時の出納簿にそのための出金が必ず記されているのが、ただ、些細な金額ゆえに赤紙一枚で一人の男子を調達できた)ゴミ箱にいってしまっているだけのこと。

 私は、強制連行(そもそもこの表現が異様。連行は強制であって、任意連行という表現はない。晴れて晴天!)はなかったと考える。町村場の役人が本人の両腕を捕らえ家から引きずり出すわけがない。あるのは、親・兄弟に説得や、本人に勧誘だ。また、憲兵がそんな仕事を担当するわけがない。国家はポン引きを雇った。このことは、何も日本に、また二十世紀に限ったことではない、戦争とはそういうもの。何より、当時の精神状態を知れば、簡単にわかる。農村の次男三男、最後には学生までが、お国のために兵隊となり(兄二人が、出征した日を思い出しても、どう考えても、強制の雰囲気ではなかった。みんなに祝福され、万歳万歳で家を後にした)反抗さえしなければ、連行はなかった。慰安婦問題は、こうした昭和の大政翼賛に陥った大正デモクラシーを再考し今日の日本の民主主義のあり方を論じる好機としてとらえるべきものである。安倍首相がどう対処するかは、外交戦術の一つに過ぎぬ。

 それにつけても、日本の戦時慰安婦を20世紀最悪の人身売買とは、どこまでアメリカ議会は厚顔なのか、まったく救いようがない。人類史上最悪の人身売買(売買だから契約であったとは主張するつもりか)をやった国はどこか、人類史上最悪の殺戮をやった国はどこか、アメリカの社会科教科書を見たいものだ。

 属国の地位にあっても、言うべき事ははっきり言うべし。組織でもイエス・マンは結局、主要な仕事を与えられず、またそういう人間を中枢に置く組織は組織自体が衰退していく、国においても然り。歴代の首相が誤りを認めてきても、依然として解決しておらず、安倍首相がその荷を背負っていることが、十分その証となっている。

51対49 民主主義の独裁性

 終盤国会の安倍を見て、「勝てば官軍」を目の当たりにした。

 少数への配慮が欠如しているため(小泉が野党の質問にオチャラケ答弁も然り)すべて法案が通ってしまい、野党はお手上げ状態。これでは、1の独裁者が99を治めるのも、自由選挙による51の多数が49の少数を治めるのも、少数派側からすれば、何ら違いはない。

 これは民主主義の本来の姿でない。この多数派独裁を排除する解決方法には、法案可決を比例制にするのが一法である。自衛隊派遣延長、社会保険庁改革、教育基本法改定、天下り規制、地方交付税改革、等々、それぞれテーマは競合しないのだから、議員の割合で、案件の議決権を与えるということである。選挙があるので、突拍子もない議案を決めた党は、それ故に、当選議員の数が減る、また、有効な議案を決めた党は、数が増える。行政監督は、政権政党に委ねておいてかまわない。

 政治の主人公たる国民が、その主張する数量に応じて、政治に参画できるわけで、49の存在価値が認められる。この民主主義が私の納得できるレベルである。

選挙管理委員会のスローガン

   投票率を高めるために、選挙の度に、「~のこれからがかかっています」、「清い選挙で~」が繰り返されてきた。大きな垂れ幕は、何十年も変わらない。陳腐なスローガンに、横着な選挙民が反応するわけがない。それが分っていても、繰り返すのは、選挙管理委員会が真剣に投票率の向上を考えていないからである。横着なのである。

 今、世界では流血の紛争が絶えない。その多くは、政治に自分の意思を反映できない不満から生じている。彼らから見れば、自由に、公正に、かつ公平に一票を投じることができる今の日本がうらやましくてたまらないだろう。

 棄権を何かの理由をつけて正当化してはならない。命が惜しくないからといって自殺することが正当化できないのと同じである。棄権は政治の自殺行為である。

 スローガンは、恥ずかしげなく棄権する者に対してショックを与えるものでなければならぬ。曰く、「あなたは、選挙ができない国に住めますか」、曰く、「棄権は政治の自殺。他人をまた日本の将来までも巻き添えにする自殺。それでも棄権しますか」

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